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5 統一教会の牧会者の使命

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 本来、信仰生活というものは、歴史路程が立証しているように、祭物の道を引き継いでいく道です。祭物の道を引き継いで、それだけで終わるのではなく、この祭物が民族を連結させ、天の前にその結実を取り戻さなければならないのです。それが祭物の使命です。言い換えれば、私自身の救いだけで終わるのではなく、自分自身の救いのほかに、全体の救援になるように連結しなければならない責任があるというのです。それだけではなく、祭物として立たせてくれた主人、言い換えれば、神様なら神様の目的を解怨してあげなければならない、解いてあげなければならない、そのような蕩減的な立場もあるのです。

 このように見るとき、そのような中間の立場が何であるかといえば、祭物となった私たちです。私たちが、中間の立場に置かれているのです。皆さんが知っているように、祭物は、必ず人の前に置かれると同時に、神様の前に置かれるものです。この祭物が正しくささげられたときは、その人が福を受けることができるのであり、その祭物に対する神様の願い、あるいは、神様の恨みが解かれるのです。このような重要な立場に立っているのが祭物です。

 このように見るとき、個人的祭物時代を経て家庭的祭物時代を経なければならないし、その次に、氏族、民族、国家的な祭物時代に移っていかなければならない、このような次元に立っていかなければならないのではないでしょうか。今までは、私自身が霊的に、祭物的立場に立って民族を代表し、国家を代表し、あるいは、世界を代表してきましたが、今や私たちは、実体時代に入っていくのです。

 過去には、霊的な民族を抱き締めて責任を果たせば、あるいは、霊的な基準で神様のみ旨の前にかなうことのできる責任を果たせば、それで十分でしたが、これからは、さらに実体時代に移っていかなければならない時です。このような問題を考えたとき、昔の私たちと今日の私たちが行かなければならない道の次元が、桁外れに違っているということを教えてくれるものであるということを、皆さんは知らなければなりません。

 それでは今、統一教会自体を見ると、私たち統一教会はどこに立っているのでしょうか? 霊的な基準の時代においては、この肉的な基準は後ろに置かれていましたが、今の時代はそうではありません。霊肉を中心として、霊的な面や肉的な面で民族を代表する中心的な場に立っています。

 ですから、祭物自体が問題となるのです。その祭物自体は、神様が見て、祭物として受けることのできる歴史的内容をもっているでしょうか? これが問題となるのです。今まで育ってきて準備されたその祭物自体が、神様が見るとき、精誠を込めた祭物であるかということが問題となるのです。

 統一教会自体が、この民族の前に登場して一つの祭物的な使命を果たさなければならないのならば、その祭物の立場に立っている統一教会として、今まで経てきた歴史時代において、祭物として、神様の前にふさわしい内容を残してきたのか? これが問題となるのです。もし祭物として、そのような内容を残せなかったのならば、ここには、必ず祭物としての汚点が残っているのではないか。そのどこかに傷があるので、これをきれいに洗ってしまうか、清めてしまわなければならない部分が残っているのではないかというのです。これを誰がするのでしょうか? そういう問題が残されているのです。それでは、これは祭壇に上がってできるのでしょうか? できません。祭壇に上がる前に、内的な準備と外的な準備を備えて、天が見て「ふさわしい祭物だ」と言うことのできる祭物にならなければならないということを、私たちは悟らなければなりません。

 このように見るとき、統一教会が霊的にも肉的にも、祭物的な使命を果たさなければならないのです。それでは、祭事をささげる祭司長とは誰でしょうか? これが問題となるのです。神様がなるのでしょうか? この地上の誰かがならなければならないのでしょうか? このように見るとき、今まで、霊的な分野に責任をもってきた先生が、今から祭物をささげる祭官にならなければならないのではないかと思われるのです。それでは、皆さん自身が、清い祭物にならなければならないのはもちろんですが、祭事をささげなければならないその主人も、やはり同じです。祭事をささげるその張本人が、その祭物を育てるのに精誠を尽くしたかということが問題となるのです。

 その祭物が、まだ清くなっていないなら、その祭司自体にももちろん責任があるでしょうが、祭物を準備してきた祭司長の立場に立っている、その方にも責任があるのです。このようなことを今まで考えてきました。(七六・一四)

