文鮮明先生の平和思想
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 1
第一章 平和とは何か

一 平和の真の意味

 平和になるとは、主体と対象がお互いに一つになることを意味します。これを東洋の漢字で言えば、「平」はホリゾンタル(Horizontal)、「和」はハーモニー(Harmony)という意味です。それは、中心と相対において衝突が起こることではなく、和解することです。(八二−二三二、一九七六一・四)

 平和とは、水平になって和する、ということです。平和というものは、独りでは成すことができません。これは上下関係、左右関係、すべてが和してみなが喜ぶことができ、あらゆるものが傾くことなく円満でなければなりません。そうであってこそ平和だ、というのです。また、平和になるだけではいけません。理想とは何でしょうか。それらが回らなければなりません。回るにおいては、平面においてのみ回るのではなく、立体性をもたなければなりません。理想は立体性をもたなければならないのです。「あの人は理想的な人間だ」と言うとき、理想的人間には未来に対する思想がなければなりません。すなわち、言わば現実的な生活において平面的な生活もしていますが、理想があってこそその生活が球形を備えるのです。理想は平面的なものだけではできません。(八六―九八、一九七六・三・一四)

 平和とは何ですか。どこにもしわ一つない平らな状態のことをいいます。すべて平らなものとして和するということです。一〇〇パーセント和すれば、円形になるのです。土を混ぜて転がし続けていれば丸くなります。ぱんぱんに張って和するので、結局は最高の円形が形成されるのです。しわがなく、何であろうといっぱいに満ちないものがなく、完全に充満して円形を成すのです。(一〇九−二七六、一九八〇・一一・二)

 平和の世界とは、垣根のないことをいいます。平たく和するのです。朝に和し、夕に和し、お父さんとお母さんが和し、隣村同士で和するのです。白人と黒人が争うのではなく、和するのです。(一〇五−二二〇、一九七九・一〇・二六)

 平和とは相対的なものです。二つが和することによって平らになるのであって、「独平」ではありません。独りで幸福ですか。相手と同等の立場に立ち、お互いに好意をもってこそ幸福になるのです。「自由だ、何々だ」と言っても、愛を除いて自由がありますか。愛こそ、それが無限の自由です。愛をもってむち打つ独裁者になったとしても、それは誇らしいことです。このような驚くべき事実を、皆さんは知らなければなりません。驚くべき事実、驚くべき事実を知らなければなりません。(一一二−三二五、一九八一・四・二五)

 お互いに対等な立場、良い人たち同士や良い家庭同士は、お互いが横的に連結することができます。また、良い国同士も横的に連結することができます。ここに平等、すなわち平和があります。「平和」の「平」は水平を意味します。この「平」がなくては、「和」したとしても、その「和」はすぐになくなるのです。皆さんは、このような事実を忘れてはいけません。(三四−二二八、一九七〇・九・一三)

 虹の七色は、まだらになっていますが、それが回るときは白色になります。白色とは何でしょうか。勝利を意味します。平和を意味します。ハーモナイズ(調和する)を意味します。今まで、白人たちが世界を支配してきましたが、一つになることができずにいます。ハーモナイズを成すことができずにいます。(一二九−一三八、一九八三・一〇・一九)

 悲しみは、なぜ来るのでしょうか。私自身が平和な境地で心と体が一つになり、環境と一つになって宇宙のもっと大きな世界へ前進していくとき、和することができる位置に立つならば、そこでは宇宙が保護してくれるのです。宇宙全体世界において、お互いが連結されて共存することができる連体的作用圏を成していれば、お互いが相応することができる立場で保護してあげるのですが、そこに相反するようになるときは、必ず宇宙の力が追い出すのです。これが悲しみに連結されるのです。(一四一−二七一、一九八六・三・二)


二 平和の世界とはどのような所か

 天地創造は、不安と恐怖の世界でなされたのではなく、喜びと喜悦と満足の基盤の上でなされたのです。それゆえに、神様と心情的な紐帯を結ぶようになれば、そこがいくらサタンの巣窟だとしても、そこには神様の喜びがあり、私たちに対して神様が喜ばれるようになれば、そこから再創造の役事が起きるのです。皆さんがみ旨に対して恩恵を受ける時間が、まさしくそのような瞬間です。心にわき上がってくる喜びを抑えることができない人、細胞を通して恩恵の趣を感じる人は、誰が何と言おうと、あるいはサタンの銃剣の前に立ったとしても、平和を感じるのです。(二八−一二七、一九七〇・一・四)

 私は、意識世界を超えた創造目的の世界を願います。草一株を見ても、そこから無尽蔵な平和の感情を感じ、その存在価値を褒めたたえることを願います。見ることもそうで、感じることもそうです。人間は、たとえ小さな存在からでも、「一つの個体が動くたびに天地が動き、神様の心情が動き、永遠の生命が動くので、驚くべきことだ」という被造万物からの刺激を受け得る位置まで行かなければなりません。人間が行かなければならない所は、そのような所です。存在目的の価値とその意識が一つになった世界、私たちが感じる感覚が誰もみな同じであるならば、私たちの生命を通して、良心を越えて、心情の世界へ流れ入ってくる永遠の生命の感触は、人間的なその何をもってしても主管し得ないものです。それは、思潮や風習いかんによって左右されるものではないからです。(九−三一九、一九六〇・六・一九)

 世界の人々の心を揺り動かすときには、争いの必要がない、氏族的分裂や民族的差別がない平和の世界へ、神様が運行する理想世界への開門がなされていくのです。私たちが闘って死んだとしても、霊的には間違いなく入っていくはずであり、闘って勝利すれば、なお一層、二つの世界の天国をもって暮らす人になるはずです。

 それで、六千年前に神様と堕落した人類が共に天国の入城式をすることができなかったことを、初めて私たちによって神様を玉座にお迎えし、私たちが入城式をして神様を永遠の父母として侍り、永遠に天国の皇族となって生きるはずです。神様を私たちの父として侍り、その王宮が私たちの家となって、私たちは永遠無窮の中心の息子、娘となって生きるはずです。そこは、賛美が宿る場所であり、栄光が宿る場所であり、永遠の生命が宿る場所です。そして、永遠に平和が宿る場所です。(八六−二一四、一九七六・三・二九)

 与えながらも恥ずかしさを感じるその道が、真なる道人たちの行く道です。心から真なるものを与えても、涙を流しながら恥ずかしさを感じるその位置は、永遠の平和の境地となるのです。愛する子供に良い服を着せたとしても、それで「父母の責任を果たした」と言う父母がいるとすれば、その父母の愛は、そこで終わるのです。良い服を着せて自ら立派だと感じる父母は、終わるのであり、もっと良くしてあげたいのに、してあげることができなくて恥ずかしさを感じる父母であれば、その父母は、永遠の偉業を受け継ぐことができる父母になるのです。与えながらも恥ずかしさを感じることができる世界が天国です。地獄とはどのような所でしょうか。「もってきなさい! 捧げなさい!」と言う世界です。これを皆さんは、はっきりと知らなければなりません。(三六−八四、一九七〇・一一・一五)

 未来の世界とは、どのような世界でしょうか。争いをするための世界ですか。苦労させるための世界ですか。平和で統一された世界です。(三四−一七二、一九七〇・九・六)

