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南北統一と世界平和への道
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全国大学教授学生南北統一運動連合創設集会

南と北が共に生きる道
                     1986年10月11日  韓国・ソウル

 この講演で文師は、真の愛をもって「共に生きる」運動を展開するよう呼びかけ、「私たちの中に『真に共に住みたい』と言える心を蘇生させることができないなら、南北統一運動を提唱すること自体が、歴史的批判を受ける一つの偽善行為になるのです」と訴えられました。これに関連して、同年十一月八日、九日には「第一回南北統一全国大学学生大会」を開催。八日には講演とフェスティバル、九日には体育大会とマラソン大会が行われ、教授と学生が一体となった新しい学生運動がスタートしました。


 「全国大学教授学生南北統一運動連合」創設会員として、今日お集まりになった多くの教授、および学生の皆様に感謝申しあげます。

 私たちが今まで活動してきた内容を簡単に振り返ってみますと、一月二十四日、ソウルに教授の皆様が集まって、新しい決意をして対社会活動を始め、二月十七日から三月三十一日までは対社会講演という、驚くべき歴史的な快挙を成し遂げました。

 それから四か月後には、世界の大学者を中心として、日本および欧米の教授の方々と皆様が協力して、韓国で全国巡回講演会を行ったという事実は、世界を超えて歴史における記念すべき一つの記録となるものです。

 さらに、このような活動に、高名な学者の皆様がその背後の事情を越えて、先頭に立ってくださったということは驚くべきことであると思います。そのような意味から、本日は皆様方に厚くお礼を申し上げます。


 「共に生きる」思想が必要

 「全国大学教授学生南北統一運動連合」という十六文字でかなり長い名称ですが、今後は教授の皆様方が、簡単で分かりやすい略称をつくってくださることだろうと思っています。この集まりに対して、私は多くの期待を寄せています。

 皆様もご存じのとおり、私は間もなく七十歳になります。数え年で今六十七歳ですから、あと三年で七十歳です。七十歳の老人が社会の先頭に立って何ができるでしょうか。学者の世界でもそうでしょう。このごろ、定年は何歳でしょうか? 五十五歳ですか。六十五歳以上を過ぎて、ある団体の先頭に立ったり、社会の指導的な位置に立つと糾弾されることにもなりかねません。私も定年で退くべきであるにもかかわらず、今晩もまた仕方なくここに出てきて、高名な教授の方々の前でお話しすることとなり、大変申し訳ありません。どうぞ寛大に受け入れてくださることをお願いいたします。

 私も一生の間、多くのことを語ってきましたが、教授の皆様もやはり教壇で学生を教えてこられた当事者でありますから、今まで多くのお話をしてこられたことと思います。そのような皆様の前で話す内容は、順序正しく組み立てられていなければいけないし、原稿を用意して語るべきだという考えもあるでしょうが、私は今晩そのような枠から外れて話したいと思います。皆様「ポンポクトック」(注:穀物の粉にかぼちゃなどを混ぜてつくった韓国の餅)という食べ物をご存じでしょう。それは見た目はまずくとも、おいしいものです。ですから、今晩はそう思っていただいて、時間がある限り、感じたままを話してみようと思います。

 大体話の骨子からタイトルをつけますと、「私たちは、真に共に生きたい」という内容です。タイトルがおかしく感じられるかもしれません。「私たちは、真に共に生きたい」。では、このような内容での話をいたします。

 皆様方で、家庭を持っていない人はおられないでしょう。家庭があれば、まず父母に仕え、父母を中心として、その次は妻子を率いる生活をするようになります。私たちはそのような家庭を中心として生きているのです。

 それでは、真なる意味において「私たちは、家族と共に生きたい」と言える人がどのくらいいるでしょうか。さらに、私たちの大韓民国を中心として考えてみたとき、一人の主権者を親代わりの代表として仕えて、全国民が「私たちは、あなたと真に共に生きたい」と言える、国民あるいは国家の指導者がどのくらいいるでしょうか。また問いの範囲を世界的に広げて、この世界にある中心存在が決められたとしても、「私たちは、彼と真に共に生きたい」と言える世界が、果たして可能であるだろうかということが問題なのです。


 家族の心を占領する孝子

 さらに一歩進んで、大宇宙を創造した神がおられるとしたら、神と今日のすべての被造世界はもちろん、過去、現在、未来の人間がみな「私たちは、真に共に生きたい」と言えるそのような世界になることができるでしょうか。これが一つのなぞであり、人生の命題であり、また私たちが宿命的に望んでいる希望ではないでしょうか。

 では、そのような命題において、再び自分自身に戻ってみて「私は家族と共に住みたくない」と思うことがあれば問題なのです。「あなたは父母と身内に仕えたいと思いましたか?」と尋ねられたとき、「生まれてから死ぬまでの生活と生涯路程を通して、そうでした」と答えることのできる家庭があるとしたら、その家庭は世界的な模範として追慕され、記念されるべき代表者となることでしょう。

 父親であれば父親として、母親であれば母親として、父母がそのような生活の中心になって共に生きる家庭は、本当に幸福な家庭ではないでしょうか。自分とは直接に関係のない問題のようですが、これは私とあなたとの生活舞台に必然的な運命として受け入れなければならない現実問題です。このような運命的な生活を営んでいく自分自身が、それに対して責任を取ることのできる資質を備えているかどうかということは深刻な問題です。

