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8 ペテロ

 イエス様が十字架の道、ゴルゴタの山頂の寂しい道を行かれた時、誰をもう一度振り返ってみたのかといえば、愛する十二使徒の代表であるペテロを、もう一度顧みられたのでした。それは、自分の後ろにまず最初に来なければならないペテロの心が、変わるのではないかと心配されたからです。このように、神様のみ旨を心配する自分の心が悲痛であるにもかかわらず、愛する心でペテロを顧みられたイエス様のその視線を、今日皆さんはもう一度感じなければならないのです。

 しかし、ペテロは三度もイエス様を知らないと否認しました。それで、天のみ旨と完全に分離された立場に立つようになり、イエス様とは関係ない立場に立つようになったのです。このようなことを知っていたイエス様でしたが、地上の誰か一人でも死の道に向かっていく自分の後ろを死守し、心で、体で同情してくれる一人の人を探そうとされていたので、愛する第一弟子であるペテロを顧みられるようになったのです。このように、一人の真の人間を探そうとされた思いが、愛する弟子ペテロを見つめるその視線の中に染み込んでいたということを、今日皆さんは知らなければなりません。

 神様の全体的な摂理に責任をもってこられたイエス様においては、このような立場に立つようになった時、これ以上悲しい場面はないでしょう。なぜならば、人間たちの不信によってゴルゴタの道、死の道を行く自分の使命を引き継ぐことのできる一人の人を探そうとする切ない心情を分かってくれる者が、一人もいなかったからです。それで、イエス様は、言うに言えない悲しみに染み入っていたのです。ただ神様だけが、イエス様の切ない心情を分かってあげ、イエス様の寂しい事情を心配してくださいました。

 イエス様は、自分の三十余年の生涯の中で、ただ天の悲しい事情に代わって歩んできた苦労の路程を回顧してみた時、人間に対し叱りつけたいし、地に対し呪いたい心でいっぱいでした。ところが、自分のそのような心を抑えて、自分の歩みをとどめ、従ってきているペテロを見つめられたのです。このようなイエス様の内的心情を今日皆さんが感じることができなければ、イエス様を中心とする神様のみ旨を代わりに引き継いで、万民の前に潔い立場で立つことができないということを、皆さんははっきり知らなければなりません。

 では、このように寂しく、苦難の路程で一生を終えるイエス様を見つめていたペテロの心は、どうだったでしょうか? 彼は過去にイエス様と結んだ本性の愛の因縁を忘れることができず、寂しい中で呻吟し、言葉もなく物悲しい立場に立ったことでしょう。悲しいイエス様を侮辱し、罪のないイエス様を恨み、罪のないイエス様を縛り、引っ張ってゆくその姿を見ながら、ペテロの心ももちろん大変痛かったことでしょう。

 しかしペテロは、イエス様が全人類を顧みられるための代表的な使命を帯びて来られたメシヤであると悟ることができなかったので、弟子たちを代表して出ていくことができず、自分のことだけを考える立場に立ってしまったのです。このような立場に立っていたペテロの前に女中たちが出て、キリストの仲間ではないかと質問した時、三回も「知らない」と言うようになったのでした。このようなペテロ一人の姿が、地上の人間たちを代表する立場であったことを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 私たちが、このようなイエス様とペテロの立場をもう一度回顧してみたとき、三回も「知らない」と言ったペテロをイエス様が再び振り返られたことは、ペテロとイエス様の間だけで起こったことではなく、全歴史過程がそうであったということを見せてくださったのです。(二・二五)

 ペテロは、困難な立場に立たれた師を、三回も知らないと否認しましたが、イエス様は心から自分の方を振り返り、見つめました。ですから、自分の困難さや自分の悲しみ、自分の事情も忘れて振り返られるイエス様を見たペテロの心の中には、一大変革が起こったのです。ペテロ自身はそのようにイエス様を三回も知らないと言ったにもかかわらず、イエス様は、御自身の悲しみも忘れたまま、心から自分のために、自分の将来を心配してくださったのを見て、ペテロの感情は爆発したのです。また、主と共に喜怒哀楽を共にしていた昔の因縁を感じた瞬間、ペテロはその場で、自分の正体を知るようになったのです。

