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4 牧会者の責任

P144
 @責任の動機は神様

 この地上に生きている人々は、誰もが責任を負って生きなければならないことを私たちは知っています。家庭を考えてみる時、父母に父母としての責任があれば、子女には子女としての、その父母の前にしなければならない責任があるのです。また、その家庭は社会と国家の前に責任があるのです。一つの国においても、その国は世界の情勢、世界の歴史路程において、神様が任せてくださった責任を負っているのです。世界を見ても、その世界は一つの宇宙を指向する摂理路程の前にある段階的な過程で責任を負っているということを私たちは知っています。このように上がるようになれば神様も今日、この地に対して歴史過程を経ながら責任を遂行するのに苦労しておられるということを私たちは知るようになります。

 責任が落ち着く場所は、いくつもあるものではありません。個人が生まれて責任を果たすのも、その責任の動機が個人にあるのではなく、自分の国にあるものでもありません。最終的には、神様が動機となるのです。

 家庭が負うべき責任の動機も、家庭にあるのではなく、ある国家の形成の動機も国家にあるものでもなく、また世界が動機になるのでもなく、その動機はすべて、神様に帰結されるのです。ですから、その動機の起源を探してみた時に、神様からでないものはありません。それでは、その動機によって千態万象に展開して我々の前に与えられたその責任も、神様が動機となっているので、結局神様の責任と一致せざるを得ないということは、言うまでもない事実です。

 このような点から見るとき、私たち人間には心が願う責任があり、体が願う責任があるのです。それでは、心が願う責任とは何ですか? このすべての責任を与えられた神様の目的を中心として、その目的を成し遂げるのです。ですから、心はこのような責任を果たせと命令しなければならないのです。ですから、私たちの心は、その命令をするためにあるのであり、神様の目的を成就するためにあるという事実を知るようになります。(二六・二一四)

 A牧会者の責任

 私たちは、瞬間瞬間にも、責任のない生活をすることはできません。責任を負わなければなりません。責任を負うということは易しいことではありません。ある団体の責任を負うとすれば、その団体の方向を提示しなければならないのです。ある家庭の責任を負ったとすれば、必ず方向を中心として、責任が起こってくるのであって、方向もなく、ただむやみにするのでは責任者になることはできません。

 歴史的な責任者になるためには、現在の歴史観を通して過去をその方向に一致できる責任的内容をもって進まなければなりません。そのようになる時、彼は責任者としての役目を果たしたといえるのであって、そのようにできなくなる時には、その責任者に責任追及というものが起こってくるのです。歴史的に追及するのであり、時代的に追及するのであり、未来的に追及するのです。このように見たとき、きょう一日の瞬間が、どれほど大変な瞬間であるか、ということを知らなければなりません。

 成功は他の場所で始まるのではないというのです。ある相対的なものから始まるのではなく、私から始まるのです。私を中心とした時間圏内で左右されているというのです。時間圏内で左右されるのですが、その時の方向設定いかんによって、千態万象に変わるのです。それによって、千態万象の変形が、変化した状態が、そこで展開されるようになっているのです。(六八・二一三)

 皆さんは何に責任を負わなければならないのでしょうか? 一番目は霊界に責任を負わなければならないし、二番目は世界に責任を負わなければならないし、三番目には後孫に責任を負わなければならないのです。この道が今日統一教会の人たちが負っていくべき復帰の道であり、統一教会が負っていくべき運命の道です。(二四・二〇〇)

 皆さんはどんな指導者にならなければならないのでしょうか? 真の父母のような指導者にならなければなりません。その次には? 祈祷をして作戦を立てなければなりません。その次には真理を普及しなければなりません。このようなことが、指導者がしなければならない重要な仕事だということを知らなければなりません。普及はどこから受けるのですか? 神様から。作戦はどのようにするのですか? 神様の作戦法を学んでするのです。神様の作戦法を学んで最高の作戦計画を立てるのです。

 その次には、私が指導者の責任を負ったので、その誰も侵犯することのできない、ただ一人の責任者である私が立つこの立場は、真の父母の立場だという信念をもって、神様と共に和合して作戦を行うのにおいて、まず知らなければならないのは天の法度です。これは先生が経験を通して皆さんに語ることなので、そのまま実践してみなさい。そうかそうでないか、一度やってみなさいというのです。分かるでしょう? (はい)。そのようにすれば間違いなく、今後皆さんの行く所は発展するのです。(四六・三〇〇)

