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三 私たちの体制と系統

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1 教会本部と私たち

 低い峰の立場にいる人が高い峰の事情を知るには、高い峰を絶対的に信じなければなりません。ここで批判しては現在の場所から抜け出せないのです。発展できないのです。それ以上越えていこうとするなら、無限なる闘争をしなければなりません。もう一度言うなら、環境が整えられていて、道がすべて整えられていて、その整えられた道を行けばいいのにもかかわらずその道を行かず、自分一人で承知して行くといえば、無限な闘争をしなければならず、それでもそれはほとんど不可能です。(二七―一〇三)

 本部というもの、中央というものについて見るときに、型で見れば本当の中心は点に近いのです。中心は一つしかないのです。(一九六九・二・二)

 皆さんが本部なら本部で何かを指示したというときには、守らなければなりません。これは霊界と関係しているのです。皆さんはよく知らないでしょうが、必ず霊界と関係しているのです。本部で指示することを、霊界に行っている皆さんの先祖たちは知っています。後孫たちが、すべての先祖たちの恨みを解いてあげなければならない主体的な立場に立ったというと、皆さんには二つの世界の使命を請け負っていく責任があるというのです。(四三―五二)

 本部が指示したことに従うと、不便なこともあり得ます。ここは順応する心よりも反発心をもつこともあり得ます。反発心が生じ、それに従っていくと消耗戦が起こります。順応する心が強くなる時は発展が起こるのですが、闘争の要件が起こる時は消耗戦が起こるのです。(四九―九二)

 統一教会員の中には、先生の言葉なら目を閉じて履行するが、教会長の言葉だと「私は知らない」という鬼神のような人がいます。教会長を誰が立てましたか? 先生が立てたので、従うのが原則ではありませんか? それが原則です。(四九―二一六)

 千人以上を率いる人は、霊界の感情を受けて立てられた人です。(一八―二二二)

 ここに金教会長も来ましたが、今一番大きな責任を負っているのです。(六六―二一四)

 教会長を中心にして、互いに団結し、互いに連結しなければなりません。団結するには譲歩して一つになって、ぜひ残された民族的なこの路程において……。韓国は皆さんが責任を負って、どうか出発された先生のことを考えて、何があっても安心し、韓国においての良い知らせをたくさん聞かせてくれるようお願いします。分かりますか? 良い知らせが大きければ大きいほど、そこに比例する苦痛と試練と涙がなくてはならないという、そのことだけは忘れないでください。分かりますか? (はい)。(一五五―一三六)

 皆さんがいくら難しくとも、その系統を通じて組織を生かせなければなりません。個人の意見を生かす考えをしてはいけません。組織的な活動をする組織社会は、そうならなければならないのです。「(教会生活は、)私が長くいるので、私の思いどおりにしなければなりません」、こういうことは駄目なのです。(八九―二九八)

 私たちの体制は信仰運動を核心的にできることを強化させるのと同時に、ここに相対的な外的基盤も連結させなければならないのです。(一九六九・五・一二)

 地獄から物質をすべて収めてきて、天を通して物質の愛が輪廻できる軌道をつくらなければならないのです。物質を世界から収めて、サタン世界から収めたものが、天国を通じてサタン世界に帰れるように、帰れる回路をつくっておかなければならないのです。皆さんがお金をもうけて本部へ送れば、本部は天の象徴ですが、その次にそこでは、このお金で何をするのですか? サタン世界のためにもっと使うというのです。もっと大きな世界のために使うのです。そうすればそれが大きくなっていくのです。一番初めに皆さんがお金をもうけて皆さんの教会のために使ったとすると、その次に教会で本部を助け、本部は国を助け、国は世界を助け、世界は天を助け、こうして上っていくのです。全部上っていくのです。(一一一―一七九)

2 教区長(地区長)の道

 全国に散らばっている地区長たちがここに集まりました。地区長は道に責任を負った、道の長です。彼らは祭司長として、父の内的悲しみを身代わりして、父と共に心配し、父を慰労してあげられる息子の使命と、忠臣の使命をすべき者ですので、各自そういう責任が残っていることを切実に感じられるようにしてください。(三〇―二七二)

 私たちの協会長を中心にして、新しく任命された教区長たちは何の心配もしないで一つになり、これから新しい世界を建設しなければなりません。新しい世界的思潮の前に符合できる準備が深刻だということを知って、団結し、これをどうするかということが当面課題であることを知り、皆さんがよく動いてくれるようお願いしないではいられません。

 根である本部と一つになりなさい。本部と一つになれないなら、地区長だと自称してはいけません。使命と責任がここで決定されます。(二四―九五)

 きのう、先生が地区長たちに何を布告しましたか? 統一教会の地域長や地区長の中で、このみ旨の道が困難で行けないという人がいれば、家に帰るなり、自由に行動することを命じました。行けないと不平を言い、行けないと嘆息して、他の人まで行けないようにブレーキをかける人は、むしろいないほうがよいと見るのが、み旨の道を行くことです。(四四―七二)

 皆さんが地区長という名前で壇上に上るとき、足がふらふらしませんか? そういうことを感じなかったですか? 自分がこの食口たちの生命に責任を負うのだと、考えてごらんなさい。先生は重大な話をしようと壇上に上るとき、そのように考えて上りました。足が床についたかつかなかったか分からないほど深刻だったのです。ですから天が共にいてくださるのです。自分自身をもって壇上に上るのではありません。(四三―三五〇)

 地区長たちが、春の気分のごとき心情的な心をどうやってもつか、ということが問題です。地が春を迎えられる準備ができたので春を迎えられるように、地区長たちはそういう土台に心情と伝統を立てなければならないのです。(一八―三三九)

 皆さんは道の責任者ですが、今まで道のために精誠をささげてみましたか? 必ず精誠をささげなければなりません。伝道は精誠に比例するもので、知識や実力に比例するものではありません。皆さんは六〇年代にこういう体験をしてみなかったですか? 大学を出て、かなり知っているという人より、精誠をささげつつ伝道をした人のほうがもっと優れていませんでしたか? 神様がどれくらい同情してくださるかが問題なのです。

 今、地区長たちが一片丹心でなすべきこととは何ですか? 御飯を食べることですか? 違います。この罪悪世界から一人の生命をどうやって天の息子、娘として復活させ、天国へ移してあげるかという、責任的使命感をもたなければならないのです。日久月深(注:月日の長いことの意味で、ひたすら望むという意味)、そういう使命感をもって出ていってみてください。できないことがありますか。(四二―一六四)

 食口たちが、「我々の地区長は神様、あるいは先生のために狂った」と言える伝統を立てなければなりません。

 先生が外的な仕事に関心をもつなら、皆さんは内的な先生に対して関心をもたなければなりません。(二四―一八二)

 今、地区長たちは何もなくてやっと暮らしていることとか、先生がみすぼらしく暮らしていることを見て落胆するなというのです。神様が共にいらっしゃるというのです。私が流す涙は民族の涙を身代わりしたものであり、私の孤独は民族を身代わりしたものです。私が孤独を感じたので「父よ、私の代わりにこの民族を許してくださいませ」と民族に身代わりして涙を流し、祈祷することができるのです。これが祭司長の責任です。私がそういう場所にいるという時は、その民の未来に起こる悲運を感じ、それを私が代わって背負い、民族のための贖罪の祭りをささげなければなりません。そうすることによって、民族が悲運の場所を避けられるのです。皆さんは民族を代表してそういう位置に立たなければならないのです。これが公職にある人の責任です。(三三―一八一)

