文鮮明先生の平和思想
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 世界平和と統一に関する文鮮明先生のビジョンと実践 1

第三章 文鮮明先生の平和思想

一 平和は相対的関係において成立

 神様は、絶対者であられ、唯一のお方です。唯一のお方が、完成の基準を自分お一人におかれたのでしょうか。そのようにすれば、大変なことになるのです。喜びと幸福というものは、一人をおいていう言葉ではありません。幸福も、相対的関係をおいていう言葉です。母と子の間において、二人が一つになるところに幸福があるのです。「平和」という文字自体が、平らに和するということであり、既に相対性を含んでいるのです。平和、幸福、このすべての言葉は、独自的な立場をおいていう言葉ではないというのです。相対圏における関係を前提として、平和や幸福というのです。(一三六−一〇四、一九八五・一二・二二)

 神様は、なぜ天地を創造されるようになったのでしょうか。神様は、絶対的な主体ですが、主体だけでいては喜びがあり得ないというのです。喜びというものは、一人でなされるものではなく、相対的関係においてなされるものです。平和も幸福も、一人でなされるのではありません。相対的関係においてのみ平和が成し遂げられるのであり、幸福が成し遂げられるのです。それゆえに、神様も独自的な立場では、神様の本分を果たすことはできないというのです。(五八−二一〇、一九七二・六・一一)

 今まで、平和を追求しなかった時代はありませんでした。しかし、変化と不信に満ちたこの地が、今になってそのような理想的要件を成就させることができる立場に立つのではなく、袋小路にぶつかっていることを私たちは直視しています。

 私たちは、変わる人間世界を越えて、ある絶対的なお方、不変であると同時に永遠であられるそのようなお方がいらっしゃるならば、そのお方を通して私たち人間が追求するこのような要件を成就させることができる、と考えざるを得なくなるのです。そのようなお方がいらっしゃるとすれば、そのお方は神様に間違いない、と結論づけることができます。その神様は、理想の主体であられ、愛の主体であられ、幸福と平和の主体だと言わざるを得ません。

 そのような観点で、神様御自身を中心として、このような幸福や理想、あるいは平和や愛という言葉を考えてみるとき、これらの言葉は、神様お一人をおいて言うことができる言葉ではなく、どこまでも相対的関係において成立する言葉だということを私たちは知ることができるのです。

 このように考えてみるとき、今日の私たち人間は、神様の愛を成就させ、神様の理想を完結させ、神様の幸福と神様が願われる平和を完結させるにおいて、なくてはならない存在だという結論が出てくるのです。このことを、私たちは全く分かりませんでした。したがって、私たち人間が神様の提示される内容に一致することができる道を模索すること以外には、神様と人間の相対的な理想を完成させることはできないということは当然の結論なのです。(七四−四六、一九七四・一一・二七)

 完成した個人は、神様の創造理想に代わることができます。神様が万物をつくられたのは、ただそのまま御覧になるためではありません。喜ばれるためにつくられたのです。喜びによって幸福になるのであり、幸福になることによって、そこにお互いの平和な環境が成し遂げられるのです。それゆえに、喜びを生み、幸福の問題を解決することができる中心要件は何か、平和の起源となり得る核とは何かという問題を考えてみるとき、これは、絶対的な神様の愛と相対的な関係を結ぶ立場しかないというのです。(六三−一五五、一九七二・一〇・四)

 アダムとエバが、もし神様を中心として完全に一つになっていたならば、相対的立場においても絶対者と一つになっていたので、彼らの愛は絶対的な愛になっていたでしょう。そのようになっていれば、その絶対的愛の圏内で生まれた息子、娘も、絶対的な愛を受けるようになるので、自然に絶対的相対圏に立つようになるのです。絶対的相対圏において、矛盾や相克なく順応する立場に立つようになれば、そこに絶対的愛が共にあるのであり、彼らは絶対的愛の主管を受けるようになります。そして、その息子、娘たちは、平和な愛の垣根の圏内で育つのです。そのような雰囲気では、父母と子女がお互いに和合することができ、神様の愛を賛美することができるのであり、そこにおいて、今日の統一教会が主張する四位基台基準、すなわち理想的な家庭の形態が展開するのです。(五一−一六八、一九七一・一一・二一)

 先生が昔、「この宇宙の根本は何ですか」と、深刻な立場でそのような祈祷をした時がありました。その時、答えは何だったかというと、「父子関係だ」というものでした。そのようになる日には、この宇宙は、一つの世界になるのであり、この世界は平和の世界になるのです。(一〇四−九九、一九七九・四・一五)

 ここにメートル尺があるとしましょう。実際の一メートルはこのくらいなのに、自分勝手に尺を作って「このくらいが一メートルだ」といって測ってはいけません。自分勝手に測ってはいけないというのです。メートル尺は、必ずメートルの原器を中心として製作されたものでなければなりません。それで測らなければなりません。言い換えれば、中心をおいてそれと比較した立場で評価しなければならないというのです。ですから、このように言葉を話すにしても、それを中心として測って話さなければならず、行動するにしても、それに合わせて行動しなければなりません。そのようにしてこそ、平和の基盤が築かれ、統一の圏が展開するのです。(五一−七九、一九七一・一一・一)

