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伝道ハンドブック
み言に学ぶ伝道の姿勢

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八、復帰の心情

  反対されることによって神に近づく

 あなた方の両親は、あなたのしていることに反対しています。すべての教会が私たちに反対しています。それについて私は次のように考えるのです。反対や迫害には意義があります。あなた方の両親からなされている反対や迫害においては、あなた方は真の父母と、より一体化するように動機づけられています。反対は必ずしも悪いものではありません。私たちがそれによって成長すればいいのです。したがって、私たちはそれに対して感謝しなければなりません。そうすれば私たちは最も強いグループとなり、神が共にいて、よりよい自分をつくることができるのです。

 既成教会が私たちの運動に対して反対することによって、その祝福が与えられ、どのようなグループでも私たちに反対すれば、それらの祝福は私たちに与えられるのです。迫害されればされるほど、祝福がそれだけ与えられるのです。したがって、伝道活動において一生懸命努力しなくてはなりません。そして人の言うことを聞くときには、その人が教会のメンバーになるように、愛のこもった目で眺めなくてはなりません。

  天の悲しみ

 伝道へ行って、ちょっぴりやって、ああ、いい気持ちになれないなあ。なぜ統一教会に入ったのか、もしも先生を知らなかったらいいのにねって、そういう思いをした者はたくさんいるだろう。それより悲しいことはない。天はそれ以上に悔しい、悲しいことはない。

  天のことを思え

 伝道しに行って迫害を受けた時、私一人のことを思わず、天のことを思え。神御自身が嘆かれている。打った過ちを許すように求めなければならない。サタンも神を打つことはできない。神に対応する者を打つのだけれど、直接神を打つことはできない。殴られるときは、神共に殴られると思うんですよ。そこに生活の方法がある。

  神の心情

 もし皆さんがある地方の責任をもって伝道に行って、その地方から追われる。そういうまっただ中に立って、どうにもこうにもすることのできない、その立場に立って祈る。我々には神に対して祈る道がある。しかし、神には祈るところがない。そういう立場に立って祈るその子女たちに対して、神はまた我々よりもっと悲惨なる歴史的立場の上に、また現実的悲しみを背負っているにもかかわらず、御自身の責任を全うせんとして、慰めてくださったり、あるいは導いてやらなければならない。そういう惨めなる立場に立っているのが神である。そういう心情をもつ神であることを、我々は忘れてはならない。だからその身をささげても、天の勝利のある一点を残していきたいという、その最極の立場にあって神に祈った場合には、神はそれを責任として果たしてくれるのです。それを果たしてくれるには、神御自身容易なる道をたどってこられるのではないのです。

 神から我々が祈っている、その立場まで来るには多くの段階と連結しなければならない。しかし、我らがそういうふうな最極の悲惨なる立場に立ってこそ、神は直接その活動を開始することができるのであり、それ以外には神御自身で活動することができない。すなわち犠牲の立場においても真なる心が、あるいは傷心の立場に立っても真なる心が、神に願う立場にあってこそ、初めて神がそれを認める。同情し得る立場でなければならないというのである。そういう立場に立っているのが、神の心情であることを忘れてはならない。

 日本を伝道するには、数多くの坂が遮っている。それをいかに打開するか。経済力でもって打開するということは一つの方便にはなるかもしれないけれど、それでは問題を決定的に解決することはできない。では何でもってやるか。心情と体と言葉、これが三位一体となって打開しなければならない。そこには物質的条件が入っていない。いわゆる長成期以上の基準に立った神が認め得る、真の子供としての立場、あるいはそういう信念、信仰心をもった子供の立場に立って、神に頼る真の心情と神に頼る真の実在を、神に頼る真の子供としての立場において、すなわち信仰心を中心として、真実なる責任を全うしようとするとき、神は我々に対して救いの手を伸ばすことができる。そういうふうになっている。

  神を慰める

 いつも先生においての中心となるその心情は何かというと、いくら自分がつらい立場にあっても、悩めるどん底の立場に陥っても、自分よりも悩んでいる天の父がおられるということです。自分における四十数年の苦労は限られた苦労である。しかし六〇〇〇年の神の苦労は、我々人間にどうにもこうにも分かりきれる悩みじゃない。そのことが分かれば分かるほど、我々は頭を下げざるを得ない。従順、謙遜にならなければならないというのです。たとえ百遍、万遍死しても、その神の心情に報いることはできない、ということをつくづく感じる。だからどんな立場にあっても、神に対して感謝の念をもって、蕩減の世界的道を越えていかなければならない。先生はいつもそれを考える。

