文鮮明先生の平和思想
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 1

第二章 平和はどのようにして成し遂げられるのか

一 人間の堕落と復帰、そして平和世界

 人間が堕落したその日から、この地上には苦痛と悲しみと悲惨の歴史が始まったことを私たちは知っています。これは、創造当時に神様が計画された本来の目的ではありません。神様もこのような世の中は願われなかったのであり、人間もこのような世の中に生まれて生きることを願いませんでした。そのようなわけで、神様はこの悲惨な歴史、悲しく苦痛な歴史を清算し、本来願われた平和の世界、幸福の世界、自由の世界、善の世界を取り戻すという目的を立てられ、この堕落した世の中を収拾してこられているのです。これがすなわち復帰の道であり、救援摂理の道なのです。(一四−四七、一九六四・五・三)

 真なる理念をもたなければならない人間が真なる理念をもつことができず、幸福な環境で暮らさなければならない人間が幸福の園を失ってしまいました。自由と平和を謳歌し、さらには、私の心情に染みわたる幸福の全体要素をもって、創造主の前に栄光をお返しする人間とならなければならなかったのですが、そのような人間となることができませんでした。このようなことを考えてみるとき、これよりもかわいそうなことがなく、これよりも悲しいことがない、ということを私たちは先に知らなければなりません。(六−二六八、一九五九・六・七)

 死亡の歴史がこの地上に始まったその日から、この地は、平和の地ではなく苦痛の地となったのであり、死亡がこの地上に腐食したその日から、人間が対するすべての所において、平和ではなく争いの歴史路程を経てくるようになったのです。個人においては個人的な争いがあったのであり、家庭においては家庭的な争いがあったのであり、またこの争いは民族的な争い、あるいは世界的な争いとして広がり、世界中どこでも争いがない所がない、そのような歴史を経てきた、ということを私たちは知らなければなりません。(四−一八九、一九五八・四・二〇)

 人間始祖アダムとエバから生まれたカインとアベルは、神様の愛を中心として生まれた息子、娘ではありません。アダムとエバは、神様のむちによって追われ、追い出された私たちの先祖です。そのような人が私たちの先祖だというのです。本来、アダムとエバは神様から、「愛するアダムよ、愛するエバよ、万宇宙の創造目的の世界、愛の園を建設するために、私はあなた方を追ったので、あなた方は平和の王であり、幸福の王である」という祝福を受けなければなりませんでした。この地上において、ほかのいかなる存在も王となることはできません。私たちの先祖だけが王とならなければならなかったのです。アダムが千秋万代、永遠無窮に地上の王として、天上の王として立つことができたはずです。天地が生じ、神様と人の因縁が生じたのちに、初めて「王」の名をつけることができたその方が誰かというと、ほかならぬ私たちの先祖アダムだというのです。(九−三一七、一九六〇・六・一九)

 サタンは、私たちの真の父母を蹂躙したのであり、私たちの真なる家庭、真なる兄弟を蹂躙したのであり、真なる氏族、民族、国家、世界を蹂躙したのです。その上、今まで神様を苦難と逆境に追い込んできた張本人です。私たちは寝ても覚めても、生命の切れる時まで、天宙史的な恨みを残したこの怨讐を撃退し、神様が願われた平和の世界、愛の世界、幸福の世界を神様の前に成し遂げてさしあげなければなりません。これが子女となった私たちの責任であるということを知っているので、このために決起しなければなりません。(一三−二四五、一九六四・三・二九)

 本来人間は、エデンの園で、神様を中心として永遠の自由と理想と平和を享受しながら生きなければならなかったのですが、人間始祖アダムとエバが堕落することによって、そのような本然の世界は成し遂げることができませんでした。このように堕落したアダムとエバの子孫が私たちなのですが、本然の世界を指向する本心があるので、私たちは神様が願われる世界に向かってきたのであり、私たちのその願いは、行かざるを得ず、向かわざるを得ない理想として残されたのです。

 もしその一日が天地に訪れないのであれば、言い換えれば、天地を動かすことができる一つの中心存在、そしてその中心存在を中心として共に動くことができる存在が現れ、天と地が一つとなって一つの目的を指向しないのであれば、この地上には、真なる自由と平和と理想が成されることはありません。そのようになれば、人間は、宇宙的な運命の蕩減復帰の歴史過程から抜け出ることはできません。

 このような事情があるので、神様は、私たちに栄光としてお訪ねになることができないのです。また、平和と自由と理想として訪ねてこられることもできないのです。逆に、祭物の峠を中心として私たちを訪ねてこられるしかありません。このような事実を、今日、イエス様を信じる信徒たちは知らずにいます。(二−一一一、一九五七・三・一〇)

 堕落した人間であり、堕落していないその本然の状態と神様を失ってしまった人間であり、神様を失っていないその位置と人類の真の父母を失ってしまったので、真の父母を失っていないその位置を探さなければならないのです。神様と理想の真の父母を中心とした平和の園で、子女として生活することができるその位置を私たちは探していかなければならないようになっています。それで、このことを成就するためにも、今日、私たちには、新たに「救援摂理」という名詞が残されているのです。(三−四七、一九五七・九・二二)

 神様は、堕落した人類に、時代に従って新しい理想と新しい心情を探してくださりながら、今まで摂理を繰り返してこられました。外的な基準はもちろん、内的基準の実体としての人間は、心情的な絶対基準に立ってその目的世界で生活しなければならなかったのですが、堕落してその世界を失ってしまったので、今まで人間は、長い歴史を通してその目的世界、理想世界、幸福で平和で自由で喜びのあふれる世界、心情が安らかに体むことができる最高の世界を探してきたのです。

 もし心情の基準を立てないままその世界を探し出せば、それは、ある一時に再び整理しなければならないはずです。いかなる理想があったとしても、あるいは全世界を一つにして理想的な平和の世界を樹立してみたとしても、個々人がその世界を思い、その世界に応じ、その世界の動きに従ってその世界と一つとなる心情基準をもつことができなければ、いかに望んだ理想世界であったとしても、その世界は、自分とは何の縁もないのです。(一五−四六、一九六五・二・七)

 世界の数多くの国家の中には、環境は良くなくても種が良い国家もあり得、環境は良くても種が悪い国家もあり得ます。それと同様に、歴史もすべて同じです。もしこの世界がすべて良い種ならば、世界は問題となりません。本来、この世界が良い木から得た良い種として、良い環境で育ったのであれば、今日、この世界は平和の世界、希望の世界、未来が保障された世界となっていたに違いありません。

 私たちが生きているこの世界は、平和の世界、希望の世界、未来が保障される世界になっていないのであり、善悪がもつれた世界になっています。周囲に現れる環境は、善の環境よりも悪の環境となっています。このように、周囲が悪の環境によって包囲されているので、いくら種が良くても、良い結実をもたらすことはできないのです。(三三−三一五、一九七〇・八・二三)

 私たち人類の始祖が喜びの生活、幸福の生活、あるいは満足の生活、自由の生活、平和の生活から始めて、それが子孫万代まで連結されて永遠の世界に伸びていったとすれば、その世界は、神様の愛の中で主管を受ける世界であり、神様との同行を要求する世界であり、永遠に神様と喜ぶことができる世界となっていたはずです。しかし、そのようになることができなかったのは、結局、人間が堕落したからです。その結果は悲惨なものになりました。この世界には平和の代わりに闘争が生じたのであり、幸福の代わりに疾病苦と様々な混乱相の歴史過程を経て、それが現実まで包括しているという実情を私たちは直視しているのです。(七八−五四、一九七五・五・四)

 本来、人が堕落していなければ、神様の愛を中心として、人間の心と体は絶対に二律背反的な位置に立つことはできません。しかし、堕落することによってそのような位置に立ったので、歴史路程を再度収拾し、一つの世界平和圏をつくって安着することができる基地を準備するために、救援摂理、復帰摂理といううんざりする宗教儀式、宗数的一定の規則を通して、受難と犠牲と血の流れる歴史を経てきたという事実を、皆さんは知らなければなりません。(一一三−三二一、一九八一・五・一〇)

 人類歴史についても同じです。堕落していなければ、私たち人間は理想的な春の園を迎えていたでしょう。その理想的な春の園で、神様が喜ぶことができる人々として成長していたでしょう。そのように育った人類は、この地上に新しい文化世界を創造したでしょう。文化世界を創造したその中で、私たち人類は、平和で幸福に暮らしたでしょう。万物が春夏秋冬の季節に従って順行するのと同じように、人類歴史もやはり、春の季節、夏の季節、秋の季節、冬の季節と同じ過程を経ながら永続する世界とならなければなりませんでした。にもかかわらず、人類が堕落することによって私たち人間の世の中には、人間が喜ぶ蘇生の時、栄光の一日を迎える喜びの出発を見ることができませんでした。(四九−三一八、一九七一・一〇・二四)

 堕落していなければ、人はどのようになっていたでしょうか。その目と、すべての細胞と、心と体の活動方向全体が「愛そう」と狂っていたはずです。自ら苦労しながら、「愛そう」と夢中になって生きるのです。そのように生きた人は、間違いなく天国の王宮に行くようになります。ほかの所に行くのではなく、天国の王宮に入っていくのです。イエス様は、この地上に来て何をしたのでしょうか。迫害を受け、十字架で亡くなりながらも人類を愛そうとされました。十字架の愛を中心として、それに夢中になっていった人です。愛を受けようとしたのではありません。怨讐まで愛そうとしなければなりません。方向転換を世界化させたその時には、平和の世界が訪れます。「愛を受けよう」という意識をもった人々が生きる場所には、平和の世界は永遠に訪れません。

 愛そうとすることができる人を育てておかなくては、平和の世界は訪れることができません。統一の世界は訪れることができません。これが神様の人類の前に最後に宣言した課題だ、ということを知らなければなりません。宿命的な課題です。宿命は変わりません。運命は自分の努力で改造することができ、変更することができますが、宿命は変更することができないのです。(一四八−三二四、一九八六・一〇・二六)

 堕落は、自分を自覚したところから始まったのです。堕落が人類歴史の破綻、苦悩と失敗の歴史、戦争の歴史をもたらしたので、これを一掃して神様の根本問題を知らなければなりません。そのようにして、神様を中心とした愛のために生き、すべてのもののために生きる根源を探し出さなければ、平和の根源を発見することはできません。平和の根源を発見できなければ、平和の世界は探し出すことができません。(一四六−一〇二、一九八六・六・七)

 「堕落」という言葉は、一般社会ではそれほど重要視しません。その言葉はあるのですが、その内容をよく知らないのです。天と地、神様と私たち人間だけならば、このようなインデムニティ(indemnity:蕩減)は必要ありません。インデムニティが必要なのはサタンがいるからです。サタンがいなければ、インデムニティも必要なく、今日宗教統一をして、神様の解放や人類の解放、あるいは歴史的希望の平和時代を自動的に送ることができていたはずですが、堕落によってサタンが侵入すると同時に、このすべてのものが食い違うようになったのです。(一八九−四六、一九八九・三・一二)

 神様と人間との関係は、どのようになっているのでしょうか。神様は縦的な父であり、私たちの人類始祖は横的な父母です。しかし、この横的な父母が堕落することによって、七五度になってしまったのです。ここで食い違ったので、心と体がこの角度のずれによる闘争を展開するようになったのです。ですから、「平和だ」と言うことができず、幸福であり得ないのです。(一九一−四三、一九八九・六・二四)

 今、私たちが暮らしているこの世界には、様々な民族が住んでおり、様々な国が存在しています。しかし、その国と民族は、平和の状態で理想を描く立場にあるのではなく、混乱と嘆息と塗炭の苦しみの中でうめきながら自分たちの理想を描いているのです。これは、本来の人間が望む願いの国ではなく、願いの人類ではありません。この世界は、堕落によってもたらされた結果なのです。(一七二−九、一九八八・一・三)


