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伝道ハンドブック
み言に学ぶ伝道の姿勢

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四、劇的な伝道

  1967年6月 東京教会 講論大修練会 終末論のあとに

 聖書を見ると、イエス様が復帰された生命の木、父母として現れ、新しい生命の道を開いた。そして霊肉共に勝利の基準を立てなければならなかったのだけれど、それができなかったので、ヨハネ黙示録第二二章一四節におけるごとく、我々は再び生命の木に入らなければならない。それはもう完全復帰になっておる。

 それから一七節には伝道があらわれている。「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」。

 御霊というのは聖霊をいう。花嫁は地上に現れる母であり、聖霊は母の霊である。今まで聖書は生命の木だけを復帰の目的としてきた。しかし、善悪知るの木は現れていない。それが何かというと花嫁である。それが善悪知るの木として再び伝道があるわけです。父母の伝道があるわけです。

 この一冊の聖書はそれを示している。だから堕落したのをイエス様が来てその道を開いて、その基準を復帰して、それから新郎新婦が成婚されて、新しい父母の理想とした、全国の再伝道があるわけです。これほど明確にすべてを現した聖典はないというのです。愛を中心として人間が堕落したことと、神は愛であることを歴史を通して教えているのが聖書です。堕落の経路や、生命の木の問題とか、善悪知るの木の問題とか、黙示録における生命の木に再び戻るという内容がなかったなら、聖書じゃない。だから始めと終わりが一体だ。ゆえに復帰完成がなされる。

 他の宗教の経典を読んでみてもそうではない。始めからぼやーっとしている。根本が神であるということがはっきりしない。仏教にしてもそうだ。あいまいな基点から出発している。

 しかし、聖書ははっきりと神を中心として、人間との関係をずっと一貫して歴史性に基づいて現している。各時代性に応じて適合する内容を、預言者を遣わして記録したものだ。だから君たちは聖書を本当に研究しなければならない。一方、聖書という名前がおかしいというほど、普通では考えられない問題も多い。旧約聖書には割礼とかいろいろな内容がたくさんある。なぜそういう問題があるか。原理を知れば解決できる。君たちはまだそこまで行っていないんだけれども、復帰された世界になれば詳しいところまで説明する時が来るかもしれない。しかし、その時まで先生がいればいいんだけれどね。その時君たちは祈らなければならないが、三分の一は君たちに教えてやれない。なぜかというと完成基準が残っている。世界がまだまだその基準を残しているから、その世界に対してみんな教えてやることができない。

 蕩減条件を立たせて、自分たちの五パーセントにある基準を、ある個人だったら個人、家族だったら家族、民族だったら民族、国家なら国家、その国においての過程は誰しもが通過しなければならない。そういう基準がないから一〇〇パーセント教えることができないというんだね。だから『原理講論』には先生が今までずーっと生涯を通して蕩減の道を歩んできたその内容は一つもない。ないでしょう。いかにして蕩減条件を立たせたか、それは今後出る問題だね。これを詳しく説明してやると君たちが引っかかる。分からないのがかえって幸福かもしれない。だからまだ聖書を中心として伝道するのが、何よりも我々に効果ある原理的道である。現代二十世紀は欧米文明である。欧米文明の精神的基盤は何かというとキリスト教である。だからそれを動かしたら世界が回るというんだね。外的にはみなできている。だから今後は我々の理論をいかにして神学界に問題にさせるか、大旋風を起こすか、そういう戦法をやらなければならない。

 日本でもアメリカでも少しばかり人数が増えれば、「ニューヨーク・タイムズ」あたりを一週間全面買って、原理を世界的に発表するんだよ。金はそういらないよ。多少の賞金をかけてみて、世界の学者たちに、原理を研究して合格した人に対し授与すると宣伝してごらん。学者たちは目を丸くしてビックリするよ。伝道のやり方はいくらでもあるんだね。