 十人の家族と一緒に住んでいる場合、十人の家族みんなが「彼は真に共に住みたい人である」と言うならば、その人は十人の家族の生涯路程において、忘れられない尊敬と追慕の対象になるのです。その人が兄であれば兄として、姉であれば姉として、父母であれば父母として、家族の心の深い所を占領できる主人公ではないでしょうか。

 ですから、家庭では孝子を願っています。孝子というのは何かというと、「父母と共にいつまでも住みたい」と願う子供なのです。では、生きる時には何を中心として生きるのかといえば、ここでの共通分母は、すなわち父母を愛するということです。万古の歴史がどんなに変わるとしても、これを除いて変わることはありません。歴史も、この共通分母を中心として変わろうとするのであり、これを否定しつつ変わることは願わないのです。ですから孝子の伝統を受け継いだ人は、家庭から願われる人、すなわち共に住みたいと願われる人です。また、私たちの五官の感覚と深い心情の内面からも、共に住みたいと願われるそのような人ではないかということです。


 聖人は神と一致して歩む人

 さらに範囲を広げて、国を中心として考えてみましょう。愛国者はなぜ必要なのでしょうか。一体、愛国者というのは何でしょうか? 主権者とその統治下の国民がいる場合、国民と主権者は切り離そうとしても切り離すことができない、捨てようとしても捨てることのできない関係になり、真に共に生きたい理想に向かってお互いに努力しながら生きるとき、国を愛するということは自然に実践されるでしょう。国家という共同体を中心に、主体と対象の関係で分けようとしても分けられない、永遠に共に生きたいという心を持って生活する代表者が、すなわち愛国者なのです。心の中に主権国家の意思と願いと誇りを持って生活するそのような人にこそ、愛国者という称号をつけることができるのではないでしょうか。

 もう少し範囲を広げてみれば、私たちの歴史上には聖人たちがいます。聖人とは一体何かというと、全部が宗教の教祖たちです。例を挙げれば、釈迦、イエス、あるいは孔子、マホメット、それら四大聖人がみな、神を中心として教祖の役割をして、聖人という称号を持っています。では、その教祖たちが持っている内容は何でしょうか? それは神がおられるとしたら、その神と共に住みたいということです。神を知って、神によって治められる人類が存在しているという場合に、その人類と共に住みたいと願った人々が、すなわち彼らです。「私たちは、真に共に生きたい」と、代表的な生活と生涯の路程をたどっていった人たちが、彼らではないでしょうか。

 さらに、統一教会では聖子ということを言っています。キリスト教で言う、聖子にならなければならないということです。その聖子とは一体何でしょうか。その前にまず聖人とは何かを考えると、彼ら自身が神をはっきり知っていなければなりませんし、人格的な神として私たちの生活と理想の象徴になる、具体的な内容をよく知っていなければなりません。万有の根本存在であり、万軍の主として、すべての主権者の総帥の立場にあるのが神です。神こそ天宙の中心存在としてあられ、そこには天法があると同時に、その王宮の法度があるはずです。そうではないでしょうか。

 聖子とは、もちろんその天法を中心としてすべてを履行するということは言うまでもありませんが、王に仕えるということにおいて、王宮の法度どおりの生活をしなければなりません。王宮の法を中心として生活しながら、ついには法度を超えたところで王と共に永遠に住みたいと願い、王もその息子なしには生きていけないくらい、永遠に共に住もうといえる立場に立った人こそ、すなわち聖子なのです。

 ではこのように、人間はいかに生きるべきか、あるいは私たちの人生航路はどう行くべきかを考えてみたとき、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道には共通の根本的骨子があるはずです。すなわち、それが永遠に共にいたいと願い、共に生きたいと願う心なのです。上下、前後、左右を問わず共にいたいし、昼夜を超えて、生涯を超えて、共に住みたいと願う心に満ちあふれた生き方ではないかという結論に至ります。それでは、このことを俗世の人間から離れて、聖人と呼ばれる人たちに聞いてみてはどうでしょうか。

 例えば、お釈迦様のような方に「あなたが今まで二五〇〇年の歴史を通して仏教を広めてこられたその目的は何でしょうか。万民と共にお互いが離れられない存在として、歴史を超えて共に生きたい道理を広めるためだったのではないでしょうか」と尋ねたなら、お釈迦様は間違いなくそうだと答えるはずです。また、イエスに「あなたは二〇〇〇年の間、キリスト教を通して世界文化圏を指導する歴史的基盤をつくるほどに偉大な貢献をされましたが、世界万民にこのように布教することによって何を成したかったのですか」と尋ねれば、「お金をたくさんもうけてある団体をつくったり、国をつくるためだ」と言うでしょうか。答えは簡単です。「私はあなたと真に共に生きたかった」と言われるはずです。また、孔子も同じです。「あなたは儒教という教えをもって、このアジア世界に何を願いましたか」と尋ねれば、「アジアを超えて世界の人々まで、宇宙の本体である方がおられるとしたら、その方と共に生きようと願っただけです」と答えるに違いありません。それは、回教の教祖であるマホメットに尋ねてみても同じでしょう。

 さらに、神がおられるとしたら「全知全能であり無所不在の方として、一体あなたの願いがあるとしたらそれは何でしょうか?」と尋ねることができるでしょう。ではその神はお金が必要でしょうか、知識が必要でしょうか。神も必ず、きょう申し上げたこのタイトルのように「私たちは、真に共に生きたい」と言われるはずです。「真に共に住みたい」。これは、小さな個人から国家を超え、世界を超え、そして大宇宙を超えて、人格的な神が存在する世界圏内共通の答えになるでしょう。