 私たち統一教会が行く復帰摂理の道において、その骨髄思想とは何でしょうか? 祭物に従っていく道です。これを皆さんは知らなければなりません。祭物とはどんなものでしょうか? 「あなたの心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして主なるあなたの神を愛しなさい」と言われました。心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くせというのはどういうことでしょうか? 首を投げ出せということです。結論は簡単です。首を投げ出せということです。命を投げ出して神様を愛せということです。

 生命を投げ出すのには、嫌々無理に投げ出すのではなく、狂ったように喜んで投げ出せというのです。それを神様は喜ばれるのです。命を投げ出すのに、泣きながら投げ出すのを神様は願われるでしょうか。でなければ、気も狂わんばかりにうれしくて、死ぬか生きるかも分からず、死んでもいいと、ひたすら踊りを踊りながら投げ出すのを喜ばれるでしょうか? どうですか?(四八―一一四)

 祭司長になろうとすれば、聖殿がなければならないし、祭壇がなければならないし、民がいなければなりません。祭壇は民のためにあるものであり、祭物と祭司長は、天地のためにあるのです。ですから、皆さんが今、祭司長の立場に行かなければならないのです。皆さんが隣近所を訪ねて歩くのは何のためですか? 祭壇をつくるためです。皆さんが祭司長になろうとすれば聖殿がなくてはなりません。ですから村に行ったなら、心棒をつんで聖殿をつくらなければなりません。その次には、祭壇を築かなければなりません。祭壇とは何ですか? その村の涙の聖地です。み旨が成される時まで必要な祭壇をつくらなければなりません。(一一・二一四)

 ある教会長が祭物をささげる祭司長の立場にいるならば、その祭司長と祭物は、一つとならなければなりません。祭司長の前に祭物が絶対順応しなければなりません。いつまでそうしなければならないでしょうか? 血を流すまで順応しなければなりません。このような基準になって、どんな困難なことがあっても順応し、一次、二次、三次まで、生死を越えていくことのできる決意ができる基盤さえできれば、神様はそこに臨まれるのです。

 ですから、皆さんが伝道する時、一人に対する時も、その人を絶対一人と思うなというのです。何のことか分かりますか? 絶対一人の人と思わず、部落ならば部落を代表する人だと考えよというのです。また、自分自身は祭司長ですが、どんな立場で祭物をささげる祭司長であるかということを自覚せよということです。

 郡ならば郡を代表する祭司長だという信念をもてということです。そのような信念をもってある村に入っていった時に、その教会長の前に現れる人が、村自体を代表する人でなくてもよいというのです。ただ一人の人が現れたとしても、彼が信念をもって、祭司長の基準を中心として対象の立場で一致して、自分の命令に従い祭物的行動、すなわち、犠牲となることを有り難く思い行動することができるようになる時、その蕩減範囲は、個人的な一対一ではなく、郡を代表する蕩減範囲となるのです。何の話か分かりますか? (はい)。

 それでは、郡を代表することのできる蕩減範囲が、自分がそのように考えたからといってそうなるでしょうか? この地上に自分自身が立つことができないので、自分が、郡であれば郡を中心として闘い、祭物となる過程で勝利して、復活した実体的基準を備えることができなければ、祭司長の立場に立てないのです。自分自身が、そのような立場に立つことができないので、これから来られる主を中心として、そのような条件を平面的に共に世界化させて、帰ろうというのです。これが再臨思想です。分かりましたか? (はい)。

 再臨主をなぜ送らなければならないのでしょうか? 各々個人がみんな、再臨主と同じ心を中心にして、郡なら郡で、祭司長の役割さえすればよいのではないかというかもしれませんが、その皆さんの考えをもってして、郡責任者として、祭司長の基準を歴史的に、天的に、霊的に、時代的に蕩減する勝利的立場に立っているのかというときに、そうではないというのです。

 このような点から見るとき、イエス様は、四千年の結実体として、イエス様には個人も含まれているし、四千年間なしてきた家庭も、氏族も、教会も含まれているし、四千年間備えてきたイスラエルの国家も含まれているのです。ですからイエス様と、四千年間備えてきたイスラエルの国全体を比較してみるとき、むしろイエス様のほうが、内的な価値がより高いというのです。そうでしょう? さらに進んで、イスラエルの国だけでなく、世界を通じて結実的存在として来られるのですから、イスラエルの国がイエス様を信じて世界のために祭物をささげていたなら、世界は、既に救援を受けていたでしょう。

