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五 牧会者の公的生活

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1 牧会者の公的な生活

 先生が皆さんに話をする時、タイプや姿が見目よく見えるかもしれませんが、そのために何週間、あるいは何カ月の間を身動きもできずに、拘束を受けて生きる生活をしています。これは私的な生活ですか、公的な生活ですか? 公的な生活だというのです。思いのまま生きればどれほど良いかというのです。もし先生が思いのまま生きたとすれば、皆さんよりもっと素晴らしく生きることができるでしょう。私は何をしても誰にも負けません。素質がいくらでもあります。

 事実、この宗教指導者の立場がどれほど大変な立場か、皆さんは分かりません。すべての村の人々の目を気にしなければならないし、この上なく醜い罪人の目も気にしなければなりません。もちろん、優れた人の目も気にしなければなりません。人の目の瓶の中に入って生きるということです。ですから「ああしても、こうしても、どうしても大変なことになる」という大院君時代の言葉がありますが、これはそれよりも大変なのです。夜昼がありません。夜だからといって神様が見られないですか? 夜昼ああこうして、これは大変な仕事だというのです。このような大変な仕事をして生きているのです。生きていけば方法が出てくるのです。

 そのような観点で皆さんが生きたとすれば、神様は誰を通して出ていかれるのでしょうか? そのような人を通していかれるのです。より公的な世界に向かっていく民族に、神様が行ったり来たりされるのです。何のことですか? 神様はより公的な道を行く民族がいれば、その民族の所に包みを包んでいかれるのです。また、それよりもっと公的な民族がいれば、その方に方向を備えていかれるのです。神様がこうして行ったり来たりされるのです。(三一―二五四)

 世の中をじっと見れば、公職に立っている人はかわいそうな人だというのです。あらゆる精誠を尽くしても、もし、み旨の前に失敗をして私によって千年の功績が駄目になってしまったらどうなるでしょうか? 借金をした人が、お金がないのに借りを返さなければならない時が来て、というそのような心境だというのです。そのような生活を今までしてきているのです。(四六―五五)

 先生が生きている時は先生の歴史を書きませんが、先生が死んだのちには先生の歴史を書くのではありませんか? ですから、原理に公認され得ないことをしたならば大変なことになるのです。なぜこのように生きたのかということを裏づけることのできる原理的内容があるかが問題です。これをもし誤ったなら、今まで成されたものをすべて失ってしまうのです。ですから責任者は難しいというのです。

 責任者はどんなに疲れても先には寝ないのです。みんなを寝かせておいて、寝なければなりません。祈祷する時も一番あとまでしなければならないし、信仰生活をするにおいても、食べれず、着れず、生活できないながらも、精誠をささげなければならないのが責任者の立場です。そのようにすれば「滅びよ」と言っても滅びることができないのです。(三三―一六九)

 先生は雪岳山に行って遅く帰っても、朝早く起きなければなりません。責任者はそのようなものです。命令を受けない罪人の心情を抱いて生きる人が責任者です。御飯を食べておなかがいっぱいであったなら悔い改めなければなりません。十分に寝てしまったならば、寝床で起きるや否や悔い改めなければならないのです。(六二―一三三)

 皆さんが箸を持って御飯を食べる時も、この食べることが公的か私的かを考えなければなりません。大韓民国三千万の民族のために御飯を食べ、世界の人類のために御飯を食べなければなりません。大韓民国のための世界をつくろうとすれば大韓民国は滅びます。アメリカのための世界をつくろうとすればアメリカは滅びます。世界のためのアメリカとなってこそ栄えるのです。ニクソン大統領の時代になってアジアのためのアメリカとなった時は希望がありましたが、アジアから後退する時には、滅びるのです。その行く道がどこであるかを考えてみなさいというのです。何であっても、全部惨敗をして滅びるのです。私がこのようなことを早くから話しました。アメリカが援助政策を減少させれば、その大統領の時から後退するようになるのです。ケネディ大統領がそうでした。それでそこから悲運の歴史が始まったし、彼はまた、寿命を全うせずに死んだのです。

 それならば、死んでも滅びない人々はどんな人々でしょうか? 死んでも世界に貢献することのできる群れとはどんな群れですか? 公的な人々です。公的な生活をした人々です。そうでしょう? 孔子、釈迦、イエス様は何のために生きたのですか? 彼らは国家主義者たちではないということを知らなければなりません。世界のために、未来の世界のために生きて死んだ人々です。理想的な世界のために自分の生命を失っても、現実の矛盾したすべてのことに積極的にぶつかり、その世界を尊重視して生きてきたので、聖賢の班列に同参することができたのです。(三六―七四)