 学校内の関係も愛を基調に

 以上のように考えてみたとき、多くの教授の皆様が教職員の一人として勤める大学にも、上下の関係があります。まず理事会の役員と学生がいます。そこで「私は真に理事会の役員と共に、あるいは私の学生と共に生きたい。あなた方は願っていないかもしれませんが、私はこのように生きたいのです」と言える教授がいたら、たとえ彼の知識が足りなく、多くの短所を持っていたとしても、彼こそ教授の中の教授ということができるでしょう。また、「先生と本当に共にいたいし、共に生きたい」と言える学生がいたら、彼は真の学生です。そして、理事会の役員の中で「私は教授、学生たちと共に生きたい」と言える人がいたら、その人はその学校をだれよりも愛する代表的な存在として恥ずかしくない人です。

 ではこのような共に住みたいという、その内容の共通分母は何でしょうか。それは権力ではありません。権力は歴史を超えることができません。権力は一時的なものです。それでは知識でしょうか。知識の世界は発展するではありませんか。皆様は知識の世界で、その学問と共に永遠に生きたいという心になりますか。私たちが共に生きられる道は知識でもないし、お金でもないのです。

 このように考えたときに、上下、前後、左右を問わず、過去、現在、未来の時間性を超えたところで共通的に認められる一つの分母は何かというと、それが、すなわち愛なのです。ですから孝子とは、家庭で父母を真に心から愛しながら生きる人であり、また愛国者とは、国を真に愛しながら生きる人であり、聖人とは世界万民を真に愛する人であり、聖子とは神を真に愛しながら生きている人なのです。したがって、いくら山の中にただ一人座っていたとしても、愛国者の心と同じように民族と共に生きることを願い、民族が試練に遭っている時には、その試練を私の試練、私の痛みとするのです。また喜びがあるとすれば、それはただ流れていくのではなく、永遠に我々全体の喜びとして残っていくべきだ、と決意できる真の心情の基盤が問題なのです。

 今日皆様は、私が何を話すつもりなのかと気になったかもしれません。宗教の指導者なので、聖書の話や説教を期待していたかもしれません。しかし今日の、以上のような話の内容から見て、レバレンド・ムーンとは一体どんな人なのでしょうか、何をする人でしょうか?

 レバレンド・ムーンという人は、今日統一教会の創始者として、既に世界的な宗教家としても問題の人物となりつつありますが、統一教会の会員たちと文なにがしとはどのような関係なのでしょうか? それは簡単なことです。「あなたと私は、真に共に住みたい」、「真に共に生きたい」と願う、正にそのような心情のきずなであるといえるのです。既に私は六十歳を過ぎたので、もう定年退職で退こうとしても、みんなが「ついていきたい」と願うのです。そのような紐帯関係が、個人を超え、家族と氏族圏を超え、民族圏を超え、世界を超えて、統一運動の背後に形成されているのです。


 子供よりも痛みを感じる親

 世界的に著名な学者がいれば、彼も「愛する弟子たちと共にいたい」と願い、弟子たちも神にかけて、また自分の職場と家庭にかけてでも全体を代表して「あなたと離れては生きられない」と言うような大学者である場合、いくら苦しい条件のもとにあっても、彼は決して不幸な人ではありません。そこで初めて、幸せな教授として存在できるということです。皆様、心の世界の生活において、このような内容を測定することができなければなりません。

 愛国者と孝子の道、聖人の道に従っていくとすれば、聖人にはなれないとしても、その生き方に似た追従者にはなれるのです。さらに、自分が聖子を追慕できる内なる人になっているかどうかという場合、その共通分母になる内容は、真の愛それしかありません。親のわが子に対する愛、これは真理の中の真理です。子供が喜べば、その子よりももっと喜ぶのが親であり、子が悲しめば、その悲しみと痛みを、本人よりも一層深く感じるのが親の立場ではないでしょうか。

 以上のように考えてみるとき、家庭の中で真理を代表する立場が親の立場であるように、真の主権者、あるいは善君の場合も同様です。そして、万民と共に歴史や時代を何度越えてでも共に生きる道理を成し遂げたいと願うのが、聖人の立場です。さらに、神の天理の精髄も、万有存在と共にもっと深く、高く、広い所で共に住みたいのです。そこは、よしあしを超越した所です。そのような愛を分母にした因縁の世界こそ、あなたと私が真に共に住みたい幸福の基地ではないでしょうか。

 高名な先生方の前に、今晩このことを提言いたします。ですから皆様、自ら愛国者になる前に、愛国者ぶって人を批判してはいけません。聖人の道理に立てる心情的な愛のきずなをもたずしては、聖人の道理を論ずることはできないのです。なぜかと言えば、それは見せかけのものであり、二重人格者になるからです。


 北韓の同胞と共に住みたい

 大韓民国の国民が一つになることを願い、南北を一つにしたいと思うあまり、結成されたのが「南北統一運動連合」です。社会的な名分も持った立派な名称で出発しましたが、それでは皆様は北に行って、北韓の同胞と共に住みたいと思いますか。解放四十年という歳月を経るこの間に、皆様はどれほど北韓のことを考えてみましたか。雨が降ろうと、雪が降ろうと、彼らと共に住みたいという慕わしさが、皆様の心にどれほどしみ入っているでしょうか。

