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   3 ヤコブ

P.48
 神様は、ヤコブを祝福しました。祝福を受けたヤコブは、ハランへ行き、二十一年間受難の道を行きました。彼は、ラバンに十回もだまされながら迫害の道を行ったのです。彼は悲しい立場にいました。環境を中心として見たとき、嘆息と絶望に突き当たる立場に立っていました。しかし、絶望を訴えるヤコブになっていたとしたなら、自分自身を中心として嘆息するヤコブになっていたなら、彼はイスラエルを代行する民族的権限をもつことはできなかったでしょう。

 ヤコブは、二十年を越える受難の道にあっても、祝福が変わらないものであることを最後まで信じたのでした。環境がどんなに変わっても、変らないものがあるのだと信じたのです。どんな財力が前を阻んだとしても、それを切り抜けて進んでいったのです。ラバンは、他のものを提起して、ヤコブの行く道を阻むようにしたのです。しかし、最後の勝利は誰に帰されたのかといえば、ラバンにもたらされたのではなく、ヤコブにもたらされたのです。

 そのような歴史的な結果をもたらさなければ、神様の勝利の日を、この歴史上に残すことができないので、そのようになしたのです。ですから、嘆息していた天が勝利できる基盤は、嘆息する群れが絶望しない時に立てられた歴史であったということを、皆さんは知らなければなりません。

 ヤコブがそのような絶望の嘆息圏に追われていましたが、嘆息することなく、絶望することもなく、堂々と未来の祝福を信じて進む立場に立ったのです。その結果、第一イスラエル圏が成立したことを知らなければなりません。

 神様もこれと同じです。神様がどんなに嘆息圏内に染まっていても、その嘆息によって希望を失いはしませんでした。その嘆息によって、創造理想を失いはしませんでした。嘆息が強ければ強いほど、加重されれば加重されるほど、心情と理想を中心として、創造理想を成就させることを誓う内的な決意をしてこられました。

 ですから、天が行く道は、嘆息圏の渦巻きの中に巻き込まれて回りますが、そこに融合されるのではなく、嘆息圏を踏み、立ち上がり、勝利の日を開拓していくのです。

 そのようにしなければ、神様が嘆息圏を大々的に抜け出すことのできる道がないのです。ですから、絶望と苦痛が極まった立場でも天にすがって、「どのような立場でも絶望しない神様であり、落胆しない神様だ。嘆息するような立場で刺激を受ける神様であるはずがない」と信じ進んでいく群れには、絶対に勝利が与えられるという事実を、皆さんは知らなければなりません。(六四―二一二)

 ヤコブは神様の祝福を受けることを貴く思い、その祝福を受けるために人間世界にないことをすべてしました。神様の約束を絶対的に信じてハランの地に逃げていき、あらゆる精誠を尽くしてあらゆる困難を克服しながら二十一年間闘ったのです。どれだけ反対を受けるとしてもそれを克服し、神様と一つとなる愛の場に行かなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。(五三―四三)

 ヤコブは家を去り、ハランに行って僕のように過ごしました。彼はおじのラバンからだまされました。彼のおじさんは、彼が願っていたラケルの代わりにレアを与えたのです。ヤコブは、ラケルを手に入れるや否や、そこを逃げ出し、家に帰るようになったのです。二十一年にわたった困難の基盤の上で、初めて神様は彼を祝福することができました。この期間に、ラバンは彼を十回もだましました。しかし、このようなすべての苦労を経ることにより、彼はハランを去ることができました。

 彼はこのような困難の中でも、彼をだました人々のために祈祷する心をもっていました。また、天使とすもうをした彼の行動は、彼が自分の使命を遂行するために妨害となるサタンに対抗して闘った行動でした。(五二―五四)

 ヤコブは骨が外れながらも、死力を尽くして闘いました。「私が二十一年間苦労してきたことが、この闘いで判決されるのだ! きょう、この一晩の闘いに勝つか、負けるかによって、私の一生の運命が左右され、イスラエルの祝福の基盤が左右されるのだ!」という思いで、命を懸けてすもうをしたのです。天使が来て冗談で「すもうをしよう」と言うと思いますか?

 天使が来た時ヤコブは、神様の使者として来たことを知りました。ですから、「私を滅ぼすための使命をもって来たのか、でなければ福を与えるための使命をもって来たのか?」と問えば、「福を与えるために来た」と答えたので、「福をくれるならくれればいいのに、なぜくれないのか?」と言えば、「責任分担が残っているのでそのままでは与えられない」と言うのです。すなわち、ヤコブがすもうをして勝たなければ福を与えることができないというのです。言い換えれば、命を懸けて闘わなければ与えられないというのです。そのような条件を懸けていで立った時、ヤコブは「よし、私の指が抜けても、絶対に負けはしない」と決心し、刀で打たれても放さず、首を切られても離れないという心をもってすもうをしたのです。どれくらい闘ったでしょうか? 一晩中闘ったのです。お前が死ぬまで放さないという心で闘ったのです。

 ここには、神様も立ち会い、サタンも立ち会っていました。ところで最後の決定をするその場で、ヤコブはどれだけ切ない思いだったでしょうか? 天使が腰の骨を打ち、足の骨を折ってしまってもヤコブは放しませんでした。お前が死に、私が死に、二人とも死んだとしても、絶対放さないという思いだったのです。そのように何時間闘ったと思いますか? 十分? 一時間? 二時間? 七時間以上闘ったというのです。(二〇―二二九)












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