二 平和の園はどのようにして訪れるのか

 今日、世界が平和の世界を論じ、一つの世界を論じていますが、それらはすべて絵空事のようなものです。私自身が一つの世界をつくることができ、一つになることができているのかということが問題です。それゆえに、このような実情を知る神様がいらっしゃり、「志のある人、偉人がいれば、一つにさせる作業をしよう」と考えざるを得ないという結論が出てくるのです。(一〇二−一三六、一九七八・一二・一〇)

 皆さんはよく、「互いに愛しなさい」ということを言います。「互いに奉仕しなさい」ということを言うでしょう? 互いに犠牲になりなさい、そうすればうまくいくというのです。互いに愛しなさいということは、「与えなさい」ということです。私から相手に及ぼすようにしなさいということです。「互いに愛を受けよう」ということではありません。「愛してくれ」ではありません。お互いに奉仕するようになれば、その環境には平和の基地が生まれます。お互いに犠牲になれば、そこには蘇生の炎が燃え上がります。お互いに愛するようになれば、そこに花が咲き、香りが広がるのです。(一一二−二九九、一九八一・四・二五)

 マイナスの磁石が必ずプラスの方を向くように、良心の力によって神様を知ることができるのです。良心の力に従って神様に近づけば近づくほど何を悟るのかというと、心の平和、心の幸福、心の充足を感じるのであり、平和の母体となった神様の愛によって、自らの五臓六腑全体が自然に刺激を受け、衝動的な感銘を感じることができる人となるはずだったのです。(八三−三八、一九七六・六・二五)

 私が過去をこのように生きてきたので、余生だけでも輝き、自信をもって締めくくろうと思い、気力が足りなければひざまずき、骨が固くなって死ぬようなことがあったとしても、自分の生涯で責任を全うすることができなかった忠誠をこの期間内に成し遂げようと、夜を明かしながら祈祷しなければなりません。国土を守り、人類が行くべき幸福の基盤を凝視しながら消えてなくなることなく、「私は死んでも、世界を生かしてください」と祈祷すれば、そのおばあさんの墓は、よもぎの茂る荒れ地となることはありません。どれほど見苦しくしわが寄ったとしても、それは、私たちの平和の条件を象徴するしわとして現れるはずであり、歩く姿は憔悴していても、その道は希望の灯台として輝く座標となるということを知るとき、生涯を比較して、自分だけのために悪の友となり、悪の足場を広げていくこの恨めしい恨の正体を滅ぼし、私の生涯にもう一歩だけ善の基盤をプラスさせてから逝かなければならないという切迫した運命の道が臨んでいることを知って、体むことなく急いで行かなければなりません。それゆえに、先生も、今まで生きてきた生涯において、そのような趣旨による六回の十字架を背負ったのであり、あるいは海外を行き来しながら、異色民族の前に「異端者だ」と指弾される時もあり、反対される時もあったのですが、私が行く精誠の道理が異色民族を通して天の前に、伝統的な主流思想の前に、ひざまずいて天を追慕するにおいて、共に歩調を合わせることができる道であるならば、私はどこであろうと駆けていこうという考えをもって生涯を生きてきました。(六五−九三、一九七二・一一・一三)

 私たちが天の精兵となって勝利さえすれば、神様が永遠に喜ぶことができると同時に、イエス様と聖霊も永遠に喜ぶことができ、私たちまで喜ぶことができる平和の時代がこの地上に訪れてくるということを、皆さんは肝に銘じなければなりません。(二−一七九、一九五七・四・一四)

 個人の闘争は家庭の闘争、家庭の闘争は氏族の闘争、氏族の闘争は社会の闘争、社会の闘争は国家の闘争、国家の闘争は世界の闘争を経て、霊界があるとすれば、その霊界とこの地上との闘争まで経るようになるのです。また、神様がいらっしゃるとすれば、その神様と地上のこの無数の悪霊との闘争が終わってこそ、この宇宙に平和時代が訪れるのです。このような原則的な過程を通して摂理してこられた神様の事情を、皆さんは悟らなければなりません。神様がサタンとこの地上の悪の群れと闘い、すべての問題を解決してしまうことによって、初めて宇宙的な平和の時代が訪れるのです。(四−三四四、一九五八・一〇・一九)

 神様の悲しみの事情を一掃したという一時、すなわち神様の心の中に焼きついている悲しみを解消させ得る一時が訪れてこない限り、人類の平和も成し遂げることができず、天的な一つの理念もこの地上で結実の一時を迎えることができない、ということを皆さんは知らなければなりません。(六−二〇六、一九五九・五・一七)

 もし真なる人間がいて、人間社会のあらゆる恨の要素を取り除き、天の恨を解怨してさしあげ、地上に平和の国を建設することができる主義と思想をもって現れたとするならば、その人は、自分個人の恨めしい逆境から人類の恨めしい様々な峠とその哀切な心情まで、すべてを経ていかなければならないでしょう。そのようにすることができなければ、人間社会において、嘆かわしい歴史を追放し、恨の侵犯を受けない平和の世界、幸福の世界、自由の園を建設することはできないのです。(六−二三九、一九五九・五・二四)

 皆さんが宇宙的な天国の理念を身代わりすることができる存在となり、神様の愛と生命と真理の運動を展開するならば、平和の世界がこの地に建設されるでしょう。したがって、自分の父母だけが父母ではなく、自分の兄弟だけが兄弟ではなく、自分の息子、娘だけが息子、娘ではないというのです。皆さんが、すべての人を自らの父母、兄弟、子女と思うことができる人格を備えた人になれば、死亡世界で苦しんでいる多くの民を見つめるとき、涙なくしては対することができないはずであり、兄弟や幼い人々を見つめるようになるときにも、「彼らを救おう」という責任感をもって、涙を流しながら努力するようになるはずです。本当にそのような皆さんとなるならば、そのような皆さんを中心として、この地に天国が建設されるはずです。(二−一四三、一九五七・三・一七)

 皆さんは、「神様、サタンを一度許してあげましょう」という祈祷をしてみたことがありますか。そのような祈祷をすれば、神様の気分を一度にキャッチすることができるのです。牧師たち、そのようにしてみましたか。このような愛が分からなければ、天地は二軒暮らし(注:めかけをもって暮らすこと)をするのです。一つの家庭の愛に二股の道が生じるようになれば、その家には破綻が訪れるのと同じように、宇宙自体が破綻するでしょう。平和の本宮が生じないというのです。このようになるのです。愛は絶対的です。二人の愛の主人を介在させてつくったものではないというのです。(四八−二三五、一九七一・九・一九)

 神様は、サタンに先に打たれ、「ため」に生き、愛してあげたのちに、奪ってくる作戦を行われます。サタン世界から強制的に奪ってくるのではなく、先に愛して打たれ、犠牲となり、殺されながら奪ってくるのです。このような作戦を行わなくては世界平和の起源を残すことができない、ということを皆さんは知らなければなりません。(三八−二一九、一九七一・一・三)

 皆さんは、家庭を率いて国と世界のために行かなければなりません。大韓民国において、個人的な時代、家庭的な時代、氏族的な時代、民族的な時代、国家的な時代を経てきて、その経験を土台として、世界の民族と国家の前に方向を提示することができる案内役を引き受けなければなりません。案内役を果たし、互いが離れることのできない立場で神様に侍ることができてこそ、霊界と肉界は統一された平和の世界となり得るのです。そのようになって初めてその案内者は、歴史時代の永遠の指導者としての位置を固めるようになり、天の世界の名誉ある表彰を受けるようになるのです。このようになることは間違いない事実だ、ということを皆さんははっきりと知らなければなりません。(三〇−一六、一九七〇・三・一七)

 自由の天国である新しい平和の王国を創建するための闘争過程で、誰よりも多くの血を流して闘ったとすれば、その人は滅びることかありません。その人が流した血は、死亡の血ではなく、生命の源泉だからです。−そのようにして創建した所が、私たちが行かなければならず、とどまらなければならず、残しておかなければならない基盤です。これが痛切な現実です。

 皆さんが天の前に、「天よ! あなたが創造理想を中心として誇りたいと思われたすべての願いが私に結実しました。人間を立てて、永遠にすべての世界に誇ろうとされたあなたの内的心情と一致を果たしました」と祈祷するとき、神様が「そうか!」とおっしゃることができる位置で、神様が喜ばれる自由と平和の天国に行進するその日を慕わしく思わなければなりません。(二〇−二九一、一九六八・七・七)

 大韓民国の主人は誰ですか。大韓民国を誰よりも愛し、大切にする人です。したがって、統一教会の人々が大韓民国を誰よりも大切にして愛するようになれば、主人になろうとしなくても、この民族の主人になるのです。そのようにしてこそ平和の時代が訪れるのです。(三六−二六四、一九七〇・一二・六)

 私たちは、神様の恨を解くことによって、神様を解放してさしあげなければなりません。そして、自由な神様として万国を統治するにおいて少しでも妨げとなる障害物があれば、自分が責任をもってすべて除去し、自由の権限をもって万国を自由と平和の天国として主管することができる堂々とした絶対者としてお迎えしようという信念をもった若者がいるとすれば、彼は真に偉大な若者です。このような若者たちによって、今後の世界は新しい方向へ進んでいくようになるでしょう。皆さんが実際にこのような若者となったならば、いくらみすぽらしい格好をしていても、それは見苦しい姿ではありません。そこには無限の希望が宿っているのであり、その姿は神様の希望と幸福の基盤になるのです。(四七−七九、一九七一・八・一九)

 私たち自身においても同様です。刈り取られることができる立場、刈り取られた穀物の立場にいる私たちが、仲間同士で受けて感じるすべてのものを幸福の要因として消化させ得る人々にならなくてはならないというのです。そのような基盤を広げて国民化させ、世界化させる時まで、その主体的な精神が一元化された形態を外れることさえなければ、そのような基盤を通して世界に平和の天国が連結されるのではないでしょうか。そうすれば、あなたと私の三角圏内で、第三者の東西南北を中心として四人がぱっと広がって立つようになれば、ここには異議がないのです。結束の動機は、そこでつくられるのです。(四九−六一、一九七一・一〇・三)

 天国は、どこからつくられるのでしょうか。復帰天国は、どこからつくられなければならないのでしょうか。監獄からつくられなければなりません。監獄に入っていって主管性を復帰した基準、本性的基準の自律的な平和の心情をもって鼻歌を歌ってみましたか。これが問題となるのです。昔、神様は、使徒たちがそのような立場にいる時、それを天国化させるために獄門を開き、自由に行動することができる権利まで賦与したのではないですか。皆さんには、神様が、昔の彼らよりも希望と期待をもつことができる資格ができていますか。(四九一七二、一九七一・一〇・三)

 終末には、歴史の方向を逆にしなければ生きる道がありません。歴史の方向を変えさせるためには、どのようなことをしてでも歴史的方向を提示しなければなりません。これが統一の歴史的方向性です。第三者を犠牲にさせてきた歴史の終末が来たので、今までと同じようにしては、絶対に世界に平和が訪れることはありません。(四九−一九六、一九七一・一〇・一〇)

 私たちは、十字路をどのように越えるのでしょうか。自分の妻をつかめば、自分だけを考えるのではなく国を考えなければならず、国をつかめば、世界を考えなければならず、世界をつかめば、天地を考えなければなりません。これを段階的に、正常かつ順調に経ていくようになれば、すべての怨讐が待つ十字路は消えうせ、平坦な大路に入っていって解放の自由化が形成されるようになり、天地に平和の王国、神様が願われる理想世界が実現されるでしょう。(五九−一〇七、一九七二・七・九)

