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第三節 牧会者の使命

P95
1 「真の師」としての牧会者

「イエス様は子羊だ」という言葉を私たちは学んでいます。また、「牧者」という言葉も私たちは学んでいます。従順に生きた経験をもった者であってこそ、他人を従順にさせることのできる法を知るのです。ですから、イエス様は「私はもてなしを受けに来たのではなく、もてなすために来た」とも言ったのです。

 皆さんもそうです。ある指導者がいたとして、その人が堂々とした中心的資格者である時には、そこには不平がなく、頭を下げて従っていきたいと思うのです。そのように従っていく伝統を引き継ぐことにより、一つの新しい平地に到達するのです。

「偽りの牧者」は、羊を追いやっていくとしても、追いやっていくその目的が違うのです。羊の生命をねらって被害を与えるために現れるのです。「善なる牧者」は、全くその反対です。どこに引っ張っていくとしても、羊のためを思って引っ張っていくという立場に立つときに、彼は善なる牧者になるのではないでしょうか。ところで、羊の群れの中に、ついていく途中で「やあ、我々は行くのをやめよう」と言う羊がいるでしょうか。そのような羊は、山羊になるしかないのです。

 順応と不平を考えて見たとき、真のものと接することのできるものは、不平ではなく順応だということを皆さんは知らなければなりません。驕慢と犠牲がぶつかるようになるとき、驕慢が主体になるのではなく、犠牲が主体として残るしかないことを、皆さんは知らなければなりません。強制と従順がぶつかり合うとき、どちらが主体として残るようになるかといえば、強制は退いて、従順が残るというのです。これを皆さんは知らなければならないのです。

 聖書が教えてくれた犠牲であるとか、柔和と謙遜だとか、従順であるとか、服従であるとかいう言葉は、たやすく、一つになり得る、新たな群れをして、新しい革命のための重要な提示であり、重要な信条であり、重要な綱領であるということを私たちはここで主張することができます。(六六・六〇)

 皆さんの前には、真の牧者も偽りの牧者もいるのです。ですから今や皆さんは、それを正しく分別しなければなりません。真の牧者は「自分が真の牧者だ」と言いません。いつの時であれ、黙々と神様のみ旨と、すべての万象を自分の心に抱いていくのみであって、自分の立場を弁明しません。ですから、イエス様もピラトの法廷に立った時、悪党たちは自分たちが正しいと主張しましたが、イエス様は自分を弁明しなかったということを、皆さんは振り返ってみなければならないのです。

 ところで、終わりの日には、どちらが真であるか、偽りであるかを分別することができない時があるのです。それで神様は、そのような時を迎える人間に、「頭に油を塗って密室に入って祈祷しなさい」と言いました。互いに自分が正しいと主張していけば、極度な混乱と混沌が起こり、誰が真の牧者であるか、偽りの牧者であるかを区別できないので、静かに密室に入って自ら祈祷し、判断しなさいと教えてくださったのです。

 真の息子は、父親が自慢してくれない以上、自ら自慢することはせず、自分を弁明することもしません。父親の栄光の座に立ったとしても、それを自慢せず、むしろ自らを低くするのです。ですから今日、皆さんもそのような人になるために絶えず努力しなければなりません。

 今日、私たちの教会を中心として見るときも、皆さんは分かりませんが、先生が、そのような道を開拓するために霊的な面で、あるいは実体的な面で、熾烈な闘いを展開しているということを知らなければなりません。(三・二一〇)

 終わりの日を迎えた皆さんは、ただ天のお父様のみ旨に従うだけにとどまるのではなく、万民を引っ張っていく指導者にならなければなりません。お父様のみ国が成し遂げられた時、万民を引っ張っていく指導者として喜び、真の牧者として喜ぶことができなければならないというのです。そのためには皆さんが、誰の力も借りずに、皆さん自らの隠れた精誠の贈り物を、お父様の前にささげる羊の群れにならなければなりません。

 強盗とは、どんな人ですか? 自分のものでないものを自分のものとして利用する人です。今日でも、そのような人々が多いのです。私たちの原理を自分勝手に活用して、自分たちのものであるように使っているというのです。天のものとして受けたなら天のものとして返し、自分のものとして受けたなら、自分のものとして使うのが正しい人間です。天のものを自分のものとして利用する強盗のような人になってはいけません。

 それゆえに、今皆さんは、アベル的な存在として立つための、ある条件をもたなければなりません。真の牧者の倉庫に入れる真の実を結ばなければなりません。真の牧者が喜び楽しむことのできる真の実、真の穀物にならなければならないということです。(三・二一二)

 皆さんはイエス様を「羊を追う牧者」、あるいは、「善なる牧者」として比喩するのを聞いたことがあると思います。平和な時には、牧者が羊を追っていく時、先頭に立って追っていきますが、危険がある時には、羊を前に立てて追っていきます。

 今日私たちは、サタン世界を後ろにして闘うので、彼らを前に立てて追っていかなければならないというのです。そうできる立場に立てない人は、絶対天の側になることはできません。このようにしながら、私たちは個人が越えるべき峠を越えなければならないし、家庭が越えるべき峠を越えなければならないのです。(三一・一四)

 涙のない指導者に出会った教団、民族、世界は滅びるのです。滅びるのが原則です。イエス様は教団を抱き締めて泣きましたが、教団から追い出されました。民族を抱いて泣きましたが、民族から裏切られました。世界を背負って、血と汗を流して泣きましたが、世界は分かってくれませんでした。真の牧者とは、すなわちこのような人です。そして真の友、真の師とは、すなわちこのような人です。(四・一六七)












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