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三 説教の実際

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1 題目の選定

 大衆集会の時の説教は、自分が組み合わせて、出ていってするものではなく、天が許すそのもとで、自分がその意味を受けてするものです。それが説教です。そういう心の姿勢……。何のことか分かりますか? ですから説教壇に出る時に、堂々とした気勢で出ていく人はみんな天の指導者ではありません。刑場に出ていく気分のような、祭物のような気分で出なければなりません。皆さん、公判廷において判事が刑を下す時、その瞬間は最たる緊張の瞬間でしょう? そういう体験をしてみたことのない人には分かりません。壇上に立つのはそれ以上の場所です。壇上に立つというのは恐ろしいことです。昔は契約の箱の前が恐ろしかったでしょう? 正にそういう場所です。

 そういう体験をしてみたことのない人は、家へ入って生活しても、寝ても覚めてもそのように暮らしています。ですから教役者は、自分がいる場所でそういう雰囲気にどうやって適応するか、生活にどうやって適応するか、ということが問題です。(五六―三三)

 皆さんが説教をする時も、題目を決めて出ていくのではないというのです。本来は祈祷して、祈祷の中で題目を決めなければならないのです。準備した題目では、絶対感動させられません。皆さんがいつも準備しては……。人を泣かせるには、自分が説教を準備して、祈祷する中で涙を流さなければなりません。こういう人、ああいう人、千態万象の人を思いつつ、今日の韓国の実情をずっと考えて、きょう尋ねてくる人はこういう人だろう……。それを思って涙を流し、壇上に立ってこそ聴衆に涙を流させる恵みを与えられるのです。手紙でも、自分が涙を流して書いた手紙であってこそ、相手方を泣かせることができるのと同じように、自分の主体的な動機がそうでなく、相手方がそうなるというのはうそです。そうではないですか?

 ですから皆さんが壇上に立つ時は、その壇上が審判場だということを知らなければなりません。前よりもっとうまくやることを願ったが、できない時は悔い改めなければならないのです。恵みを与えられず説教を一時間してきたなら、三時間悔い改めなければならないのです。皆さん、それを知らなければなりません。説教をうまくできず、恵みを与えられない、そういう時は三倍以上悔い改めなければなりません。一つの生命のために、生命の水を与えなければならず、育ててあげなければならないところを、ここで水を与えるのではなく、水を奪い、地をひっくり返してきたならば、その責任を負わなければなりません。彼らが帰ったのちにも、きょうのみ言を中心にして恵みを施さなければならないのです。(一九六九・五・一二)

2 説教時にもつべき心の姿勢

 皆さんが、聖日に説教する時は深刻なのです。私が皆さんのようなら夜眠れないのです。どうして眠れますか? それは人の生命を生かすために注射を打つことです。強精剤の注射を打つのと同じことなのです。食口たちに、一週間の薬を与え、強精剤注射を打たなければならないのです。生命を扱う医師が生命の瀬戸際にある人に注射する時、深刻なのと同じように、皆さんもそういう立場で指導しなければならないのです。ですから壇上に出る時は刑場に出るのと同じなのです。

 先生自身もそうです。私は多くの人々を指導してみたし、アメリカで今大衆にうわさが流れていますが、見知らぬ人に対しても同じです。初めに出発する時と、最後に到着する時が同じです。もっとやればもっとそうでしょう……。もっとつらいというのです。講義をすればするほど、同じものをすればそれこそ、口からすらすら出てきてそのまま講義してしまうのです。それではいけないのです。何度もすればもっと難しいというのです。ですから聴衆たちが感動を受けるのです。いつも新しいものだからです。

 それで、朝御飯を食べる時は新しい御飯を食べるでしょう? 古い御飯がいいですか、新しい御飯がいいですか? (新しい御飯です)。新しい御飯がいいでしょう? (はい)。新しい味が出なければならないのです。同じように新しいものを与えなければならないのです。皆さんが原理講義する時も、新しいものを講義しなければなりません。霊的な面で新しい何か、保養剤というか、そういうものを供給し、そこに加味させて講義しなければなりません。そうでなければ調味料を入れて、酸っぱい味でも出し、そうでなければ塩辛い味でも出し、そうでなければ苦い味でも出して……。(七五―一七六)

 皆さんが聖日に説教をするにおいても、女性がお産するとき苦痛を感ずるのと同じ境地で説教しなければなりません。精神を全部そこに集中しなければならないのです。説教の壇上に立つ時は、産婦が産室へ入るような感じがしなくてはなりません。先生もそういう体験をしたので、そういう境地へ入ろうと努力するのです。その境地へ行けば、準備は必要ありません。説教内容が問題ではなく、話すことが問題ではないのです。そういう心情になっているかが問題です。

 皆さん、前にソ連の人たちが綱渡りするのを見たでしょう。正にそういう気分なのです。綱渡りする人が感じる気分のことです。壇上に立つ時も、そういう境地です。何のことか分かりますか?

