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6 牧会者がもつべき内的姿勢

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 @一番下から出発しなければならない

 きょう、伝統的思想を立てるために出発する人たちが、正に皆さんです。ところで人が多過ぎます。きょう、この場に何名が参席しましたか? (五十五名です)。この五十五名も、多過ぎるというのです。この多くの人たちが、ある地域であれば地域に、責任を負っていかなければなりません。地域長という立場から出発するのではなく、一番下から出発せよというのです。忠誠を果たす地域長になる前に、忠誠を果たす信者になれというのです。忠誠を果たした信者になれば、自分が地域長になることを願わなくとも、地域長になるのです。金脈がどんなに地の中に埋もれていたとしても、必要な人によって掘られて、その価値を発するのと同じように、必要な存在は現れるようになっています。その上、この統一教会は霊界と関係を結んでいるので、深く埋もれていたとしても、簡単に掘り出されるのです。

 皆さんの中に、「私がこのようにすれば、区域長から地域長になるだろう」という思考方式をもっている人がいます。そのような人は、自分のために生きている人です。そのような人が行く道は、周囲から永遠に切られてしまうのです。その人を好む人だけがついてくるのです。このようになるのが問題です。

 百年であれば百年を、教会のために生きてみようという心をもたなければなりません。この世には、甲という人、乙という人など、多くの人がいます。それらの中には、息子を失ってかわいそうな人、夫を失ってかわいそうな人、あるいは、食べる物がなくてかわいそうな人、着るものがなくてかわいそうな人など、千態万象のかわいそうな人がいるのです。その人たちと、誰よりも近い心からの友とならなければなりません。これが世界のために生きるということです。(三四―二八)

 長い間耐えて、長い間闘いながら、全体のためになすことのできる自分の姿を模索するための努力をするようになったとすれば、天が自然に立ててくださいます。人間が、自分がこのように立ったとどんなに自慢しても、駄目です。

「自分が立てた」と言ったとしても、倒れてしまうというのです。しかし、人間が立ててくれなくても、天が立ててくれれば必ずなされるというのです。

 ですから、どんな指導者でも、指導者それ自体が自分を立てる、そのような立場に立つなというのです。自分自体が、自分をその立場に立てなくとも、その環境が立ててくれる場をつくらなければなりません。そうなったとき、そこに立ってこそ倒れないというのです。すべてのものが、そのようになっています。自分の主張をもってはいけません。自分を主張しては、絶対に神様の息子、娘になることができないのです。(一五五―二四二)

 先生が監獄から出てくるとき、それまで着ていたそのぼろきれをなぜ持ってきたのでしょうか? それは、売ってみても一文にもなりません。飴売りにあげても、飴の半分もくれないでしょう。それでは、三年近い歳月を送りながら、絹のパジチョゴリは全部他の人にあげてしまい、なぜその囚人服だけ着て生活しなければならなかったのかというのです。触ればぼろぼろにほぐれてしまうぼろきれが、何のために必要だったのかということです。それは、それが十年、一世紀、あるいは数十世紀が過ぎたのちには、億兆の金を出しても買うことのできない宝物になるものであったからです。

 今、エルサレムに、イエス様が使っていた箸一本があったなら、仮に英国を引き換えに出すといっても、買えないでしょうし、アメリカを出すといっても買えないでしょう。このような言葉を今日、血気盛んな若者たちが聞いたとすれば笑うかもしれませんが、千金、万金よりももっと貴いので、困難な環境を克服してまで、それを持って出てきたのです。それは、何も知らない人には、チマチョゴリ一着の価値より低いものであるし、自分の財布の中にあるお金一文の価値より劣ったものです。

 千辛万苦の末、残しておいた大切な宝物を統一教会は、すべて失ってしまいました。一つしかない大切なその宝物を、失ってしまいました。それは、億兆の金を出しても買うことのできないものです。それでは、それは自分自身のために残すのでしょうか? 違います。神様が残してほしいと願い、後孫たちが残してほしいと願うものだから残すのです。それは、そのような心をもった神様のために、後孫たちのために残すのです。

