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二 講義をたくさん聞き、たくさんせよ

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1 有名な講師の講義をたくさん聞かなければならない

 皆さんが世界的に有名な講師になろうとするならば、世界に散らばっている統一教会の責任者たちのみ言を全部聞いてみなくてはならないのです。それゆえに、勉強をするとしても、きのうと違うというのです。きのうと違うのです。あすの準備、さらに深い準備、さらに深い準備を……。映画を見るにしても、全く同じものを十回見る人と一回見る人とでは質が違うというのです。見て、また見たいという思いの人であってこそ、その映画の監督者以上の批判をすることができるのです。そうではありませんか? (そうです)。皆さんが原理を中心として慣れるようになるのに、どれくらい勉強しますか? 繰り返しをどれだけするのかというのです。そこに対して瞑想をし、実践をしてみて、また批判をして、こんなことをどれくらいしたかというのです。(六六―一〇六)

 名講師になろうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか? 全国の有名な講師たちが講義したものを録音したカセット・テープを集め、それを聞いて評価し、誰はどのようにし、どのようにするということから、良いものだけ抜き出して記録したノートを作っておかなければなりません。そのようにしようとすれば、録音したテープがいつも積まれていなくてはなりません。真の機知ある内容、数十名、あるいは数百名が機知あるように講義したものを抜き出して、自分が講義する時に、骨子にそれを付けて講義するのです。そうすれば、名講師になるのです。分かりますか? (はい)。皆さんもするのです。分かりますか? (はい)。それは何、国際会議で決議したのです。分かりますか? 世界会議で決議したのです。「このようにすることにする。ここ、韓国の責任者が来なかったので、私が行って代わりにこれを通過させる」と、このように約束してきたのです。さあ、分かりますか、分かりませんか? (分かりました)。さあ、今この時間に通過させるのです。聞いたでしょう? (はい)。毎日のように八時間講義しなければならないのです。新しい人を連れてきて、一人であろうと連れてきてするのです。いないならば、食口でも教育して、配置しなさい。東西南北に配置しなさい。(六八―九四)

 皆さんもそのようにしなさい。十年越えたならば、早く試験にパスしなさい。一括的に全部原理試験を受けるのです。分かるでしょう? (はい)。それでは、機動隊長は必ず一カ月に一人は責任をもって修練会に送ること!また、その次には道責任者たち、教会責任者たちも必ず実力者一人を送ることができるように、試験を受けること! 教会長たち、分かりますか? 教会長も教育を受けて帰ってから、必ず三回試験を受けるのです。分かりますか? 皆さんが試験官になるのです。そのようにして三人が採点して七十点になるならば、その次にどのようにするのですか? その人を機動隊に送りなさい。機動隊に送り出して、機動隊で七十点になるなら、機動隊をやめるというのではなくて、全部修練所に入れるのです。ですから、蘇生段階が何ですか? 教会で七十点取ることです。長成は機動隊で七十点取らなくてはならず、完成は修練所で七十点取らなくてはなりません。このようにしていってこそ、将来正常に統一教会の教会長の名義などを受けるようになるのであって、そうでなければ何もないのです。分かりますか、何のことか。ですから、まず講義をたくさん聞けというのです。皆さんも講義をたくさん聞かなければならないし、講義をたくさんしなくてはならないのです。(六八―九四)

 東洋人の思考方式と西洋人の思考方式は、ちょっと違うのです。東洋人たちは何か一つのことに集中しようとするのですが、西洋人たちは、全部広がっていこうとします。そんな観点から、西洋人たちを教育して、ただ一つの仕事を十日、百日、三百六十日しても良いということができる人をつくっておくならば、間違いなく立派な人になるのです。ところがアメリカ人たちは変化のある生活を好むのです。そうではありませんか。一つのことを何度もさせるようになるともっぱらあきがきます。そんな点から、あすというものは、過去ときょうを通して連結されています。倦まず弛まない道を通して、直線を通して連結されるので、変わるものではなく受け継ぐものです。倦まず弛まずしたことが記憶されるので、皆さんが倦まず弛まずするようにする面を学ばなければならないのです。

 あなた方が、射撃の名手になるにあたって、「ああ、一つの穴に十発撃ったのでいいです」。それで良いのですか? 一つの穴を一千回でも一万回でも撃たなければならないのです。続けてやるほど有利です。ですから、どんなに訓練をたくさんしたかという問題がその人の実績を……。そしてその実績が勝利を開拓する条件になるのです。これは間違いない事実なのです。

 ですから、たくさん聞きなさい、たくさん聞きなさいというのです。千回でも万回でも講義をたくさん聞きなさいというのです。次にはたくさん講義しなさい、たくさん実践しなさいというのです。たくさん実践してこそ、それに比例して結果がくるのです。それは違いますか? (正しいです)。ですからたくさん聞きなさい。

 さて、ミスター・キムが講義するのを聞いてみたならば、それだけですべて終わったのではありません。ここではミスター・キムの講義しか聞くことができないので、その次には韓国ならば韓国へ行って、通訳官を置いてでも聞いてみなさいというのです。「あー、この人はこのようで、あの人はこのようだな」と思うならば、十人あるいは数十人の講義を聞いてみて、その人たちの長所を見るのです。一つの条件を中心として数十名が材料をもっているので、数十名のその素晴らしい材料をもって、より良い講義ができるようになるのです。(六六―一〇九)