 一つの創造世界、神様の人間に対する目的はIつなので、いずれにせよ、そのような世界を人間も追求しなければならず、神様も成さなければならないというのは、双方的な立場から見るとき、当然の結論です。それゆえに、今日、歴史を通して一つの文化世界、一つの主権世界、一つの平和世界、一つの統一世界を指向しなければならないということは、私たち人類や個々人の生活的な面において必要要件とならざるを得ません。(七二−一一四、一九七四・五・二六)

 人間の完成とはいったい何かというとき、簡単なことです。幸福であることです。平和で幸福であることです。それ以上は必要ありません。それは、すべてのものがいっぱいに満たされている位置のごとをいいます。もちろんその中には自由があります。また、望むものはすべて成し遂げることができるのです。(一二八−一三〇、一九八三・一一)

 愛を中心とした万世の解放圏ができることによって平和時代、太平時代が始まるのです。神様の愛を中心として太平時代が来れば、家でも、国でも、村でも、山でも、どこであろうと愛の拍子に合わせて生きる世界になるのです。それがまさしくユートピア(理想世界)です。(一三五−三三九、一九八五・一二・一五)

 統一の世界、平和の世界はどこから起こるのでしょうか。自分のために生きようとするところからは平和の世界は起こりません。私は、一生を捧げて霊界をくまなく調べてみました。あらゆる有名な教授の本や経典もすべて調べてみました。ありません! ただひたすら「ため」に生きる愛の道を求めていくところにのみ、平和の根拠があり、統一の運動が起きるのです。

 二十一世紀のビジョンとは何でしょうか。それは平和の世界であり、統一の世界であり、一つの世界です。言い換えれば、ユートピア的世界になってほしいというのが、今日、人類が心の中で描くビジョンではないだろうかというのです。それは、皆様も肯定されるはずです。また、韓国の国民においてビジョンがあるとすれば、何でしょうか。なおかつ、我が国は南北が分かれて思想的対峙を成しています。このように分断された渦中にあるこの国が、どのようにして統一されるのでしょうか。一つの国となって平和の国を成すことができるのでしょうか。これが問題となるのです。世界も、一つの新しい平和の世界、統一の世界を望んでおり、我が民族も南北統一を望んでいます。

 さらに進んで、私自身はどうでしょうか。これが問題です。いくら世界に平和が訪れたとしても、我が国が分断されて危険水位を越える立場にあるならば、我が国は世界平和とは遠い関係にあるのです。言い換えれば、国の病気を治さなければ、平和の世界とは距離が遠いのです。このように考えてみるとき、南北統一が成されたとしても、私自身において心と体が葛藤する立場にいるとすれば、統一された大韓民国も理想の国家となることはできません。したがって、世界の平和が来る前に国の平和を準備しなければならず、国の平和が来る前に個人の平和を準備しなければなりません。

 それでは、その個人的な平和の基準をどこで求めるのでしょうか。これが深刻な問題です。ここにお集まりになった高名な皆様! 皆様白身を信じることができますか。静かに胸に手を当てて自問自答するとき、その答えは「ノー」です。どうすることもできません。今日、私たちがよく言うことは、相対的な社会で不信の風潮を論ずることであり、そのような習慣性をもっているのが私たち自身ですが、私自身において不信の風潮の動機を克服しているかというときに、誰か「はい。私はしています」と自信をもって答えることができる、そのような教授がいらっしゃいますか。

 私たちの心と体は、今も闘っています。今日の私たちだけでなく、歴史性をもっている私たちの先祖も、その闘いの地獄を越えていくことができませんでした。先祖の話はやめて、今、今後来たる私たちの子孫たちにおいて、心と体の闘いの地獄を越えていき得る子孫が生まれるのかという問題を考えるとき、ここに自信をもち得ない限り、平和や理想世界や未来に来たるユートピアをうんぬんすることは妄想にすぎない、という結論が出てくるのです。二四四−一六三、一九八六‘四一二)

 「人生は苦海だ」と言います。それでは、この苦労の道はいつ終わるのでしょうか。安息の一日がこの地上に、地球星に訪れてくるのでしょうか。神様が休まれることができる日、神様が捜してこられた息子、娘を捜し出して平和の家庭を建設する日、その日から天の王宮では幸福の歌が響き渡るのです。神様が喜ばれるので大宇宙が喜び、万民、万物はすべてそれから春の日を迎え、太平の良心世界において、初めて足を伸ばして安息の歌を歌って生き得る時が来るのです。その時が、私たちが願ってきた理想世界、キリスト教で主張してきた千年王国の時なのです。(一五一−二一九、一九六二・一二・一五)

 今日、統一教会の私たちの理念とは何でしょうか。人間を第一とした世界的な主義ではありません。宗教という枠を越えて神様を第一とした一つの主義と世界を模倣し、この模倣した一つの主義と人間が世界圏内に模倣しておいた善の世界とが矛盾なくぴったり合わなければならないのです。そのようになってこそ天地が一つになるのです。天は心であり、人間は体と同じなので、体と同じこの世界が一つに収拾されて人間を中心とした善の世界となったとしても、それではいけません。神様を第一とした心と同じ善の主体が、「善の世界である」と認めることができる全体的、内的な世界が現れなければなりません。これが、矛盾、衝突なく一つの主義として完結するようになる時、天地は初めてそこから平和の世界へ向かうことができるのです。(一五三−二八、一九六三・一〇・一八)

 人類が解放されなければ、神様も解放されません。一つの家庭を見るとき、子女たちが不安で平安でなければ、父母も平安でないはずです。それと同じように、人類を一つの家庭として見れば、神様は一家の主人と同じ立場にいらっしゃると見ることができます。したがって、世界が平和な世界、一つの世界、幸福な世界になれなければ、神様も不幸で、一つになった喜びを感じることができないという結論が出てきます。(一六七−二〇六、一九八七・七・一九)

 今日のキリスト教神学の根本を解剖してみれば、「創造主は神聖なお方、被造物は俗なもの」という結論から神学の論理が展開されていることを知ることができます。「『愛の神様だ』と言うことができる根拠がどこにあるのか」と尋ねてみれば、答えることができないのです。神聖とは何なのかというのです。高いものだけが神聖なのではありません。低いものも神聖なのです。低いものだけではありません。東西南北のすべてのものが「神聖だ」と言うことができてこそ、平和の理想郷が展開されるのです。上だけ、前だけ、後ろだけが神聖だとしてはいけないのです。全体が「神聖だ」と言うことができる環境的内容を抱かなくては、その中に神聖な神様が入っていらっしゃるとしても、それ自体も神聖なものとなることはできません。(一九八−二八三、一九九〇・二・五)

 神様を愛で解放してあげてこそ、この世界に平和の王宮、愛の王宮が設定されるのです。そこから万世の伝統的国家基準の前に縦的な愛、横的な愛の一致がなされて万国と天上天下、全宇宙が愛に和動することができる、すなわち神様を褒めたたえ、神様の愛を褒めたたえることができる息子、娘、神様を褒めたたえることができる民、神様を褒めたたえることができる国、神様を褒めたたえることができる宇宙となるとき、そのようなものが地上に現れれば、それが地上天国なのです。(一七九−三三三、一九八八・八・一四)


