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三 聴衆を感動させるには

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1 聴衆の関心度がどれくらいなのかを知る

 皆さん、拳道に気合術があるでしょう? ある所を殴れば、まずふらふらになり、それを破ることができてこそ、そこに相対してこの手を振り回せば、破れたのと同じなのです。皆さんが話していく過程において、聴衆を打たなければならない状況では、自分がまず感動しなければなりません。自分がまず感動しながら、自分がまず涙を流し感激した場所で、力強く打ちながら、聴衆を縛りつけるのです。そういう時は一人でしてはいけないのです。その時は刀で突き刺すのと同じように、一人でせずに、霊界が協助し、宇宙が自分と共に激動しながら味方してくれるという心をもってしなければなりません。またこのように動くようになれば、一人で動くのではなく必ず相対的に、霊的に全部聴衆が動き回るのです。聴衆の関心を知るためには、出し抜けにこのようにするのです。

 聴衆が自分の視線をどのくらい受け止めているのかということを、みなキャッチしなければなりません。それを見て、聴衆の関心度がどの程度かということを知らなければなりません。時には机もたたくのです。その時はどれくらい集中するのかテストしなければなりません。駄目な時は、皆さんが心もち短い歌でも歌って、聴衆がどれくらい関心をもつかということを測定しなければならないのです。

 聴衆が私と呼吸を共にするようになる時、「さあ! 我が祖国のために前進しなければなりません」と言えば、聴衆は「ウワー!」(笑い)となるのです。そんな環境をつくらなければなりません。これは一つの戦争と同じなのです。

 ところで教室で何人か連れてする一つの講義、これだけをしては駄目なのです。聴衆を指導するためには、自分が話すことは全部組み立てていかなければならないし、ある時は何の力か分からなくても、それを自分が話すのだと考えるのではなくて、そのまま話せば出てくるようにして、聴衆に歩調を合わせる立場に立たなければなりません。そうでなければ、大衆を指導するのは難しいということを皆さんは知らなければなりません。

 時には、詩的な感情を入れて「きょうは晴れ渡った日です。今はこれこれこうだ」と話し、春をたたえながら一つの詩を詠み、こんな感情を高める話もしなければなりません。そうして俳優になることも知らなければなりません。

 それらのことをみな研究しなければなりません。そして相対的なその立場とどのように呼吸を合わせて、初めの目標を達成するのかと考えて、聴衆に自分の目的としていたその基準を中心として、注ぎ込むのです。そこに一番強い人がいたとしたなら、その人をその場で感動させることができなければなりません。「あの人を私が感動させなければならない」という標準を決めて、引き続き話さなければなりません。彼がどんな人かは知りませんが、その人と決めたなら、話す時はその人に視線を集中して、狂ったように正面から打つのです。視線を打ちとらえなさい。その人と何度か目がぶつかるようになればそれでいいのです。聴衆を私の服のように感じ、動く空気のような気分を感じるようになれば、聴衆を完全にとらえたといえます。ですから態度がどれほど重要かということを、皆さんは知らなければなりません。大衆指導はそのように、易しいことではありません。(六五―二九七)

2 話はおもしろく実感があるようにする

 人は感情的動物であることをいつも忘れてはなりません。そして聴衆たちに「あの人は私たちのためにあんなに苦労している」という印象を与えなければなりません。自分たちに何かを与えるためにもどかしがること、何かを与えるためにいで立ったという、そのような印象を与えなければなりません。ですから、語るときおもしろくしなければならないし、もっと力強くしなければならないし、もっと一生懸命やらなければなりません。

 それでは人は感情的な動物なので、大概感情を誘発する基準というものは制限されています。それをわきまえれば簡単なことなのです。一番難しかった時、難しかった私、難しい環境を話せば、そこに聴衆は関心をもつようになります。その次は悲しかった時、苦痛を受けた時、公的な苦痛、そのような問題を中心として話すようになれば関心をもつようになるというのです。

 けれどもそのような内容を話しても、他人のことのように話してはいけないのです。自分が実際に体験したとおりに、とてもおもしろく、実感がわくように話さなければなりません。自分がおもしろく話せば相手方も関心をもち、すなわち聴衆の前に「あの人は事実そのように感じたのだな」という感じを与えなければなりません。(六五―二九六)

3 うそをついてはいけない

 大衆を感動させようとすれば、うそをついてはいけません。事実を話さなければなりません。うそは絶対人には通じないのです。自分の話、事実を話さなければなりません。事実の話は自分が体験した以上……。事実は無視できません。証言をするのです。(一四四―二九七)

4 多くの経験を積まねばならない

 先生が皆さんの年齢の時には、サッと帽子をかぶって――その時は帽子をかぶって歩きました――腰に本をくくりつけては公園のような所で大衆講義をよくやりました。私の話をちょっと聞きなさいというのです。それが訓練です。これから多くの人を指導することのできる訓練なのです。たくさんやってみないといけません。多く質問してみて、多く答えてみてそうでなければなりません。それがみな経験なのです。

 大衆を指導できる能力というのは、一遍にできるものではありません。たくさんやってみなければならないのです。商売もたくさんやってみなければなりません。それで私がやったことのないものはありません。金鉱に行って坑道も掘ってみたし、その次には坑木のようなものもつかみました。炭を焼くことができないでしょうか、人間がすることは何でもやります。先生一人でどうやってそのようにみなできますか? ですから寝る時間がなかったのです。分かりますか?