 この道を国家的運動まで展開せしめるにはいかにすればいいか。牧師の世界的基盤をつくる。それから何か、その思想的基準に立って、世界の哲学者たちに対し問題となるような基準を確立する。そうすれば自然と知識人たちは研究せざるを得ない。そのときに我々は実績を添えて世界的旋風を学界に起こすんだね。優秀なる学者たちを前面に立たせて、学会を中心として思想的体系を彼らに発表するようにさせれば、自然と問題になるんだね。そうしておいて、我々下のほうでも基盤をつくっておく。それらが合体して上下共に全国的活動が成っていくんだね。だから学生部の運動は非常に頼もしい。

 有名な教授陣たちを指導教授として我々は教授団をつくる。できれば哲学方面の教授たちを指導教授として全国的に数十人結べば大きいものになるよ。そこで文化的活動をする。雑誌や新聞などを、知識層を目的にどんどん出版する。そうすると、「来るな」と言っても自分からやって来るようになる。人間は今より利益になるところだと認めたら、誰が防いでもそれを越えてくるんだね。だから我々の理念が誰にでも必要だということが認識されるようになると、それは自然と全体的基準にならざるを得ない。その時は必ず来る。そうなると、我々は新聞で宣伝するのではなく、直接実体でもって宣伝するようにせよ。

 ある村に行けば、村の人たちがみな、あの統一教会の人たちはああいうふうにして国家を愛するのか、実に素晴らしい、と津々浦々まで誰もが認めるようになってくる。このようにして下のほうで実績基台をつくり、そして上のほうでは学問的基準を立てて、これを問題化して一致させる。そうするとこれは国家的問題になる。

 宣伝するには、商売人みたいに、内容もないのに大げさにするのではない。我々は八割宣伝する。そうして宣伝を聞いて統一教会に入ってみると、世論以上の内容がある。だから入ると同時に、もっと深いまじめな立場に立たなければならない。しかし一般社会では、十の基準のことを五十くらいに宣伝している。入ってみると、何だうそじゃないか、そうなったら回れ右しちゃう。だから八割宣伝する。

 一つの時間圏内に北海道で「ヤァー!」とやれば、九州でも「そうだ!」というように一線上に立って上下共に動かしたなら、たやすく勝利が得られる。急激に実績を得られないといって嘆くな。我々は黙々とやっていくんだ。

 ほうぼうに分けて伝道するより、重点的にやったほうがいいと言うかもしれない。しかしそうしたなら、全国の世論を実績ある伝統の基準に立たすには、各分野におけるそれだけの、少なくとも三年から五年以上の時が必要である。そういうふうにする時間は我々にはない。数少ないものであるけれども、全国的にみな散り散りにさせて、そこにおいて我々はあるったけの力を尽くして伝統をつくるんだね。路傍伝道もする、若者の君たちが。だから年を取った人も、おじいさんもおばあさんもみな同じその目的に向かって一つになっている。一つの行動に合致している。そういうふうにやることも必要だ。

 我々統一教会の七年間において、数はそう多くない。だが統一教会は休まず発展している。一般の目から見れば、彼らの数的基準においては十倍、二十倍、三十倍も多く感じている。それは、ある団体を中心として考えれば、十万なら十万の人がいる。その団体がああいうように犠牲的活動をするのは何パーセントに違いないと、その統計を統一教会の活動にあてはめれば何十倍になってくる。

 だから、実績が問題だ。思えば思うほど、彼は真に真面目であった。本当に真面目な人間だった。地域の人たちは、自分の子女をもっているでしょう。娘や息子をみなもっている。しかし、息子たちに比べ統一教会の青年たちは汗だらけになり、その涙ぐましい生活環境内でも忍耐してやっている。自分の子供よりいいな。彼らは尊い男だと思わざるを得ない。自分の息子よりも頼もしい。もっとこの国家に対して必要である。地元に対して模範的である。そういうように考えざるを得ない。そうなると自然とその親たちは、心で我々のほうに立って自分の子供たちに命令する。「なんだ君たちは、統一教会の青年たちみたいに一つでもやれ!」と言う。遺言で、自分の子孫に教えるようになる。これは現実の効果にはならないけれども、その親の心を通して最後の臨終の時に、遺言をするというふうになると、その子孫全体をつかまえる。ここから新しい国家、新しい国民思想が現れてくる。それが問題だ。