三 神様と人類の願い、平和世界

 神様は、人間をどれくらい愛されたのでしょうか。最も愛されたのです。愛することができなくて恨を抱いた神様なのです。神様は天地万物を追っておいて、どのような世界にしようとされたのでしょうか。幸福の園、愛の園、平和の園、自由の園にしようとされたのです。それで、万世の解放の門を開き、栄光の中で万民と共に生活する父となれば、家庭においても父であり、金氏一族においても父であり、国に行っても父であり、世界のどこに行こうと父だというのです。父としての神様として生きようとされたのです。「尊厳な、神聖な神様」ではなく、実際生活において感情を備えた意味での神様として生きようとされたのです。(一五四−三二六、一九六四・一〇・五)

 今日、人類歴史は自由を求めるために数多くの戦争を繰り返してきたという事実を、私たちは知っています。個人を中心として見れば、個人もそのような闘いをしてきたのであり、家庭を中心として見ても、家庭もそのような闘いをしてきたのであり、あるいは氏族、民族、国家、世界に至るまで、いまだそのような闘いが継続しているのです。志を抱いて考える人々が、この世界が何によって拘束されているのかは分からないのですが、そこから解放され、自由の天地、平和の世界、一つの理想的世界が現れることを望むのは、いかなる人々、いかなる時代を問わず考えてきたということを私たちは知っています。そのような観点から見るとき、今日、この歴史過程に、あるいはこの地球星にいる人類は、解放を待ち望んでいるのです。

 このように、悪なる人によって拘束を受けるようになったのが今日の人類歴史であり、悪なる人だけでなく、悪なる神の前に拘束を受けた人類歴史であるとすれば、今日、私たち人間が解放を要求する立場に立ったというのは当然のことであり、解放を主唱するのは当然のことだと思うのです。それゆえに、古来どこの誰を問わず、今日の人類社会を見つめるとき、誰もが平和の一つの世界、統一された理想の世界を夢見なかった人はいないというのです。(八五―二二六、一九七六・三・三)

 今日、数多くの人々が天国を願っています。理想郷を願っています。より平和な世界を慕っています。何よりも高い平和の世界、その平和の世界はどこから始まるのでしょうか。人間の誰もが上がっていくことができる、その一番下から始まるのでしょうか、もっと上がっていって始まるのでしょうか。今日、堕落した人間世界において、努力して精誠を尽くして到達したとするその位置で終わるようになれば、その位置が堕落した世界の終着点になることはできますが、神様が創造された創造理想世界の目的地になることはできません。堕落した世界の終着点となると同時に、新しい天国の出発点となるのかは分かりませんが、それが天国の終着点となることはできないのです。(四六−一九、一九七一・七・一八)

 現在の世界を見つめるとき、このような世界のままでは、私たち人類は幸福に生きることができるとは考えられないことを、私たちは知っています。全人類が平和を望み、一つの世界を望んでいるのですが、このままではそのような世界は訪れそうにない、ということも事実です。

 しかし、私たち人間が望む一つの世界、あるいは理想世界というものは、今日、人類の切迫した願いとなっています。古来、いかなる時であろうと、人間はそのような思想をもって生きてきました。一つの世界と平和は、人類が望む切迫した希望であると同時に、これは、いずれ成し遂げられなければならないことなのです。もし神様がいらっしゃるとすれば、なおさら、このような世界をただそのまま見ていたいと思われないはずです。人が一つの世界を望むのと同じように、神様も一つの世界を望まざるを得ないのです。(五三−一二一、一九七二・二・一三)

 世界が一つになり、平和な世界、幸福な世界になってほしいということは、優れた人であろうと優れていない人であろうと、学のある人であろうと無学な人であろうと、老若男女を問うことなく、誰もが歴史を通して望んできたことだということを私たちは知っています。過去においてもそうだったのであり、そればかりでなく現在に生きている志ある人ならば、誰でもこのような心をもたない人はいないということを私たちは知っているのです。(六一−五七、一九七二・八・二七)

 私たち人間は、人生の道を歩んでいます。人間として行くことができる人生の運命の道を歩んでいくにおいて、すべて共通の目的に向かって歩んでいるのです。数多くの宗派がありますが、その宗派の目的は一つです。その一つの目的を達成することです。世界ならば世界の平和、統一世界ならば統一世界、一つの理想世界の帰結点に向かって、目標点に向かって走っているのです。したがって団体がどれほど多くても、それらが一つ一つばらばらに走ってはいけないのです。言い換えれば、指と同じです。十本の指が闘ってはいけないのです。闘っては何もできません。(六三−二〇、一九七二・一〇・一)

 神様がいらっしゃるとすれば、どこから一度歩みたいと思われるでしょうか。神様がいらっしゃるとすれば、愛する人の美しい心の世界で歩み、暮らしたいと思われるはずです。愛する人の心の中で暮らしたいと思われるのです。どのような心ですか。平和で、風が吹かない静かな水辺のような、そのようなところで暮らしたいと思われるはずです。(一〇二−三三、一九七八・一二・一〇)

 人類歴史を中心として見るとき、歴史的願いとは何かというと、人間たちが堕落しなかった本然の基準、本然の出発点がこの地上に現れることです。これが歴史的な願いです。それは、古来、数多くの預言者がみ旨の前で死の道を歩んでいきながら願ってきたことです。そのみ旨が結実し得る時が「父母の日」であり、「子女の日」であり、「万物の日」であり、さらに進んでは「神の日」なのです。これらの日は、神様が天地万物を創造して初めて喜び得る一日となるのです。神様が喜び得る日であると同時に、人間始祖であるアダムとエバが喜び得る日です。また、アダムとエバが喜び得る日であると同時に、アダムとエバの主管を受けなければならないすべての万物が喜び得る日です。すなわちその日は、神様の喜びの日が設定されるのであり、人類始祖の喜びの日が始まるのであり、それだけでなく、地上に存在するすべての万物が喜び得る日となるのです。そのようになってさえいれば、本当に嘆息圏がない自由と平和の宿る本然の世界の出発を見ていたはずです。これが創造理想でした。(五八−二〇五、一九七二・一一)

 神様は、平和と愛の園を成すために被造万物を創造されました。喜びの中で万物と関係を結ぶために万物をつくられたのであり、喜びの中で人間と関係を結ぶために人間を造られたのです。人間が争い、サタンが争う天地となることを願ってつくられたのではありません。それは、天地法度の原則から外れることです。(一−二九四、一九五六・一二・一六)

 その本然の園は、愛の園であると同時に平和の世界であり、神様の愛を中心としてお互いが仲むつまじくし、すべてが一つになる統一の世界だというのです。(二−二四三 一九五七・六・九)

 エデンの園は、自由の天国です。その天地には誰も反対する人がいません。神様だけが運行し、愛だけが宿ることができます。平和と幸福だけがある、安息の住みかがエデンの園でした。(二〇−一二九、一九六八・五・一)

 私たちが見つけたいと願っている本然の園は、幸福の園であり、神様に賛美と感謝をお返ししてさしあげなければならない世界です。また、その世界は、生命を中心とした希望の世界であり、生命と愛を中心とした平和の価値と統一の価値が実現された世界です。