 これが公職にある人がもつべき生活観であり、価値観であるということを、皆さんは知らなければなりません。私が拷問を受けて、血を吐いて倒れたとしても、「天よ、この血を見て私のために涙を流さないでください。これは、恥ずかしい血となるでしょうし、嘆息にぬれた、怨恨の涙になるので、ここに天が同情することを願いません」と言ったのです。ですから、監獄に行くようになっても、祈祷をしないのです。心情世界においては、そのようにしなければならないのです。(二六―二〇)

 A信念をもって進まなければならない

 信念はどこから出てくるのかといえば、理念から出てきます。その理念は、個人だけでなく、世界を中心として包括的に関係を結ぶことのできる、すなわち、段階的であり、体系的な内容を備えた思想でなければなりません。そのような思想的な理念から、信念が発生されるのです。ですから、理念をもったとか、思想をもったという人は、信念がなければなりません。その誰ももつことのできない信念がなくてはならないのです。(四〇―二二九)

 新しい統一理念、統一思想をもっている私たちにおいても、やはり同じです。皆さんは、統一教会の一員として、統一思想を中心とした新しい宇宙観、新しい人生観と新しい生活観をもって、「これが最高である。これでなければ駄目だ」という、確固とした強力な信念に満ちていなければなりません。これが問題です。

 皆さんは、まず理論的な知識をもたなければならないし、その次には、成せるという信念をもたなければなりません。自分の思いが及ばず、自分の信念が及ばなければ、それは自分のものにできず、他人に奪われやすいのです。しかし、私が実践をして固めた基盤は、根を固く張って成された基盤は、それ以上の力を加えて、それ以上の信念を加える前には、絶対奪うことができません。(一九―三九)

 皆さんは、多方面にそのような自分をもたなければならないのです。まず信念が先立たなければなりません。皆さんが多くのことをしてみて、「私がすることは間違いない」という信念をもたなければなりません。様々な事件を注入し、それを消化させることができる自体の能力をもった人であれば、どこでも適応して発展させることができるのです。

 訓練は損害のようですが、それは今後に自分の所有を決定する、一つの富の起源になるということを知らなければならないというのです。そうではないですか? (そうです)。

 先生は、皆さんを、一食主義で約四年間訓練すればよいという思いがあるのです。「御飯一食でも生きれる。四年でなくて十年でも生きる」という信念をもって生活をするようになれば、御飯一食でも死なないというのです。(六五―三〇七)

 どのような仕事をするにしても、信念が問題となります。したがって、任地に出ていって苦労をするとしても、信念をもって、信念の中で生活し、行わなければなりません。私たちは、映画を見るとき、はらはらする場面を好みます。そのように、私たちが仕事をなすときにも、そのようなはらはらする峠を、うまく越えて勝利することを、天と地とすべての万物は願っています。

 投網で魚を捕まえるとき、重りが少しでも前に行けば、魚を一匹でも多く捕まえることができます。私たちは、このように、重りのような立場であるので、サタン圏内にいる人を、一人でも多く天の側に引っ張ってきたい心で動かなければなりません。(一二―一九)

 皆さんが、み旨に対して、先生以上の忠誠を尽くそうという信念をもつようになれば、すべてのことが順調に解決されていくというのです。それが何のことか分かりますか? もし、先生が十メートルの地下に入ったのに、皆さんは五メートルしか入れなかったときには、サタンが打つのです。分かりますか? 平面にならないというのです。

 先生が十メートル地下に入って築いた基盤を、皆さんが相続したいならば、いったん十一メートルまで入り、一メートル上がって、十メートルの所にとどまるのならかまわないというのです。及ばずにとどまるときには、これは水平ではなく、平面ではなく、角度(斜線)が生ずるというのです。はっきりと知らなければなりません。何のことか分かりますか?