 平和は、すべてが一つになる起源を離れては不可能です。神様が愛と生命、理想の主体としていらっしゃるのならば、神様は、人間と一つになるために、人間と対等な愛と生命と理想が連結することができる立場を策定しなければならないのです。(六九−七五、一九七三・一〇・二〇)

 人間において、最も貴重なものは何かと尋ねれば、「永遠で真なる理想と愛と平和と幸福だ」と答えるでしょう。真なる理想と愛と幸福と平和というものは、歴史時代において、いつの時も、いつの時代も人類が渇望しなかったことがないことを私たちは知っています。そのような真なる理想、永遠で不変な理想を私たち人類は探し求めて疲れ果て、突き当たりの壁にぶつかって窒息状態に陥っていることを、私たちは直視しているのです。変わる人間世界には、それをいくら探し求めても不可能だという立場に至ったので、もし、変わらず永遠で真なる人間以上のものがいるとすれば、それを通してもう一度探してみることができる可能性があると思うのです。そのようなお方がいらっしゃるとすれば、そのお方は「神様だ」と言わざるを得ません。

 いくら全能であられる神様でも、皆さんが知っているように、理想や愛や平和や幸福というこれらの言葉は、一人をおいていう言葉ではないのです。これは、相対的関係において成立する言葉であることは間違いありません。いくら神様が平和の源泉であり、幸福の源泉であり、愛の源泉であり、その理想の源泉だとしても、神様お一人ではできないのです。その理想で何をし、その愛で何をし、その幸福で何をし、その平和で何をするのかというのです。

 神様と私たち人間自体を見てみるとき、これは、二人といない父子の関係、あるいは、相対的関係だということを私たちは知っています。それゆえに、今からこの事実を取り戻さなければなりません。堕落した私たち人間たちも、「愛」といえば、その愛が永遠でなければならず、不変でなければなりません。また、平和も理想も、すべてのものが永遠であることを願うのです。そうだとすれば、神様御自身を中心として見てみるとき、神様は永遠の主体であり、不変の主体であり、理想の主体であり、唯一の主体であり、幸福の主体なのですが、そのお方御自身が、自分の対象的存在格である息子、娘という存在が少しの間いて、いなくなることを願われるでしょうか。神様が永遠のお方であるならば、その愛の対象であり、理想の対象であり、幸福の対象であり、平和の対象である私たち人間も、永遠でなければならないというのは妥当なことです。神様が永遠の愛、永遠の理想、永遠の幸福を備えていらっしゃるのならば、永遠の世界がなければならないので、このような世界を宗教では「天国」と言うのです。(七三−一八八、一九七四・九・一七)

 不幸な人とはどのような人でしょうか。与えようとしても与えることができず、受けようとしても受けることができない人が不幸な人です。一人では幸福はあり得ません。一人では平和はあり得ません。平和というものは、相対的関係において展開するのです。愛や幸福や平和という、このすべてのものは、絶対に一人でいるときに成立するものではありません。相対的関係において成立する言葉であるならば、その相対が完全な相対でなければ、完全な幸福はあり得ず、完全な平和と完全な愛はあり得ないという結論が出てくるのです。

 その完全な愛、完全な平和の基準をどこに行って見いだすのでしょうか。毎日のように変遷し、人の心は朝夕に変わり、山の色は古今同じであるという論理に適用される人間世界では不可能だというのです。絶対に不可能なのです。変わるところにおいては見いだすことはできません。(八二−二九〇、一九七六・二・一)

 人々が真で永遠の愛と理想と幸福と平和を、追求しなかった時はなかったと思うのです。しかし、今に至っては、不信と反目に満ちたこの地上で、そのような与件を願うことは難しいということを悟っています。既に絶望段階にぶつかり、すべての人々は、窒息状態に処しているのを私たちは直視しているのです。

 そのような観点から見るとき、私たち人間同士では、このような理想的な世界、あるいは真で永遠の愛の世界を成し遂げることはできないと思うとき、永遠で真なるある絶対者がいらっしゃるとすれば、その絶対者を通じる道しかないと思うようになるのです。そのようなお方がいらっしゃるとすれば、そのお方は神様だと言わざるを得ません。そのお方は、永遠であり、不変であり、唯一的な存在であられるので、そのお方が願われる理想もそれと同じであり、愛もそれと同じであり、平和と幸福もそれと同じであることは間違いありません。

 皆さんが知っているように、愛や理想や平和や幸福というそのような言葉は、一人で成立する言葉ではなく、相対的関係においてのみ成立する言葉だということを、私たちはここではっきりと知ることができるのです。いくら神様でも、万人で愛して何をし、理想があれば何をし、平和と幸福をもてば何をされるというのでしょうか。相対がいなければ成り立たない言葉なのです。

 この宇宙の中で、神様の前に相対的な存在となることができるのは、いくら考えてみても、人以外にはいないと断定できるのです。そのように考えてみれば、今日の私たち人間自体が、神様の理想や、神様の愛や、神様の幸福や、神様の平和というものを成就させるにおいては私たちでなければならないという、このような価値的な存在であることを全く考えることができませんでした。(七四−一六一、一九七四・一二・七)

