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二 侍る生活

P426
1 侍る生活開始の日時

 この日から、侍る生活をしなさい。(一九六〇・陰一〇・一 第一回子女の日)

2 侍る生活の目的

 侍る生活をしようとすれば、まず最初に誰に侍らなければならないでしょうか。神様に侍らなければならないのです。神様に侍る目的はどこにあるのでしょうか。結局、自分が良くなるためなのです。良くなるためにはどうすればいいでしょうか。神様の愛を受けなければなりません。神様の愛を受けなければ、どんなに外的に自分が良くなるように努力したところで、神様の愛がとどまる人間になれずに、良くなることはできないのです。

 今日まで統一教会は迫害の中で、本当に難しい道を歩んできましたが、今まで滅びずに発展してきたということは、神様のみ旨の中にあり、そのため神様の愛を受けることのできる立場にあったからです。神様の愛を受ける団体や人は、神様が保護されるというのです。そうでしょう? 皆さん、そうではないですか。愛する子供のことは、父母はいつも、たとえ子供が親のことを考えなくても考えているものです。この世でもそうではないですか。夫婦なら夫婦同士だけでも、愛する妻や夫に対しては、その当事者が知らなくても考えてあげ、幸福を祈ってあげ、あるいは助けてあげる道をみな行ってあげようとするのです。このことは、夫婦たちの愛により因縁をもっていることを私たちが知るようになるのです。

 国に対してもそうだというのです。国に対して愛する心があるとき、国を愛するその心に感動を受け、その国民がその愛を通して恵みを受けるようになるのです。ですからその国においては、すべての国民が愛国者になることを願わなければなりません。愛国者が多くなれば、その国は栄えるのです。それはなぜかというと、神様の愛によって一国のすべての存在物が、神様の愛の中で、保護を受けて生まれるからです。

 ですから神様の前に、さらに愛を受ける存在の前には、我知らず引かれていくというのです。人も引かれていき、お金も引かれていき、すべての万有の存在が引かれていくのです。もちろん、この実体世界もそうですが、霊的世界も引かれていくというのです。そのため、少しずつ少しずつ、神様の愛を多く受ければ受けるほど大きくなることによって、それは自動的に一つの中心的な個人になることができるのであり、団体になることができるのです。また国民を通して愛を受けることのできるそのような基盤を築いたなら、世界を動かすことのできる一つの国家になるというのです。

 これが原則ですから、皆さんは侍る生活をしなければならないというのです。ですから、侍る生活をなぜしなければならないかという問題を見るとき、神様の愛を受けるためだということを知らなければなりません。ですから、神様にまず侍らなければなりません。神様に侍らなければならないというのです。(七八―三〇)

3 侍る生活は精誠を尽くして真の父母と一つになること

 神様の愛を受けようとすれば、どうしなければならないのでしょうか。神様が、私たち人間に完全な愛をもってきてくださったほど、私たちが完全な何かを投入しなければならないのです。「至誠ならば感天」という我が韓国の格言もありますが、真にそれは天理に通じたものです。「精誠をすべてささげる」という、その精誠をささげるそこには、内外を尽くすということです。また、言行心事とすべての実践、内外のすべての、私たちの良心生活圏までも、すべて合わせてささげるということです。それが精誠だというのです。「精」は精神をいうのです。「誠」は、み言の言偏に成すと書くのです。ですから内外すべてを成して、ささげるという意味なのです。そうなればこそ感天なのです。天が感動するのです。天が感動することによってどうなるのでしょうか。その人を考え、考えるだけでなく、いつもとどまるようになれば、そこには愛がやって来るのです。すべての考えがそこにとどまるようになる時、愛がここに連結されるようになるのです。皆さん、そうでしょう? 考えが行く所に人の心は行くものなのです。

 ですから精誠をささげる立場に立てば、神様の愛を受けられるのです。このようになるのです。神様が私たち人間を愛してくださるように、皆さんが神様のために精誠を尽くしてすべてのものをささげるならば、神様の愛を初めて感じることによって、神様を愛することができるのです。

 本来堕落したので、皆さん自身は神様を愛することはできないのです。ですから、神様のために精誠をささげることによって神様の愛が私に訪れてくるのであり、その愛を通して神様を知り、神様を愛することができるようになるのです。愛の根本は神様なのです。(七八―三一)

 私たちがこの愛の歴史を詰めて考えてみれば、愛は神様から出発しましたが、それが出発してどこに移っていったかという問題を前にしてみるとき、昔、アダム・エバの時代を考えてみるならば、アダムに移っていったのです。アダムを通して愛の歴史は連結されてきたのです。神の愛は父親を通して連結されてきたということなのです。その次にその愛は、父親を通し、母親を通して移るようになります。こうして母と父の愛が合わさって実を結ぶようになります。二人が一つになることにより、本来の神様の対象的な深い愛を、そこにもつことができるというのです。

 二人が、夫婦がお互いに愛を授け受けすることのできるその場において、初めて第二の愛の主人公になることができるというのが原理観です。第一の愛の主人公は神様ですが、第二の愛の主人公は、必ずアダム・エバが一つになることにより父母になるところから始まるのです。ですから父母とは何かといえば、愛の第二の主人公だというのです。

