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二 父母の立場の牧会者

P796
1 牧会者は父母の立場である

 今後、皆さんは個人的な責任を果たさなければなりません。統一教会の地域長や区域長としての責任よりも、個人としての責任を果たさなければならないのです。世界的伝統を中心として、個人としての責任を果たしたかどうかが問題です。その次に、責任者として責任を果たしたのか、教会長なら教会長としての責任を果たしたのかが問題です。

 教会長は父母の立場です。父母は、子供たちをみな寝かせてしまうまでは先に寝られないのです。病気でない限りそうすることができないのです。分別つかない息子、娘のあすを心配しながら涙を流し、生活の難しさを感じるときには胸を締めつけられながら、その息子、娘のために幸福を祈ったのちに寝床に入るのが父母の心なのです。同じように、責任者は眠ることができないようにならなければならないのです。そして早朝や夜に静かな時間ができれば、自分の教会の食口たちのために人知れず涙を流し、精誠を尽くしてあげなければなりません。何の話か分かりますか? そうすれば基盤が築かれるのです。

 このように子供を育ててどうしなければならないのでしょうか? 教会よりも国のために生きることができる愛国者にしなければなりません。そのためには父母が手本を見せなければなりません。手本を見せてあげながら教育する父母が正しい父母です。愛で正しい教育をしたのちに「やりなさい」と言ってこそ、正しい父母だというのです。皆さんがそういう生活をするようになれば、神様は皆さんから去ろうとしても去ることができません。また、そういう人には何か分からない強い力があって、すべての人の視線を自動的に引くようになるのです。その人に関心をもたざるを得ないのです。

 冬に火鉢に火を燃やしておいたら、冷たい火鉢と熱い火鉢を説明しなくても誰でも分かるので、「行くな」と言っても熱い火鉢を探して行くようになるのです。同じように、皆さんもそうやって人が探しにくる人にならなければならないのです。そういう伝統的基盤を備えて犠牲的覚悟のもと、個人の新しい伝統を拡大させて家庭的基盤に連結させ、それによって氏族、民族、国家を形成するのです。これが天の行く道です。(三四―三一)

 父母はその子供の生命の母体でしょう? 生命を育ててくれるのです。生命の母体であり、愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護してくれるし、育ててくれるし、愛してくれるのです。(五一―一七三)

2 父母の心情とは

 皆さんが食口たちにさっと対するようになれば、すべての食口たちが集まった所で勧告するときは、自分が勧告するなというのです。私もそうです。私が今まで数多くの人たちを率いてきて、誤った人がたくさんいましたが、誤った時ちらっと見て「百回許してやろう」と心をそう決めて対するのです。先生は対する人たちを百回許してあげるのです。それが父の心なのです。

 例を挙げていえば、今自分の息子が殺人強盗をして死刑囚になったとします。それで息子が刑場に引かれていく刹那に自分の息子を眺める父母の心が「やあ、お前はよく死ぬ。さあ、早く死ななければならないだろう? こいつめ」と言いますか? 心はそうだとしても、その心情は千度、万度許すことができる道があるなら許してあげたいのが父母の心です。そういう雅量をもって対するのです。千度許してやるという……。

 けれども問題が違ってくるのです。私もそうした過去があった、私がそういう立場に立ったなら神様はどうするでしょうか? それは困るのではないですか? 私が現在そういう失敗を犯したなら、天は私をどのように処理するのでしょうか? 責任を背負った分野でこのようにしくじったならどうするのでしょうか? 今まで忠誠を尽くした基準もあるけれど、その基準を見るとき、要望したことがよくできなかったといって全部「この野郎」とたたき壊そうとするのかというのです。天がそういう立場に立てば、千度考慮するはずだというのです。そうして深刻な位置で……。そうして勧告を受ければ、鞭を受けてこうしても……。

 今、統一教会に来た人たちの中で落ちて出ていった人がたくさんいます。その人たちの中のある人に会って、約三十分話をしました。秘密のような話を……。自分の位置を確保して来ようとしないとき、私はその人を憎みません。普通なら反対の立場で、「あらゆる非常に奇怪な罰、やあ、落雷を受けて死ねばいい……」と考えるかもしれません。しかし「分からないからそうなんだ、そうあり得る」と、その人の立場で思うのです。こうやって是正してあげたので、責任者もそういう観点からなさなければなりません。そういう人は心情を連結することができるのです。

