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伝道ハンドブック
み言に学ぶ伝道の姿勢

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六、命懸けの伝道

  1971年3月14日 前本部教会

 救わなければなりません。おいておけば地獄に行くのです。サタンが引っ張っていくのです。そのためにこれをふさいでその人を救うために、真心を尽くすと同時に、その人に会いたいのです。御飯を食べる時も、いつもそのような心が責任者自身の心でなければなりません。

  命懸けの伝道

 昔は統一教会の先生に対していろいろとうわさがあった。統一教会に行けば、男女関係があるとか、あるいは暗示にかけられるといううわさがあった。しかし、それほどに人間が変わったのは、そんな造作によるものではなく、命懸けの心情があったからです。責任をもった者はその人の命のため、命を懸けて尽くさなければならない。待ちに待つと、門の前に訪ねてくる足音のように、紙一枚の音でも聞こえてくるようになる。この世で男女が愛する愛が問題ではないほどの、そのような心が芽生えなければならない。そして夜を徹して祈れば、来るなといっても来るようになる。そのために、市場に行こうとしたおばさんとか、学校に行こうとした学生も、そのカバンを持って学校に行くとか市場に行くとか言いながら、自分も知らずに教会に来るようになる。そのように皆さんも命を懸けて談判祈祷をし、命を懸けて命を救うために闘わなければならない。計画を立てて、一カ月の内にその人がこれを感じなければならない。

 さあ! 天が私と共に伝道するのだ。生活圏の中において天が私と共に伝道することを感じるのである。また、その人と会えば、せつない思いが浮かぶので、話す言葉は心配をしなくても自然に出る。その人に対し何の話もしなくてもよい、会うだけで十分である。

 その人が来ても早く帰ってほしい、もう時間になっているから早く帰ってほしいというような思いをもっている人は、伝道をしても何にもならない。帰りはしないかと五分でももっといてほしい。帰るとなると、男なら上着を引っ張りたいし、女ならそででも引っ張りたいような、懐かしい、悲しいそういう心情を味わわなければならない。それは神様の心がそうだからである。今この人が何時間たてば完全に生まれ変わるのに、その時間をとれない時、神はどれほど悲しく哀れだろうか。そのような心情を味わいながら伝道をしなければならない。そのようにして計画を立てる。

 あの人を私は一年間で伝道するといって談判祈祷をするのである。既に分かるのである。必ずその人の背後には霊人体たちが接しているので、接している霊を中心として全部整理しておけば、その人一人によってその村が動くのである。全部この雰囲気をつくっておけば豊かになる。そのようにしていれば、その人が私を待っているのかどうかすぐ分かる。そのような体恤的信仰生活をすることによって、天が私と同じ生活圏内で共に伝道することを知るのである。

 動機がないのに結果があるはずはない。先生を慕うということがあるが、それはただそうするのではない。思慕することのできる動機の実体がある。植えることをしないで収穫を得ることはできない。主体と対象は必ず相応するようになっているから、その動機が完全であれば、その結果は完全なものである。そして命を懸けて命の動機をもたなければならない。

  伝道は対象を選ばない

 皆さんが伝道する時には、「若い人だけを伝道しよう、できるだけ大学を出た人だけを伝道しよう」と思うかもしれないが、それではいけない。人を区別してはならない。ただ私がその人にどれだけ真心を尽くせるかということが問題なのである。人に対して伝道する時、口で伝道する時、よく聞けばそれは救いであり、よく聞かなければ裁きである。恐ろしいのである。責任をもって伝道をして、医者が注射をすることによってその人を生かすことができるか、というような深刻な問題である。

 命を扱うのは簡単ではない。あの人がああいう立場の人で私たち教会のために利益になるから伝道をする、そういう考えをしてはならない。教会の利益を天は尋ねるのではなく、個人の命を天は尋ねるのである。一人一人尋ねて教会をなすのである。それで老若男女を問わず、人間は人間としての価値を認めなければならない。その人がいくら年を取って、すぐに死にそうなおじいさんでも、その祖先が善であるならば、そのおじいさんに尽くすことによって、そのおじいさんが功労を立てることができないとしても、民族的なあるいは国家的な先祖の功績があるので、そのおじいさんのために真心を尽くした人が代わりに功労を引き継いで、天の使命を受けることができる。

