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三 道しるべとしての牧会者

P806
1 案内者としての牧会者

 私たちが一つのある山の頂上を見上げてそこを目指して行くとき、最高に高い地点というのは一つしかないのです。登る道が四方にあってその道の距離は取る方向によって違うのですが、その頂上に向かって行くことのできる第一の直行路、すなわちまっすぐ行くことができる道はただ一つです。その一つを中心として三六〇度の方向においていろいろ道が連結されるのです。最初は三六〇度でしたが、頂上に登っていけばいくほど、頂上が少しずつ少しずつ近づくほど、これは必ず出合うようになります。連結され、入っていくのです。これがあとでは四つに現れることであり、四つが二つに現れることであり、最後に頂上に至れば一つの起点に連結されなければならないのです。そうすれば私たちが頂上を占領することができるのです。

 こういう観点から見るとき、歴史は山に登る様子と同じ過程を経てこなかったのでしょうか? 数多くの民族が分かれていて、歴史過程を経ながら直行すると言いましたが、その中では反対に登る人もいたし、いろいろな姿があったはずです。途中で疲れて休む人たちもいたでしょうし、下りてくる人もいたでしょう。下りてくるのに登っていく道より険しいので、「違う道に行けば楽だろう」と言って行った人、あらゆる歩みをした人たち……。こうして絡み合っているのが人類歴史ではないでしょうか?

 それでは山全体を眺めるとき、その頂上に向かう一つの道を知っている人がいるなら、彼はいつでもその頂上を占領するための、誰もが願う案内者になるのです。これは間違いないのです。これは過去もそうであり、現在もそうであり、未来もそうなのです。頂上を征服するまでその道を知る人がいれば、彼はいつでも公認された案内者です。こう考えます。(八一―一七九)

 道しるべはなぜ必要なのでしょうか? 私自身が早く頂上に行くためです。それでは、神様のみ旨を完成させるためにはどうしなければならないのでしょうか? 道しるべと私が一つになる道以外にないという結論です。その道しるべと私とが一つにならなければなりません。行きながら道が分かれたなら「おい、そっちに行けばいいかい? こっちに行かなければならないのだが。私が行きたい道はこの道で、君が行く道は違う」。こうでいいですか? 絶対一つにならなければなりません。夜も昼も一つにならなければならないのです。異議があってはならないのです。これが絶対的要件です。

「ところでお前は年が幼く私は年が上であり、君を見ると幼稚園児のようで、小学生のようで、私はおじいさんであり、すべての外的な常識、知性と経験から見てもお前が私の指導を受けなければならないはずなのに、耳に血も乾いていないお前が何の案内者か」。こうは言えないのです。案内者であることが分かった場合、鼻がつぶれていても、耳がゆがんでいても、片目でも、あるいは足が不自由でも大丈夫だというのです。何の話か分かりますか? (はい)。

 必ず立派でなければ案内者になれないという法はないのです。一国の代表者として就任していく大使が、立派な美男子だけであるということはないのです。女性も大使として行くでしょう? 娘が行っても大使だというのです。同じことです。ですから任命を受けた大使を無視し不信するのは、その国を不信することであり、その国を蔑視することです。

 案内者はいつでも……。きのうはこう言ったけれど、きょうは「そうしては駄目だ」と言うのです。夜に行って尋ねても「はい」、「どこそこ山まで登るのだが、あなたが案内することができますか?」と言っても「はい」。「そうか、夜でも自信がありますか?」と言っても「そうです」。昼に聞いても「そうです」。寝るときに行って起こして「あなたが案内者ですか」と言っても「はい、そうです」。いかなる時であっても考えがとどまる立場になるとき、目覚めて聞いてみても、「そうです」と、こうでなければなりません。そこに異議があってはならないのです。これは何のことをいっているのでしょうか? 春夏秋冬、四季を通じて変わらないということです。行く道、行く道が変わらないし、こうしたりああしたりしないのです。「そうですねえ」という言葉が必要ないというのです。(八一―一八三)

 原理の道は踏襲する道だといったでしょう? 復帰の道は探し求めていく道ですが、皆さんは探していくことができますか? 探すことができないでしょう? 探し出せないので道案内人が必要なのです。三十八度線を越えるとき、最初に行く時は三十八度線を越えられないので、道案内人についていかなければなりません。道案内人が「伏せろ」と言えば、伏せなければなりません。「伏せろ」というのに立っていれば、そのまま死んでしまうのです。(笑い) 「伏せろ」と言えば、伏せ、「起きろ」と言えば起き、「はえ」と言えばはい、「腹ばいで進め」と言えば腹ばいで進まなければならないのです。やらなかったとしたら、みな滅びるのです。ちょうどそれと同じです。