 いったん責任を負えば、その人は先生の代身者です。何か事があれば、その時の決定権はその責任者にあります。それを決定するためのすべての材料は、周囲の人々が集めて与えてくれるようになります。その材料を根拠として決定するのは、責任者でなくてはいけません。重大なことを決定するために責任をもつ人は、真剣な祈祷をしなければならないのです。自分の気分のまま、自分の思いのままに決定してはいけません。神様の仕事に責任をもつ今、重大なことを決定しようとするのですから、ここで間違いなく神様は役事してくださるでしょうけれども、相対の位置にいる人にも神様は役事してくださいます。責任者は、そのようなことも総合して決定しなければならない重大な責任をもっているということを、皆さんは知らなければなりません。(一五・一九〇)

 私がイエス様を信じるといっても一遍に「イエス様!」と言ってはいけません。橋を架けていかなければならないのです。私たちの平面的生活において、橋を架けるために、例えば、教会であるならば、教会に行くようになるならば、その教会には必ず指導者がいます。教会の指導者は、自分の目的を達成しようとする人ではありません。もし、そのような人がいれば、その人は指導者になれないということを皆さんは知らなければなりません。指導者には、中間の橋を架けてあげなければならない責任があるので、訪ねてくる信者たちのためにそうしてあげなければならないのです。(三二・一六五)

 皆さん、私が統一教会の責任者であり、皆さんは教会長です。教会長であれば、その教会の管轄の郡であれば郡の山村、あるいは峠を越えた遠い山里の田舎の奥深く、新しい時の到来を知らずに生きている農家の家を訪ねていって、「天が愛する人がいた」と言って、捕まえて涙を流してみましたか? この者たち! 自分の足が削られるように、郡であれば郡全体を、自分の喉がはち切れるように、自分の目が見えなくなるように、自分の耳がふさがるように叫んでみましたか? 座ってただで得るものを願い、気の狂った鬼のようにあちこち行って、「自分の事情を分かってください」と言う立場に立っては駄目だというのです。それは通じないという事実を知らなければなりません。それを通していく団体があったとすれば、その団体は滅びるのです。

「私が抜けて悲しいし、私が入ってうれしい……」、先生はそのようなことは眼中にもないのです。昔、イエス様の弟子たちが、イエス様をおいてどうこうするうちに、みんな滅んでしまいました。どちらもみんな滅んだのです。何のことか分かりますか? (はい)。私たちのための私です! 私たちのための私だというのです。その私たちは統一教会に限った私たちではなく、神様のための私たちです。(七一・一三三)

 今日私たちが、この統一の理念を前に置いて、険山峻嶺に向かって走っているのを、バスとか自動車にたとえてみる時に、皆さんはここに乗る運転手と同じです。困難な行路を走る、目的に向かっていかなければならない時間が決定されていて、どうせその期間内に行かなければならない復帰的な数理の路程が残っていることを知って、その道を走っていく、制限された期間内にその道を突破しなければならない責任を負った運転手だというようになる時には、困難であればあるほど、時間が短ければ短いほど、そこに比例してそれ以上、何倍か以上の悲壮な覚悟と非常な精神力を投入して、ハンドルを回さなければなりません。そうでなければ、その道を突破することができないということが常例だというのです。

 そのようなことを私たちが知っているとするならば、今日この国家的危機、世界的危機、めちゃくちゃになって出てきたすべての現実的な事態を見るようになる時、この道をうまく回りながら、うまくハンドルを切りながら、目的地まで引っ張っていくことのできる、この国、この民族を指導することができるハンドルマンは、どこにいるでしょうか? このように考えてみる時、これが心配とされるのです。

 先ほど、教会長も語りましたが、私たちでなければこの民族を救うことができないというのです。そのような言葉を聞いて、答えれば答えるほど私たちの二つの手と一つの精神は、必ずこの国とこの民族が行く道において、ハンドルを握った運転手のような責任を負わなければならないのです。

 けれども、その人が行く道は坦々たる大路ではありません。折れ曲がった険山峻嶺、今まで歴史始まって以来誰も行かなかった道、その道を制限された時間内に行かなければならない運転手のような責任を負ったというような立場になる時に、現在この瞬間に走っているとしても、今から走らなければならない残された道を心配せざるを得ないのです。今までのすべてのことは過ぎ去りましたが、これから行かなければならない険しい路程が残っているので、この先近づいてくる路程の前に私自身を心配し、私自身をそこに対備し、準備しなければならない立場に立つようになる時、私自身がどんな態度を取り、どのように収拾し、この難関を突破すべきだろうかということが問題として提起されるのです。