 自分が犠牲となり、自分の家庭が犠牲となり、自分の国が犠牲となったとしても、世界国家が良くなり得る新しい価値観をもって出発できる、そのような思想的な体制があるとすれば、その思想的な体制を通して、間違いなく新しい歴史の開門がなされるはずです。一方が上がっていけば片方は下りていき、一方が下りていけば片方は上がっていく道理のように、この世の中は罪悪の世界なので、罪悪の世の中においてそれが結末をつけるのではなく、罪悪を解脱することができる一つの方向性を備えて勝利的天国を形成し得る時が来るはずです。皆さんは、これを知らなければなりません。(五九−二〇二、一九七二・七・一六)

 包囲の城壁を打開する秘策として神様が考え出したものが、反対する群れに与えることです。今まで平等圏がなかったので、その平等圏をつくる作戦とは何かというと、他のために犠牲となり、福を祈ってあげ、打たれていきながらその打った者たちを屈服させ、同じ福を与えることによって、ここには完全平等圏の役事が起きるのです。怨讐の対決圏を解消させる舞台をこのように築いてきたので、ここで初めて平等の建国理念が成立するのです。世界統一世界平和の理想型がここから始まっていくのです。(五六−三三二、一九七二・五・一八)

 天国に行く道を短縮しようとするので、ここにメシヤや、ある特定の民族、特定の個人にこの道の責任を負わせて犠牲にしてきたのです。それゆえに、多くの聖人たちが来て、死をもって埋めていきました。多くの国々が興ったり滅びたりするのは、この谷間を埋めるためです。今まで、歴史はそのことをなしてきたのです。それで、歴史は興亡の歴史だというのです。そのようにして高めたり低めたりして、このことをなしてきたのです。そのようにして、今のような平等をつくりました。平等とは平和だということです。そのようにして平等になったのです。(七二−二五三、一九七四・六・三〇)

 本来、神様の愛を中心として、完成したアダムと完成したエバが一つになれば、神様が中心の位置に立つことできるようになるのです。これが統一教会で主張する四位基台です。この四位基台を完成すべき基盤を失ってしまったので、いかなる歴史時代を経てでもこれを設定しない限り、いくら人類の平和やユートピアや理想世界を描いてみたところで、何の役にも立たないというのです。原則を否定しては、原則を離れては、原則に反しては、理想郷はあり得ません。(一三八−二四九、一九八六・一・二四)

 二千年の間において、ローマ帝国の迫害時代、形容することができない迫害の渦中でも発展したのがキリスト教です。ローマをのみ込んで残ったキリスト教が、今日、自由主義のこのアメリカの天地で、なぜ数十年の間であのように滅びてしまったのでしょうか。それがなぞです。ユダヤ教は神様を信じ、すべてを愛するというのですが、なぜヒトラーが六百万人を虐殺したのかというのです。これは、理解することができないなぞです。それは、宗教が行かなければならない本然の道を行くことができなかったからです。終わりの日に、民族を中心として、神様の本然なる愛の前に接触点が合わなくなるときは、サタンの祭物として完全に砕け散っていくのです。

 それでは、何を中心としてこの世界を収拾するのでしょうか。今日、歴史家たちも主張し、現在の知性人たちも主張していることですが、世界を指導し得る人が必要だというのです。それでは、何を指導するのでしょうか。経済力を中心として指導できる能力のある人は、いくらでもいます。政治的な立場を中心として指導できる能力のある人は、いくらでもいます。お金がなくてそれができないのではなく、政治体制がなくてそれができないのでもありません。神様と神様の理想に通じ得る愛の秩序がないというのです。本然の愛の秩序が世界的基盤の上で成長し得る真理を模索することができるならば、そこで初めて平和の起源が、初めて私たち人間の本心が安息し得る出発がなされるのです。(一二五−二二六、一九八三・三・二七)

 真というものは、始まりと終わりが同じでなければなりません。今日、仏教やキリスト教や何だかんだといったものは、すべて必要ありません。天地に心情が通じる人であれば、それで終わりです。平和も、心情から来るものです。喜びの心で現れるとき、大宇宙は私の友となるのであり、そのような心情に浸って天下に対して現れるようになるときは、天下は私の心の中で踊りだすのです。(一五四−五二、一九六四・三・二三)

 今後、人間世界に理想世界がどのように訪れるのでしょうか。生殖器官を正しく扱うことができる道理を明らかにしない限り、世の中は滅びます。平和の世界を探し出すことはできません。ローマを見てください。アメリカを見てください。アメリカは、お金がなくて滅びるのではありません。今まで、生殖器官の主人が誰だったのかを知らなかったのであり、どのように創造されて蹂躙されたのかを知らなかったのです。サタンゆえに知りませんでした。それを明らかにするために、天地のすべての邪悪でよこしまなサタンの修羅場をすべて清掃するために、私が旗を掲げて出てきたのです。(一九三−一四七、一九八九・一〇・三)

 寒帯地方から温帯地方に風が吹きつけることによって、温帯圏内のあらゆる木の葉はすべて落ち、枝だけになるのです。それで、冬になって、実まですべて落ちるようになります。しかし、その中で種、生命をもった種は、いくら北風や冷たい雪が殴りつけようと、それに制圧されることはありません。それがいくら強かろうと、それを貫いていき、新しい人類の平和の春の園を見つけるのです。解放と希望の春の園が訪れてくるので、人類の新しい時代を迎えるその時代において、真なる生命の種をこの天地に蒔くようになるときには、二度と冬を迎えることのない解放の温帯圏へ進出するようになることは、統一教会の思想と完全に一致するのです。(一八二−・九〇、一九八八・一〇・一四)

 自分自身を是正するためには、難しい道を歩まなければなりません。大韓民国を統一することは何でもありません。南北統一をすることは簡単でしょうか。自分一身を統一することは簡単でしょうか。南北統一はいくらでもすることができます。しかし、私自身の統一はすることができません。世界平和は成すことができますが、私自身は平和を成すことができません。

 今後、世界が過去・現在・未来を通じて、行く方向が一致すれば、統一することができる可能性は、いつ、どこであろうと探し出すことができます。過去と現在を照らし合わせてみるとき、結果は必ず一つの目的に向かっていくのです。一つの目的です。一つの目的は統一であり、平和です。一つの平和だというのです。二つではありません。それは簡単なことです。しかし、私自体がいつ統一をするのでしょうか。私を統一することができなくて、統一された世界を管理することができますか。それは、理論的にできないのです。それゆえに、根本問題に入っていって、統一という問題は深刻なことです。宇宙史的な問題です。(二七三−二一八、一九九五・一〇・二九)

 国が滅びることは、大したことではありません。アダムの世界には国がありませんでした。自分の家庭さえ収拾すればいいというのです。ですから、氏族メシヤを中心として家庭収拾を先生は命令したのです。家庭さえまっすぐに立てばいいのです。結局は、良心と肉身の一体と家庭です。夫婦、男女が一つになることは、世界的問題です。これが一つになれば、世界はすべて平和の地に入っていきます。世界問題は難しくありません。心身一体、夫婦一体となれば成すことができます。

 この世の中は、悪の世界なので闘うのです。それは、心身が闘っているからです。男女は、二人が争うようになっています。公式になっています。それでは、世界平和の基地はいったいどこでしょうか。日本でもなく、世界でもありません。天国でもありません。私自身です。心身が紛争するその拠点を平和にしなければ、世界平和は永遠にありません。(二五七−一一二、一九九四・三・一三)

 どのようにすれば、平和の世界が訪れるのでしょうか。第一の条件とは何でしょうか。一つになる起源を探さなければなりません。それを探し出すことができなければ、統一の世界とは永久にお別れです。それでは、家庭が一つになる前に私自身が一つになったのかと尋ねれば、一つになった私を発見することができないというのです。心と体が闘っているでしょう? 男女が争うとき、幸福になることはできません。平和であり得ません。希望があり得ないというのです。終わりの日になればなるほど、心の分野、体の分野に分かれて、夫婦は四つの輩となるのです。心と体が二つずつなので、四つの輩となるのです。このようにしてお互いが争うのです。

 女性の心を中心として一つになろうとしても、体と闘うので、行けば逃げてこなければならないのであり、体を中心として一つになろうとしても、心と体が闘っているので、また出てこなければなりません。どこにも根拠地をおくことができません。この地で平和の基点を探すことができないのです。それでは、二人が集まって、お金を中心として平和という概念を探し出すことができますか。お金を見れば、互いに自分のものにしようとしますか、しませんか。お父さんのタバコ銭は、自分の継ぎはぎをした服のポケットに雑巾で包んである十銭玉よりも大切に思えないので、もらってもいいように思うのです。ですから、お父さんのポケットにあるお金を自分のポケットに入れたいと思うでしょう? お父さんはどうですか。子供のポケットにあるものも、私のポケットに入れたいと思うのです。ですから、統一ができません。永遠にできません。

 しかし、統一教会はそれが違います。統一教会は、神様から内的統一の動機を解いて論理的形態をもっているので、思想界や宗教界がついていくことができない体系として、終わりの日において、混乱した世界の平和の基地、個人的基地、夫婦的基地、家庭的基地、氏族的基地、民族的基地、国家的基地、世界的基地、天宙的基地となり得るのです。天地が分かれたので、天地の統一的平和世界へ神入会徳して、幸福で、希望があり、平和の世界を講究しようというのが統一教会の理想です。この理念に反対して存続できる人はいません。それゆえに、すべて歓迎するようになっているのです。(二三〇−三一五、一九九二・五・一〇)

 今後、世界はどのようになるのでしょうか。老若男女を問わず、今、世界に住んでいる万民は、すべて一つの世界を願っています。その一つの世界は、戦争をする一つの世界ではなく、平和で、自由な立場での一つの世界です。そこには、民族分裂や人種紛争、あるいは文化的格差から来る習慣的違いによる垣根のようなものはありません。それで、世界万民は、みな一つの文化圏と対応して、自由で平和な一つの国を願っているのです。

 これをどのようにして一つにするのかというのです。平和の世界は、一つの世界です。行く道は、二つではありません。平和の目的世界に行くにおいて、二つの道があるのではありません。一つの道です。老若男女がすべて願う希望の世界、平和の世界は、一つの世界です。しかし、民族を見ても、その中には様々な団体があり、その団体ごとに主義主張が異なります。大韓民国の政治風土について見ても、与党、野党、ありとあらゆる党がすべて出てきて、みな自分たちが前に出ようとしています。ですから、どれほど方向が多いですか。ここから問題が生じるのです。

 歴史始まって以来、昔から今に至るまで、世界的な舞台で、このように平和の世界を追求し活動してきた数多くの人々がいました。しかし、終わりに来ては、あすに希望をもってより次元の高い一つの世界を目指していく立場でコーチし得る人が、次第に少なくなっていくというのです。(二二七−二一五、一九九二・二・一四)

 今日、人類歴史が戦争の歴史としてつづられてきたのは、悪魔の主管権内にあるがゆえです。どのようなことをしてでも、これを清算してしまわなければなりません。この世界をどのようにして変更するのでしょうか。どのようにしてこの世界を平和の世界にするのでしょうか。数多くの教団、数多くの主義、数多くの個人の中で、「自分が一番だ」と言っていた者たちが、今はすべて崩れていきました。共産主義も崩壊し、民主主義も崩れ、数多くの宗教もすべて崩れていきました。キリスト教やユダヤ教のようなすべてのものは、今はもう水平線に沈んでいきました。(二二五−一五、一九九二・一・一)

 あらゆる学問、社会の構成や体制、あるいは慣習を超越して決定しなければならない始まりは、どこからかということです。これが問題です。始まりは神様にならなければならないというのです。その神様御自身が、始まりから過程を経て人間を造られたとすれば、創造主です。私たち統一教会では「創造理想」と言いますが、理想の実現、その目的地まで行くことができる道を再発見しなければ、平和の世界は成すことができないのです。