 私の場合は、故郷が北韓にあるからですけれど、慶尚南北道や全羅南北道の人々には、北韓は遠くの他国のようにも考えられることでしょう。しかし私たちの中に、「真に共に住みたい」と言える心を蘇生させることができないなら、南北統一運動を提唱すること自体が、歴史的批判を受ける一つの偽善行為になるのです。この運動を主張する提唱者として、私が一番心配するのはそのことです。知らない人は許されるし、恥を免れる余地があります。しかし、大宇宙の天理の前で、皆様はどんな立場にいるのでしょうか。

 今日提示された内容を中心として、皆様は責任を遂行しなければなりません。南北統一運動に共に参加しようとする皆様の心は、このような話を忘れようとしても忘れることができないし、逃げようとしても逃げることのできない自分であるということを発見して、悩み始める状況がこれから現れるはずです。もしそうでなければ、今日のこの集まりは、むしろないほうが良かったのです。

 父母と永遠に共に住みたいですか。いくら父母を愛しても、国のない所で父母と共に住むことは不孝です。また、いくら偉大な愛国者になって国を愛し、君主に仕えて生きるとしても、聖人の道理と通じない愛国と愛国者の道はふさがってしまいます。いくら聖人の道理に従ったとしても、聖子の道理、大宇宙の法度を中心として神様の法度を通過しなければ、神の王宮からは歓迎されないのです。

 このような意味から、今日私が提唱する「統一」というのは何でしょうか。「統」という文字は、「統べる」という意味です。「統べる」とは、主体性を中心として、素直に従ってこられるようにすることであり、統一ということです。では、家庭を統一する主体はだれでしょうか。それは孝子ではありません。孝子の熱い涙を慰めることができ、深い歓喜をもって褒めたたえることができる愛を持った父母が主体になるのではないでしょうか。

 愛国者のさまざまなる悩みを理解して、彼の悲惨な過去をただ過ぎ去った個人の歴史としてではなく、それは私のことであり、わが国民のことであり、わが国の主権者のことであると、褒めたたえることのできる人が、正に国の主体になるのです。世界の大統領がいるとしたら、彼とてもやはり同じです。

 大宇宙の主宰者である神がおられるとしたら、その神はどんなかたでしょうか。それは夜であろうと昼であろうと、人間に苦しみがあるとき、その苦しみを強く痛感しながら、人間の喜びをも、千年万年の歴史を越えて一緒に保ちたいと願う心情の所有者です。歴史が変遷し、世界の次元が変わっても変わることのない、そのような主体者をもった相対者はどんなに幸せでしょうか。

 教授の皆様の家庭で、皆様自身がそのような主体者になっていないとすれば、どうかそのような主体者と共に、相対者として永遠に住みたいと言われる人になってください。いくら周辺が混乱し、難しい環境であったとしても、そのように生きる人は、個人的にもまた家庭的にも幸せな人です。私の周りにいくら混乱した環境破壊の歴史が訪れてくるとしても、主権者と国民のために天理を見つめ、未来を眺めながら、そこでお互いに一つになろうとする心情のきずなを持って生きる人がいるとすれば、彼は国の前に恥じることがないだろうし、国民の前でも恥じることのない堂々たる存在となるはずです。聖人の道理も、それと同様の内容ではないでしょうか。

 では今日まで、レバレンド・ムーンが世界的に問題を起こし、そのすべての複雑多岐な環境を経ながらぶつかったり押したりしましたが、その多くの難関を越えることのできた力の根源は何でしょうか。北韓に行くその日に、真に歴史時代の中でだれも持つことができなかった民族のための愛の心情を持って、この国と永遠に共に生きたいという心を、歴史を代表して、時代を代表して、誇ることができるか、ということをいつも自分自身に問いながら歩んできたのです。そのような自覚した自らをもって、環境的に難しい地に入って、まずぶつかってみるのです。そこで、「あなたが真なるものか、私が真なるものか」と考えてみるとき、それは何が基準かといえば、その国に何を残したいのかということなのです。


 天理の道に従った生涯

 真の心情の因縁として、真の人を残すべきです。では真の人とはどんな人でしょうか? 知識を先に立てる人や、権力を先に立てる人や、金を先に立てる人などを残そうとはしないのです。必ず、愛を持った人を残そうとするはずです。私はそのために生きてきました。そのようにして韓国ではもちろん、世界各地でありとあらゆる苦痛と迫害を受けながら、滅びることなく発展してきました。世間の無理解ゆえに迫害を受けるときは、すでに私たちの苦しみを先頭で受けている神がおられることを知っていましたから、自分の悔しい事情など問題ではなかったのです。

 アメリカ人たちが私をダンベリーに送ったときも、彼らにとって韓国という国は眼中にありませんでしたし、いつでも彼らの思いどおりにできる国だと思っていました。アメリカの果てのアラスカ州ほどにも思っていなかったのです。彼らの評価の基準において、韓国は取るに足りない国ですが、私と十四年という歳月を共にしてからのちは、私を白い目でにらんでいた多くの人々が、隠れて涙を流すという状況が現れ始めたのです。それは力でできたのでしょうか。知識でできたのでしょうか。金などでできたはずはありません。永遠に残る歴史の発展要因として、玄妙な調和を引き起こすことのできるただ一つのその力こそ、真の愛なのです。