 私たちが一つの公式を立てることができるとすれば、その理想的公式とはどのようなものでしょうか。あるいは、幸福と平和の理想的公式とはどのようなものになるのでしょうか。これが問題です。皆さんは、今まで生きてきながら、唐突に「いったい人間というものはいかなるものなのか、自分とはいかなるものなのか」という疑問をもったことでしょう。深刻な問題です。そうでしょう? 人生観がどのようになり、国家観がどのようになり、あるいは世界観、宇宙観、神観がどのようになっているのでしょうか。「ああ、その人生観! 人間自体が分からずにいるのに、何か国家観、世界観だ。ああ、何か宇宙観、神観だ」と思ったかもしれませんが、皆さん、人間は、人間だけで孤立した立場にいることはできないのです。対応的な関係圏を経て、主体と対象関係において、必ず結果的な因縁を確認しなければならない運命の道を歩んでいるのです。(七七−一一六、一九七五・四一)

 昔から人類は、永遠でありながら真で変わらない愛と理想と幸福と平和を慕ってきたことを、私たちは知っています。

 そのお方が真なる愛、真なる理想、真なる平和、真なる幸福を念願されたとすれば、そのお方を通してこそ、これが可能となる道がある、と思わざるを得ません。そのような立場で考えてみるとき、そのようなお方がいらっしゃるのならば、そのお方は神様に間違いありません。

 神様は、愛の王となることができるお方であり、理想の王となることができるお方であり、平和と幸福の王となることができるお方です。そのお方を通して、人類が追求してきたこのような理想的要件を成就するためには、そのお方が提示される内容を私たちが知り、従っていかなければならないという結論を下すことができるのです。これは、当然の結論なのです。

 私たちが考えてみても、愛や理想や幸福や平和というものは、一人で成立するものではないということを知っています。それは、必ず相対的な関係において成立するものなので、いくら神様が絶対者としていらっしゃるとしても、その神様が願われる愛と理想と幸福と平和は、万人で成し遂げることはできないのです。神様御自身においても、必ず相対が必要だということは必然的な帰結です。

 それでは、いったいこの被造万物の中で、神様の対象となることができるそのような存在がどこにいるのかと反問するとすれば、それは言うまでもなく、人間以外にはいないという結論が出てくるのです。神様の理想を成就させることができ、神様の愛を成就させることができ、神様の幸福と神様の平和を完結することができる対象が人間だという事実を、私たちは全く考えることができませんでした。神様お一人で愛して何をし、神様お一人で理想を見いだして何をし、神様お一人で平和で幸福になって何をするのですか。必ず相対となる人間を通さなければ、このような要件を成就させることができないということは当然の結論です。(七五−三一五、一九七五・一・一六)

 今日、既成の神学者たちは、「創造主と被造物は対等な立場に立つことはできない」と主張しています。もしそれが事実であるならば、愛は誰を通して成し、理想と幸福と平和は誰を通して成し遂げるのでしょうか。相対なくしては成し遂げることはできません。

 さらにもう一歩進んで、永遠であられ、不変であられ、絶対的で唯一であられるお方が神様であるならば、愛の対象として造られた人間に対して、「ああ、少しの間、私が必要な時だけ、私の何かの事情による時だけ、お前は私に必要だ」、そのように考えることができるでしょうか。そのように考えることはできません。愛しているので、理想的なので、幸福の対象なので、平和の主体と対象の関係をもっているので、一時的ではなく、絶対的で永遠であり、不変であられる神様のように、その対象も絶対的で永遠であり、不変の存在にならなければなりません。このような事実を私たちは、ここから知らなければなりません。(七七−一〇八、一九七五・四・一)

 この地上に生きている数多くの人々の中には、昔から今まで、その誰も真で永遠、不変な愛と理想と幸福と平和を追求しない人はいないということを私たちは知っています。しかし、変わる現世、混乱状態が深刻になっていくこの時に、反目と嫉視が飛び交う社会状態において、人類が追求する理想的な要件を見いだすことにおいては、既に袋小路にぶつかり、窒息状態にとどまっていることを私たちは直視しています。

 もし神様がいらっしゃるのならば、神様御白身も真なる愛を願わざるを得ません。また真なる理想、真なる平和、真なる幸福を願わざるを得ません。神様は、正に愛の王であられ、理想の王であられ、平和と幸福の王であられることは間違いありません。ゆえに、そのお方が要求される愛や理想や幸福や平和という要件を、私たち人間がそのお方の側で提示される内容に従って、そのお方の要求に一致することができる道を模索するという方法以外には、私たちの人間世界で真なる愛の世界、幸福の世界、理想の世界が顕現することはできないと思うのです。

 神様がいらっしゃるとしても、愛や理想や幸福や希望という言葉は、神様お一人では成立しません。これらは、どこまでも相対的与件が成立したのちに成し遂げられる言葉なので、いくら絶対的な神様であられても、その神様の愛と理想と平和と幸福を成し遂げるためには、必ず神様の前に相対的存在が必要だという意味になるのです。

 そうだとすれば、この宇宙の中で、果たして神様の相対になることができる存在は何だろうかと反問するとすれば、これは人間以外にはいないと誰もが答えるでしょう。神様の愛と理想と平和と幸福を完成させるにおいて、神様御自身だけでは成し遂げることはできず、相対的な存在を通してのみ可能であり、その相対的な位置に立つことができる存在が正に人間だというのです。私たち人間でなければ、神様の愛と理想と平和と幸福を成就させることはできないという事実を、私たち人間は今まで考えてみることすらできませんでした。今日、この「私」という存在が神様の理想と愛を成就させるにおいて絶対に必要だという人間本然の価値を、私たちは再び回復しなければならないと思うのです。(七七−一〇〇、一九七五・四・一)