 先生が築いておいたその基盤の上に、水平をなすためには、先生の思想と伝統、そして実践力、これを正しく教育されなければなりません。実践力がなければならないというのです。(一一四―五三)

 Bこの道を行くためには愚鈍でなければならない

 この道を行くためには、愚鈍でなければなりません。忠臣たちは、見方によっては愚かな人たちです。少し愚鈍に見えます。熊のような性格があるというのです。自分の腕を切っても「ああ、ここが切り足りない、もっと切ってくれ」(笑い)という、このような愚かな点がなければなりません。熊やいのししは、銃に撃たれて、引っかかり、つっかえる部分があれば、その部分を口で切って逃げるというのです。そのような愚鈍な何かがなければならないのです。忠臣烈士は愚鈍でなければなりません。分かりますか? 少しは愚かであるべきだというのです。

 ステパノのような人も、この世的に見れば馬鹿ではありませんか? 年が三十にも満たない若い者が、何のために石つぶてを受けながら神様の前に「私たちの罪を許してくださいませ」と言ったのですか? イエス様も同じように、どれほど哀れですか? 静かにしていればいいのに、何をするために、歩き回りながら、五つのパンと二匹の魚で、五千名を食べさせ、騒いで、のちにそのように死んでいくのかというのです。静かにしていれば、どれほど良かったでしょう?

 ですから、秀でた忠臣はいないのです。秀でた忠臣は「機会主義」の忠臣です。盲目的な忠臣は、無知で、愚かで、熊のいとこのような人です。美男の忠臣は多くありません。美人烈女は多くありません。烈女門(注:烈女を表彰して立てた門)の主人公を見れば、大体中間以下の顔をした人です。器量の良い人たちは、匂いを漂わせているのです。

 ですから、統一教会の人たちは、すべて醜い顔の人々です。(笑い) ゆえに、私のように思いのままにできあがった存在は、ごみ箱に消えたとしてもいい、そういう心をもって、神様が谷間を埋める、埋め立て工事をされるとき、「一番最初のスコップにすくわれてほうり込まれる、その土にならしめてください」と言えなければなりません。そうなれば、どこに埋められますか? 一番底に埋められるのです。そうすれば、埋め立てるのに使われた土の中で、王様だというのです。逆さまに見れば、王だというのです。そうでしょう? (笑い)(二六―一四三)

 皆さんは、ただ一度しかない七、八十年の生涯だということを知らなければなりません。私たちの生涯において、苦労の路程がどんなに長いといっても、永遠に比べれば、一呼吸する時間にもならない、ほんの一瞬であるのです。そうでしょう? ですけれども、永遠は、どれほど長いでしょうか? 「えーい(永)」と言って「えーん(遠)」という時まで、永遠にかかるというのです。そうでしょう? (笑い) それほど長いというのです。

 この世界圏内では、私が呼吸する回数も、みな計算できます。一時間に何回息をつき、一日に何回息をつき、一年に何回息をつき、十年に何回息をつき、一生の間に何回息をつくかというのを、計算して出すことができる期間だというのです。この短い期間に、「はあはあ」あえいで、嘆きながら生きるなというのです。すべてが瞬間です。鞭で打たれるとき、「打て、一度打ってみよ」このような心をもたなければなりません。鞭を受けるとき、歯を食いしばってその峠を越すのと同じように、この世にいる間、み旨のために歯を食いしばって進めというのです。長いといえば長いでしょうが、それは一時です。

 自ら無慈悲に鞭を受けて、困難な場を踏んで、越えなければなりません。耐えていくことのできる自分になるために、そのようなことを多くしなさいというのです。そのようにして神様と因縁を結ばなければなりません。考えてみなさい。困難な時に因縁を深く結んでおけば、うれしい時には、「因縁を結ぶな」と言っても結ばれるのです。普通の人たちは、うれしい時に因縁を結ぼうとわめくのです。そのような因縁は、瞬間的な因縁として終わってしまうのです。