 先生自身もそのように感じるのに……。皆さんが説教するのは容易でしょう? 皆さんが涙を流して準備すれば、聴衆を泣かせるのです。ですから壇上で祈祷すれば胸が詰まります。むせびます。そういう心情で壇上に立てというのです。話をしても抑えられなければ痛哭しなければなりません。恥をかくのもかまわず痛哭できる心情がわき上がってくるのです。熱いかゆを食べさせてあげようとすれば、熱いかゆを作ってあげてこそ熱さを感じるのです。同じことなのです。説教の準備だとかそういうことをする時は、自分がうまくできなくては駄目なのです。何のことか分かりますか? 説教を準備するためには、食べるものも全部選り分けて食べなければならないし、夫婦生活も選別してしなければなりません。そういうことがあることを知らなければならないのです。

 皆さんが説教する時間が、ある人を天国へ入らせるか、地獄へ入らせるか、という境界線になるのです。「今まで統一教会のことを知りたかったのだが、一度行ってみよう」と言ってワシントン教会へ来たのに、「この説教は何だ?」そうなれば、その一人の首を完全に切ってしまうことなのです。公判廷に立った判事が宣告する、その時間よりもっと深刻な場所が説教する場所なのです。数千名、数百名の人がそういう運命に立つという事実を知らなければなりません。

 まして、皆さんが統一教会に入ってきた人を受け持っていたが、その一人を落とした、自分に割り当てられた一人を落とした、それを考えてみましたか?

 責任者たちがその責任をいい加減にして、下にいる人たちが自分を「嫌だ」と言うようにしてはいけません。そういう人がないように努力しなければなりません。責任者はつらいのです。自分の正体を人々の前に現すその場所は、実に恐ろしく、震えるような場所だということを知らなければなりません。

 皆さんが説教しながらそれを感じなければなりません。準備できなかった説教をして恩恵を与えられない時は、また、すべての力を尽くしても駄目な時は、帰ってきて、それこそ大声で痛哭する時間がなくてはならないのです。恥ずかしいのです。自分の恥ずかしさを知らなければなりません。そうあってこそ発展するのです。(九六―一六八)

3 説教時注意すべきこと

 精誠というのは一度にささげるものではありません。説教する時にも、大衆を前にして説教するのだと考えずに、一人の前で説教するのだと考えよというのです。一人が恵みを受けて涙を流せば、それが全体に広がっていくのです。今まで地区長や地域長たちが教会を発展させられなかった理由は、根もない、空中に浮いている説教をしたからです。吸収される土台がないのだから伝道がうまくいくはずがないのです。地区長自身も自分の足場は自分が整えなければならないのです。先生がある指示をした時、地区長たちが命を懸けて動く手本を見せてこそ、一般食口たちも動くのです。(四二―一五九)

 皆さんがいつも注意すべきことは、先生が今どの方向を通っていくのか、ということです。そこに歩調を合わせていくのが、皆さんが説教する時に一番効果を上げられる方法です。恵みを施すことのできる動機になるのです。先生がこの時間に、何のためにどんなことをしているのかを知ろうとし、相対的に心情的基準を先生と一致させるために、自分の心を引き上げて先生の心をどうやって身代わりできるかが問題なのです。全国の皆さんが先生の前に相対的立場で動くようになれば、天運はそこに訪ねてくるのです。(六〇―三四九)

4 説教はいつも新しい刺激を与えなければならない

 一般教役者たちの生活も同じです。自分の地域や地区で講義をすれば、食口たちが「おお! 地域長が原理講義をするのか。その言葉の次にはこの言葉が出るだろう」と、全部知っているのです。ですから三年前も今も、全く同じ講義をしては駄目なのです。