 ですから、皆さんは訪ねていかなければならない道を知らないので、先生が先頭に立って道案内するのです。行って伏せなければならないと信号だけ送れば、さっと伏せなければならないのです。そうすればいいのです。そうしますか、しませんか? (します)。ですから家庭を捨てて出なさいというのです。「集中射撃!」と言うそのとき、それぞれが、私の夫、私の子供を連れて一緒に行くとすれば皆殺しに遭います。そのときは分散して逃げなければなりません。分かりますか? (はい)。ですから夫とみな別れるのです。そうすれば種つぶだけでも残るのです。そうではないですか? (五八―八〇)

2 牛に牧草を食べさせる主人の立場

 皆さんの中でも、牛を飼育しながら牧草を食べさせてみたことのある人がいるはずです。梅雨どきや湿っぽい日には、牛に牧草を食べさせるのは本当に嫌です。私も昔、牛に牧草を食べさせに行って、鞭も当てました。今笑っている人たちはそういう経験があるので通じる様子ですね。私だけそうしたのではないのです。両親が、「牛を引っ張っていって牧草を腹いっぱい食べさせ、何時までに帰って来い」と言うのに、平地には草一本なかったならどうしますか? そういう時は「知るものか、裏山にお父さんが一番愛している草原があるから、そこに行って食べさせよう」と、その勾配が急な山に引っ張って登って行くのです。ところでこの牛が登らずに途中でいくらもない草を食べようとするのです。その時、「この野郎牛め」と襲いかかるように強く打ち、棍棒で殴るのです。それでもかわいそうでないというのです。そういうことを感じてみましたか? こうやって無理やり引っ張っていって川を越えて山を登らせて、ちょうどその場所に放してやればその牛がどうしますか? 「食べるな」と言えば、食べませんか? そのときは舌はもちろん、唇、耳、目まですべて「ありがとう」と言いながら喜んで食べるようになるのです。

 先生はそうすることができる所を知っているために、今まで皆さんを制裁しながらきましたが、皆さんはそれを知らずにいるのです。皆さんはそういう所があるということも知らないのです。皆さんがそういうことを確実に分かったなら、むしろ制裁してくれることを望むのです。何の話か分かりますか?

 先生が皆さんに「伝道に出ろ」と言えばみな尻込みをして、「ああ、他の人たちは避暑に行くのに、何、伝道? 厄運が引き続くなあ」と不平を言うのです。

 それは知らないからです。民族が解放されるし、世界が解放される道を行かないというときには、知っている人が打って追いやらなければならないのです。皆さん、打って追いやることが情ですか? ただほうっておくのが情ですか? 誰か細い女性たち、どちらが情なのか答えてみなさい。(たたき出すのが情です)。(三二―二五五)

3 避難途中で目撃したこと

 昔、六・二五動乱が起こった時、避難途中で私はこういうことをたくさん見ました。お母さんが五歳の子供を背負って出たのですが、分別がついていないから戦争になって避難するのも知らずに、どこかに行くというので鼻歌を歌いながら喜んでついて出たのです。ところが背負っていってみると、お母さんの力が尽きて子供を下ろして歩かせるのです。そうすると子供は「お母ちゃん、やだ。私おぶってくれなければ行かない。おぶって、おぶって」(笑い)と言うのです。

 こういうときに子供を愛する父母はどうしなければなりませんか? おぶってあげなければなりません。それが情です。しかし、おぶってあげたら二人とも死ぬことになるのです。それなら、どうしなければなりませんか? 歩かせなければなりません。歩かないというなら、脅し、ほっぺたをぶってでも行かせなければならないのです。そして避難所まで行かなければならないのです。

 皆さんがその父母ならどうしますか? 捨てていきますか、殺しますか? でなかったら強制的にでも引っ張って連れていきますか? どんな方法が一番いいですか? 捨てることですか? 殺すことですか? それがみな嫌だったらどうするのですか? どうやってでも引っ張っていかなければなりません。耳をつかんで引き裂くとか、鼻の穴にひもを通してでも引っ張っていかなければなりません。

 それが本当の愛です。そうやって無事に全部連れてきておくならば、自分の友達はみな死んだのに私だけ助かったといって「ああ、うちのお母さん、ありがとう」と言うのです。ところが耳がちぎれたので美人の顔に傷跡ができて嫁に行けないと不平を言う娘がいれば、雷に当たって死ななければなりません。そのちぎれた耳を見れば見るほど「うちのお母さんの愛は偉大だったんだな、父母の愛は恐ろしいな」ということを感じながら、千年万年自分の父母を尊敬することができる標的にするのです。