 私が一番気になることはこれです。教区長と全体が一つにならなければなりません。不吉なことがあってはいけないのです。家の中がすべて平安であるには、全部和合しなければならないのです。昔の格言にある言葉のように、「家和万事成」なのです。(一二七―五〇)

 各道のすべての食口たちは教区長を中心にして団結し、この目的を成すために総進軍しなければなりません。いくら難しい命令をしても、順応することができなければなりません。命令の前に不平を言ってはなりません。完全に一つにならなければなりません。教区長を中心にして、教区長の心と一つになって、心と体が闘う悪魔の世界が残っているので、これを清算し、心と体が一つになれる基盤を完全に、確固として立てなければなりません。そうして、先生が命令したその命令によって自分の道をきり開くことにおいて、すべての力と努力を注ぎ、不平を言わない忠孝の心を傾けなければならないということを決意しなければなりません。(一四四―二七九)

3 教域長(地域長)の道

 皆さんが一つの郡に責任を負うなら、それこそ川岸へ行って寝転びたいし、あの池に体をひたし皮膚を水につけてみたいし、山に行っても高い木に登ってみたいし、登っていると今度は何度も滑りたい、登れなくともそうしたい心をもたなければなりません。そういう心をもった人が主体者です。それが主人です。そういう人は間違いなく主人になるのです。そういう人はその郡で絶対に滅びません。いくら「滅べ」と言っても、呪っても、いくら追い払っても滅びないのです。

 先生が今まで生き残ったのは、こういう原則を知っていたからです。監獄へ入っても、共産党、その怨讐の前に行っても、誰よりも慕わしく思い、「私がここへ来て、怨讐に何かを与えるために、条件を立てるために入ってきた。だから恨むことはない」と考え、私がそれだけ与えられなかったけれど、御飯でもあげれば「ありがとう」と言うのです。そうするので、その御飯が肉になるのです。その水が血となるのです。(八一―三〇五)

 統一教会の教区長なら教区長、教域長なら教域長というその人の力量、名望というのは一つの道、一つの郡を代表します。それを知らなければなりません。統一教会を代表するのではありません。統一教会は国のためにあるのです。私と教会と郡が、蘇生、長成、完成です。これは一体化します。「私の家」と言えば、れんがの家、その家が私の家ではなく、そのスレートの家が私の家ではありません。郡なら郡全体の家を身代わりした私の家でなければいけません。

「私の教会」と言えば、その郡民を教育させるための団体を代表した教会! そういう立場に立った私! その「私」は家庭での家主(家長)となれるし、教会で教会の主人となれると同時に、郡において最高の司令官にならなければなりません。これが神様が私たち統一教会員に任せた任務です。分かりますか? ですから責任者は忙しく働かなければならないし、その郡には行ってみない所がない、というようでなくてはなりません。(八一―二九六)

 地域長は、今日の天のみ旨の前において、直接的に指導する最前線、第一線にいる指導者であることを肝に銘じ、皆さんが失望すれば、皆さんが追われれば、皆さんがそこで後退すれば、その地方、あるいはその地域全体の生命が皆さんと同じ運命に遭遇することを知って、この道で後退してはならないという信念をもたなければなりません。

 私の能力が不足する時は、天の前に訴えるのです。「私は力がなく、不足ですから、天は弱き私を立て、歴史を創造してきた今までの摂理歴史があったことを知っております。こういう摂理を父は主張なさり、こういう摂理の後ろ盾を父は立ててこられたことを、歴史的な事実として私たちは知っており、今日こういう惨めな復帰の舞台を前にして、私が責任を負って、天の前に一つの願いを成就するために責任を負っておりますので、ここに力が不足ですから、力を下さいませ」と言って訴えれば、皆さんを中心にして天は協助してくださるのです。そういう時になったのです。

 さらには、皆さんが考えるべきことは、「私」という位置が今言ったのと同じく全体に連関性を帯びていて、この全体を左右できる中心の立場が地域長だというのです。地域長がそういう立場に立っていることはもちろんですが、その地域長を主とした区域長、区域長を主とした一人の教会責任者、あるいは私たち統一教会全体の食口たちが地域長のような立場を身代わりし、もし地域長がこういう責任を請け負っては、「その地域長の責任を私が相続しよう」という後継者を必ず選択しておかなければならないのです。

 また、私たち食口は地域長を中心にして闘い、地域長が倒れれば、「私が地域長を代表し、天の前にこれを責任もって収拾できる人にならん」と人知れず準備できる、こういう因縁を自ら備えなければなりません。そうしてこそ指導する地域長と指導を受ける教会員たちが、互いに一つの目標に向かい、一つのみ旨を身代わりした決意の基盤をそこから立てられるのです。そういうわけで、地域長は自分を主として動ける、自分の継承者となれる地域員がどのくらいになるかということが、その地域長がみ旨に対し勝利の結果をもってくるか、もってこれないかという与件を決定する中心内容になることを知って、今回帰ったなら、自分の地域内において、どんな困難があっても自分と一つになれる人を早く設定しておかなければならないというのです。

 大きな闘いをするようになれば、大きな闘いを前にして、そこに備えた計画はもちろん必要でしょうが、計画よりもその計画を実践できる人が必要なのです。ですから地域長がその地域を運営するにあたって、まず自分を主として何人かのこういう自分の代身者を立て、生死を共にし、生命を共にできる立場で決意し、一つの目標に向かって互いに誓い合い、出発したのちには、後退する恥ずかしい様を見せまいと、互いに努力しないといけません。責任を負った人は引っ張っていくのに努力し、責任を負わない人、指導を受ける人は、世話にならないために、互いに努力し、私は万天下の前に立つことを願ってやまない、そういう条件を立てていく地域につくっていかなければなりません。そういう地域ならば、日がたてばたつほど、自動的な発展をするだろうと見るのです。

 今日、私たちがそういう責任を負わなければならないのです。ですから地域長は早く区域長を通し、あるいは個人を通して今後面を中心にして、あるいは郡を中心にして、あるいは統、班を中心にして一番末端まで伸びていける力の源泉を連結させていかなければならないのです。天がいくらこれを命令しても、地区長がこれを奉り、強力に推進できる足場がなくなる時は、天はここから実践場を失う立場に立つようになるのです。そういうわけで、この実践場に立っている先発隊が誰かといえば、地域長を主とした地域長個人の前に動く同僚たちだというのです。ですから、皆さんが誤ればその地域に重大な影響をもたらすということを知って、天の前に自ら責任を負う皆さんとなってくださるよう願います。

 今の時から見て、この時は地区長が責任を負う時ではなく、地域長が最前線に立って、荒々しく飛んでくる怨讐の矢を防ぎ止め、そこに留まっている怨讐の複雑な環境を除去し、整備する責任をなす時だというのです。ですからこの地域長たちがどうやって天のみ旨のために闘っていくのかということが、今私が師として本当に心配する問題であることを皆さんが肝に銘じてくださるよう願います。

 この集会を通じ、この町を一度揺り動かしてみようというのです。この町を揺り動かす主動的な精鋭部隊が地域長であるので、この地域長がここで体験したその事情、ここで感じたその衝撃を、ここで感じた悔しさを再び生かし、ここで自分が怨讐に返せず、ここで自分が勝利の決定を立てられないことが恨みだという、こういう理念を皆さんが抱かなければならないのです。(一五三―二七一)