 互いに、生死を決して、お前が死ぬか、私が死ぬかという境遇でも、互いに私が死のうと進み出ることのできる立

場、すなわち生命を取り替えることのできる立場に立てなければなりません。死の道を共にし、困難を共に経た人々は、うれしい時、因縁を結ぶという考えすら必要ないのです。困難な時に結んだ因縁と、うれしい時に結んだ因縁は、その味が違うというのです。(二六―一四二)

 C最後まで忍耐しなければならない

 神様がどれほど耐えてこられたかということを、皆さんは知らなければなりません。皆さんは、少しだけ大変でも不平を言い、口をこぶしのようにとんがらせて……。そのような時、神様はどれほど忍耐したでしょうか? そのように私たちも忍耐しなければなりません。千年、万年を忍耐していかなければなりません。闘うなということではありません。どちらも良くなるときには、闘うのです。どちらか一方が滅びるときは、闘ってはいけないというのです。闘っても、自分の側につくり変えて、教育させるために闘わなければならず、怨讐になるために闘ってはいけないというのです。分かりますか? (はい)。

 神様がどれほど忍耐してこられましたか? この目で見るのが嫌なものを、どれほど見ながら忍耐してこられたことでしょうか? 聞くのが嫌なことを、言うのが嫌なことを……。これから、神様の愛を完成するために、世界の人たちがみんな悪口を言っても、忍耐するという決心をしなければなりません。神様が見て、「忍耐するのを私が学ぼう」と言われる、そのような決心をするのです。

 それでは、私たちは、どうして忍耐しなければならないのでしょうか? 神様の愛を引き継いで、神様の愛を私のものとするためです。神様が、神様と同じような人を探しているのを知ったので、そのように忍耐することを学ばなければならないのです。分かりますか? (はい)。神様の忍耐を、私たちが学ばなければならないというのです。歴史始まって以来の、忍耐の王にならなければなりません。神様が、歴史始まって以来の、忍耐の王であられるので、私も忍耐の王にならなければなりません。

 見なさい、神様がどれほど耐えられたか。自分の息子、娘を殺し、この世界の王を殺し、神様の理想を壊してしまう怨讐は、怨讐の中の怨讐です。そのような怨讐に対し、忍耐してきた神様です。皆さん方も、それを願いますか? (はい)。それで、忍耐することを願いますか、愛を願いますか? (愛です)。(笑い) 愛だけ願っていては、駄目なのです。忍耐することを願わなくては、偉大な愛はあり得ません。もう、分かったでしょう? (はい)。(一〇四―三三)

 私は忍耐するのです。「この耳よ、忘れよ! この目よ、忘れよ! この腹よ、忘れよ! 心が痛くても耐えよ!」。誰のためにですか? 神様のためであり、人類のためにです。私が悲しくても、悲しい私自身が、神様から慰労を受けるのではなく、神様を慰労しなければならないことを私は知りました。これをしなければ、祈祷することができないというのです。祈祷が出てきません。そのように歩んできた道が、統一教会が歩んできた道であり、統一教会の先生が歩んできた道であることを知らなければなりません。なぜそうしなければなりませんか? ほかの道はないのです。分かってみると、それが最短距離だからです。(九四―二三九)

 さあ、そのような点から見るとき、宗教が神様を中心として善を、最高度の善を標準とすると同時に、世界的な、広い版図の基準を中心として主張してきたので、歴史時代に残ってきたことを、私たちは知っているというのです。どんな環境でも、突き進んでいく力があったというのです。

 それは、信仰によって神様を信じるという、その力をもっていることが、宗教の偉大性だというのです。それで、「宗教は反対されればされるほど発展する」という、このような言葉が残されたことを私たちは知っているのです。それは、反対されて圧力を加えられれば現在の位置から外れてしまい、そのままストップすればそれまでですが、外れてもまた、出てくるというのです。

