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3 開拓者としての牧会者

P104
 歴史の流れが暗澹たる方向に行く時、その歴史を創造していく立場に立った人たちは、時代的に、歴史的に、その時代において案内者になりました。しかし、このような案内者になる時までは、必ず開拓者の責任を負っていかなければならないのです。

 開拓者は、ある目的に向かっていく時に、誰よりも強くなければなりません。それは、新しい世界を自ら求めていくには、苦難の中で、信仰と生命まで懸けなければならない闘争が伴うからです。したがって私たちは、開拓者が行く道が難しければ難しいほど、必ず、それに比例して冒険が増えるようになるという事実を知らなければなりません。

 それゆえに、開拓者は目的地に向かって、誰も知り得ない困難を打開していく責任者にならなければなりません。このような困難な過程を克服した勝利者にならなくては、開拓者の名分を備えることができないのです。ですから、開拓者を願うことは、学生が先生のような案内者を必要とするのと同じです。

 今日、国家が新しい方向性を模索するような時においても、必ず案内の役割をする指導者が必要です。また、歴史上においても、やはり同じです。このように、歴史的な新しい目的を追求し、その目的を達成するためには、必ず困難な使命を負う開拓者の立場に立たなければならないのです。開拓者の立場に立たなくては案内者の役割をすることができないという事実を、私たちは、環境的与件を見てもよく分かります。

 このような観点で見るとき、人類を救援する復帰摂理路程においても、やはり、神様のみ旨を中心とした案内者が必要なのです。六千年の長い歴史路程を見るとき、み旨は、個人から始まり、家庭・氏族・民族・国家・世界的摂理時代にその段階が一段階ずつ高くなれば高くなるほど、それに比例して開拓者が必ず必要なのであり、案内者も必ず必要なのです。

 アダムの家庭においても、アベルがその時代の家庭を復帰していくにおいて、開拓者の使命を果たしたのちにこそ、案内者の役割をすることができるのです。開拓者の使命を果たすためには、正常な立場でない非正常的な立場に立ってでも、不利に押されていく環境に押し出されてしまうのでなく、その環境を打開して、自分が主動的な立場に立って、新しい行路を探していかなければなりません。言い換えれば、目的を成就できる方向に一致させようとする立場に立たなければ、開拓者の使命を果たすことはできないのです。

 開拓者は、新しい目的を追求していく過程において、環境的に近づいてくるすべての困難な与件を、主体的立場で多角的に克服していかなければなりません。そうでなければ、開拓者になったと見ることはできないのです。それゆえに、開拓者の使命を完遂した立場で、案内者の道を行ってこそ、正しい案内者になることができるのです。

 ノアの家庭を見れば、ノアも彼が生きていた時代を代表して開拓者の使命を経たのちに、天の案内役を引き受けるようになったのです。アブラハムもやはり、開拓者の使命を経たのちに、初めて相対的な権限を備えて、個人ならば個人、社会ならば社会に対して天の案内役を引き受けるようになったのです。モーセもやはり同じです。このように開拓者の過程を経なければ、案内者の責任をもつことができないのです。新しい目的地に向かっていく時には、必ず自らが探険していかなければならないのです。開拓的な内容を実地に経ていかなければならないというのです。私たちはそのような事実を、歴史を通してよく知っています。

 イエス様御自身も天と地に分立された二つの世界を、神様が願われる目的の世界に帰結するためには、必ず開拓者の使命を果たす過程を経なければならないのです。それゆえに、ここに伴う冒険的過程を経て、すべての問題を打開し得る相対的権限を備えずしては、二つの世界を統合して、一つの基盤を整えて、勝利し得る決定権を立てることができないのです。そうでなければ、歴史的であり、世界的であり、宇宙的な案内役を引き受けることができなくなるのです。

 それゆえに、案内者の立場を完全に備えて、全体を代表して、責任を負う立場で目的を達成するのが正しい人生の道だということができるのです。そのようになる時、初めて真なる指導者の一生が決定されるのです。このように指導者というものは、一瞬間に決定されるものではありません。人類を中心として、全体的な内容を備えて、歴史的事情を解いていく立場に立つようになる時、初めて神様の前にふさわしい指導者として決定され得るのです。(三〇・九三)

 従っていく人は開拓者ではありません。開拓者というものは、先頭に立つ人をいうのです。歴史を引き継いであがめながら行く人は開拓者ではありません。そうでしょう? 歴史がない場で、歴史を創建していく人が開拓者です。ですから、学ぼうという動機をもっていく人は、開拓者だと言うことができません。そのような人は、ついていく人であり、まねていく人です。

 開拓者には、歴史がないのです。決まった方向がないのです。自分自身が歴史であり、方向です。自分が誤った歴史の因縁に結び付けられるようになれば自分自身は自然に破綻し、方向が間違っても自分自身は木っ端微塵となり、その生命の本質も救い難いほど破綻してしまうのです。

 ですから、開拓者に信仰の道があったなら、その信仰の道は絶対的な信仰の道なのです。水に溺れた人は助かる道を求めて、藁をも救いの綱としてつかもうとするのです。開拓者には、ついていく歴史もなく、見倣う見本もありません。自分自身が歴史であり、実体であり、自分自身が勝敗の決定を備えなければならない立場であるので、どれほど深刻かということです。開拓者とは、そのような道を行くのです。(四五・三一六)