 人を扱うのに車を扱うようにしてはならない。優れていようが、愚かであろうが、顔が良いか、そんなことによってはならない。どんな人であろうとも、神の子なのである。

  真を尽くして

 今先生は直接的にそんなことはしておりませんが、昔、特に祈祷をする人、山の中で祈祷する人たちが、千日あるいは十年祈祷した者たちが訪ねてくる。私はその人たちを全部知っている。あの人はどんな人であるか全部知っている。知っているといって、そのまま対するのではない。その人が歩んできた時からずっと知ってあげなければならない。大学の教授であるならば、その大学の学生を中心として、小学校、中学校を経てきた学生としてみなしてあげなければならない。それと同じように、それは全部知ってあげて、その人が百点くらい功を積んだならば、その百点くらい知ってあげなければならない。

 すべての存在の世界には位置がある。人がやったことは理解してあげなければならない。苦労したのに対しては褒め、そして天に対してやったその全部のことの代わりに、これからより高めることのできる次元のことをやれと命令する。その命令は喜ばしい命令ではない。漠然たる命令であり、以前よりもっと苦労するものである。これがより次元の高い出発である。これに負けてしまえば入る時たくさん持って入ったとしても、出て行く時は何も持たずに出てしまうようになる。

 そのようなゲームが始まるのである。そのために真に誠意をもって人に対したかどうかが問題なのである。もし間違ったなら、対人関係というのは全部審判の対象となるのである。その人が良いことを言えば、良いことを言うことによって私が善となり得る結果となり、一言間違って、その命がサタンの侵入を受ければ、私が天の前に審判されるのである。深刻な問題である。

 そのためにあす何時に行くと言ったなら、その時間に行く。人間同士も約束を守るではないか。プログラムを定める。皆さん伝道する人に対して、一週間分、二週間分、三週間分、プログラムを定める。大体人は三人のうち一人立つ。それは原理がそうであるためである。天と四位基台をなす天地創造が三数となっているのであり、天を中心として三段階になっているのは創造の法則である。必ず一人を選んで立たせるためには、似た人、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、三人でしょう。全部そうである。それと同じく必ず伝道して立てようとしたら、三人を中心として見ると三×三=九、十数を取るのであり、三十六名、その中で探さなければならない。

  反対する人にも誠意を尽くす

 反対する人も捨ててはならない。積極的に反対している牧師や長老に追い出されたとしても、また訪ねていく。こうなると牧師はどうしようもなくなってしまう。血気も飽和状態になってしまう。

 その次は「イエス様の愛でもって伝道しなさい」と言った牧師がこうであってはならない、祈祷しようと思うとき、悔い改めなければならないと反省する。そうなるのである。

 そうなると、天の父よ、統一教会の青年たちが来たのに私は門前払いをして、これは天の喜ばれることでしょうか? 敵を愛するのがイエスの教えである。その後血気になりきって飽和状態に入れば、これを続けるでしょうか? それとも下っていくのでしょうか? 続けられれば良いが、続けていくよりも下っていくのが多い。その時になったらぐっとついていって、「牧師様、お元気ですか」と訪ねると、その時は迎え入れるようになる。後ろに一歩下がれば追ってくるのである。それは間違いのないことである。

 そのため三十一日以上自分があまりひどすぎたと感じるようになれば、必ず頭を下げ、まず言葉でもって蕩減するのである。だから反対する人はより早い。こうでもなく、ああでもない、そういう人はどうしようもない。甘いなら甘い、辛いなら辛い、どちらかにならなければならない。そのために一回、二回行くだけではいけない。十回、百回、行かなければならない。そうすれば天が共に伝道する。

 先生は反対する人の家に行って、一年間御飯を食べながら粘った歴史をもっている。一年六カ月、そうなれば相手は先生を刀で打ち殺したい気持ちになるでしょう。しかし、先生が誓った目的のために、先生の道が切れてしまうことがあっても、やることはやらなければならない。御飯をこいながら食べても、やらなければならない。それは先生のためではない。その人のためである。おなかがすくのが問題ではない。自分のために苦労するのではない。先生も楽ではない。先生も苦しくて死にそうだが、相手はもっとそうである。先生のためにその家庭が大変である。破綻するのである。そして、結局は天から恵みを受けるようになるのである。

 先生が天の前において、サタンの前において堂々たる者であるためである。先生が御飯を食べられなくてそうするならば罰を受けるであろう。先生が何かを求めてやるのではなく、その人を救うためである。そのために体面を乗り越えるのである。こぶしがとんできても、耐えていかなければならない。そうして、そのような人たちをずーっと屈伏させるのである。あの人は何度であり、あの人は何度であるというように計画を立ててやる。先生は人のためにこのように誠意を尽くした。一番誠意を尽くした人については、その人の全部を知るのである。