 このような立場で皆さん方が今、私たちの行く道をもう一度見つめ直すようになる時、私たちは開拓された道を行くのではありません。開拓しながら行かねばなりません。開拓しながら行かなければならない、このような立場に置かれていることを、皆さん方は知らなければなりません。(一五二・六一)

 この韓国に立てられる国とはどんな国でしょうか? 南北が互いに流通し、交流するようになる時、共産国家が立てられるのか、今日の大韓民国としてそのまま置くようになるのか、どちらでもない新しい国を追求するのでしょうか? このような問題をおいて見る時、私たちの時代が次第に近づいてくるのを感じるようになります。皆さんがこれを支えて責任を負うべき統一の群れであるならば、そこに対する責任感をどれほどもっており、また、ある程度の犠牲の代価を払うことができる決意ができているかというのです。君たち、自信がありますか? (はい)。三十八度線を越えて、北韓五道の市郡を中心として、私たちの基地を造らなければならないのではありませんか?

 人員が足りないこの時に、誰があの北韓の地、定州ならば定州の責任者になるでしょうか? 考えてみましたか? 定州の郡であれば定州の郡を中心として、私が教会長にならなければならないと、十年、二十年準備して、それでも駄目なら後孫の前に「お前、一生懸命勉強して、一生懸命準備して、その日を迎えたなら、定州の地に天の因縁を身代わりする教会長となれ」と遺言して死ぬことができる精誠をささげる皆さんになってみましたか? 先生は今までそれを考えて準備しているのです。

 そのようなことを考える時に、若い者たちが地方に帰って自分の息子と婦人たちを連れて、「へへへ」と笑って生活するようになっていますか? 生活するようになっていますか、いませんか? (なっていません)。死んでも国は残していかなければなりません。死んでも息子たちに国は残してあげていくべきでしょう。新しい決心をしなければならないというのです。「私は、あの蘇満接境の一地方に行って共産党と額を突き合わせて、朝夕銃の音を聞きながら、国境地帯の見張りの役割をなす教会長にならなければならない。国が分かってくれなくて、誰も分かってくれなくても、生命を引き換えにしても、その国を愛する忠節の思いは変わらない」という決心をしなければなりません。それで満点なのです。世間が分かってくれなくてもかまわないというのです。霊界に行けばすべて明らかになるようになっているのです。

 このようなことを考えてみる時、人が足りないということを皆さんは知らなければなりません。人が足りないということを知らなければならないのです。かかしのような男でもラッパをかつがせて、あるいはロボットを造って北韓の地に送ってラッパを吹かせたいのが先生の思いであり、神様の思いです。口をもった、感情をもった男性として生まれて、それも二十歳、三十歳の若い心と体をもっているのに、原理のみ言を行えないというのは話になりません。

 目玉が腐ってしまうくらいに、夜寝ずに勉強をしなければなりません。腹が減って骨だけ残ったとしても、準備しなければなりません。そのようにして骨だけ残ったやせた体が、天の愛を根こそぎ受けることのできる体になり得るというのです。神様がそのか弱い、一人の男性ならば男性に、期待をすべてかけることができるのではないかというのです。

 怨讐の地に入って責任を果たそうと思えば、南韓の地で修練をしなければなりません。揉まれなければなりません。闘いもしてみなければなりません。死ぬことを覚悟する立場で、不忠の道理ではなく忠の道理を残して、倒れていく姿を立てても、「天の同情は嫌だ」と言うことのできる父親になろうというのがどれほど悲惨なものですか? 神様がそうであるので私もそうあらざるを得ないのであり、神様がそのような道を経ずしてはこの地上に正常な伝統を立てることができず、人間を愛したという条件を立てることもできないので、神様はその道を治めてこられたということを確実に知らなければなりません。(四九・一一四)

 B怨讐までも愛してあげなければならない

 この宇宙の中で一番の難物は何でしょうか? 一番難しい問題とは何でしょうか? 一番大きな十字架とは何かというのです。それは何ですか? サタンです、サタン。この責任を誰が負うかというのです。「私が責任を負います。私たちが責任を負います」と言う時、神様が「よし、お前が責任を負え」と言える私たちとなったなら、サタンに対する神様の苦痛の種はなくなるでしょう。皆さんが、サタンに責任を負いますか? (はい)。神様も六千年間サタンの首を断ち切りませんでした。六千年間讒訴してすべて……。