 神様の愛の理想の園と反対となるこの世界は、実体的に分立と紛争が絶えることのない世界です。言い換えれば、愛を中心とした平和の理念が具現された真理の世界ではなく、サタンが寓居して天倫を破壊する世界であり、ねたみと嫉妬によって闘争と分裂が絶え間なく起こっている世界なのです。(二−二四五、一九五七六九)

 神様がいらっしゃるとすれば、神様が理想とされた真なる世界があるはずです。もし神様が計画し願われた真なる愛を中心とした理想世界がこの地上に成し遂げられたならば、その世界は、平和と愛の世界とならなければならないはずであり、統一された世界とならなければならないはずです。二九大八七、一九六八・一・七)

 皆さんが神様の愛の圏を通るようになれば、どのような気分でしょうか。春の日の香りが漂う春の園の、花という花はすべて見て、香りという香りはすべてかいで酔った気分と同じです。また、春の季節の芝生に座っているとき、綿のようなもくもくした雲から、形容することができないほどの何かを感じる気分と同じです。そこでは細胞が踊りを踊ります。細胞も呼吸をしています。それゆえに、神様の愛は、生命力をもったあらゆる存在の力の源泉であり、幸福の源泉です。喜楽や平和、人生が願うものの絶対的な要件であり、信仰の絶対的な要素となります。また、霊界に行けば神様の愛が法です。(二四−三二四、一九六九・九・一四)

 今まで、神様が六千年間復帰摂理をしてこられながら、人類に対して、「ああ、私はこのようにつらいのに、お前たちは私の悲しみも分かってくれないのだなあ」という恨みの心をもってこられたとすれば、神様のみ旨である平和の世界は成し遂げられないはずです。また、真なる場所で生きていきたいと願われる神様の願いも成し遂げられないはずです。神様は、神様御自身だけが平安であるために復帰歴史をしてこられたのではありません。(二五−九九、一九六九・九・三〇)

 人々は、もっと良い所を探してもがいています。もっと良いことの帰一点は、心が永遠に喜ぶことができ、心が永遠の生活基盤とすることができるものです。この点は変動かありません。そのような基盤の上では、主人もそのような主人でなければならず、その主人が主張する世界もそのような世界でなければならないので、世界は、一つの主人のための永遠な平和の世界とならなければならない、という結論が出てくるのです。このような理念と思想を人類と歴史、天宙、そして神様の摂理の前に立てるためのものが、今までの復帰摂理であり、救援摂理です。(一二−三一、一九六三、八・一一)

 大きなものであろうと小さなものであろうと、いかなるものであったとしても、それらはすべて天地を創造された神様の大理念圏内にあります。また、神様は、それらを愛を中心としてつくられました。そのように造られた大宇宙は、神様が見つめられて最高に喜楽を感じることができる平和の世界とならなければなりません。その目的が成し遂げられて、神様が「私は幸福だ」とおっしゃることができなければなりません。そのような目的を終結させるために、この大宇宙圏内に神様の理念があると同時に愛が宿っている、ということを皆さんは知らなければなりません。(九−一六四、一九六〇・五・八)

 神様が怨讐の前に見せてあげたいものとは何でしょうか。神様が「お前は私の愛する息子であり、私の愛する娘だ」とおっしゃることができる人間の姿です。歴史路程のいかなる人よりも愛の心情を抱き、父と息子の因縁で渾然一体となった人間の姿をサタンの前に誇りたいと思われたのです。しかし、このような神様の願いは、創世以降、今日まで成し遂げられることかありませんでした。

 全世界の人類は、神様の息子、娘として自由と平和があふれた幸福の園で、神様と共に神権擁護と神人平等を謳歌しながら楽しく生きなければならなかったのですが、今、嘆息と絶望の中で苦しんでいます。希望の主体であられる神様を妨げている怨讐、良心の道を混乱させるその怨讐に捕らわれて苦しんでいるのです。(一一―二五、一九六〇・一二・一一)

 正常な本然の法度に従って、新しい天地の運勢がこの地球星に宿るようになるその時が、まさしく主が来られる時です。主を迎えて目的の世界で楽しむことができ、平和の歌で幸福を万宇宙の前に高らかに誇ることができるその生活が、まさしく天国生活なのです。二六−一四〇、一九六六・一・二)

 復帰摂理過程の中で、試練と塗炭の苦しみの中でうめいている人類をつかんでもがいてこられた神様でいらっしゃるがゆえに、神様は、憂いの神様であり、不安の神様であり、心配の神様であらざるを得ません。そのような神様に私たちの事情を訴えたとしても、その神様は私たちを平和の解放圏内に移すことができないのです。ですから、神様の精誠と私たちの精誠を合わせようというのです。そのようにして、今解放を迎えるのではなく、この時代を過ぎて今後創建する天国に対する理念を見つめて進んでいこうというのです。この天国は、神様が人類を救援しようとされる摂理の目的となり、堕落した人類が指向する目的となるのです。それゆえに、皆さんに「精誠を尽くしなさい」と言うのです。(一七−一一三、一九六六・一・一一)

 今後、人類を再び生んでくれる日が来る、その時が世界的な終わりの日です。出産と同時に息子、娘が生まれるようになるのです。ところで、息子、娘が生まれるためには、天地の万物が神様の圏内に入っていなければなりません。人間を創造される前に天地万物を創造されたように、真の子女が生まれる前に外的な天地が形態を整えて、必ず神様が支配することができる外的な世界を形成しなければならないのです。それゆえに、目下、世界のあらゆる思潮は、一つの世界を指向しつつあるのです。最高の理想世界、天国理念を中心とした世界、平和と統一を謳歌し、幸福と愛を謳歌することができる世界を指向しつつあるのです。(一二−二二七、一九六三・五・一五)

 神様は、人間を造られるとき、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また心血と御自身の生命の核心をすべて傾けて造られたのであり、愛と愛情をすべて注がれて造られたのです。いかなる力をもってしても、離そうとしても離すことができず、分かれようとしても分かれることができない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間なので、そのような人間を見つめられる神様には、初めて平和が宿ることができるのであり、すべての情と幸福は、その人間を通してのみ宿ることができるのです。

 永遠不変な愛の因縁の中で造られた人間は、平和の中心となり、核心となることができる存在です。そのようになることができる自信をもって天下万象をすべて抱き、愛さなければなりません。父と息子、娘が手に手を取って心情が深く通い合う中で、「アダムよ!」、「はい、お父様!」としながら、天地のすべてを相続してあげ、それを受けることができる一時を、神様はどれほど待ち焦がれたでしょうか。このような場をもちたいと願われたのが神様の願いでした。しかし、このような願いの一日、神様が待ち焦がれた願いの一日を成すことができないまま、人間は堕落してしまいました。すなわち、そのような愛の懐を憧憬していたアダムとエバが堕落して死んでしまったのです。神様の愛であり、喜びのすべてであったそのアダムとエバが、堕落によって死亡世界へ落ちてしまったのです。死んだというのです。(二〇−二〇七、一九六八・六・九)