 なぜでしょうか。平和の世界は、一つの世界だからです。人間が行く方向、神様が行く方向と、このように二つの方向があるというときは、一つの平和の世界は現れないので、不可避的に、結論は一つの方向とならざるを得ません。それゆえに、人間を第一とした世界を打破し、神様第一主義の世界を決定しなくては、一つの平和の世界へ行ける道を発見することはできないというのです。

 学生たちが一流大学、三流大学という等差をもって人間の価値を評価しますが、いったい、知識というものを中心として神様と人間との関係を結び、永遠なる平和の世界へ行くことができるのでしょうか。知識が平和の道へ行くための橋となり得るのでしょうか。知識の方向は千態万状です。それで、人文系統も、そこから分科的に非常に多くの系列に分裂しているのですが、どのようなものに従っていかなければならないのか、ということが問題なのです。(二二三−一三六、一九九一・一一・一〇)

 心と体の世界において、平和の基準をどこに立てるのかという問題が、人生において最も貴い問題です。心と体が闘っています。「あ、私の心と体は闘争していない!」という人は、手を挙げてみてください。ハーモニーが成され、統一が成され、平等が成されているというのですか。

 それゆえに、このような問題について考えてみるとき、平和の基準はどこにあるのでしょうか。世界でもなく、国でもなく、宗教でもなく、ほかのいかなるものでもありません。自分自身において心と体に絶対統一を成した平和の基準を確立するのが宗教指導者であり、そのようになるためのものがすべての教育、すべての修練、すべての人道主義的な目的だというのです。それゆえに、皆さんがいくら宗教を信仰し、偉大な宗教指導者になったとしても、また、この一つの世界を統治する偉大な聖人になったとしても、心と体の統一圏は、永遠の神様と同じ立場の統一を成すことができないのです。

 皆さんは「原理」のみ言をたくさん聞きましたが、問題はどこにあるのかというと、個人基準の平和の起源を確立し、定着させて、平和の起源を私から設定しなくては、理想的な宗教も天国も何も、すべて夢だというのです。それは、私と関係がないのです。

 平和の基準はどこですか。イスラムですか。キリスト教ですか。イスラエルですか。宗教にはありません。人ですか。宗教に先立つものが理想的人間である、ということを知らなければなりません。それがすべて壊れたので、理想的人間を探していき、アイディアル・マン、アイディアル・ウーマン、アイディアル・ファミリー、アイディアル・ネーションを探し求めていくのではないですか。(二一七−七九、一九九一・五・二七)

 表裏が一体となるということは、前面が明るくなれば裏面は暗くなるということです。地球もそうでしょう? 夜と昼は常に相反する立場に立っているでしょう? 地球が回ることによって、平均と共通、平和を成すのです。東西が一つになるという問題を考えてみるとき、それは、夜も一つ、昼も一つだったのが、夜と昼が一つになるということではありません。それをどのようにして連結させるのでしょうか。その表裏一体というのは、実体と影のようなものです。それで、外側の価値、外に行って犠牲になろうと考えるようになるとき、宇宙のすべてが歴史を通じて願ってきた存在となるのであり、そのような人こそ素晴らしい人だというのです。(二一三−二七、一九九一・一・二一)


三 平和の本拠地としての心

 神様がいるとすれば、今日、このような人生の道を解決するために、私たち人間を動機の位置や目的の位置に導いていくようにしなければなりません。それで、今まで神様は、宗教を通して摂理してこられたのですが、宗教を通して心を中心とした生活を強調してこられたのです。心を中心とした生活を強調すると同時に、「この世の中と共に生活しなさい」とは教えられませんでした。終わりの日以後の世界、この世の中を超えた終わりの世界の生活因縁を強調してこられたのです。

 キリスト教を見ても、この現実世界を中心として生きなさいと教えてあげる道理は、一つもありません。この世の中で、よく食べて、よく暮らしなさいと教えてあげた、そのようなものはないのです。必ず心の世界における平和を叫んできたのです。「天国がどこにあるのでしょうか。この世界にあるのではなく、あなたの心の中にあります。心の世界に天国があり、また天国は終わりの日に成されるものです」。このように教えてきているのです。その終わりの日の天国というものは、この世の中とは関係ない立場で成される天国のことをいうのです。それゆえに、それは、歴史過程を経ていく人間たちが必要とし、重要視する、歴史過程の内容を教える道理ではないのです。本来、宗教というものはそうでなければなりません。もし過程の道理を教え、それを標準とし、目的とする宗教があるとすれば、その宗教は、純粋な宗数的見地から見るとき、邪教なのです。(四九−二四、一九七一・一〇・三)

 天と和合し、天を褒めたたえることができ、全世界が平等で共に幸福に暮らすことを望む欲求の起源はどこにあるのかというときに、それは皆さんの体にあるのではなく、心にあるのです。善に根をおいた心が願うことは、人類がお互いに怨讐視し、お互いに争いながら血を流し、お互いに殺し殺される、このようなことではなく、自由と平和と幸福が宿る中で、お互いに友愛することができる因縁をもって生きることです。これは、すべての人の願いです。ところで、その希望は体から出てくるのでしょうか。違います。体は、おなかがすけば、自分のお兄さんやお姉さんの手にあるひと塊しかないもちも、奪って食べたいと思うのです。体から出てくる欲望とは、そのようなものです。そのようなことを見れば、これはあくまでも心の願いです。(四一−六八、一九七一・二・一三)

 私たち人間の心の動きは、不完全な起源を越えて完全な起源を追求しています。これが歴史の環境を越え、時代の荒波を越えて、今まで私たち人間の心の中で躍動しているのです。そのような力の刺激と力の源泉が残っているという事実を見るとき、その力の主体となり得る本然の根拠地、あるいは本体、あるいは原因的なその存在は、絶対的な存在に違いないというのです。人間たちは、そのような心の方向を通して、常に新しいもの、常に理想的なもの、常に平和で幸福なものを追求するようになるのです。(二七−二一八、一九六九・一二・一四)

 全知全能であられる神様は、いかなる作戦をもってこの世界を平和にされるのでしょうか。神様御自身は、平和の根拠地をどこに求められるのでしょうか。アメリカでもなく、ソ連でもなく、ほかのどの国でもありません。そこは、ほかならぬ人間の本心です。その話は、世の中のあらゆるものをすべてほうり投げ、本心の基準に帰っていきなさいということです。自らの中に入っていきなさいということです。それでイエス様は、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)と言われたのです。それゆえに、私たちの心の中にある善を解放しなければ、理想世界や幸福の世界といったものは不可能です。(二三−一二五、一九六九・五・一八)

 私たち人間の心と体の間隔が広がれば広がるほど、苦衷が大きくなるのです。そこには苦痛が介在するのです。そこには悲劇が宿るのです。したがって、私たちの心と体の間隔を狭め、それが一つに統一される時を迎えなければなりません。そのようにしなければ、人間世界に平和や幸福といったものはあり得ません。

 それゆえに、自分自身の闘い、自分一個の個体の闘いを終息させることができない人は、世界的な闘いが終息し、そのような世界に入っていって暮らしたとしても、希望や幸福、あるいは平和の条件を自らのものとすることはできないのです。したがって問題は、私自身にあります。私自身の根本問題を解決しなければなりません。そのようにして私自身の外的な世界の理想的環境を迎えるようになる時に、初めて心に染みる平和、心に染みる幸福を感じることができるのです。そのような基盤の上で世界と連結されて初めて自由で幸福な天国が成されるのであって、環境がいくら整えられたとしても、自らの問題が解決されていない立場にいれば、いかなる幸福な環境にも和することができない、ということを否認することはできません。(二〇−一六七、一九六八・六・九)

 今日、この地上の数多くの人間は、心が何であるのかを知らずに生きています。言い換えれば、心自体が神様の愛を中心として安息するための、私の人格形成の基盤だということを知らずに生きているのです。心は偉大なものです。心は無限に広大であり、とてつもないものです。この心の中には、神様も迎え入れることができる余裕があります。どのような人でも正しい心をもつようになれば、万民を一時に平和の王宮へ移してあげたいと思うのです。(三七−一一六、一九七〇・一二・三)

 根本的な問題は、私たち個体の統一です。心と体が統一を成し、その根本となる心が、「この世の中の何ものとも替えることができない幸福の条件をもった」と主張することができ、今この世界に存在するいかなるものにぶつかっても譲歩せず、壊れることがない中心を備えた人間として出発しなければ、世界平和の起源をもたらすことはできません。(二〇−一六八、一九六八・六・九)

 神様と苦楽を共にすることができる基点で私の心に平和の基盤を備え、私の心に自由と幸福の拠点を備えることができる基準をもち、その基準を中心として体を完全に制圧し、この世界を統一することができる実力を備えていく運動が、この地上に起こらなければならないのです。このような運動を別の言い方をすれば、イエス様がもたらした新しい世界主義理念です。忘れてしまわないようお願いします。(二〇−七三、一九六八・六・九)

 世界平和を願う人は、手を挙げてみてください。その平和の基準はどこから存在するのでしょうか、探してみてください。東ドイツと西ドイツにあるのでしょう! ソ連とアメリカにあるのでしょう! どこにありますか。(人間の心と体にあります)。皆さん自身には、それを統一することができる能力はありません。神様がいらっしゃるとすれば、神様お一人にしかないのです。これは論理にかなった結論です。口実ではありません。確定的結論です。(一九六−二九、一九八九・一二・二四)

 すべての人々が夢見ていくその平和の世界は、別の所にあるのではありません。それでイエス様が強調したことは、「あなたの心に天国があるのだ」ということです。自分白身の心に天国をもつことができない人は、いくら相対の世界に天国があったとしても、自分の心に幸福をもってきてみたところで感動を受けることはできません。そこに関係を結ぶことができないのです。(二 皆さんの心は、神様の歩哨所であり、皆さんの体はサタンの一線です。民主と共産が対決する板門店があるように、皆さんの心の世界にも、境界線である板門店があることを知らなければなりません。人の心の世界にある板門店が世界的板門店となって現れたものが、三十八度線上にある板門店です。それは世界に一つしかありません。それゆえに韓国は、そのような立場で意味が大きいというのです。(一五六−二二一、一九六六・五・二五)

 皆さんの心に平和がありますか。「既に私には永遠の平和がある」という永遠のセンターが世の中に現れたと考えてみてください。それは、あらゆるもののセンターとなるのです。何ものも、誰も、そのセンターを変えることはできません。そのような基盤さえ築けば、誰であろうと、たとえ神様でも、それをどうすることもできません。いくら邪悪な世の中だとしても、これを占領することはできません。このような基盤を築いてこそ、神様も見下ろして皆さんを信じるのです。

 皆さんはどうですか。皆さんの心に平和がありますか。根がないのです! いつでもふらつくものは根ではありません。一箇所にとどまることができません。私が根を下ろせば、誰もその根を抜き取ることはできません。神様も抜き取ることはできません。私自身も同じです。父母、歴史、アメリカ、人類、知識、権力だけでなく、愛もこれを抜き取ることができません。そのような基盤の上に立って「私に従いなさい」と言ってこそ、そこから再創造が可能なのです。ほかの方法はありません。

 皆さんの心に平和の基地がありますか。どうですか。これは皆さんの責任です。誰も皆さんのその基盤を奪っていくことはできないのです。皆さん自身がそのような基盤を築かなければなりません。ほかの人々が助けてあげることはできません。皆さんが自ら進んで王宮の王座をつくらなけれぱなりません。そのようにしてこそ四方のすべてのものがそれを認定してあげるのであり、「あなたがセンターに座ってください」と言われたのちにそこに座ってこそ、それが自然なのです。強制的にしてはいけないのです。