 そのようにしてきたのですから、どれほど憎いでしょうか。どれほど憎いか、皆さん考えてみなさい。全知全能の神様も今まで六千年間苦痛を受けてきたのに、そのようなことに責任を負う統一教会の信者たちは、どれほど苦痛を受けるでしょうか。皆さんがサタンに責任を負うとすれば、サタンが皆さんのもとで、素直に順応するでしょうか? サタンが責任を負うようにほうっておくでしょうか? どうでしょうか? (順応しないでしょう)。

 そのようなことに誰が責任を負うのかというのです。誰が責任を負うのかです。責任を負おうとすれば、サタンを防御できる秘訣をもってしなければなりません。サタンができないことをしなければなりません。サタンは破壊的存在であり、魔手的な存在だというのです。破壊する存在だというのです。サタンは、善なる存在があれば、ただ何でも破壊しようとするのです。ですから、サタンができないことで何がありますか? サタンに勝とうと思えば、反対に、悪なるものを私たちが破壊しなければならないのです。

 では皆さん、善なるものを破壊するのがたやすいですか、悪なるものを破壊するのがたやすいですか? どうですか? また善なる人が悪くなるのが易しいですか、悪なる人が善になるのが易しいですか? どうですか?(善なる人が悪くなるのが易しいです)。サタンはエデンの園でも、善なる人を悪につくり変えてしまった大将です。

 では、その責任を負うことができますか? (はい)。答えれば「はい」と言いますが、それを考えてみよというのです。考えてみましたか、皆さん。皆さんに今、共産党をすべて任せ、サタンをすべて任せれば、「ああ、待ちに待った贈り物ですから受け取ります」と言いますか? (はい)。もしそのようになったなら、皆さんは共産党の救世主になるでしょう。サタンの救世主になるのです。このような問題にまで、責任の領域が拡大されるということを考えてみなければならないのです。

 そのような問題を処理することのできるすべての原則を探してみる時、何でもないというのです。それは、「信じてあげ、ためにしてあげ、愛してあげる」しかないのです。皆さんが十字架を負わなければならないというのです。そのほかには、可能な道はないというのです。皆さん、それが良いですか? (はい)。それを考えてみなさいというのです。人を信じるということを考えてみて、人のためにするということを考えてみて、人を愛するということを考えてみなさい。これは、本当に難しいことです。自分が自分を犠牲にさせることは難しいのです。

 皆さんは人を信じ、人のために行い、人を愛することを、心からできますか? 仕方なくするのか、心からするのかという問題においては、どちらですか? 神様はどのようにされると思いますか? 神様はどのようにされるか考えてみましたか? これは神様も大変なことではないでしょうか。神様御自身も、それを無難に「心から成した」と言える実験を通して、証拠として立てたいのではないかというのです。完全に信じられない立場、完全に「ために生きる」ことができない立場、完全に愛することができない立場に立たされたにもかかわらず、信ずることができ、「ために生きる」ことができ、愛することができたならば、それは完全なものだというのです。(七二―三一八)

 C責任遂行の心の姿勢

 任命を受けた人々には、必ず引き受けた責任の量があります。職場において、課長であれば課長、部長であれば部長として任命を受けたならば、そこには、必ず引き受けた職責に従い、その人が成すべき責任量があるのです。また、その責任量を完遂するのには限界点があります。永遠になすのではありません。ある期間に、限定されているのです。(三二―五八)

 責任を負う前に、どのような心をもたなければならないのでしょうか? 責任を成し遂げられなければ、命と引き換えというくらいの信念をもたなければなりません。そのようになれば、問題の核心を解決しようという、大変な解決点が生まれるようになるのです。(一九―一四二)

 いったん責任を負えば、その次には戦闘です。お前が負けるか、私が負けるか、という闘いをしなければなりません。その闘いで皆さんは、皆さん一代に、少なくとも反対の立場にいる三人以上を自然屈伏させ得る基盤を固めなければなりません。

 神様には、手段や方法が、絶対に通じないことを知らなければなりません。また、一生、み旨の前に、受けるための立場に立っても駄目なのです。み旨の前には、ただ与える立場に立たなければならないのです。

 既成教会の責任者は、怨讐サタンに対して闘う以上の信念をもって闘わなければならないし、生死の問題を提示して進まなければなりません。それは簡単なことではありません。一次、二次、三次と続けて進んでいかねばなりません。