 過去にはそういう方法で講義をしましたが、今は枝をつけ、新しい解説と内容を添加して講義することを知らなければならないのです。その内容面では、心霊的発展をするのに必要な体験談を話してあげなければなりません。その時の雰囲気に合わせて、必要な講義をしなければならないのです。皆さんが三年間牧会をしたなら、刺激を与えられる話を一回でもしてやってこそ、食口たちにプラスになるのです。そういう実感を感じられない食口は、聖日礼拝にあまり参席しません。こういう観点から、皆さんが今まで講義をあまりにいい加減にした、ということが分かります。ですから今からでも新しいものを提示しなければなりません。どのようにしてでも刺激を与えなければなりません。祈祷をしてでも補充しなければなりません。それでも駄目なら、命を懸けてでも談判しなければならないのです。

 皆さんは、道行く時にも新しいものを探す気持ちをもって行かなければならないのです。また、教会へ行くとしても、そのまま行くなというのです。教会へ行く時も、いつも新しい立場と環境に接するという心で行ってこそ、新しいものが生まれるのです。教会へ行くのにも、直線コースでのみ行くのでなく、曲がることもしなければならないのです。南の方へ行くべきだが、北の方へ行ってみよというのです。なぜなら、新しい道を探すためです。

 また、そういう実感が出なければ、家の中の暮らし方を全部変えてみよというのです。数カ月になってもそのままにしておくな、というのです。反対にひっくり返してみよというのです。そうすれば考えが変わります。こうすることが絶対に必要です。(三〇―一二六)

 皆さんが説教する時、食口たちがその題目は以前に聞いたことがあると分かれば、彼らは気分が悪くなるのです。原理講義する時も、以前のようにやれば気分が悪いのです。それは、人が春夏秋冬、四季につれて変化を感じるのと同じだからです。朝だといって、いつも気分がいいのではないというのです。何の心配もないのに、妙に憂うつな日があるのです。朝、日の光も明るく爽快な天気なのに、自分は憂うつな時があるのです。そういう時は、どうすればそれを解決できるでしょうか? これを変動させる刺激的なものがなければ、もっと憂うつな場所を訪ねて入っていけというのです。

 このように反対に行って新しい刺激を受けるとか、あるいはそれを克服できる直接的な新しい刺激を起こし、補充していかなければなりません。皆さんが解決方案を立て、一日一日の生活を調節していかなければ、今後多くの人々の心霊を指導することはできないのです。

 教役者は、説教に関するものを補充し、特に教会員たちに必要で助けになるものを、いつでも供給してあげなければなりません。(五六―一二)

5 説教は恵みの感動がなければならない

 皆さんは、本を見ながら講義をするので余裕がないのです。ばっと捕まえ入れ、口さえ開けば出てこなければならないのです。感動を、影響を与えるためには、自分の感動に推進力がなければならないのです。ぎゅっと押してあげなければならないのです。そうしながら、講義も、時によっては寒い部屋でも汗を流しながら……。それが必要だというのです。時には机をたたき、全体が……。ある感動を受けて、涙が出そうな時は、素早く切って、涙がすっと流れるようにしなければならないのです。料理しなければならないのです。そういう時は、説教者が涙さえ流せば、一度に全員が流すようになるのです。説教する人が、何人かの人々と共に涙を流し、説教をするようになれば、全体がぱっと変わるのです。全部涙の海になるのです。そうなれば皆さんはその人々に対し、「どれほど苦痛を受け、どれほど困難を感ずれば、私の言葉を聞いてああなるのか」と思わなければなりません。そういうものを見れば、本当に同情せざるを得ないのです。そうして、同じ心情になって、ここで一つの生命が復活するという喜びを感じながら涙を流す時、自分がまず涙を流せばずっと全部……。それが必要なのです。そうやって涙を流せば、いくら強盗の輩でも反対できないのです。それが必要なのです。

 火鉢なら、火鉢が熱ければこそ回りまで熱くなるでしょう? また、夏ならば、ここが冷たければ回りが冷たいでしょう。結局は責任者が問題です。責任者はいつも講義しに出かける時は、「お父様、講義しに出かけます」と独り言でも……。これが習慣化しなければなりません。きょう私が話して、一つの生命でも傷つき落ちる人の出ないことを、来なかったほうが良かったということにならないように……。そして自分が講義したことがうまくいったなら有り難く思い、全部、神様に報告するのと同じ生活をしなければなりません。そして、皆さんが講義する時は、自分がすべて知っていることでも、必ず原理の本をつかんで、祈祷する思いで一ページ一ページ読んでいけというのです。