 神様がいらっしゃるならば、その神様は、お一人で愛を成就することができるのかといえば、それはできないというのです。神様がお一人で理想を成就することができるでしょうか。神様お一人で幸福と平和を享受することができるでしょうか。それはできないのです。

 皆さんが知っているように、愛というものは、万人で成すものではありません。「理想」や「幸福」や「平和」という言葉は、一人でいる立場で成し遂げられるものではなく、相対的関係において成し遂げられるものなので、神様の理想を成就するにおいても、相対がいなければならないのです。神様の愛を完成させるにおいても、相対がいなければなりません。神様の幸福と神様の平和を成就させるにおいても、相対がいなければ成就させることはできません。神様がお一人で愛して何をされ、理想を成就して何をされ、幸福になって何をされ、平和を成して何をされるのでしょうか。これは、必ず相対を立ててこそ可能だという結論になるのです。

 今日、私たち人間は、自分自身というものが卑賤なものだと思っていましたが、私たち個々人によらなければ神様の愛を完成させることができないという事実、私自体でなければ、神様の理想を成就させることはできないという事実、神様の幸福と神様の平和を完成させるのは私たち人間でなければならないという明確な事実を、今まで知りませんでした。

 不足な私ですが、神様の愛を完結させ、理想を完結させ、神様の幸福と平和を完結させることができる、より高次元的な価値の存在だということを、私たちは、ここでもう一度悟らなければなりません。(七七−一八二、一九七五・四・六)

 私たち人間は、今まで真で永遠、不変な愛と理想と幸福と平和を期待しない時がありませんでした。変わる人間を通しては、このような理想的要件を成就させることはできません。これは、今日私たちが現時点において処している世界の状況を見つめてみるときに、如実に証明される事実です。

 このような時に、絶対的で、永遠で、唯一で、不変であられる神様がいらっしゃるならば、そのような神様によって、新しい見地に立った真なる愛、真なる理想、真なる平和、真なる幸福の起源を要求せざるを得ないのです。そのような立場で考えてみるときに、神様御自身が描かれる神観、神様御自身が描かれる人生観、神様御自身が描かれる物質観、これを明確にするところから新しい平和と新しい幸福の世界を私たちは迎えることができると思うのです。

 ここで問題となることは何でしょうか。いくら絶対的な神様だとしても、その神様お一人で愛や理想や幸福や平和というものを達成なさることができるのかというときに、神様お一人では不可能だということです。愛や理想や平和や幸福という言葉は、一人で成立させることができる言葉ではありません。どこまでも相対的要件のもとで形成される言葉なのです。

 ですから、いくら絶対的な神様だとしても、その神様の前に相対がいなくなるときには、神様が願われる絶対的愛、絶対的理想、あるいは絶対的幸福、絶対的平和も成就することができないという結論が出てくるのです。

 そのような観点から見るとき、今日この被造世界において、その絶対的な神様の前に対象的な存在として登場することができる存在とは何でしょうか。人間以外の、また別の存在がいるとは考えられません。この人間だけが神様の理想を成就させることができる対象であり、神様の真なる愛を完成させることができる対象であり、神様の幸福と神様の平和を完成させることができる対象の価値を備えているという事実を、私たちは全く分かりませんでした。

 神様は主体であり、私たち人間は対象です。真なる愛の王となることができる神様、真なる理想の王になることができる神様、真なる平和の王になることができるその神様の前に、対象である人間自体を見てみるときに、私たちは無限な価値を備えた存在だ、ということをここから理解しなければなりません。(七七−二六〇、一九七五・四・一四)

 私たち人間がどのようにすれば、そのお方が要求される理想的要件を結びつけることができるのか、ということが問題にならざるを得ないのです。人は昔から、真で変わらない愛と理想と平和と幸福と自由を自分なりに追求してきましたが、今に至っては、すべて袋小路にぶつかって希望をもつことができないばかりか、絶望の中で自分自体を恨み嘆くと同時に、世界を恨み嘆かざるを得ないような絶望状態を直視する立場に立っているのです。

 神様と私たち人間は、このような真なる理想を願い、真なる愛を願い、真なる平和と幸福を願っているのですが、いつこのような理想世界、愛の世界、幸福の世界、平和の世界が決定されるのでしょうか。それは、二つが一つになる時です。

 主体が誰で対象が誰かという問題を考えてみるときに、神様が主体にならなければならないというのです。神様が主体として要求される要件を明確に悟って、神様の側で要求する要点に従って一体化させることができる人間自体を発見しなければなりません。したがって、人間自体をもう一度その基準にまで形成させるようにしなければならないのであって、そのようにしなければ、神様が願われる真なる愛、真なる理想、真なる平和、真なる幸福は、私たち人間と共に成立させることはできません。この事実は、当然の結論です。

 ですから、今から皆さんは、神様が提示される内容に従っていかなければなりません。ここで問題となるのは、神様が主体であり、人間は対象だということです。それでは、真なる愛や、真なる幸福や、真なる平和という言葉自体は、一人を前提としていう言葉なのかと問いただしてみるときに、一人を前提としていう言葉ではないというのです。愛といえば、それは、必ず主体と対象関係を公認するところにおいて成立するのです。平和といえば、一人で平和になれますか。ここには、必ず主体と対象関係が必要なのです。また、理想といえば、一人で理想があり得ますか。理想はあり得ないというのです。ここにも、やはり主体と対象関係が必要です。そして、幸福なら幸福も、万人を前提としていう言葉ではないということを、私たちはここで知らなければなりません。このような言葉は、必ず主体と対象関係において決定されるのです。

