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第五節 十一条生活

P284
一 お父様の物質観

1 お父様の物質観

 皆さんが統一教徒として知らなければならないことは、今まで自分が持っていた物品、あるいは、自分の所有の財産は、自分がしばらく管理する過程にあったということです。すなわち、皆さんは管理人なのです。各自がよく管理して、神様の前に奉献しなければならないこの万物は、真なる父母の懐を経て、神様の懐に帰らなければなりません。言い換えれば、神様のものであると同時に、真の父母のものであるという過程を経ずしては、自分のものにはならないという事実をはっきりと知らなければなりません。(二三―三三四)

 今日、堕落した人間は、そのような世界に転換して入っていくので、「所有」ということが大きな問題となります。神様のみ旨から見れば、個人的所有よりも、国家的所有を主とするのが、み旨の前に近いのだということを知らなければなりません。このことを、悪なるサタンがまず知って、個人的所有権から共同的な所有権に、神様を抜き取ってしまったのが共産主義です。そうして、私の体と心と物質が共同所有なのですが、目的のないものではなく、神様を中心として、主体と対象という目的関係において、完全に一致することのできる所有権を連結させていくのです。このようになれば、神様を私が所有するのです。物質の代わりに神様を所有するようになれば、物質のすべてのものはもちろん、人間の体と心の完全な主体を所有するようになるのです。(一九七五・一・六)

 人間が責任を完遂し、神様が協助する時には、再創造の原則によって、天使より良くならなければなりません。天使を支配すべき主人がアダムであり、また、万物を主管すべき主人がアダムであり、自分の体を支配すべき主人が心であることを知らなければなりません。皆さんは、まず自分の体が万物を主管できるようにしようと思えば、自分が自分の体を支配しなければなりません。分かりますか? 体を支配できる立場に立つようになれば、万物がついてくるようになるのです。なぜですか? 完成したアダムの前には、万物が支配を受けなければならないのが天理原則であるからです。堕落したアダムとなることによって、万物と離脱してしまいました。人と万物と、良心と心と、すべてのものが分かれてしまったので、完成したアダムとなる日には、万物であるお金は、自然に生ずるのです。(一九七六・二・二二)

 物質を所有して、何をするのですか? アダムを創造するのを協助しようというのです。アダムの創造とは、来られる再臨主のために、全部、再投入しなければならないということです。ですから、血と汗を流して創造した実力基盤の上に立って、自分の所得を消費させるべきであり、そうでなければ罪です。これが、原理原則のとおりにつくられているのです。(一九七六・二・一)

 今まで、人間が復帰されるのに、万物がどれほど多くの貢献をなしたか分かりません。また、万物と人間が一つとならなければ、お父様の前に行くことはできません。(二三―三六二)

 宗教を中心として見る時、神様が成されようとするみ旨と、このお方が成されようとする世界とは、どのようなものでしょうか? その問題を追求してみればみるほど、その世界は、物質を主とした世界ではないということを知ることができます。なぜでしょうか? 本来、物質的世界は、神様から始まったので、神様は、その世界を必要としないのだというのです。創造主である神様は、この地球を中心とした圏内で成された物質など必要としないのです。神様は、地球の何億千万倍になる大宇宙という膨大な物質を、既に保有しておられるからです。ですから、私たちが地球に生活しながら貴重に思って重要視する宝物、すなわち、金銀、財宝のようなものは、神様の前に少しの問題にもならないのです。この地球自体は、問題にならないというのです。(二八―一八四)

2 万物(お金)の願い

 霊的に見れば、すべてのお金は不平を言っているというのです。「私は、アメリカのお金になる前には、誰それのお金になるのは嫌だ7」、「では、お前、アメリカのお金になって何をするの?」と言えば、「世界のお金になる」、そう言うのです。アメリカのお金になる前に、ミスター誰それのお金などになりたくないというのです。「それで何をするのか? それで何をするの?」と言えば、「ああ、神様のお金になるために……」と言うのです。それで、レバレンド・ムーンは何と言うのでしょうか? 「それでは、お前の家から、アメリカと、世界と、神様と、橋を架けてあげればどうか?」と言えば、「ハハハ、それは歓迎します」、このように言うというのです。