 皆さん、説教などで大衆の前に出る時は、深刻な場所に立つことなのです。本を読めば、神様がそこに感動するある語句を下さるか、必ずそのようなことがあるというのです。ですから皆さんはそのように訓練しなければならないのです。また、皆さんが良心の呵責を受けたとか、あるいは心に不快なことがあっても、その時間だけはさっと洗い流さなければなりません。家で妻が体を悪くし、子供がどうでとか、良くない手紙が来たとしても、壇上に立つ時だけは完全に洗い流さなければならないのです。(六七―二八)

 説教はまず自分が感動を受けなければなりません。自分の祈祷が自分を感動させなければならないのです。説教は同情を受ける立場でしなければなりません。私を通して、新しい生命の因縁を結ぶべき人々のかわいそうさを神様に訴え、同情を受ける立場に立たなければなりません。(一一―二七八)

 その場所は厳粛な場所だというのです。祭物の前に立った祭客たちは、頭が下がってこそ正しいのが天法です。分かりますか? (はい)。その祭壇には、神様が臨在なさってこそ干渉なさるのです。心情的にきょう、この祭壇の前に、情熱と力と努力をすべてささげるというようになる時や、自分の一生にない、誠心誠意をすべて尽くして口を開くようになる時は、神様が助けてくださるのです。何のことか分かりますか? 祭物は深刻な場所でささげられるのです。

 ですから、生涯になかった深刻な心をもって、「神様の前にささげられたこの体を、あなたの願われるとおりに使用してくださいませ」と言って、祭物になった心情をもって出れば、神様はいつも共にいてくださるのです。そうなれば、その場所に必要な祭祀をささげることによって、恵みを受けられる、贖罪を受けられる、その人にぴったりする言葉を話せるようになるのです。何の話か分かりますか? もう既に分かるのです。口を開けば分かるのです。

 そういう生活をするようになると、神様と私との関係は、説明の必要がない境地に入るようになるのです。そうなってこそ、皆さんの行く所が発展できるのです。分かりますか、何のことか。(はい)。皆さんが精誠をささげて祈祷して話した言葉、自分が感動した心をもってしたその説教に、感銘を受けた人がどのくらいになるか、ということが問題です。そういう人がいなければ駄目なのです。恵みを受けた人が三人にでもなればいい、と思うのですが、神様が共にあれば、その十倍以上、何百倍、それ以上になるのです。聖書には百倍、六十倍、三十倍になる、と出てくるでしょう? そのように増加していくのです。それが数はそうだとしても、科学的なのです。データに記録して、間違いない比重で必ず神様が役事していかれるというのです。何のことか分かりますか? (はい)。ですから精誠を尽くしなさい。ある人と因縁ができ、み言を伝えるにあたって、神様がどのくらい協助してくださるかが問題です。深刻な場所でみ言を伝えるようになれば、そのみ言は神様を身代わりするみ言になるのです。分かりますか? (はい)。(六〇―三四八)

 恵みを受けたなら、帰ってきて必ず天の前に賛美しなければならないのです。生活がそのように習慣にならなければなりません。初めにこうしてきたのに、いつ題目を定めてやってしまうようになったかというのです。話す中で、世界のすべてが説教にならなければならないのです。自分が苦労したことがあれば、自分がいつこうやった、ということを説教するのです。ですから教役者は、苦労をたくさんしなければなりません。人生修練をたくさんしなければなりません。かわいそうな労働者からこじき、あるいは高級官吏、あるいは権勢圏の内にいる者まで、一時経験するのも必要だというのです。そういう状況を中心にして、そういう時に公的立場である自分が一時悲しかった事実、そういうことについて体験した話には実感がわくのです。

 事実を話してこそ、聴衆も感化を受けるのです。他人から聞いた話では、絶対感銘を与えられません。事実を話さなければならないのです。原理講義する時にも、よく他人の言葉を使うでしょう? 原理がこういうものだと、全部他人の言葉を使うのです。しかし、原理が自分の原理にならなければなりません。そうするには、復帰原理を講義する時も、アダムの家庭の話をする時は自分がアダムにならなければならないし、エバになった心情を中心に講義しなければなりません。ノアじいさんからアブラハム、イサク等、全部自分がその立場になって、涙を流さなければなりません。復帰原理を中心にして、天がこれを編むためにどれほど苦労し、この復帰路程を求めるために先生がどれほど苦労したでしょうか。考えてみなさいというのです。涙が流れるようになっているのです。涙なしには絶対生命が集まりません。