 したがって、ここで一つの問題を提示するとすれば、神様の真なる愛、神様の理想、神様の幸福、神様の平和を達成するにおいては、その対象がいなくては神様もできないというのです。神様がお一人で、「ああ、愛そう」と言って愛して何をするのですか。神様お一人で理想といって何をするのですか。神様がお一人で平和や幸福があって何をするというのですか。必ず対象がいてこそ、神様も幸福、平和、愛、理想が可能になる、ということを私たちは考えることができるのです。

 今晩ここに参席した皆さんに、一つ記憶してもらわなければならないことは、神様の真なる愛と理想と幸福と平和を完成させるにおいては、私という人間自体がいなければ不可能だということです。このような事実を記憶してくださることをお願いします。私たちは、このような価値を全く分かりませんでした。このように高貴で理想的な尊厳な価値、神様までも愛から解放することができ、神様までも理想から解放することができ、神様までも幸福と平和から解放することができるこの尊厳な価値を知って、今からは、心深く頭を下げながら自らを賛美し得る皆さんになってくださることを願ってやみません。(七七−三一三、一九七五・四・三〇)

 真なる幸福と真なる平和と真なる自由、私たちは今も、この絶望的な塗炭の苦しみの中に立っている現実において、それを追求しているのです。しかし、このようなすべてのものを成就させることができない原因はどこにあるのでしょうか。いくら人間が努力したとしても、これは探し出すことはできないというのです。

 その真なる愛は、人間から訪れるものではありません。絶対的な神様がいらっしゃるのならば、神様から訪れるのです。真なる理想は、人間から訪れるのではなく、絶対的な神様から訪れるのです。真なる平和、真なる幸福、真なる自由は、人間から訪れるのではなく、真なる神様から訪れるので、神意に一致することができる立場に立つことができず、何か間違った立場に立っている人間は、そのようなところに到達できないと考えることができるのです。

 このような観点から、「愛」や「理想」や「幸福」や「平和」や「自由」というこのような言葉は、一人で成立する言葉ではなく、必ず相対的要件のもとで成立することを私たちは否定することはできません。(七八・一〇四、一九七五・五・六)

 絶対的な神様がいらっしゃるならば、その神様がお一人で、「ああ、愛だ」と言うことができますか。神様お一人で、「私の理想がある。私は幸福だ。私は平和の中心だ」と言うことができますか。それは成立しないというのです。ここには、相対が絶対に必要だという事実を私たちは知らなければなりません。相対が必要だというのです。

 いくら全知全能で、全宇宙を造られ、それを動かす神様であられるとしても、相対がいなくては神様の愛を成就させることはできないのであり、人がいなければ理想と幸福と平和を達成することはできない、というのが最も理論的な結論です。

 きょうここに参席した皆さんが、「私は、神様の愛を完成させることができる驚くべき存在だ。私は、神様の理想を実現させることができる驚くべき存在だ。私は、神様の幸福と神様の平和を成就させることができる驚くべき存在だ」ということを自覚して帰るとするならば、皆さんは、この時間に何よりも貴いものを見いだして帰ることになると思うのです。(七八−一〇三、一九七五・五・六)

 愛や平和や幸福、このようなすべての言葉は、相対的関係においてのみ成立するのです。一人ではできません。「ああ、私一人で愛だ。愛だ」と言えば、それは狂った人になるのです。「私一人で平和だ。平和だ」と言えば、狂った人です。「私一人で幸福、幸福」と言っても、一人で幸福になることができますか。それは狂った者です。それは、相対的与件、愛を中心として連結されなければなりません。愛を見いだせば幸福は自動的に訪れるのであり、愛を見いだせば平和も自動的に生じるのです。それは副産物です。(八五−五五、一九七六・三・二・)

 人類歴史上いかなる時代においても、人間は、永遠で、普遍的で、真なる愛と幸福と平和と理想の世界を追求してきました。現代においても、これが実現されることを待ちわび、追求しているのです。しかし、その希望が欠乏した立場に立っているという事実を、私たちはあまりにもよく知っています。ですから人々は、落胆して、「この世界は、もう終わりだ。これ以上行くことができない」という限界にまで追い込まれ、窒息圏にいるという事実も、私たちはよく知っています。

 このように変化していく人類世界において、そのような希望が成し遂げられないとしても、もし人間を超越して絶対的な神様が存在されるとすれば、その神様は、真なる愛、真なる平和、真なる幸福、真なる理想を成就されるのは間違いありません。これ以外に私たちが追求していく道はないのです。

 このように考えてみるとき、神様御自身は、愛の王であられ、あるいは平和と幸福の王であられ、理想の中心者に違いありません。それゆえに、人間がそのようなものを追求していきながら限界にぶつかってしまうようになれば、神様を通して打開していく道以外にはないと思うのです。