 そのように愛の歴史は神様から父母を通して子息に及んでくるのです。これが本来の愛の由来となった伝統的歴史というものなのです。(七八―三二)

 私たちは侍ることを待ち焦がれています。誰に侍ることを願うのですか。来られる主に侍り、さらにその主が侍る父に侍って生きることを願うのです。それが私たち人類の願いなのです。救いというものも、この基準を通さなければなりません。(八―二九三)

 今日、我々統一教会は神様の愛を受けるために信仰していますが、どういうふうに信じなければならないかというのです。どのように信じなければならないのでしょうか? それは神様の愛を中心として、第二次的にこの愛の主人と同じ立場で、霊肉完成的基盤の上に立ったのが真の父母ならば、真の父母を中心として至誠を尽くす道しかないという結論に至るのです。この生活が何かといえば、統一教会でいう侍る生活だというのです。(七八―三四)

 神様の愛はどこから来るのでしょうか。それが来る方法はほかでもありません。父母様のために至誠をささげ、神様のために至誠をささげることなのです。神様のために至誠をささげ、父母様のために至誠をささげたならば、漠然としていますが、平面的に運勢が動くので、すべての面で、さっと直感的に悟ることが多いというのです。(七八―四三)

 侍る生活とはどういう生活でしょうか。至誠を尽くす生活です。昔は、霊的に神様に対して精誠をささげましたが、今日は実体的な父母の前に孝を尽くすのです。その至誠を尽くす道が、国に対して忠誠を尽くす始まりであり、これがこの万民に対して万国を代表した聖賢たちがしたことなのです。

 ですから、今日この地上に平面的立場で父母に侍って、一つの孝を尽くしたというその事実は、国の忠臣の道理を受け継ぐことができ、世界の聖人の道理を受け継ぐことのできる価値あることなのです。ですから神様の前に、あるいは真の父母の前に孝子の名をもち、孝子の公認を受けるということは、このように偉大で驚くべきことなのです。その位置に立つようになればイエス様もうらやましがることでしょうし、今までの歴史上のどのような道主もうらやましがるということを、皆さんは知らなければなりません。分かりましたか、何の話か。(はい)。(七八―三五)

 侍る生活は遠い所にあるのではないのです。神様の愛の役事は、父と母を通して、これが一つになれば、第二の愛の主体として現れるのです。この主体を通して一つとなっていたならば、堕落はなかったことでしょうが、これが壊れたのです。それで、これを再現させるための真の父母の愛を中心として、対象的横的基盤を拡大させることが統一教会の復帰歴史です。このような生活舞台を整えてこそ、皆さんが地上で天国実現が可能であることを知らなければなりません。

 天国は、何でもありません。神様に侍り、父母様に侍りながら、愛を受けて生きることであり、それ以上のことがあるでしょうか。違いますか。神様に侍り、父母様に侍り、その次には何でしょうか。互いに愛し合えればいいでしょう……。それが天国なのです。ほかでもないのです。

 皆さんがこれを中心として、夫と妻に適用し、同僚との間にも、この愛を適用しなければなりません。私が父母様に会いたいのと同じように、父母は自分の兄弟を自分よりもっと愛してあげることを願います。それだけ知っていればいいのです。事実そうだというのです。自分の父母に対し孝行したいといいながら、兄弟同士争うようになれば、その孝行は成立しないのです。ですから、父母の心は、自分が尽くされるよりも兄弟同士もっと「ためにしてあげる」ことを願うというのです。父母を顧みなかったとしても、「母さん、ちょっと待って、僕、弟を愛してくるから」と言えば、「この子、これから役立つ子だ」と言うのです。そうでしょう?

 それと同じく、兄弟を父母以上に愛そうという人は、天国の境界線の中に永遠に住むことができる人です。兄弟を父母と同じように愛せない人は、ここから外れるのです。これは簡単です。その道理の根本を悟らせてみれば簡単です。それが分からなくて今までできなかったのです。それを皆さん知って、私たち食口同士一つになれるのかなれないのかが問題なのです。父母の前に孝行できない、そんな立場に立ったなら、父母のために精誠を尽くせない分、父母の代わりに食口のために与えなさいというのです。そうすれば、父母に孝行した以上のこととして、天は受けてくださるのです。そんな人は必ず祝福されるというのです。(七八―四一)

4 侍ることの心の持ち方

 皆さん、侍義時代とは何でしょうか。(侍る生活をする時代です)。

 皆さん、今は示威(デモ)の時代ですか、侍義の時代ですか? ところで最近、デモをする人たちが多いです。だからといって、侍義なのか示威なのか、訳もなくぼんやりしないでください。