 朝初めて足を踏み出す時も、公的な一歩であるのか、私的な一歩であるのか反省しなければなりません。そして一日の仕事を終えて枕の上に横になる時、公的な一日を送ったのか、私的な一日を送ったのか反省しなければなりません。あるいは一年を中心として、公的な生活をしたのか、私的な生活をしたのか、一生を中心として公的であったか私的であったか反省しなければなりません。(三九―七六)

 他の人のために、公的なことのために、疲れも知らず走って、いつ寝るかも知らず、ぐったりするように寝て朝起きれば、どれほど身軽いか分かりません。そのようなことを見れば「ああ、天の道はこのように行くのが原則だなあ」という思いになります。そうですが「ああきのうは三時間しか眠れなかったので、きょうは五時間、六時間は寝なければならないのに」と思いながら寝て、起きるようになれば腰が痛いし、全身が重いのです。ですからそのような考えをするなというのです。

 寝る時間を計算して「きょうは寝れなかったので、あすはもっとたくさん寝なくては」と思うなというのです。皆さんはそうでしょう? 「聖日の朝は断食をするから土曜日の夜には御飯をたくさん食べよう」と言うのです。(笑い) そのようにする断食は意味がありません。むしろ断食をしないほうがましだというのです。断食をするからといって前の日に御飯をたくさん食べれば、おなかがもっとすくというのです。そのように食べてみなさいというのです。胃を大きくして、突然すくようになるから、おなかがもっとすいて仕方がないのではないですか? (笑い)(四四―一六一)

2 万物に対する公的な管理法

 被造世界のすべての万物は、ある特定の個人に固着している所有物ではないということを皆さんは知らなければなりません。自分の地だといって、それが良いと自慢し過ぎれば滅びるのです。なぜそうかといえば、それは公的なものであるからです。私はただそれを管理しているのです。天理の法に従って私が公的な管理人として管理するようになれば、永遠に管理することができますが、管理法に従わなければ滅びるのです。しかしそのような公的な管理法、万物に対する公的な管理法を、この地上の誰も知らないでいるのです。(三一―二四七)

 皆さんは、万物を公的に管理することのできる人とならなければなりません。皆さんが御飯を食べる時、御飯に対して「ありがとう」というあいさつもなくやたらに食べたと、この世の御飯たちがみんな動員してデモをする日には、どうするのかというのです。御飯が人間の口という口には、みんな入らないことに決め、同盟罷業をしたならどうなりますか? そのようなことを考えてみましたか? 植物なので、そのようなことはあり得ないので幸いですが、もしそうなり得たなら皆さんはどうしますか? 人間がそのような状況にいれば同盟罷業しますか、しませんか? 万物も同じだというのです。

 ですから、御飯を食べるときには、その御飯の価値を知って食べなければなりません。「お前はどんな人の口に入ることを願うのか、お前はどんな顔をした人の口に入って骨となり肉となりエネルギーとなって、善なる世界のために何を残したいのか?」、このような思いをもって御飯を食べなければならないというのです。御飯がどろぼうの腹の中に入ることを願いますか? 御飯が腹に入るのは同じですが、ただ一つぶの御飯つぶでも、善なる人に入ることを願うのです。より公的なことを願うというのです。

 空気も同じです。もし空気が総団結して五分間だけ世界的に罷業を起こせば、世界人類は一時に空気に服従するでしょう。もし神様が世界を強制的に屈伏させようとすれば、空気を使って屈伏させることができるのです。空気を抜き出してこの世を真空状態にして、一分、二分、三分、五分だけそうしておけば「死んでも降伏しますので」と言うのです。皆さんには空気が恐ろしいのです。公的なものは恐ろしいのです。公的なものは個人を殺すことができます。最近都市の空気を汚染させないようにしようといいますが、当然そうでなければならないのです。きれいにしなければ審判されます。また、水もきれいにしなければなりません。このように万物は、全部公的なものです。

 太陽は生命の根源であり、無限なる価値をもっています。私たちはそのような太陽の光を、無料で受けることができます。太陽の光を買おうと、お金を準備して持って歩いている人を見たことがありますか? また、太陽の光をもらったと一文でも払った人を見ましたか? この太陽の光を売るとすれば買いますか、買いませんか? 体を張ってでも買うでしょう。水とか空気とか光とかいうすべての自然物は、皆さん個人のものではありません。このような万物を自分のものだと考える人はどろぼうです。(三一―二四八)