 これは、宗教だけでなく、一般の私たちの生活でも、同じだというのです。丈夫で強い人が、また忍耐力が強い人が、残るというのです。ですから、十回倒れても十回立ち上がることができます。そうでなければならないのです。そうでしょう? そうではないですか? (はい)。

 皆さん、考えてみてください。キリスト教が、どれほど強かったでしょうか。四百年の間、ローマ迫害時代に、あの地下に入っていって苦労をしながらも、それを突き破って出ていこうと闘争したというのです。続けてそのようなことを先生が考えれば、今日統一教会が、この世で生きていけるか、残ることができるかという問題を考えざるを得ません。

 自分を歓迎する所で残ることは、それほど問題ではないのです。自分に反対し、怨讐視するその場で、どのように残るかということが問題にならざるを得ません。どんなに圧力を加えたとしても、押されれば押されるほど横に広がり、押されれば押されるほど中に入り、そうでなければ、押されれば押されるほど自分が縮小されたり、このようなことができなければならないということを、昔考えたのです。

 そのような観点で見れば、先生が今まで三十年間迫害を受けてきましたが、うまく突き抜けてきたというのです。一度打つと言って萎縮して、あ、痛い……。それは作戦上の萎縮でしょう。また作戦上、突き抜けて入っていくでしょう。時や環境さえ整えば、それ以上に上がっていこうという、そのような内的な心が、いつもなくてはならないというのです。

 さあ、ですから皆さん、木の種、果実の種を一度考えてみなさいというのです。ここ寒帯地方では、熱帯地方で育った松の種が育たずに、死んでしまうというのです。しかし、熱帯地方に植えたのを寒帯地方に植えて、このように移し換えながら育てれば、どこでも育つというのです。ですから、どんな木でも、どんな種でも、どの環境に対しても、自分が備えているそのような環境でだけ育つのでは駄目なのです。環境を移したとしても、どこでも育とうと思えば、そのすべての環境の要件を、みな吸収するか、そうでなければ、これを制圧するか、そのような力がなくてはならないという結論は、妥当な結論です。(七六―三一五)

 統一教会は、やつれてやせて、腰の曲がるような年になったとしても、「私は誰よりももっと大きなことのために仕事をする。世界のための仕事をする」と言わなければなりません。死ぬとしても、そのように死ななければなりません。そのように死ぬ団体がどこにありますか?

 今、私たち統一教会が、全世界のために動いています。神様のみ旨を成す時に、忍耐すれば、自然に神様のみ旨が成されるのです。そうでしょう? 私が言わなくても、世間で「忍耐すれば福を受ける」と言うでしょう? 団結すれば生きて、ばらばらになれば? (死ぬ)。知ってはいるのですね。それを知ってはいるのに、そのようにできないので、滅びるのです。そのようにできさえすれば、滅びはしないのです。

 忍耐するにおいて、百点の標準はどこにあるのでしょうか? その基準は、首を差し出すことです。首を差し出して死んだなら、お父さん、お母さんは、ウォンウォン泣きながら、「もう少し生きていたらいいのに、どうして?」と、弟妹たちは、「ああ、兄さん、姉さん、なぜ今死ぬの?」と言って、すべての家族が騒ぐのです。ですから、そのような立場よりも、単身孤独の立場にいなければなりません。単身孤独でも、自分が出ていって、遊んでから死ぬのではなく、怨讐が殴り殺そうとする立場、殴り殺そうとする者たちが十人よりももっと多く、国が動き、世界が動いて殴り殺そうとする立場、そのような立場で神様のためになすならば、神様は、その立場を祝福してくださるのです。(四四―二四)