 遊ぶのもよく遊びました。山ならば何里内外に精通しているのです。「何の鳥が巣を掛けたなあ」と全部一度見たあとに視察するのです。どこの山に鳥の巣がいくつあるかということを、よく知っているのです。

 また水があれば水をみな出してしまうのです。そこにどんな魚が棲んでいるのか見ようとしてです。そうしなければ通り過ぎていけない性格なのです。行って服を脱いで入り、ひたすら水浴びしながらも、全部探して魚を何匹か素手で捕まえ焼いて食べて……。昼食を家で食べなくても、カニを捕まえて焼いて食べて、そんなことをしたものです。おなかがすいているのだから、焼いて食べなければどうしようもないでしょう?

 あの上着を使って魚を捕まえてみました。手より上着がいいですからね。砂をざっと入れて襲い打つのです。この上着がそのまま水に入りますか? ですから砂をいっぱい入れて、ぱっとまくのです。そうすれば砂にあたって魚が死ぬのです。(笑い) でなければ魚がふちに追いやられます。端のほうに追いやっておいて襲い打つのです。魚の群れがいれば、やさしく端のほうに追って砂をバッ……。二、三匹死ねばそれを焼いて食べたりしました。そんなことをしたので、今は海で釣りもし……。研究をするのです。すべて研究するのです。

 どこかに行っておなかがすいて、とうもろこし畑があれば「主人はいますか?」と呼ぶのです。「主人はいますかー、いませんかー」と言えば人々が通り過ぎ、聞きます。主人がいなくてもそうするのです。(笑い) 三、四回声をあげて捜していなければ、そのまま取って焼いて食べるのです。それは条件になるというのです。主人が現れて誰だといえば、ここの主人をあれほど捜したのにどこに行っていて今ごろ現れたのかと、呼んだ声を聞かなかったのかと、山が聞き、山が響いたのに聞かなかったのかと、みんなに聞いてみろというのです。事実呼んだのですから。一人でも聞いていたなら、私の証人になるというのです。そうしておいて、腹いっぱい焼いて食べていくのです。

 豆畑は豆だらけではないですか? 豆があれば支えてわら束を持ってきて「主人はいますか?」とびんびん響くようにひとしきり呼ぶのです。それでも現れなければどうしようもありません。火をつけて焼いて食べるのです。そういうことも、また私が先生です。よく焼いてから上着を脱いで、そのままふっと吹けば豆粒だけ出てくるのです。その次は風呂敷に包んで歩きながら食べるのです。それが食糧になるのです。そうやって生きるのです。それは盗みではないのです。堂々としているのです。

 まくわうりの畑などに行って、主人のおじいさんとそれとなく話したのち、観相を見てあげます。「このじいさん、若い時、こんなに悪いことをたくさんしたな。このじいさん、このじじい、顔つきを見、手を見ると悪いことをたくさんした」と言えば、どうして分かるのかと聞きます。それで「私がそんなことも分からずここまで上ってきて、こんな話をするだろうか。どうですか、違いますか?」と言えば、そうだと言うのです。「これは、けちな顔しているね。私がまくわうり一つくれと言えば間違いなくくれないだろう」と言いながら、行き始めるのです。そうすれば「ヒヒ」(表情をつくられる)と笑うのです。そうしたら「私がいいまくわうりを一つ取って食べますが、どうですか?」と言うのです。そうすれば食べろと言います。(笑い) そうするのです。そうやってまくわうりももらって食べたのです。お金がないので、そうやって食べて生きなければ、どうやって生きますか?

 街角に行けば、ぜんざいを売るおばさんと会って、三十分だけ話せば、「ぜんざいを食べろ」と言うのです。嫌だと言ってもしきりに食べろというのです。(笑い) それはそんなものです。ぜんざい売りのおばさんの所に三日だけ、一週間だけ行けば、ぜんざいを売ったお金を私に預けるようになります。何……そう考えるのです。またそうするのです。(一三三―一六五)

5 刺激を受けることのできる相対的品物も必要

 皆さんが壇上に出るときは、誰かが私のために祈ってくれていて私のために協助してくれている、という考えをいつももたなければなりません。一人ではないということを考えなければなりません。自分の愛する人であるとか、自分の息子、娘が私のために、今この時間に成功を祈っていると思わなければなりません。

