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三 十一条

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1 献金に対する本来の基準

 創造された当時には、すべての万物は、アダムの所有として決定されたのですが、堕落した以後には、アダムの所有決定権はないので……。しかし、有り難いことには、蕩減というものがあるのです。蕩減するためには、蕩減条件が必要なので、アダムの蕩減条件のための所有物が必要だというのです。その条件を立てるために、統一教会は、もてる精誠を尽くすのです。迫害を受け、悪口を言われ、鞭を打たれ、鼻血が飛び散り、骨が折れ、生死の境に入ったとしても、そこで精誠を尽くして、血と涙を流す。そのようにして所有権を獲得していかなければなりません。

 何、十一条? こじきがおならを屁るようなことを言うなというのです。十一条が何ですか? 本来なら一〇〇パーセントささげるとしても、あなたの血の代価をプラスしなさいというのです。あなたの心と体の、すべての津液(注:生物体内からしみ出る液)を吹き込みなさいというのです。そうして、所有権を受けなければなりません。その所有権を受けてこそ、神様が再び、サタン世界の所有物になる前の、愛の理想の位置に行くことができるのです。物質的内容に心情的内容、人間的心情の内容が介在しない限り、神様と天使が協助して人間を創造できる基盤をつくることはできないと見るのです。分かりますか? ですから、私たち統一教会は、それを全部清算せよというのです。(一一三―四〇)

 それでは、どのように経済問題を解決してきたのでしょうか? 信徒たちによって、信徒たちが自分の生活費をいくらか削りささげる、このようなことをして解決してきたというのです。

 けれども、自分が使うところから、いくらか献金して、それによって教会を支えるというのは、大変良いことのようですが、大変悪いと私は考えるのです。神様の前にささげるものは、何よりも、自分の生活よりも、自分の全体よりも、先にささげなければならないのに、その何パーセントをささげるというその観念によって、自分の生活が主であり、神様が次の段階に立つようになることが常習化しやすくなるというのです。神様が二番目となるようになり、最後になってしまうというのです。分かりますか? そう思いますか、そうでないように思いますか? (そう思います)。

 ところで、神様が宇宙を創造されて、絶対全能であられるそのような方が、自分に信徒たちがはした金を出すのを見て、こじきに投げてやるようなお金をもって、喜ばれながら、「ああ、福を受ける者たちよ! お前たちは愛らしい宗教人だ」と言って、立たせることができますか? サタンの前に威信が立つのかというのです。立たないのです。献金台を回しながら、お金を出せということをしているでしょう。それは、看板をつけたこじきです。それは何ですか。それは、神様が好まれないのです。(九六―一〇一)

2 十一条の意義

 私たち食口の生活的基準線で生きることができず、それ以下でお父様に侍る時には、天に対して無限に恥ずかしいことと思わなければならないのです。分かりますか? 統一の心情を共にし、天のみ旨を共になしていく食口の立場で、全体ならば全体の生活において、一月にいくらであるという基準、すなわち、たとえていえば、平均生活金額がいくらという金額が出たならば、その金額を中心として豊かに暮らしているような人は、下がらなければなりません。豊かに暮らしている人は、下がらなければならないし、貧しい生活をしている人は、あらゆる努力を尽くして、切り抜けて越えていかなければなりません。そうして、生活基準線をだんだんに高めて、世界の最高文明国家を制覇する時まで、私たちは総団結していかなければならないのです。

 そして皆さんが、今家庭に行けば、その家庭にお父さんの部屋がなければならないし、田畑に行けば、お父さんの田畑がなければなりません。自分の家庭を中心としたお父さんの田畑があって、これからは、必ずお父さんの田畑で収穫した種を取り入れて、お父さんのものとして自分の田畑に種を蒔かなければなりません。

 イスラエル民族の中で、レビ族が十一条をもらって生活していたのと同じように、これから皆さんも、そのようなことをしなければなりません。統一の食口、侍る者として私たちが行くにあたって、生活の十一条を出すことは、絶対的です。それを自分のものだといって侵犯してはいけないというのです。なぜそうかといえば、九は三×三=九、これをサタンが今まで支配したというのです。今日、サタンが支配するこの地上において、この九数を天の前に預けて連結させることによって、神様が主管することができるのです。そうして、十数の位置を探しておくことができるので、私が神様を信じて、九数を引っ張って入っていけば、この九数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離し、切ることができるのです。それで、十一条という言葉が出てきたのです。何となく出てきたと思うのですか? そうではありません。(一五〇―二九九)