 真の愛とは、一体何でしょうか。それは、今日の話の「私たちは、共に住みたい」という心であり、その生活なのです。「私はこんなにもあなた方のためにやっているのに、あなた方は逃げていくのですか」と、あの山を遠く越えて逃げていく彼をしのびながら涙ぐみ、幸福な春の日が来ることを祈って、彼のための心情のきずなを絶たずに生きている人は、不幸な人ではありません。私たちはそのような人になるべきです。そのようにして生きて、この大韓民国の一番難しい問題や、アメリカの最も大きな難題を抱えつつ、「あなた方の苦しみと悲しみの根源に私が責任を持って、あなた方以上に涙する心の道、実践の道を探してみよう」というのが、レバレンド・ムーンの主義なのです。

 一言の言葉でも共に交わしつつ、悲しいことがあったら共に悲しみ、良いことがあれば共に喜ぶのです。夜十二時が過ぎて、一時、二時になるまで共に過ごすのも普通なのです。妻が「もう七十歳近くになったのに大丈夫ですか」と私のことを心配しますが、天理の道がそうなのですからこの道に従っていきながら、この道で倒れてもよいと思っています。

 儒教的な伝統では、父母が死ぬと三年間喪に服しながら孝子の道理に生きますが、そのような形式的なものが何の役に立つのでしょうか。それよりも真に共にいる心情の道理を、生活過程の中でどれほど残すかということが重要な問題なのです。


 北の悲惨さに心痛める

 皆様方がある一門(注:韓国では「門中」=同姓での縁のある間柄)の家に行くと、「ああ、教授様が来た」と褒めたたえられるでしょう。一門の先祖たちは自分の子孫が立派になり、幸福になることを願うはずです。しかし、一門が栄えるためにはどうすべきかが問題です。そのような道は何かというと、一門を代表する父およびその息子自身が一門のために生き、昼夜に「この一門でなければ生きられない」と言えるほどの、愛の主体者にならなければなりません。そうなれば、その一門は自然に栄えるのです。そうなると、飛んでいる鳥も、教授の方々の門前に来て昼食を食べていくようになるでしょう。飛んでいる鳥や地上の動物も「私たちも共に住もう、共に生きよう」と言える、心の主体者を求めているのです。家で飼っている犬もそうです。犬も主人が自分と共に生き、かわいがってくれれば、朝に夕にいつでも「ワンワン」とうれしがってついてくるではありませんか。

 統一は、どこから始めるかが問題です。南北統一はどこから何をもってなすのでしょうか。腕力でしょうか。力で屈伏させると、後で相手の力が強くなったとき、また戦いが起こります。そのような方法では、統一は成し遂げられません。一言で「南北統一運動連合」と言いますが、それはどんなに難しいことでしょうか。金日成をどのようにすればよいのでしょうか。

 皆様は今、南韓に住んでいますけれど、北韓に住んでいる彼らと真に共に住みたいという心、一つにならなければならないという心を持ってこそ、統一の道が開けるのです。北韓があんなに苦しいのは、金日成が独裁政治を行って閉鎖社会をつくってしまったからです。その事情を知れば知るほど、その統治下にいる人たちはどんなに悲惨なことかしれません。共産主義は敵ですが、彼らは敵ではありません。北韓を望みながら胸がつまって、惨めに暮らしているわが同胞のために涙ながらに「あなた方の苦しみと共に生きて、解放の一日を準備してあなた方の前に現れます」と誓いつつ、統一のための実践運動がここにおいて展開されるならば、北韓に行ける日も遠くないのです。

 今日、世界の統一教会の会員たちが、釜山の「ボンネッコル」を聖地に決めて、巡礼しています。三十余年前、猫の額ぐらいの小屋で暮らしながら、青年会員の一人が肖像画を描き、それを私が横で片づけたそのとき使った小さいテーブルがまだ残っています。なぜその小屋を見て、会員たちが悲惨であると感動するのでしょう。それは、二十世紀の終末の思想的な没落を予測して、その時代の混乱と塗炭の惨状に涙ぐみ、彼らの苦しみを背負ってあげることのできる価値と生活内容を持って生きようという信念が、ここから出発したからです。

 皆様、学者も知識のみの授受が重要ではなく、勉強しながら苦労したすべてのことを、愛するすべてのことがらを共に感じ、共感できる情の交流が必要なのです。情の交流なしに、その学者に会ってみて何をするのでしょう。世界的な大学者に会って、一体何をするのでしょうか。あなたはあなた、私は私ではなく、彼に会えば涙が出て我知らずひざまずくほどの、苦難の中で共に生きる知的な探究生活の同伴者としての態度が、その裏面に存在すべきではないでしょうか。

 私が「世界平和教授アカデミー」を設立して、ありがたく思ったことの一つは、私がダンベリー刑務所にいた時、李恒寧博士と何人かの方が訪ねてこられたことです。李恒寧博士は、私を見るなり目にいっぱい涙ぐんで挨拶をされたのです。李恒寧博士という方は一体だれかに頭を下げるような方でしょうか。割竹のように世の中に自分以上に偉い者はいないといえるそのような人が、その目に涙して……。私がいなかったら、きっとポロリと涙を落としたかもしれません。私がたとえダンベリーの刑務所の中にいても、私の悲しみがその方たちの心の深い所へ、その方たちの悲しみとしてつながり、私の喜びがその方たちの喜びとして芽生えているというこの事実は驚くべきことです。レバレンド・ムーンに誇りたいことがあるとすれば、正にこれを誇りたいと思うのです。