 初めは、「何だ君たち、帰れ!」とか何とか言ったおじさんなどが、そこを訪ねていくと、かえって自分の食べているお膳まで出して、「さあ、お供しましょう」、そういう段階に入ってくる。そして地元では、あの若者たちを慕っていけ、というようになると、実際はそこに統一教会の人がいなくても、間接的に統一教会圏に入っている。そうしてある国家的風が吹いて、一遍に台風が起こってしまえば、みんな倒れちゃう。その時に再び伝道に行った人たちは、昔を回想しながら語るんだね。誰それはどういうふうに反対した。初めはこうだった、こう協力してくれた。我々が地方を離れる時はどうだったとか、現実の立場において、新しい刺激を与えるような条件をいくらでも探り出すことができる。そういう基準が立つと、その時になって、我々は勝利の実価、本当の価値を収穫できる。まあ、種を蒔いて十年待つ。そういう戦法でいく。

 街頭演説なども統一教会の青年を立たせればトップを切る。高校卒の若者や、三十歳に満たない者ばかりだ。相当年を取ったり、大学卒やかなりの経歴をもって自信をもっていて、いい加減なことを言っている政治家は、我々の理想に対してみんな頭を下げる。統一教会の青年たちを何でもないように思っていたのだけれど、つきあってみて、彼らは自信を失ってしまう。今までの自分の国を愛する精神的活動の実績から見て、それから思想的世界観においても、現実の時世における批判、分析の基準から見ても、我々にかなわない。だから各種団体のメンバーを修練するとか教育するとかいう時には、若い者が四十歳以上の者を教育するようになってくる。

 私たちの闘いを、三年くらいと見る人が多い。しかし三年以上も突破していく。そうすると彼らは首をかしげだす。そこから問題になってくる。彼らの内的城壁がだんだん崩れて、ああ、素晴らしい、ああいう精神がどこから出たんだろうと関心をもたざるを得ない。我々が苦労しているのが分かると、自分からやって来て助けてくれる。そういう現象が起こり出したら、地域全体が方向を決めて出発し始めたという証拠である。そういう方法でもって続けた結果、今みんなそうなんだけれども、全体的にある基準をつくる段階になってきた。それは統一青年たちが苦労してきたからだ。苦労したというけれども何もないよ。苦労した人は幾人もいない。何千人かの人々が国のために汗くらいちょっと流し、腹をへらし、ある者は血を売ったこともあるでしょう。それは問題でないよ。国を救うには、何千万の百分の一までも犠牲にして、国家の非常時には、それを成し遂げなければならない歴史的必然もあるのに、天宙復帰という目的をねらって進むその過程で、何千人、何万人の汗くらい何でもないんだよ。苦労なんてものじゃない。それもなしに天宙復帰を望むというならば、それは泥棒根性だ。あまりにも苦労の基準が低い。それを思うと神に申し訳ない。限界状況をたやすく動かすには、それに反比例する大いなる神の御苦労があることを知らなければならない。

 実績をもって問題を解決していく。問題はいかにして実績基台をつくるか、何十年になるか知れない。現世においてこういう活動に適合した信仰生活をしている人たちは誰かというと、仏教徒でも、儒教徒でもない。やはりキリスト教徒だ。キリスト教は現実圏内において信仰基準が決まっている。だからこの時代に対応して活動するに必要なる人材はキリスト教徒だ。ではこれをいかにして切り開くか。

『原理講論』を牧師さんに分けてやるんだ。初めはみな貸してやる。「この本を読んでみなさい」と言って。統一教会の教理を知らないというと、いよいよ自分の立つ足場がなくなるんだね。土台が崩れるようになる。なぜなら、信仰の篤い者たちが統一教会に来てみな伝道されていく。既成教会の重要な核心分子たちが、みな自分から来て入教してしまう。どこへ行ったのだろう。山にも祈りに行ったとか、何か復興会なんかに行ったと思っていると、あっという間に統一教会に行っている。そういうふうになってしまう。だからこれに反対するには、大げさなうわさでもっての反対では通用しない。教理的に反対を弁明するような立場の段階に入っているんだから、我々の原理の本が必要になる。読んでみなさい。読んでみるというと、問題が大きくなってしまうんだね。だから一冊ずつ必要な牧師には貸してやって、読んでみてもっと研究したいという考えをもつ人がいれば、そういう牧師さんに対しては、自分が一冊本をもらったというその証明書とともにその本を寄付する。三〇〇〇人くらい寄付を受けた人たちがそれぞれ二回ほど読めば、三分の二は我々のほうに来る。素晴らしいことだ。

