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5 牧会者の使命

P122
 皆さんは、何を復帰しなければならないのでしょうか? 嘆息圏にある万物を復帰しなければならないし、人類全体を復帰しなければならないし、地獄にある霊人たちまでも復帰しなければなりません。それでは、その次には何を復帰しなければならないのでしょうか? 神様の悲しい心情を、喜びの心情として復帰してあげなければならないのです。(四・一二九)

 皆さんは、

 @血統を通して神様の息子、娘であることを証し、

 A真理を通して神様の息子、娘であることを証し、

 B生活を通して神様の息子、娘であることを証し、

 C仕事を通して神様の息子、娘であることを証することのできる、

一つの基準を探し立てなければなりません。その一つの基準を探し立てることができなければ、皆さん方が教会に出て信仰生活をすることは、お使いをしているにすぎなくなるというのです。(三・四〇)

 公的なことは歴史が保障し、時代が保障し、未来が保障してくれます。すなわち、歴史性と時代性と未来性を帯びているのです。歴史始まって以来、公的使命を完遂した者はいませんでした。皆さんは、「公的な使命者」という信念をもって闘ってほしいと思います。ところで、一つ肝に銘じなければならない事実は、「私が公的使命者」として立つようになったのは、私自ら公的使命者として立ったのではないということです。その因縁は、はるか遠いものです。皆さんは、神様の公的な利益と私たちの先祖と現実のいろいろな環境を打開するために、その位置に立つようになったのです。(一一・二七〇)

 使命というのは、第一に歴史的でなければなりません。その次に世界的でなければならないし、その次には未来的でなければなりません。このような三時代の使命を私たちは負うのです。(四六・一五一)

 皆さんが知っているように、きょうは収穫の日といい、「子女の日」だと言いました。今日この地上の堕落した私たち後孫たちは、多くの収穫の日をもちました。春に種を蒔けばそれが夏に育って、秋を迎え結実したその結実を自分のものとして刈り入れてきました。そして刈り入れたその結実を、またさらに植えることのできる日を待ってきました。今日人間たちは、刈り入れた喜びと蒔く喜びをもってきましたが、神様はまだ刈り入れに喜びをもつことができませんでした。また、刈り入れて、新しい種を取り、もう一度蒔くことのできる喜びをもつことができなかったというのです。蒔いておき、因縁をもち、その蒔いた芽から再び十倍、百倍、六十倍、三十倍以上の収穫をする望みの日を、神様はもってみることができなかったというのです。

 このようなことを考える時、今日、このごろは遅い秋ではありますが、統一教会の信徒たちにおいては、取り入れた穀物、刈り入れの実に対する時には、過去に刈り入れた人の立場で刈り入れては駄目だというのです。

 私の手で取り入れた一株の穀物、一つの種は、この天地万物を造られたお父様が、その愛の心情の園の中に、愛する子女たちの手を経て蒔かれることを願われるでしょうから、その願われる願いを、私を通して実践することができる代身者の立場に立って、取り入れ、蒔くことができる皆さんにならなければなりません。それでこそ、今から取り入れることができる人になるだろうし、今から蒔くことができる人になれるというのです。(一五一・一〇八)

 大きな愛は、完全なところからなされるのです。分かりますか? (はい)。統一教会が有名になり、統一教会の時が来れば、皆さんが花開くようになります。花が開くようになれば、皆さん方の花の色が変わらなければならないし、その次には、香気を漂わさなければなりません。色が変わらなければなりません。そうですね? (はい)。成熟期に入って、花が咲くようになる時は、色が変わるようになります。ですから、花が出てこなければならないし、香りが出てこなければなりません。皆さんが香りを漂わさなければなりません。

 統一教会の神髄の、隠れた愛の花を咲かせ、隠れた愛の香りを漂わすことのできる、このような愛の粉(注:花粉)にならなければなりません。愛の香りでこの世の浄化作業をするのです。それは、どうですか? この世を浄化しよう、大学にも、農村にも、都市にも、学界にも……、この香りが震え動くようになる時、この世では嘆息する人がいるはずはないし、自ら「唯我独尊」と言って、自分自身を中心として万々年、主体になろうと主張する人はいないのです。それが当然の道理です。上がったら下がらなければならないし、下がったら上がる、それを知るのです。今自分が、「私は、時を迎えたので、今、下がらなければならない」、それを知るのです。全部がそうなので、万年歴史を周波数のように生きようというのです。そのように見れば公平だというのです。公平です。(一六三・一二二)