 個人の名誉は流れていくものです。一時代を過ぎ去るしかありません。歴史を超越してその場に通じることのできるものは、別のものです。父母のお墓が十年、二十年を経て、土さえ薄くなってなくなってしまっても、真の孝子は、平地になったそのお墓を抱いて身もだえしながら泣くのです。慟哭するその原因はどこにあるのでしょうか。歴史は過ぎ去り、数十年の生涯がたっても、だれも引き継ぐことができない心情の深い骨髄を引き継いで、今日の現実に生きて動く力として爆発することができるのは事実です。一〇〇〇年前にも、一〇〇〇年後にも、その行く道をふさぐことができないほどの内に燃える力が存在している所はどこでしょうか。それはここ以外にないのです。それは何でしょうか。


 涙しキリスト教の没落防ぐ

 大韓民国の既成教会は私に対して四十年間反対し、アメリカの教派全体も反対してきました。しかし、反対される私の本心は、彼らをお兄さんの立場から、あるいは親の立場から、神の代身の立場からその未来を心配し涙してあげることができたのです。そのような人がいたという事実がキリスト教の没落を防止し、希望の世界に向かって新しい突破口を探し出すことができる一つの因縁になったということを、そこまでは分からなかったでしょう。しかし、今やアメリカの牧師たちが韓国へ訪ねてきて、統一教会の足跡をたどりながら、感激の涙を流すという現象が起こっています。その人たちは何のために韓国を訪ねてくるのでしょうか。あの釜山のボンネッコルの聖地で、なぜ共に熱い祈祷をささげることができるのでしょうか。

 私が釜山で暮らしていたあの時は、「六・二五動乱」の直後で、最も悲惨な避難民という身の上でしたし、服は米軍のポケットの多い作業服を着ていました。下は韓国服のズボンに腰帯を結んで、靴は古いゴム靴でした。そんな姿をして聖地に座って、「あの大海を渡って、心から期待する心情のきずなを探すために、あの国へ行って種をまこうと思います。氷山のようなこの世界の中に、真の愛の父母はどこにいるというのでしょうか?」と祈りました。釜山の遠くの海を眺めながらそのように祈ると、神はよく私に冗談を言われました。「ああ、君見てごらん。これから世界はこのようになるんだよ」と言われて、大きな商船に私を乗せて、多くの群衆が歓呼するそんな夢みたいな場面を見せたりして、慰めてくださいました。

 そのように、神が私のような人間を中心として環境を超え、時間と距離の隔たりを超えて、今日の現実の中で私を慰めてくださっているという事実は、何を意味するものでしょうか。「ただ、あなたと私と、真に永遠に共に住みたい」というその願い、神だにこれを求めているのではないでしょうか。そのためには神も威信を捨てて、すべてのものを投入するのです。自らのすべてのものを全部犠牲にしてでも、これだけは成し遂げようとされるのです。

 そのような天理に従ってすべてのことをささげて生きながらも、四十年間絶えず反対され続けてきた統一教会は、世界的な基盤を築きました。今や、あまりにも有名になって私は困っております。ですから、博士の皆様方にこれを分けて差し上げたいのです。皆様方に分けて差し上げるその道は、ほかでもありません。

 統一教会の文なにがしのジェスチャーだとか、話だとか、知識などは何も学ぶ必要はありません。ただ一つ皆様方に差し上げられるプレゼントとは、皆様が学ぶことがあるとすれば、「あの人たちと共に住みたい」と願う、この心です。この世の中だけではなく、あの世に行ってもです。

 それで私は、白鐵博士が他界したことを非常に残念に思っています。私も向かい合って、本当に涙のこぼれる話をしたかったのに、もう霊界に行ってしまわれました。今でも韓国に来るたびに思い出します。「私がしてあげるべきことができなかったなあ。兄弟以上の勧告をし、父母以上に忠告のできる立場に立って、永遠に苦楽を共にする心情世界を求めていける同志だったのに、私はそのような話ができなかったんだなあ」と、このように思っているのです。


 金や知識より心が大切

 レバレンド・ムーンの生活哲学は、特別なものではありません。ある村へ訪ねていけば、私はその村の歴史と共に生きたいのです。おじいさんに会えば、夜を明かしながら過去の話をよく聞いてあげます。その次はその時代と現実について、眠らないでよく聞いてあげるのです。「未来の希望は何ですか」「どのような心配がありますか」と尋ねながら、その村、その家庭の未来に対して二人で話をすれば、その後は自分の息子や娘、あるいはその村の有名なだれよりも、私と向かい合って話したくて共に住もうとするのです。

 そのように生きてきて、今日、私は世界的な人物になったのです。もちろん行くべき道はまだまだですけど――。これから統一を成し遂げるには、知識とか力だけをもってしてはできません。だからといって、これらが一切いらないと否定するわけではありません。全部必要ですがそれよりもまず、その知識世界の専門分野につながっている目上の人とか、目下の人と共に住みたいと願う心がそれ以上に重要であるというのです。その心がなければすべては偽物です。

 世界的な学者がいるとすれば、その方は学問分野の体系を整え理論を立てるためにどれほど苦労したことでしょうか。私たちはそのような谷をかき分けながら、涙とともに骨がにじみ出る心情をもって本を読み、彼の苦しみを私のものとして感じ、その人の本を手にしても、涙ぐんでありがたいと思える心が必要です。

 皆様は、学生をどれほど愛したことがありますか。自分の骨に深くしみ入って忘れられないほどその学生を引き止め、寒さを冒し、苦難を冒し、体面を冒してでも「君と私とは離れることができない心情のきずなを持った師弟の関係だ」と堂々と言えますか。これが問題なのです。また夫として、妻に対しては「あなたがそこに行けば、私もそこへ行きます」と言えるほどの裏面の生活内容をもって暮らす夫婦関係であるべきです。