 キリスト教の十一条を見てみると、そこには、本当に恐ろしい内容があることが分かります。十一条を出さなければならないという聖書の句節もあります。十のうちの一つを神様にささげよというのです。「しかし、神様が見えるのか? 十一条が何か?」と言う人がいるでしょうが、十一条は何かといえば、一つのみを行って、十まで行こうというのです。もし皆さんが、皆さんの父母の誕生日の宴席や還暦の宴席、あるいは王様の誕生日を迎えてお祝いをするために、牛もつぶし、豚もつぶし、あるものないものみんな作ってささげるといった時、その方たちが、それをみんな食べますか? 食べません。みな受け取りはしますが、全部食べることはできず、極めて少ししか食べることができないのです。しかしこのように少ししか食べられなくても、全部食べられたという条件が立てられるのです。

 これと同じように、十一条は、私が所有している物質の中で、十分の一を神様にささげることによって、全体をささげるという意味をもっているのです。お父様に全体をささげはしませんが、その中から、一つを精誠を込めてささげるということは、そのような意味で価値があるのです。そのように、一つをささげることによって、残った九つも聖なるものとして扱いを受けるようになるのです。このように十一条をささげて生活している人は、絶対滅びる道理はないのです。日がたてばたつほど、その倉庫が増えるようになっているというのです。(三一―二三九)

3 十一条は復帰のための蕩減条件

 今まで、神様が再創造されようとしても、皆さん自身が、神様が所有し得る物質的条件をもたずにいるので、できないというのです。神様が所有することのできる、物質的条件とは何でしょうか? アダム・エバを創造される時に、天地万物を代表して、すべての津液を抜き出して造りました。神様のものとして造られたのです。ところで、堕落することによって、全部サタンのものになったというのです。ですから、これをどのようにして取り戻してこなければならないのでしょうか? 蕩減条件によって取り戻してこなければなりません。あらゆる精誠を尽くして私の体を造ることのできる、再創造することのできる条件を立てて、サタン世界に行って取り戻してこなければなりません。

 それを歴史的に引き継いでいくために、十一条という条件を今まで連結させたのだというのです。これを基盤として、自分の血の代価を支払わなければなりません。イエス様は、血の代価を支払ったでしょう? 蕩減基準とともに。血の汗と涙をささげて、神様の心情と一致することのできる起源を通さずにはいけないというのです。

 心情において、サタンとは何ですか? サタンは、まず第一に自分を考えます。自分を中心とするのです。その次には、自分の所有観念を備えているのです。その次には、自分の愛を中心としたというのです。この三大要素をサタンはもっています。(一一五―六八)

 蕩減をするためには、物質を条件とします。私たちが十一条を天の前にささげる理由も、ここにあります。九数は、堕落世界の数であり、十数は、これを脱する数であり、天の世界の数です。

 万物の種を、堕落人間が先に取りました。それゆえに、これを聖別しなければなりません。イスラエル民族のカナン復帰においても、三年の聖別期間がありました。(一〇―二一七)

 皆さん、試験が好きですか? (いいえ)。それでも試験は必要でしょう? (はい)。試験がなければどのようになりますか? 試験を受けない人は役に立ちません。難しい試験を通過するほど値打ちがあるのです。もう、きょうの話はほとんど終わりです。もうやめても分かるでしょう? 迫害が必要です。堕落した世界では、迫害なくしては、帰ることができないということを、皆さんは知らなければならないというのです。

 それで、物質に対して迫害を受けた、それが何かといえば、十一条です。十一条をしなければ、九つが全部讒訴するのです。物質の迫害……。何のことか分かりますか? 十一条の中で、十分の一にあたるものが祭物となるのです。一番貴重なものが、祭物となるのです。何のことか分かりますか? 祭物は、すべて雄であり雌ですが、若いものです。すべて、初めての愛を通過しなかったものです。昔は、処女を祭物として捕まえて殺したりしたでしょう? 初めての愛、初めての愛で対することのできる、初めての愛を天にささげることのできる、最初の愛を天と連結することのできるものを……。その次に私たちは、物質の祭物を中心として、ここに屈伏しなくてはなりません。カイン・アベルの法度に従わなければならないのです。

 物質祭物時代は、旧約時代であり、その次は何ですか? 人間祭物時代は、新約時代です。そうでしょう? 血を流すことです。昔、旧約時代の祭物も血を流し、新約時代の人間も血を流しました。その次に今は、心情の血を流すのです。これが今の時代です。そうでしょう? ですから、統一教会の皆さんが、心情の苦痛を受けるでしょう? 私たちは、悪いこともしていないのに、なぜ苦痛を受けるのでしょうか? (一〇七―二〇二)

