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伝道ハンドブック
み言に学ぶ伝道の姿勢

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三、伝道と世界的使命

  1976年10月5日 ニューヨーク ベルベディア

 伝道には何が一番重要かというと、霊的力が問題です。すなわち霊界がいかに協助するか、ということが重要になってきます。それが伝道実績に直接関係するのです。では、霊界が援助するような伝道をするにはどうするかというと、完全に一つになることです。もし、組織の中に不平を言う人がいたら、それはサタンの要素だから、これは摂理的破壊基盤となって、すべてが横倒れ、共倒れになってしまいます。そのことをしっかり認識したなら、班長と全体が完全に一つになる以外に道はありません。それから個人伝道、個人実績を強調することはもちろんですが、班全体の成績向上を考えなければなりません。自分はいくら良くても、班全体が良くなければ、やはり自分の責任だ、という考え方からすれば、団体行動をする場合、班全体のことを考えるのは当然です。

 自分はよくやったとして、自分の班を自分より以上の班につくり上げるにはどうするか。夜になって、みんなできないながらも一生懸命やって帰ってきたら、紙で説明したとか、話し方を説明したり、こうしたから成績が良かった、というようにみんなに教えてあげるのです。それからみんなをまとめ、指導する中心は、その班の中で優秀な者がいた場合にはその人を一番の自分の相対として考えるのです。そう思ってその優秀な者を中心にして、自分もみんなと一つになってすべてのことを相談すると、みんなも早くそれに調和していくのです。そういう作戦を立てれば、自然にその班の基準は高まるのです。

 一週間、甲が成績が良ければそれにみんながまとまる。次の週は乙が優秀であれば、今度は乙を中心にまとまる。こうして六人の組織であれば、全部が勝利すれば、六人の方法をみんなが互いに研究して、自分のものにして運動すれば、完全に一つになるのです。こうして結局は、実績をいかに高めるかということが大切なのです。

 伝道班が伝道し、街頭や訪問や電話で連絡して教会に連れてくるのですが、その背後の組織を組まなければなりません。全体的に循環できるよう、円満に動くように組むのです。

 それから来教者には、早く講義をするように。汗を流しながら、涙ながらに講義するのが一番です。講義しながらいかに感動を起こさせるかが問題です。足りないながら一生懸命やりますから、どうか聞いてください。そうして情的に相手の心情を開くように訴えるのです。そうして連れられてきた人々にいかに原理を伝え、理解させるか。講義をする者は責任が重いのです。一人を連れてくるのがいかに難しいか。その一人のために、何人にも会って、何遍も同じ言葉をポロポロ涙ながらに語り、そして惨めな思いを経験しながら、やっと一人と巡り合えるのです。

 そして連れてきた以上は、全体の責任を両肩にかけて、頼むような心情で自分に委託したのだから、これを完全に消化して、館に入る時より出る時には、伝道した食口たちに喜ばれるような結果を多く出さなければなりません。

 そのためには祈らなければなりません。祈りの中で涙を流して、生命の救いをいかになすか。自分の一言で左か右かを決定する、分水嶺に立たされるのです。心情的な講義をすれば必ず反応を示します。講義の内容を祈りながら覚え、検討し、み恵みの中に打たれた心情をもって壇に上がるのです。

 祈った心情圏を再び表しながら、講義しなければなりません。そうして表裏一体、左右前後一体となって動かなければ、いい結果が出ません。だからこの期間は、いくら気持ちの悪い癪にさわることがあっても、笑いながら歩んでください。一生懸命といいますね。一瞬一瞬に命を懸けることですが、命を考えて、命をはかること、一つの命を懸命に掲げた命令、一生をささげて懸けた命令、責任、という意味でしょう。そういう立派な言葉を知っているのだから、それを成し得て外的に一生懸命が通じるようにしてください。内的にでたらめで外的に一生懸命、そういう原理はありません。原因が素晴らしくて結果が素晴らしくなるのです。

 すべては動機が重要です。それがぶつかり合って一つになった場合には、何事も砕けてしまいます。動機がなければ何もできません。私がみ旨を歩むのも、心情的に揺るがない原動力をもっているのです。これを果たさなければならない、という精神的強い動機の前には、何ごとも逆らうことはできません。伝道する時は班長と班員が一つになることです。どのくらい一つになるかというと、神様とイエス様が一つになった以上になれば、霊界は百パーセント協助します。

 もし霊界が協助すれば不思議なことがたくさん起こります。街頭でも、何もしなくても通りすがりの人が、「パンフレット一枚下さい」というような現象が起こるのです。霊界が援助するには、神様とイエス様が一つになったように、班長と班員が一つになれば間違いありません。神様とイエス様が一つになったか、班長はそれを反省しながら、与えられた使命を絶対に果たす責任をもって、一つになること。そういうように内的結束を大切にしましょう。

