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五 食口指導の要素――十分な経験

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1 訓練と経験が不可欠

 人の素質というものは制限されているのです。そこに合う食口、人は何人くらいになるのかというのです。そこに合う人は何人くらいになりますか? ですから、私が合わせる業をしなければならないのです。合わないならば、合わせなければならないのです。これは必ず経験を通してできることなので、皆さんがそのような経験過程を経ないならば、真なる責任者になれないということを知らなければなりません。そうして、皆さんが責任者になれば、このような経験によって間違いない責任者の所管を果たして天の称賛を受け、皆さんが指導する団体ならば、団体のすべての人々の前に仰がれ、尊敬を受ける永遠なる新しい伝統を残すようになるのです。

 それゆえ、そのような準備をしなければなりません。どんな外的な訓練や、どんな内的な訓練でも甘んじて受けなければならないという自覚をする皆さんにならなければならないのです。それを嫌だと思うなというのです。私はできないという思いをもつなというのです。(七二―三二八)

 他人の先生になることは易しいことではありません。統一教会の先生になるのは易しくはないのです。極めて難しいことなのです。これは、罪人のように囚人の服を着て刑場の道を歩いていく、そんな気分なのですが、実際に行きつつある人間だというのです。それは何の話か分かりますか? (はい)。皆さんは刑務所の生活をしてみたことがないので分からないのです。豪華な家に住んでいるけれど、私はその家を必要とする人間ではないのです。私は草屋でも生きることのできる人間です。草屋でも生きることのできる訓練ができています。服を脱いで手に持って土方をしに行けば、一等労働者になれる訓練をした人間なのです。そこに神様が愛する人がいれば、私が行ってすがり、環境をすべて収拾し、そこで涙ぐみ友人になることができる、このような心情的な訓練をした人なのです。(八五―四三)

2 知恵深く指導をしなければ

 知恵深い指導者は、一度打ったら二度慰めてあげるのです。そして、食口たちが「私のためにそうだったのだ」と言えるように処理していくべきであり、そうできなければ、後ろ指をさされて反対されることが多く起こってきて、のちにはサタンが入ってくるのです。それを上手に処理できなければ、自分の弟子が怨讐になるのです。怨讐になり、復讐してやるといって、その人間が天の側に行くことができなくなれば、その心を中心として行動する一切の責任を、誰が負わなければならないかといえば、責任者が負わなければならないのです。(五四―二〇七)

 もし、悪いことがあれば悪いことをその場で処理するなというのです。悪いことがあっても、その悪いことを中心として良くすることのできる条件を探しながら、良いことが悪いことより小さくても、小さいことを見て悪いことを保留して処理することのできる余裕をもたなければなりません。

 もし、一年前に誤ったことを見て切ってしまっていたとしたら、その人は完全に死んでしまっているのでしょうが、一年、二年、三年切ってしまわず保留して処理するようにすれば、一年、二年、三年ののちには、その人が生きることができる道もあるのです。(七二―三一三)

3 責任者になろうとすれば食口のために十字架を負う

 責任者はかわいそうな人です。かわいそうな人だというのです。責任者は奥さんと二人、奥間で楽しく過ごしていても、戸をたたけば奥間にも「入ってきてください」と言わなければならないのです。結局は、自分の妻よりも食口をもっと愛さなければならないのです。自分の妻に良いものがあれば、それまでも売って、全部食口に与えようとし、息子、娘に良いものがあれば、そのすべてを食口のために使わなければならないのです。そういう生活方式にならなければなりません。

 さあ、こういう生活をするようになればその家庭はどうなるのでしょうか? このような家庭は大部分が不幸な家庭に落ちやすいのです。そのようなことを継承して、継続的に一生涯の間押していけば成功することができるけれども、何年間かやってみて中断すれば、すべてが無効になってしまうのです。ですから、どこに行っても十字架を負っていかなければならないのが、責任者が行かなければならない道です。もし、食口たちが責任者に従って正しい思想を受け、その責任者のために生きる心をもつとすれば、その人が私のために生きようということのできる立場に立つようになれば……。

 皆さんが御飯を食べるとしても、スプーンを持って「ああ、腹が減った」、ではないのです。食口たちのことを考えなければならないのです。服を着ても食口たちのことを考えなければならないし、全部そのように考えなければならないというのです。眠る時間も十字架だというのです。皆さんが疲れて昼寝をして起きては、「あー、気持ちがいい」と言うのも悔い改めなければならないのです。そのような生活をするならば、完全に霊界、天が協助するのです。これは、皆さんが信仰生活の体験を通すならば知ることができるのです。皆さんが自分の体を中心として、手であれば手が、どのくらい食口のために働き、目であれば目がどのくらい食口のために働き、公的な立場でどのくらい食口たちを訪ねて会いたいと思い、聞いてあげたいと思い、彼らのためにしてあげたのかを考えなければなりません。全部が自分のためにではなく、公的でなければなりません。

「責任者になろうとすれば」これがきょうのみ言の題目ですが、皆さんが責任者になるなら、このような十字架を負うことができますか? (はい)。そうしようとするならば、そのような訓練が必要なのです。千人の指導者になる前にこのような訓練をするにあたって、一人の責任者として合格することができるのでしょうか? 自分自身がそれを反問しなければならないのです。私一人を絶対必要とする友達ならば友達として、先生ならば先生として、信じることのできる一人の完全な責任者になれるのかという問題をおいて、私たちはここで訓練をしなければなりません。