4 十一条をささげる姿勢

 皆さんが、統一教会に入ってきて、蕩減復帰という言葉を学びました。蕩減復帰をするためには、祭物的な条件が必要なのですが、祭物をささげるために、どれほど精誠を尽くしましたか? 精誠を込めた思いがありますか? でたらめな者たちばかり集まっているというのです。思いのままにすれば、どれほどいいでしょうか? 思いどおりにして、神様が受け取ることができるかというのです。とんでもないことだというのです。

 ですから、条件物は私の生命の身代わりです。私の代わりに死ぬのです。ですから、その条件物とは、完全に一つにならなければならないし、完全に愛さなければなりません。愛の対象として対しながら、それが死を受ける時、共に痛みを感じて、心で泣きながら、祭事をささげなければならないのです。アブラハムが息子を捕まえて祭事をささげたのと同じように、心情的に切ろうとしても切ることのできない因縁をもった立場で、断ち切らなければなりません。このような立場で祭物をささげなければならないのです。ですから自分において、一番貴重なものを祭物としてささげなければならないのです。分かりますか、何のことか。物質をささげるようになる時には、皆さんが使って残ったかすをささげれば罰を受けるのです。そのようなことなら、むしろささげないほうがましなのです。

 皆さんが十一条をささげるとき、精誠を込めてしてみなさいというのです。絶対、飢えて死んだりしないというのです。その後孫が、物質に対する窮乏を味わったりしないというのが原則なのです。十一条をささげるためには精誠を込めよ、そのようになっているのです。それが信仰の本質です。適当にやればいいだろう……。それは通じないというのです。祭物は、私の生命の代わりにささげるものです。ですから、一番貴重なものをささげなければなりません。服をささげるときは、自分に何百種類の服があったとしても、その中で一番貴重なものをささげなければなりません。(六三―三三八)

5 十一条は一番精誠を込めた、純なるものでなければならない

 祭物をささげるときには、純なるものをささげますか、使って残ったものをささげますか? (純なるものです)。なぜそうでなければなりませんか? 韓国でもそうではありませんか。城隍堂(注:村の守護神を祀ってある社)のような所で祭事をささげる時、牛を捕まえるならば、雌牛を捕まえてささげますか、牡牛を捕まえてささげますか? (……)。このようなことは、みんな知らないんですね。古代ギリシャや、シリアのような所の歴史を見れば、祭事をささげるときには動物を捕まえてささげましたが、のちには人間も捕まえてささげました。我が国の沈清伝にも出てくるでしょう? 人間を祭事にささげる時、女性をささげましたか、男性をささげましたか? (女性です)。それはなぜでしょうか? これを見れば、統一教会の堕落論と同じです。なぜ、若い純なるものをささげるのですか? 純なるものをささげなければなりません。サタン世界の純なるものを捕まえてこなければならないからです。天の世界の純なるものを誰が奪っていきましたか? サタンが奪っていったでしょう? そうでしょう? (はい)。ですから、神様の前に精誠をささげるとしても、純なるものをもって精誠を込めなければなりません。そうしてこそ、神様との関係を結ぶのであって、使い残したものをもって精誠をささげてはいけません。

 ですから、十一条というものは、一番精誠を込めた純なるものでなければなりません。それが祭物です。このような話をしようとすれば限りがありません。とにかく、祭物をささげるときには、純なるものをささげなければならないということを、しっかり知っていなければなりません。息子を祭物としてささげるとすれば、どんな息子を祭物としてささげなければなりませんか? 憎らしい息子? 希望のない息子? そのような息子は祭物にならないのです。一番良い息子でなければなりません。なぜそうなのですか? 祭物は「私」の身代わりであるからです。(四八―八五)

 皆さんの生活習慣は、このようにしていかなければなりません。一番最初のものは、神様の前にささげなければならないのです。純なるものは、神様の前にささげなければならないというのです。純なるものがない時には、神様が共にいてくださらないのです。新しいものがない時には、神様が共にいてくださらないというのです。皆さんは、それを知らなければなりません。祭物も、他の人の残したものをもってしてはいけません。それは、汚れに犯されてしまうことです。恩恵を受けた人ならば、一遍で分かってしまうのです。それで、不浄な所には、行かせないようにするのです。(三〇―一三三)