 「愛」や、「幸福」や、「平和」と「理想」という言葉、それ自体を考えてみるときに、そのようなものは、万人では成し遂げることができないものだと思うのです。愛も、幸福も、平和も、理想においても、相対関係がなければ成し遂げることができません。そのように考えてみるとき、神様においても、神様御自身だけで愛や幸福、そして平和と理想のようなものを成し遂げることができるでしようか。このように質問を繰り返していけば、神様も「自分だけでは成し遂げることができない」と言わざるを得ません。ですから、相対関係の理想を成し遂げるにおいては、この宇宙世界において、誰かがその相対の立場に立たなければならないということになるのです。

 このように考えていけば、この宇宙の中で、もし神様が主体だとすれば、その相対的な立場に立つことができるのは、私たち人間以外にはいません。そうだとすれば、神様が願われる愛の完成は、神様の愛によって成し遂げられるのではなく、神様の平和や幸福や理想も、やはり神様御自身だけによって成し遂げられるのではなく、私たち人間かいなくては成し遂げることができない、という事実を考えることができるのです。そしてまた、今まで全人類、あるいは個々人においても、ここまで考えた人はいなかったことを感じるようになるのです。(七二−一〇、一九七四・五・七)

 神様は愛のないお方でしょうか。そうではありません。神様は愛をもっていらっしゃいます。しかし、愛を感じ得る対象をもつことができなかったというのです。愛は、一人では絶対に感じることはできません。幸福も感じることはできません。幸福も同じです。平和というものも、一つの国をおいていうものではなく、相手の国家との間において成立することができる相対的関係をいうのです。(一四五−二六七、一九八六・五・一五)

 「平和」といえば、何を前提としていう言葉ですか。平和は、一人を前提としていう言葉ではなく、必ず相対圏を前提としていう言葉です。そこには、必ず愛がなければなりません。愛が離れた世界には、平和なものがあり得ないのです。(一七五−一九六、一九八八・四・一七)

 平等というものは、一つを中心としていう言葉ではありません。左右という観念において、この二つが一つの水平を成して初めて平等になるのです。平和という言葉自体は、一人を前提としていう言葉ではありません。必ず相対的関係を前提としていう言葉です。東西を中心とした平和をいうのです。東を中心とした平和は一方的な平和であって、全体の平和に代わることはできません。「平」という字を含んだ「平準」、「平衡」、このような言葉は、すべて相対的、二つ以上を中心として連結されるところにおいて成立する言葉なので、平和の境地というものも、男性と女性が一つになるところで成し遂げられるのです。

 このように思うとき、平等の立場を成し遂げることができる唯一のものがあるとすれば、それは愛しかありません。男女平等権も同じです。よく、「女権獲得運動だ」と言う最近の女性たちが、いくら気勢をあげながら努力したとしても、女性と男性は平等になることはできません。労働をしても、女性が男性を凌駕することはできず、すべての面において対決するとき、女性が男性を凌駕することはできないというのです。しかし、愛だけが男女間の平等を成し遂げることができるのです。(一六六−三七、一九八七、五、二八)

 自分のものを投入して犠牲にしなければ、一つの平和と統一の世界は、永遠に訪れません。個人主義がどこにありますか。自分において、自分だけを主張する部分は一つもありません。子女が、父母の愛によって母親のおなかの中で、卵子から成長して生まれるとき、九九・九九九八パーセントが母親の骨と血肉です。そして、○・○○一パーセントの父親の精子が一つに合わさって生まれるのです。そこには「自分」という概念はあり得ません。誰でも、生まれるときに「自分自身だけだ」という概念はなかったのです。(二九九−一一九、一九九九・二・七)

 平和という基準の理想の境地は、一人で成し遂げることはできません。虫やちょうがなぜ生まれたのでしょうか。植物世界に、虫やちょうがいなければどのようになりますか。風がなければどうなるでしょうか。繁殖することができますか。蜜で何をし、香りを出して何をするのですか。なぜ蜜があり、なぜ香りがあるのですか。すべて相応的対応世界に合わせて和合し、お互いが存在圏を相互扶助するようになっているのです。また、男性と女性、動物世界も雄と雌がいるでしょう? 雄と雌の器官は、人も動物も同じですか。形は違いますが、内容は同じではないですか。雄と雌が一つになって子供を産むのでしょう? 人はどうですか。男性と女性が一つになって赤ん坊を生むのです。(二三〇−三二〇、一九九二・五・一〇)


二 他のために生きるときに訪れる平和

 宇宙の存在秩序は、「ため」に生きることを根本としています。真なる理想、真なる愛、真なる平和の世界は、神様の創造理想であると同時に人間の希望です。ゆえに理想の起源、幸福と愛の起源は、相対のために生きるところにあるのです。(一三五−二三三、一九八五・一二・一一)

 自分は自分のために存在するというところでは、お互いに一つになることはできません。食口たちが平和の動機を成すことができ、お互いが慰安の対象となるためには、「私は、あなたのためにいる」という立場に立たなければなりません。私はあなたのために、食口のためにいるというところにおいてのみ、平和は描かれるのです。父母が子女のためにいるというときに、初めて子女たちにおける安息の住みかが出発するのです。父母が自分のためにいるというときには、子女たちの安息の住みか、幸福の住みかは破綻するようになるのです。

 子女たちが父母の前で、「父母は私のためにいて、私は私のためにいる」と言えば、その父母には、安息と幸福の場はあり得ません。そのように考える人が増えれば増えるほど不幸であり、そこには安息の基盤を築くことはできないのです。すなわち、食口たちが他の食口のためにいるという所こそが、平和の基盤になり、安息の基盤になり、幸福の条件になることができるのです。