 そうしておけば、どんなに強烈な話をしても、私がそういう関心を表示したので、良心の呵責を感じません。良心の呵責にならないのです。そこには度を越して決断を下したとしても、まず対したその心情がそれ以上大きい基準になったために、天が私にくれた条件をかけて出ることができるのです。すべて方法があるというのです。(一五七―二五九)

 父の心情を私が今まで話して教えてきましたが、この地上に四千年ぶりに送ったイエス様が十字架で死ぬ時に、父の心情の深い谷間を私が……。それをまるで知らなかったのです。結局それを考えるとき、神様の前に私が尽くした忠誠は、死の峠を切り抜けていくことのできる忠誠の基準ではなかったのです。それ以下で行ったり来たりする忠誠であり、そのように骨がびりびり溶け出る深刻な忠誠ではなかったということです。たとえ私が父の前に祈るものが……。(一五八―一五三)

3 父母の立場の責任者としてもたなければならない心の姿勢

 皆さんが町内で貧しい人を見たり、御飯を食べてその人の家の前を通るとき、涙を流さなければなりません。皆さんの姿勢がそうでなければなりません。「この人がこのように貧しいのは、人類の祖先になる人が誤って堕落したためだ。私は父母の使命をもってこの町に来たのだから、この人に責任をもってあげなければならないのに、この町に来て一年が過ぎたのに、この人に与えたものは何だろうか? 何の恵沢も与えていないな」と思って、その家の前を過ぎるときは頭を下げ、涙を流しながら父を呼び、祈ることのできる心をもたなければなりません。皆さん、そういう心をもってみましたか? これが原理的なものなのです。

 また、町内の子供たちが食べる物も食べられず、着る物も着られないのを見たら、胸を痛めなければなりません。「お前たちがこのようになったのは誰のせいだろうか? 私のせいでこうなのですね? この町が天国に行くためには、父母として来た私を中心にして足場をつくらなくては、カインの橋を架けることができない。この足場を経ずしては、父母の因縁を結ばずしては天国に行くことができない。私と、あなたたちと、この村は、真の因縁があって出会ったのだから、私は生死を懸けて最後まで父母としての責任を果たそう」という心が夜でも昼でも、寝ても覚めてもなければなりません。これが、父母の立場にいる地方の責任者がもたなければならない心の姿勢です。

 スプーンを取るときは、その町内に御飯を食べられないかわいそうな人がいれば、彼らを訪問して御飯をみな分け与えて、彼らから「どうぞ私をそのままにしてスプーンを取ってください」と勧められるまではスプーンを取れないのが父母です。それが父母だというのです。子供をもった父母が、自分の御飯を一人で食べることができますか? 父母は「さあ、食べなさい。さあ、食べなさい」と子供たちに分けて食べさせてあげるとき、その中で分別のついた子供から、「お母さん、お父さん、私たちはもういいですから、どうぞお母さん、お父さんが召し上がってください」という言葉を聞いてこそ、その御飯を食べることができるのです。そういう立場で御飯を食べるようになるとき、その御飯は希望と愛の心で食べることのできる御飯になるのです。その御飯は悲しい御飯でなく幸福の御飯であり、絶望の御飯でなく希望の御飯であり、父母と子供がその御飯を食べるその場は終わりになる場でなく、天倫の因縁が新しく結ばれ、天と地の因縁が新しく結ばれる場になるのです。ですからその御飯は福になる御飯であり、その基盤は幸福の基盤になるのです。そういう段階から落ちないように願うのが、父母の心情ではないでしょうか?

 皆さん、道端で遊んでいる、着る物も着られず食べる物も食べられないで骨だけ残っているような子供たちを見たら、自分の子供たちと同じく胸に抱いてやることができなければなりません。それができないなら、子供を生んでおいて責任を果たせない父母と同じく、自分の子供を乳母にあげたり、またはある町に捨てた母が自分の子供が育っている家の前を通ってその子供を見るとき、その子供の前に顔を上げられない恥ずかしさを感じる、それ以上の恥ずかしさを感じなければならないのです。これが心情の因縁です。もし、自分が生んだ息子、娘がそうやってやせ細っていたら、その子にすがって骨が溶けて肉がゆがむように涙を流さないでしょうか?