 次は、最初が重要です。毎日の生活できのうはいくら気持ちの悪いことがあっても、惨めなことがあっても、次の朝起きる時は、必ず笑いながら起きるのです。これは宗教生活には欠かせない行為です。それが習慣になれば、自然といい顔立ちになってきます。渋い顔が途端に美男子の顔になります。鏡を見ながら訓練するのです。それから、御飯を食べる時も、笑いながら食べるのです。そうすると神様は喜びの主体だから、神様に属する万物と一つになって喜ぶのです。一日三回、朝と昼と夕の食事の時に笑って、朝起きる時も笑う、そのような生活が習慣になれば、その人の顔を見れば自然と深い考え、喜びあふれる印象が残るようになります。寝る時もそうです。その日にどんなつらいことがあっても、寝る時には笑いながら、神様いい夢を見せてください、と望みつつ床に就くと必ず夢を見せてくれます。次の日になすべきことを夢の中で教えてくれるのです。

 そういう喜びの生活をしていけば、神様は喜ぶ人を喜ぶし、万物を喜ぶ人を喜ぶのでその人は必ず良い方向に向かっていきます。それが原理の観点です。今まであなた方はそれをやってきましたか。今からでも始めましょう。朝起きて笑う。花が咲き、香りを吹きかけるようにしながら。家庭でもお父さん、お母さんであれば、子供たちにとって、それは教育に一番いいことです。仕事で人に会う時もそうです。いい印象を与えるのです。伝道しているのに渋い顔をしていてはできませんよ。何か内心から素晴らしいことがあふれるような円満な顔をして、今に希望をもって、未来に希望をもって伝道するのです。それはみんなにするのです。三角や四角の顔の人でも、それはそれなりの美があるのですよ。分かりましたね。自分の中に逆らうものがあれば、それはサタンの好む要素だ。サタンの餌よさようなら、そういう生活をしましょう。分かりましたね。

 きょうは頑張ったけど少し様子がおかしくて、基準が下がったとしたなら、あすは一歩でも上げるようにするのです。毎日の生活の中で自分の心情の安定基準を平均化させないと、それが少しでも傾いた場合には全体に影響してしまいます。しかしその傾いたり下がったりした基準を自分ながら整備し、反省し、あすのために祈るようにしてマイナスを迎えていったならば、発展していくのです。

 あすはきょうより一つ強くなろう。きょうは自分の方法がまずかった、話し方が下手だった、身ぶりや表情がまずかった、また原理研究が足りなかった、人生に対する経験や見方が少なかった、相手が好奇心にかられるような魅力的な印象をもたなかった、といろいろ自分で批判しながら、毎日を迎えるのです。最初の日は伝道できなくとも、二日目も伝道できなくても、一週間やればできるのです。一週間できなければ、もっと自分を批判し、良い人の方法を見ながら、情報を聞きながら、三人くらい聞いて自分ながら固めて、そのとおりやるのです。だから人に倣っていく方法が一番利口な方法です。環境から情報を集めて自分の目的に向かって消化していくことは、発展の早道です。

 私は今でもそうです。私が歩んできた道はだれも否定できないと思っているし、だれも真似のできないことだと思っているけど、今でもいいものがあれば、それを倣って横取りして自分のものにしよう、と思っています。それと同じように、多くの人々のいいところを、自分に早く引きつけて同化させる主体性をもったとしたなら、そこに多くの人を指導し得る能力が生まれる。それは理論的なことです。ですからあなた方は、仕事をするという思いでしてはいけません。勉強するのです。社会を研究する、人間を勉強する、経済を研究するのです。それは神様にすべてをささげる心がなければできないことです。
 勉強し努力をするのが嫌いな人は、落第生です。そういう人はみんなから嫌われるし、みんなから嫌われる者を、神様が好むはずはありません。もし女性が素晴らしければ、男はみんな、班長もその女性の講義を聞くのです。負けたからといって、ぶつぶつ不平を言ってはいけません。私は率直に話を聞きます。負けたとすれば、完全に頭を下げて、勝つに必要な準備をするのです。自分が主体的な準備をして勝った以上、それに文句を言う人は、どんどん退いていくのです。主体性もなく勝った時は、次は負けてしまいます。自分なりの主体性をもって、全体を見破る観察をするのです。班長であれば班長なりに、人のいいところをみんな収集して、情報を整理して、それを全員に教えながら刺激してやるのです。みんながお互いに負けないような方法をとれば、班全体が一体化し、どんどん発展していくのです。

 神の摂理から見ると、統一教会は神の摂理の最終の使命を果たす立場に置かれています。今日キリスト教界や、あらゆる宗教が準備されているにもかかわらず、彼らと決裂しているということは、これは悲惨なものです。その宗教団体が、統一教会と一つになったとしたなら、我々はもう伝道しなくてもいいのです。しかし現実は一つにならないばかりでなく、むしろ反対しているのです。こういう環境を見る神様の立場を考えたなら、神様はいかばかり悲惨なお方であるか、ということを我々は考えなければなりません。