 お金に、「お前たちの主人たちが、少しずつだけ、ただの十一条でも、うれしい気持ちで、祝福してあげる気持ちで、これを出す日には、お前たちお金が、全部家庭を越えて国と連結され、世界へと橋を架けることができる」と言うのです。そのすべての人のお金をもって祭事をささげるのです。お金をささげて祭れば、お金が解放されるのです。お金が「今まで、お金を全部神様の前に連結させて祭事をした人はいない」、そう言うのです。それで、レバレンド・ムーンが「おお、それでは私たちファンダレイジング・メンバーが、そのような祭事にささげるお金をそろえるために募金に行くので、彼らを待ちなさい」と言えば、「はい、待っています」と言うのです。

 お金を集めに行くのに、誰が悪口を言っても絶対に逃げてはいけないのです。不平を言ってもいけないのです。それが、祭物を準備する人々の態度です。そうして、みんな血を流さなければなりません。お金が血を流さなければならないというのです。それを誰が流れるようにしてあげるのですか? 私が、流れるようにしてあげるのです。私たちが、流れるようにしてあげるのです。

 それでは、このお金をどこから集めるのかというのです。その、こじきからも集め、大統領夫人、僕、罪人、器量のいい人、ごみ箱を片づける人、盗賊たち……。それで何かといえば、全世界の悪いお金の中から、復活したお金として持ってくるというのです。そのお金を、私のものにすることはできないというのです。祭事をささげてから祭司長のお金になるのであって、祭事をささげる人は、一文でも手をつけてはいけないというのです。ささげて、そののちにこそ、所有が決定されるのです。お金とは何かといえば、世界のために神様のために祭物として使うものです。

 お金は、万物を身代わりするものなので、そのようにすることによって、すべての万物が嘆息することなく、天のみ国に行ける道が開かれるのです。それで、しだいに天の側に分かれていくというのです。そうなれば、どのようなことが起こるのでしょうか? このお金を間違って使う家庭はすぐに滅びてしまい、そのような国もすぐに腐敗して、滅びの道に行くというのです。お金を間違って使えば、家庭が破壊され、あらゆることが起こってくるというのです。ですから、お金のために闘ってはいけないというのです。先生が、お金を持っているのに皆さんを助けないからといって、「ああ7 先生はなぜ私たちを助けてくれないのか? 私たちをなぜ助けてくれない? 私たちにファンダレイジングをさせておいて、自分の思いどおりにだけして……」、そのように言ってはいけないというのです。祭物をささげたあとに、祭物を探していく道理はないのです。探していく道理はあり得ないのです。それらは、もっと高いことのために、その責任者がもっと高いことのために使えば、それでいいのです。それを低いことのために使いはしません。皆さんのために使わなくてもよいというのです。(一二五―一八八)

3 所有の決定

 私のものはあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものだという、これが統一思想の主流です。(一九七二・六・四)

 堕落することによって神様の宝座の下までサタンが侵犯し、堕落によって、私たち人間の血統、すなわち血筋にまでサタンが侵犯し、堕落によって万物まで、サタンの所有になってしまいました。神様が造られたもの全体が神様のものになることができず、人間のものにもなることができず、怨讐のものとなってしまったのです。ですから、これ以上の悲しみが、どこにあるでしょうか? (一四―二七〇)

 今日、すべての被造万物は、サタン圏内にいる、サタンの子女たちを通して主管を受けてきたので、サタンのものだという立場に置かれています。これをすべて、神様のものとして復帰させなければなりません。復帰路程の原則的な基準から見るとき、万物はまず人類始祖のものにならなければなりません。もちろん、神様のものとなるのは言うまでもありませんが、神様が人間の前に下さった祝福の基準を中心として見るとき、人間始祖のものにならなければなりません。すなわち、堕落していない善の父母のものにならなければならないのです。(二三―三三二)

 堕落は、自分のものをつくろうとし、それを自分が所有しようとするところに由来しています。神様とメシヤが来られるにもかかわらず、このようにしたなら、必ずサタン側になるのです。サタンの素性を引き継ぐその立場に帰ってしまうのです。それで、従順の道理を通さなければならないというのに、可能性がほとんどないというのです。堕落した世界の染みついた因縁が残るようになるものなのです。