 牧師さんの説教の準備というものは難しいものだ。一年中やっているから、牧師さんは説教の材料がない。その材料にと原理を見たら大変、昼飯くらい出してもいい気持ちになる。説教の材料が何年どころではなく、聖書のどこを開いても、原理観から見ればいくらでも説教の材料に使える。そうなると、それによって話さざるを得ない。話すというと霊界のほうで協助するもんだから、礼拝がとても恵まれてくるんですね。

 君たち、今まで伝道するといっても漠然と伝道して、責任をもった伝道をしなかった。伝道するにはまず祈れ! 今まで我々は自分の本当に愛する父母たちに伝道する期間がなかった。しかし今は、天のほうから伝道するには自分の血統関係の人を伝道せよというんだね。その中から一番信仰的な人たち、さもなくば、同級生などの生涯の友人、我々命を懸けても救うべき友達を十二名選べ。選んで一二〇日間彼らのために祈れ! 一時間伝道するんだったら三倍祈って訪問して伝道せよ。十二人の名前を書いて、そして祈りながら毎日訪問して伝道する。そうすると相当の影響があると思うんですね。

 訪問すると最初はブツブツ統一教会だとか、異端者だとかいろいろ悪口言うかもしれない。あるいは門前払いされるかもしれない。それが楽しみだ。それが笑いの種である。我々の生きる種である。肥料みたいなものだよ。芽が生えた稲なら稲に肥料をやるだろう。肥料をやるというとまるで違うんだよ。そういう現象が追っかけてくる。それが信仰者の肥料になるよ。だからこういうのが我々の生活の趣味である。あの人の口は怒ったときどういうふうに突き出たとか、目はどういう三角の目をした、顔つきはどうだったと、ずーっと思い出して、自分は笑いながら帰ってくる。そこに勇士たる姿があふれている。それをつらいように考えるからつらい。

 今は世界の危機中の危機である。我々はその世界のスターとして、主人公として演技をやる。そういう勇士の姿を霊界が見て、「我が勝利だ」と言って歓迎せざるを得ない。サタンのほうは「アーッ!」と言って悲しむ。そういう実感を感じながらやるんだよ。だから迫害され、追い出されるのはおもしろい。

 我が生涯に一つの記念を残す重大な事件である。神の前へ行った場合に、それが問題になる。そのおもしろさが、もし重荷になると未来のためによくない。初めみんなそういうようないい気になれない。統一教会へ入ってもまずいものだね。これが最高の統一青年に対しての答えか。それはそうだよ、それは素晴らしいことだ! 問題がもっと大きくないのが惜しいなと思え。世界を伝道するには、それくらいのつらさは当然ある。それを避けようとするのは真実ではない。そういうつらさの中で真実たるその基準を保つには、自己の内部において絶えざる闘いをして、勝利の証拠を表してこそ、真実一体となる。

 君たちは生きている。自分は生きている。これは分かっている。生きているのだけれど、自分が今生きるための闘いをしているということは、観念的にも分からないんだね。しかしこの一戦下において、猛烈なる死に対しての闘いをしている。闘いをしてその勝った基準に立っているから君たちは生きている。一度ひっくり返れば墓場行きだ。

 我々統一教会は、最後の勝利のために一歩一歩進んでいく。きょうはこういうことがあった、あすはこういうことがあるかもしれない。しかし我は行く! だから君たちは反対せい。三年以上反対できない。真剣に熱心につばを吐きながら反対する人は、大概三カ月以内だ。三年も黙々続ければ、それは必ず勝利するよ。我々は三年ばかりじゃない。三十年、三〇〇年、三〇〇〇年もかまわない。我が子孫を立てて遺言を残しても、そういう戦闘者をつくろうと考えている。既に勝った戦争をやっているというんだ。