 皆さん、それをもっていますか? 夜を徹しながら、涙を流しながら、自分の妻が死んだ悲しみ、自分の子供たちが死んだ悲しみも問題ではない。天が必要とする人を探し出すためには、涙と命を惜しんではならない。そうしてみましたか。そうでないと、霊界に行ってもびりですよ。だからそのような訓練をしなければならない。そうだとすれば迫害を受ける道が喜びの道である。おなかがすくのが問題ではない。いくら千万全部が後退したとしても、自分一人堂々と生きた神を証し得る、子孫とその機会をつくることができる。

  天に同情されるように

 自分を中心として、自分がお金をもらえば喜ぶ。そうである。損害を与える人を好む人がいるか。利益を与えなければならない。先生の生活は今もそうである。自分が今、夕方帰ってくるとき、疲れて目が痛くなる、そうであればあるほど苦痛である。その時、きょう私は何のためにこんなに疲れたのか、それを考える必要はない。公的路程に立っているため、天の前に私が損害を与えてはならない。天の前に利益を与える道を行けば、天は、「私を思わないでください」と言っても、思わざるを得ないのである。

 そのために、いつも必要なことを皆さんは知らなければならない。いつも天の前に同情を受ける者にならなければならない。皆さんが行く路程において、皆さんが歩む路程において、孝子女の路程がそうであり、忠孝の道がそうである。例えば、一生懸命に勉強している息子にそのお母さんが、「もうそのぐらいにしなさい」と言う。その時、親の言うことを聴かなくても孝子女となるのである。

 公的道はそれと同じである。キリスト教信仰の基準は世界のために死ぬ。尊いもののために死ぬのである。それは自分の利益を探し求めていく群れではない。この世においての友達の間においてもそうである。損害を受ける友達を好きなはずがない。一回、二回、三回になると、さっと変わってしまうのである。親子、夫婦関係もそうである。自分のみを中心として愛を要求する人は必ず切れてしまう。一方的なものでは駄目である。それが自分のためではなく、これからのより尊い家庭のためであり、二人が利益となる共同目標のために愛を追求しなければならないのに、共同目標なんかどうでもいいから私を愛してくれなければならない、という人は不幸になる。

 真を尽くしてごらんなさい。そうして全部土台にしなさい。真冬でも寒い部屋で祈祷し、手足の感覚がなくなってしまっても、汗でびっしょりになるようにやってみなさい。その村が褒めるであろう。そうなって初めて天が共に伝道するのを知るのである。そのために皆さんが計画を立てて天の前に談判祈祷して、「私がこうやります」。そのような訓練をして実践的生活圏において最後を治めさせることによって、信仰が人格となり、初めて天の人となるのである。

 本当にあなたたちはなっていない。今でもどこへ行っても、先生の生活はそうではない。一人で座って心で祈祷する。そのために今日までも統一教会がこのぐらい残っている。それが土台となっている。皆さんは真を尽くさなければならない。人に会いたくてどのくらい夜、涙を流したか。この世は愛が必要である。その命を救うため会うために、夜を徹して祈ったことがあるか。皆さん、どんな気分かというと、特攻隊が敵陣に入って、牢屋に閉じ込められている味方をヘリコプターで救出に行くような気持ちである。時間との闘いの中に人を乗せるようなものである。一人の生命を救うためには、そのような時間の闘いの過程を通らなければならない。

  統一教会の伝統

 今、統一教会に残っている群れは、私が真を尽くした人たちが残っているのである。それでは、その時先生が皆さんに教えたその伝統はどうなっているか。寝てもさめてもそのとおりにやらなければならない。あなたたちが今やることをやらないで寝られるのか。蕩減条件がいくらでも残っているのに、それをそのままにしていびきをかきながら寝ることができるのか。とんでもないことである。天宙復帰がそのようなものであるなら先生は苦労しませんよ。迫害を受ける必要もない。原則はどんなことがあっても原則どおりである。そのために皆さんは人をどれほど愛したか。

 生きた神様が皆さんと共に働いていることを生活圏内において体恤しなさい。それが必要である。これがあれば疲れ果てることがないのである。伝道に行って一年もたたないうちに、何日もたたないうちに、ああ、おなかがすいてたまりません。寒くてたまりません、それが問題でない。お母さんが死に、子供たちが死んでいくのに、寒いと感じるのか。国のために火花が落ちるこの瞬間に、血と涙の出る歴史的な恨みを晴らすこのチャンスを、逃してはならない。御飯が問題でない。それができなければ時を失うのである。その意味で、この路程に従っていかなければならない。