 皆さんは、皆さんの所有物を、神様のために使おうというとき、どのようにしますか? 私は夢にも、今まで私が稼いで得たものを、私のものだとは考えません。(三〇―一〇)

 私たちは、サタンのものになる前に神様のものにならなければなりません。それでは、皆さん! 統一教会は誰のものですか? これは先生のものですか? これは先生のものではなく、神様のものであるので、これを私のものだという人は盗賊です。神様のものになったあとに、アダムのものとなるのが復帰であるので、そのような歴史を反復するのです。ですから、皆さんは、すべてのものを神様にささげなければなりません。昔、イエス様にパリサイ人たちが税に納めるお金を持ってきて、「これは誰のものか」と言った時、「税金を納めなければならないが、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ二二・二一)という言葉があります。

 さあ7 皆さんが持っているものは、誰のものですか? サタンの所有物であるので、神様のものになるためには、物と人とが一つになって、人の愛を受けるものとなってこそ、神様が主管するのです。何のことか分かりますか? 本来、堕落しない世界で完成したアダムが、神様の愛を身代わりする主人となって愛するものとなってこそ、神様のものとなるのです。

 皆さんが知らなければならないのは、神様が愛することのできる祭物に対する、蕩減条件を立てなければならないということです。ですから、神様のものとするためには、この上なく愛さなければならないのです。このように見る時、イスラエルは全世界を代表するサタンとしてつくられたのです。選民がいるように、皆さんには選物がなければなりませんが、そのようなことは初めて聞いたでしょう? その選物は、すなわち祭物として、すべての万物を代表するものです。

 皆さんの家庭であれば、家庭のすべてのものを代表して、私の家のものは神様のものであると考えなければなりません。この上なく愛してこそ、堕落しなかったアダムの主管圏内にある物と人間が一つとなり、主人についていって死ぬとしても、その主人の前に死のうというのが原則です。それでこそ、神様のものとなるのであって、「ああ、主人が私の首を切ろうとする」と言って、足で蹴るようなことがあれば、それは祭物となることはできないのです。(一九七五・一・一)

 私の体、私の心、私の理念、私の心情、このすべてのものが、私のものから始まったものは一つもありません。私自身を深く掘り下げて究明してみれば、先祖が連結されて出てくるようになり、この因縁に引かれて巻き込まれるような立場にいる私自身だということを考えるようになるとき、自分をおろそかに考えてはいけないのです。

 私自身は、私のもののようでありながら、私のものではありません。この民族の前には民族のために送られた選物であり、家庭の前には、家庭のために送られた選物であり、夫婦においては、相対のために送られた選物であり、天地、全世界においては、各々それらのために送られた一つの選物だということを、皆さんは知らなければなりません。(八―一二)

 個人のものよりも教会のものが重要であり、教会のものよりも国家のものが重要であり、国家のものよりも世界のものがもっと重要です。これからのすべてのものは、最後に世界のものとならなければなりません。でありながら同時に世界的な神様のものであり、世界的な真の父母のものであり、世界的な真の子女のものにならなければなりません。すべてのものを、そのような物質として復帰させるべき責任が、私たちにあります。これを、皆さんは、「万物の日」を迎えるたびごとに、徹底的に感じなければなりません。(二三―三三六)

 将来、統一教会が、どれほど裕福になるか分かりますか? 前に語った公式を見れば、自分が持っているものは、私のものとなる前に神様のものにならなければなりません。そのようにして帰っていく時は、自分一人神様にすがって帰っていくのではなく、僕の僕から、養子としてささげなければならないし、養子は息子を通して、息子は父母を通して、父母は神様の前に返すのです。アダムとエバが、父母のものを失ってしまうようにしたので、それを探して返さなければならないのです。

 ですから将来、このような原則は真理に間違いないものであり、これが歴史的実証として発展し、適応される日には、世界のすべての万物が、真の父母の手を通して神様に帰るのです。アダムとエバが、父母のものを失うようにしてしまったので、それを探して返すのが、蕩減復帰の原則です。ですから、この地に主が現れれば、全体を統一することができるというのが、理論的結論です。(一九七五・一・一)

 最初は物質祝福時代を経て、人間祝福時代が到来し、その次に神様を中心とする心情祝福時代が来るようになっています。(一二―五九)











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