 復帰歴史路程において、父母がいてもその父母を分からずに何千年の間、流離孤客(注:離ればなれになること)し、怨讐から引きずり回されながらも滅びず、種として今日まで残った血族の因縁はどれほど福となり、どれほど貴いことでしょうか。神様が私たちの国を滅ぼさず、後孫を残すようにされるために、その種子が途切れない位置に「私」を立ててくださったことに対して感謝する心をもたなければなりません。皆さんがその心を中心にして父母の心情を体得することのできる位置ができるようになる日には、絶対に飢えないようになります。町内が飢える前には皆さんが飢えては駄目だというのです。そういう位置にいるのに飢えるようになれば、その町内はすべて滅びるのです。

 そういう心をもたなければなりません。人を見てもそうだし、牛を見てもそうです。「この野郎、牛め、お前が真の父母の鞭を受けながら田畑を耕すならどんなにいいだろうか? かわいそうな孤児と同じ身の上、僕の身の上、その運命を選ぶことができないそういう立場にいるお前がかわいそうだなあ」と言いながら、牛の耳をつかまえて額を打ち合わせてオンオンと泣くことができる、そういう心を遣うことができなければなりません。

 畑を眺めてもそうであり、木を眺めてもそうです。「お前たち、歴史的な恨みがあるなら、きょう私を見て解きなさい。願望成就の欲望があるなら私に言いなさい。私が天のみ旨と因縁を結んであげよう」と言わなければなりません。み旨を眺めても、山河を眺めても、「私がお前を見捨てようか? 谷間谷間ごとに私がみな行ってあげよう」と言えなければなりません。今まで主人が行けなかった深い山中にある木まで探して「きょう私がお前を探してこの山中に来たのは、お前と同じ山中にある木たちが寂しいだろうと感じたからだ。だからお前を代表的に訪ねてきた」と言いながら、町内なら町内、郡なら郡にある山の木たちを代表する立場に立たせておいて祈ってあげ、きょうの喜びを末永く伝承して、きょうをもってすべての悲しみを解怨し、後代にはこういう悲しみをもたないように祈ってあげることができなければならないのです。

 岩を眺めたら「お前は多くの人たちから何の願いを聞いたのか? 多くの人たちがお前を眺めて願望し、お前を眺めて呪い、お前を眺めてあらゆる思いをしただろうが、私はそうではない。お前が私に出会い喜ぶことのできるきょうを、どれほど待ち望んだのか?」と言いながら、岩が悲しむ前に先に悲しい表情をして、涙が前を覆う心情をもっていく皆さんになったなら、皆さんが行く道は絶対滅びないのです。

 皆さんが苦しくなろうとすると、皆さんの先祖が遮ります。先祖たちは僕の僕の位置にいるので、僕である皆さんが行けば、皆さんに先だって先祖たちが苦労しなければならないのです。それで霊界が動員されて、自分たちの後孫に協助してくれる業が起こってくるのです。そうですか、そうでないですか?

 これは神様を中心にして見るときも同じです。神様が父母の心情で天使長を愛しアダムを愛するとき、神様が受難を受けるようなことが起こってくれば、霊界に属する存在全体が神様に協助するために動員されるのではないですか? 同じような道理だというのです。皆さんが父母の心情をもてば、そういうことが起こってくるのです。分かりますか?

 すべてのことが私の責任だというのです。「お前たちが打たれる前に私が打たれ、お前たちが苦痛を受ける前に私が苦痛を受け、お前たちが受難を受ける前に私が受難を受けよう。この町内がきれいでないのも私の責任であり、この町内全体に天国の起源をつくれないのも私の責任だ」と考えながら苦労し、夜に戻ってきて彼らのために福を請うことができなければなりません。自分の一生を懸けて嘆息するのではなく、その村とその村の後孫たちを懸けて嘆息する立場に立たなければなりません。父母の心情をもってこういう立場に立った人こそ、その町内が先祖に迎えたい人ではないですか? そうでしょう? (はい)。(四六―二八〇)