 世間にいる指導者から、「皆さんならば、間違いない」このような言葉を聞くようになる時が来ます。ですから私たちは、指導者として育てられるその立場で、国を中心として、世界を中心として、耐えていかなければなりません。忍耐していかなければいけません。そのような決意が必要です。ですから、そのような兄弟と会い、別れる時には、涙なくしては行くことができません。ある人は、見送りするために峠まで上がって、見えなくなる時まで手を振ります。心情的なものは、そこから始まるのです。それを見たときには、二回目に行った時には、互いに抱き合って、涙で始まります。このような心情を中心とした涙の場所は、聖なる聖地の基準になるに違いありません。そこを、それくらいの感覚なく踏む者は、去りなさい! (一五―一四二)

 第一次に、十という力と財力をもって仕事を始め、失敗したならば、二次には百の力をもって始めなければなりません。もし、この時にも失敗すれば、倍の力をもって、第三次、第四次、続けて試していきなさい。十回する間には、必ず一度は成功する時があるのです。

 世間の大部分の人たちは、一次、二次、三次の試みに失敗すれば、後退してしまいますが、私たち統一教会の青年たちは、何度失敗があったとしても、もう一度出発しようという決心をしなければなりません。

 いのしし狩りをしてみると、おもしろいのです。最初の人たちが尾根に向かって出発するときは、みんな争って先に立とうと、すべての力を尽くそうとしますが、いくつか峠を越えていけば疲れて、「遅れないで行きさえすればいいだろう」と言います。しかし、さらに息が切れて大変になってくると、「ちょっと休んでいけばどうか?」と言って、もう少し行けば、「もうこの辺で行くのをやめれば……」という表情をするようになります。いのししは正に、この時に逃げてしまうのです。

 海に行って魚を捕まえるときも、初めには、海のすべての魚を、みな捕まえるような勢いですが、全精神と力を尽くして、何度か網を投げていけば、最初の気概はなくなって、退屈してしまうのです。

 最初から大きなことを願う人は、大きな人物になり得ません。良いことが、いくらか現れて、他の人々が喜ぶ時に、私だけがもつことのできることを探して仕事をするようになれば、最後には大きな喜びを得るようになるのです。

 三、四年の間に、この道が終わるのではありません。七年でなければ、七十年が延長されたとしても、「たゆまずに行く」という気迫が必要です。その期間が長ければ長いほど、その範囲を、さらに広げて進まなければならないのです。(一四―七一)

 D天の威信を守って進む

 先生が、山岳地帯であるとか、あるいは、平野であるとか、三千里半島(注:韓半島)を歩き回りながら考えたことはこれです。行っては来る、その足取りを、その日において、それで止めてしまいたくないというのです。連続的なものとして……。どんな行動をしたとしても、行動するその分野においては誰よりも……。汗を流しても、一滴をさらに流したいし、努力するにも一歩さらに努力したいというのです。もし、そこに力が足りないのなら、心ででも、さらにしたい心をもって今まで闘ってきたのです。連続的な闘いをしてきたというのです。それが不足ならば、これで補充して、私の前に悪の世界の悪人たちが批判することのできる、そのような条件を残したくないのです。

 ですから、皆さんに必要なことは、どのような立場に立っても、天の威信を守って進むことです。天の威信、統一信徒の威信、原理を基盤として動いてきた、私たち聖徒たちの威信、神様の心情を中心として教育を受けて、サタン世界と対決して、勝利の旗に倣って進んできた私たちの威信、この威信は、この世のどのような精兵たちが備えている威信でもありません。現在において、先進国として誇っている米国の、どのような軍隊の威信も問題ではありません。絶対的な威信、この威信のために……。

 この威信の中には、歴史的な反応が生きているし、内在された反応が生きています。この威信を基盤としてのみ、この世界史的な、新しい道が永遠に向かって直線コースとして、開拓されていくということを、皆さんは、いつも心に忘れてはいけません。それでいて、これは継続的なものです。ですから、私が行けないときには、必ず後継者をここに代替えしておかなければなりません。このような精神と、このような思想をもって、皆さんが進んでいかなければならないということを、現在当面している皆さんに、お願いしておくのです。(一五二―六六)

