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四 聖塩と分別生活

P312
 聖塩は、「こうじかび」と同じです。物を買う時に聖別し、外の生活をして家に入ってくる時も門の所で聖別するのが原則です。(九―七八)

 聖別したものはサタン世界に分け与えてはいけません。やむを得ない時は左手で与えなさい。(九―七八)

 聖別は「聖父、聖子、聖霊と真の父母と私の名により聖別いたします」と言いながら、十字(北南東西の順)にまきます。(九―七八)

 聖別した不動産などを処分しなければならないときは、班、組、地区の段階を通して許可を受け、処分するのが原則です。(九―七八)

 我々食口たちが聖別して入る地で、すべての地を次第に占領していかなければなりません。(九―七八)

 ノア以後四百年が過ぎて、アブラハムの時代になって三大祭物をささげる時に牛と羊は裂きましたが、鳩は裂きませんでした。裂くということは聖別するということです。裂いて聖別しなければならない鳩であるにもかかわらず裂かなかったので、聖別しなかったので、アブラハムの祭物は失敗に帰してしまったのです。このように裂くことができず、聖別できないことによって、不潔という名詞が皆さんについているということを知らなければなりません。(八―三二〇)

 本来祭物は、壇の上に置いて裂いてささげるのです。祭壇は一つの聖別された地を象徴するとすれば、そこに裂いて置いた物は、分別された物を象徴するのです。

 それで、ここで血を流すということ、裂いて血を流すことは蕩減条件、言い換えれば聖別する、サタンの血を抜く、サタンの主管的条件を完全に清算するという意味があります。

 このように見るとき、旧約時代には物質を通して、物質を聖別してささげたのです。ですから動物だとか、その次に別の品物全部を聖別しなければなりません。心においても聖別しなければならないし、外的にも聖別しなければなりません。内外に聖別しなければならないのです。(九三―一〇)

 皆さんはどこかに行って座る時も、聖塩をまいて座りますか? どうしますか? 心の中で「フー、フー、フー」と三回吹く条件を立てて座れというのです。サタン世界に美男子がいれば「ああ、美男子と一度住んでみよう」そのような思いをもたず、美男子が手を一度握ったとしても「フー」と吹いてしまわなければなりません。聖塩をまかなければならないというのです。心の中で「フーフーフー」と三回吹けというのです。聖塩を三回まけということでしょう。(笑い)(一七〇―二三三)

 これから私たち食口は、すべてのものを聖別しなければなりません。聖別するにあたって聖塩をまいて聖別するのは別に問題はないのですが、御飯を食べたり、そばを食べたり、水を飲んだりする時に、いつ聖塩をもってそのようにしますか? ですからこれからは、どうするのですか? イエス様が復活したのちにフーッと吹きながら「聖霊を受けよ」と言ったのと同じことです。アダムを造っておいて鼻に生気を吹き入れて実体の新しい生命を誕生させたのと同じように、皆さんも生命の実体を身代わりすることのできる息子、娘がいれば、そのようにしなければなりません。これからは水を飲んだり御飯を食べたりする時には、吹いて食べなければならないというのです。

 韓国の風習が変わっているというのです。そうではないですか? 水などを飲むにも吹いて飲みます。また吹いて座ります。大概そうでしょう? それは天がこの民族に、実践することのできる自然的な良心を動かして、私たちに一つの風習として残すようにしたのです。これはみな、偶然にこうなったのではないのです。ですから、心でいつもそのような聖別礼をしなければなりません。

 私たちは三時代、蘇生、長成、完成、六千年の長い時代を、三時代を経ながら汚れたものを聖別するためには、三回吹いて食べなければならないというのです。どこへ行っても、皆さんが小便をするとしても、そのようなことを今や、みなしなければならないというのです。どこに行ってもみんなしなければならないというのです。

 これから、私たち食口の家が聖塩をまいて聖別した家であるという場合は、表示をしておかなければなりません。表示をしなければならないのです。聖別した地だというならば、皆さんにそのような地があるならば、表示をしなければなりません。私たち統一信徒がその聖別した地を通り過ぎることがあるとすれば、表示がついたその地を通るときには、必ず自分の体を払って通り過ぎなければならないというのです。

 そうして、私たちが歩いている地上のすべての地が聖別された所でなければなりません。そのような所で私たちは生活できなければなりません。そうすることのできる環境をつくらなければなりません。事実は、地でも何でも全部燃やさなければならないのです。原則は全部燃やさなければならないのです。ですから火で審判するということに意義があるのです。

 イスラエル民族は、昔、汚れたものは聖物としてささげる前に、火を焚いておいて、火を通していくようにしました。旧約時代を見れば、そうではないですか? しかし、そうすることができないので、聖塩をもって聖別の条件を立てて、天的な条件を立てて、これを補っていく役事をなしているのです。今皆さんは、それをしているでしょう? (はい)。

 皆さんがあることをするときはそうです。四時四節、春夏秋冬いつでもそうです。もし、あるものを神様の前に、あるいは真の父母の前にささげようとするとき、自分がカインの立場に立つとか、ある誰かがアベルの立場に立つとか、二つのうちの一つは、信仰の同志を求めなければなりません。求めるときには、世界的な父母の前にささげるのですから、天と地全体を通してこの相対を求めなければならないのです。(一五〇―三〇三)

 民族を生かすときには、どこで生かすのですか? 高楼巨閣の高い権威の上で生かすのですか? 死ぬ立場は落ちる立場なので、落ちる立場では死ぬ人を生かすことはできないのです。統一教会は下がっていく運動をするのです。「下がっていこう! 食べる立場を避けていこう。着る立場を避けていこう。私が好む立場はサタンが好む立場ではないか。ここに染まらないためには、隔離された立場に行こう」というのが統一教会が行く道です。

 皆さん、私たちは食べたり着たりすることを中心に、聖別するために聖塩を使っています。私たちの国がどこにあり、この地で収穫したものを聖塩で聖別しないで食べることのできる神様の息子がどこにいて、自由な版図がどこにあり、この民が互いに足を下ろして聖別せずに生きることができる地はどこにあるのですか? 皆さんが聖別儀式をする時、聖塩を使うたびに「こいつ、サタン」と言って、歯ぎしりをしなければなりません。

 三千里半島が神様の前に抱かれることのできる日、三千万民衆、この国この民族が将来来られる主の名前を身代わりし、世界万国を身代わりして立つことのできる民族になって、神様の前に一時にささげることのできる民族になるならば、この民族は、世界の祖国になることができるというのです。(四八―二五三)











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