 カナン福地に向かって歩んでいく四十年荒野路程において、日々過ぎていく歳月と共に、一緒に流されていってはいけません。新しい日を準備して前進する群れとならなければ、荒野で鷹の餌になってしまうのです。私たちは、歴史的開拓者だという事実を知らなければなりません。開拓者は困難な環境を切り抜けていき、あすに向かう希望の前に準備の態勢を備えなければなりません。(一九八六・五・六)

 歴史上に、「私は世界のための開拓者だ」と言って出てきた人がいますか? そのような人がいるとしても、その人が歴史の受難期を逃避して歴史の開拓者となろうと誓うのなら、彼は歴史の前に糾弾を受けなければならない人になるのです。

 それゆえに、世界的な開拓者となり、また歴史の前に新しい開拓者となろうと誓う人がいるならば、彼はその受難の道を、自分の当然なる運命の道として、受け入れることができなければなりません。悲惨な環境を克服していく時において、それを自分の生まれつきの運命として考え、それを成せない時には、むしろ死ぬほうがましだと思い、それを当然のことと受け入れることができなければなりません。それに対して、不平を言うのではなく、当然のこととして受け入れなければならないのです。(四五・三〇五)

 より価値ある開拓者はどんな人でしょうか? 現実に価値あることを追求するのではなく、未来により一層価値あるものを追求する人です。現実よりも未来に無限なる価値を置き、そこに全心を注ぎ、そこに命を懸けて無限に努力する人です。

 生命を脅かす死の道があっても、それを当然のこととして受け入れることを決意した者たちだけが、開拓者として歴史の一翼を担うことのできる資格者です。現実基準とともに未来に仕事を残そうとする人は、開拓者となることができません。開拓者はいつも現実を否定し、また否定していかなければならないのです。(四五・三一四)

 今日の世界を、新しい世界として造り変えるためには、ここに非常に強い力が消費されるのです。戦争を解決する時も、それ以上の力が必要なように、全宇宙を導いていくためには、莫大な力が投入されなければならないのです。しかし、そのように投入された力を、その時点で団体に、あるいは、歴史のある時代にそのまま残すことができるかといえば、そうではないというのです。

 冒険をして、闘争して、開拓し、成されてきたすべての結果は、消耗された力に比例して現れるだけでなく、反比例して現れることもあり得るということを、皆さんは知らなければなりません。百を消耗させれば、必ず百もたらすのではなく、十を、あるいは一を、あるいは一つの所得ももたらすことができないこともあり得るというのです。

 このように、開拓者の生活は、消耗戦のような闘いです。しかし単純な消耗戦をもって、開拓者の道が打開されるのではありません。目的の一点に到達する時までは、消耗される時間の連続であり、消耗される生活の連続であることを皆さんは知らなければなりません。しかし、消耗された努力の代価が現れないといって、失望する人は、開拓者の隊列に同参することができません。(三〇・九八)

 皆さん方は、心情世界の開拓者とならなければなりません。その開拓者が行く道は、克服と忍耐があるだけです。それが生活哲学です。そのような立場は、誰も理解することができません。大変で、非常に疲れる立場です。疲労困憊するほどに疲れる時が多いというのです。しかし、「私一人が倒れるのはよいのですが、お父様! この地上に、私のような人でもいなければ、あなたは、どれほどかわいそうでしょうか? 私が第一の希望となれないとき、第二、第三の希望となり得る、そのような息子、娘がいないことを感じれば感じるほど、あなたはどれほどかわいそうな方であるかを知るようになります」と言わなければなりません。皆さんは、そのような心をもたなければなりません。ですから、統一教会という新しい宗教を中心として、開拓者の旗を立てなければなりません。

 そのような開拓者の使命を果たしてからも、恥ずかしさを感じなければなりません。「神様が、また共にいてくださった」ということを感じなければなりません。死地の交差地を通過するたびごとに、私は既に捨てられた体だと思うのですが、神様は、そのような私を一層心配してくださり、支えてくださいます。皆さんが祈祷するより、神様は皆さんをもっと心配されるというのです。ですから、祈祷する必要がないのです。心情の世界では祈祷する必要がありません。孝行する道は、父母に要求する道ではありません。行くその道が孝を証する道にならなければなりません。(三一・五四)

 開拓者は愚鈍で無知な熊のようでなければなりません。熊のいとこにならなければなりません。熊は木に登って落ちれば、痛くてもまた登ります。その生活する所は、依然木の下なのにです。(笑い)

 私が、熊になってみることはできませんでしたが、話は聞きました。熊のように愚鈍な根気がなければなりません。しかし、皆さんには、まだ十分でない面が多いのです。先生は、至らぬ者の隊長です。(二八・二一一)

 皆さんは、開拓精神が強い人にならなければなりません。そのような決意をした人が必要です。物静かな人は開拓精神がありません。義憤に燃える人、義憤に燃え、自分の生命を惜しむことも知らず、怨讐のために決意した、そのような人に神様は役事してくださるのです。(二〇・一五八)

 歴史的な運命の道を開拓する統一教会の食口たちは、どのような道を修めなければならないのでしょうか? 我々は、三千万民族と三十億人類のための開拓者です。あなた方は、目に見えないつるはしと鍬を持たされています。それではそれを、どうしなければならないのでしょうか? 後孫たちから、これをもう少しこのようにしてくれたならばという評価を受けてはいけません。我々の先祖たちが、どうしてこのような道を歩いたのかと、頭をあげて振り返らせ得る道を修めなければなりません。皆さんは、このような道を修めなければならない開拓者です。(一二・一六一)











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