 今後、地域に帰れば、地域管内の数多くの人々、特にかわいそうな立場にいる人々を皆さんがアドバイスしなければならないのです。その圏内において経済的に苦痛を受けている人々までも、皆さんが指導する責任があるのです。そういうわけで、皆さんは食べられなくても希望に満ちており、あるいはぼろを着ても望みに満ちていなければなりません。こういう難しい環境において、自分の義務と責任をすべて果たすという、新しい理念を抱いて暮らす皆さんとなることによって、皆さんの地域圏内に残っている数多くのかわいそうな氏族の前に、力の象徴として現れることができる、こういう基準になるということです。

 飢えた民がいるような時、皆さんは彼らから「あの人たちは飢えながらも我々のために働き、飢えた場所でかわいそうな人のために犠牲となりながらも、新しい目標に向かって新しい開拓精神をもち、我々を求めてくれる」と言われるように自らに備えた内容を見せてあげなければなりません。彼らが難しい状況に陥る前に、そういう基盤を整えておいてこそ、難しい時に、あるいは難しい環境にぶつかるような時に、彼らを指導できるのです。そういう人々が地域長なのです。(一五三―二七〇)

 また、地域長は、自分の責任を果たすことはもちろんですが、皆さんが喜べば、その地域に存在しているすべての万物までも喜ぶし、皆さんが喜べばその地域に住んでいる人も喜ぶのです。また、皆さんが喜べば皆さんを指導する地区長、教会長、先生、さらには神様が喜ぶのです。自分が喜べる場に出るというのは、天地が喜ぶと同時に人類が喜べる一つの基盤になるのです。地区長、地域長、あるいは区域長、この三首圏内で主導的な役割をすべき立場に立った人が誰かといえば、地域長だということを皆さんは知らなければなりません。地域長がよくやることによって、今後私たちの教会は発展できるというのです。

 現在の地区長は中間の立場にいます。最前線的な活動に責任を負う人が誰かといえば、地域長です。この地域長に火がつかないといけないというのです。地域長が互いに人に負けず、互いに全体地域長の前で「私がこの時代において、地域長として責任をすべて果たすことによって、南韓各地に散らばっている地域長たちの前に、力を補給してあげ、愛の条件を彼らの前に相続させてあげられるものは何か」ということを研究し、探し出し、それを立てるために努力し、それを天の前に結実の基盤として整えるために、すべての忠誠を尽くし、今年においては今までの活動よりも確固とした、堅固な活動基盤を整えなければならないと思うのです。皆さんがそういう覚悟のもとにここに来て、帰っていくことを願います。(一五三―二六九)

 今日、私たち個体というのは、地域を中心として区域が連結されており、地区長、あるいはその上に協会長を中心として先生を主とし、天まで全体が連結されているのです。上には天があり、下には地なのです。今後自分を中心として、四方にはすべての人類が連結されているということを考えるときに、皆さん地域長なら地域長たちがどれぐらい重大な存在か、ということを切実に感じなければならないのです。

 皆さん自身が責任を果たせなくなるとき、その責任を果たせないとどうなるのでしょうか? 皆さんが責任を果たせないその事実は、この時代的な責任を果たせないことで終わるのではありません。その地方なら地方、地域圏内にいる数多くの生命、その時において恵沢を受け、準備された霊魂が、皆さんと関係を結ばせるために、天は皆さんを代表者として立てたにもかかわらず、皆さんが因縁を結べる活動と実力を備えられないことによって、因縁を結べず霊界に行った時は、霊界に行った霊魂が皆さんに対して讒訴するというのです。そういうことを考えるときに、今日私たち地域長の責任がどれほど重大かということを、もっと感じないといけないのです。(一五三―二六八)

 地域長は、地区長、協会長、先生を通じて天と地に連結されています。今後経済恐慌が韓国に吹いてくるのですが、これに対するすべての責任は食口たちにあります。ですからこの民族が苦境にぶつかる前に、私たちが彼らを導ける礎を据えないといけません。(一二―一五二)

 地域長なら地域長自身が郡一つずつに責任を負わなければなりません。これを動かすためには、四方の責任があるのです。まず経済的な問題を中心にして見る時、私一人で暮らすのが問題ではありません。全体を生かすことができ、全体の環境に備えられる経済的な余裕がなければなりません。「これは駄目だ」と自暴自棄になれば滅びます。自分が血を流さんと決意して、闘っていかないといけません。絶対に自暴自棄になってはいけません。

 誰でも、神様のために、自分の教会のために一〇〇パーセント以上の生命をもっていける基準さえなされているなら、その人は神様の前に行けるのです。そういう心をもった次には、押し進めて占領しないといけません。駄目でも押し進めなければならないのです。一人でも、部落ならその部落民全部を率いて推し進めなければならないのです。(二〇―一五七)

 各地域の食口が二百名以上にはならなければなりません。ですから努力しなければなりません。地域長としての皆さんは一人の個人ではありません。その郡の生命と財産までも責任を負わなければなりません。地域の食口たちは地域長に似ます。地域長が前進すれば全体が前進し、地域長が後退すれば全体も後退します。(一二―一五二)

 皆さんの責任は重要です。地域長なら地域長が一つの郡の責任を負わなければなりません。郡の生命は全部自分の手の中にかかっていると感じなければなりません。皆さんはそれを感じますか? また、これを感じ、神様の前に報告できる自分ですか? 神様に会える自分ですか? 神様と相談できる自分ですか? ということを知らないといけません。ですから聖日礼拝時間や公式的な集会で、食口たちとこれに対する相談をし、未来を設計しなければなりません。自分一人を中心として、天命が下ることを皆さんは期待してみたことがありますか?

 命令を上部から受ける場所で総出動させる時、何の命令が何であり、こうだという心がありますか? 命令に対してどうこういう人は滅びるのです。命令を下せば絶対的に従順屈伏して突破させようという心、きょうもあすも誓い、実戦に臨み闘わんという、そういう心をもたなければなりません。若い青年たちは闘いが必要です。戦場へ出てきたなら、変化します。弾丸がびゅんびゅん飛んでくる場所で頑張って座り、上部の命令が下ることのみを願うことができなければなりません。(二〇―一六一)

 皆さんが郡責任者なら、その郡が動く時まで自分の能力をそこに投入するのです。一日、二日投入し、三日投入し、四日投入し、それが終わるまで永遠に……。永遠にでもその使命を果たしていかなければならないのです。一日二十四時間、一時間も抜かないで二十四時間全体を投入しなければなりません。御飯を食べる時や眠る時、便所へ行って座っている時までも自分の心をいつも投入しなければなりません。任された天職をどうやって責任完遂するかということに心が自分を支配し、それに対して体と心が一つになるように三年間続ければ、自分に体質的な変化が起こって神様が導く人になる、ということを発見するのです。発見するのではなく、発見したというのです。これが原理観です。(八一―三〇〇)

 村のために、任された郡のために責任を果たせない人は道のために責任を果たせないし、道のために責任を果たせなければ、国のために責任を果たせないのです。国のために責任を果たせなければ、世界のために責任を果たせないのです。世界のために責任を果たせない人は、神様のために責任を果たせないのです。それが原理の道なのです。分かりますか? (はい)。(八一―三二九)