 それでは信仰者として万物に対する時、どのように対するべきでしょうか? あくまでも公的に対さなければなりません。公的に対するのに、その物が十の価値があるとすれば、十だけの価値として見るのではなく、それをどのように千の価値として見るか、どのようにより価値のあるものとして見るかということが問題です。この物の価値が微々たるものだとしても、そこに神様が介在していると考えれば、その価値を千万の比重に上げることができるのです。私が愛するこの物の中で、神様が関係しているというとき、この物の価値は無限なる比重をもって出てくるのです。

 そのような心で物に対するようになれば、その万物が本当に喜びます。皆さんの生活圏内でとか、皆さんの心の世界で感じる中で、そのような感応が訪ねてくるようになるというのです。そのような心をもって仕事をすれば、その結果は必ず自分一人を見つめていたよりも、もっと立体的な価値の内容を感ずるようになります。(四〇―二八二)

 皆さんは公的な管理を尊重視しなければならないのです。物であれば物を尊重視しなければなりません。先生が幼い時、ノートを使う時には線の入った部分から使うのではなく、一番上から使いました。ある時は一枚に二回ずつ使ったりもしました。そうすればノート一冊をより多く使うことができるのです。物を大切に使わなければならないのです。

 先生は先生自身に対しては本当にけちです。今まで洋服一つ気軽に注文して着てみたことはありません。横からしきりにそのようにせよと言われてから初めて着ました。一人で気軽に店に入って服を注文して着る趣味はありません。横でしきりに注文して着なさいと言うから注文して着ると、横で賞賛もしてくれるし、すてきだと鑑賞してくれて初めて良いと思うのです。一人で注文して着て、すてきかと聞くのは、自分で自慢することです。そのようなくだらないことを先生はしません。先生の生理がすべてそうなっているのです。

 神様はどんな人を好むのでしょうか? 公的な立場で公的な管理を生活哲学にしていく人を好みます。万物に対しても、やはり同じです。これが天地の道理であり、天法だというのです。

 この世の人は大学に通ったといって、自分を中心として高慢に「こうで、ああで」と言いますが、先生はきまりが悪くてそのようなことはできません。ぎこちなくてできないのです。統一教会の先生だと言って皆さんがあいさつしに来ますが、そのように傲慢ぶった人が来れば、その場からさっさと逃げていきたくなります。今もそうです。ある時にはあいさつする人の心が直感的に感じられる時があります。そのような時はあいさつを受けても気分悪く受けるのです。「あいさつするのに気分が悪いなんて」と寂しく考えるかもしれませんが、そんな人があいさつすれば気分が悪いのです。

 けれども先生は、精誠を込める人にはどうすることもできません。ですから今まで統一教会を治めてきながら、二人の人がいれば、その二人のうちどちらの人が優れているかという問題を解決しなければならない時には、顔の良さを見るのではなく、心がどこに向いているかということを見ました。すなわち、私的であるか、公的であるかということを見たのです。(三一―二六〇)

 皆さんは万物に対する公的管理法を知らなければなりません。また人に対する公的管理法も知らなければなりません。その父母より公的管理法を先に知るようになる時には、その息子を奪ってくることができるのです。分かりますか? 統一教会の文先生が今、そのようなことをしています。他人の息子、娘を連れてきて先生の思いのまま結婚させました。三十六家庭を祝福してあげる時、彼らの父母が来て「この世にそんな法がどこにあるか、私たちの息子、娘の招待状を誰が出したのか」と騒ぎました。ですから「先生が出した」と堂々と言いました。彼らの父母より、先生がもっと公的な立場に立ったからでした。

 私はその時「あなた方は今は分からないでしょう。しかし少しだけ過ごしてみなさい。そうすればあなた方が得た婿や嫁より、良いか良くないかを知ることができるでしょう」と考えました。それほどたたないうちに、統一教会の文先生は、他のことはみな間違っているが、自分の婿や嫁は良い人を与えてくれたと認めました。それは弁明する道理がないのですからね。(三一―二五六)

 先生は皆さんに、統一教会の文先生のために生きよとは絶対教えません。先生と皆さんが合わさって国と共に、世界と共に生きようと教えるのです。誤った教えは滅びるようにさせるものなので、全部荷物をまとめて出ていってしまうというのです。もしその教えが誤っていなかったなら、荷物をまとめて出ていったとしても帰ってこざるを得ないのです。実際に出ていった人々が、今戻ってきているではないですか?