 平和の基地、皆さんの心の中にそのような基盤を築かなければなりません。それが最も重要な問題です。いくら天国を思っても、そのような基盤がなければ神様の本然の理想に連結されることはありません。これは歴史的な結論です。歴史がいくら流れても、きょうのこのような結論は変わることかありません。(二〇五−一四五、一九九〇・八・一二)


四 心と体の闘争、そして平和

 私たちの平和の起源、あるいは幸福の基盤はどこにあるのでしょうか。皆さんが探し求めていく未来にあると思ったとすれば、それは誤った認識です。訪れることはありません。なぜでしょうか。心と体が互いに闘っている私自身が一つの家庭を築けば、その時は、四つの目的をもった四つの輩が互いに闘うようになるのです。そして、四人の家族になれば八つになり、百人の家族になれば二百になります。一億になれば二億になるのです。また三十五億になれば七十億の目的をもつようになります。ですから、人類世界で、それをもって国家を形成し、世界を形成したならば、その世界は、絶対に理想世界にはなり得ません。(五六−一五六、一九七二・五・一四)

 平和の解決基地は、どこにあるのでしょうか。それはアメリカでもなく、ソ連でもありません。それを知らなければなりません。問題はどこにあるのでしょうか。心と体が闘っているこの人間の胸の中に、いかにして平和の宇宙観をもち、幸福な平和な世界観をもつのかが、この上なく重大な問題です。(八五−三〇二、一九七六・三・四)

 皆さんの心と体は闘っていますか、闘っていませんか。(闘っています)。それは、平和ですか、闘争ですか。(闘争です)。それは、いつ解決されますか。その戦争は、いつ終わりますか。それを考えてみましたか。この世界の戦争は、いつ終わりますか。そのような考えは、する必要もないというのです。私の体の中の戦争をいつ、どのように完全に終結させますか。それを終結させる時、世界の戦争が終わるのです。私の体の平和が、世界の平和が成されることに連結されるのです。(八二−一三五、一九七六・一・四)

 いかなる戦争が激戦ですか。第一次世界大戦も激戦だったのであり、第二次世界大戦も激戦でしたが、それらはすべて過程的な戦争です。一番の激戦とは、どのような闘いですか。私を中心として行うサタンとの闘い、これが最高の激戦だということを知らなければなりません。これを平和的に解決するまでは、世界の平和はあり得ません。私において平和を歌い、私において完全な解放を歌い、私において完全な勝利の歌を歌わなければなりません。「天下は私の名と共に、私と共になければならない」と言い得る、このような勝利の王者圏を備えなくては、地上に平和の世界は来ることができないのです。

 平和は、どこから来るのでしょうか。神様を中心とした真なる宗教から来るのです。これは最も理論的な結論です。どこからですか。大韓民国からですか。あなたの家からですか。あなたのお父さんやお母さんからですか。違います。私からです。天国は私の心にあるというので、私自体の天国として顕現させなければならないのです。(七六−一〇八、一九七五・二・一)

 体はサタンの一線であり、心は神様の一線です。ここから闘いが起きるのです。したがって、私の体で平和の旗手を発見しなくては、世界の平和は探し出すことができません。(四八−八六、一九七一・九・五)

 人間は、みな自分自身の中に二つの争う輩をもっています。金なにがしといえば、金なにがしの内と外が互いに争っているのです。この争う輩は、一つのように見えますが、実は二つの輩が争っているのです。ですから、二人が争えば、いくつの輩になりますか。四つの輩になります。五人が争えば十の争う輩が、三十六億の人口全体が争えば、七十二億の争う輩が生じ、そのすべてが紛争圏を備えているので、どうして世界の平和統一が成されるでしょうか。それゆえに、平和の基点をおいて見るとき、このような問題を扱わざるを得ないのです。(二三−一〇二、一九六九・五・一四)

 皆さんが自分の個体を見れば、心の人と体の人が異なります。お互いに争う二人の人が私の個体にいるというのです。一つの家庭の夫と妻を中心として見れば、これは四人が争っている立場です。十人の家族がいるとすれば、二十人が争っている立場で暮らしているのです。ですから、その家庭に平和と幸福があり得るでしょうか。(三八−二二五、一九七一・一・八)

 聖書では、今日の人類を「孤児」だと言っています。国も、「主人のいない国」だと言っています。この国に主人がいますか。「我が国も百年、千年続くはずであり、我が民族は千年、万年生きるはずだ」と思うかもしれませんが、とんでもないことです。いつ、どのような強盗が来て支配するか分かりません。私たちの国も信じることができず、私たちの家庭もいつ侵害を受けるか分かりません。したがって、家庭も信じることができず、氏族、文化、生活様式さえも信じることができないのです。いつ、どのようになるか分からない恐怖の雰囲気の中で私たちは暮らしているのです。その上に、私たちの心と体がお互いに闘っています。したがって、平和の基地となることはできないのです。(二三−六四、一九六九・五・八)

 不幸の源泉地は、ほかならぬ私自身です。皆さんの心に、いつ平和な時がありましたか。心と体は常に争いをしています。例を挙げれば、寝ていて目が覚め、きのうの晩に弟が枕の横に置いておいたぎょうざが頭に浮かび、起き上がって、「なくなっても、自分が食べたかどうか分かりはしない」と言いながらすっと手をつけます。そのような時に心が、「おい、正気でないな」と言って手をつけることができなくなったことを経験してみたはずです。心と体は、そのような関係です。皆さんは、これを知らなければなりません。

 一つの家庭に二人がいるとすれば、争う輩が四つに分かれるようになり、五人の家族がいるとすれば、十になります。大韓民国の人口が三千万なので、六千万の争う輩がここに住んでいることになり、世界の人類は三十六億なので、七十二億の争う輩が世界に住んでいるのです。ですから、ここに平和があると思いますか。とんでもないことです。いつ、下心をもったどろぽうにひっくり返されるか分かりません。このような所に、平和と幸福と甘美な住みかがあると思います(二三−一二四、一九六九・五・一八)

 いくら神様が平和を待ち望んでいらっしゃるとしても、常にもめごとを起こすこの体という問題児をそのままにしておいては、統一することは絶対に不可能です。万民が願い望んでいる理想世界、統一世界を成すためには、必ず心と体を先に統一させなければならないのです。心と体が分立したままでは、統一することはできません。

 人間の心と体も同様です。人間の心と体、この二つの中の一つは、ごろつきです。皆さん、ごろつきを好みますか。ごろつきに対しては、誰もが気分を悪くします。争いをしない平和主義は、誰もが好みます。しかし、体の中にはごろつき的要素があります。これが存在するようになった原因は、堕落があったからです。私の個体についてみても、善と悪の二つの目的を指向する要素が私の体の中にあります。善を指向する心があるかと思えば、それに反して悪を指向する体があります。これを解決することができなければ、数万年歴史の中で怨讐の怪物であった体が常にその状態で残るようになるのです。

 二つの目的の中で人間に必要なものは、一つの目的に完結することができる所に行くことです。それだけが、本来人間が存在する目的と一致するのであり、人間を造られた神様の創造目的に一致するのです。しかし、人間は堕落したので、二つの目的に引っ張られて生きているうちに、いつの間にか白髪になってしまうのです。平和をもつことができず、幸福が訪れることができない人生になるのであり、それゆえに、人生は苦海であるだけでなく、苦痛と悲哀、そして悲惨と嘆息であると感じるのです。このように続いてきたので、神様はこの地上の人間に対する処理方法を講究せざるを得ないのです。(一八−三一八、一九六七・八・一三)

 今、皆さんは闘っています。自分の人生を中心として大砲を撃っているのです。世の中に対する前に、皆さん自身の心と体が闘っているのです。これをいかにして平和にするのでしょうか。この闘いで体が勝つのでしょうか、心が勝つのでしょうか。皆さんは体が勝ちますか、心が勝ちますか。「私は間違いなく心が勝ちます」と言うことができる人にならなければなりません。心が勝つ人は善側であり、体が勝つ人は悪側です。(三六−六一、一九七〇・一一・一五)

 今まで、私たち人間は、自分自身の心と体を中心として闘争の過程を経てきました。平和を成し、統一を成して、天倫に従うはっきりした目的に向かって走っていったことが一度もない人間だというのです。言い換えれば、心と体が闘いながら今までの歴史を支えてきたので、結果的にこのような二つの世界に分かれざるを得なかったのです。(二〇−一六五、一九六八・六・九)

 本来、人が生まれながらにして心と体が闘う存在であるとすれば、人間における理想や平和や思想などといったものは、すべて空論です。それは、すべて無駄なことになるのです。本来、人がそのように生まれついたのでなければ、それは可能ですが、もともとそのような人として生まれているとすれば、無駄だというのです。これは、理論的に合わないことです。人は、あくまでも結果的存在です。原因的存在ではありません。何ものかによって生まれたので、その結果は原因と一つになるのです。原因と結果は異なり得ません。結果は原因を内容として現れるので、原因と結果は通じるのです。それで、過程も一致しなければならないのです。それは科学的です。(八六−三五、一九七六・三・四)

 今後、平和の基地をどこから立てるのでしょうか。根本問題をどのようにしなければならないのでしょうか。ある人は、「ああ、社会が悪くてこのようになった」と言いますが、とんでもないことです。皆さん自体に植えつけられた人間の姿の結果として、今日、この世界になっているのです。万人の心と体が争いをするというとき、二人が出会えば、争いをする輩は四つになるのです。それでは、どのようにして一つにするのでしょうか。お金によってですか。権力によってですか。権力をつかもうとして自分の息子までも殺す世の中です。

 何をもって一つにするのかということが根本問題です。四十億人類が暮らすこの世の中は、八十億がお互いに分かれて争いを繰り広げる堕落した世界となっています。ここで、いくらどのようなことをしても平和は訪れません。ですから、根本で解決しなければならないのです。

 皆さんの心と体は、神様とサタンの善悪の対決場となって、熾烈な争いを繰り広げています。レバレンド・ムーンのような人も、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」という標語を立てて身もだえした人です。この習慣性をどのようにするのですか。韓国人は、からしみそを食べ、みそを食べるのですが、これを克服することができるのですか。昼は仕事をしなければならず、夜は寝なければなりません。ところで、寝ないでいることができますか。これが問題です。眠りを克服しなければならず、空腹を克服しなければならず、男性が女性に対して克服しなければなりません。「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」という標語が出てくるのです。自己を克服しなくては、天も何も、すべて離れていくようになっているのです。

 それで、このように霧の中に、塀の中に埋もれた人間の姿をいかにして解放するのでしょうか。この霧を取り払うことができる風を吹かせなければなりません。風を吹かせなければならないのです。その次には、遮っている塀を爆破させるのです。爆破は誰がさせるのでしょうか。私がしてあげるのではなく、自動的にしなければならないのです。サタンが築いたので、サタンが壊しなさいというのです。(一三七−一五五、一九八六・一・一)

 今は終わりの日となって、世界が二つに分かれて闘っています。この世界は、一つの世界にならなければなりません。世界が一つにならなくては、人類は生き残ることができないと思っているのです。しかし、皆さん自身が、心の世界も一つにならなければならないとは考えていないのです。これが問題です。今日、外的に見れば、「一つの世界、平和の世界、理想世界が来なければならない」と主張していますが、心の世界においては、この外的世界が一つの世界になると同時に心の世界が一つにならなければならないと考えることはできずにいます。ここで、一つの世界に向かって跳躍しなければならない時点において、まず、心の世界をどのようにして一つにさせるのかというのです。(一四〇−一三、一九八六・二・一)