このような基盤の上で、皆さんが、神様のみ旨のために、南韓各地に押しやられるようになるときに、皆さんの背後で神様が見つめておられるし、千々万聖徒と、天軍天使、そして皆さんの善なる先祖たちが、皆さんの一つの個体の動きを見つめているのです。ですから、統一教会の運命は、皆さんの双肩にかかっているのです。統一教会の運命だけでなく、この民族の運命と世界の運命が、皆さんの双肩にかかっているのです。

 このような、大変な焦点に自分自身を立てて、神様と共に行き、神様が願っておられた人類と共に行かなければなりません。そのような人たちは、彼らが行く正しい姿勢の前に、神様が擁護してくださるのです。

 皆さんは、「お父様が摂理の中心となる個人を探されるために、どのように犠牲になられたかを知っております。私を中心として、私の氏族を探し、私の民族を探すことのできる天的な代身者として行くことを願うので、お父様、共にいてくださいますように」と祈祷しなければなりません。これは、どれほど厳粛な祈祷ですか? この地上の数多くの地域ごとに、そのような人を立てたいのが神様の願いではありませんか?

 今日私たちは、そのような厳粛な使命感をもってこの仕事をなさなければなりません。真に与えよう、そして耐えよう、勝利しよう、人類の前に血と汗と共に、真実を与えようというのです。真でなければ、歴史に残ることはできません。(一四―一三)

 皆さんは、責任に対しては、世間で最高にかわいそうな人となり、また責任を担うためには、すべての精誠を尽くさなければなりません。「私のなせることはすべてなして敗者となるときには、私はその盃を快く飲みます。それ以上の能力がないので、滅びてもいいし、私が統一教会の指導者となれなくてもいいし……」先生はそう考えるのです。神様がおられるならば、そのような人を絶対滅ぼすようにはしません。絶対滅びません。「お前ができなかったならば、私がする。私が責任をもとう」というように、既に神様が、責任を負おうという心をもって来られているのです。そのような心性をもって一貫していくようになるとき、神様は、そのような息子が失望し、絶望するようには絶対されません。それは私が、歴史的体験をたくさんしたから分かるのです。非常なことをするので、非常な奇跡が起こるのです。分かりますか? 人の心や、父母の心や、神様の心は、同じなのです。みな同じだというのです。(八一―三一四)

 自分が責任をもっていた部落を去るようになるとき、その部落に来た当初に「こうして、このようにします」と祈祷したことに対して責任を果たしていない場合、「もう一度来よう。私がこのようにしたかったことを果たせず去るのだから、もう一度来よう」と思って、涙を流しながら、背を向ければ、その人の道が開かれるのです。何のことか分かりますか? 「ああ、この部落は悪い所だから、私をここから全く違う所に人事異動してください」。これは誤りです。(笑い) 自分が良い所に行くならば、ここは誰が責任を負うのかというのです。自分より劣った人が来て、責任を負うことができますか? 自分より優れた人が来て責任を負うとすればどうですか? 自分より優れたその人は、もっと良い所に行くべきなのにです。深刻な問題です。

 ですから、責任部署から去るようになるとき、自分が責任を果たせなかったなら、「お父様、私は今去ります」と我れ知らず、止めどもない涙が流れる、そのような心の主人公にならなければなりません。去るときは、「天よ、なし得る最大の努力をなしました。夜も昼も、一切の心、この上ない精誠を、すべてささげました」と言える立場、天が見ても、それ以上できないという立場で去るようになるならば、その人がその立場でなすべきことのすべてはなし得なかったとしても、自分がなした価値以上を、天は報いてくださるのです。皆さんは、それを知らなければなりません。(五六―三三)

 私たちの任された責任を黙々と果たせば、責任を果たしたとしても不足感を感じ、良ければ良いものとして、天が喜ぶ前に私が喜ぶことはできないし、悪ければ悪いものとして、私が悪いとする前に天が悪いと思うのでは、と心配する皆さんにならなければなりません。そして自分を忘れて、全体のために忠誠を尽くすことのできる、実績基準をもって進まなければならないのです。それが、天に従っていく子女の道理だということができるのです。(一五五―二四四)

 D創造本然の責任を負う勝利の勇士

 これから、皆さんがみ旨の代身者となり、地方や、ある場所に送られるようになるとき、皆さんは自分自身に対して、責任を負うことができなければなりません。自分に責任を負えない人には、他の生命を任せるわけにはいきません。自分に責任を負うことのできる者でこそ、他の責任を負うことができます。自分に対する責任を負ったあとでこそ、この理念を立てることができるようになります。そうでない者には、理念を立てることはできません。