 韓国におきまして、先生は一生涯をかけて戦ってきた。あらゆる荒波を越えて、ある段階までやってきた。イエス様の時代だったら、先生はもう地上にいないよ。民主主義とか、言論、結社など自由時代に入っているのだから、まあ、これは我々を立たせるために、神がこの末の時代に賜った賜だ。その基盤があるから、長い間戦いながらも残って、ある基準まで来たんだ。今は先生が死んでもこのみ旨は世界を統一する。

 先生は安心する。最近は、疲れた場合に昼でもちょっと休むことがあるけれど、昔は昼寝など夢にも考えてない。先生は三十歳まで腹がすいていない時がなかった。自分の金で自分の下着を買って着たことがなかった。新しい洋服などもそろえたことはなかった。なぜか。それは三十歳基準を中心としての先生が行くべき道がある。天的使命を果たすその目的が最高の問題であり、重大なその焦点である。それを果たさずしてサタン世界の波に寄りかかり、いい気になって着物を着たり、いい加減なことを言ったりできるわけがない。それをやるよりはかえって飢える、腹をへらす。それが一つの刺激の条件だ。こういう生活をするのは、あの目的を早くなさせんがためであり、こういう惨めな生活もあの目的を促進せんがためにと、すべての精神を集中させてやってきた。

 ある時はどのくらい食べられるか試してみた。牢屋に入ってみれば、いくら食べても食べてもまだ食べ足りない。その境地に立つ。何を食べてもおいしい。今日は記念に腹一杯食べよう、友達を連れてね。その時は配給時代だから、飯屋なんか行けば、瀬戸物の大きな茶碗にくれるんだね。そうして食堂に七カ所も入ったんだね。みんな食べてしまったら、ここまで来た。首の所までだ。蛙みたいだ。そこで座ることができない。コロコロ転がりながら考えてみた。腹がすいていた時がかえって楽でいい。たまりきれないな。腹がふくれても困るし、へっても困る。先生はみな劇的にやるからおもしろい。

 ある時、活動しやすい身支度をして、労働服で川崎の乗船場にのこのこやっていく。夜二時に出発して、ずっと横浜まで行ってしまう。労働場に行くんだね。そして飯場の親父なんかずーっと見るとちょっと気持ちが悪い。学生とか労働者とかみんなの中に立っては搾取する。会社のほうから本当の自分の賃金がどのくらいか、そうして自分に配当される賃金がいくらであるか分かってみると、その差額は彼らがみな奪っているんだね。これじゃいけない。そこで、「おい、君!」と言って気が合わなかったら、それはもう吹き飛ばす。こぶしの打ち合いはしないよ。技術と口でやる。こういうこともよくやったんだ。

 品川の、今もあると思うんだがね、ずーっと品川駅を行くと道がこうなって山があるんだね。時間があれば行きたい。それから虎ノ門の所、あそこの地形も忘れられない。学生としてでなく、あらゆる社会の状況に、荒波の中でもまれながら、新生児としての価値の境地をいかに打開するか、その責任をもちながら、いろいろ先生が対決してきた所だ。だから若い者たちは、三十以前は思いきって何でもやってみるといい。

 周囲から迫害されても、じーっと耐えて反抗しない。何も言わず黙っている、それがおもしろいんだよ。人間は、いつ目的に対して崩れるか知れない。そういう可能性があるんだから、我々はあらかじめテストしておく。自分が打たれたり、拷問されるような基準を率先して体験しておくんだね。善なる立場に立って、追いに追われてずーっと行く。そうやって瞑想しながら、自分の人生の過去と現在と未来を通過しつつ、新しい人生の味わいを体験するということは、最も必要なことだ。そう考えると、伝道に行くとか、地方に行くとかいうのは、実際素晴らしいことだよ。