4 教会長(区域長)の道

 皆さんは、学識から見てもすべての面を備えています。実力もあります。世間的な実力もあるというのです。どこの誰にも負けない実力もあり、心情もあって、ですからすべての面において……。地域長たちは先生の身代わりとして地区長をいただいて、一心団結しなければなりません。また、地区長を中心にした区域長たちも一心団結し、区域長を中心にした伝道師たちも一心団結し、伝道師を中心にした食口たちも一心団結しなければなりません。彼らはみな先生を身代わりした人々です。それだけに、誤ったことがあればそれを覆してあげ、育てなければならないのです。(一五四―一〇八)

 今後、本部で管轄できる最下の基準はどこにあるのですか? 区域までです。分かりますか? 七段階基準を中心にして管轄しなければなりません。区域まで本部で管轄しないといけません。教会長を中心にして見るときは、地区と地域と区域まで、その次に協会長を中心にして先生と神様まで七段階です。上るのです。教会長を中心にして見てみると、ここは父母がいて、七段階形態を経ていかなければなりません。これは原理的な段階なので……。ですから今回、この区域まで上ってこいという歴史的な基準において、教会が管轄できる一つの主管圏を立てられる基準が区域までできているからです。ですからすべて集合させたのです。(一五七―三四)

 あなたたちが今まで統一教会の、それでも指導者としてこうなったのも、先生に従ってきたので、天の運勢が皆さんと橋を架けてくれたので、地方へ帰ればみなそのように食口たちが皆さんに従おうとするのであって、そうでなければ到底及びもつかないのです。

 ですから上下関係をいつでも調節しなければなりません。第一に上下関係を調節しなければならないのです。「私」は縦的基準、横的基準二つの世界をコントロールする立場にあるというのです。ですから上には本部の代表者であり、その次に横的には父母の代身者だというのです。分かりますか? 父母の代身者だというのです。父母の代身者は、子供たちが帰らず、子供なりに行くようになると、千里の道も構わずに走っていかなければならないのです。彼らを苦労させず、私が苦労しなければならないという、こういう模範を見せてあげ、伝統を立ててあげてこそ、その子供たちが正しい子供たちになるのです。伝統は立ててあげず、「自分の思いどおりにせよ」と言えばいいのですか? まず見せてあげなければならないのです。「伝道はこうしてするものだ」と、見せてあげなければならないのです。(七〇―一五六)

 地域長と区域長の関係のように、縦的な関係では繁殖ができません。しかし互いに一つになって、地域長なら地域長を中心にして、区域長が行動を共にする時には繁殖が起こります。これが創造の原則です。

 私たちは伝道をなぜするのですか? 繁殖するためです。繁殖は縦的な関係からは成されません。横的立場に立って一つとなり、互いに授け受けしてこそ成されるのです。ですから皆さんは教会長を中心にして、教会員たちと横的な立場で一つとならなければなりません。そうしてこそすべての面で発展するのです。地域長を中心にして、教会長たちが一つになれというのは、そうしてすべてのものを発展させようということであり、地区長を中心にして地域長たちが一つになれというのも、もっと発展させようというのです。発展、すなわち繁殖させようというのです。皆さんが忠誠を誓う時は、そこから数十倍の繁殖が起こるのです。

 時は大きくなったり、小さくなったりするということはありません。人の心が大きくなった、小さくなった、ということなので、各地方に離れて活動する個人だといっても、本部から来た通知を中心にして横的な基準に立たなければなりません。体内で感じられるすべての感覚が神経を通じて細胞まで一時に及ぼされるのと同じように、すべての食口たちも本部の通知に対して同時に同感できる場所にいなければなりません。そうしてこそ正常な生命をもつことができます。ですから皆さんが本部を慕うのは当然な道理です。

 しかし、神経系を通して伝達される縦的な基準でのみ関係を結んでいけば、一時的に感じられるかもしれませんが、継続して感じることはできません。私たちの体の骨の組織について見るとき、それは秩序正しく縦横に連結されています。

 近いうちに本部に行く皆さんが、心に抱いていくものとは何ですか? それは「記憶しよう、もう一度記憶しよう」ということです。皆さんが習慣的な感情をどのくらい超越するかにしたがって、皆さんの人格が決定されるということを確実に知らなければなりません。

 ですから本部教会に対するときに、地区に対し、地域に対し、各個人に対するときに、今まで皆さんが取った立場をもう一度革新しなければなりません。新しい立場で認識される以前には、発展はできません。新しい創造力が発生され得ないというのです。創造原理がそうなっています。(一七―二七八)

5 食口の道

 私たち統一教会が行く道は天国を所有するための道です。天国を所有しないといけません。天国を所有する秘訣はどこにあるのですか? 自分が良い暮らしをしようというところにあるのではありません。他人のために、世界のために犠牲となるところにあります。もう一度言うと、この道Cを望み、また従っていかないといけません。分かりますか? さらに従っていかなければなりません。今まで私たちが堕落圏内Aから脱出するための組み打ちをしたのですが、ここBでついて行けないとわめく人は焼いてしまうのです。最頂上に向かって真なる道を行くのに自分が主体とならないなら従っていかないといけません。従っていくのに誰に従わなければならないのですか? 神様と関係している人に従っていかなければならないのです。

 従っていくのにどのぐらい従っていかなければならないのですか? 世界の果てまで従っていかなければなりません。どうやって行かなければならないのですか? うれしくて、喜びつつ行くのではなく、涙と血と汗を流しつつ犠牲となり、克服しつつ従っていかなければなりません。こういう人生路程になっているのです。それが難しければ難しいほど、範囲が広ければ広いほど、個人から家庭、世界が一度に総動員される時になれば、世界の終わりの日になったことを知るのです。(四六―四六)

 今日、統一教会を中心にして皆さんの第一の問題とは何ですか? 入教して、教会員になれば、その教会の責任者の心の中にいる皆さんにならなければなりません。教会でいえば、ここ本部教会の責任者がいれば、その責任者の心の中に記憶される皆さんにならなければならないのです。本部に対してどうのこうのと批判するのは偽者です。私が見て、偽者です。「誰がどうのこうの」と言ってその人を評する前に、その人のために三倍祈祷せよ、というのです。そうもせずに、ああだこうだ言う人は偽者です。そういう人は裂教人(注:教会を破壊する人)です。裂教人、裂教人です。

 いくら少年少女でも、その人を中心にして天のみ旨が来るので……。のどが渇くとき、泉の水を飲むのに主流の水を飲めないなら、横に流れ落ちる水でも飲むという考えをしろというのです。その人を自分の息子のごとく思い、自分の娘のごとく思い、また一国家の幼い王のごとく思い、その人のために育ててあげ、垣になって大きくしてあげようという人がその主人になるのです。そういう人を願うのです。それなのに「ああだこうだ」言うのは全部偽者です。

 ですから教会に所属したなら、その教会の責任者に気に入られなければなりません。おじいさんならおじいさんと呼べる心、おばあさんならおばあさんと呼べる心、若者なら若者の中で誰々、と呼べる心をもたないといけません。忙しい仕事があれば、一度にすべての事情を越えて、自分のすべての事情を一〇〇パーセント吐き出して、相談できる人にならなければなりません。その心の中を占領できる人にならなければなりません。その心の中を占領できる人にならなければならないのです。そうなれば、地方にいる人なら、本部なら本部にいる協会長の心の中に記憶されなければならないのです。段階がそのようになっていきます。その次には先生の心の中に記憶されなければならないのであり、その次には神様の心の中に記憶されなければなりません。これが行く道です。この道を外れてどうこう言う人は全部偽者だというのです。それこそ統一教会の不純分子であり、サタンの矢を受け尻尾を振る人だということを皆さんは知らなければならないのです。主流の路程は一定しているということを知らなければならないのです。分かりますか? (はい)。(七七―一七一)

 それなら、統一教会で成功したという人は何をもって成功したと言うのですか? 字を上手に書くことですか? 原理講義をうまくやることですか? (違います)。それなら何です? (永遠に残らなければなりません)。永遠に残るにはどうしなければなりませんか? 神様の愛を中心として、永遠に先生の心を占領しなければなりません。そういうことではありませんか? (はい)。家に行っていても、先生に向かう心でいっぱいになっていなければなりません。先生を完全に占領できる食口になれば、その人は世界を占領できます。それを占領する道はどうなっていますか? 統一教会の先生を占領しようとするならどうしなければなりませんか? 受けるごとくに与えなければならないのです。世間でもそうではありませんか?