 二十一世紀の韓国と世界のビジョンとは何でしょうか。それは平和の世界、統一された一つの世界です。すなわち、理想世界の実現が成された次元の高いユートピア的世界のことです。四十億人類が各々国家という限界線内にいるとしても、誰もがそのようなことを願うようになるはずだと思うのです。

 世界を一つにする前に南北が一つにならなければならず、南北が一つになる前に私たち個々人が一つにならなければなりません。南北がいくら一つになったとしても、いくら大韓民国が統一された平和の国になったとしても、私たち個人が一つになり得なければ、私たち自体とは関係をもつことはできないのです。私自身が苦悶の中にあり、私自身が不安の中で呻吟しているとすれば、その国がいくら幸福な平和の国であり、世界がいくら幸福な平和の世界だとしても、私と関係を結ぶことはできないのです。

 いくら国が一つになり、世界が一つになったとしても、私の心が闘争し、苦心する、そのような自らだとすれば、その平和の国や平和の世界に同参することはできないのです。(一四三−二〇六、一九八六・三・一八)

 堕落した人間を見れば、心と体が闘っています。四十億人類がこのように生きているのを見れば、結局、八十億の輩になるのです。これが統一できますか。一つになるはずがありません。平和をいくら声高く唱えたとしても、不可能です。今まで、歴史過程に数多くの哲人が現れて、様々な思想や理想などを主張して良い世界をつくろうと努力してきましたが、次第に滅びていくのです。(一四三−五七、一九八六・三・一七)

 皆さん、心の統一を成すことができない人が、国において統一された環境を迎えたとして、平和で幸福であり得ますか。考えられないことです。国が統一を見ることができない状況で、世界がいくら統一を成就したとしても、幸福であり得、理想的であり得ますか。そのようなことはないというのです。(一四三−四五、一九八六・三・一五)

 先生は、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」という表題を定めておき、その闘いを数十年間してきました。先生までも第一の標語がそれでした。世界統一をしたのに、私の心の中で闘っているとすれば、それで良いのですか。香水をかけ、良い服を着て、舞踏場に出ていく立場であるにもかかわらず、継ぎ当ての服をまとい、どこに現れるというのですか。出てくることが恥ずかしいのです。宇宙がそれを望みません。四季が望みません。恥ずかしい姿を自分自らで覆うことができない、しっぽを覆って、また覆い、また覆い、また覆っても恥ずかしさを感じざるを得ない、このような歴史性をもった自我の根本闘争、戦場を平和へと導かなければならない私自体の責任があるというのです。(一九六−二三、一九八九・一二・二四)

 陰と陽、性相と形状は、相対的であって相克的ではありません。しかし、今日、堕落した人間には、心の声もあり、体の声もあります。心と体が一つになっていません。神様に似て生まれなければならない男性や女性の心と体が、どうして分かれたのかというのです。これが問題です。神様は絶対的なお方なので、私たち人間の標準の姿である心と体は、絶対的に一つになって神様の全体世界に同化し、一つの中心的な役割をしなければならないにもかかわらず、私たちの心と体はどうして分かれたのかというのです。心と体が分かれたこと自体が思いどおりに成されたことだとすれば、神様はいらっしゃらないのであり、理想や統一や平和や幸福といったものの基地を探し出すことはできないのです。(一九五−三〇四、一九八九、一二・一七)

 パウロも、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ七・二二〜二四)と嘆息しています。心と体が闘わない平和の基地、その基地をもっていない私自身が、幸福の航海をすることはできないというのです。(一九六−二〇、一九八九・一二・二四)

 世界平和への道を最短化することができるのは、戦争ではありません。国連でもありません。国連自体がこれを果たすことはできません。個人の欲望をもって行動する堕落したこの世の人間を中心としては、いくら理想を描いたとしても、そこには、常に混乱と闘争の歴史が入ってくるのです。これを解消しなくては、平和の道を模索することはできません。これを解消するためには、この根本を知らなければなりません。歴史背景が闘争によって成されているのです。堕落によって、歴史は神様とサタンの闘争から始まったというのです。この根を抜かなければなりません。(三〇〇−一〇八、一九九九・三・二)

 私たち人間が生きていくにおいては、人倫があり、天倫があります。人情があれば、天情があるというのです。この二つが常に調和を成さなければならないのであって、相克が起きるようになれば平和な世界はあり得ません。神様がいらっしゃるというのに、人が自分勝手にするならば、いくら人々が平和に暮らしたとしても、そこには神様の審判が起きるのです。(三九−二三八、一九七一・一・一五)


五 平和、心と体が一つになること

 皆さんの心と体が一つにならなければ、幸福をいくら探し出そうとしても、それは夢です。いくら平和を描いたとしても、それは夢だというのです。自由という言葉は、一つに統一された立場においてのみ成し遂げられるのです。環境には主体と対象があります。ペア・システムになっているでしょう? 二人がお互いに授け受けるところに自由があるのであり、相克が起きるところに自由がありますか。一つになるところに自由があるのです。夫婦同士暮らしていてけんかをすれば、その日の晩に、夫の部屋や妻の部屋に入っていくことを自由にできますか。それは災いです。千年の事情が立ちふさがるというのです。四十年の人生を生きたとすれば、四十年の人生の事情が立ちふさがるようになるのです。自分の夫に対して、「この年寄り、この者!」と言い、妻に対して、「このおばさん、この者!」と言うのです。このようにして問題になるのです。

 それゆえに、一つにならないところには、夫婦の自由もないのです。平和もありません。ですから、皆さんが平和を描くのならば、心と体が絶対的に一つにならなければなりません。これが文総裁の教育の第一条です。今まで聖賢たちは、世の中がすべて悪く、自分たちが立派であると思ったのですが、そうではありません。第一条で間違ったのです。お父さんとお母さん、夫婦が一つにならなければ、天下がつばを吐くというのです。夫婦が一つになり、一代と三代が一つになれば、天下が訪ねてくるのです。(二四三−一六九、一九九三・一・三)

 神様は、二性性相の中和的主体だということを私たちは知っています。神様には、プラスの性相があり、マイナスの性相があります。それ自体において、プラスの性相とマイナスの性相がもちろん一つにならなければならないのです。一つになったその基準から平和の境地が展開するのです。それは心と体と同じであり、心と体が完全に一つになってこそ、私たち自身が苦衷を感じることがないのです。ですから、神様御自身の中において、プラスの性相とマイナスの性相が完全に一つになるその境地において、初めて愛が出発するのです。(七六−四一、一九七五・一・二六)

 天国を成すにおいて一つの重要な標準とは何でしょうか。天国を成すことができる一つの要因とは何でしょうか。それは統一です。統一という原則過程を経なくては、天国は実現することができません。一つになることによってのみ、天国はできるのです。今日、人間たちの願う平和、あるいは幸福といったすべての要件も、どこから成されるのかというと、一つになることから成されるのです。私たちが知っているように、心と体が一つになっていないところでは、いくら私が幸福になろうとしても、幸福になることはできません。いくら平和の基準を維持しようとしても、維持することはできないのです。それゆえに、ここで一つになることが何よりも重要だということを知らなければなりません。(八二−二七二、一九七六・二・一)

 絶対的な創造主からつくられた万物においては、創造主の愛を受け、創造主と共に一つになることが目的なので、今日、人間が万物を主管することができる立場に立とうとすれば、必ず神様の心情を身代わりした立場に立たなければなりません。そのような立場で万物に対するようになれば、そこに連結されるのであって、もし神様と心情基準が一致しない場合は、それが連結されたとしても、そこには不幸な、あるいは心の奥深くの心情の根本に、相克的な何かの要因が残るようになるのです。ですから、そこには幸福や平和や喜びはあり得ないと思うのです。

 その基盤のもとで、心と体が一つになった男性と女性が愛を中心として一つになれば、それは神様の心情を中心とし、そのような起源で一つになった愛なので、神様の愛を中心として、人類の大幸福、全世界の平和に向かって進んでいこうとする神様の願いの心情と一致して連結されるのです。そこで初めて、神様はお喜びになることができるのです。(八二−二七四、一九七六・二・一)

 人には心と体があるのですが、本来、人が心の分野を中心として体が一つとなって、分けようとしても分けることができないようになっていれば、堕落していない完成した人間になっていたはずです。エデンで堕落していなければ、心と体が分かれることはないのです。しかし、人間の心と体は、今まで闘ってきています。歴史始まって以来、堕落した世界のすべての人は、心と体が闘っています。それゆえに、心と体を一つにし得ないことが恨です。心と体が一つになり得ないところには、平和はあり得ません。幸福が宿り得ないのです。それゆえに、人間の生涯というものは悲運の生涯であり、「結局、人生は苦海と同じだ」と言ったのも、すべて一理があるのです。

 心と体が一つになったという立場に立つようになれば、自らの目が主体ならば、その目が見ているものは対象の立場に立つのです。本然の万物に対して、本然の人間として、主人として見つめながら視線を合わせてあげ、愛してあげることができる平和と愛の境地が皆さんの視線の中で、その雰囲気と環境の中で宿らなけれぱならないというのです。皆さんが聞く音声もそうだというのです。聞く音声から平和を謳歌することができ、またそこで愛を甘美にすることができなければなりません。そのような音声を聞かなければなりません。感じることも、考えることも同様です。(八一−二八一、一九七五・一二・二九)

 私たちは、今私たちが生きているこの世界が善の世界になっていないことを、あまりにもよく知っています。皆さん個人について見ても、個人が平和の母体となっていないことを、生活の中でよく感じているはずです。すなわち、心が行こうとする方向と体が行こうとする方向が異なる自分自身を発見するようになるのです。(三六―五一、一九七〇・一一・一五)

 相手が自分の心に一致するとすれば、その相手にどのようにすることが良くしてあげることでしょうか。人は、自分の心に一致する、一致しないというその基準を世界的に設定することができなければなりません。しかし、皆さんは、少しばかりの畑を中心としても、お互いに闘ったりするのでしょう? 心は世界的でなければなりません。「世界が心に一致する」と言うことができなければならないのです。この世界が心に一致してこそ平和な生活となるのです。(三六−一八二、一九七〇・一一・二九)

 私たちの家庭を中心として見るとき、すべての家庭が繁栄する家庭になれば良いのですが、私たちは滅びる家庭も見るようになります。世の中には善の家庭よりも悪の家庭が多く、平和な家庭よりも不和の家庭が多いのです。私たち個体を中心として見てもそうです。私個人を中心として見るとき、幸福な要件よりも、不幸な要件のほうがもっと多いということを知ることができます。(三八−二九九、一九七一・一・八)

 今、数多くの人間は、世界が一つになることを願っており、平和の世界を模索しています。しかし、自分自身が一つになり得ない個人によってできている社会や国において、どうして一つになる平和の世界を模索することができるのかというのです。平和の世界を成すことができる動機となり、根源となる私個人が一つになり得ない立場から見れば、私たちが願う目的の世界、すなわち結果の世界も一つになり得ない、ということは言うまでもないことです。(三八−二二三、一九七一・一・八)

 人類が善になるためには、まず人類を形成している個々人が善にならなければなりません。そのようにならなくては、人類が善になることはできません。結局は、一人一人が善の人となり、一人一人が真なる立場に立って平和の動機となり、あるいは善の結果の立場に変わることなく永遠に立つことができなければならないのです。そのようにならなくては、いくら平和な世界となることを願ったとしても、この世界は平和の世界となることができません。(三八−三〇〇、一九七一・一・八)

 皆さんには二人の人がいます。体の人と心の人が争うようになれば、二つの輩が生じます。このような人が四人いて争うようになれば、いくつの輩ですか。八つの輩になります。そこに平和があると思いますか。そのような輩が三十六億いれば、七十二億の輩になって争うのですが、そこにどうして平和があり得るのかというのです。とんでもないというのです。(三九−一七五、一九七一・一○)