 だからもし、悲しい、苦しい、たまり切れないつらい立場に立っても、我々がいつも思わなければならない中心問題は、神の心情である。神の心情圏においては喜びはまだまだであって、悩みの心情を抱いている。その痛みの心を、いかに慰めるか。これは我々統一信者としての重大な責任なのです。だから闘って勝利を得たという立場に立てば、神に感謝しなければならない。

 今日の勝利は我々によるものじゃない。一から百まで千まで、すべてが神による勝利の決定的動機から出た勝利である。ゆえにそれを知った人たちは涙ぐましいところを通過しながらも、感謝の念をもたなければならない。それでイエス様は十字架の路程を通過しながらも神に感謝の念をもったのです。十字架ののちにも感謝の念が残っていなければ、復活できないというのです。だから我々は闘って、まだ闘わなければならず、勝って、まだ感謝をもって世界に向かって闘いの道を進まなければならない。こういう立場に立っているのが復帰の過程である。皆さんはこの点を忘れてはいけません。

 一瞬の苦しみは、誰でも忍ぶことができる。しかし堕落以後の神の足跡は何ですかと聞けば、「我は忍耐である」と答えるでしょう。もしもそういう神の心情を知った神の子女たちがおれば、いかなる苦労の道、いかなる復帰の路程でも、責任をもって行くことができることと思う。国のその復帰の責任ばかりではない。世界的すべての人民を我々が責任をもって、我ひとり子としてついていきたいと願う立場に立たなければならない。これが復帰路程を分かった、統一教会の各個人としての心情基準でなければならない。

  我々よりもつらい神

 どうせ日本の伝道をしなければならない。それも我々の時代圏内において果たさなければならない。そうするにはもっと犠牲にならなければならない。個人的犠牲も犠牲だけれど、団体的、統一教会的犠牲が必要である。その目的は一つ、世界伝道。復帰は安定した立場ではできない。供え物をささげる立場は血を見なければならない。打たれなければならない。打たれて打たれて忍びきって、そこにおいてなお残らなければ、蕩減条件は立たない。だから神は打たれて打たれて、そして待っている。そういう戦法を取る。ゆえに我々兄弟は善の立場において、日本全体から攻められ得るようになるか、ということが問題である。全体が一体となって一度に攻めてきても、我々統一教会がその戦いで屈伏させられなかったとするなら、そこで全日本的復帰の出発がなされる。そうするには、全国的活動をしなければならない。善なる立場によって神を代表し、善なる立場に立って悩み苦しんで、そして善の道を開拓しなければならない。

 そこにおいてつらい時があれば、神の心情を思え。皆さんが打たれる立場に立つと神も共に打たれる。皆さんが涙を流す立場に立つと神も共に涙を流す。悩む立場に立つと神も悩む。しかし悩む神においては御自身のことだけで悩むのではない。万民を背負って立って、なお我々を慰めなければならない神の立場を思ってみなければならない。だから我々はつらい立場に立っても、つらいという思いをもってはいけない。これは当然なことである。もう一歩進んでみると、もっともなことでなければならないのである。こういう考えでいかなければならない。

 だからもし路傍伝道をする時、いつも一人で立ってする、と皆さん思うかもしれないが、一人じゃない。いつでも神の心情の中に立った立場、全日本の国土を一つの祭壇として、その最頂点に立った自分である。そこですべてのサタンよ、我に立ち寄っていけ。そういう立場で伝道する。そういう経験が必要です。

  神側の者を犠牲にする

 神から見れば堕落した人間はサタンの息子である。かたきの息子である。これは裁かなければならない息子であり、娘である。こういうサタンの子女を救うには、神の愛情を中心として救う。それには愛する人たちを倒さなければならない神の立場である。だから他人の息子、娘を救うために自分の子供をその立場に立たせるというのが神の愛なのですね。自分の愛する立場に立っておるその人たちを供え物として、つまり一人を犠牲にして三人以上救われれば、神は自分のほうを犠牲にするという。こういう神の戦法を知っている先生におきましては、どうすればよいか。世界を復帰せんがためには君たちを打たなければならない。

 そういう歴史的な神の心情を分かったなら、絶対的なアベルになれ。イエス様も従順なる心をもってローマの兵士のために祈り、神が同情し得る立場に立って血を流した。我自身のためではなく、人々のために死するという基準が、サタンのほうもカインのほうも認めざるを得ないその基準が決定されたから、イエス様が復活し得る。サタンは復活圏内においては讒訴できないということになるわけです。

