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   6 洗礼ヨハネ

 皆さん、また、洗礼ヨハネを見てみましょう。彼も自分の愛する家から出て、荒野生活をしました。自分が愛する家庭、世間の因縁をすべて否定して、神様のみ旨を絶対視して、神様と一つとなる道を行ったのです。神様が、すべての面でアダムとエバより立派であり、神様を信じきれなかった天使長以上に神様に忠誠を尽くせる基準を立てたと認定し得る、そのような生活をするように追い立てたのです。(五三―四四)

 イエス様を見る前に、洗礼ヨハネを見てみましょう。洗礼ヨハネは荒野へと導かれました。すなわち、彼は家を離れ、過去の自分から決別し、荒野に行き、いなごと蜜を食べながら過ごしたのです。彼は、来られるメシヤ、神様、そして、彼の国と民族のために涙を流しました。これが、洗礼ヨハネが彼より前に来た預言者たちと異なる点でした。彼は、メシヤが、来たるべき世界を統治されることを願いました。

 そして、彼が祈祷する時は、人並み外れた意味の涙を流しました。彼は国のために涙を流し、ユダヤ民族が願っていた、サタン世界を治めるためにメシヤが来られることを願い、涙を流し、神様のみ旨のために泣きました。このような意味から見るとき、彼は預言者の中でも一番偉大な預言者でした。

 言い換えれば、他の預言者たちは、来られるメシヤを迎えることができませんでしたが、洗礼ヨハネは、来られるメシヤのために、その道をまっすぐにすることができたのです。他の預言者たちは、来たるべき方のための祈祷はできませんでしたが、洗礼ヨハネは、その方のために祈祷し、その方のために仕事をすることができたのです。それが違っていました。彼が一番偉大な預言者であったのは、正にこのような理由によるのです。

 しかし、ヨハネは彼自身の国の統治者としてのメシヤのために祈祷をしましたが、反面、イエス様は全世界の統治者として来られたのでした。ヨハネの観点は、神様の心情と多少の差異がありました。これがすなわちイエス様と一つになれない出発点となったのです。

 ヨハネのメシヤ観は、自分の国のためのメシヤ観でした。ですから、メシヤがイスラエル民族を救うために来られるだろうと夢見ていました。彼はイエス様がイスラエル民族の規則であったモーセの律法を守ることを期待しましたが、イエス様がそれを守るのではなく、むしろ、それを犯していることを知りました。

 しかし、イエス様は全世界を救おうとされたのでした。イエス様の視野はもっと広く、ヨハネとは違いました。イエス様の視野には、一つの国家というものはありませんでした。そのことが彼らを、互いに違う道に行くようにさせたのでした。ですから洗礼ヨハネは、イエス様に反対していたイスラエル民族の側に立つようになり、そのため自ら死を招くようになったのです。

 もし、彼がイエス様の側に立って、イエス様と一つになっていたならば、彼はイエス様の一番弟子になっていたでしょうし、洗礼ヨハネの弟子たちもイエス様の使徒となっていたでしょう。そうなっていたなら、洗礼ヨハネの追従者たちと、そして洗礼ヨハネをすべての預言者の中で一番偉大な預言者として信じてきた民族が、イエス様に従っていたでしょう。(五二―五四)

















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