 皆さん、伝道する時間がなければどうしますか? (従順屈伏します)。従順屈伏するのがいいにはいいのですが、それだけではいけません。それではどうしないといけないのですか? 先生が教えてあげましょうか? (はい)。皆さんが地方へ行けば、地方の地域長と完全に一つにならなければなりません。その地方の人々の中で、君子の心をもった者が皆さん以外になければ、そこから距離が開くのです。その次には地区長なら地区長の心を完全に占領しなければなりません。そうしておいて、教会長なら教会長の心を完全に占領しなければなりません。そのように占領できる人を待ち焦がれています。分かりますか? (はい)。そのためにはどうしなければならないのですか? 先生が指示したとおり、ずっと末端に入って食口の責任を身代わりして負える人にならなければなりません。そういう人が永遠に残るようになるのです。分かりますか?

 大きくてよく繁った、できの良い木があるのですが、葉が全部乾いて根も死んだという時、どうなるのでしょうか? それはできがいいことはいいのですが、望みがありません。矮小な木だとしても、その木よりもっと生き生きとしているなら、これがもっとできが良いことになります。これは褒めても褒めても不足ありません。その木の枝は根から幹にいく津液を一〇〇パーセント受けたというのです。ですから無限に育つことができます。枝の中には元となる枝、外側の枝がありますが、外の枝が元枝よりよくおい繁るようになるのです。

 私たちの教会でも、地区長、地域長などのいろいろな枝がありますが、生き生きした枝にもっと目立った枝が生まれるのです。地区長が生きていれば地域長もそうなるのです。何のことか分かりますか? (はい)。大きくなっていくのです。地区長なら地区長、地域長なら地域長、教会長なら教会長の心を完全に占領するためには、その長所、短所をよく知って侍っていかなければなりません。そうなれば、彼らは黙ってそういう人を愛し、慰労してあげるようになっています。何のことか分かりますか? (はい)。もう一度言うと、地区長や地域長、教会長の権限以上の権限を奪って獲得できるものとは何でしょうか? 犠牲と奉仕です。仕事をするすべての面において、百倍、千倍を与えつつ、損することを喜ぶことのできる人は、必ず彼らを占領できます。ですから彼らと自分が愛し、愛を受けられるなら、その人はすべての人を愛することができます。

 そうして面なら面、郡なら郡を中心にして上ってくるのです。自分の郡で第一だという認定を受けるようになります。体育大会もそうではないですか? 同じことです。このように経由して上ってくるようになっています。そしてその郡だけがその人を祝福する時、その人はその郡を代表するようになります。そのように漸次上っていって教会の代表者になるのです。そうでしょう? 教会長の心から地域長の心、地区長の心と一体を成しつつ上っていくようになれば、その次にはどこに上っていくのですか? 協会長です。そうして協会長がその人にすっかりほれ込んで、心を完全に占領されるようになる時、自分の代わりにその人を協会長に立てるのです。何のことか分かりますか? そういう人が最高の場所を占領するというのです。

 それでは、宗教を中心とした全世界の万民を眺めた時、神様の心をすっかり占領する男性は誰ですか? 今まで宗教人たちが失敗したすべてのものを収拾してくる人です。アダムからアベル、ノア、アブラハム、モーセ、洗礼ヨハネ、イエス様を経て、今まで神様の心情を分からず失敗したすべてのことを全部探し出して現れる人々です。教会なら教会の代表、世界的教派ならその教派の代表を歴史的に見てみるとき、神様の心をどこの誰も占領できなかった原因を全部収拾して出てくる最後の男性がいなければなりません。統一教会の先生がそういうことをしてきています。

 ですから世界のどんな人が迫害し、反対しても滅びてはいけません。それゆえにまず信念がなければなりません。自信がなければならないのです。「彼らはこうして働いたのでこうで、私はこうやってやったからこうだ」という信念をもっていてこそ、神様の愛を中心にして、愛において偉大な成功者になれるのです。

 そういう面で先生に従っていくだけのことがあります。そうではありませんか? (従っていくだけのことがあります)。そうだとすれば、皆さんは先生の言葉をよく聞かなければなりませんか、聞かなくてもいいですか? (よく聞かなければなりません)。先生の言葉をよく聞かなければなりません。木の葉は幹でなく根の津液を受けて育ちます。津液は枝から来るのではなく、どこから来るのですか? 根から来るのです。根が遠くにあるので、幹を通り、枝を通るようになります。ですから皆さんは協会長を通し、地区長を通し、地域長を通し、区域長を通し、教会長を通して良い実にならなければなりません。

 ではどこから大きくなるのですか? 頂上から大きくなります。頂上から大きくなってこそ全体が大きくなるのです。死んでいる枝は切ってしまうというのです。分かりますか? (はい)。ですから、根からは絶対的に水分が必要です。人間に天と地が必要なのと同じことです。「生育し、繁殖し、地に満ちて万物を治めよ」(創世記一・二八)と言いましたが、主管するにおいて誰が主管するのですか? 神様が主管するのではなく、神様の愛を完全に受けられ、神様を占領し、神様の前で成功した人々が宇宙を主管するのです。そうならなければならないのです。分かりますか、分かりませんか? (分かります)。(二六―一七二)

 まず皆さんが善の条件を立てなければなりません。そうなれば皆さんは統一教会の愛を受けることができます。そして先生の愛も受けられるのです。分かりますか? 地区長は先生を身代わりしたお使いです。ですから、皆さんが地区長の愛を受けるということは、先生が愛してあげるという約束のもとで愛を受けるのです。その約束は、皆さんが先生の愛を受けるという約束になるのです。(三七―六二)

 食口たちは先生の心を通して神様の前に出ていきます。地区にいる食口は地区長の心、また協会長の心、最後は先生の心を通して神様の前に出ていくのです。先生は皆さんすべてを天国に連れて行きたいのですが、神様の前に立てる条件が必要です。それは神様が公私の区別を確実になさるからです。(一八―一三五)

6 お父様が指示したとおりにせよ

 私たち韓国の責任者たちは、先生が指示したとおりにしないと、今後霊界に行って引っかかるのです。今出ていって、指示したとおり働かないといけない、ということを知らないといけません。あなたたちの思いどおり、あなたたちの考えのとおりには霊界が協助しないのです。何のことか分かりますか?