 このような点から見るとき、全体四方を身代わりする中心的価値基準をもって、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を越えることのできる、中心価値の路程を行かせるために、全体を代表することのできる一人を送られるということは、神様の蕩減復帰摂理において妥当なことだといわざるを得ません。ですから、再臨主は必ず来なければなりません。(四七・二九四)

 宗教が出てくる前には、必ず預言者を送るようになっていますが、その預言者は、その時代において、宗教の責任者として使命を果たすと同時に、死ぬ時には、必ず後継者は誰だと、宣布して死ぬのです。後継者を立てることができずに行くようになれば、預言者の使命が連結されないのです。そのため、エリヤのような預言者も後継者を立てたのです。

 祭司長思想を中心として統一教会を見るとき、統一教会の先生は、どんな使命を果たさなければならないのでしょうか? 個人的使命、家庭的使命、氏族的使命、民族的使命、国家的使命、世界的使命、天宙的使命を果たさなければならないし、神様の心情を中心として、神様の体としての使命まで果たさなければなりません。これをすべて完結させる総体、全被造世界を代表する、総体的価値の内容をもって内的価値の基準をなした立場に立ってこそ、全世界を奉献できる祭司長になることができるのです。個々で、相対と一つになる日には、新しい復活の生命圏が開くようになるのです。復活の生命圏が開くことによって、復活した個人と、家庭と、氏族と、民族と、国家が生じるようになるのです。(四七・二九六)

 ですから、神様が願われ、先生が願っていたものとは何でしょうか? 祝福を受ける皆さんの家庭の後ろに、民族がついており、国家がついており、世界がついていることを願いました。民主世界全体が懸かっていることを願ったのです。しかし、懸かっていませんでした。したがって統一教会は、再蕩減歴史を歩むのです。

 この再蕩減歴史を行おうとするならば、どのようにしなければならないのでしょうか? 祭司長は、祭物をもって蕩減するのです。過去には物質をもって蕩減をし、次には息子、娘をもって蕩減をしました。それでは、今は何をもって蕩減しなければならないのでしょうか? 妻と夫を中心として蕩減しなければならないのです。このように蕩減してきたというのです。何のことか分かりますか? (はい)。

 今は息子、娘を中心として蕩減する時代ではないというのです。過去には、カインとアベルを中心として一列に立って前後関係を決定した時代でした。しかし、今は横的な関係を決定する時です。時が違うというのです。なぜそうならなければならないのでしょうか? 完成時代というものは、父母を代表する時であるからです。ですから、父母の家庭がアベル家庭ならば、完全なその家庭と、カイン的な立場にある皆さん、祝福を受けた家庭が完全に一つになるためには、夫婦が祭物にならなければならないのです。先生の家庭を中心として、祝福家庭が一つにならなければならないのです。これが原理です。分かりましたか? (はい)。(三六・三一四)

 州責任者たち、立ちなさい。州責任者というものは、神様の前に何百万名もの生命に責任をもつ祭司長です。祭司長だということを知らなければならないというのです。皆さんの州で死んでいく人々のために手を合わせて祈ってあげる責任を、皆さんが負ったということを知らなければなりません。死んでいく人々のために……。毎日、二十四時間にどんな人々が皆さんの州で死んでいくのか分かりますか? ですから、皆さんが遊んでいる時、皆さんが寝ている時、死んでいくようになれば、その霊たちが讒訴するということを知らなければなりません。

 そして、皆さんの州で犯罪を犯し、獄中へ入れられて法廷に呼ばれていく人がいたなら、皆さんが責任をもたなければならないということを知らなければなりません。それだけでなく、皆さんがその州のすべての生命を神様の前に連れてくる責任を負ったということを知らなければなりません。皆さんを見ているすべての自然は、先生が言ったように「お前たちの州で人が犠牲となり、このような若者たちが獄中に入り、このような人々が行く道が分からず彷徨しているのに、お前たちは何をしているのか?」と言うのです。皆さんを見ている万物が讒訴し、天地のすべての万物も讒訴するということを知らなければなりません。また、自分がもっている、その地が讒訴するというのです。一日も早く私の手が届き、私の言葉が伝えられなければならないし、村を越えて山頂まで、すべての万物まで私の精誠が届かなければいけないということを感じなければならないのです。