 今日、私たちが行かなければならず、全人類が絶対的に行かなければならない所、そこはどこですか。神様の恨を解いてさしあげることができる所を探して、喜びと希望の日を成して神様の前にお捧げし、心情的な基準において先祖の位置に立たなければなりません。そのような位置を決定しなくては、この世界にいかなる心情の安息の場もあり得ません。それが決定されなければ、平和と幸福の基盤は地球上に現れないのです。(一五−二一八、一九六五、一〇・一〇)

 私たち統一食口(家族)の願いとは何でしょうか。復帰の家庭となることです。私たちの願いもここであり、万国の平和の起源もここであり、天上天下の幸福の基点もここであり、神様の摂理の基点もここであり、天と地がひっくり返る天地開聞の基点もここであり、あらゆる人生の価値の根源もここであり、希望の出発もここです。すべてここです。それでは、復帰家庭の中心とは誰でしょうか。真の先祖です。真の先祖は父と母です。(二一−四六、一九六八・九・一)

 今日、私たちの恨とは何でしょうか。アダムとエバがエデンの園で、真なる父と母として、真なる家庭を成して歴史を出発することができなかったということです。これは、人類の恨である前に神様の恨です。神様が人間を造られた目的は、そのような家庭を立てて、この地上に平和の王国を創建することでした。それにもかかわらず、その家庭が壊れていくことによって、神様は六千年という長い歳月の間、恨を抱かれ復帰の歴史を繰り返してこられたのです。その過程で、恨の峠道を数えきれないほど踏み越えて今までの歴史を成してこられたということを、皆さんは知らなければなりません。(二一−五一、一九六八・九・一)

 この地上で真なる息子、娘を中心として、真なる家庭と真なる氏族、真なる民族、真なる国家をつくって世界平和の王国を成さなければならなかったのですが、そのみ旨が破綻したので、二千年を延長して新郎の男性アダムの前に新婦の女性エバを再び捜し出し、一日を成すために来られるのです。父と母が事故を起こしたので、本然の父と母の基準を備えなくては、神様の前にあいさつをすることができなくなっているのです。(二二−一六、一九六九・一・二)

 平和の福地の園を建設するためには、男性と女性が理想相対を中心として幸福の基盤である神様の祝福家庭を成さなければなりません。したがって、全面的な進撃をしようというその目的は、家庭を中心として神様が喜ぶことができる平和と安息の基盤を備えようということにあります。(二一−三三六、一九六九・一・一)

 人類は、今の位置から抜け出て、より優れた自由と平和と統一の世界、すなわち一つの世界を追求しているのです。したがって、私たち自身も、今後近づいてくる希望の世界のために、より優れた人格を追求しなければならないのです。ここで新たに感じなければならないこととは、私自らがより価値的な存在とならなければならない、ということです。このような問題を私たちは知らなければなりません。(三二−二一〇、一九七〇・七・一九)

 皆さんは、皆さんの家庭の息子、娘が貴いと感じますか。皆さんの愛する夫と妻が貴いと感じますか。神様は、それ以上に私たちを愛していらっしゃることを知らなければなりません。夫が妻を愛する以上に愛したいと思われる心が神様の心であり、妻が夫を愛する以上に愛したいと思われる心が神様の心です。皆さんが父母の立場で愛をもって平和の園、自由の園を訪ねていきたいと思う心が、すなわち神様の心です。(三二−三三八、一九七〇・七・二八)

 皆さんは、この民族を平和の王宮の前に立てて万民の祭壇を備え、悲しみをつづってきた歴史を清算していこうという天宙史的な開拓者となり、天の勇兵とならなければなりません。このような使命が、今日、私たち統一教会の信者たちの前に置かれていることを知らなければなりません。(三二−三四一、一九七〇・七・二八)

 夫婦の愛を通して一つになることによって、そこに神様と同じ立場から創造の能力を果たすことができるのが子女だというのです。その赤ん坊を生んで、神様がどれほど喜ばれたのかを私たちに感じさせるために、子女に対して愛することができる心を与えられたのです。このように見れば、神様は最も良いものを私たち人間の前に、すべて注いでくださったというのです。このように、永遠であられる神様の愛と一つになって、幸福と満足の中で、平和なエデンで生きるように私たち人間を造られたのです。そのようになることによって、絶対的な神様の前に、私たち人間は神様の愛を中心として永遠に相対となる立場で、別れようとしても別れることができない幸福な人として生きるのが人間の本然の姿であった、ということを私たちは知らなければなりません。(五七−三一九、一九七二、二・三)

 父のみ旨とは何でしょうか。アダムとエバが神様の愛を受け、完全に一つとなって父と共に家庭を築き、それから氏族を成し、民族を成し、国家を成し、世界を成し、天と地が平和の天国となって、神様をその国の王として迎えることを願ったのが、また私たち人間がそのように迎えようとしたのが父のみ旨です。(五七−一五三、一九七二・五・三)

 今日、世界で生きている全人類は、本当に混乱の渦中でうめいています。進もうとしても、それ以上進むことができず、未来像をつかむことができない実情圏内で私たちは生きているのです。それゆえに、この人類に「あなた方の願いは何か」と尋ねてみれば、「一つの世界となり、平和の世界となり、統一の世界となることだ」と答えるでしょう。それは、地球星に暮らしている人類ならば、共通した答えとならざるを得ません。

 さらに南北が対峙した立場にいる韓民族は、南北統一を願うでしょう。いくら世界に一つの理想世界が実現したとしても、南北に分かれた国家の悲運をもった民族がいるとすれば、その民族は、理想世界とは関係をもつことができないのです。もし自分の国が理想的基準に立つことができなかったとすれば、世界がいくら理想圏に立ったとしても、その民族は、世界の平和と関係がないのです。さらに下の段階に行けば、いくら国が一つになったとしても、私たち個人において、心と体に葛藤があって平和の基準をもつことができなければ、国が平和の基盤を成したとしても、その個人は、国の平和と関係をもつことができないのです。したがって、平和世界を成す前に平和の国を成さなければならず、平和の国を成す前に平和の個人をいかにして設定するのか、ということが基本的な問題として登場したと考えざるを得ません。(一四三−一四四、一九八六・三・一七)

 神様は、私たち人間をこの上なく愛されて天地万物をつくられました。六日間でつくられたいかなるものよりも、人万人を第一にして、その栄光とその願いとその厚い心情を中心として造られたということを、私たちは知っています。その人間万人が成長して願いを成就することによって、幸福を謳歌し、平和の家庭を築いて神様と共に暮らすことを神様はどれほど願われたかを、私たちはもう一度考えなければなりません。(一五四−二五三、一九六四・一〇・三)

 今まで、曲折と恨多き歴史的な因縁を知らなかったので、世の中がこのようになったのです。それで、この歴史的な恨を解かなければならないのです。天と地の恨を解き、人類の恨を解き、神様の恨を解かなければ、平和の世界は来ません。来ることができません。いまだ神様が手を挙げ、「万歳! 勝利した。万民よ、私と共に喜べ」と喜色満面して、その息の音に天下万物がすべて巻き込まれ、その笑いの波動があふれるその一日を迎えることができませんでした。(一五四−三三九、一九六四・一〇・五)