2 講義をたくさんすればするほど名講師になる

 一つの例を挙げてみましょう。私は誰でも、ある物事に対して関心がなかった人でも、その道の専門的な人になることができると思います。専門家は他のものではないのです。どれほどたくさん講義するのか、どれほど根気よく克服して、たくさんするかにかかっています。ここには素質があり、頭脳もあるでしょうが、素質や頭によることよりも何倍もすればできるのです。何倍もすれば、できるというのです。

 先生が学生だった時代に同窓生の中に、こんな人がいたのです。彼は学校で勉強を教わる時、何であっても朝から夕方までかけて全部暗記します。その人は一番初めには学級で成績が下のほうだったのです。ところが卒業する時は、クラスでトップの成績を取るようになったというのです。根気よく、他人よりももっとしたのです。いかに天才といっても一度読んで記憶する人と、頭が悪くて一日中読んで記憶する人と、どちらの人が長い間覚えているかといえば、一日中読んで記憶する人が長い間覚えているというのです。のちには、誰が一番たくさん知っているかといえば、ひたすら一から全部暗記した人だというのです。のちに卒業近くになると、一から全部暗記した人にみんなが聞いてみるようになるというのです。その人が全体を代表することのできる立場になるようになるというのです。これを見る時に、皆さんが講師になれないと思ってはならないのです。なることができます。ただ何倍の努力をするかにかかっているのです。何倍の努力をするのかというのです。どれほど努力するのかというのです。きのうここにいるディビットから「年を取った人たちは、頭がよく回らないのでどうだ……」ということを私は聞きました。私はそんなことを聞くと、「修練所の責任者としてそんな考えをしたら駄目なんだが」と思いました。腹がすいている時、御飯を食べたい心以上に講義してみたのかというのです。それ以上してみたのかというのです。(七二―三二九)

 ピアノを弾くことも、五本の指の中で、この指とこの指の弾く力は違いますが、それをどうやって同じように弾くかということが基本になるのです。そのようにしようとするならば、たくさん練習をしなければならないのです。これはもっと強くなければならず、これは弱くなければならないということをあらかじめ考えておいて、それが全部科学的に、自動的に動かなければならないのです。自分が練習をして、訓練した基準がどういうものなのかを正確に知らずしては、名ピアニストになることはできないのです。

 皆さんは言葉を話しますが、その言葉を話すにあたって、どんな基準ももっていないのです。「私は何を標準としてこのように話す。この言葉はここから出発した言葉だ」という観点をもっているのですか? ただ、聞いて話しているのです。そういう人たちは表面的な人間にしかなれないのです。(六七―二一四)

 原理講義をどれほどたくさん繰り返ししたかということが、心情的な面やあらゆる面の人格を育てるにあたっての動機になるのです。(六六―三一〇)

「私は一生に何回講義をするのか」これを考えてみましたか。御飯を食べる時、御飯をかめばかむほど甘い味が出るのです。舌鼓を打ちながらこのようにしておいしいか、おいしくないか分かりますか。一度さっとしては、分からないのです。ですから、同じことを何百回でも繰り返ししようという心をもたなくてはなりません。(六六―三〇八)

 講義も同じです。それで、私が本部で語る言葉は、「二時間講義をしようとするならば三倍の努力をしなさい」と言うのです。六時間は準備しなければならないのです。そのように教育してきたのです。十年、二十年間講義をしても、毎日準備しなさいというのです。そうすれば十年間同じ講義をするとしても、聞く場合、違うというのです。感じが違ってくるのです。

 東洋の食べ物を見ると……。洋式は簡単ですが、韓国の食べ物は、同じ手際で作ったのでも味が違うというのです。千万種類の味があるのです。同じです。正に、同じだというのです。何であっても、何度も何度もしてみると専門家になるのです。専門家は、して、して、またした人なのです。味をただ一度で、最高に早く感じる人たちが専門家なのです。(九六―一七〇)

 ここで、ミスター・キムが出てきて講義をしたとしても、講義する時、彼を見れば祈祷をして出てきて講義をするのか、恩恵をたずさえて出てきてするのか、比較できなければならないのです。仕方なくするのか、本当に私たちのためにするのかということを、すべて知ることができるのです。先生がしなさいと言ってするのと、自ら進んでおもしろくてするのとは違うのです。

「私がもし、聴衆を前にして講義をするならば、全体の心が引きつけられるように一度してみよう。どこで感情を与え、どのように感動を与え越えていくのかだが、あのように越えていくんだな」というふうにです。一人の人が講義をしても、五十名が見る観点が全部違わなければなりません。感じることが違わなければなりません。そんな立場から、皆さんは勉強をしているのですか? そのようにできていないようです。先生は、皆さんがそのようにできないと思うのです。祈祷する時も見てみると、イエス様の十字架像を壁に掛けておいて、その下に座って祈祷をするのですが、祈祷内容がきのうもそんなようで、きょうも同じの人は、宗教生活をしている人ではないのです。同じことを毎日のように見ても、それが毎日違うというとき、その人は神秘的な信仰世界に入っているのです。そうしてこそ、偉大な信仰世界に入っていき、新しい世界を発見できるのであって、それを見るとそのようであり、見てもそのようであり、そのようであり……。それはそれで、終わってしまうのです。

 毎日、同じことを続けてするとしても、味がある、ない、どちらですか? そうするうちに、それが良くておいしいということを続けてやっていくうちに、それを食べて大きくなるのです。(六六―一〇九)














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