 皆さんは侍義時代、すなわち侍る生活において正確な中心を置かなければなりません。神様に侍る所には、法度があります。その法度に外れる時には、神様はとても怒られる方です。子を愛する父母が、子の言葉一つによって胸に釘を打たれたり抜けたりするのと同じく、神様も人間を愛しておられるので、怒りの多い方なのです。ですからちょっと間違えば、神様の怒りを買うことになります。ですから、先生も先生なりに神様を喜ばせようとしているのです。服を着るときにも、うまく着ないといけません。先生も服をうまく着ている人を見ると気分が良いのです。ですから先生も、そうでなくてはいけないと考えてスーツを着てきたのです。そうでなければジャンパーを着てきたことでしょう。(一七―二八七)

 私たちが神様に侍るための初めの一歩は、耐えることです。誰のために耐え忍ぶのですか? 全体のために耐え忍ばなければなりません。全体目的のために中心的思想をもって、それが成るまで耐え忍ぶのです。そこに不平不満は同居することができません。そのようにするところから、神の国と天の基盤が広がっていくのです。(四四―一八)

 不平を言ってはいけないのです。不満をもってはいけません。自分を考えてはいけません。自己所有、自分を愛する観念を立てては駄目です。神様を考えながら、耐えて消化させて、自分が不平を言う前に「私が不平を言えば、父母様はどんなに心痛いだろうか! その方の事情を私が知り、その方の伝統を引き継ぐことのできる瞬間が私の前にやって来たなら、それを引き継ぎ、その方に従いながら、その方を慰めてさしあげよう」という心をもつのです。そうすれば、涙のにじむその場に天が共にあられるのです。間違いないのです。自分のために泣くのではありません。その方がどれほど悲惨であったのかを考えながら涙をにじませるその場に、天が共にあるのです。自分を中心とした涙には神様は共にいてくださいません。神様のために泣き、父母様のために泣かなければなりません。これが統一教会の祭壇であり、統一教会の侍る生活だということを皆さんは知らなければなりません。分かりましたか? それを皆さんの後孫に……。(一一四―二八一)

 皆さんがお父様に侍る時が来たならどうしますか? どのように孝行しますか? そしてどのような姿でお父様に侍るのかを考えなければなりません。お父様とどの川辺で会うことができるでしょう! どんな所で会えるでしょう!

 皆さんが遠い山里に入って生活するようになれば、統一教会の食口たちが訪ねてきてくれればと切に願うようになり、また、食口の中の誰かがどこか悪いのではないかと心配するようになります。そして自分と一番近い食口を迎えたらいいのに、また先生を迎えられれば、地区長を迎えられれば、地域長を迎えられればいいのに、という慕う心がなければなりません。

 毎日のように慕わない人は、神様に侍ることはできません。皆さんはそれを知らなければなりません。誰を慕うにしても、いつも慕う心が染みていなければなりません。ところで、夜十二時にさえなれば「おい、寝よう」という人は、神様に心配をかける人です。天国には夜昼はありません。心情の因縁を抱いてくるとき夜が問題ではないということです。人から反対され、迫害を受けている言葉を聞けば、その人よりもっと憤慨し、心を痛め、褒められている人を見れば、その人を地域長や地区長に報告して、誇ることができなければなりません。全部報告して、誇りたい心を、皆さんがもたなければなりません。

 ですから、慕う心がない人は侍る生活のできない人です。慕う心、すなわち本部を慕い、地区を慕い、地域を慕い、教会を慕い、食口を慕い、兄弟を慕わなければなりません。そのような心をもって生活する人は、絶対に寂しくないというのです。

 それで、その人によって必ず繁殖が起こるのです。そのような基準のもとで教会を建てれば、それは正常な教会です。それではあなたたちの教会はどうですか。全部冷え冷えしているというのです。このような慕わしい心が基盤になっていなければ、皆さんが写真でも見ながら、独り言で慰労できなければなりません。言葉なく編まれた事情は、もっと素晴らしいものです。そうすれば、お父様が、その間に流された涙が、一つの感情で溶けていくのです。皆さん、そのようにやってみましたか?

 その流れる涙の中で、天に通ずることのできる感情が生まれるのです。涙を流しながら父を呼ぶとき、その声はどこに行くのでしょうか? 食口たちの難しい姿を見るとき、そのことは人ごとではありません。(一七―二九三)

 人間において、神様を愛することが最初の戒めですが、愛するときには死ぬほど愛さねばなりませんか、一時的に愛さねばなりませんか? (死ぬほど愛さなければなりません)。では皆さんは神様を死ぬほど愛しますか、死ぬほど愛しませんか? (愛します)。よし、死ぬほど愛するという人は手を挙げてください。雷に当たって死んだとしても愛さなければなりません。神様を死ぬほど愛さねばならないというのです。それでは死ぬほど愛さねばならないとすれば、死ぬ前まではできないことがないというのです。

 皆さん、白頭山の頂上に登ってそこにある磐石を耕し畑を切り開いたのち、じゃがいもを植えて、そのじゃがいもで神様を奉養することができますか? しますか、しませんか? (します)。それをしなければなりません。その時は、牛がいなくて愛する妻を牛のようにして畑を切り開いたなら、雷を受けるでしょうか、受けないでしょうか。妻を牛の代わりにして畑を切り開こうとする時、神様が「おお、やめろ」と言われたならしますか? 汝の心を尽くして、汝の意を尽くして、汝の精誠を尽くせと語られましたが、そのようにしますか? (します)。(三七―二五)