 E必ず結果を動機に連結させなければならない

 み旨は、ある個体目的を指向していくものではなく、全体目的を指向していくものです。木を見れば、そこには必ず根があり、幹があり、枝があり、葉があります。段階的に見れば、葉がある前に枝があったのであり、枝がある前に幹があったのであり、幹がある前に、根があったのです。ところで、根も必要なく、幹も必要なく、枝も必要ない葉があり得ますか? そうなれば、それ自体も存在し得ないのです。ですから、一つの木として完成しようとすれば、各々が、その責任を果たさなければなりません。

 先生は、今まで一生を経てきながら、ある栄光を得るようになったとき、それを先生自身を中心として考えたことはありません。それが天から始まったということを知っているからです。

 動機が天であるので、結果を天に連結させなければなりません。言い換えれば、自分の一日の生活で、責任完遂という目的を中心として見るときに、必ず結果を動機に連結させなければならないのです。それでは、どのように動機と結果を一致させるのですか? これが問題です。社会環境を見れば、これがなっていないのです。一八〇度違うので、蕩減のための条件を立てて、ある期間、その環境を克服していかなければならないというのです。

 今日、数多くの人たちが道(注:宗教の道)の道において、精誠をささげています。彼らは、すべて神の霊的な摂理の中で、自分なりに何かを受けています。彼らは、この国で自分が一番だと考えています。実際、霊的にそのような啓示を受けています。しかし、それは結果的なものであるので、根本となる原因を追求しなければなりません。その原因を追求するには、自分を中心として追求してはいけません。なぜいけないのでしょうか? その啓示は、神様と心情一致して、人類の真の父母と心情一致したものが母体となって、現れた結果であるからです。そのような原因を知らずに、結果だけをとらえる人は、根のない木の枝のような立場なので、結局、悲惨になるというのです。

 私たちは、責任完遂をする前に、まず何をしなければならないかといえば、三者の一致点を探さなければなりません。三者が完全に一致されなければ、責任を完遂したといっても、完遂したその責任の結果は、天と何の関係もないものとなります。皆さんは、いつでもそれを知るべきです。

 イエス様は、ゲッセマネの園で、あるいはゴルゴタの山頂で、死の道を行きながら、神様が自分を愛されているということを信じました。神様が自分をこの地に送られたのは、一人の男性として送られたのではなく、神様の息子として送られたので、その誰ももつことのできない、神様の心情をもった自分でなければならないという、絶対的な心情をもっておられたのです。

 それでは、そのような心情で復帰の道を行かれたイエス様の、最後の目的は何だったのでしょうか? それは、人類の父母となることでした。イエス様が、このような厳粛なる課題をもって希望されながら、そこに心を一致させてきたので、今日、キリスト教が世界的な宗教になったのです。そうでなかったならば、キリスト教は世界的に発展しなかっただけでなく、神様がキリスト教を世界的に発展させなかったでしょう。原理的な復帰路程に、イエス様が犠牲になったので、神様は、新しい歴史時代を経ることのできる、摂理の手を伸ばすことができたということを、皆さんは知らなければなりません。

 動機と結果が一致しなければ、責任を遂行したということはできません。ですから、すべてのものが一つとならなければなりません。何を中心として一つとならなければならないのでしょうか? 神様の心情と、父母の心情と一つにならなければなりません。私がいることによって父母がいるのではありません。父母がいるので、神様がおられるのではありません。神様がおられることによって父母がいるのであり、父母がいることによって、私がいるのです。ですから、今日、子女の立場にいる統一教会の食口たちは、絶対的に、神様の心情と父母の心情をもたなければならないのです。(二四―一三七)

 今日、私たちは、今までの自分の観念と意識全体を超越して、一つの基準の前に収拾されなければなりません。皆さんは、これをはっきり知らなければなりません。各々が今までの自分を振り返ってみれば、自分勝手な考えをしてきたということを知ることができます。ある人は不平を言い、ある人は本部に対して、ありとあらゆることを言うのですが、これは許すことができません。(二四―一三五)











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