 波も静かな海の上で、大きい岩でもガーンと打ちつけると、数多くの水玉が散って広がる。それを眺める時の気持ち、それは劇的だよ。そう思うだろう。研究していくんだよ。こういう話をすると、向こうはこういう反応をするだろう。ずーっと考えて、こうなるだろう。打ってみるんだよ。そして自分の研究したのと一致すると気持ちのいいことだよ。あの人の閉じてる口を開けて笑わせてやろうと、それを闘いの相手として話をするんだよ。笑うような気がする。その人を横目で見ながら、十分以内と見当したのが三分以内にワッハハとなる。それはもう、うれしいんだね。

 先生は説教する時に、ある場合には戦いをする。また、神の話をするとサタンが現れる。たまらないね。あるゆる神経が一つの頂点に集中する。そこでパーンと打つんだね。すべての聴衆は目を回す。だからサタンを追い出すだけの強い実力が必要だ。信念とともに実力が必要である。まず信念で打って勝利しなければ、実体において勝利できないというんだね。

 だから原理研究をする。まあ、世界理想のために行く信念が世界を統一する。あり余る気持ちをもって行くんだ。万里の長城の形をとらなければならない。だから荒波が寄せてきても問題じゃない。それは当然あるべきことである。一回、二回、三回、回数の差があるだけであって、荒波が寄せてくるのは自然現象である。我々の復帰路程において、それをよけて通るというようでは、その路程において勝利者になれない。自分勝手にしては、後世に自分の青春を残して、それを授けてやるような中心人物になり得ない。分かる?

 荒波があるのは当然だよ。先生がもしそういうこと考えなかったら、ここまで来れない。もう、いずこかに飛んでしまう。六〇〇〇年もの間神をいじめ、神のみ旨に逆らい、あらゆる人類を自分の掌中に収めて、自由自在に世界を主管してきたサタンのその知恵たるは、君たち、想像つかないよ。サタンの迫害にはあらゆる戦法があった。ある時は近いもの、ある時には怖いものと、いろいろ作戦方法があり、世界のあらゆる事件がみなそれに利用されるような戦法をやっている。あらゆるものが重なっている。それを自分が解決するために生まれた運命をもっていると自覚する。だから我々は運命の路程を行くというんだね。

 誰が何と言っても、いくら反対しても、その人は自分のことをやるのであって、私が行くのは私の定めた道を行く。ブツブツ言う暇がないんだよ。一つ峠を越えれば、また次の峠へ行く準備が忙しい。越えるごとに忙しいんだね。その峠に現れた敵が問題でないよ。そういうふうに行くんだよ。先生の後継者になれ。先生の行く世界に行きたかったら、そういう楽しみをしなければ行かれないよ。分かるの?

 まあ、世界はそういうふうに動く。大学を中心として学者たちをねー。実績を上げて上下すれば、台風が吹いて、そのうちに善の方向に行く。だから復帰の路程を考えれば、まず基盤をつくる。最初基盤をつくるのに大げさなことは言うなというんだね。伝道に行っても、反対の姿勢が見えたならそのすべての環境に、自分が動き得るような基盤となるように働くのが知恵のある働きである。村であれば村に行って、基盤となるように皆に協力する。

「ああ、我に来い!」。自分が僕の立場でみな教えてやる。それがある基準になればそれから行動を始める。万物創造は地をつくって基盤とし、それから物をつくり出した。創造の材料たる土をつくって、それから言葉を中心として神は創造した。もちろん土も言葉ですがね。我々は、万物の創造をなし得る基盤の土をつくったと同じように基盤をつくって話す。話はうそでなく、話すと同時に彼は行動する。話さない前に行動した経験があってから話すことはもっと必要だ。それから話に一致した実体を見せる。それから何を見せるか。心情を見せる。これは復帰の過程である。そういう戦法を必要とするんだね。最初に行って基盤をつくる。不利だったら、口を開けるな。環境をつくれ。自分に対して関心をもつような行動をして、絶対的環境をつくるんだね。普通のことをしていたのでは関心をもたない。大学生が地元なら地元で教えてやるとか、それは当然だ。人が普通では考えられない反対のことをやるんだね。地元の使いものになる。これは関心をもたざるを得なくなる。心ある人や良心的な人ほど関心をもってつきあってくれる。関心を起こして、自分が行動し得る基盤をつくる。期間が問題だ。実績を認めさせてから、のこのこその実績十に対して五くらいの話をするんだよ。聞いていた人その人が、その話は間違いなくそうであると知ったとき、今までの何よりも、その人の心が感動して、それを実行したい気持ちになる。