 命ずるとおりやらないと、私が皆さんに責任を負えないのです。命じるとおりやって成せなければ私が責任を負うのです。(み言のとおりやります)。やりたくなければ行けというのです。やらなくてもいいということです。本来先生が指示したごとく全部しないといけないのではないですか? とぼけるなというのです。先生がやれというとおりやれというのです。

 見なさい。今は、紅海を渡る時です。その時と同じことです。皆さんもそうです。自分の思いどおりにやれば滅びる、ということです。今はヨルダン川を渡り、紅海を渡る時です。紅海を渡る時には全部自分の思いどおりにやったなら滅びるのです。ヨルダン川を渡る時に、十二支派が全部川岸に三日ずつ立っていながらも不平は言わなかったのです。そうやったのでカナンの地に入ることができたのです。時を知らなければなりません。

 天が役事してくれるのです。全部できなければ、あとで牧師一人でもそういう伝統を受けさせて、全体に残せば天が役事するということです。アメリカの牧師全部が天の前に立つことができるのか、というのです。方向をきちんと決定しないといけません。先生が指示したとおりに祈祷するのです。先生の指示どおりに、「天よ、指示したその目的のために協助してくださいませ」と言わないといけません。そこで自分の思いを介入させたなら全部滅亡するというのです。何のことか分かりますか? (はい)。遊びではありません。私が話したとおりすべてに話してあげなさい。今、時がそういう時なのです。

 皆さん自身も知らずに、霊界が全部協助して、牧師の耳に入るようになるのです。分かりますか? 霊界で選んだ人を探すのです。霊界で導くのです。統一教会は出発をそうやってしました。あの姜賢実伝道師の証を聞きませんでしたか? このように先生が言ったとおりにやってこそ、全部霊界が案内するのです。「行け」という時、「行かない」と延ばしたのですが、出発するようになって、ある停車場へ到着してみると、切符を買って待っている人が現れたというのです。分かりますか? 行かなければどうなるでしょうか? 責任者が讒訴されます。ですから従順でなければなりません。神様を身代わりして話すみ言なので、尊重しなければならないのです。(一三五―二〇二)

 アメリカの責任者たちは、先生と会議したあとに、皆さんだけの会議をするなというのです。日本では、録音機を持ってきて、先生が指示したことを録音し、全国にばらまくのです。ですから神様が役事してくださるのです。それを書いていって、そのまま話さなければなりません。そうすれば霊界で協助してくれるのです。皆さんもそうなのです。皆さんも録音機を持ってきてそうせよというのです。自分たちの好きなように翻訳して、ああだこうだするなというのです。そうやったから、アメリカ統一教会の有様が今こんな具合になったのです。火がつかないのです。発展しないのです。霊界が協助しないのです。分かりますか、何のことか。これをしっかり聞かなければならないのです。誰かここに参席して地方へ帰り、先生の言葉と違って教えれば、その人とは友達にもなるなというのです。

 イスラエル民族がモーセの言葉を尊重せず、十二支派七十長老たちが全部自分勝手にやったので十戒を下すようになったのです。この十戒がイスラエルを滅ぼすようにしたのです。それを知らなければなりません。そのために滅びたのです。そのためにイスラエルは滅びたというのです。その法を立てたので、直接指導できないのです。直接指導から離れたというのです。何のことか分かりますか? 十戒を立てたので、直接それを行えない人は神様が対することができなくなったというのです。ですからイスラエル民族は大きな被害を被ったということを知らなければなりません。神様が十戒の後ろに立つようになったというのです。十戒が垣根になったということです。垣根になったというのです。

それを知らなければなりません。法は荒野で作るのではありません。カナンの地へ入って、神様が法を作らないといけないのです。

 今は、毎週先生がどんなみ言を語るか、耳を傾け、聴覚を合わせ、そこに呼吸を合わせ、そこに心を合わせ、そこに行動を合わせる心をもつ全世界統一教会員にならなければならないのです。そうしないといけないのに他のことをしているので先生が何を話したのか……。どこかへ行って別のことをして、何年かあとになって聞いてから、「いつ先生がこういうみ言を語ったのか? 責任者たちが誤ったな」という副作用が起こるのです。

 では、この場所で天国の憲法が生まれるとすると、誰を通じて生まれそうですか? 皆さんを通してですか? 朴普煕を通して現れそうですか? 神様が誰を通してですか? 先生を通して現れるのではありませんか? 統一教会の教会員たちは、今全員天国を創建していくにあたって、先生が指示することを、その国ができた時の憲法以上に尊重することができなければなりません。それがどういうことか分かりますか? 先生の言葉を聞かないと、サタンを防ぎ止める道がありません。別の行動をすれば滅びます。滅ぶのです。見ていなさい。

 この場所で十名が一緒に聞いたのに、その連中が外を回ってする行動が全部違うのです。なぜそうできるのかというのです。聞いた人が十名なら、十名が話す言葉が全部同じでなければならず、やる行動が同じでなければなりません。ところがある人はこう、ある人はこうで全部違います。何のことか分かりますか? はっきりと知らなければなりません。分かりますか、何のことか? (はい)。そうしていては発展しません。入ってきても全員逃げていってしまいます。長く続きません。みんな逃げてしまいます。それは何かといえば、種を蒔くのに毒麦を蒔いたのと同じことです。毒麦は種と光が同じで模様も同じなのです。そうするのは、毒麦を植えるのと同じだということを知らなければなりません。

 毒麦とは何ですか? 毒麦の種の光と模様が同じだというのですか。この連中! あなたたちが種を植えることができるのですか? この連中は! いわゆる三十六家庭程度なら、そのぐらいは知っているのではないですか? あなたたちが種を植えられるのかというのです。先生の言葉を受けて、種を植えてこそ植わるのであって、そのまま植わると思いますか? 神様がそこに協助すると思いますか? この連中は! ですから入っても全員出ていくのです。サタンが追っていくのです。これをしっかり知らなければなりません。分かりますか、アメリカ、ヨーロッパのリーダーたち? (はい)。しっかり肝に銘じておきなさい。(はい)。種は神様から先生を通じて出てくるのです。皆さんではありません。アメリカの教会長ではありません。ここにいる何かの州責任者ではありません。それぐらいのことは、言わなくても全部知っていることではありませんか?

 先生が皆さんのようにやっていたなら、神様のみ旨を見つけたでしょうか? 原理版図に従ってくるから、神様が協助してくださるのです。これが先生の考えですか? 先生の好きなように、思いのままにやっているのだと思いますか? そうするのなら苦労しません。蕩減復帰の道を行くのではありませんか。そうしようとしたなら、四十年間無駄に過ごしたのですか? 四十年間無駄に過ごせば滅びるのです。滅びる。そうやってきたなら滅びたというのです。滅びたのです。今回監獄へ入って終わりになるというのです。終わりになるのです。分かりますか? そこからは芽が出てこないのです。

 見なさい。一国の政令を受けた公使、あるいは大使、特権大使が異国の地へ行き、話をする時に、自分の国の王が伝えた言葉と違っていれば、国が売られるか国が滅びるのです。同じことなのです。そうなれば国を売り払う逆賊になるのです。国を売ってしまうことです。違いますか? 国を売り飛ばす逆賊になるのです、逆賊、逆賊。先生の言うことが正しいですか、誤っていますか? 先生に抗議するのなら抗議しなさい。