 今まで先生がこのような道を半世紀以上歩んできながら、追われ追われてきましたが、ある時、私を迫害したその人々に「お前たちが迫害したことの千倍万倍に賠償すれば解放されることができる」と言うようになれば、強制で命令しなくても、我も君もと、そのようなことをしようとする時が来るのです。苦労によって公的な価値をより現すようになったならば、その環境も価値があるようになります。そのようになれば、環境は中心の前に自然に吸収されるのです。(三一―二五三)

 万物を公的に管理することができる時代が来なければなりません。その時代が来れば、地に肥料を与えなくとも万物がよく育つかもしれません。万物も毎日のように笑い声を聞きたいでしょうし、泣き声を聞くのを嫌うのです。皆さんの中で泣き声を聞きたい人は手を挙げてみなさい。先生は嫌いですが、皆さんは分かりません。泣き声を聞くのが嫌なようですね。私に似ていますね。では笑い声を聞くのが好きな人は手を挙げてみなさい。全部挙げますね。では神様はどうでしょうか? 神様もやはり笑うことを好まれます。みんなが笑って生きるようになっています。

 神様が善であるならば、善はどこにあるのですか? 笑って生きるところにあるのです。すべてのことを笑いで消化させることができる、永遠な権限をもった主体としておられる方が神様です。神様はどんなに悪いことも善なるものとして消化して、その悪いことを良いことだと言うことができるのです。「そのようになれば天地の理法が変わってしまう」と言うかもしれませんが、そうではありません。人々は今、「この世の道理は、すべてがよく生きるようになってはいない」と言います。しかしそうではありません。先生はそのように主張します。(三一―二五九)

 皆さんがこのような原則を中心として公的な道を歩んでいくようになれば、絶対滅びません。絶対滅びないのです。ですから、皆さんは物を公的に管理し、人に公的に対し、天に公的に侍りなさいというのです。これをよくする人々が集まって夫婦を成したなら、その家庭を中心として新しい民族と新しい世界が形成されるのです。したがって、より公的な生活をする皆さんとならなければならないのです。(三一―二六一)

3 牧会者の公金管理

 公金は種です。蒔けば実を結ばなければなりません。結ばれなければすべて奪われてしまいます。

 お金を扱うにおいては、人格が先立たなければならないし、言行心事が一致しなければなりません。

 自分の私的な物質を公的な物質よりもっと重要視する人は、天道に違背する人です。私的な自分の人格を公的な人格よりもっと重要視する立場は、み旨に違背する立場です。(五一―二九一)

 信仰はどこへ行っても平準化しなければなりません。統一教会はどの教会に行っても指導方針などすべてのことがまばらになってはなりません。教会長が献金を受けて、全部一人で使ったりしてはいけません。教域長であれば、教域長の管理のもとで処理をして、すっきりと平準化するようにするためには、献金をしなければなりません。上部に献金する伝統がなければならないというのです。今していますか? (はい、しています。十一条すべてします)。(一七一―九)

 私たち食口たちは必ずこれを知らなければなりません。精誠をささげた献金や礼物に対する時、その価値を知らずに対すれば、その精誠をささげた礼物から審判を受けるという事実をはっきり知らなければなりません。

 王様も自分の身持ちを誤ったならば、すなわち精誠を込めた人にむやみに対したなら、滅びるようになるのです。また、その王様に従った同僚たちも、その人に反対すれば天の逆賊として追われるようになるのです。ですから先生は、そのように精誠を込めた人に軽率に対さないのです。(一八―一四三)

 皆さんが先生に献金をしたりしますが、先生はそのお金を受けません。先生は受け取らない主義です。皆さんがそれを集めるためにどんなことをしたのですか? それを私が知って、それに対して恥ずかしくない主体的な立場に立たなくては受け取れないというのです。心の姿勢がそうであるので与えたのちも、また与えたい心が神様に宿っているのです。分かりますか? ところで、人が来れば手のひらばかり見つめるのですね。何を持ってきたかと。そのような教役者はいけないというのです。皆さんはそれを知るべきです。(五一―二七六)

 私は数億のお金を持っていますが、そのお金を私のサイフに入れようと考えたことはありません。私はある時はそのようにお金のことを口癖のように言いますが、それは私のために使おうとするのではないというのです。私たちや祖先たちが精誠を集めて残した土台の上に、後代に残すもののために……。先生が生きている間にしたことは、歴史的遺物になるのではありませんか。ですからお金があれば何を残すでしょうか? 後代のためのものを残してあげなければならないのです。君たちを苦労させることは、後代のためにさせるのです。皆さんはこれから何か残していかなければなりません。けれども皆さんができないので、私が代表的にするというのです。私のサイフにはお金はありませんが、一日に何百万、何千万ウォンも使っています。そのようなことをしているのです。それは何のためですか? 皆さんのためにするのです。未来のためにするのです。(五一―二八八)













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