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三 食口指導の要素――愛

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1 すべてのものを和することのできる愛

 神様として最も願っておられることは何でしょうか? 神様として考えるとき、最も中心は何でしょうか? 高く低いすべての立場の関係を結ぶということも考えられますが、その中ですべてのことを本質的に連結させるものは何でしょうか? 高いことも好むし、低いことも好むし、東西南北はもちろんのこと中央や四方全体が好む、神様が理想として好み、高くあり得る考えを中心として完全に和合されて一つにすることのできるものは何でしょうか?

 それは神様自身でもなく、神様が整えなくてはならない環境でもなく、神様の考えでもありません。これは考えだけをもってしては駄目だというのです。それでは何がなければならないのでしょうか? 高いもの低いものを連結させることのできるものは何でしょうか? 神様に必要なものは愛だというのです。このようになっているのです。

 私たちはこのような概念をもって……。愛を中心としてこそ前後、左右、上下あるいは東西南北、中央全体が和合することができ、連結することができる道があるのであって、愛を除いてしまってはそうすることができないのです。愛は全体と和合することのできる内容をもっているのです。東の方でも必要としているものであり、西の方でも必要とするものであり、どんな端の方へ行っても必要とするものです。もっともっと端の方に行こうとするのは、もっと高い愛を探し求めるために行くのであり、また端の方から中へ訪ねてくるようになっても、もっと高く、もっと強い愛を探し求めてくるのです。大きな愛を探し求めていくとか、もっと強い愛を探し求めていくとかしなければなりません。このような内的な何かがなければならないのです。

 遠くへ行くときは、大きなものを探し求めていくのであり、中央に帰ってくるときには強いものを探し求めてくるのです。強いといっても、その強いものがぺちゃんこな状態で強くなければならないのか、つんつん突き出た状態で強くなければならないのか、まーるく強くなければならないのですか? このように見るとき、内的に入ってくるならば、円形を描くことのできる強い愛がなければならないのです。

 それゆえ、大きな愛、強い愛、このような概念を定めることができるのです。愛が良いという時は、大きな愛を探すのだというのです。大きな愛、大きな愛だけをもってしてはいけません。強い愛、どのくらい強くなければならないのでしょうか? すべてのことを融合させることのできる、すべてのものを本質までも思いどおりに因縁を結ぶことのできる力をもった愛、神様が考えたとしたなら、そういうことを考えたのだというのです。(一六四―六九)

 皆さん、豆腐を作ってみましたか? 豆腐の作り方を知っていますか。豆を粉にして、布ぶきんに入れる前ににがりを入れれば固まるでしょう。凝結するのです。愛とは、にがりと同様で、すべてのものを固めるようにするというのです。それゆえ、女性は子供を生んでみることによって、真に満ちた女性になるのです。お母さんの心を感じてみなければなりません。(一六五―一〇三)

2 愛は宇宙も喜ぶ

 サタンも愛を受けたがるので、サタンまでも愛するのだという心をもたなければなりません。そのような雅量をもって出ていく時には、サタンも間違いなく、「その勇士は自分の兵士よりも立派な天の勇士だ」と言って褒めたたえてくれるのです。イエス・キリストもそのような心をもって行ったので、十字架に亡くなられながらも怨讐のために祈祷することができたのです。ですから彼はよく授けて行ったというのです。(二六―五〇)

 愛を絶対視する人間だけを宇宙は歓迎するのです。分かりましたか? 「レバレンド・ムーンは間違った」という人、手を挙げてみなさい。それで、文学や詩は「愛は永遠なるもの、愛は強いもの、愛は驚くべきもの、生命よりも高くて、何よりも、もっともっと大きなもの」と語っているのです。すべてのものを持っていってしまっても、万事がOKというわけです。さあ、御覧なさい。愛だけが絶対的な統一であり、絶対的な不変であり、絶対的な永遠であるといっても、全部の言葉がぎこちなくないのです。生命はそうではないのです。「生命は永遠なるもの、生命は不変なるもの」と言えば、これは当たっていないのです。