 皆さんが献金をするようになる時には……。子供たちが聖日の朝に教会に行く時、「お母さん、お父さん、私の献金、献金!」と言うようになれば、何か、いくらかを与えながら、「さあ、献金だ。日曜学校に献金しなさい」と言います。神様はこじきですか? 物ごいをする人ですか? 教会の牧師は物ごいをする人ですか? そのような牧師、そのような教会はいけません。終わりの日になれば、みんな……。自分の財産の核を出さなければなりません。自分の金庫の一番深い所に置いておいて、銅貨を出そうとするならば、銅銭の金庫を早くから準備しなければなりません。刈り入れをする秋になって、すべての倉に穀物を取り入れる時、献金するお金を、十一条を、別に積んでおかなければなりません。そうして、一年間、自分が出さなければ、息子、娘の一家が合わせて、精誠を込めて、愛の心と兼ね合わせて、祭物としてささげなければなりません。(一六六―七一)

 皆さんが教会に献金するとき、どこかで何かを買って食べて、残ったお金を献金しようと考えてはいけません。そのようなお金は、汚れてしまったものです。また、市場に行って、何か買って残ったお金で献金をするようになっても、神様は、そこに共にあられないのです。(四八―八六)

6 十一条の生活

 これから皆さんは、もっているすべてのもの、時間までも十一条しなければならないのです。過去のように、何か物質だけではありません。もし、家族が十人いれば、家族の身代わりとなる一人を出さなければなりません。そういう基準で進まなければなりません。これから、私たち統一教会食口たちは、十一条ができなければいけません。十一条ができない人は統一教会の食口ではありません。これは、義務的です。天的な義務だということです。もし、そのような生活圏内を脱け出すようになる時には、いけないというのです。

 今日、復帰路程にある私たちは、二つの国に対する立場です。そうではありませんか? 今、天の国もなければならないし……。サタン世界の国を脱け出す過程においては、二つの国の立場にいるので、私たちはこの二つの世界を脱け出すことができないので、韓国の民として生まれたならば、この国の前に税金をささげます。そうでしょう? この国に税金をささげ、その次には、天に十一条を出します。十一条というものは、自分の国のためにささげるものではありません。それは、祭司長、レビ族のために、祭司長の職分をする人々のために、天の数として出すのです。

 今日、このような復帰途上を越えていく過程にある私たちにおいては、十一条ではなくて、十の三条までささげる覚悟をしなければならないのです。一つは国にささげ、一つはこの世の人々に施さなければなりません。復帰過程では、そうしないわけにはいかないというのです。また一つは、天の国にささげなければなりません。十一条の一条というのは、天の責任を引き受けた人として、絶対侵犯してはならないのです。その基準まで覚悟しなければならないというのです。そうしながら孝行と誠を尽くさなければならないのです。

 皆さんが、うどんの一杯を食べるとしても、一人で食べてはいけません。天のお父様に侍っている者として、一人で食べるのが申し訳ないならば、もし、十分にできないとしても、一銭を、一枚でもいいのです。「共にいてくださるお父様の前で、私一人で食べるしかないので、心苦しいのです」と言って、お父様が共に参与してくださる条件を立てて、必ず父母を先にもてなす立場に立てておいて、皆さんは生きていかなければならないというのです。服を買うにも、一人では買えません。そのようなことをしなければならないというのです。(一五〇―三〇一)

 教会の十一条生活も、食口が十家庭いれば、引導者の一人の方を食べさせ生活させなければなりません。そうできなければ、天民権をもつことができないのです。

 十人が生活すれば、天の人一人を扶養しなければなりません。

 十一条は、すべての面にあります。学校も、十教室の中に、一つの教室はかわいそうな子女たちのための無料奉仕の教室として使わなければなりません。

 聖日は十一条の日なので、私の日ではないのです。ですから、天の命令のまま服従する日です。天のものを私のものとして使おうとするのは罪です。

 私の息子の中の一人を天の前にささげなければならないし、そうできなければ、他の人の息子でも、勉強させて天の前にささげなければなりません。

7 献金を受ける方法

 今日、既成教会で献金することを何といいますか? 何か袋を持って通うでしょう? 皆さんはこじきの輩ですか? 私たち統一教会も、献金をそのように受けるのですか? 何、何か調理台を持って受けるのですか? (笑い)(回します)。出ていく時、全部、あの門の前に集めておくのです。全部精誠を込めて、恩恵を受けて行く代価として、感謝献金をさせるというのです。そのようにしなさいというのです。分かりましたか? 出さない人々は帰って……。そんなくだらないお金をもって、それは神様が願わないというのです。精誠を込めたお金、お母さん、お父さんのポケットにあったお金そのままではできません。全部、自分の体に三日以上持って聖別して献金しなければなりません。昼食一食の代価も払えないお金をどこに献金するのですか? 自分の生命、財産を全部ぶちまけなければならないはずのものであるにもかかわらず……。(一六六―三一九)










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