4 父母の心情で食口たちに対しなさい

 お母さんお父さんが、子供を愛することを習ってしてくれるのですか? お母さんが子供を愛することを習いましたか、習いませんか? (習いませんでした)。習いませんでしたね? また、子供がお母さんお父さんを恋しがり、お母さんお父さんに従っていくことを習いましたか? 習いませんでしたか? 習うとは何を習うのですか。自動的に分かるようになっているのです。男性が女性を愛し、女性が男性を愛することを教えてあげましたか? それと同じように、心情の世界では自動的に分かるようになるのです。そこでは教育とか権力とかいうものは必要ありません。考えてみなさい。あなたたち開拓時代に十五、十六歳の娘や若者たちが出ていって開拓をたくさんしましたか、大学生たちが出ていって開拓をたくさんしましたか? (十五、十六歳の娘や若者たちです)。それ、みんなあるでしょう? 心情的な問題が……。大学生は、自分に実力があったら自分を信じるのです。そういう立場に立たずに、皆さんはこれから姿勢を父母の心情で……。今までの私たちの標語は何ですか? 父母の心情で汗は地のために、涙は人類のために、血は天のためにどうするということを、先生はいたずらに主張したのですか? 先生がそう生きたのです。その標語どおりに出ていって伝道してみなさい。先生の話が本当かうそかテストしてみなさい。食口がいないなら戸を開けておいて食口を恋しがること、それは紙一重の差です。そうやってみれば来る音がみな聞こえるのです。そのように恋しいのです。そのようになってみなさい。来るか来ないか、必ず道が開かれるようになっているのです。

 姜賢実が初めてポンネッコルに訪ねてきた時もそうでした。先生は山に登れば失った子供を恋しがる心でした。姜賢実が来る音が聞こえるのですが、その時は先生はそんな心情の真っただ中だったのです。周囲には誰もいませんでした。この壁を心情で崩したのです。堕落の心情でふさがったものを天の心情で取り崩したのです。ですから駆り立てて入ってくるのです。分かりますか? 今までそうやって伝道しなかったために、みなごろつきになったのです。

 そこに入れば、食べるものは準備したものが積まれたというのです。食口たちがみな持ってくるようになっています。(笑い) 神様の息子、娘は絶対飢えて死なないのです。あなたたちが出て伝道するとき、開拓するときのことです。地域長たちや伝道隊員たちが出ていって飢えていることを知ったなら、それを知った人たちは御飯が食べられないのです。のどが詰まるようになっています。

 先生が監獄にいるとき、私は何もしないでいても「何番にはったい粉を持っていけ」と言ったといって持ってきます。そうして私ははったい粉をたくさんもらって食べました。この囚人たちは、ただ死ぬのが嫌なのですね。しかし、飢えて死んだらどうです? 天国に行くでしょう。そういう賭けをして生きるのです。(笑い) 死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬという心情でやってごらんなさい。いたずらに心配が先立って皆さんは、今のようなそんな調子なのです。(一九六九・五・一二)

 誰が責任をもつのでしょうか? それを有り難く受けて、身もだえして自分の責任だとして荷を背負う人がいるとき、それによって外的サタン世界は崩れていくのです。蕩減歴史はこうして展開されるのです。分かりますか?

 ですから主人である父母の心情をもたなければなりません。それで「父母の心情を抱き、僕の体をもって、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流そう」と言うのです。このようにする日には、父母の代身者にならないわけがありません。父母が不平を言えば子供たちはどうすればいいのですか? 「ああ、これは大変だ」という親をもつ子供たちは死ななければならないのです。父母が泣いたら、子供たちは父母のために死のうとしなければなりません。皆さんはそれを知らなければなりません。それでそういう標語を立てるようになったのです。

 これは主体的な愛を中心にして統一させる思想です。主体を中心とする統一思想です。それでは「統一」の「統」は何の統の字ですか? 率いる「統」の字です。率いる立場はすなわち侍るということです。引っ張っていくということですか? 引っ張っていくのです。引っ張っていくのでどんなに大変でしょうか? みんな引っ張っていって、あとで平安な場に行くようになったなら、そのときは彼らが侍ろうとするのです。そのときには楽で、不平を言うことがありませんから「ああ、こんなに良いことは誰のおかげですか? 先生のおかげですね」と言いながら「侍るな」と言っても感謝して侍るのです。ですから万民が侍ることができる栄光の時までは、いつでもその責任を負わなければならないので受難の道を抜け出すことができないのです。(四四―二一)













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