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第六節 牧会者と教会生活

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一 教会と教会生活

1 教会とは何をする所か

 皆さんは社会に忠誠を尽くさなければならないし、教会に忠誠を尽くさなければならないし、家庭に忠誠を尽くさなければなりません。それならば教会は何をする所なのですか? 人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので教会が必要なのです。家庭と社会がすべてではありません。大学を出て何かの博士学位を受けたからといって、それで人格が復帰されるのではありません。それで教会が必要だというのです。

 先生を中心にして、新しい父母の因縁を求め、新しい子供になって、家庭から新しく収拾していきながら、新しい世界に向かっていかなければならないのです。その足場になるのは何ですか? 教会です。教会を足場にせずには行けないのです。新しい家庭も教会を通して出てくるのであり、新しい社会も教会を通して出てくるのです。分かりますか?

 では、どこに忠誠を尽くさなければならないのですか? 家庭に忠誠を尽くす前に教会に忠誠を尽くさなければなりません。社会に忠誠を尽くす前に教会に忠誠を尽くさなければなりません。教会が主体で、家庭と社会は対象です。知恵ある人はどこに立つのですか? 対象の位置に立つのではなく、主体の位置に立つのです。主体の位置は一つしかありません。分かりますか? 対象は東西南北、四方において、三六〇度回転しないといけませんが、主体は中心、ただ一カ所しかないのです。それは絶対的なある圏内の場所です。二つではありません。中心が二つになり得ますか? これが行ったり来たりすれば、滅びる可能性が多いのです。

「正しい人」と言うときに、何をもって正しいというのですか? 天心と人心が一つの基点に根をおくようになるとき、正しいというのです。そのような位置に立たなければならないのです。ですから教会を通じて人心が中心を決定する場所で、あらゆる精誠を尽くさなければなりません。ここには、皆さんのすべての誠心誠意を尽くさなければなりません。家庭よりも、学校よりも、自分の出世のためよりも、精誠をもっとささげなければなりません。それで、「あなたの心を尽くし、命を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる、あなたの神様を愛せよ」と言ったのです。愛するにしても、精誠を尽くし、思いを尽くし、心を尽くす場所で神様を愛せよ、ということです。

 それでは、神様を愛するという場合、聖日礼拝には愛し、聖日の夕方には愛さないでもいいのですか? 違います。明け方よりも、夕方にもっと愛さないといけないのです。明け方には誰でもみなあいさつしますが、夕方にはあいさつする人が少ないのです。(二五―一二六)

 大学街の運動は、後代に責任を負うのであり、勝共活動は現代に責任を負うのです。そして宗教は永遠に責任を負うのです。ですから私たちはすべての方面でただ進撃だけをしなければなりません。そして教会内では家庭的な伝統と宗教的な伝統と経済的な伝統を立て、確固とした基盤を整えなければなりません。(二一―三五〇)

 聖殿は堕落しなかった時のアダムの体と同じなので、その上にイエス様が来られたのです。(二〇―三四一)

 教会生活指導 (慶北、旗手19号)

@復帰摂理的な観点から、統一教会の意味を自覚させることが中心課題だ。

A教会は過去、現在、未来の因縁の本拠地だ。だから蕩減条件を成立させる媒介体であり、み言と人格と心情を総合する所となる。

B教会を通じてのみ、天国は連結される。すなわち、天国は家庭を通じて、家庭は教会を通さなくてはいけない。それゆえ教会は家庭が勝利する基盤であり、家法を結実させる所であり、人格を認定される所であり、天国生活の訓練場である。

C教会は天地を連結する至聖所である。教会は世界へ行く門戸であり、すべての人々が相扶相助の因縁をもたせ、国家存亡の霊的支柱となる。

D教会は霊的生活の源泉として、毎日毎日の生活の力を補給する。

 ある男性が、心がそぐわない妻とつまらない暮らしをしていても、楽しく暮らせる家に行けば彼らは本当に幸福だと思います。そうかといって二度結婚せよという話ではありません。(笑い) 幸福になるには、教会が必要なのです。人は刺激を受けなければなりません。刺激は平常時、その場所から来るのではありません。備えられた所から刺激が来るのです。天だけでは天となれません。地があってこそ天が回るのです。そうではありませんか? ですからすべてのことが全部相対性を備えているのです。(二一―一九一)

「私は誰がいるから教会へ行く。私は私の愛する息子、娘のゆえに教会へ行く。あるいは愛する夫ゆえに、妻ゆえに教会へ行く」という者たちはみな越えられません。誰のゆえに行くのかといえば、神様ゆえに行くのです。神様を私のものとして所有するために、神様の愛を私の愛として求めるために教会へ行くのです。(八―一六二)

 キリスト教徒たちは、「全知全能であられ、慈悲深く、愛深き神様であられるので、千回、万回罪を犯しても許してくださる」と言います。そうしながら彼らは、教会で祈祷して出てきても、外では恐ろしく争い合うのです。