5 侍る生活の態度

 皆さんは侍義の生活をしなければなりません。朝、寝床から起きて最初の言葉を天の前にささげ、家を出る時も、第一歩を右足から踏み出して天の前にささげなければなりません。普段の習慣がこのようになれば、皆さんの生活は侍義生活になることができます。このような観点で皆さんは、原則的基準から生活態度を取っていかなければなりません。(一七―二九六)

 皆さんが考える神様に対する侍る生活は、どうしなければなりませんか? 侍る生活をどうしなければならないかというのです。神様を私と一体と考え、真の父母を一体と考え、生活すべてを……。ここに私が住んだなら「このすべてのものが神様のものであると同時に真の父母のものであり、真の父母のものは、真の父母の国のものであり、真の父母の国のものになれば、私のものだ」このような観念をもたなければなりません。この宇宙も真の父母のものであり、この家も真の父母のものであり、すべての国も世界も真の父母のものだから、私は真の父母の息子なので、すべてのものは私のものだという結論が出てくるのです。

 ムーニーは違わなければなりません。先生が便所に行けば、ぐるぐる巻かれたそれ(トイレットペーパー)も三回、四回以上ちぎりません。君たちはただむちゃくちゃちぎるだけだというのにです。できるだけ三十センチ以上はちぎりません。切るときには、それ以上は駄目なのです。アメリカ人の中では誰よりも少なく切って使うと思います。(笑い) 神様の前に、「こらこいつ、恥ずかしくないのか?」そんな叱責を受けないようにするのです。それがどれほど世界に利益になり、どれほど革命が起こるか分かりません。

 もし仕事をして賃金をもらうとしても、他人よりも仕事をもっとして同じ賃金を受けなければなりません。少しして同じ賃金をもらおうとは考えないのです。違うのです。既に違うのですね。反対にさっと展開するのです。霊界に行って大きなものを受けようと思えば、地上では反対に小さなものにも神経を使わなければなりません。これが(黒板に書かれながら話される)延長線です。普通の人々はこの延長線の外に出るのですが、私たちはこれだけ受けようということです。霊界では地上で少し受けた人であるほど、たくさん犠牲になった人であるほど多くを受けるのです。反対になっているのです。分かりましたか? (はい)。この世の人ならばいい服をずらっと掛けておけば、みんなが駆け出していっていいものを持っていきますが、統一教会の輩たちは、みな持っていったのち、最後に……。考えが違います。

 ですから天も良く思いますが、この世の人たちも良心をもっている人は良く思うのです。この教育は特別に黒人に必要です。白人に対して負けないように、白人以上にもっと努力して……。そうしたなら、誰が嫌いますか? どこの道を行ったとしても、人のものが落ちていたなら誰が見ようが見まいが当然取って、持ち主を捜してあげなければなりません。既に天を認識した人は違うというのです。

 私たちは神様に侍り、父母様に侍っていくのです。話してもそうであり、行動してもそうであり、寝ても覚めても、そのような生活をしなければなりません。このようなコンセプト(concept:概念)だけをもてば、二十四時間サタンが侵犯できるところは一つもありません。アメリカが私に反対しましたが、それはサタンが反対したことであり、アメリカ自体が反対したのではありません。どんなにサタンが妨害しても、私が教えることが正しいということになった時は、アメリカの国民は私について来るようになっていると考えるのです。そのようなコンセプトをもっていますか?

 ここに服があれば、自分の服だと思ってはいけません。これは神様の服であり、父母様の服であり、私たちの兄弟の服を代表で着るのだと考えなさい。自慢することはできません。食べるものもそうです。私の御飯ではありません。神様が下さった御飯であり、父母様が下さった御飯であり、兄弟がくれた御飯だというのです。御飯をよく食べて、「ああ、気分がいい」という私ではいけません。先生はそう考えます。よく食べたなら済まなくて、「世界の統一教会の教会員の中には、この時間飢えている人もあるだろうにどれほど苦労したろうか、私が代表して食べたので代表的に仕事をすることのできる責任をもっとしなければならない」と考えるのです。先生がそのように考えるので、苦労した人が不平を言わず従ってくるのです。十年二十年、一生を先生に従ってきても嫌にならないのは、先生がそんな生活をするからです。このような人がすることは失敗するようですが、必ず成功するのです。見なさい。先生は多くの迫害を受けながらも四十年間、歴史にないことをたくさんしてきたのです。

 さあどれを取りますか? サタンが好きなものを取りますか、神様が好きなものを取りますか? (神様が好きなものです)。どちら側で生きますか? サタンの側で生きますか、神様の側で生きますか? (神様の側)。生活自体をそのようにしなければなりません。仕事をしに職場に行っても、父母様と共にあるのだと考えなさい。神様と共にしているのだと考えなさい。

 そしてまた、これからすべての人々を教えてあげる伝統を立てて、模範になるよう仕事をするのだと、そのように考えなければなりません。そのような人はサタンが侵入できますか、できませんか? (できません)。それがなくなれば、一遍にサタンの干渉圏の中に入ってしまいます。