 本郷の地と本郷の祖国とはどこでしょうか。祖国とは、もちろんある特定の二国家的な基準になるのですが、神様が探してこられた人類の祖国は、この地球星です。この地球の人類が願う祖国です。神様が願われる人類の祖国です。過去に、数多くの私たちの歴代先祖が犠牲の道を歩んでいきましたが、彼らが天の前に訴えた願いとは何ですか。「願いの祖国の一時が早く来てください」ということでした。天の二国家を立てることによって、今まで天の前に怨讐であった大サタンを審判し、悪を除去してしまい、善だけを中心として一つの平和の天国をこの地上に成し遂げておかなければならないのです。それが神様の願いであり、イエス様の願いであり、今までの摂理路程において、非常に大きな貢献をした私たちの先祖の願いであったということを、私たちははっきりと知らなければなりません。(一五五−三二八 一九六五・一一・一)

 地球上に生きている五十億人類は、一つの統一された理想世界を望んでいます。人間であれば誰でも、これを願わない人はいないと思うのです。また、人間以外に真なる神様がいるとすれば、その真なる神様もこれを願うはずです。真なる神様とは天のお父様のことをいうのですが、天のお父様は絶対者であられ、全能であられるお方であり、あらゆる所に存在されるお方なので、そのお方が願われるならばできないことかありません。また、そのお方が願われるならば、ない所から創造なさることもでき、可能でないことがないといわれます。そのような絶対者の願いが、人類の平和と統一が成し遂げられた世界だというのです。(一七三−一二二、一九八八・二・一四)

 私たちは、深刻な道徳的混乱、世界紛争、環境問題、犯罪等で彩られた二十世紀を清算し、希望の中で二十一世紀を迎えなければならない歴史的な大転換期に立っています。人類は、戦争と苦痛がない平和の世界を渇望しています。しかし、希望よりも、逆に次第にひどくなっていく物質万能主義の傾向とともに、国家権力と宗教が正しい影響を及ぼすことができない中で、青少年たちの退廃、家庭破綻、麻薬とエイズ等は人類の将来をより一層暗くしています。高度に発達した科学技術も、便利な情報通信の発達も、経済開発と政治的努力も、人類の幸福と、真なる家庭を通した平和な世界をもたらすことができずにいます。(二九四−〇六一、一九九八一六・一一)


四 平和の根源は神様

 今まで人類は、永遠で変わることのない真なる愛と理想と幸福と平和を追求しない時がありませんでした。しかし、現在においては、皆さんもみな知っているように、反目嫉視し、変化の激しい現世においては、このような私たち人類が追求してきた理想的な愛、幸福、平和の要件を探すことのできる希望を喪失していることを、私たちはよく知っているのです。それだけでなく、今は袋小路に直面し、壁にぶつかって自ら窒息している状態にいるということを、私たちは直視しているのです。

 このように、人間は様々な努力をしてみたのですが、人間が真に要求する真なる人や、真なる理想や、真なる幸福や、真なる平和といったものを願ったにもかかわらず、そのような要件を成就することができる希望さえ喪失してしまった悲惨な実情におかれている、ということを私たちは知っているのです。ここで私たちが知ることは、この変わる人間像を超えて、永遠でもあり、不変でもあり、絶対的であるそのようなお方がいらっしゃるとすれば、そのお方こそ私たちが知っている神様であらざるを得ないことです。神様がいらっしゃるとすれば、その神様は、私たち人類が願う真なる希望の中心であり、真なる幸福の中心であり、真なる平和の中心であり、真なる愛の中心であり、真なる理想の中心とならざるを得ません。神様は、愛の王であり、理想と幸福と平和の王とならざるを得ないのです。このような神様と私たち人間が同じ願いの基準、同じ希望の位置、苦楽を共にすることができるこのような位置に入っていくためには、神様を中心として、真なる愛がどこから始まり、真なる理想と真なる幸福と真なる平和がどこから始まるのか、その根源をはっきりと知らなければなりません。それを知らなければ、私たち人類が願う、このような理想的要件を成就させることはできないと思うのです。(七七−一八〇、一九七五・四・六)

 神様を主体として侍り、神様を父として侍ることができる立場に立った人間自身であることを発見するようになるとき、そのお方の愛の対象、そのお方の理想の対象、そのお方の平和、幸福の対象となることができる人間が永生するという事実は、最も理論的な結論です。今日、この地上に住んでいる人々がただ七、八十年生きたのちに、何だかんだと暮らしたのちに逝ってしまう人間で終わると思ったならば、それは誤った認識です。神様は永遠であられ、人間はそのお方の永遠なる対象の位置に立ち、その子女の位置にいるので、人間も永生しなければならないことを知らなければなりません。

 今、皆さんは、神様を主体とし私たち人間を対象とした、主体と対象の関係を知りました。今、もうT歩踏み込んで問題となるものは何でしょうか。知恵の王であられる神様がここで考えざるを得ないことがあるのですが、それは、神様御自身を中心として見るとき、どこに真なる愛や真なる理想や真なる幸福や真なる平和といったものの起源をおくのか、ということが問題とならざるを得ないのです。

 今、問題は、真なる愛の起源をはっきりと知らなければならない、ということです。真なる理想、真なる幸福、真なる平和の起源をはっきりと悟らなくては、新たに悟ることなくしては、永遠であられる神様の愛、理想、幸福、平和を、私たちが同参して成すことができないのです。それゆえに、いかなる位置にこのすべてのものの起源をおくのかということを、知恵の王であられる神様は、問題視せざるを得ないというのです。

 それゆえに、知恵の王であられる神様がこの幸福の起源をいかなる道におくのかという問題を考えるとき、主体となられる神様御自身も、対象のために存在することができる道に、真なる愛、真なる幸福、真なる理想、真なる平和の起源をおかざるを得ないというのです。(七七ー八五、一九七五・四・六)

 人間始祖アダムとエバとは、どのような人でしょうか。体をまとった神様です。その心に神様がいらっしゃるのです。このように内的な主人と外的な主人の二人がお互いに万事一致して宇宙の平和の基準となり、幸福の絶対安定基準となって、そこから天下の幸福をすべてはかりに掛けるようになっているのです。(四〇−三四六、一九七一・二・一一)

 果たして、この世界的な大混乱を収拾する真なる解決方案はないのでしょうか。人類は、このすべてのことを断念し、滅亡の日を待たざるを得ないのでしょうか。決してそのようにすることはできません。問題の根本的な解決方案があるのです。その解決方案は、絶対神(神様)の実存を前提とした解決方案です。それは、絶対神がこの地上に実現しようとされた世界が、まさしく混乱のない平和の世界だったからです。したがって、神様の実存と神様の創造を認めなくては、今日の世界問題の解決は不可能なのです。これを言い換えれば、今日まで人間がこのような神様の実存と創造目的を知らなかったので、今日、大混乱の世界をもたらしてしまっているのです。

 神様が地上に実現しようとされた世界は、真なるユートピアであり、自由と平和と幸福が充満した世界です。このようなユートピアの理想を胸に抱き、神様は今日まで切ない心で地上人を捜してこられたのであり、人間は人間なりに混乱の中で苦痛を受けながらもユートピアを探し回ってきたのです。与えることができずに切なく思われる神様の理想と、探し回る人間の理想が同じなので、神様と人間が相まみえるようになれば、ユートピアはすぐに実現するようになっていたのです。それにもかかわらず、その神様と人間の出会いが全体的分野においてなかったので、人間は長く苦痛を受けてきたのです。(一二九−三二七、一九八三・一・二・一四)