 私たち一個人に心の人と体の人があるというとき、これが一つにならなくては、永遠に平和はあり得ません。これをいかにして一つにするのか、ということを宗教が扱っています。この二つを各々残すことはできないので、その中の一方をなくし、もう片方を残さなければなりません。解決方法は、それしかありません。(三九−一八六、一九七一・一・一〇)

 世界平和の基準は、歴史時代の終末点にあるのではなく、闘っている私の心と体を統一させるところにあります。私たちがその位置を自分のものにすることができなければ、ユートピアの世界は訪れません。その世界は不変の世界であるのに、皆さん自身が変わる自らをもって、不変的なものを所有することができますか。それは論理的な矛盾です。絶対に不可能なことです。したがって、問題を提示するとすれば、理想世界を追求する前に、まず自分自身の統一圏、幸福になった自我を発見することができるのか、ということが問題です。(一三九−〇九五、一九八六・一・二八)

 未来の世界を見つめるとき、この社会の活動圏内では、平和の道を探し出すことはできません。それでは、どこに行って探すのでしょうか。本然の心の世界から心と体が一つになることができる、そのような統一圏をいかにして発見するのか、ということが問題です。(一四〇−二五四、一九八六・二・一二)

 今、私の心と体をどのようにして一つにするのか、ということが問題です。世界に対する不平を言い、世界に対する平和と真の幸福を叫ぶ前に、皆さん自身を中心として、心と体が一つになって平和の基点を成しているのか、平和の中心基点が神様となっているのか、これが問題です。その基点は、心だけでもいけません。神様を中心とした心に一致することができる体とならなければなりません。(一四〇−一五、一九八六・二・一)

 私たちは、真の愛を中心として、霊的五官と肉的五官を一つに統一させなければなりません。真の愛なくしては、心と体の世界を一つにすることはできません。この心と体が分立して争っている世界が、まさしく堕落した世界です。心が絶対的に中心的でなければなりません。体は、絶対に不平を言うことはできないのです。体は常にマイナスの立場を取らなければならず、心は常にプラスの立場を取らなければなりません。プラスが前に立てば、それは永遠です。心の力を中心として、体はその位置をつくらなければなりません。そのようにしなくては、この世界が平和な世界になったとしても、皆さんは、その理想世界に連結されることができません。特に重要なことは、いかにして心と体を真の愛を中心とした軸、縦的な愛の軸を中心として一つにするかということです。神様は、この縦的な軸の中心としていらっしゃるのです。(二一七−三一六、一九九一・六・一二)

 統一の基盤の上においてのみ、平和があり、幸福があり、自由があり、希望があるというのです。皆さんの心と体が一つになっていないのに、そこに自由がありますか。会社に行ったとしても、心と体が世界大戦をしていて定着することができていないのに、自由がありますか。自由という言葉自体も嫌うのです。心と体が闘っていて、そこに幸福がありますか。それゆえに、皆さんも人生問題について悩むのではないですか。これが根本的な大きな問題です。心と体が一つになっていないところに、幸福や平和があるのかというのです。

 問題は、すべてこの線上で起こるのです。平和もここで成され、幸福もここで成され、自由もここで成され、希望もこの線上で成されるのです。これが壊れるときは、すべてのものが砕け散っていくのです。共産党の者たち、マルクスやヘーゲルのような人たちは、心と体が闘っているのを見て、それが人の根本だと思い、堕落したということが分かりませんでした。それで、そこから闘争概念が出てきたのです。(二四二−六〇、一九九二・一二・二七)

 心と体が統一体となる人間の理想は、神様の真の愛を完全に所有するときに成されるのです。心と体が真の愛を中心として統一されるところから、真なる自由と平和の理想は、出発が可能なのです。そして、心と体が統一された基盤の上で、自由で平和な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を成すことができるのです。

 それゆえに、世界と国家の中においてではなく、個人の心と体の間において平和の基点を探さなければなりません。(二三四−二七〇、一九九二八・二六)

 今、この世界における最も緊迫した課題とは何でしょうか。世界戦争は終わるのです。国同士の闘いは終わりの日になれば終わるのですが、永遠に続く戦争は、心と体の闘いです。誰一人として、これを摘発して治そうと宣言した聖賢はいませんでしたが、ただ一人、文総裁がこれを宣言しました。文総裁の言うとおりにすれば、心を中心として体を完全に征服するようになるのです。そこに平和の基準があるのです。お父さんとお母さんが永遠に一つとなり、夫婦が永遠に一つとなり、父子関係が永遠に一つになり、一族が永遠に一つになることができる平和の基地ができるのです。その平和の基地が個人を越え、氏族を越え、民族を越え、人種を越えて、世界の果てまでその基準ができてこそ、世界平和が成されるのです。それゆえに、人間改造革命が必要だというのです。(二〇三−三五〇、一九九〇・六・二八)

 言語がこのようになったのは、争いのゆえです。父と息子が争って、その父が、「私は、この親不孝な息子が好んでいたパンを見たくない!」と言って、パンを「パン」と言わず、「ホットック」(注:小麦粉をこねて平たく円形にし、中に砂糖などを入れて中華鍋で焼いたもの)と言うのと同じです。名前を別にしたのです。また、夫婦げんかをして、けんかをしていた時の感情を中心として、「あの人が好むものは見たくもなく、言いたくもないので、私はこのように呼ぶ!」と言う場合と同じなのです。争いゆえに言語がこのように分かれたのです。それゆえに、平和の世界、統一の時代に入ってくるようになって、すべて一つになる時は、言語が統一されなければなりません。(二〇八−八四、一九九〇・一一・一七)

 今まで、数多くの聖人たちがこの地に来て霊界に行きましたが、怨讐がどこにいて、世界平和の基準がどこにあるのか、ということが分かりませんでした。悪魔とサタンの戦場が私にあるのです。それが分かりませんでした。それで、文総裁は、心と体の統一を主張するのです。(二〇二−八八、一九九〇・五・六)


六 内的、精神的なものを重視しなさい

 七〇年代を迎えて、大韓民国において経済復興を確約していますが、物質的なものだけを強調してはいけません。ここには、後ろ盾となり得る精神的な一面がより鼓吹されなければならないのです。

 この世界は、二つの世界に分かれています。それでは、二つの世界に分かれたまま永続するのでしょうか。もし人類が二つの世界に分かれた状態で永続するのであれば、この上なく悲惨です。これが一つの帰結点をもたなければ、一つの目的を達成することはできません。一つの目的を達成することができない限り、その人やその国やその世界において、幸福、あるいは平和はあり得ません。二つの間に相克的要因を残しておいたままでは、幸福というものはあり得ないのです。(二八−一五六、一九七〇・一・一一)

 理想世界というものは、ある希望だけを中心としてできるものではありません。それは、平和の起源であり幸福の起源なので、情緒的な分野を絶対視した基盤の上においてのみ成し遂げられるのです。例を挙げれば、ある世界で権力をもった人がいるとしましょう。彼がいくら強大な権力をもっていたとしても、一人で幸福な人になることができますか。できません。そのような人は、不幸な人ですJ相対的条件を中心として、深く、広く、高く、世界以上の価値を誓うことができる心情の基盤をもって立つようになるとき、その前に外的に備えられたその権威が内的にも輝くのであって、内的基準が備えられないときは、いくら外的基準を備えたとしても、それはむしろ不幸を招く条件にしかなり得ないのです。(四八−二〇八、一九七一・九・一九)

 私たちは堕落した世界に生きていますが、この世界は何によって堕落したのでしょうか。堕落圏内には、世界だけでなく、国、国民、家庭もあります。このすべてが何によって堕落したのかという問題について見るとき、情緒的な堕落に間違いないという結論を出すことができます。私たちは、この世界で幸福を追求し、平和を追求するために、今まで外的な世界を中心として追求してきましたが、これを成し遂げることはできませんでした。外的な世界を中心として追求してきてみると、結果的にはすべて失ってしまったのです。(五〇−二一、一九七一・一〇・二四)

 私たちは、外的な統一よりも、絶対的な内的統一をしなければなりません。幸福や平和から心情を抜き取ってしまえば、残るものは何もありません。最大の権限をもつことができるものは心情です。心情は、歴史を越えて絶対的な基準で進むのです。(一六−二七四、一九六六・六・二六)

 皆さんの心と体は闘争しますか、しませんか。皆さんの個体は、昼夜の別なく闘っています。この争う個体が二つになれば家庭となり、十になれば村となり、千、万になれば民族となり、数百万、数億になれば人類となるのではありませんか。このひどい闘争が繰り広げられている所に、平和があり得るでしょうか。それは不可能だというのです。それゆえに、平和の起源は、個人から幸福にならなければなりません。肉的なものを処置し、心の欲望を補強しなければならないのです。それで、宗教は、肉的なあらゆる条件を完全に否定するところから出発するのです。(三五−五七、一九七〇・一〇・三)

 私たちの本心が平和を願い、幸福を願い、一つになることを願っているのは、永遠不変の真理です。永遠不変の真理なのです。それは変わることかありません。それは変わらないのですが、何が変わって問題なのかというのです。体が問題です。体は東西南北へ巡り歩き、一八○度変わります。変わる度数が高いほど悪側に近づき、変わる度数が低いほど善側に近づくのです。それは理論的です。(九四−二五〇、一九七七・一〇・一)

 皆さんの体を屈服させることができる能力をもつようになれば、皆さんの氏族、宗族を一つにすることは問題にもなりません。最も難しいことは何かというと、体です。それで、先生がこのようなことを知って、この道を開拓してくる際の標語が何であったかというと、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」ということでした。皆さんがいくら平和を願い、幸福を願ったとしても、この境界線を克服しなければいけません。これを撃破してこそ幸福が訪れてくるのです。(一〇六−三三四、一九八〇・一・二七)

 私たちのこの体は、サタンの王宮です。それゆえに神様は、「自分に勝ちなさい、自分を征服しなさい」と教えられるのです。私から一つになる道を模索しない限り、世界の平和的統一は絶対にあり得ません。今日、世界の人類は、外的な世界において、民主世界を中心として、あるいは共産世界を中心として、「一つにしよう、統一しよう、平和の世界をつくろう」と言っていますが、誤った考えですw私たちの心と体が闘ったままでは不可能だ、ということを皆さんは知らなければなりません。外的に一つにしたとしても、内的に私の心と体が闘っていれば、不可能なのです。したがって、真なる平和は私から始まるのです。(七二−一二〇、一九七四・五・二六)

 神様の血統を受け、永遠に神様の愛を受けなければならない体が、神様と本然の人間の怨讐である悪魔サタンの血を受けて、地獄に引かれていかなければならない恨めしい立場にある、という事実を今まで知りませんでした。言い換えれば、神様を中心として、平和な天国で理想的に楽しく暮らすことができる家庭をサタンが襲って奪い取り、不幸と地獄の世界をつくったというのです。それによって、神様は追い出されたのです。(五三−一四〇、一九七二・二・一三)

 私たちは、良心も生きており、体も生きていると自負しますが、善の因縁の中で生活することができないサタンの捕虜となっているので、死んだ者です。したがって、私たちを取り囲んでいる鉄窓を壊して出てこなければなりません。また、私たちの心の中、私の周囲には二つの主人がいて、平和などあり得ず、苦痛が連続しているのですが、ここにおいて、人生の道を探し求めていくべき私たちがもつべき覚悟と決意とは何でしょうか。私たちを取り囲んでいる鉄窓はほかならぬ体なので、良心を動員してこの鉄窓を押し分けて出てこなければなりません。その時が終わりの日です。