 それで侍義生活と天国生活をするのに、天国があれば救援完成がなされるのです。皆さんに突然「お前は何を考えているのか」と聞けば「神様! 真の父母様! 真の子女! 真の国家!」と我知らず答えられるようでなければなりません。そのために手足を動かし、そのために体を動かし、そのために食べて生きるのだというのです。(一六一―二三一)

 皆さんは神様に侍る者として、皆さんが喜んでいる時、どれほど神様を喜ばせましたか? 皆さんが空腹の時、御飯を食べながら感じる有り難さ以上に神様に侍らなければならないのです。

 皆さんは、いいものを食べる時や着る時、そして悲しい時や困難な時も、いつも神様に侍らなければなりません。ですから神様の心に記憶されることのできる内容を残しておかなければなりません。(一七―二九一)

 心情の世界では物をもって通じるものではありません。心で通じるものなのです。いつも感謝する心で、目上の人が悲しい時、共に悲しむことができ、うれしい時、共に喜ぶことのできる因縁をもって通じるのです。そのように生きる人間に、神様が共におられるのです。それで彼が悲しむ時、神様も悲しみ、彼が喜ぶ時、神様も喜ばれるのです。ですから皆さんがこのような段階を経ずに地区長に対し、地域長に対してはいけないのです。

 侍ることにおいては段階があるのです。そのため統一教会の教会員になったとしたなら、誰でも七年路程を経なければなりません。すなわち七年路程は侍る生活に対する準備の過程として、堕落した人間たちに絶対的な過程として残っているのです。

 にもかかわらず、七年路程に関して多くの人は知らずにいます。すべて忘れてしまいました。皆さんはどうですか? 「七年路程が何だ? どうってことないさ」このように考えてはいけません。そのために、家庭でいうならば、二人が生きているとするならば、四人が生きるような生活をしなければなりません。すなわち、父母に侍らなければならないのです。しかし、父母だけに侍ってはいけません。さらに、その息子にまで侍らなければならないのです。分かりますか? ですから、皆さん自身が四位基台を復帰するために父母だけに侍っては駄目なのです。必ずその息子にまで侍らなければなりません。このようにして皆さんのすべての精誠を彼の前に連結させなければなりません。そうなれば、外的な面では二人が生きますが、内的な面ではあたかも四人、五人の生活基台になるのです。

 父母に侍るには三年間侍らねばなりません。なぜ三年でしょうか? 三数過程を一遍に復帰するためなのです。そのため皆さんが家庭を中心として生活するようになる時は、先生はいつという予告なしに皆さんが住む家を訪問したとしても、先生が寝る部屋がなければなりません。部屋がなければ席だけでもなければなりません。その場所は精誠をささげる場でなければなりません。ですからその席を中心として一部屋でもいつも精誠をささげる場所をつくっておかなければならないのです。そのようにして父母に侍ることのできるその日が来たなら、服を着るにも準備した服を着、履物を履くにも準備した履物を履き、きれいにして侍る準備をしなければなりません。ほうきを持って庭をはくとしても、もう一度はかなければなりません。そして父母を千回万回、回想しなければなりません。皆さん、そのようにしてみましたか? 生きている教会になるためには、みなそうでなければなりません。教会にはお父様が来られて祈祷することのできる場所がなければならないのです。普段から心情のろうそくをつけておいて精誠をささげなければなりません。(一七―二九一)

6 天国とは心情で侍った者が行く所

 天国という所は、心情で通じなければ行けないということを皆さんは知っていることでしょう。天国は全体を主管することができる本然の国であり、本性の国だというのです。その国はある事情をもっては所有することができません。深く浸み込んだ心情の因縁を整えてこそ所有できる国です。ですからキリスト教は究極的に、事情を通ずる教会ではなく、心情を通ずる教会です。事情を越えて心情を歌うことのできる基盤を築くところに、地に対して摂理される天の目的があるのです。

 堕落とは何でしょうか? 神様の事情を語れないのではなく心情を語れないのが堕落なのです。堕落した人間を探しこられた神様は、失われた息子、娘に対する心情をもっていますが、その心情を分かつことのできる人がいないので、その人たちを探し立てる役事をされます。それが摂理歴史であり、その人たちを探し立てるために送られた者が、救世主だということを皆さんははっきりと知らなければなりません。

 私たちは、天国を願う前に神様の心情を願わなければならず、また神様の心情を願う前に、私自身はどのように生きていかなければならないかを考えなければなりません。皆さん自身は、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものに対しては、頭を垂れて慕うのが人間の本性です。私たち人間は堕落したとはいえ、高く貴い天の心情に対して侍りたいというのが、私たち造られた人間の本然の心情です。それゆえに、心情が通じることのできる侍る生活をできなかった者は、天国と何らの因縁もないということをはっきりと知らなければなりません。