 結局、カイン・アベルの復帰摂理を、歴史において完全に収拾しなければならなかったにもかかわらず、それを果たせずして世の末の最後に来られるお方、結論の基準であるお方に対して試練を与えたということを、今まで人々は知らなかったのです。神様は今までキリスト教や多くの宗教を信頼しながら摂理を推し進め、次の段階のメシヤが来られても、それを知らないで反対された時、今までの基台に完全に逆らう立場に立つその現象を見る神様の心情が、いかに悲惨なものであったか、我々は考えなければなりません。

 神様から見た場合、今までキリスト教の教団を中心に、世界的基盤の祝福を準備をしてきました。それがみんな反対すれば、その祝福はどこへ行くのでしょう。今の統一教会は、個人的基盤であり、家庭的基盤です。ですから神様が準備した世界的基盤の祝福を授ける所がないのです。もし反対すれば、その祝福を他に回さなければならないのです。神の摂理に反対する結果になった中心宗教を崩すにしても、原理的期間が必要ですし、新しい中心に神の摂理を移すにしても、何年間以内にという原理的蕩減期間があるのです。その期間内に移されない場合には、みんな崩れてサタンのほうに引っ張られてしまうのです。

 キリスト教の二〇〇〇年歴史の祝福は、プロテスタント運動を中心として、二〇〇年の祝福としてみんなまとめてアメリカを祝福しました。アメリカが祝福された基台の教会とアメリカ国家という基台が、もし統一教会に反対する立場になった場合、これは二十年以内に収めなければ、みんな流されてしまいます。二〇〇年間を二年間では蕩減できないから二十年以内です。二十年以内に収拾しなければなりません。その期間内に世界的な基準に相応する我々の基盤を、いかに位置づけて、それに崩されないように引き継ぐか、というのが今まで私が苦労した課題です。

 ですから新しい摂理圏における統一教会のメンバーが、今考えなければならないのは、キリスト教界から讒訴されるような人がいては、絶対にいけません。全体的完成には世界的にならなくとも、条件的でもいいから、もがきつつ、世界的基準を引き継ぐ基盤をつくらなければならないのです。そうしなければ、今までの二十年、二〇〇年の摂理圏をそのまま保つことができないのです。神の祝福は、我々に回らざるを得ない世界の現状なのです。

 ですから今後三年間、いわゆる第三次七年路程の終わる時、いろいろな面で国の基準を凌駕して、堂々と立たなければ大変なことになります。国家と世界にあるすべての内容を準備して、それを受け継ぐ体制を整えておかなければ、民主主義圏に与えられた神の摂理は、祝福は、すべて流されてしまうのです。今日のそういう環境、そういう現状を胸がつぶれるような思いをもって眺める悲惨な神様の前に、その摂理を背負われなければならないお方と人々のつらい立場を考えて、我々は一つにならなければなりません。「私」一人は個人ではないのです。今日までの祝福基盤を受け継ぐ主人にならなければならない一人一人です。

 しかしその主人公たるべき者が、まだその基準をなしていないとしたら、世界は完全に滅亡状態です。そうすれば、また神様は悲惨です。私自身もこれらの内容を果たさなければならない使命をもった立場にあります。その心はどんなものであろうかと、考えなければなりません。今日の世界情勢を見ると、共産主義は南米、ヨーロッパすべてを侵しています。こういう結果をもたらしたのは、今日のキリスト教界の責任ですが、結局この時代の一代において使命をもっている統一教会の責任だということを心から理解しなければなりません。もうつらいとか苦しいとか弁明の余地は、我々にはないのです。そして私たちはどんなに反対されても、その反対するキリスト教界を神に祈らなければならないのです。これは誰が間違っているのでもない、こうして統一教会を攻撃するのも憎らしいからするのではなく、神を愛するからそういう立場に立っているのです。怨讐視して一線を画するような思いはいけません。イエス様が十字架につけられた時、祈った立場には、このような内容があったのだと初めてその御心情を理解できるのです。

 そういう原理的期間内にそれを収めなければいけないという使命があるから今まで、八〇年代、八一年度までその基準を何とか受け継ぐために、我々の足りない現実の環境であるけれど、死力を尽くして押し立てても、そこまで到達するようにしなければならない天的立場を、あなた方は理解してほしいのです。キリスト教界においても、言論界においても、学界においても、その他あらゆる事業においても、社会的、国家的、世界的な働きのできる人にならなくてはならないのです。すべてを相続できる主体的基盤にならなければならないのです。それも、この限られた期間内に。そうしなければ世界は滅亡に向かうのです。