 イエス・キリストが、天のみ旨一つを成すために、自分の生命を覚悟し、天に向かって死の道を行きながらも、少しも人間的な悲しみにくれることなく、凛々しく人間救援の道を開拓するために努力する姿と、不足な自分までも心配してくださるのを見ながら、ペテロは、心から不足なることを感じたのでした。すなわちペテロは、ただイエス様のために忠誠をささげなければならない弟子の立場に立っていることを思いながら、神様を身代わりするイエス様の立場と、イエス様を身代わりしなければならない自分の立場を比較してみる時、自分のイエス様を信じる信仰と、イエス様が神様を信じる信仰とは、天地の差があることを感じたのです。

 そして、自分は「イエス様を信じる」と言ったが、主のように天を中心として信じるのではなく、自分を中心として信じていたということが分かった瞬間、自分を見つめられるイエス様の視線の前に、身の置き場をなくしたくらいの衝撃を受けたのです。すなわち、不信の自我に対し、嘆息したのです。

 天に向かう信仰路程において、不変の姿で宇宙的な使命を少しも疑うことなく進んでいくイエス様を見た瞬間、ペテロの心が一変して、一生の間、主のために生きなければ、という衝動感が起こったということを、皆さんは知らなければなりません。不信の自我に気づいた時から、ペテロはイエス様と自分との関係、あるいは、互いの生涯路程を比較しながら、自分の不足感をさらに感じるようになったのです。

 イエス様が、天のみ旨一つのために、この地上の万民のために、自分の幸福を求めず、自分の全部を天の前に祭物としてささげ、十字架に引っ張っていかれながらも、恨むことをされない姿を見守りながら、三弟子は、自分たちの生涯が、あまりにも自己中心であったことを感じるようになったのです。そうして、自分を中心とされないイエス・キリストの前に弟子たちは、自らを反省し、イエス様がいつも願われていたみ旨を引き継いで、この地上でそのみ旨を実践しようと決意し、誓うことができたのです。

 その次にペテロはどんなことを感じたのでしょうか? 自分の不信を感ずると同時に、周囲の不信を感じたのです。誰に聞いても「罪がない」と言う罪なきイエス・キリストを、悪なる周囲の人々が縛りつけ、鞭打って喜ぶ姿を見ながら、ペテロは迫害を受けられるイエス様の視線の中に、イエス様の切なくも寂しい心を見透かすことができたのです。このように、悔しい立場でも、天の道を守っていかれる姿を見せられたイエス様の熱い視線の前に、ペテロは周囲の環境の不ラさを感じたのです。ここでイエス様の弟子のペテロは、イエス・キリストの側に立つことのできない悪なる群れを滅ぼすために主が再び来られるまで、周囲の不ラなる勢力と闘おうと、正義に満ちた覚悟をしたのです。(二・二八)

 この愚かなペテロ、ヤコブ。彼ら使徒は、何の使徒ですか? ペテロと皆さんが異なる点はどこですか? もっとも、イエス様が十字架につかれに行くのに、それを見て黙って逃げて回っていた彼らより、皆さんはましでしょう。しかし、イエス様が亡くなられて復活したのち、悔い改めたので、もう一度、使徒の名を与えたのです。すなわち逆さまになったのです。ですから、ペテロは逆さまに死にました。皆さん気分が悪いでしょう? そのような使徒たちから伝えられた宗教がキリスト教だということを、皆さんは知らなければなりません。背信した彼らが、仕方なく結束して立てた宗教を信じられますか?

 先生は彼らに抗議します。彼らに会い、攻撃します。あきれた話です。(二〇・九一)













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