 教会とは、こういうふうに罪を犯したのちに後悔する後悔堂ではありません。そうでしょう? そんなに多くの罪をお許しになる神様でいらっしゃるなら、なぜエデンの園でサタンが一度犯した罪はお許しにならなかったのか、というのです。そういうことを知っていますか? またサタンが許される道があったなら悔い改めたでしょうか、悔い改めないでしょうか? 悔い改めたはずです。千回、万回涙を流し、悔い改めたはずです。

 しかし、天理の公法を破綻させた罪は許されないのです。その罪が許されるなら、宇宙の愛の法度は根本的に破綻し、愛のために創造されたこの世界は混乱に陥るのです。サタンが神様自体まで侵害したのに、それを許せますか? そうはできないので、漸次修正して、復帰の歴史を経て、堕落しなかったという基準を立てなければならないのです。そうしてこの基準によってサタンを追放し、第二の理想的人物を探し求めてこなければならないのです。神様がこのことをなさるにあたって、六千年がかかったのです。(一九―一六一)

2 教会のためにせよ、という理由

 皆さんに、「教会のためにせよ」と言うのは何のためですか? より大きくするためです。家庭で隊長にならん、とすればいいのですか? 教会のためにすることは、自分がもっと大きくなるためです。国のためにすることも、自分がもっと大きくなるためであり、世界のためにすることも自分がもっと大きくなるためであり、天地のためにすることも、自分がもっと大きくなるためです。どれぐらい大きくなるためですか? 最高に大きくなるためです。ここで大きいというのは、嵩をいうのではなく、内外に最高の円満さと円熟さを備えることをいいます。皆さんはそういう場所で、統一教会を中心にして世界水準の舞台で万民と共に生きよう、という人にならなければなりません。そうしてこそ、天地を創造なさった神様の息子、娘になれるのです。こういう観点から行くべき自分の道が残っていることを、皆さんすべてが知らなければなりません。

 この道の出発点は統一教会が捕まえておきました。今は出発したので目的点へ行って留まる皆さん自身にならなければなりません。ですから、「国のために伝道せよ、あるいは世界宣教師になれ、次には天地のために共産党なら共産党と闘え」と言うのです。

 こういう観点から、皆さんが皆さん自身の価値をよく知って、今日神様が願われる場所で生きていかれることを願います。(二四―三〇〇)

3 教会が存在する目的

 教会の存在する目的とは何ですか? 教会は国を救うためにあるのです。しかしキリスト教はこれを知らないでいます。キリスト教では、「教会がある目的は、天国へ行くためだ」と言います。それも誰を中心にしてあるのか、といえば、自分個人を中心にしてあるのです。結局、アメリカのような個人主義の国をつくってしまったのです。

 こういう世界を開拓しようというのが、統一教会です。統一教会員たちが伝道するのは、統一教会を良くするためにするのではありません。国を良くするためです。国の中に留まっている宗教ではいけません。イスラエルの国を救うことができる主導的な役割を失ったので、ユダヤ教が滅びたのです。国のためにしようというのが、統一教会の方針です。(三四―三三〇)

 ユダヤ教を中心にして見るときに、教会が行くべき目的は神様の国を探し立てなければならないのです。教会を求め立てることが目的ではなく、神様本来の創造理想は、国を中心にして世界を一つの世界となすための創造理想なので、教会が行くべき目的地はその国を求めなければならないのです。(八六―一二―一四)

 エデンの園は保護圏なのです。第一に生存圏、死なずに生きている所であり、第二には保護圏であり、第三には愛を受けられる圏なのです。(五一―一九三)

 その国を建国するために、開拓の勇士にならなければならない先鋒将軍とは誰ですか? 統一教会の責任者たちです。

 では、その国を成し得る基盤とはどこなのですか? 教会のほかにはありません。教会のほかにはないではありませんか? 教会でなくしてどこにありますか? 皆さんの所有に何がありますか? 皆さんの所有というのは教会のほかないのです。そうでしょう? (はい)。皆さんの所有は国に吸収されるのです。一つの民族の基盤になれるのは……。一つの国を成すには主権がなければならないし、国土がなければならないし、国民がなければなりません。それでは天の国を中心にして見るとき、国土になり得る基盤とは何ですか? それは教会の財産のほかないのです。そうでしょう?

 その次に天の国の民とは誰ですか? 教会員です。また、主権者は誰ですか? 皆さんです。皆さんが里長代身者であり、面長代身者であり、郡守代身者であり、道知事代身者です。皆さん、主体になりましたか? サタン世界に爆弾を載せてくるなら、一番初めに駆けていかなければならないのです。分かりますか? そういう心がありますか? そしてお金が一銭でもあれば、教会を広げるのに使うのです。その国の版図を広げ、国民を結集させるのに使うのです。教会責任者は主権者を身代わりするのです。里長を身代わりし、お母さん、お父さんを身代わりするのです。こういう伝統的思想を残さなければなりません。(四九―一六四)

 それでは、私たちが今後すべきことは何でしょうか? 今後教会の時代は過ぎ去ります。人類が願うのは教会ではありません。教会は、堕落圏内から復帰の運命の道を行くときに必要なもので、新しい時を迎えるようになれば教会時代は過ぎ去ります。