 皆さんは、「先生は御飯を食べて出てくれば私たちを苦労させようとする」と思うでしょう? そうです。私は皆さんに情がありません。仕事をさせるときは情がありません。しかし共に暮らすときには情があるというのです。

 仕事をさせるときには無慈悲に、鼻にひもを通してでも引っ張り出さなければなりません。「つらくて行けない」と言えば足で蹴り、棍棒で殴ってでも押し出さなければならないのです。これが正当な方法です。この言葉が理解できますか? そこのおじいさん、イー・ボンウン長老、理解できますか? (はい、理解できます)。百歳の老人も、たたき出してでも行くようにしなければならないのです。何十年も一緒に暮らしたおばあさんに失礼になってでも、行かせなければならないのです。これが私たちがしなければならない仕事です。

 なぜそうしなければならないのでしょうか? 神様の最高の愛を受けることができる圏内に入るためにです。今までどんな宗教人も越えられなかったその基準を越え、どんな団体も尽くせなかった精誠を尽くし、どんな国も備えられなかったその国の形態を備えて、神様が今まで愛したくてもどんな団体も愛せなかったし、どんな国も愛せなかったし、どんな世の中も愛せなかったその愛をまるごと独占するためです。ですから、これは正当な教育方法であり、正当な作戦なのです。ここに異議がありますか? そのようにして滅びたなら、復讐しなさいというのです。私はそうやって生きてきても滅びませんでした。(三二―二五六)

4 殴ってでも行かせてやらなければならない

 皆さんは師を眺めるときどんな立場で眺めるのですか? 「選民にさせてくださいますように」と言って、殴ってでも行かせるようにしてくれる指導者、刀で追いやってでも行くようにしてくれる指導者を探さなければなりません。もしもモーセが刀を取ってでもイスラエル民族を追いやったなら、十万くらいは死んでも、六十万がみな滅びはしなかったはずです。

 理念的に、私たちにどんな試練が来るとしても問題はありません。行く道に支障になるものはけっとばしても行かなければなりません。指導者がそのように引っ張ってくれることを望まなければなりません。行かなければ滅びます。ですから、このようにしてでも必ず世界的カナン復帰の使命を果たさなければなりません。この使命が私たち統一教会の人の肩の上にあります。行かなければたたいてでも行くようにしてやる指導者がいなければなりません。行きさえすればいいのです。そうしてこそ歴史的勝利者になり、時代的な先鋒者になり、未来的な開拓者になることができます。(一二―六〇)

 指導者は部下をさらによく食べさせ、着るものをさらによく着させてあげなければならないけれど、もし彼が危急な時は悲惨な道に追いやってでも送らなければならないのです。モーセがどれくらい切なかったから民族を離れて四十日祈祷をしたのか! モーセは彼らの前に暴風雨が吹きつけることを知っていたのです。

 きょうも歩いてくる食口たちを見て胸が痛かった。そうであるほど彼らを追いやってでも、一日でも早く天宙主義を成さなければならないという切実な心を感じさせなければなりません。(一三―七三)

 皆さんを、棒を持って、行かずにはいられないようにたたき出す責任者が必要です。皆さんが遊んでいて、その人さえ現れれば怖く、恥ずかしくて隠れる、そういう責任者が必要だというのです。そういう人が必要だと思いますか、必要でないと思いますか? 皆さん自身について考えてみなさい。(必要です)。小言を言ってもびくともしないように管理しなければならないのです。

 皆さんを管理する指導者が、会えば笑わせ、踊りなどを踊り遊ぼうとする人がいいですか、仕事をしろと「働け、働け」と言ってせきたてる人がいいですか? (笑われる) どんな人がよりいいですか? (せきたてる人です)。本当にそうですか? (はい)。そうだというのです。

 これが統一教会の運命です。運命というものはどうしようもありません。どうすることもできない運命なのです。まずやっておいて弁明しなければなりません。やっておいて話さなければなりません。寝る前に責任をすべて果たし、食べる前に責任をすべて果たし、休む前に責任をすべてなせというのです。それがうまい指導、管理方法ですか、まずい指導方法ですか? (うまい方法です)。それでは、皆さんは仕方がないのでしますか、喜んでしますか、まあまあでやるのですか? (喜んでです)。(九七―一九)

 ある人たちは、「統一教会は独善的だ」と言います。しかし絶対というのは、最高の独善と通じるのです。ですから最高の独善的な過程を経なくては絶対に真なる基準に立つことができません。ただそれが永遠性を保存でき、真を擁護できる独善かということが問題です。独善それ自体だけでは駄目だというのです。分かりますか、何の話か。(二一―一五四)











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