 ところで、侍るためには侍ることのできる準備が必要です。その準備過程を経たあとは、侍る生活が必要です。侍るための準備の過程を経て、侍る生活を経たのちに行く所が天国なのです。心情から侍った人が行く所が天国なのです。侍ることのできる準備と侍る生活を褒めたたえ、高く現す世界が天国です。これを皆さんははっきり知らなければなりません。私たちはこのような目的の世界に向かっていく過程を経なければならない運命におかれているのです。

 堕落の血統を受けて生まれたその日から今日まで、全世界の人類が心情を尽くして天に侍った一日があったでしょうか? ないのです。堕落しなかった私たちの先祖アダム・エバは創造理念を通して育ったのですが、心情の因縁を立てておいて神様に侍ってみた時間がなかったのです。

 神様の恨みとは何でしょうか? 心情を中心として神様に侍らなければならない人間が、侍ることのできない位置に落ちたことであり、心情を中心として侍られなければならない神様が侍られなかったということです。信じる者がいないことが恨みなのでなく、神様を知っている者がいないのが恨みなのではありません。心情を通して神様に侍り、心情を通して神様に対することのできる人がいないということが天と地の恨みだということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。(八―二九〇)

 天国とはどのような所なのでしょうか? 準備したことを誇る所であり、侍る生活をしたことを誇る所です。それでは天国はどのような人が行く所なのでしょうか。主を信じ福を受けるために、福を前に立てていく者が行く所なのでしょうか? 違います。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした者たちが行く所です。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残して喜んで行くことのできる者が行く所です。そこに復活があるのです。

 侍るための準備をしたあとには、侍る生活をしなければなりません。準備する目的は侍るためです。侍る生活をするためです。侍る生活はどういうふうにするのですか。皆さん、環境を探って調べてみてください。生活の内幕が表れていませんか。どのように生活するかということが、今私たちが侍る生活をする中で考えなければならない重大な問題です。

 主に対する時は、このように対さなければならないという準備をしなければなりません。主に侍る準備の生活をしなければなりません。侍る時、はるか天上に行って侍るのではなく、この地上で侍る者とならねばなりません。皆さん、主に侍ってみましたか? 主の顔はどうであり、主の体はどうであり、主の鼻はどうであり、主の笑われた目はどうであり、主の声はどうであり、み言を語られる主の口はどうであり、主の手とすべての態度はどうであるか知っていますか?(八―三〇四)

 皆さん! 私たちは心から泣かなければなりません。心情から泣かなければなりません。後ろを見ても涙であり、前を見ても涙であり、左右を眺めても涙であり、上下を眺めても涙です。罪なる自分のために苦労される神様を考え、自分が体の中にいるのか体が自分の中にあるのか分からないほど、自分の存在意識を忘れた立場で食べるのも忘れ、着るのも忘れ、威信と地位を忘れ去り、畏れ、平伏し、痛哭する時間がなくてはならないのです。これが新婦の路程に入っての第一の段階だということを皆さんは知らねばなりません。そのような心に徹し、そのような心情に交わり信仰の衝撃を受けられないものは、来られる主と何の関係もないということです。(八―三〇三)

 私たちは知らなければなりません。何を知らねばならないのですか? 神様の事情を知らなければなりません。その事情を知って何をしなければならないのですか? 神様の心情を知らなければならないのです。神様の心情を知ってからは何をしなければならないのですか? その次には神様を私の父としなければなりません。私の父、私たちの父。

 私たちが、このように学び、聞き、侍る生活をするのは何のためなのでしょうか? 六千年間人類が苦しみあえいできた目的は何ですか。それは聖書に流れている神様の事情を知り、神様の心情を知るためなのです。民族や国家は言うまでもなく、個々人に父母の心情をもって対し、傷つき、蹂躙され、排斥され、引き裂かれてこられたその神様が私の父だということを知るためなのです。

 天は待ち焦がれていらっしゃいます。この世の高価な金銀宝石や真珠を願われるのではなく、心情、心情、心情に凝りすべてのものを抱き愛して、天と共に生活する人を要求しておられるということを皆さんは知らなければなりません。

 そんな心情に凝って準備する自身になったならば、皆さんの目と耳と口と体はどうしなければならないのですか? 心情を通して見、心情を通して聞き、心情を通して話し、心情を通して行動しなくてはならないのです。心情を通した因縁をもって生きなければならないというのです。心情を通ずることのできる目をもち、主と共に見ながら侍ることのできるそのひと時、心情を通して聞くことのできる耳をもって主と共に楽しむことのできるそのひと時、心情を通して話し、心情を通して行動しながら生きることのできるそのひと時を慕い、天は六千年間探しこられたというのです。

 皆さんの目と、皆さんの耳と、皆さんの口と、皆さんの体が、天と因縁をもっていますか? この目は見ても心情に因縁づけられて万物を見ないといけないし、この耳は聞いても心情の因縁となって叫ぶ声を聞くことができなければならないし、この口は心情の通じることのできる言葉を話さねばならないのです。この体は心情が通じることのできる生活をしなければならない基盤ですが、まだ侍る生活の場として越えていく前の準備段階にいる私たちです。ですから皆さんが整えた心情的準備はどの程度であるかということを考えないわけにはいきません。