 神様は、どのようなお方でしょうか。愛の神様です。それでパウロは、「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう」と言ったのです。キリストの中にいる神様の愛、キリストも神様の愛がなければ何でもありません。したがって私たちは、神様の愛を何よりも好むのです。その神様の愛は、生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。皆さんが霊的体験をしてみれば、これを知ることができます。

 平和の世界を人間だけで夢見るということ自体には、望みがありません。今日、世界の混乱相を見つめるこの天地において、「平和だ」、「統一だ」と言って一つの世界を夢見るということは妄想にすぎないというのです。しかし、神様がいるとすれば、それは可能です。(一二一−二八四、一九八二・一〇・二九)

 全知全能であられる神様が今まで数万年の歴史を通して人類を導いてこられたのですが、どうして善の目的を成すことができる世界へ導くことができず、終局に来ては、このように失望と絶望の世界へ向かわざるを得ないようになったのでしょうか。これは深刻な問題です。「神様はいない」と断定することができる内容にもなるのです。神様がいないとすれば、私たち人間が願う理想や、あるいは平和の世界、人間たちが追求していくユートピア的内容が、未来において可能なものとして人間たちの前に迎えられるのでしょうか。今まで、長い歴史路程を通して、考える人、あるいは無数の哲人がそのような世界を追求したにもかかわらず、それに達しないで現在にとどまっているという事実を見るようになるとき、私たちの未来にそのような希望の世界をもたらしてくれるとは考えることができないのです。(一三〇−八、一九八三・一二・一一)

 洋の東西を問うことなく、人間はたとえ罪悪と不信と混沌の中に生きているとしても、永遠で真なる愛と理想と幸福と平和を激しく願ってきました。悪を指向する欲望の誘惑を退け、善を追求する欲望に従って本心が喜ぶ幸福を見つけようと、ありとあらゆる努力を尽くしてきました。歴史を通した人類の経験では、このような目的を成就することは不可能だという結論が出て余りあるのですが、人間の本性は、これを簡単に放棄することはできません。民族と伝統に関係なく、人生が追求する究極は、一つの道であることを知ることができます。

 この目標の成就が人間の力だけでできないとすれば、私たち人間を超えて永遠で真なる絶対者を探し、そのお方に依存せざるを得ないはずです。私たち人間は、自らの有限性を知っている唯一の存在です。人間は、自分自身を超越して自らの運命を開拓していくことができないので、これをすることができると思う対象者、すなわち神様に依頼するようになっているのです。その神様が真なる愛、真なる理想、真なる平和と幸福を願われるとすれば、そのお方を通してのみ、これが可能になると思うのです。神様を通して人類が追求してきた理想的要件を成就するためには、そのお方が提示する内容を私たちが知って、具体化しなければならない、という結論に至るようになります。

 神様がこのように人生の背後で作用してきた超越的な力とその関係性は、もし人類が願いさえすれば全体に通じるものなので、人生が進むべき道は二つとはなり得ないのです。個人の道がそうであり、その理想的な個人が成す家庭の道、国家、世界の道もまたそうなのです。すべての道は、絶対者、神様が理想とされる愛と幸福と平和の世界を指向するのです。

 愛や理想、幸福や平和という言葉は、一人では成立しない言葉です。これは、必ず相対的関係において成立する言葉なので、絶対者であられる神様であったとしても、その理想は万人では成すことができないのです。(一三五−二一八、一九八五・一一・一六)

 今日、全世界の人類は、自分たちでも分からないのですが、平和の世界、幸福の世界を追求しています。それと同時に、自由を追求しているという事実を、私たちは知っています。これはすなわち、根本的な自由の基盤の上に立つことができず、平和と幸福の根本となる位置に立つことができなかったためだということを証明することです。

 もし神様がいらっしゃるとすれば、そのお方は絶対者であられ、全能であられるお方なので、そのお方によってつくられたすべてのものは言うまでもなく、その神様が自由であられるならば、そのお方と共に私たち人間も自由でなければならず、神様が平和な位置にいらっしゃるならば、私たちもそのお方と同じ位置に立たなければならないと思うのです。

 私たち人間世界に自由と幸福と平和がないという事実は、すなわちこの被造世界、この宇宙を創造された主人がいらっしゃるとすれば、その主人が自由でなく、幸福でなく、不幸な立場にいるというのと同じだという事実を、私たちは推察することができるのです。このようなことを、今日、宗教界では「堕落した」と言うのです。堕落とは何かというと、本然の基盤から落ちた、完全となり得る位置から不完全な位置に落ちたのと同じだというのです。

 愛によって生まれた人間自身が行かなければならない道は、父母の愛から始まって父母の愛を受けながら成熟し、そして夫婦の愛で、またその次には子女を生んで愛しながら行かなければなりません。しかし、私たちの人生が幸福と平和と自由を完成した家庭基盤となることができずにいる、ということを私たちは知っているのです。(一三五−二六六、一九八五・一二・一五)

 絶対的な神様は、悪神を屈服させなければなりません。屈服させるにおいては、今日、私たちが言う「武器」でするのではありません。これは、天地の大原則を中心として悪神の起源を暴かなければなりません。本来、絶対的な神様お一人がいらっしゃったのですが、そこに悪神が生まれたというのです。もし悪神がもともといたとすれば、一元論が二元論になってしまうのです。そのように、根本が二つから出発したという歴史的起源をもったとすれば、その世界には一つの世界や理想世界や統一世界といったものはあり得ません。常に対立した闘争の結果をもって世界は前進せざるを得ません。一つの世界や理想や平和といった、このような定着した理想型を描くことはできないと思うのです。

 今日、唯物論を中心とした共産世界は、「神はいない」と言います。神様は人間が捏造したものであると考えているのです。もし悪魔がいるとすれば、その悪魔が唱えることができるただ一つの世紀末的な最後の主張は、「神はいない」ということです。「神はいない」と主張したとおりに世界人類が従っていくようになれば、いくら絶対的な神様が一つの平和の世界を描いたとしても、それは成すことができないと考えるのです。(一四九−八六、一九八六・一一・一七)

 皆さんは、「神様はいない」と言いますが、神様がいなければ、偽の神様でも立てて世の中を収拾しなければならないのです。偽の神様でも立てなくては、民主世界を収拾することができず、退廃的な世の中を収拾することができません。神様がいないとしても、仮想的にでも「神様はいる」としてこそ、現在の人類の運命を延長させることができるのです。その神様がいるとすれば、仮想的神様から神様がいるということを発見するならば、世界は生き残るのですが、神様を否定するならば、すべて淪落に陥ってソドムとゴモラのように自滅するのです。今がその時です。仮想的な神様、その神様は仮想的であって絶対的ではありません。全人類の心の中心とならなければならないのですが、そのようにしようとすれば絶対的な愛、絶対的な倫理道徳を主張していかなければなりません。それは宗教と通じるのです。仮想的神様から本物の真の神様を発見する時までは、このようにでもすることによって人類が残るようになるのです。今回、このような内容を提唱しようと思います。(一六四−二九四、一九八七、五・七)