 皆さんがある教会の責任を負おうとすれば、「私が完全に一人の人のために責任者の役割をしてみよう」という訓練をしなければなりません。一人の人の責任者になろうとすれば、その人の良いこと、その人の悪いことに責任を負わなければならないのです。「良いことは私が責任を負い、悪いことは責任を負わない」と言ってはならないのです。「悪いことは私がまず責任を負い、良いことはあなたが責任を負いなさい」と、こうでなければなりません。私とその人を引き離すようにするものは、良いことが引き離すようにするのでなく、悪いことが引き離すようにするのです。悪いことに責任を負うことができる責任者にならなければ、離れるしかないという結論が出てくるのです。

 悪いことを消化させて、良いものとして補充してあげるためには、個人の十字架を負わなければならないというのです。今後皆さんが責任者になるならば、これを考えなければなりません。個人の責任者として、「完全な責任者になれるのか」という問いに対して、皆さんは自答しなければなりません。「なることができる」と。その次に「家庭的責任者になれるのか」と問うとき、「なることができる」と言えるようになるときは、教会の責任者としても問題がないと見るのです。

 私が一つの家庭において責任をもち、一つの家庭の家族たちを教会に導かなければならないというときは、その家庭の十字架を負わなければならないのです。その家庭の家族全体が負うことができなかった十字架を、私が代わりに負って解決してあげるというならば、その家庭は、その十字架を解決する時まで私の指導をおとなしく受けなければならない立場に立つのです。そのような訓練が必要なのです。

 その次に一つの教会を中心としてそのようになれば、家庭の責任者はもちろんのこと、教会も問題がないというのです。教会も問題がないのです。教会を中心にして見るとき、「教会のすべての困難なことは私が責任をもつ。あなたの責任を私が代わりに負います」と言う人が、責任者だというのです。教会で困難なことがあるとき、食口たちがすべて責任をもたなければならないことを、「私が責任をもつ」と言ったならば、その信徒たちは責任者が負った十字架の責任を遂行するまでは、責任者の指導を受けなければならないのです。

 一つの国の責任者も同じです。今後世界復帰をするのだと決意していで立つ私たちにおいて、果たしてこの責任を遂行することができるのか、できないのかという問題に対しての答えは、簡単だというのです。もし、私が今アメリカに対して作戦するにあたって、神様がアメリカのためにし、信じることよりも、私がアメリカのためにもっとし、信じるならばどうなるのでしょうか? そうだとすれば、神様はアメリカを審判できないという結論が出てくるのです。審判をしようとするならば、私がやったそれ以上のものをもってきてやってこそ、することができるのです。言い換えるなら神様は、私がアメリカのためにし、アメリカを愛し、アメリカを信じる以上に信じ、私がやったそれ以上のものをもってきてやってこそ審判できるのであって、そうでなければ奪ったりとか打ってしまうことができないというのです。何の話か分かりましたか? (はい)。(七二―三一三)

六 食口に王様のように侍りなさい

 十人の主人になるためには、十人の人にかしずくことができなければなりません。そうでなければ駄目なのです。絶対に統率できないのです。ですから、今度各自が教会に帰ったならば、教会の人々と一つになって、二つの車輪、すなわち一つは右側の車輪であり、一つは左側の車輪になり、よく転がっていくようにしなければなりません。そのようになって転がりながらスピードを出せば、どんなに大きな家にぶつかっても揺れがなく、大きな岩にぶつかってもその岩を壊すようになるというのです。それゆえ、一つになって行けば発展するというのです。(五〇―三四五)

 来る人に、王様のように対し、王様のように侍り、王様のように接待してあげなさいというのです。それで教えてあげて「私の先生が、このように何でもない私に王様のように対してくれ、王様のように奉仕してくれるのですが、その人こそ高い王様のような方であり、どのように侍ろうか」と言えるようにしなければなりません。そのような伝統を立てなければなりません。神様の息子の資格は、そこで与えられるのだということを知らなければなりません。(八九―二九〇)

 人に王様に対するように侍ることも蕩減です。すべて蕩減法だというのです。その人がどんなに悪くても、王様に対するように侍るようになるならば、その精誠の心を、その人が受けることができなければ、神様が受けてくださるというのです。その人が統一教会を信じず離れていくならば、その人の善なる先祖が積んだすべての福を、私が根こそぎ引き継ぐのだというのです。これは恐ろしい作戦です。全体の福を、万民のものを私が探し求めるのです。収穫するのです。取り入れるのです。同じことです。アメリカがレバレンド・ムーンに反対すれば、どうなりますか? 同様の原理が適用されるのです。それは何の話か分かりますか? (はい)。

 祭司長はそのような道を行くのです。皆さんが責任を果たせなくては大きなことを言うことはできないのです。よそ見をすることはできないのです。私が心で誰がどうだと批判することはできないというのです。私が罪人なのに、祭司長なのに、私が責任を果たせなかったのに、どうして批判をしますか? 分かりましたね? (はい)。

 これから帰ったなら、食口たちにすべてそのように侍りなさい。食口たちにそのように侍りなさいというのです。さあ、王様に侍るその家で寝ることができますか? 精誠を尽くさなければならないでしょう? そのようになれば、今からはアメリカに新しい伝統が立てられるのです。私はそのように見るのです。もう、分かったでしょう? (はい)。祭司長はどのようにしなければならないかということが分かりますか? (はい)。私の肉をけずらなければならないし、血を抜かなければなりません。私の肉と血を抜いてささげなければならないのです。その次には心情まで合わせてささげなければならないのです。今まで皆さんはすべて、賃金労働者です。賃金労働者も良かったのです。先生が責任を負って行きますから、先生に従ってきたのです。それが良かったでしょう? そうですが、今は、時が変わったのだということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。(八九―二九三)














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