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二 講師の基本的な立場

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1 講義はどのようにすべきか

 これからは、講義をしようとすればどのようにしなければならないでしょうか? 講義をする時は必ず、原理のみ言自体を話すと考えてはいけないというのです。先生の歴史を語り、神様の歴史を語るのだと考えなければなりません。その歴史は結局何ですか? 私がその歴史を相続して、その歴史と一致するために語るというのです。十回すれば十回したことにより、さらに深まるから、深まった分だけ自分が心情的に近くなるために語るというのです。分かりますか、どういうことか? 他の人を救うというよりも、自分自身が歴史に近づくために語るということです。私のことなのです。

 そうすることにより、十回すれば十回しただけ近くなり、十回すれば十回しただけ深まるというのです。そのことのために祈祷すれば祈祷しただけ、それは深まり、幅が広がるのです。高まるというのです。高まるので結局どうなるかというと、心情の基準において自分が発展し、心情一体を中心とした発展の度数を強化することのできるチャンスが生じるのです。そういう時がみ言を伝える時間であり、食口たちを率いて教える時間なのです。

 ですから、冒頭から語る時、既にさっと手を握ったとしても、それは私自身の手ではないのです。それは何ですか? それは私の手ではないというのです。当然、私のではありません。自分ではないというのです。そうしながらも、全体が形容することができない内的な何かが、皆さんの心から体に感じてこなければなりません。そして口を開けば自分の言葉に自分が酔うのです。そうして祈祷したとするなら、その祈祷がとても神秘的なのです。自分がさっと祈祷すれば、その祈祷に自分がすべて酔うのです。そのような境地を皆さんは通過しなければなりません。それはなぜそうならなければならないのでしょうか? 原理がそうではないですか? 主体と対象が授け受ければ力が出るのです。心情を中心として、主体と対象が授け受けすれば、心情的な心地と共に力が出るというのです。力が出たら何をするのですか? 心情的創造復帰が成されるのです。(一五七―二五四)

2 心情一体をなす公人の立場に立たなければならない

 巡回に行く時も、それは自分自身が行くのではありません。自分が行くのではないのです。全部先生の代わりに行かなければならないのです。それから見るものも……。このような川を渡るならば、「ああ、神様はどう考えるか? 先生ならどう考えるか」と思うなら、その時間はどれほど恩恵の時間となることでしょうか?

 さらに、夕暮れの道を歩いたり、月夜を歩いたり、このような時は……。その心情が貴重なものなのです。祈祷をするのにも、昔のイエス様がカンラン山(注:オリブ山)の裏道をさまよいながら祈祷した、その事情をもってするのです。全部、すべてそのような歴史を反映させて、その時代、その当時のその人の立場を身代わりして、「天がそのような心をもっていくとするならば、その歩みに対してどのようにいくのか」ということを考えるとするなら、どれほど恩恵があることでしょうか? ですから、一人でこのように歩み、一人でこのように瞑想し、一人でこのように祈祷し、一人でみ言を読む、その時間はどれほど深い恩恵の時間でしょうか? 今、地域長たちはそういう生活ができずにいるというのです。公人の立場に立っていないというのです。公人の立場に立つことができないというのです。そうではないですか?

 思いが大きければ大きいほど、過去を思い起こし、現在の感情と合わせて……。太陽を見たなら、昔、この太陽をイエス様も見たし、聖人賢哲も見たはずだけれど、一体どのように見たのでしょうか? 水ならば水も同じであるし、空気もまた同じなのです。歴史的時代の人物ではあるけれども、豊富な詩的境地の感情を引き起こすことができ、現実的内容をこの時代に再現させて、私と共に直接的に心情的な面で、感情が通じることができる生活環境を整えることができなければなりません。

 そういうことにおいて、自分たちが興味を感じなければなりません。そのような境地に入って天の前に訴え、天の事情を痛哭しなければならないのです。このようになれば、自然に連結されるというのです。分かるでしょう? (はい)。この心情の一致、問題はそれです。それをもう一度再現させようというのです。