 神様は今まで、私自身に責任を負うことができるという者を、天地の中で見いだすことができませんでした。しかし、皆さんが自分に責任を負っていけば、それが出発の起点になります。民族も、世界の思潮も、すべて責任所在の圏内で動いているのです。私たちが食べる御飯も、着る服も、私たちに責任を問うています。責任を負うことができなければ、万物に対する面目がなくなります。ですから皆さんは、全体の前で責任を負うことのできる者となってくださることをお願いします。そのような立場に立ってこそ初めて、神様に対して、「創造主であり、お父様であり、主人である」と言うことができます。

 人間は堕落してから、責任を負うことのできる立場を失ってしまいました。真の父母の前に真の子女となることができず、真の主人の前に真の主人の者になることができませんでした。

 神様は、万物に対しては絶対者であり、人間に対しては父母であり、天地に対しては真の主人であられます。皆さんは、出発の目的をどこに置いていますか? 神様を身代わりすることのできる実体となることができますか? 神様は真のお父様であり、真の主人であられるので、私たちは、これを身代わりすることのできる立場まで進んでいかなければなりません。そうでなければ、生命の主人を無視することになります。

 私たちは、絶対者に対しては生命を、真の父母に対しては愛を、真の主人に対しては忠誠をささげなければなりません。そうでなければ、創造主の真に満ちた生命と、真の父母の真に満ちた愛と、真の主人の真に満ちた道理と、因縁を結ぶことはできません。自分自らに責任を負うことができなければ、すべての隣人と因縁を結ぶことはできません。

 皆さんの中には、自ら統一の使徒であることを自負する人が多いと思います。しかしそれよりは、主体に対する対象の価値に責任を負う人にならなければなりません。このような人は、永遠不変な価値の存在として公認されます。皆さんが地方に行くようになるときには、責任を負うことのできる創造主の立場、父母の立場、主人の立場を身代わりして行かなければなりません。万物は神様がいなくて嘆息するのではなく、神様の代わりに責任を負える人がいなくて嘆息するのです。皆さんは、自分自らに責任を負わなければなりません。責任を負うべき所があれば、雪が降ろうと雨が降ろうと、行かなければなりません。

 神様は、創造主としての、絶対者としての、真なる父親としての、真の主人としての責任を負っておられます。ですから、復帰摂理歴史をなしてこられたのです。もし、神様がこのような責任を負われないとすれば、復帰だとか天国だとかということは、あり得なくなります。神様は裏切られ、追い出されたとしても、絶対者の立場をほうり出されません。神様は、絶対者として、父親として、真の主人として責任を負われます。皆さんも、絶対者の責任、父親の責任、主人の責任を代わって負わなければなりません。

 責任を負うことのできる資格がないといって拒否しないで、父親としての責任、主人としての責任を負って進まなければなりません。神様は三方に責任を負っていかれるのに、皆さんは一方だけでも責任を負わなければなりません。皆さんが責任を負って地方に行けば、その地方の万物は、皆さんがどのような価値をもった存在であるか分かります。環境が証してくれます。どのような証をするのでしょうか? 「あなたは、私たちの生命を救ってくださる方であり、お父様の化身であり、私たちの地域の主人である」と証してくれるでしょう。すべてのことを皆さんに任せて、ささげたい心が動くでしょう。

 皆さんが創造主として、父親として、真の主人としての責任を代わって負うとすれば、どこに行っても、天地が皆さんを助けるでしょう。皆さんは、絶対者の責任、父親の責任、主人の責任を負わなければなりません。それに責任をもって進めば、絶対に排斥を受けません。今日、すべての人々は、自分の行動と、自分の生命と、自分の心情に責任を負ってくれる人を探しています。このような社会が、理想社会です。責任を負って、命を覚悟していけば、同志がたくさん現れます。

 皆さんが地域に出ていくとき、生命をつくられた創造主としての責任、父母としての責任、主人としての責任、この三つの責任を負わなければなりません。そうできなければ、絶対者の代身者、真の父母の代身者、真の主人の代身者に、絶対なることができません。これさえもできないなら、存在世界から追放されるしかありません。責任を負うことができなければ、絶対服従で侍らなければなりません。ですから皆さんは、自分に責任を負うことのできる立場に立たなければなりません。絶対者の代身となり、真の父母の代身となり、真の主人の代身となって、責任を負う勝利の勇士とならなければなりません。天は、そのような存在を待ち続けておられるのです。(一一―一三八)











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