 自分が捕らわれているということも知らない人間に、神様は、内的には良心のとおりに生きることができるように宗教を立てられ、外的には善の教えを与えて導いてこられました。死亡の世界に生きてはいるのですが、この世代でない新世代、すなわち平和の世界で生きていく道人や烈士たちを立てて役事してこられたのです。(一二−八五、一九六二・一一・一)


七 男性と女性、そして平和

 世界に平和をもならすことができる希望ある思想体系は、文総裁が唱えているこの思想しかないというのです。共産世界も、民主世界も、すべて失敗しました。今、残されたものは、「ため」に生きなさいという哲学、永遠の生命を流出し得る真の愛、神様の対象である私が神様よりも高くなり得る価値をもったことを賛美し得る自我の発見のみです。ここにおいてのみ、永遠の平和世界、永生の地上天国と天上天国が連結するということは、理論的に正しいというのです。(二〇四−二三〇、一九九〇・七・一)

 男性と女性が永遠に真なる道を歩むことができたならば、世界の多事多端な問題はすべて収拾されるのです。二人にかかっているというのです。この二人が、人間の本然の基準において完全に一致することができる立場に立てば、平和の世界は目の前に訪れてくるのです。いくら環境的条件が良くても、皆さんの心と体が不和であり、心と体が闘うようになるときは、その良い環境的条件は皆さんとは関係ないのです。平和で幸福の基盤とはなり得ないというのです。問題は自分にあります。深刻なことです。(二七三−二〇八、一九九五・一〇・二九)

 日と月と星も、一年に一時間も休みません。休みますか、休みませんか。新しい日のために絶えず前進するのです。それと同じ歩調を合わせる人は発展し、それと反対の歩調に合わせれば滅亡するのです。活動するのは、あすの希望のためです。活動するのは、あすの理想的愛の世界のために、平和の世界のために、幸福の世界のためにです。愛を除いた平和はなく、愛を除いた幸福はない、ということを知らなければなりません。

 天国に入っていこうとすれば、理想的家庭を回復しなければなりません。それを知っているでしょう? アダムの心と体が分かれ、エバの心と体が分かれて、この二人の夫婦が怨讐となり、その息子、娘は殺戮戦を繰り広げました。家庭においてひっくり返したので、家庭においてひっくり返さなければ、帰っていく道がありません。平和の基地はどこかというと、国でもありません。

 「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」。それが先生の標語です。問題は私にあるということをすべて回避し、ほかのところにあると考えるので、すべてのものが滅びていくのです。平和の基準は私からです。私の責任です。国の責任ではありません。

 前進的自我を発見し、前進的主体性を中心として、平和の基準は私から、幸福の基準は私から、真なる愛は私から、真なる祖国光復は私から、「責任を完遂したのちに死のう」と言わなければなりません。(二七一−一六一、一九九五・八・二八)

 世界問題が数限りなく横たわっていたとしても、この問題は男性と女性の二人の問題から延長したものだ、ということを知らなければなりません。今日、世界平和、平和を造成する「青年連合」がすべきこととは何でしょうか。平和をどこから造成するのでしょうか。男性と女性から食い違ったすべての問題、男性と女性の根本問題の戦場を解決することによって、その外的相対世界の八〇パーセント以上は自動的に解決されるのです。女性ゆえに、男性ゆえに混乱した世界となりました。どのような男性と女性でしょうか。心と体が闘っている男性と女性です。男性と女性がなぜ闘うのかというのです。心と体がなぜ闘うのかというのです。体は、体を第一とし、心は、心を第一としており、体が心を第一とすることよりも強いからです。このような動機の出発、原因は何でしょうか。これを糾明しなければいけません。(二六七−二二七、一九九五・一・八)

 世の中のあらゆる複雑な問題は、男性と女性の二人の問題です。二人の問題です。家庭を中心とした二人の問題が混乱して、社会問題、国家問題、世界問題へ展開していったのです。家庭さえ整備すれば、あらゆる問題はすべて終わります。平和の世界は、目の前に訪れてくるのです。間違いない男性、間違いない女性、先生が主張する天理の法度に公認を受けることができる男性と女性、そのような家庭になれば、世の中は変わっていくのです。(二七一−二五八、一九九五・八・二八)

 男性と女性の二人の問題さえ完全に解決し、それが一つの標準型として出てきて、これを型に押してつくることができるようになれば、世の中は一つの平和世界、理想の世界となるはずだというのです。それは理にかなった話です。

 世界問題は、男性と女性の問題を解決すれば終わるのです。家庭で争いをしているのは、世界戦争の続いている現場だということを知らなければなりません。この戦争が終わらない限り、世界の平和や国の平和はあり得ず、幸福はあり得ません。闘争の世界には神様が存在されることはできないので、悪魔が存在するのです。(二五四−二一七、一九九四・二・一三)

 全世界は、平和の世界に行く方向も、統一世界に向かう中心も失ってしまい、死亡と塗炭の苦しみの渦中で呻吟しています。世界は、罪悪世界になりました。国家も、社会も、家庭も、個人もそうです。どうして世界がこのように悪になったのでしょうか。個人は、歴史を通して心と体が闘っています。この闘いは歴史とともに始まり、今まで継承されてきているのです。争う個人から、自然に争う家庭、争う国家、争う世界となって、悪のサタン世界、地獄世界を形成しました。争う世界の出発点、個人は、男性と女性の二人の問題です。

 体は地獄に向かう基地となっており、心は天国に向かう基地となっていることを知って、心と体を統一し、平和の立場に立って、神様の血統を再度伝授してもらわなければ、神様の懐に帰っていくことはできません。(二五四−一〇二、一九九四・二・一)

 人生の根本問題は何でしょうか。家庭において、男性と女性の問題をいかにして円満に解決するかということです。これは、歴史に責任をもっていくあらゆる指導層の人々、あるいは思想界や宗教界のすべての責任者が解決しなければならない重大な問題です。教会をいかにして発展させるのかが問題ではなく、国をいかにして発展させるのかが問題ではないというのです。いくら国が発展し、いくら教会が発展したとしても、家庭の出発基準となる男性と女性の問題を解決しなくては、そこに平和はあり得ないというのです。(二四二−一四、一九九二・二一・二七)

 平和の世界は、私から始まらなければなりません。世界を与えても替えることができない平和の心にならなければなりません。このようなことが問題です。人間の欲望というものは、天地のすべてのものを自分のものにしたいと思うのです。すべての中心的価値の位置に立ちたいと思うのです。そのようになろうとすれば、原則的基準で統一的公式路程を経ていってこそ、その公式路程に計算されたすべての道が完全に一致し、最後の統一の目的地まで到達することができるのであって、公式と食い違えば、いくら欲望を捨てたとしても不可能だというのです。今日、宇宙を構成するすべてのものは、公式的な法度の上で動いているのです。今日の科学技術も、公式の発展基台の上で成立しているのです。(二三〇−三一七、一九九二・五・一〇)

 平和統一の起源は私です。心と体が一つになることができなかったのです。皆さんの心と体は一つになっていますか。これがどのようにして分かれたのか、ということを知らないのです。今まで、数多くの聖人、賢哲が現れましたが、心と体の統一を文先生のように強調し、そのように教えた人は一人もいません。対外的な世の中が悪いとばかり思ったのであり、世の中の教養の目的が外に対するものだとばかり思ったのであって、自分自身に結実しており、自分自身から出発している、ということを知らなかったのです。(二二〇−一六、一九九一・一〇・一三)

 今日まで、多くの聖人たちが対社会問題を扱い、それを整備する教育は行ってきましたが、自分白身を清く整備し、これを祭壇で燃やし、新しい花畑に種として植えられて香りをもった実を取ることができる、このような花畑をつくりなさいと、教えてあげた人はいなかったというのです。今、初めて文先生が現れて根本を探し出し、「世界平和を願う前に自分自身の統一をもたらしなさい」と主張しているのです。(二〇六−八三、一九九〇・一〇・三)

 人類の平和の基地、幸福の基地、希望の基地が愛だというとき、神様がいらっしゃるとすれば、その神様はどこに行きたいと思われるでしょうか。神様は、私たちと異なるでしょうか。私たち人間と異なるところはないのです。それでは、その神様は、どこにいたいと思われるのでしょうか。愛する夫婦、男性と女性が本当に愛する所にいたいと思われるのであり、父子が本当に愛する所にいることを願われるというのです。それは、神様が人間に対して願う結論であり、人間が神様に対して願う結論です。

 このように見るとき、平和が世界にあることを願うのでしょうか、幸福が世界にあることを願うのでしょうか、すべての喜びが世界に充満することを願うのでしょうか。それらをすべて願うのですが、そのすべてのものはどこを中心として動きたいと思うのでしょうか。男性ならば男性、女性ならば女性である私、夫婦、父子を中心とした愛を中心として関係を結びたいと思うのです。そうならなければならない、ということは自然な結論だと言わざるを得ません。(二〇五大九八、一九九〇・九・二)

 平和は、皆さんから始まるのです。「私」からです。「私たち」ではありません。私たちはあとです。私、私です! 私が問題です。すべてのことは、私が問題です。そのような基盤を築くことができなければ、どこにも通じることができず、誰にも従うことができず、いかなるものもコントロールできません。それはどういう意味かというと、滅びるということです。これは、誰も否定し得ません。あなた、あなたです! 皆さん自身が問題です。先生が問題ではありません。(二〇五−一四六、一九九〇・八・一二)

 変わらない神様の前に、変わる人になろうというのは冒涜です。私も変わらないようにしなければなりません。変わらない愛の前に、変わる愛を探すというのは冒涜です。変わらない平和の主体の前に、変わる平和を探すというのは冒涜だということを知らなければなりません。問題は私です。(二〇五−二〇四、一九九〇・九・二)

 お母様が、エバの責任を果たすことができなかったことを解放してあげることによって、初めて女性解放運動が起きるのです。三年圏内において、女性解放を通して国を取り戻していかなければならないのです。国を取り戻していく時代に入ってきたので、結婚式を行うようになりました。サタン圏内から三十六万家庭を取り戻してくることによって、サタン世界は崩壊するのです。今、世の中の家庭は完全に吹き飛んでいくようになっています。このようなことが起これば、これが大きな主流となるのであり、文総裁の家庭理想は、人類を解放し平和の世界へ行く近道だということをすべて知るようになったので、反対がありません。(二七二−五〇、一九九五・八・三〇)

 終わりの日が来たので、今日、天側から女性解放を叫ばざるを得ないのです。それで、お母様を中心として、一九九二年四月十日に「世界平和女性連合」を創設したのです。世界平和を成すことができるのは、男性ではなく女性たちです。世界は、完全にその女性圏内において、二世たちを中心として動くのです。男性ではありません。一世は悪魔の体です。サタンの体となりました。二世と母親、その母子圏を中心として完全に一つとなって女性解放を叫ぶことにより、サタン世界は崩壊するのです。(二四二−一二〇、一九九三・一・一)

 各国の社会が女性指導者の皆さんによって浄化され、真の愛によって平和を成す時、初めて世界統一の宿願も成就されるのです。そればかりでなく、女性が世界を指導し、平和な世界も成し遂げられるはずです。(二三四−二六四、一九九二・八・二六)

 今、メシヤとして来られる真の父母の前に、今まで男性たちが主導してきた戦争と暴力、抑圧と搾取、そして犯罪の世界を終結させ、平和と愛、そして自由の満ちあふれた理想世界を実現する真なる役軍が、まさしくこの時代の女性たちです。

 人類の真の父母であるメシヤが再臨するこの時代、南・北韓が愛と真理で統一されるこの時代、世界のすべての宗教が一つになる正にこの時代において、全人類が人種と理念を超越して平和の新世界を創造するために召命を受けた皆さんに、神様は無限の祝福を下さることでしょう。(二二九−八二、一九九二・四・一〇)


















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