 さあ、文学書籍や詩の中でたたえられているすべての言葉の中で、最も重要な言葉が生命の言葉ですか、愛の言葉ですか? どういう言葉ですか? (愛の言葉です)。知識? 権力? お金、お金? (違います)。それは、なぜそうですか? なぜ、そうなのですか? それを知らなかったのです。これを知らなかったのです。簡単なこれを知らなかったというのです。簡単なことです。(一三二―七九)

 人間だけでなく、犬も主人が愛してやれば喜ぶのです。しっぽを振って、このように……。(笑い) そうですか、そうではないですか? 人が園を愛せば、鳥たちが集まってきてさえずるというのです。それで、愛はいいというのです。神様の趣味が何だろうかと考えてみたことがありますか? 文学作品? 神様の関心は愛しかありません。皆さん、皆さんの関心は何ですか? (愛)。誰に似てですか? (神様)。それで愛を中心として神様の息子、娘だというのです。さっき話した希望だとか、幸福だということも、愛を除いた希望がありますか? 愛を除いた幸福がありますか? 希望がなく幸福がないとしても、愛だけをもっていっておくならば、希望は自動的についてくるのです。幸福は自動的についてくるのです。

 娘さんたち、愛に従ってお嫁に行きますか? 希望に従ってお嫁に行きますか? 何に従ってお嫁に行くのですか? (愛です)。愛は好きですか? (はい)。私は愛が嫌いです! (笑い) そうでないと言っても、あまりにもよくて……。御飯をおいしく食べていて、あまりにも良くてのみ込もうとして「おくっ! おくっ」とこのように引っかかるのです。本当に愛が好きですか? (はい)。見てみなさい。子供を愛する父母は息子、娘の手が汚く、醜くても自分の懐に入れたいのです。「アイゴー! その手、汚いわ。お風呂に行って石けんで何回か洗ってきなさい」と、そういうふうにはしないのですね? 愛だけが地獄を天国につくります。それは理論にかなう話ですか? 理論に合わないとすれば、可能な理論にはならないというのです。それゆえ、愛さえあれば、地獄を天国につくることができるのです。

 今日、皆さんはなぜ、レバレンド・ムーンに従ってくるのですか? どうして、従って回るのですか? 青い色の目をして、どうして、従って回るのですか? 皆さんの顔を静かに見ながら考えてみれば……。青い目と黄色い頭の白人が、黒い目をもったアジアの人間に従って回るのだと考えてみなさい。(九〇―三一二)

3 愛の道を探して行くならば犠牲と奉仕をせよ

 この愛の道を探し求めて行こうとすれば、犠牲、奉仕をしなければなりません。気分が良いですか? (はい)。犠牲、奉仕がなければ、十ほどの愛の因縁をもってきた人は、百、千、万の因縁の道を行こうとしても行けないのです。先祖が悪ければ、十ほどの愛ももってこれないというのです。

 ところで、十ほどの愛の因縁をもってきた人も、百、千、万の愛の因縁を占めることのできる道があれば、そのような道を一回くらい行ってみたいと思わないだろうかというのです。行きたいですか? (はい)。統一教会の文先生はこれが分かったので、悪口を言われ、ありとあらゆるさげすみを受け、牢屋に入って死ぬような苦痛を受けながらも、今まで耐えてきたのです。また、そうですから私が民族のために生き、愛する時には誰よりも犠牲になろうとするのです。

 愛することにおいても、この程度愛せば十分だといって行ってみても、自分よりも犠牲と愛の度数が高い人がいれば、私はさらなる犠牲と愛、すなわち、千倍、万倍の犠牲をして愛さなければならないとすれば、私はその道を行くのです。欲張りでしょう? そのような自分になればこそ、神様が愛を降り注ぐことができるというのですから、そのような愛は誰から来るのですか? この世の人々が嫌がる文先生から、愛を根こそぎ降り注がれなければならないのです。(四四―二〇三)