 私がどうしてこのような話をするかというと、皆さんはこれから、あしたからの原理講義をもう一度考えなければなりません。そのような観点から、今とは違って、金誰々だとすれば、金誰々の立場に立つなということなのです。これからは原理講義をしても、原理講義のみ言だけを伝えるのではないのです。神様を伝え、神様の実体を伝え、神様の実体理想、先生が今まで蕩減復帰してきた歴史的な事実を伝えなければならないのです。それは私が直接相続することのできる問題だけに、深刻だというのです。

 ですから皆さんが祈祷するときは、他の祈祷は必要ないというのです。復帰原理を祈祷しなければなりません。アダムとエバならば、アダムとエバの立場で祈祷しなければなりません。ノアであれば、ノア自身になって祈祷しなければならないのです。ノアの家庭においては、自分がノアになるというのです。アブラハムの家庭においては、自分がアブラハムになるというのです。モーセ時代には、モーセになるというのです。このようにして蕩減復帰するのです。縦的な心情の歴史を再現させなければ、蕩減復帰にならないというのです。皆さん方はいつでも、そのような観点から祈祷しなければなりません。(一五七―二六二)

 原理講義をする時も、皆さん自身がそこに登場するカイン、モーセ、イエスになって、み言を語らなければなりません。このようにして、皆さんは三千万民族に父の心情を植えてあげなければなりません。ただ、自分が不足な者であったとしても、言葉と行動と理念と生活と心情は、お父様のものだということができなければなりません。(一一―二六八)

3 講義の目的はどこにあるのか

 講義をするのを見るというと、原理を覚えようとして講義をしているけれども、その原理講義は何にもならないというのです。実際には、先生に対して研究しなければならないのです。それを知らなければなりません。

 私たちが復帰原理だ! 歴史過程に現れる復帰を習うんだ! 復帰原理を習って、復帰自体を知ることが問題ではありません。復帰原理を動かして摂理してこられた神様が、どんな方であるかということを知ることが目的だということなのです。そうして神様がどんな悲しみを抱いて、こうして私のために苦労されたのかという事実をはっきりと知って、私のためにこのように苦労されたという事実がとてつもないことだということを感じるようになる時、私と比較するとこのように苦労されたその差が大きいということ自体が私にとって、力の母体になっているということなのです。

 天を大きく感じ、貴重に感じることに比べて、私はそうでないということを感じるところに、天に対する感謝の心情や、天の前に忠誠を尽くすという決意が爆発して出てくるというのです。これがなくては駄目だというのです。

 皆さんは今、そうだというのですか。原理自体に対して、原理の本を見る時に、この本の中に隠されている先生の生活、先生の闘争の歴史を知らないというのです。原理の過程の歴史を知らないというのです。今までの歴史がそうです。今までの歴史はイエス様の時代まで、復帰原理を中心としてイエス様に対する学説が出たけれども、先生に対しては出ていないのです。これは出ていないというのです。ですから、これから皆さんが知らなければならないことは、そういう問題に対して深刻に探さなければならないということです。(一五七―二四一)

 地区長であれば地区長が、教会長であれば教会長が、神様と先生を証するのに模範を示さなければなりません。講義をすれば講義をする時ごとに全部、最初からそのような感情を準備して話すというのです。そうしようとすれば、必ず先生のことを講義するというのです。先生のことを講義して、神様のことを講義するのだというのです。講義をそのようにしなければなりません。

 どんな講義をするのですか? 歴史を講義すれば、神様を講義するのであり、先生を講義するというのです。そうすれば、自分自身をさらけ出すというのです。そういうふうにして、自分自身をさらけ出せばよいというのです。