 愛国者の道がそうであり、聖人、聖子の行く道がそのような道です。これは老若男女を問わず、地位の高低を問わず、皆が願うものです。このように生きたとしたら、たとえ反対されても、追われたとしても、結局は中心主体になっているというのです。大韓民国で四十年間、私がどんなに悪口を言われて冷遇されたか知っていますか。空港を出入りするたびごとに、刑事たちが「君が文なにがしだね」と冷遇しました。しかし、「君たちはそう言うけれども、私は君たちの先祖と共に、君たちの父母と共に、君たちの子供と共に生きよう!」。このような気持ちで決意して生きてきたので、四十年の間に文なにがしの名前がだんだん高まってきたのです。


 韓国で郷土学校始まる

 今後、私に反対すれば、突然ある人から「なぜ、義人の悪口を言うか!」と、胸元をつかまれるかもしれません。今まで私が種をたくさんまいておきましたから、春になるとその種子から芽が多く出るようになっています。そのような環境がつくり上げられています。戦わないで、すべてのことが平静になる時代が目の前に来ています。どうですか。私がまるで狂ったように見えるでしょうが、狂ったのではありません。

 この前、私は韓国で郷土学校を始めました。皆様、大学教授として郷土をどれほど考えたことがありましたか。郷土と共にどのように生きようかと考えなければなりません。自分の父母と共に住みたくないし、郷土と共に生きたくないという人は国を愛することはできません。そのような人が「国を愛する」と言うのは、うそです。国と共に生きたのちに、世界と共に生きるようになっているのです。そうして、世界と共に生きてのちに神と共に生きるようになっているのです。ですから郷土を愛し、その地域社会を愛してこそ国を愛することも可能なのです。

 真と偽は、一緒にしてぶつけてもんでみれば分かります。もんでみれば何が減って、何がなくなるか明らかになるからです。偽物はなくなります。本物は減っても必ず残るというのです。それが生きた標本になるのです。では、この国ではどのような家庭の標本が必要でしょうか。共に生きたいと願う人々、そのような息子、そういうふうに生きた父母が標本になるのです。

 この世界では、どのような聖人が残るのでしょうか。それはそういうふうに生きた聖人です。神の国があるならば、そこにはそういうふうに生きた聖子が主体として残るでしょう。そのように生きられなかった人は決して主体にはなれません。これが統一思想の骨子です。ですから、どうかお帰りになったら、皆様の学校からこのような運動を広げてください。そうすることによって、南北統一は自分の心、自分の生活から始まるのです。


 後の歴史から愛の審判

 自分が韓国で生活していても、世界と共にある心情のきずなを持ってさえいれば世界的な生き方をすることができます。愛と心情のきずなを持った人は、統一圏に同参できる特権があります。皆様、いくら無学の女性であっても博士と結婚して愛の関係を結べば、一夜にして博士夫人になれるでしょう。共に住もうとする心情のきずなを多く持っている人は、今日の統一圏に堂々と参席する特権があります。神ご自身がそのような方ですから、神と一つになれる生活内容を持つと、そこに同参できる資格が自動的に付与されるのです。

 私はこれまで、数百、数千組の合同結婚式を行いましたが、どの家庭を訪ねていっても、門を入れば歓迎を受けることができるようになっています。西欧の社会では、父母も自分の子に電話で約束して訪ねるようになっていますが、私もそのような方式に縛られるべきでしょうか。いいえ。いつ訪ねていって「門を開けなさい」と言っても、「はい、どうぞ」と歓迎されることができてこそ、あなたと私という隔たりのない、幸福な世界が現れるのではないでしょうか。

 では、政治を行う指導者たちは国を愛しているのでしょうか。国の未来がどうなっていくかも知らずに、近ごろも、民正党と新民党が互いに大統領を争っています。では、大統領になってみなさいというのです。彼らに国民と共に真に生きたいという心がなければ、それは全部流れていくものです。いくら立派であっても水泡のようになくなってしまいます。国民を愛することのできない指導者であれば、国民から、また後々の歴史からも審判を免れがたいはずです。

 私は、統一教会の創始者になっていますが、統一教会の中で私を追い払おうとする人はいません。どうしていないのでしょうか。その実証的な証をしましょう。アメリカに「エクス・ムーニー」という、いわば統一教会員になったけど、途中でやめていった人たちがいます。「私より勉強もできなかった者が教会の幹部になったから、その人とは一緒にいられない。文鮮明先生はいいけれど、その人のゆえに私は教会に行かない」、このように言い訳をしています。

 私がダンベリーの牢獄に入った時、彼らが全部一緒になって手紙を送ってくれました。「先生を牢獄に送った、今までの統一教会の人たちは偽物だ」というのです。先生を牢獄に送っておきながら、責任を執らないでそのままいる者たちが、現在教会に残っている人々だということでした。彼らは、「私たちはこのままではいられない。先生が牢獄に入れば、牢獄を破壊してでも先生をヘリコプターに乗せて、南米のほうに移送します。このような計画を立てていますが、どうでしょうか」と言うのです。彼らが言うには、統一教会の文先生を愛していると言うのです。

 忠臣と奸臣の違いは何でしょうか。奸臣も王を愛し、忠臣も同じです。違うところは、奸臣は公義と順理的な過程を通らないということです。その秩序的段階を経ようとしないところが間違っているのです。