 私たちは倍達民族にならなければなりません。倍達とはどういう意味ですか? 倍達民族は配達夫民族です。(笑い) そうではないのですか? 遠く離れた人を待つ時、その人の便りは誰から来ますか? (配達夫です)。手紙で来るでしょう? その手紙は配達夫を通して来るのです。そうでしょう? (はい)。その手紙を受け取れば、いいですか、悪いですか? (いいです)。ところで、皆さんの中に配達夫をもてなしてあげたことのある人がいますか? 首を長くして手紙が来るのを待っていて、配達夫が手紙を配達してくれればいいと、受け取って部屋に走って入っていく人はいますが、昼食の時間になったから昼食でも食べていってくださいと、配達夫をもてなす人はいないのです。配達夫はかわいそうだというのです。数多くの人々に情のこもった便りを伝えてくれますが、月給をもらって配達夫に税金をあげる人がいますか? 一度でも配達夫を丁寧にもてなしたことのある婦人がいれば、手を挙げてみなさい。かわいそうな人を一度ももてなさなかったということです。

 統一教会の人たちに、配達夫の使命を行うように言ったのですが、家ごとに良い便りを持っていってあげる配達夫になりましたか? 配達夫が手紙を持っていってあげながら、「きょうの天気は本当に暑い盛りだなあ。汗がどうしてこう出るのだろう」と言いながら、広い板の間に上がって、「冷たい水を一杯持ってきてくれ」と主人に言う配達夫がいますか? 配達夫は蔑視を受けるというのです。そうでしょう?

 倍達民族とは配達夫民族です。これは、私たち統一教会を指していう言葉です。私たちは、愛の配達夫にならなければなりません。神様の愛を世界に配達する配達夫になろうというのです。これはどんなにすてきなことですか? 何民族ですか? 倍達(配達)民族だというのです。

 また、白衣民族とは何のことですか? 死んだ人の葬式をする時、白衣を着ませんか? (笑い) 白衣は表紙として使われます。白衣は何に使うのですか? 表紙に使われるのです。真っ黒な夜中に真っ赤なものが表紙になり得ますか? 真っ黄色なものがなり得ますか? 真っ白な色しかないのです。真っ黒の天地において表紙になり得るものは、白色だというのです。死亡が満ちた暗黒世界では、神様の愛を中心とした白衣だけが表紙になることができるのです。先生は統一教会を中心としてこの仕事をなしてきたといえます。(三四・三五七)

 今私たちが願う希望の基準とは何でしょうか? 神様が探している真の父母を中心とした、真の子女を中心とした、本然の縦を中心とした神様の家庭を立てて、その家庭に天地万物を主管するようにさせるためのものが神様のみ旨であることを知ったからには、今日、皆さん方のすべての考えと、皆さん方のすべての生活の中心と、皆さん方のすべての活動や行動全体の内容に、この一つの目的を完結させるための責任をもち、この一つの目的を完結させるために心配し、この一つの目的を完結させるために闘う……。そのような信念をもとうとする、確固不動な自分にならなければなりません。このようにならない限り、お父様のみ旨とは永遠に一つになることはできないというのです。(一五二・一八六)

 先生が今まで何度か「伝統を立てよ」と言いました。この言葉を皆さんは何度も聞いたはずです。伝統を正しく立てなければなりません。伝統を立てられなければ、滅んでしまうのです。伝統とは、その国の愛国思想を連結させて立てるのではないですか。ですから、思想的伝統を立てる時期は、この時代しかありません。分かりましたか?

 皆さんが妻と共にこの時代を迎えたという事実は、本当に驚くべきことです。世界が統一されることよりもっと難しいことです。世界統一はここから始まるのです。ですから皆さんは、どの時代のどんな人よりも幸福であり得るのです。そのような立場であるので、そこには、悲しみと喜びが擦れ合っているのです。そのような悲しみと喜びをすべて消化させることのできる主体性をもたなければならないのが統一信徒、特に地方教会に責任をもった皆さん方の使命であることをよく知らなければなりません。

 皆さんが教会長の時代に、天国の伝統的路程がこうこうであるということを万民に見せてあげ、間違いのない道、高速道路のような道を敷いてあげなければなりません。そのようにすれば、皆さんは千年万年、彼らの血の中に、肉の中に、精神の中に生きて残るでしょう。分かりますか? (はい)。うれしいことがあっても、石碑が立っている皆さんの墓を見つめるだろうし、皆さんが行き来していた山があれば、その山を行き来しながら、歴史を吟じながら、「この喜びをあなたが受けてください」と称えながら、皆さんに喜びを返そうとするのです。皆さんは、そのような祖先になるでしょう。それは生きがいのある人生です。分かりましたか? (はい)。

 一生の間、大路で思いっきり食べて、笑って、踊って暮らしてから墓に行けば、福になることがありますか? そのような人の墓には草が生えるだけですが、国のために血を流して死んだ人の墓には、その国が生きている限り花が咲くでしょう。(四六・三四七)












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