 ですから統一教会は教会活動をするのではありません。先生も教会活動をするのではありません。教会の名前をもって社会に適応し、社会を改革し、社会廓清運動をするのです。それがその国と民族、または世界に住んでいる人類ができない開拓者の使命をすることです。この道が皆さんが行くべき道です。(二八―二二二)

4 社会生活より教会生活がもっと重要だ

 公的な教会は、自分の家よりもっと貴いのです。生活のすべての面の整備をすべきことを知るべきなのに、そうできないでは駄目なのです。受けても、返してあげられなければ滅びるのです。(一六―二七一)

 皆さんが自分の息子、娘に影響を及ぼすことができる父母にならなければなりません。これが第一の使命です。そうするには、教会生活や公的生活を徹底してしなければならないし、私的生活において模範とならなければなりません。これは子女をして、今後み旨の道を行けるように教育するのに、絶対必要なのです。分かりますか?(三一―二七七)

 皆さんが今まで習慣的に生きてきた社会生活全体と、教会を中心として生活した全体を比べてみるとき、どちらが内的かといえば、教会生活が内的です。

 それでは皆さんがどのくらい内的生活の価値の基準を立ててきたのでしょうか? ある者は「み旨を中心にしていく」と言いながら、「私がこうすることがみ旨になるのだ」として、自分勝手に考えます。そういう所に神様がいらっしゃることができますか?(二二―三八)

 現時点で皆さんはどんな立場にいるのですか? 皆さんを統一教会の個々人として見るときに、「ああ、私はついていく人間だ」と言ったとき、そういう人は立派な主人に召し抱えられません。一番良い種を求めるそういう主人においては、絶対召し抱えられないのです。そういう主人の前に立とうとするなら、ついていく人になってはいけません。すべてに優秀でなければなりません。すべての面を全部備えないといけません。内外に備えないといけないのです。

 ある人を見ると、教会生活はよくできるのに、社会生活ができない人がいます。また、社会生活はよくできるのに教会生活はできない人もいます。こういう点から見るときに、社会生活はよくできるが教会生活はできない人は、前に話した実を備えることのできる要因とその内容がありません。教会生活はよくできるが、社会生活はできない人と、社会生活はよくできるが教会生活はできない人の内、どちらの人がもっといいかというとき、社会生活をよくできる人より教会生活をよくできる人のほうがましです。結実の要因を備えた人は、あすの希望をもって動いていけますが、結実の要因を備えられない人は、結実と関係を結ぶことができません。(三六―二〇)

 内的な教会生活において、神様から公認を受けられる立場に立てない人は、外的な社会生活においても神様を身代わりした生活はできません。こうして内的な教会生活において、神様から公認を受けることが問題です。

 ところが今、我々統一教会員たちの教会に対する観念を考えてみるとき、教会に集まり集会する、その時間がどれほど貴いかを忘れています。皆さんが教会の公的集会に対する観念が稀薄なので、み旨がどういう方向へ行くということに対しても稀薄になるのです。自分が内的に立つことのできるその場所がどこだということを確実に知らないので、外的基準も確実ではないのです。(二二―三六)

 まず教会生活を徹底しなければなりません。そのためには公式的な礼拝時間を厳守しなければなりません。公式的に参席しないといけない時間に、模範にならなければなりません。(三一―二六九)

 今、家庭と教会と社会の三角圏を中心にして見るとき、皆さんは家庭を中心とした考えが強いですか、教会を中心とした考えが強いですか? そうでなければ社会を中心にして自分が出世するための考えが強いですか? 皆さんはどれがより強いか、考えてごらんなさい。

 神様がどういう人を協助し、同情してくださるのでしょうか? 教会を考えるのは、神様の代身となる人を愛することです。そして人を救ってあげることです。(四二―一六九)

5 教会生活において留意する点

 皆さんが私たちの教会の門をたたくようになる時には、習慣的な信仰生活をしていた過去の儀式的な仮面を脱がなければなりません。そういう観念的な認識による神観を捨てなければならないのです。(二六―二三)

 公式的な路程を行くのは、教会のためではなく、自分自身のためなのです。今まで先生が皆さんに命令したことは、皆さんに協助するためであって、教会のためではありません。このように自分自身のためのものなので、教会のためにする、という考えをもつなというのです。人間の行く道は国であり、世界なので、その道は誰もが行かなければなりません。(三四―二六九)

 教会へ入ってきて全部就職し、ありとあらゆることをやって、自分の利益のために教会を利用してしまって……。教会は利用されないのです。私たち統一教会を今まで利用しておいて、落ちてしまったすべての連中を今に見ていなさいというのです。全部こじきになるのです。見ていなさいというのです。どうなるのか。天は利用されません。

 世界の運勢は利用されることはありません。個人の運勢は家庭の運勢に従わなければならないし、家庭の運勢は社会の運勢に、社会の運勢は国家の運勢に、国家の運勢は世界の運勢に従わなければならないし、世界の運勢は天運に、天運は神様に従わなければならないのです。(一六三―三四)











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