 相対のために生きながら暮らしていこうという原則さえ掲げていけば、家庭では、平和の家庭、自由の家庭、幸福な家庭、愛の家庭、社会でも平和の社会、自由の社会、幸福な社会が成し遂げられるのです。国家と世界においても同じです。いかなる所であっても、この原則を中心とすれば、幸福と自由と平和と愛が宿らざるを得ないという結論は当然だということを、皆さんは知らなければなりません。(七〇−三〇七、一九七四・三・九)

 神様は、知恵の王であられ、全能のお方なので、人類世界の真なる愛と真なる幸福と真なる平和と真なる理想を、主体と対象関係の中で、主体を中心とした方向にその起源を決定するか、そうでなければ客体を中心とした立場にその起源を定めるか、どちらかにしなければなりません。神様が、その永遠の理想世界を望まれながら、それを決定しなければならないというのです。

 ですから、主体を中心に客体が侍るのではなく、神様御白身において、客体を中心にして神様自体が存在するという立場をとらざるを得ないという事実を私たちは理解するようになるのです。そのようになれば、すべてのものが一つになります。すべてのものが発展の原則に従うようになるので、全知全能であられる神様は、この平和と幸福、理想と愛の本源の基準を、「ために存在する」というところに定めざるを得なかったというのです。

 したがって、理想であるとか、愛と平和、そして幸福は、自分を主体として主管し、あるいは侍るようにするのではなく、何かのために生き、何かのためにプラスとなるという立場に立てておいたのです。そのようにしてこそ、真なる愛、真なる幸福、真なる平和、真なる理想が始まるのです。宇宙創造の理想の原則をこのように立てておかれたというのです。(七二−一四、一九七四・五・七)

 「ため」に生きる生涯を送ろうとする男性と女性が夫婦になったとすれば、そのような夫婦こそ、理想的な夫婦なのです。そうではないですか。そのような夫婦こそ、真なる平和の基準を求めることができるのです。そのような夫婦において、初めて真に幸福な夫婦というものが成立するのです。そのような夫婦こそ、永遠不変の真の愛の主体者となることができるのです。

 それでは、このような原則を適用して、真に理想的な父母は、どのような父母でしょうか。自らのために存在し、自らのために生涯を送ろうとするのではなく、子女のために生まれ、その子女のために存在してきたと考える父母、子女のために生命を捧げて生涯を終えようという父母がいたとすれば、そのような父母こそ、真の父母とならざるを得ません。このような父母こそ、真なる平和、真なる幸福、真なる理想の父母です。その反面、子女の立場でも、自分が生まれたのも父母のために生まれたのであり、生きるのも父母のために生きるのであり、死ぬのも父母のために死ぬとすれば、その子女は孝子にならざるを得ません。真なる愛を受けることができる、真なる幸福と真なる平和と真なる理想の子女にならざるを得ないというのです。(七二−一五、一九七四・五・七)

 私たちは、主体であられる神様と対象である人間、この二つの存在を知りました。またこの二つは、必ず一つにならなければならないことを知りました。ところが、真なる愛、真なる幸福、真なる平和、真なる理想、真なる自由の根源をいかなる場におくのかということが、神様御自身が考えられるとしても問題とならざるを得ません。

 それゆえに、男性も女性も、本来自分のために生まれたのではなく、相対のために生まれたのです。相対のために存在し、相対のために生き、相対のために死ぬところにおいて、真なる理想、幸福、平和、愛があるということを、今私たちは知らなければなりません。これが宇宙の根本真理だということを私は知りました。この原則が適用される場、言い換えれば、父子の関係にこれが適用されれば、真なる父母がそこにいるのであり、真なる息子、娘がそこにいるのです。このような関係においてのみ、その理想、あるいは幸福な父母と子女の場が成立するということは間違いありません。

 もし、愛する夫婦が、結婚するときに初めて出会い、「私はあなたのために生まれて、あなたのために今まで生きてきて、あなたのために死ぬでしょう」と言えば、その夫婦は、その時その場において理想的な夫婦であり、幸福な夫婦であり、平和の夫婦であり、自由をもった家庭の夫婦だと言うことができるのです。(七三−一九一、一九七四・九・一七)

 「ために存在する」ということは、宇宙の本源の原則です。この原則が理想の基盤になることを思うとき、その原則の上に立ってこそ、すべての幸福と、すべての平和と、すべての理想を手に入れることができるのです。(七二−二八、一九七四・五・七)

 私がこのミスター朴という人に、一〇〇パーセントの恩徳を施し、愛してあげたということを知るようになるとき、彼は、一一〇パーセント以上を私に返したいと思うのです。彼が一一〇パーセント返してくれれば、そこでまた私が返してあげるときに、もらったものにさらにプラスして一二〇パーセントを返してあげたいと思うのです。ここで初めて永遠という概念が始まるのです。真なる愛は、永遠に続くのです。幸福も永遠に続くのです。理想も永遠に続くのです。平和も永遠に続くのです。それだけでなく、このように「ため」に生きるところにおいてのみ発展があります。発展があり、繁栄があるというのです。(七三−一九三、一九七四・九・一七)