 皆様も愛の心情を持つと、このような秩序的な段階を経て、いくら法が存在するとしても結局は法を超えて生きるのです。ある家庭に、全家族と共に生きたいと願う息子がいるとしたら、その家庭に法があったとしても、その法をもって制御することができるでしょうか。国家でもそのように生きる人をだれが制御できますか。世界でも、聖人の道理をもってそのように生きる人はだれも制御することはできません。いくら神の法が絶対的であっても、そのように生きる人を妨げることができるでしょうか。むしろ歓迎するはずです。 家庭から、社会から、世界から、天宙から、このような一念をもって生きるべきです。鉄が磁石になろうとすれば、よく擦って一つになるべきです。近づくことによって同化される過程を経てこそ、自分も磁石になれるのです。環境の制約や我々の習慣性と歴史性を超えて、そのような運動が始められるのです。本心がそうであるからです。

 教授の方々も、次の事実をよく自覚してから教壇に立って教育すべきです。自分は神と共にあって教壇に立つ者であるということです。このような生活哲学を持つべきです。神と共に住みたいという立場から、聖人と共に住みたいと願いながら、国と国民を代表する立場から、「私に見習いなさい」と宣言する教育をしなければならないというのです。習うのは専門知識ではありません。国と共に、聖人の道理と共に、天理と共に住みたいと願う情緒的な土台の上で、初めていろいろな専門化した方向性が必要なのです。経済とか、哲学とか、科学とかすべて同様です。水のない砂漠では草木が生きられないように、そのような心情の土台なしには真の人間や、成熟した社会は現れえないのです。


 死の恐怖を越えて生きる

 私は一人であっても、このような歴史的なすべての存在が追求する生活のまっただ中に立って宣言するのです。それこそが本当の権威ではないでしょうか。

 教授の方々は、私のこの話をただ過ぎ去っていく人の話として聞かないで、よく心に刻んでおいてくださることをお願いいたします。そうすれば、「私たちは、真に共に住みたい、共に生きたい」という思いがするときはレバレンド・ムーンを思い出されるはずです。そして、それを残していくべきです。それを残していく人は、あの世の道も平坦な大路になるのです。そうでないと、すべてのものが門をつくって妨げます。これは単なる過ぎ去っていく話ではありません。私の経験と実証を通して得られた結論なのです。

 ですから、レバレンド・ムーンは死の恐ろしさを越えて生きる者です。歴史と共に、一〇〇〇年前の人もこのような生活を願ったのであり、今日、五十億の人類もこのような生活を願い、未来と後代の人類もこのような生活を願うはずです。だから、現実の中で生きながらも超越的な歴史を生きていくことが、どんなに素晴らしいことかというのです。このように生きたとしたら、どこへ行っても寂しいことはありません。いくら寂しい立場、甚だしくは牢獄に入っても友達が多くできるのです。南京虫でも友にするはずです。そのような立場は悲惨であるかもしれませんが、そこからも深い心情の節が生じるのです。事実そうです。

 ここにおられる教授の皆様と原理研究会、基督教学生連合会の皆様は、これから連合運動をしなければなりません。今まで教授と学生の関係で、いかに教授が権威を振るってきたことでしょうか。今日からは変わっていくべきです。「ああ、君たちと共に暮らしたい」「私の学生時代が懐かしいなあ。私の持っている知識を全部上げたいし、君たちといるのがいいなあ」「ああ、やっと研究が終わった。君、ここへ来て話をしないか」と言えるような生活が必要です。

 講義室だけに必要な教授ではなく、生活の中でも必要とされ、生涯において共に住みたいという弟子をつくるところから新しい理想世界が開けてくるのです。その基地が広くなればなるほど、その教授の生涯がいくら苦しくても、たとえ途中で客死したとしても彼は成功した人です。彼が置かれた立場が惨めであればあるほど、来るべき歴史に栄光として記憶されるのは間違いない真実です。皆様が私と共に会ったこのことは、背後の先祖までもが全部関係しているという事実を知らなければなりません。「南北統一運動連合」が出帆する今から、有終の美を飾るために努力しながら生きていきましょう。

 分かれた南と北は、簡単に一つになれるはずがないのです。愛する国同士が戦うその過程では、夜も眠らずに、時間を超越し、難しい環境を克服することができる心の決意と実践が必要なのです。「真に共に住みたい。死ぬのも共に死に、生きるのも共に生きる――」「我々の先祖、霊界の霊人たちとも共に生きる――」。皆様がそのような教授や学生になることによって、そこから南北統一は始まるのです。

 南北統一を達成することができれば、民主世界と共産世界の統一もそこから始まることでしょう。そして、世界を代表する立場に立って、五十億の人類を代表し、三十億のアジア人を代表し、わが学校を代表し、私が教えた弟子全部を代表する立場に立って、民族の将来、世界の将来を見つめるべきです。そして、「私は、あなたがたと真に共に生きる運動を展開しよう」と誓わねばなりません。それが、聖人の道理と通じれば聖人に似るのであり、聖子の忠節を神に対して実践すれば、「神の相続者」、「み旨の後継者」になれるということを私は生涯を通して確認したので、今日皆様にこのような話をお伝えするのです。

 どうかお帰りになったら、まず家庭の中からこの運動を始めてください。そのことによってその名に恥じない結果が、この三千里の祖国全土に現れることを再三お願い申しあげながら、私の話を終わらせていただきたいと思います。ありがとうございました。






















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