 韓国では、家庭を中心として婦人たちも、祝福を与え、「仲良く生活するように」と言いながら開拓に出した。なすべき責任があるから全部出させたのである。しかし、婦人たちを送っておいて、その子供たちが母を慕うより以上に先生は思っているのである。

 皆さん、責任者というのは人をだましてはいけない。それは後退するのである。来て損害を受ければ残るものはない。この原則をもって、皆さんは伝道しなければならない。与えるときは真を与えなさい。真なるものを与えなさい。原則というのは誰かの食べ残しではない。自分の兄弟たちに与えずに何になるか。一番貴重なものを与えたために、それに報いなくてはならない。死も覚悟して行かなければならないのが統一教会の道である。

  伝道の楽しみ

 皆さんはこのようにして人のために伝道してごらんなさい。天が共にある道を知るのに一番早い道はそれしかない。皆さんは子供を愛するという言葉を知っていますか。今、とっても醜い、愛らしいところは一つもない大木のようなおばさんでも、子供など産めそうにもないおばさんでも、子供を産んだら、そのおばさんからも鼻歌が流れてくるようになる。子供を産んでみれば、その大木のようなおばさんでも、自分の子供は愛することを知っている。子供を産んでみなければならない。

 それと同じである。天の愛があるかどうか分からない。天の人格的価値が私にあるかどうか分からないという者は、命を産んではぐくんでごらんなさい。愛がわき出づるものである。伝道するために誠意を尽くし、そのために私はおなかがすいてぐうぐう鳴っても、その人が御飯を食べれば、私が食べた以上におなかが一杯になって喜んで、忘れられる。そのようなものを眺める時、元気が出るのである。

 先生が昔み言をもって食口たちを育てた時はおもしろかった。先生が三十分だけ話をすれば変わってしまう。夜通しずっと話をする。そうするとクライマックスになって一度に変わってしまうのである。今夜十二時になって、一時、二時、二時四十分、三時、四時の時報がなって、ああ、もう眠れなくなるのに、そのようにして時計を見て計算するようであって良いものだろうか。一秒だけでも、四時、五時になっても、眠れなくっても、その命を救う。その死んでいく命を生かす、その偉大で快いことは、一晩眠れないのが問題でなく、何日食べなくってもそれは問題ではない。そのおもしろさを味わいなさい。

 それを感じる者でなくては、天の役軍となることはできない。そうするためには、誠意を尽くさねばならない。真心を尽くしてやりなさい。計画を立てて、皆さんが自分の一生のうち何年間、一つの命を中心として真心を尽くしているか談判祈祷しなさい。してみなければならない。伝道をするなと言われるのが一番怖いのである。

 責任者は自分の思いどおりに生きられない。統一教会の文先生は、自分の思いどおりに生活しているように見えるでしょう。皆さんの前では思いどおりに生活しているように見えるが、先生は絶対に自分の思いどおりに生活していない。そのために皆さんはこれを知らなければなりません。先生が一番初めにこの道の開拓に出る時の目標、「天宙復帰を願う前にまず自己主管」、それが第一の標語である。一番おなかがすいた時、御飯のために死ぬのか、国のために死ぬのか、天のみ旨を中心として死ぬのか、それが問題である。逆らう者となるのか忠臣となるか、ここで分かれるのである。おなかのすいた時、あなたは何と命を交換することができるのか。

 先生は三十歳になるまでおなかのすいていない時はなかった。しかし、この道を整えてきた。先生が青年時代に他の人と同じように、良いものを着て食べたとしたら、天国があるでしょうか。悪い服を着て、良いものをつけている人たちを救い出しなさい。そのために先生は三十歳前には新しい服を作れなかった。統一教会の歴史と伝統はそのように流れてきたのである。

 行く道がふさがれば国の運命が左右され、世界の運命が左右される。自分一人で死ぬのなら問題にならない。皆さん、これを考えなければならない。先生はそのような深刻な日を過ごしてきた。皆さんは統一教会に来ていくら伝道したか。私の一生の問題を懸けて、命を懸けて。イエス様のゲッセマネの祈りの時、いかになったのか。「父よ、この十字架をできることなら私から取り去らせてください。しかし父よ、あなたのみ旨どおりになさしめてください」と三度も血と汗と涙を流しながら談判祈祷をなさったのである。そのそばでは弟子たちが居眠りをしていたのである。それは知らないからである。