 涙と汗がなければ絶対に駄目です。それは鉄則です。説教する時は必ず汗を流さなければなりません。首の後ろに汗が流れなければなりません。いくら精誠をささげたといっても、今からは説教を一生懸命やりなさいというのです。今までは地域長で説教もせずに、やくざな者だったでしょう? これからそういう人がいれば、全部人事処置するのです。分かりますか? (はい)。(一九六九・五・一二)

6 説教時間

 問題は、今たくさんの人が集まってきたなら、誰が料理しなければならないのかということです。自分が料理しなければならないというのです。さあ、料理するのに原稿を書いて十五分間話をしますか、原稿なしに話をしますか? 原稿なしで話をしたほうがうまくやれるのです。原稿を持ってやろうとすると、支障が実に多いのです。環境を見て、三十分でやってしまうようなら三十分で片づけてもです。御飯が全部できた上に薬食を作ろうとするなら、そこには蜜の水も注いであげ、砂糖水も注いであげなければならないので、そういうことをしようとすれば、時間が過ぎても口を開けて「おいしい、おいしい」と言うようになって、時間をもっと延長しなければならないのです。

 公式的な時間だけきちっとして、一隅でめらめらと火がついたのにやめては駄目なのです。完全に揮発油を降り注いで火をつけておいて、「ふう」と言って風まで吹くようにしておいてやめなければならないところなのに……。そうするには一時間でもよく、二時間でもよく、十時間でもいいのに……。十時間までしても行かないで、離れられないようにできる能力があれば、そうしてまでもやりなさいというのです。こうして文先生の一生の間、五十年の恨みを解けるなら……。一時間で解くよりも、十時間の間、一時間に解くことのできる十倍を解く業をすれば、どちらを願います? (十倍)。それは誰でも願うでしょう。(七八―二三三)

7 説教の難しさ

 人間にとってやることが一番つらいのは何かといえば、こうして人々の前に出て話をすることです。ここに約三百名に近い人々が集まっていますが、この三百名余りの人々の前に出て話をすれば、すべての人が注目します。甲は甲なりに、乙は乙なりに、丙は丙なりに、あるいは金氏なら金氏、朴氏なら朴氏等、自分たちなりに全部が聞いて、批判や判断をするのです。ですから多くの人々の前に出て話す人は、本当につらいのです。

 また、若い人々を中心にして話をすれば、年取った人々には失礼になります。若い人々は刺激的で爆発的な行動を必要とするので、彼らには刺激的な話をしなければならないし、年取った人々は落ち着いた内容を必要とするので、静かな話をしてあげなければならないので、拍子が合わないのです。

 歌を歌っても、年取った人々が好きな歌、若い人々が好きな歌、また、学んだ人々が好きな歌、学んでない人々が好きな歌、全部違うというのです。

 また、婦人たちを中心に話をしても、婦人たちの中で、どんな層を中心にして話をするのかが問題になるのです。若い人々に話をするとき、「そうでしたか、ああでしたか」とばかり言っては駄目なので、「やあ、そう! そう!」と言うときもあります。そう言うようになれば、聴衆に対して失礼になるというのです。そうかといって年取った方々に、「私が若い人々に話したことなので、少し引っかかることがあっても御理解くださらないと」と、言うこともできません。

 機関車が走るとき、小さなものが前にあればぐっと押し進むのと同じように、ここに立って話をするときも、何かを解決すべき重要な内容があれば、み言をそのように話すしかないのです。もう、これを見て、あれを見て、やってもすべて駄目だというのです。皆さんはそれを知らなければなりません。また、婦女子たちは、私が男性たちについて話をするときも、絶対に眠ってはいけません。(三九―一五〇)

 説教する時に恵みを受ける人と恵みを受けられない人がいますが、その間隔をどうやって狭めるのかが問題です。その間隔を狭めるためには、恵みを受けた人を動員し、そうできなかった人の土台を整えてあげるようにしなければなりません。すなわち、恵みを受けた人が、そうできなかった人のために精誠をささげなければなりません。(二三―二四九)











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