 皆さんが、これから行って教会長として何をしなければならないのでしょうか? (僕の僕の……)。僕の僕であるけれど、愛をもってしなければなりません。愛をもって勝たなければ駄目だというのです。皆さん、分かりましたか? (はい)。どんな愛ですか? サタンの愛ではなく神様の愛です。自分自身を犠牲にする愛です。その愛はどこから現れるのでしょうか? 自分自身を相手に完全に与えるところから現れるのです。完全に与えるものは何かといえば、三対象の愛です。三対象の愛は完全に与えることができ、完全に受けることのできる愛です。これが神様の愛ではないのですか。

 皆さんが完全に与える日には、完全に受けることができるというのです。もし、サタンがその愛を完全に受けてから逃げてしまったとしたら、どうなるでしょうか? 完全な対象的愛には、完全な主体的愛が生まれるというのです。ですから、心配する必要がないというのです。誰が分かってくれるといって喜び、分かってくれないといって寂しく思う必要がないというのです。そうではないですか? 本部で分かってくれるのならば分かってくれるし、教会長が分かってくれるといえば分かってくれるし……。もう、誰それが分かってくれないといって心配することがありますか。問題は完全な愛をもって現れることができないことです。それが心配の種なのです。(四八―三四)

 霊的な責任者は時間を超越して、自分と関係がある人々に対してあげることができなければなりません。結局は、私が寝る時間を完全に人のために与えることができなければなりません。そして、私が食べる時間も人のために犠牲にすることができなければなりません。私が生きる生活も、人のために犠牲にすることができなければならないというのです。このような立場で、責任所管を知って実行する責任者になれば、その人は発展するのです。(七二―三一三)

4 愛に狂って生きなければならない

 皆さんの手足が統一教会を愛するためにどのくらい動いてみたのですか? 私が御飯を食べるためには手足が多く動いたし、私の目が多く動いたけれど、統一教会の食口を愛するためにどのくらい動いてみたのですか? 統一教会のために、私が汗をどれだけ流してみて、私が努力をどれだけしてみたのですか。疲れた体で寝床に入る時、誰を愛するためにそうしたのですか? 自分のためにそうしたのだとすれば恥ずかしいことであり、世界を愛そうとしてそうしたのだとすれば栄光です。天国の一つの塔を積むために、一かけら一かけら積み上げていく土台が、その疲れた寝床の中で積み上げられていくのではないのですか。そうだから愛そう! そして、教会を越えて国を愛そう! 私たちがその業をしているのです。(五九―五八)

 新しく入ってきた食口を愛すれば、蕩減条件を早く立てることができます。教会が発展できない原因は、食口たちがそのようにすることができないでいるところにあります。それゆえに、神様は互いに愛し合い和睦しなさいと語られたのです。(一八―四〇)

 愛の極致。それは何かといえば、神様の愛だというのです。神様の愛に抱かれて他人を自分の子供のように、自分の兄弟のように考え、幼い子供は自分の家族の一員として考える、そのようにすてきな男性でなくて、神様の子女になれるのでしょうか? 神様の子女になるためには……。一般的な子女になると、神様の子女になれません。過去の聖人程度では駄目なのです。過去、現在、未来を通して永遠に、絶対的な男性として立たなければ、神様の息子になれません。それゆえに聖人たちが愛さなかった分野を、私たちは今愛するのです。先生はそのように考えているのです。(五五―九七)

 愛に狂って生きなければなりません。酔って生きなければなりません。酔う度数が少し越えれば狂うのです。狂った人には、どうということがありますか? 狂った人には、どうということがないのです。順序を逆にするのです。お父さんに対して「お母さん」と言い、お母さんに対して「お父さん」と言うのです。それが愛の心をもって言うのならば「なぜ、お父さんを見てお母さん、お母さんを見てお父さんと呼ぶのか」などとは言わないのです。すべてが通じるというのです。愛は一つになっているので、このような理論が形成されるのです。それで人は酔って生きなければなりません。

 文先生も酔って生きるのです。悪口を言われるおもしろ味が、どれほど味のあるものか、この世の人々は知らないのです。悪口を言われる味、悪口を言われるおもしろさが、どれほど味のあるものかをこの世の人々は知らないので、悪口を言われないようにするのです。しかし、私はその味を知っているのです。(笑い)(一四八―三二三)












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