 ですから統一教会は、大変な運命にさしかかっています。神が摂理の前に統一教会を立たせようとしているにもかかわらず、統一教会が世界的な基準に立つことができなかったとするなら、共産主義は、全世界を脅かしてしまいます。そうして、宗教は阿片といい、神はいないと訴える共産主義の世界になったなら、宗教は一遍に滅亡してしまいます。

 神がこの世界の主人にならなければなりません。そして神の命を受けて世界を受け継がなければならない私たちが、もし共産主義者によって悲惨な運命をたどるとしたら、神が実にかわいそうです。神の摂理から考えると、統一教会は最後の宗教ですから、それが破壊されたとしたら、宗教の世界は、良心家たちはどうなるのでしょうか。ですから真剣になって生き残る道を命懸けでつくらなければならないのが我々の使命であり、命を犠牲にしてもこの基準を残さなければならないのが、先生とあなた方の使命なのです。

 私は今十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かうような思いでもって、一人でも行くと決意しています。死んでもやらなければなりません。我々がより団結して、八一年度まで何とかして基盤をつくったなら、世界は完全に神の側に回ります。あなた方の使命と責任がいかに重大であるか、真剣に決意しなければなりません。

 もしアメリカが、世界の摂理圏に立たないで、共産主義に奪われたとしたら、三分の二はみんな抹殺されてしまいます。毛沢東は、三十年間に何千万、何億の生命を奪いました。歴史的にこういうことを犯してきた共産主義が、アメリカに対しても行うということは当然のことです。今では北韓にはキリスト教徒は一人もいません。今、もし見つかったとしたら、即刻銃殺されます。このことからしても、神は我々に期待し、震えるような思いで眺めているということをいつも考えなければなりません。私自身もそうです。いかにしてこれを引きつけるか。そのこと以外は何も考えられません。

 こういう天的心情を理解して、今度地方に帰ったら、あなた方自身も震えるような思いをもって、八〇年代までの第三次七年路程の基準を何とかして築き上げなければ、たとえ完全でなくとも、条件だけでも立たせなければならない、統一教会の死んでも果たさなければならない使命であることをはっきり知って戦うことを願います。もしある期間内にその基準を果たすことができなかったなら、その時になって不平を言っても、恨みごとを言ってもどうしようもありません。言う立場も、聞く環境ももうないのです。ですからそれを避けるためにも、今はそれ以上悲惨な立場であったとしても、感謝しながら進んでいくところに希望があるのです。それ以外には希望がないことを、はっきり言っておきます。

 こうして一つになっていけば、神様は私たちの命を懸けた誠意を知って摂理することができるのです。つらいとか、無理だとか不平を言う余裕もないのです。使命によって生まれ、使命によって生きる以上は、体が痛いとか病気とかということは、休むための条件にもなりません。あなた方に今も苦労させるのは、済まないと思っています。しかし今の済まないことよりも、その時になって済まない立場になった場合を考えると、それが恐ろしいのです。

 今回のワシントン大会もそうです。もしこれが失敗したとしたならどうなるだろうか、大きな問題が起きるのです。ですから私にはその日が来るのが、非常に恐ろしいことでした。ですからあなた方がそういう心情をもって一つになっていけば、八一年までは何とかして勝利の基台がつくられるのではないかと思います。そしてできれば一年でも前に、それを越えるような基準をつくったとするならば、それは世界に偉大な貢献をすることになるのです。その前に何とか犠牲を払っても、いかなる悲惨なことを見ても、それを進めて、そこまで到達させたいのが私の思いですので、あなた方が私の身代わりとなって働いてほしいのです。

 その時、峠を越えた場合、共産主義はもう下降しています。世界で私たちに反対するものはなくなっています。今の困難なこの世界と時代に、我々の何年間の活動によって新しい方向性と新しい理想圏が生まれるという偉大な奇跡が必要なのです。歴史的緊急事態に歴史的使命感に打たれる若者にならなければなりません。

 今度が最後です。復帰摂理歴史上の宗教活動において、これが最後の戦いです。今日の世界情勢を見てもそうなっています。今は世界的主人がいません。個人においても、自分の主人を失い、家庭にも社会にも主人がいません。いかなる国も世界も、主人を見失っているのです。その主人公を我々が取り戻さない限り、神の摂理は完成しないのです。ですから励んでほしいのです。
 あとわずかののちに迎えるその日まで、つらくても辛抱して、後退せず歩んで、勝利の旗を掲げて神に凱旋の歌をささげるのが我々の使命です。数は少なくとも、渋いみにくい顔をするのではなくして、喜びと希望でもってこらえながらも、笑顔で勇みつつ、苦しみを忍んでその目的に前進する姿を、神、天地と共に頼りとするのです。またそれが、神と歴史と、私とあなた方の願いであると思ってくださいますように。



















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