 一人の時は、心情が現れてこない。人格基準は完成できるけれど、心情圏は現れてこない。実体基準になって、自分より創造された相対基準がなるというと、天的心情が現れてくる。そういう意味でもって自分の相対基準をつくる。そうして天の息子が現れてくると親の心情でもって対してやるんだよ。自分がいなければ彼はどうなるか。寝るにも寝れないような心持ちで対してやる。すると自分を頼ってきた場合は、それ以上うれしいことはない。労働をどうしようかが問題ではない。寝るのが問題ではない。そうするのが問題ではないような心持ちにならなければ、彼は真の天の息子、娘になれない。それが親心だ。今まで六〇〇〇年間も別れた親子同士の落ち合う喜びの心情圏である。そこにおいて神に抱かれて関係を結ぶと、信仰の子女関係が生まれる。

 その伝道された人にとって、一生涯伝道してくれた人が忘れられない。だから神に感謝することがあれば、統一教会に入って感謝する。真面目に自分のために労も惜しまずに力を尽くしてくれる人があったら、まずその人に感謝する。子供は自分が成功した場合には、親と共にその喜びを分かち合いたいというのが真の心でしょう。伝道された人もそういう心をもってこそ、心情的嫡子だね。伝道もこのように原理的にやる。原理的に心情基準が立っているのにサタンがそれを打った場合にはそれは裁かれる。そこからひっくり返る。

 だから皆さんは、日本を中心にしてそういうふうにやるのですよ。環境をつくれ。関心をもつようになれ。大学生や高校生たちは、普通なら世界に通用していい気になって、町をのこのこのぞきながら歩いているのが現状なのにね。あの統一青年たちはどうしたんだ、と関心をもつ。路傍伝道ばかりじゃなく、廃品回収もやる。廃品回収はとてもいい。誰でもが嫌がることをやる。それをしてどうするか。自分のパンのためにやるのではない。国のためにやる。

 先生は世界の地図なんかずーっと見ながらね、いろいろなことを思って一人で喜んでいるのです。自分の心を天国にして、未来の万民、理想と共に楽しんでおくというのですね。

 誰か北海道から九州まで、歩きながら伝道した人はいますか? 日本を愛していないな。先生は昔、のこのこ山道など歩いたんだよ。今は歩くのに本当に適当な道になった。夜中、いくら裸足で歩いても怪我しない。アダムがいつ車に乗りましたか? 復帰には、蕩減条件を立てることが必要だ。

 堕落した人間が六〇〇〇年間神と別れたまま苦労の道をたどって、ようやく神のみ前に出ることが許されたその時こそ、正に一番うれしい時である。その喜びは何で表現するか。歌か、笑いか。踊りなら体全体で踊ろう。

 ある全体の中で、直接的位置、つまり最低から最高まで、直線的一つの基準をつくろう。蕩減の基準としてつくらなければならない。だから、君たち、我々はみな新しいことをやってみる。何ものもやれないことがない。大学生でも、田舎へ行ったらクワを持ってお百姓さんになるんだよ。統一教会の原理が分かった人は、みんなどん底からはい上がってくる。だからそこにおいて全部がそうだから、そういう路程を通過する。

 統一教会の人たちは、絶対、できないという観念をもつな! やればできる。何でもできる。そういうふうにして、我々は東京よりももっと大きい素晴らしい都市を皆の手でつくりたいね。材料から何から、全部統一教会のものとして神のみ前にささげられた物でつくる。そうしないと神は喜ばない。サタンが今まで使い残したものはよくない。工場を造る。みな成約聖徒でやるんだよ。



















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