 講義をしようとすれば講義をどうしようというのですか? 講義は歴史的な事実なのであり、過ぎ去っていく言葉として話してはいけません。神様自身を講義しなければなりません。また、それを蕩減するために、地上においていまだに責任を担っている先生自身を講義するのです。私はそこにおいて彼(先生)と一体となり、天宙のすべての事情を、残念な事情を、自分自身がみ言を通してさらけ出すのです。身代わりとして保障してあげるというのです。ですから必ず結論に入って、必ず天の心情と一致しなければなりません。始めも、結論も一体化しなければなりません。(一五七―二五七)

 私自身もそうです。私が今、日本とかアメリカに行く時、あるいは地方を巡回する時は、私が行くという考えはしません。私が行くというふうには考えないというのです。昔、草創期にみ旨に対した、その心情をどのように感じるかということです。これは重要なことです。草創期の心情をどのように感じるのでしょうか? お父様に侍り、大きな戦場に出ていくと考えた時、今は彼らが私を歓迎する人ではなく、反対する者たちだと考える時、どんな心情をもって行かなければならないのでしょうか? どんなに心がはらはらすることでしょうか? そうではありませんか?

 地区を巡回するようになれば、地区長から食口たちまで全部、先生が来るというと、もういい気になるでしょう。初めてのように対するというのです。怨讐と同じような立場に立った人たちに対した、その心情をもって出ていくので注意深いというのです。ですから、はらはらした心をもって行くのです。しかし、初めていで立つときは、問題が違うというのです。私がヨーロッパに行く時も、私がドイツに行った時も、通訳を二人置いて話をするのです。短く簡単に話すというと忘れてしまいやすいのです。ですが、そういうときは心配しないというのです。忘れるなんて、どうして忘れますか? 天が今、この時において、この人たちに話したい言葉は何なのでしょうか? それは強烈に立っていれば、忘れようとしても忘れることができません。次の言葉をどうやって話すかということをしっかりつかんでいるので、忘れることはできないというのです。心配はないというのです。

 いつでも私たちが前に立つ時は、お父様を前面に置いて、お父様の答えによる行動と結果をとっていくというと間違いがないというのです。同じことだというのです。それと同じように皆さんもそれを学ばなければなりません。必ず一日一日報告して、時間、時間の生活において報告するのです。それが侍義生活、侍る生活だというのです。分かりますか? (黒板に書かれながら語られる)侍義というのは何ですか? 侍るというのは何ですか?

 私がそのような観点から今、地区長とか地域長たちをじっと見るというとですね。私が今、ソウルからじっと全国を考えれば、そのような観点からすると、離脱していると思います。分かりますか? (はい)。ですから、本然の皆さんの位置を回復しなければならないというのです。

 皆さんは、講義をする時は必ず、神様の前に、神様が愛するみ旨なので、先生がこのみ旨のために来られた基準があり、私たちはそのみ旨のためにしなければならない子女の立場にあるので、神様にすがって祈祷しなさいということなのです。結論を下す時や祈祷をする時は必ず、皆さん一人で祈祷してはいけないというのです。何のためにこの行いをするのですか? 何を目的としてですか? 天の人格を身代わりして、蘇生させてあげ、その人格を本来のごとく再創造するというのです。そうしようとすれば、皆さんが心情の基準がなくてどうしますか、何にもならないということなのです。

 ですから講義の終わりには、皆さんは何を講義するのですか? 必ず現在の先生の立場を一言話さなければなりません。それを皆さんは知らなければなりません。先生の過去と現在の立場がどうであるかということをいつも一言言って、結論を下さなければならないというのです。ですから、天の前に心情的な出発もそこから、結論もそこからという……天と皆さんが一つになる立場で動かなければなりません。そのように精誠を尽くしてみなさいというのです。結果がどうなるのか、分かりますか? (はい)。

 皆さんの立場は直接的な立場ではありません。間接的な立場です。それゆえに間接的な立場が直接的な立場をいつも忘却してはいけないというのです。分かるでしょう? (はい)。その立場を取らずには、心情問題の一致点をもたらすことはできません。(一五七―二六〇)














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