 天は願っておられます。神様は心情の通じる万物が神様の差し伸べるみ手になでさすられるように願っておられるのです。心情の通じる子女によってすべての息子、娘が抱かれるようになることを願われるのです。心情が通じることのできる新婦たちによって、神様の主権が成ることを待ち焦がれておられます。心情が通じることのできる息子、娘の前に、この世界が主管されることを待ち焦がれておられるというのです。このことを皆さんは考えてみましたか? 考えれば考えるほど、ものすごいのです。

 このような神様の願いが私一身だけでなく天宙まで連結されていると考える時に、私は主のものなのであり、父のものであるということを否定できません。それゆえに私の心も父のものであり、私の心情も父のものであり、私の意識と直感と感覚器官一切までも父のものであり、私が考え意識する全体が、心情を通じることのできる父のものであるという観が決定されねばなりません。そうならない限り、心情を通して動く天を所有することができないということをはっきり知らなければなりません。(八―二九四)

7 侍る生活の事例

 先生がどこかへ行くというとき、皆さんは千里の道も遠いとは思わないでよく歩いて回ったでしょう? 三カ月前に家でよもぎ餅を作り、その餅が汚れるからと開けもしないで本部まで担いできて、先生に差し上げるのだと開いてみると、餅がすえて真っ青なカビが生えていたことがあったでしょう? そんなふうに真っ青なカビが生え、うじがわいてもいいというのです。その餅は食べられなくても億兆の金に該当するのです。そうすればするほど情が通じるということです。

 また、影島に住むあるおじいさんがいました。そこからジャガルチ市場に行こうとすれば、舟に乗らなければなりません。それでそのおじいさんは、ジャガルチ市場に行くために舟に乗っていって、大きな船を見れば、「ああ、あの船に先生に乗っていただいて世界を遊覧すればどれほどいいだろうか」と思いながら、これからそうなるであろうと考えるというのです。そして新鮮な魚を見れば、その魚の尾にすがって泣きもしたというのです。そのような心が必要だというのです。

 そんな環境でもそうできるということは、真の愛をもっているからです。気質的にそのようなおじいさんは、愚鈍に見える傾向があります。事理に合わない鉤のような性格をもっているというのです。

 愛というものは愚鈍で愚かなものです。何の状況も分からないのです。そうではありませんか? 本当に愛したなら、横で誰が見ようと見まいと関係ないというのです。誰かが見るのを意識する愛は、限界圏の中の愛だというのです。誰が見ようと見まいと、意識しないでできるそのような境地の愛が、どれほど愚直で愚かであるかというのです。

 ある時は遠い山里で掘ったトラジ(注:ききょうの根)を先生の前に持ってきて、涙を流すのです。そんなことが、霊界に行ってそのおじいさんを解放することのできる良き資料となるのです。(三三―一一三)

 許孝彬集団で侍る時どれほど精誠をささげたのでしょうか? 皆さんは夢にも想像できないことをしたのです。天に侍る法度を果たすためには、どの程度精誠をささげたのでしょうか? 天の王子として、この歴史の父母として来られるその方、六千年の恨みを抱いて来られるその方、堕落した私たち後世のため、歴史的にこびりついたその方の恨みを、精誠をささげた基台で解いてさしあげねばなりません。一代で解かなければならないこのような使命を神様が教えてくださりながら、侍ること全部を教えてくださいました。ですからその集団、信じる人の家にはいついかなる時でも主が訪ねて来られれば、朝食、昼食、夕食と食事を接待してさしあげる準備をして待つということをしたのです。そこでささげた精誠は到底口では話しきれません。

 また敬拝をどれだけしたのでしょうか? 三千回は普通で、七千回までしたというのです。七千回、分かりますか? 敬拝を三千回しようとすれば五時間ないし六時間かかります。七千回をしようとすれば十時間以上かかるというのです。ところで、朝から、あるいは早朝から始めて食事もせずに七千回敬拝をしながら侍る訓練をした集団が、その行くべき道をつかめず、みな崩れていったのです。

 天の準備された伝統的な役事でしたが、みな流れていきました。しかし、それは天の深い内容なのですから、これから天法を中心として、私たちの後代からそのような精誠と共に神様に侍らなければなりません。このような歴史的な事実が埋葬されていたということを、皆さんは知らなければなりません。

 先生自身がそのような精誠をささげて復帰の道を行ったので、皆さんが復帰の道を行くにあたっては、それより十倍、百倍の代価を払わなければならないのです。このような観点から見るとき、皆さんの血肉、細胞と骨がいつも侍る感情を忘れてはなりません。いつも神様に侍っていかなければならないのです。これが、統一教会の信徒たちがしなければならない生活であるということを皆さんは知らねばなりません。(二三―三〇一)

8 お父様の写真を持って歩きなさい

 この写真は誰の写真ですか? (笑い) うん? (ファザー)。誰がファザーですか? (笑い) 悪名高い人でしょう? これは何ですか? (IDカード)。何のIDカードですか? (勝共連合のIDカード)。これを韓国で作って七百万勝共要員たちがみな持つのですか? なぜこれを作れというのかというと、この写真を持っていれば、霊界にいる祖先たちがたくさん協助できると見るのです。今の時は神様が主管できる時代に越えていくというのです。神様が主管することのできる新しい時代に越えていく時です。分かりますか? (はい)。

