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5 任命を受けた者の使命に対する姿勢

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 任命を受けた人たちには、必ず引き受けた責任の量があります。職場において、課長ならば課長、部長であれば部長として任命を受けたなら、そこには必ず引き受けた職責に従い、その人が成すべき責任量があるのです。また、その責任量を完遂するのには限界点があります。永遠になすのではありません。ある期間に、限定されているのです。

 それでは、その期間とその量は、どれくらいになるでしょうか? 皆さんの一生を七十年、八十年、あるいは百年として見るとき、この一世紀圏内においてどれほどのことをなすことができるかが問題となるのです。また、どのようにしなければならないのでしょうか? 他の人と同じように忠誠を尽くすというとき、そのような忠誠の量を満たすためには、他の人が十時間だとすれば、私も十時間し、他の人が十年なすようになれば、私も十年なさなければなりません。そうすれば、同じようになすことができます。しかし、その人より早くしようと思えば、十時間以上をしなければならないのです。

 そのためには、そこに加重される努力と精誠が必要です。例えば、時間は十時間しかないのに、他の人より早く目標を達成するためには、どのようにしなければならないでしょうか? 加重された努力と精誠を投入するしかありません。ですから、寸時を惜しんで、すべての精誠をみな傾けなければなりません。寸時が勝敗を決定することを感じながら生活する人であるならば、その人の一日は輝く一日となるでしょうし、その一日は永遠なる価値の世界と通じることのできるものとして、永遠なる世界の因縁の上に立つようになるでしょう。

 任命を受けて、使命を完遂するのには、必ず期間があります。家を建てるときも、どのように建てるのか、またいつまでに建てるのかに対する、全般的な設計をしなければなりません。このように、ある設計のもとで着手しなければならないように、私たちも、一定の設計のもとで任命を受けて、仕事に着手しなければならないのです。その仕事にいったん着手したならば、与えられた期間内に完遂しなければなりません。与えられた期間内に完遂するにおいて、その設計以上の完璧を期して期間内に完成するようになるとき、そこには、必ず表彰するようなことが起こってくるのです。

 与えられた期間内に、設計よりももっと完全になしたというときは、それは正常的になしたものではありません。非正常的になしたものです。それは何でしょうか? それは、その人の努力と精誠が加えられたので、そのようになすことができたのです。設計どおりになしたなら、何の問題も起こらないでしょう。それは誰でもできます。しかし、設計以上の完璧を期しながら、設計者が計画した時間を短縮させるのは、誰もができることではありません。

 それでは、今日任命を受けた者として、もつことができる特権とは何でしょうか? この特権というものは、固定された量を、指定された期間に完遂しなければならない特権をいうのではありません。それは誰でもできることです。任命を受けた者の特権は、誰も干渉できないもの、設計者も干渉することができないものです。すなわち、絶対視することのできる権限でなければならないのです。十時間、同じように仕事をし、同じように寝たとしても、その時間に多くを考え、また、その仕事に苦労をし、精誠をささげることが他の人の倍になるときには、その人によってなされた結果を、この宇宙は最大に表彰するでしょう。

 そのような立場を備えた人が残っている限り、世界は永遠に残るのです。その人以上の価値をもつ人が現れない限りです。運動競技において、一度立てた記録は、破られなければ、永遠に残るのと同じです。ですから、その記録に対して、そこに到達するための方向性を立てなければならないのです。任命を受けた者として、これは当然のことです。指示を受けた量を、与えられた時間になすようになれば、メダルをもらうことができるし、表彰を受けることができます。それは、自分自身の使命です。直接的な使命であるのです。これを私たちができなくてはいけないというのです。

 個人ではできないからといって、二人でしてはいけません。賞を受けるとき、二人で受けることができるかというのです。このような観点から見るとき、命令を受けた人は、責任を、自分を中心として遂行したがります。誰かが干渉するのを嫌がるものです。それは自分自身の権威があるからです。この厳粛なる権威をもっていることを忘れてはいけません。(三二―五八)

 皆さんが、一つの生涯を生きていく間において、与えられた使命の量を知っていますか? 今まで一生を歩みながら、責任を遂行する立場にいるにもかかわらず、その量を知らないのです。だからといって「私はどうしようもない。だから、努力する必要もない」と言う人がいるとすれば、その人は一番かわいそうな人です。努力しなければいけません。

 私は何をするのでしょうか? この民族の前に、世界の前に、天地の前に、私はどのような人になるのでしょうか? このような心ができていません。このような心が備えられていない人は、任命を受ける資格がありません。それで、これを知るために、哲学とか宗教だとかいう問題が出てきたのです。また、今私たちはどこに行くのか、という問題が起こってきます。現在の位置と立場を知るためには、まず四方、前後左右が、どのようになっているかを知らなければなりません。

 任命を受けた主体的な権限をもった人自体は、干渉されることを嫌います。しかし、干渉をすることのできる絶対的存在が現れれば、干渉を受けるのです。

 今日、人々は、「私を愛せ、永遠に愛せ」ということを、言葉でだけ終えてしまうのです。絶対的な立場で愛することのできる人になるためには、「愛せ」ということを言う前に、まず愛さなければなりません。そこに、相対的に報いがなされれば、それは、絶対的基準になるのです。

 人が主管を受けるのを嫌うのは、完全なる相対、すなわち、絶対的な相対が決定されていないからです。絶対的な立場で主張するのは、完全なる相対を決定するためのものではないでしょうか。完全なる相対が現れるようになるときには、全部みな、あなたのものであり、私のものとして、和してしまうのが因縁の世界です。どんなに器量の良い男性や女性がいたとしても、自分が絶対視できる完全な相対が現れるまで、待たなければならないのです。

 このような観点から見るとき、皆さんは、生涯をおいて任命を受けてきました。それは、誰も干渉することのできないものです。神様もどうすることもできません。過去、現在、未来の歴史時代において、誰も絶対に干渉することができません。絶対的な基準にならなければならないからです。そうでなければ、それが個人・氏族・民族・国家・世界に進んでいくことができないのです。これをよく知って、任命を受けた責任を果たさなければなりません。

 任命を受けた量が大きければ大きいほど、範囲が広ければ広いほど、そこに対する期間も、十年、百年、千年の期間がかかるのです。普通の人が十年、百年、千年かけなければならない精誠、また数十代を経て成さなければならない精誠の度数を、一代でささげなければならないことも起こってくるのです。その時に、そのような千年の精誠をささげることができるか、できないかということが問題です。(三二―六〇)












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