 大統領が演説したことを全部複写して、そのままそっくり伝達するのはいいのですが、大統領の演説を自分の好きなように作って、ああだこうだと言うことができますか? 一国がかかっているのに、天国の仕事を勝手に変えることができますか? それは天国を拒絶することです。そうすると神様が離れてしまうのです。神様が役事をしないのです。いくら精誠を尽くしてみてもです。その前にみ旨を押し頂かないといけません。(一三五―二〇三)

 ですから先生が指示した言葉、それ以外望み見るものはないのです。「あなた、こうしろ」と言えば、それを願うほかないし、自分に力になることができ、自分がその環境で開拓できる中心標本がそれ以外ないというのです。その標準の前に、自分がどのぐらい日々その相対的基準となるのですか? そのみ旨と自分がどうやって一つになるのですか? この努力をするかどうかの道において、初めて自信をもつようになるのです。それだけやってみよ、というのです。自信のある神様が共にいることを知るでしょう。

 ですから先生も神様のみ旨、自信を得るために神様のみ旨……。神様のみ旨はこういうふうに進むのです。正に公式になっているのです。このことのためにきょうも行き、あすも行くのです。この原則的なことは、自分の生命が尽きる恨みがあっても、いくら弁明できる条件があっても、その原則を破らないし、秩序をひっくり返しません。どこまでも前は前、上は上です。自分が前に行けないし、自分が上に立とうにも立てません。これをやったなら妄動です。十年の努力が無になるのです。自分が前だと思い、後ろに立った者が前になることはないものと思っていたのに、その全部が逆になるのです。

 ですからみ旨を前に立て、み旨に従っていく……。そうでしょう? み旨を立て、先生のみ言を立て、一年の標準を立てたなら、それを標準としていくのです。皆さん、蕩減復帰路程はどうなるのですか? 公式的標準をかけておいて、それをもって夜も昼も精誠をささげなければならないのです。そうでなければ分からないのです。行く道を知らないのです。皆さん、自信がないでしょう? では自信を育てる所とはどこですか? 皆さん自身ですか? 何ですか? 皆さん、今時がこのように進展していると、皆さんに神様が全部教えてくれるのですか? 分かりますか? 知らないでしょう。(はい)。知らないから、皆さんの自信の基準となり得る、その一つの標準は先生が指示したこと以外はないのです。「毎月一人ずつ伝道せよ」と言ったなら、精誠を込めてそうするのです。精誠を込めて祈祷し、すべての涙を流して……。天命による責任を果たせない親不孝な姿で神様の前に立てない、この恥ずかしさをどうやって免れていくのか、と徹夜して祈祷してみよというのです。すべて解決されるのです。「ああ! こうして行く道だなあ」と、その道を知るようになるのです。

 これらを今まで何の自信もなく、それこそ何をもって歩き回ったのかというのです。先生が話しても、「先生はそうやって話されたが、我々は別に……」あなたたちが別にやって、復帰歴史に、神様の役事に、何か協助できますか? 蕩減復帰が皆さんの定規をもってうまくいきますか? あなたたちの思いどおりには絶対にいきません。ですから仕方なく自分が基準でなく、聖書なら聖書が基準となり、原理のみ言なら原理のみ言が基準になるのです。そうでしょう?

 それが漸次発展するのに、先生がいるから命令をしてあげるが、先生がいなければ皆さんがどれほど難しい道を行くべきか知らないのです。それで先生がいて指示することを全部おそれをもって迎え……。そういう連中の行く道に発展があるのです。一つの仕事をしたなら、必ず上下関係に固く決意しなければなりません。神様の前に報告し、自分の直系の家族(食口)の前に固く決意しなければならないのです。こういうことはこうしなければいけないし、こうやって……。自分がいなくても後継者をつくらなければならないのです。

 これが三段階原則に従って相互関係を結ばなければなりません。上下・前後・左右関係をいつも備えてこそ、存在圏がそのままそっくり存続するということを皆さんは知らなければならないのです。それが原理の教えではありませんか? そうでしょう?(はい)。 今までのあなたたちの生き方は何ですか? あなたたちの好き勝手に生きたでしょう? 本部で話しても、本部で今まで何か経済活動をしても、自分の好きなように全部切り取って使い、ありとあらゆることをしたではありませんか? 一代で悔い改めないといけないのです。(七〇―一五七)

7 同役者間の関係

 サタン側と天の側が敵対していることを考える時、サタン側はあまりにも大きいので、それに対抗するためには、自分一人では駄目です。絶対に自分一人では駄目なのです。必ず同志がいなければなりません。ですから同志が必要なのです。ですから同志に対する絶対的な信頼心が、自分の父母よりももっと切実であり、自分の兄弟よりももっと切実であり、自分の友達よりももっと切実であり、自分の師匠よりももっと切実でなければなりません。そういう中で、互いに夜を明かしつつ話し、生死の境を分かち合って越えていける境地で決心すれば、ここからはどんな所にも比較できない最高の団結力をもつようになります。(二〇―一五一)

 天の前に同情される人にならなければなりません。地球の発展がうまくいかない理由は、隣接している地域の地域長と、天地と、先生から同情されるような立場に立ち得ていないからです。(一二―一五三)

 法度的な秩序を中心にした世界の前進的発展原則に従って発展しようとするなら、第二次的な発展は第一次的な土台が主体性をもってこそ可能だというのです。主体性を備え、二次的な対象の前でこれを吸収でき、料理できる土台となる思考方式、考えがなければなりません。自分を中心としているそこに、もう世界を中心にした考えがとどまれるでしょうか? そうでしょう? 世界を中心にして考えることができてこそ、国を考えることのできる考えがとどまり、教会を考えられる考えがとどまるのです。

 皆さんは今、統一教会教域長という、こういう名前をもって、百二十七郡の責任者という、いわゆる地方においての平面基地に、これを一つの点として見るならば百二十七個の点として、全部これが一つの中心を中心としてずっと点になっているというのです。これを全部連結させていかなければなりません。中心と連結させて、その次に横的に連結させて、さらに四方に連結させるのに不足のない皆さんにならなければなりません。

 四方を全部連結させようとするなら、「全部が私の教会だ!」、また「この国は私の国だ!」こうでなければならないのです。「教会を中心にして連結させるばかりではなく、機関を中心にして連結させ、世界を中心にして連結させるとしても、全部を連結させよう! これは私の教会であり、私の国であり、私の世界だ!」こうならなければならないのです。そうしてこそ連結されるのではありませんか? そうしてこそ、一つの主体を中心にしてすべての教会をいつでも積極的に通ずるにしても、何の矛盾、相衝(注:相いれないこと)がないのです。

 もう一度言えば、皆さんの目の中にある細胞の背後には全部血が通じるのです。そうでしょう? ですから目玉の後ろに行った血が「やあ、私は足の裏には行かない」そう言いますか? 頭へ行った血が「やあ、心臓さん、私は頭に行ってきたので頭にまた送ってください! 足には行きたくありません」そうですか、そうではありませんか? (そうではありません)。では、頭に行った血が、臭いがする足に行くといって不平を言いますか? 不平を言いませんか? (言いません)。なぜ? 自分のものだからです。「私」という生命体がその血よりも貴いからです。