 この写真がそのような効果をもってくるため今回も……。それではこのような写真はどうでしょうか? 霊界がこれを好むでしょうか、これを好むでしょうか? (大きい方です)。見たでしょう。霊界はこれを好むであろうに、日本人やアメリカ人はこれを好むというのです。このように違うのです。この二つの中でこれにするという人と、これにするという人と、そのくらい距離が遠いというのです。イスラエル民族がエジプトを出る時、戸口のわき柱に血を塗って禍を免れたのと同じく、写真を持っていればそんなことができるかもしれないのです。霊界では先生の写真をどれだけポケットに入れておいたとしても分かるのです。こんなに小さなものを持っていたのでは、戸口のわき柱に血を塗らなかったり、塗っていたがやめたのと同じです。どんなものにすればいいですか? (大きいのです)。(笑い)

 日本人たちはそのカードを見るごとに、まごつくのです。「いったい文鮮明という人はどんな人なのか?」と言うのです。しかし日本の食口は経験したことでしょう。先生の微笑は、モナリザの微笑ほどにも神秘的なところがあるという経験をしたはずです。(笑い) ある時はこうであり、またある時はこうであり、数十万もの姿に見えるとしても、この神秘的な姿が霊界が皆さんを協助できるようにしてくれるという経験を、大部分がしていると思います。どうですか? そうですか? (はい)。霊界の霊人たちはみな先生をよく知っていますが、この写真を見れば霊界が良く思うでしょうか、悪く思うでしょうか? (良く思います)。これについてきます。皆さんの先祖はこれを媒介体として連結されることができます。そのような良い材料だと知っているというのです。

 これを持って歩く時は事故が起きず、どんな故障も起きないのですが、この写真を持たずに歩く時は、そんなことが即刻起きるのです。そのようなことによって、写真がどれほど貴重であるかを皆さんが悟るようになることが頻繁に起きるのです。これを愛して寝床の横において寝れば、夢が悪くないというのです。そんなことが起き得るというのです。それを信じられますか? (はい)。ドクター・ジョセフは「神様は神秘的な方法で役事される方だ」と言いましたが。(笑い) そう、先生は神秘的な人です。そうなのです。誰も私を理解することができません。どんなに研究をしてみても分からないのです。それで、レバレンド・ムーンが何ですって? (神秘的な人です)。神秘的な人! それで神様は先生について歩くのです。それが、まさしく神秘的だという言葉になるのです。

 私たちは、先生が霊界との仲介人だということを習いました。一人で住んでいる女性たちが自分の夫に会いたい時に先生の顔を見れば、その会いたかった思いがなくなることもあり得るのです。(笑い) 生きている男性に対しても、そうだというのです。生きている男性も、会いたい時先生の写真を見れば、そういう思いがわかないというのです。だからといって夫と遠くなるのではなく、もっと近くなるのです。男性も同じです。

 さあ、ですから、これを持つようにするのがいいですか、持たないようにするのがいいですか? (持つようにするのがいいです)。それは、思ったとおりにしなさい。ですから私が世の中にないIDカードを作るようにしたのです。世の中にないでしょう? アメリカ大統領、アメリカ国民が、アメリカ大統領の写真のあるIDカードを持っていますか? 歴史始まって以来、こんなIDカードは初めて聞き、初めて見ることでしょう。イエス様がこれを見たでしょうか? (いいえ)。これは歴史上初めてだというのです。(一三二―一九〇)

 今やレバレンド・ムーンの名声は、国境を乗り越えました。至る所の為政者たちの中には、自分の書斎にレバレンド・ムーンの写真を掛けておいて仰いでいる人が多いということを私は知っています。尹博士も私の写真を掛けましたか? 毎日何をしていますか? あいさつしていますか? 毎日キスしますか? 熱情的でなければなりません。キスしなければなりませんね? だからといって失礼になるのではありません。「私の父や母にはキスできなかったのですが、神様の愛を身代わりして私がレバレント・ムーンの写真にキスをすることによって私の父、母、霊界に行った人たちに同参権、同位権をもてるようにするために、私が行く道についていける因縁を残すために、こうした」とすれば、神様が「ノー」とは言わないというのです。「うんよし、お前の言葉は正しい」と言うのです。どうですか、尹博士? そうしてごらんなさい? (はい、そうします)。そうしてみなさい。(一七一―二三九)

 きょうからは、皆さんは先生の写真を持って歩くといいのです。そうすれば、どのような苦難に対しても、皆さんが無事に耐え抜くことができるように保護してくれるのです。旧約時代のモーセがイスラエルの民をエジプトのパロ王から脱出させ、カナンに導くため奇跡を起こした時、長子が患難に遭い、病気になり、死にましたが、羊の血を戸口のわき柱に塗った家は、その患難がすべて避けて行ったのです。霊界では、私たち人間のすべての行動を見ることができるだけでなく、保護してあげもするのです。(一三〇―二九〇)











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