 そういうことを考えてみると、どういう人が統一教会の兄弟であり、食口であるか。誰も願わないところで自分独りぼっちで、全責任を負う日本のアベル、そうして打たれるのが自分の生活である。奪われるのが自分の生活であるという立場に立つ者が多くなれば、日本は早く復帰される。善というものは、奪われてなくなるものではない。考えてみなさい。奪われれば奪われるほど栄えるものである。大きくなるものである。悪というものはそうじゃない。反対である。善なる神の前にあって、アベルとして打たれて奪われるのは不幸ではない。もしそこに死して、人がその立場を分からなかったら、天上の天使たちがその立場を守ってくれる。その死したる日においては、天のすべての霊人たちはその日を祝福する。地上で祝福する人がなければ天上で祝福する。そうなると地上において栄えるようになるのですね。こういうようにして、善の犠牲者を中心として復帰は広められていく。

  イエス様の身代わりになる

 イエス様の理想世界は世界的理想である。第二イスラエルは、国境を越えた世界的イスラエルである。イエス様は世界を愛したい思いに追われていた。君たちは涙をのむような、たまらない心情をもって世界を眺めなければならない。だから自分の前に現れたニグロのおばあさんがあれば、イエス様を愛するおばあさんに会ったみたいに喜ぶような心情の持ち主になれというんだね。もし年若い者があれば、自分の本当の弟や妹みたいに愛し得る心情の持ち主にならなければ、イエス様の心情を受け継いだ身代わりの者となり得ない。自分は頑として天地の前に立ち得る心情の主体性をもたなければ、その人は地上天国を迎えることができない。

 それを考えるとき、君たちは日本の人々のために涙ぐんだことある? 自分の親戚、自分の兄弟に対してそういう心情をもたなければ、いくらでかいことを言っても天には関係ないというんです。イエス様の心情圏内にあるすべてのことの蕩減条件のためには、何一つ果たすことができないというんです。イエス様は愛さんがために、愛されんがために闘いの道を行かれたけれども、実体的に世界を改善することができなかった。その闘いが我々統一教会に受け継がれて、今、闘いのまっただ中にいなければならないのが我々の運命である。イエス様は自分の体を殺す戦争には勝ったのだけれども、愛の目的を完成するかしないかという闘いにおいては勝利を得なかった。だからこの闘いは再び現れてこなければならない。

 しかしこの闘いの限界においては、自分の家庭だけ、自分の血統的関係だけを思う者は絶対に行かれない。これを克服しなければ、それ以上の心情圏内に入ることができないというんだね。

 天国はみんな願う、そうだろう? (はい)。天国は誰がつくっているか。天のお父様によってつくられているんだから、我々は天国建設だの何だのって言う必要はない? (違います)。じゃ、誰がつくるか。愛の法律は誰が犯したか。人間が五パーセントを全うできずして犯した犯罪である。だから我々が復帰しなければならない。自分たちは誰からも愛されなくとも、自分たちはその人たちを愛し得る時代になっている。イエス様は言いたいことも言えない立場に立っていた。君たちは渋谷の駅に立って「愛する日本の皆様!」とでかいことを言っているが、それで君たちを縛っていく者がいるか。愛そうとするならいくらでも愛し得る自由な世界、自由な環境に立っているのに愛すべき自分の立場を忘れて、愛を受けようとするなら天国はなされないというのだね。

 もしイエス様が数多くの祭司長や役人たちに追われていなかったならば、堂々とイスラエルの民族に、何でも宣べ伝えただろう。それを思う時、君たちはイエス様以上の恩恵圏内に立っている。だから北海道の果てから九州の鹿児島の果てまで君たちの足跡を残し、あらゆるものを君たちから愛さざるを得ない涙を流し、あらゆる道端に統一教会の愛に洗われた涙の跡を残し、その涙の跡が天に讒訴するアベルの血の跡と同じように祈り、訴えるような基準をつくらなければ日本は天国になれない。

  日本を誰よりも愛す

 君たちは今から地方に行かなければならない。分かっておれば当然のことであるが、何も知らなくても行かなければならない運命をたどっている。すべての歴史の要求は我らを背後から追い立てる。前では神が呼びかける。こういう限界に立っている。前後左右上下共にどうすることもできない運命になっているのが我々統一教会である。だから北海道の北端におる者は九州の南端を何遍も回れ。九州の南端の者は北海道の北端を何回も回り、日本のあらゆる地は、我が足の踏まざる所なし、というぐらいの精神をもって日本を踏んでいかなければならない。

 先生はそういう路程を今までずっとやってきた。今も行かなければならない。行く道は遠いにもかかわらず急がなければならない。その忙しい心は、天の心情を知れば知るほど、いかに忙しいか表現できないほどである。君たちとしても、日本におけるその使命を全うすると同時に、先生の行かれる道を神が感動するようなつながりを、因縁をいつでも保ちつつ共に行こう。そうして先生と君たち、君たち同士の四方八方へ広がるつながりと慰め寄り合う力、こういう関係を先生が見て感動し涙ぐむような環境をつくっていくならば、日本伝道は問題ではない。