 では、祭司長として祭物をささげ祭事を供えるのに、人が集まらなければ、それは祭司長の責任です。私が代わりに泣き、涙を流し、私を打ってこの民を許してくださいと祈祷しなければなりません。祈祷しなければならないのです。私に罪が多いので人々が来ないのだと考えて、民族のため、州のため、自分の罪を悔い改めなければならないのです。皆さんが祈祷する場所が床であれば、その床が乾かず、二十四時間涙にぬれていなければならないのです。そうすれば神様が伝道すべき人を見せてくれ……、神様が同情しなければなりません。州を代表して、「よし、私はお前の味方だ」という通告を受けなければならないのです。そして、皆さんの前に訪ねてくる人に、王様のように侍らなければなりません。その国の王様のように侍ることのできる心をもって……。私が僕になって侍らなければならないというのです。罪人が罪を脱ごうというのですから仕方がないのです。王のように侍れば侍るほど、皆さんの蕩減が早くなるのです。そうではないですか? 私が下に降りていって罪のある人に侍ったので、その間に蕩減条件がたくさん立てられるのです。

 ですから、一人から十人、十人から百人、百人だけ超えなさいというのです。そのような日には、自動的に広がっていくのです。そうです、皆さん。何のことか分かりますか? (はい)。今までの考えを覆せというのです。何、私がアベルだとか何とかって……。アベルなら祭司長の役目をしなければならないでしょう。民もなく、罪を犯したその民をもっては、祭司長には絶対になれません。皆さんが、そのような心をもてば、人々は友達になれなくても、神様が友達になってくださるので、神様が春風を煽ってくれるのです。先生は、ワシントン大会のような不可能なことで、勝利をもたらしたのです。先生は、そのような心をもって、黒人だろうと黄色人種だろうと、神様のように高め、侍ったというのです。そのような祈祷をし、そのような涙を流したのです。何の話か分かりますか? (はい)。(八九・二八九)

 皆さんは先生の代身者です。皆さんが先生のようであれば、州に対するすべての責任を自分が負って、良い福は捨て、悪い福はたくさん背負おうと考えるでしょう。

 祭司長の責任を果たしますか? (はい)。そうしようと思えば、皆さんが高い山に登った時、その州の人々が「早く早く救ってくれ」という声を聞くことができなければならず、霊界の先祖たちが「早く早く救ってくれ」と言っている思いを感じなければなりません。その中で責任を果たさなければならないのです。それが祭司長です。祭司長の資格証をもって、自分の責任を果たさなければならないというのです。どんなに頭が痛くても「痛い」と言えず、どんなに疲れていても「疲れた」と言えないのが祭司長です。神様が休めと命令した時だけ休むのです。責任を果たせなければ、逆に蕩減を受けて病気になるのです。

 ですから、その道を避けていくために、自体内で迫害を受ける道をつくっていく、そんな道を行かなければなりません。祭司長は、一番下から、下で食べるその御飯を食べ、ずっと上がっていかなければなりません。着ることも住むことも、その一番どん底から……。すべてを復帰していくのです。そのような生活をすべきだというのです。ですから、国と一つとなり、民と一つとなることによって上がっていくのです。悲惨なことです。

 そのような意味で、先生が迫害を受けたことを有り難く思う時が多いのです。私の家庭がし、私の教会がする蕩減を、外部でこのように騒ぐことによって、外的蕩減として全部消化しているのです。ですから責任者は苦労しなさいというのです。苦労することは、蕩減条件を提示することになります。寝ることもしないで祈祷して、ひたすら休まず努力して、外的蕩減をしてあげることによって……。

 祭司長はそのような道を行くのです。皆さん方が責任を果たさずしては、大言を吐くことはできません。脇目を振ることはできません。私が心で、誰がどうだと評することはできないのです。私が罪人なのに、祭司長である私が責任を果たせなかったのに、どうして批評できますか? 分かったでしょう? (はい)。(八九・二九二)











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