 神様が平和の教育材料をこの地上の人間たちの前に教えてあげようとすれば、どのような材料を求めるでしょうか。愛の材料を求めるはずです。愛の材料を求めようとすれば、愛という言葉、それは目に見えないので、愛をもった男性と女性を求めるはずです。それは必然的な帰結です。自分の体以上に女性が男性を愛することができる、そのような概念をどのようにして発掘するのでしょうか。これが問題です。統一の起源、平和の起源をどのようにして探していくのか、という問題が重要です。それを可能にすることができる力がなければならないのですが、その力が愛だというとき、その愛をもって自分の位置を否定して相手の位置を高め得ることを、理論的に何を追求することによって立てなければならないのかというのです。

 創造当時、神様も愛ゆえに創造したという論理を立てなければ、統一的平和の起源を発見することはできないのです。それゆえに、愛の前に、神様も絶対服従です。「あー、神様は絶対者なのに、愛の前に絶対服従とは、それは何だ」と言うかもしれませんが、神様は絶対愛の主体なので、愛の前には絶対服従するのです。(一九三一一五三、一九八九・一〇・三)

 何によって人種の塀を壊して理想世界を成し、どのようにすれば平和のつまずきの石を根本的に除去することができるのでしょうか。一族会議の時だけでも各人の意見がどれほど入り乱れ、一つの家庭の中でも和合がどれほど難しいですか。どこからであろうと、解決の糸口は必ず探さなければなりません。また、世界の相違した文化と伝統を調和させて、戦争のない人類一家、幸福な世界への出発点は果たしてどこでしょうか。人類が万有の根本であられる神様に対して各自の始原であり、根であるということを自覚し、天理に従うただ一つの道において根本解答を探さなければなりません。(一九〇−三二〇、一九八九・六・二三)

 人はみな、自分が世界一になろうと思うのです。皆さんは世界一になりたくはありませんか。それはどこに行って満たすのですか。人間世界では満たすことができません。それがある限り、平和の世界はあり得ません。高い位置に行くためには競争心というものがあるのです。それを取り除くことができますか。それがなぜなければならないのかを知らずにいるのです。そのような本性的な素性を中心として整理しなければならない問題がかかっているのに、それが解決できないことによって「神はいない」と否定するようになったのです。(一七七−六〇、一九八八・五・一五)

 自由と平等、すべてが実現された真なる平和世界の実現は、真の愛の根源である神様を探し、神様と一つになることによってのみ可能なのです。

 人類が希求する真なる平和の世界は、上から下に成し遂げられるものでもなく、下から上につくられるものでもありません。神様を中心としてすべての個人が真なる家庭を築き、神様に侍って生きるとき、初めて自由で平和な永遠の世界が建設されるのです。(二七一−九〇、一九九五・八・二一)

 三大主体とは誰でしょうか。神様です。神様は主人の中の主人であり、神様は父母の中の父母です。根です。神様は師の中の師です。これは、全日成の三大主体思想ではありません。創造理想を中心として、愛を中心とした三大主体思想は、主人思想、それから父母思想、それから師の思想です。国で比較すれば、父母は家庭にいて、師は学校にいて、主人は国にいるのです。これをどのように連結させるのかという問題、愛で和するようにさせるその論理的な何かがないのですが、統一教会は論理的内容を備えているので、国家に適用すれば国家の平和の世界、世界に適用すれば世界の平和の世界、天地に適用すれば天地の平和の世界が真の愛を中心として訪れるのです。(二一九−一七〇、一九九一・八・二九)

 神様は、真なる平和の世界を再び探そうとされています。言い換えれば、創造本然の世界を復帰、または再創造しようとしていらっしゃいます。ここで私たち人類は、真の平和に対する希望をもつことができるのです。神様は人間一人一人から邪心を追い出し、御自身が住むことのできる聖殿に復帰しようとされているのです。

 それゆえに、世界平和は一個人個人の完成から始まります。一個人個人が神様の聖殿として完成した人間とならなくては、世界平和は芽生えません。世界平和の出発点は、まさしく皆さん一人一人なのです。(二一九−一一七、一九九一・八・二八)

 私たちは、心の世界を代表する宗教自体が平和世界を成すための主体的責任を全うできなかったことを反省しなければならないと思います。宗教が現実世界を指導し浄化する生命力をもつことができず、むしろ本来の使命に逆行しているということを否定できないはずです。

 私が知っている神様は、人間が論理を整えて集大成した教理内容に執着しません。神様は、私たちすべての父母であられ、根源者であられるので、真の愛を中心として人種と宗派と文化を超越していらっしゃり、差別をしません。したがって宗散人は、当然、万民救援とともに平和理想世界を実現しようとされる神様の真の愛のみ旨に、完全に従わなければなりません。宗教は、現実に安住することなく、生きていらっしゃる神様と共に、真の愛と真の生命力のある対話をしていく、生きた信仰の道を歩んでいかなければなりません。(二一九−一一〇、一九九一・八・二七)

 宇宙の存在の根源は何でしょうか。絶対的な存在ではなく、絶対的な存在を一つにすることができる絶対的な愛が宇宙の存在の根源となり、起源となるならば、この天地は平和の世界を造成し得る、という結論を出すことができるのです。そのような愛ゆえに、すべてのものが宇宙に存続し始めたという結論を出せば、愛ゆえに平和と理想も顕現するという論理は自動的に発生するのです。(二一五−二二九、一九九一・二・一八)

 いかなる聖人においても、「心と体の統一が万事統一の基本となる」ということを主張した人はいません。「家和万事成(家庭がむつまじければ万事うまくいく)」と言ったように、家が和合すれば万事が成されるということは事実ですが、和合しなければならないそのお父さんとお母さんの心と体が和合しているのかというとき、そうではないというのです。十人が暮らせば十人の心と体が和合してすべてが一つとならなければならないはずですが、サタン世界では十人の心と体が闘っているので、二十の輩になっているというのです。そこに平和があるはずはありません。

 それでは、なぜこのような輩に分かれるのでしょうか。体は体が願うままに行こうとし、心は心が願うままに行こうとするので、方向性が東西南北に三六〇度異なります。ある人は物質を中心として心と体が分かれており、ある人は名誉を中心として心と体が分かれており、ある人は権力を中心として心と体が分かれています。このように、自分の嗜好を中心として心と体が闘争する方向を経るので、その環境では平和があり得ません。平和の起源は一から始まるのですが、その一つの起源となるものが何かというと、一人のお方である神様です。その神様の主義を中心とした神側の家庭、神側の人です。神側の人とは、心と体が一つになった人のことをいうのです。(二一三−〇一一、一九九一・一・一三)

 先生がすることは、大韓民国の民として大韓民国の人々がすることとは異なります。きょうのみ言の題目は「私の国の統一と世界平和」です。統一したその私の国も、世界平和圏内に入っていかなければなりません。それゆえに、先生が主導することは、世界平和のためのものです。その平和は、ある教派を中心とした平和ではありません。今までの歴史時代における宗教圏の伝統でもありません。非宗牧園が願う伝統でもありません。神様を中心とした天の国の伝統を受け継いで、この地上に着地しなければならないというのです。(二○四−一六六、一九九〇・七・八)















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