 それをするにはこの国を何よりも愛さなくてはならない。この国を何よりも慕わなければならない。この国のために誰よりも血を流して闘わなければならない。その環境がどうであろうとも、我々はそれを乗り越えていかなければならない。

 ある時には社会から、ある時には家庭からそむかれる時があるでしょう。しかしそういう変化、そういう環境によって我々は変化しない。月日が一年、二年、十年も過ぎれば良心的な人々は長い間注目しながら批判してみた結果、この方法、この道でなければ日本は救われないという現実を体験するようになる。そのあとには何年続くか。それが君たちの五パーセントの蕩減の使命である。それを全うせんがために、荒波が打ち寄せる中に乗り出す。そこでその船が目的を失ってしまったら、それこそおしまいである。その怒濤を、目的に向かって乗り越えていくだけの舟人となれば、この道は行ける。

  復帰の心情

 我々は復帰の路程を行く。だからイエス様の身代わりの立場を再びよみがえらせなければならない。よみがえるのは肉身自体ではない。イエス様がその心情でもって立てた愛の旗を、万民が感謝し、それを勝利の旗として万民が願うようになる。イエス様は愛の道を開こうとして闘ったけれど、それを成就せずして逝った。だから死の境目を往来しながらも、イエス様が愛し得る者は誰一人いなかった。死の間際にイエス様をなぐさめたものは右側にいた強盗である。情けないなあ、そうだろう。強盗である。

 イエス様は三十三年間の生涯の目標として愛の心情を願いに願った。しかしそのすべての条件は打ち切られて、最後にあったものは、強盗の情けを受ける惨めなイエス様である。それが、四〇〇〇年間準備されて、天の王子として地上に来られた方の運命であるのか。どう思う? 我々は、それを蕩減復帰しなければならない。

  誰よりも苦労せよ

 目的を達成するには、人よりよく寝て、人よりよく食べて、人より良い所に住んでは絶対にできない。これは鉄則である。人より以上の基準でもって、そして犠牲を払ってこそ人より伸びる。日本を救おう。日本をみ意の前に正そう。今より以上の日本にしよう。それにはより以上の犠牲の代価を払わなければならない。誰がやる? 神様がやってくれるのだろうか? 先生がやってくれますか? 先生は日本に来てやらないよ。日本でするなら、アメリカなんかのもっと大きな国に行きますよ。君たちやりなさい。

  世界に責任をもて

 蕩減圏の闘いに今半世紀以上の年月を越しているこの悲しみ、勝利の一日をいつか果たし得て、堕落圏を迎えなかった神の本心の心情圏の喜びを迎えながら、神に栄えあれ、神の喜びを得る子孫と共に楽しみ合うそういう時がいつかあるというのが、親は死しても願わなければならない希望である。そこまで願わなければいくらよく働きかけ、いくらよく実証し、勝利の基台を残したとしても、それは堕落圏。消耗戦を我々はやっている。悲しい立場である。

 もしここに集まった数百名の若者たち、胸にわき上がるそういう心情をもって日本全国を代表して立ち上がった場合には、日本の急場に立ち上がったならば、世界を目指す神様は日本を乗り越える。世界は我々が責任をもつ、そういう徹底した民族が必要である。それを皆さんに期待してみよう。それが神様の要求である。

  惨めな神様の立場

 君たち、街頭に立って訴えるなら考えてみなさい。神様がなぜこういう惨めな立場に立ったか。この弱き者を立たせて、何の功労も果たし得ないような者を立たせ、往来する人々に指さされ、笑われながら目的を果たしていかなければならない。神様の立場に立ってそれを思う時、たまらないつらさが我々の前にある。

  地獄からの叫び声

 あなたたちは考えてみなさい。一年に死亡率が百分の一だと考えて、一〇〇人に一人死ぬと考えてみた場合には、三十六億のうち三六〇〇万は一年に死んでいく。そうした場合、三六〇〇万人は地獄に行く。神から見た場合に大損害である。サタンから見た場合大勝利である。一年早ければ三六〇〇万救われる。十年早ければ三億六〇〇〇万人である。「どうしたら伝道できるか」。今の時は、世の堕落した人間たちの救ってほしいという怨声が天地に響く時である。この声を聞くことができなければ復帰の心情を通過することができない。

  時代の切迫

 先生が言ったとおりの日本の情勢になった。アジア情勢になった。時間がたつごとに遅くなってしまう。だから準備をなさないものには、勝利は得られない。
 今は、一九六〇年から十五年になるけれども、この二十一年間いかなる歴史が変化してくるか。それは我々と世界に対する神の摂理があるからである。見ていなさい。個人の没落、家庭の没落、民族の没落、民主主義の没落、共産主義の没落、既成宗教の没落、すべてが没落していく。



















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