 そのため、そんな感情がいつも忘れられない標識が必要だというのです。私のために精誠をささげる、また私が愛する人に対して、心情的問題において私がいつでも刺激を感じることのできる標識をして、それを見ながら「ああ、この時間に、愛するこの者たちが私のために成功を願っている」という心を中心として、心情的刺激を受けることができなければなりません。ですから私が心情的刺激を受けることのできる、そんな相対的品物が必ず必要です。それで皆さんが聴衆をちらっと見た時、その中で自分の兄さんみたいだとか姉さんみたいだとか、友達みたいだとか、親戚みたいな人を必ず探し出さなければなりません。その心が行く人を中心として見る時、昔自分が愛した人だとか、愛した兄弟だとか、あるいは友人、彼らに対して感じたその感情を中心として、彼らに対して話した心情をもって話すようになれば、そしてその人が感動を受け始めるならば聴衆が回るというのです。そのため、聴衆の中で自分が好きな人を、一遍に何人か探し出さなければなりません。

 そうなる時、その人が良い所は自分と関係しており、彼は私が知っている人に似ているので、その人が友達なら友達に対する心情を全部み言の中に込めていけば、その感情を私が再び感じることにより、それが事実となり、体験した話になるのです。

 そのため表情や、すべてのことがどんなに良くても、これが感情に指導を受けて、感情を追求できる資料にならなければ何にもなりません。ですからこのような心情問題においては、体験が多く必要なのです。体験! 言葉だけをもってしては駄目です。体験が必要だということが切迫した問題になるのです。(六五―三〇一)

6 指導者は経験が豊かでなければならない

 皆さん、小説のような話は一度聞き、二度聞けば、おもしろくなくなります。しかし小説のような内容を、実際に行った人がその話をすれば、十回聞いてもおもしろいのです。

 それでは、小説を読んで話す人と、小説の内容と同じ経験をした人がいれば、小説を読んで話す人は、ただ平凡に話して、様子も変わらず、自分は何の変化もなく適当に終わるのです。しかしこの内容を経験した人は、千態万象です。つらかった時はつらい表情もし、良かった時は良い表情もし、戦う時には戦う表情をしないわけにはいかないのです。そのため自然に感情が入るというのです。

 言葉にも、大衆に「行こう」と言うとき、言葉で、または手で「行こう」、こうではないのです。立って「行こう!」こうなのです。そうするようになるのです。このように経験したのと、経験しないのとでは、大きな差ができるということを、皆さんは理解できると思います。

 そのため先生が考えるには、自分が世界的指導者になり、将来大衆を動かすことのできる責任者になろう、一度やってみようというときは、三十歳になるまでに全部経験しなければならないと見ます。これが先生が体験して出た結論です。そうしようとすれば一生忘れられない材料を、体験を通してたくさん得なければなりません。

 労働現場に行って仕事をせよという話をする時は、自分が昔ある時に深刻な立場で土運びをしなければならず、重い荷を運ばなければならない、そんな場所で仕事をした心情を感じながら、そのような話をするようになれば、聴衆は深刻になっていくのです。専門家は、自分が経験した基盤の上にすべてのことを解こうとし、教える人です。さあそれが必要ですか、不必要ですか? (必要です)。ですからそんな表情に和することのできる私自身に、どのようにしてなるのかということが先決問題、すなわち一番に解決しなければならない重要な問題だというのです。(六五―三〇二)

7 感情に訴えねばならない

 皆さんは、音楽とか芸術とかが、短い時間に聴衆を魅惑するということを知っていると思います。それはどうしてなのでしょうか? 最高に深刻な表情と涙を流すすべての惨状の情景にいるとき、そこに全体の感情が一致されれば一遍に回るのです。涙を流したという事実は、完全に降伏したということです。それは完全に降伏だというのです。涙を流してからああだこうだと批評する人は、人間ではないというのです。褒めるようになっているのです。大衆の中で私を永遠に忘れずについてくる人をつくるためには、その人が一生涯流したことのない涙を流させることです。

 ですからいつも感情に訴えなければならないということを、皆さん、知らなければなりません。困難な時、悲しい時、苦痛な時など、こんな場を中心として動かそうとすれば、自分がそんな経験がなければ難しいというのです。

 皆さんがこのみ旨のために苦労し、涙を流した場面、迫害を受け、大衆に追いやられて一人いた場面、あるいは逃げなければならない悲惨な場面、それだけではなく、捕らえられて残酷に殴られ、生死の境地であえぎ、苦しんだ場面、そんな場面が自分がみ旨のために行く道を開拓する時において、大金をもってしても買えない貴い財宝といえるのです。

 それで皆さんを世界的指導者としてつくるためには、そのような多方面の訓練をしなければならないというのが先生の考えなのです。皆さんは、このみ旨が間違いなく世界を支配し、制覇するということを今や知るはずです。そう考えますか? そこから皆さんは、世界的指導者にならなければならないというのです。そのような意味ではボクシングもしなければならないのです。運動も必要ですし、訓練もみな必要だというのです。(六五―三〇三)











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