 こういう組織形態を成していくのが、今日の摂理を行く私たちの責任分担です。私たちの責任という言葉がここにあるのです。分かりますか? 私たちの責任。それが皆さんの責任なのです。私を中心にして、東西南北にあるすべての教会が通じることができなければならないのです。また、私を中心にして大韓民国の教会だけではなく、西洋の統一教会と通じなければならないのです。夜も昼も、いつも全世界の統一教会、全国の統一教会が全部自分を経由していくとしても、「おお! 歓迎だ」このように歓迎すると同時に、押してくれるし、そこに同化もできるし、さらに刺激を与えることもできるという時、それはその人の細胞のごとくなるのです。

 そういう横的立場に立てなければならないのです。一つの点の形態ですが、皆さんが百二十七個のその教域なら教域の一点ですが、その教域に、百二十七の教会のすべての教会員が経由していっても矛盾や相衝がない、それだけではなく、「この基点として、大韓民国だけでなく世界の統一教会の信徒たちが来てもここを全部経ていく」と言えるようになっていますか? そうであってこそ、今現在のどこかの郡のための我が教会だと言っても、通ずるのです。郡全体の教会が全部そこを通っても、矛盾、相衝が起こらないのです。そういう立場でその次に、「ああ、大韓民国我が教会!」と言えるのです。「大韓民国を代表した我が教会!」その次は、「世界を代表した我が教会!」どうですか、そうなっていますか? そうなっていなければ、今後そういう人にならなければなりません。

 神様の主管圏というのは教会組織だけを主管するのではないのです。その教会組織を通して国家を越え、世界まで支配するのです。支配するのに強制でしては駄目なのです。順理(注:道理に従うこと)的な面で、これを統轄できる組織的な責任部署が設定されないといけないということを考える時に、それはどこから始まるのかといえば、主体を中心にして皆さんが相対的立場で全体、主体に属する全四方にある個体形態を同化させられるし、吸収消化させられるところから始まるのです。そういう自分になっていくことが実に問題だということを知らなければなりません。それが問題でしょう? こういう問題を考える時に問題が大きいのです。(七八―一四七)

 私がきのう話を聞いてみると、ヨーロッパの責任者たちが一つになれないと言います。この連中、そのことを聞いて、今年中に全部人事異動しなければならないと思ったのです。責任者たちが一つになれないでどうやって原理を話すのですか? 一つになっても難しいのに……。そういう人たちは全部人事異動しなければなりません。ここのこの人(ピーター)とこの人(ポール)が一つになれないことが、ヨーロッパ全域に影響を及ぼすのです。そう、一つになったのですか、ならなかったのですか? (五四―二一一)

 私たちは、自分の力だけではなく、全体を動員して神様の前に利得をもたらすことのできる心を回復しないといけません。それは、同志を愛する心と神様を愛する心、この二つの道しかありません。同志を愛さなければなりません。愛する同志がいなければ、神様を愛せよというのです。神様を愛することによって、結局は同志を愛することができます。ですから、同志を愛するために神様を愛せよというのです。

 皆さんには、統一教会教会員として同志もいるというのです。ところで皆さんは同志をどれぐらい愛したのですか? 同志を愛してこそ、この戦争で実践的な実績を上げるのです。したがって、ここに到達して共同的な利益をもたらすことのできる彼らをどれくらい動員させ、加担させて、神様の前にプラス的な結果をもってくるように動いたのか、という考えをいつもしなければなりません。ですから全部が共同運命体なのです。いつ引っ張られていくか分からない、こういう戦争の時点にいるということを皆さんは知らなければなりません。(二〇―一五五)

 神様は皆さんが神様御自身を愛することより、皆さん同士愛することをもっと喜ぶというのです。父母様を愛することよりも、皆さん同士父母様以上愛することをもっと喜ぶというのです。(一五五―五六)

 今から皆さんが完遂すべきことは責任分担です。今日、全国に散らばっているすべての地域・地区長たちは、あるいはそこに忠誠を尽くす皆さんは、地方に帰ってその分野において、自分一人個別的な活動はできません。今は連結した環境でこの動きを通じ、全体の反応をどうやって起こすことができるのかということを、皆さんは考えなければなりません。天がそうであるようにすべてそうあらねばなりません。(一五五―一二一)

 皆さんは、我々教会機関が精神的な面を指導するのはもちろんですが、生活的な面だとか教育的な面にプラスとなる与件をどうやって提示するかという問題を、いつも考えなければなりません。ですから、「教会がなければ駄目だ」となれば自然に……。教会も彼らがつくるものです。こういう立体的な活動を皆さんが考えなければなりません。

 こういう活動を一人でできなければ、郡の下に教会が三つあればこの三つの教会長が合わさって、私は何を専門的に研究し、あなたは何を専門的に研究し、私たちが巡回しながら互いに協助しようとしなければなりません。一人でやるよりも三人が協力して指導するようになれば、それだけ良い面を打開できるのです。また、三人が協力すればいくらでも範囲を広げ、拡大できるのです。

 ですから教会長が五人なら五人、十人なら十人を各分野で研究させて、食口の前に影響を及ぼせる、プラスとなり得る集会をしなければなりません。こういう問題を皆さんが今後適用させなくては、対社会活動において孤立しないかということを、考えざるを得ないのです。(五六―一五)

8 行政体制

 先生は皆さんに体系を立ててあげているのです。体系というのはどうやって動くものですか? 先生は支部、あるいは本部の責任者および指導者たちに耳を傾けるようになるのです。先生は直接一般食口たちに耳を傾けるのではなく、彼らに耳を傾けるほかないのです。甚だしくは、その指導者、あるいは支部責任者が何か失敗をする場合でも、その人が指導者、あるいは責任者として立てられた以上は、本部や先生は特定の問題に関し、その人が言うことに耳を傾けざるを得ません。これが体系であり秩序です。(五二―二一九)

 本来は地区長会議なら、州責任者会議をするようになれば、現在十一の州責任者とその次に巡回師、そのほかに先生が来いという人以外は一切……。全部教会本部指揮下にあって、事業分野指揮下にあるので別の組織になっていて、会議も別にしないといけないのです。先生が主に話すのは、州責任者たちが活動するのを標準にしたものなのです。ですから事業分野だけでなく、各分野はその方向が違うのです。ですから特定のケースとして、今ここに国際機動隊も参席しなければならないのです。カープとどこですか? 国際勝共連合も同じように……。その課以外は日を別に定め、特別に別個に集まらなければならないのです。ですからそれを定める時までは、きょうここに参席せよと話した人たちは、次から参席せよというのです。

 本来は二つに分けて会議をしないといけないのです。なぜそうかといえば、教会なら教会活動するのに指示事項を知らない人、責任をなせない人たちが来て、全部うわさを流せば支障が多いからです。ですから誰でもむやみに幹部会議に参席できると考えては駄目なのです。できるなら責任者一人だけ会議に参席せよというのです。(バージニアには二人います)。二人いれば、本来責任者が参席し、他の人々はその責任者を通して聞けというのです。二人、三人、全部来れますか? ですからそうせよと言うのです。そうしてこそ統率されます。二人がやれば命令をしても……。(八九―二九七)

 皆さんは直接神様と通ずる道がないので、先生が橋を架けてあげています。ですから先生が今何をしていて、どんな使命を指示しているかを知って、いつもそれを中心に相対的立場で授け受けし自分自身を拡大する時、神様は共にいらっしゃるのです。ですから公文を重要視せよというのです。分かりますか? (はい)。ですから公文を重要視し、本部で送る発刊物を重要視せよという話もするのです。(六〇―二四九)











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