 皆さん、死んだのちに皆さんの墓の前で三日以上泣いてくれるような信仰の子女がなかったら、それは大変なことである。

  先生の伝道方法

 皆さん、誠意を尽くさねばならない。国のため、み旨のために。それが霊界に行って財産となる。そのような功績が皆さんの伝道路程において、その生命を救うことのできる一つの土台となることを知らなければなりません。

 先生は学生時代にたくさん伝道した。高校時代、火をたいてそれを囲んで先生の友達に伝道した。今もそれを思い出す。帽子を手にもって三年間伝道した。人ができないこともやってみなければならない。御飯もよくもらって食べたよ。乞食のようなこともやってみた。貧民窟でも生活したことがある。炭鉱地に行って石炭を掘ったこともある。全部やってみなければならない。塩田に行って塩かますをかついだこともある。今も、手ぶらで労働者の中へ飛び込んで三十分だけ働いても、全部先生の友達になる。昼食になると座ってみる。先生は観相もよく見る。貪欲が多いな、根性が悪そうだ、整っているな。座ってずっと話をする。ずっと一つの映画の主演俳優として、座らせておいて喜劇俳優となるのである。労働者の笑いはまた奇妙である。しかし、その時はまたそのように振る舞うのである。このようにして三日たてば先生の友達は多くなる。自分の家に来てくださいと、朝から来て願った。そしてその人についていったなら、かますで造った家で、門がない家で、その時は二月で寒い時であったが、布一枚かぶって子供一人もって生活している、かわいそうな労働者であった。妻を見ると話にならないほどである。その家に行って、その家が私の住居である。いびきをかきながらぐっすり眠らなければならない。ああ、神の威信がどうなるか、先生の威信がどうなるか、体面がどうなるか。威信なんかそのような時はちょっと待ってください。そのようになれば、その家の居室のおじさんとして行く。

 だから若者は三十歳以前は万事において苦労させる。それは先生が築いた修練であり、先生が築いた生活哲学である。学ぶことが多い。大学に行って学術的な理論の探求をするよりも、もっと深い内容のあるものである。それで実感が伴うのである。

 学生時代には酒場にも行った。昔は桜町といった所に非常に大きい酒場があった。その時は学生の帽子はポケットに入れて、ジャンパーを着ていって、酒を持ってきた女の人に、酒は飲まないがいろいろ聞いてみると、悲惨な事情の人が多い。それは社会の責任である。それを全部知らなければならない。酒を飲みに行ったのではない。全部知らなければならない。酒場の女の人を痛哭させたことを、今も思い出す。そのような女の人の顔を見て、悲惨さを実感させられることもあった。そのような全部を知って、このような悪なる世の中でこれを集めて、一つの主体的な権限をまとめて、処理方法をどのようにするか。あなたがこのような立場にいた時どのようにするか。問題は深刻になる。

 とにかく酒場に行って酒場の女の人と一緒に座っているとして、神が、「この野郎め」と言って地獄に落とすと思うか。ほかの人が指をさしてうわさを立てても堂々たる者である。統一教会がいろいろうわさされても、気にすることはない。何でも終わりまで見れば分かることである。李坊っちゃんは堂々たる姿であったでしょう(注:李坊っちゃんは、韓国の「春香伝」に出てくる、悪い国政をする官吏たちを治める地位についた人)。悪い官吏の前でも落ち着いて、最後に自分の身分を現したときは素晴らしいでしょう。乞食の姿で現れたとしても李坊っちゃんは堂々たる者でしょう。同じく何事も一時に訪れるものである。

 信念を中心として、正義で対する信念をもっていれば集まるし、苦しみがあっても貫いていくのである。そのために今まで激しい嵐に吹かれても、堂々と生き残ってきたのである。これが統一の道である。ある一時においては統一教会は良い。どのくらい良いのか。世界的だと聞いているが、処刑するような場において、「君、統一教会を信じるか、信じてないか」。このような試みがやって来る。これによって皆さんの信仰が分かる。私が今まで直面した信仰的な試練路程を思い出す。一度このような試練をして信じることができるのである。そして先生が知っている最後の多くを教えたいのであって、そうでなかったら教えたくない。

 さあ、みんな、そう思って伝道しなさい。真心を尽くし、誠意をもってやりなさい。この世の父母でも、その息子が悪い道に入ろうとすれば現れて諭すのに、まして神を父母としているのに成されないことがあろうか。そう信じて伝道をやってみなさい。






















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