 皆さんは、「ために存在する」というこの原則に従っていかなければなりません。そこに皆さん個人の平和があり、家庭の平和があり、さらには氏族と民族の平和があるのです。このような思想的裏づけを抱いていく路程において、徹頭徹尾、疲れずに克服していくことができる群れがいるとすれば’、その群れは、アジアにおいて受難の道を克服していくことができる問題の集団になるのであり、また世界の受難の道を克服していきながら、世界のために生き、世界を救うことができる問題の集団となるのです。(七七−一二五、一九七五・四・一)

 ここに夫婦がいれば、真なる夫婦、永遠で不変の愛の夫婦をどこで探し出すことができるでしょうか。お互いが「ため」に生きるところ、夫は妻のために存在し、妻のために生き、妻のために死のうと思い、また反対に、その妻は、夫のためにそのようにしようというところにおいて、初めて真なる夫婦、理想的な夫婦、あるいは平和と幸福の夫婦を探し出すことができるのであって、それ以外では探し出すことはできないのです。

 真なる父母もそうです。子女のために生まれ、子女のために生き、子女のために死ぬというとき、そこで真なる父母が、理想的な父母が、幸福の起源であり、平和の起源となる父母が存在することができるのです。

 簡単です。平和の起源、幸福の起源をどこで立てるのでしょうか。他のところ、しきりに世界を一つにしようとするのではなく、自分自身を中心として、「私は、自分のために生まれたのではなく、対象と相対のために生まれた」ということを発見すれば、宇宙のすべての難問題は解決されてしまうのです。(七四−一六三、一九七四・一二・七)

 知恵の王であられ、全体の中心であられる神様が、真なる理想や真なる幸福や真なる平和というものの起源を主体と対象、この両者の間のどこにおかれるのでしょうか。これが問題とならざるを得ないのです。主体がいる反面、対象がいるのですが、主体のために生きる道と、対象のために生きる道、この二つの道の中で、いったい神様は理想の要件をどこにおかれるのかということが、創造主であられる神様として問題にならざるを得ないというのです。

 ですから、真なる理想、真なる愛、真なる平和を成し遂げるにおいて、対象が主体のために生きるところにその理想的起源をおくのか、そうでなければ、主体が対象のために生きるところにその起源をおくのかという問題を考えられた神様は、その理想的起源を、対象が主体である私のために生きなさいという立場に立てたのならば、神様がそのようにすると同時に、自分がある対象の前に主体の立場にいれば、すべての人が私のために生きなさいという立場に立つようになるのです。そのようになれば、一つになる道がふさがってしまうのです。分立してしまうというのです。一つになることができ、平和の起源になり得るその道は、どこにあるのでしょうか。神様御自身だけでなく、真なる人間は「ため」に存在しなければならない、という原則を立てざるを得なかったというのです。それゆえに、真なる愛は「ため」に生きるところから、真なる理想は「ため」に生きるところから、真なる平和も、真なる幸福も「ため」に生きる場を離れては、見いだすことはできません。これが天地創造の根本原則だったという事実を、私たち人間は知りませんでした。

 真なる父母はいかなる人なのかというとき、子女のために生まれ、子女のために生き、子女のために死ぬ人だということができます。そのようになってこそ、真なる父母の愛が成立するのであり、真なる子女の前に理想的な父母として登場することができるのです。さらには、子女の前に平和の中心となるのであり、幸福の基準になるということを私たちは知ることができるのです。その反面、真なる孝道は、どこに基準をおくのでしょうか。その反対の立場です。父母のために生まれ、父母のために生き、父母のために命を捧げる人が真なる孝子になることができるのです。そのようにしてこそ、父母の前に理想的な子女であり、真に愛することができる子女であり、幸福と平和の対象になることができるのです。

 このような基準から見るとき、ここで私たちが一つの公式を提示するとすれば、「ため」に存在するところにおいてのみ、このような理想的な要件、すなわち真なる愛、真なる幸福、真なる平和を探し出すことができる、ということを今私たちは推し量り得ると思うのです。(七五−三一八、一九七五・一・一六)

 お互いに「ため」に生きなければならないという公式的な原則を拡大し、国家と民族を超越してお互いが「ため」に生きてあげる世界を成し遂げれば、その世界が正に私たちが願うユートピア的愛の世界なのであり、理想の世界なのであり、平和の世界なのであり、幸福の世界であることは間違いありません。「ため」に存在するというこの原則を掲げていけば、どこでも通じないところがないというのです。(七五−三二五、一九七五・一・一六)

 真なる夫はどのような人でしょうか。生まれたのは妻のために生まれたのであり、生きるのは妻のために生きるのであり、死ぬのも妻のために死ぬという立場に立った夫がいれば、その妻は、やはり夫は真なる愛の主人であり、真なる理想の主人であり、真なる平和と幸福の主体としての夫であることに間違いないと称賛せざるを得ないのです。その反対の場合も同じです。

 このような事実を自らが確信することができない場において問題が勃発するということを、私たちは知らなければなりません。これを天地創造の大主宰であられる神様が創造の原則として立てられたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、あるいは愛と理想の世界に入っていくことはできないということを私は知っているのです。(七五−三九、一九七五・一・一六)

 カイン家庭はアベル家庭のために生き、アベル家庭はカイン家庭に感謝する、お互いが分けることのできない伝統的因縁が結ばれてこそ、その息子、娘たちは一つになることができ、矛盾や相克のない自然な立場で生活するようになるのです。そこで初めて国を取り戻すのであり、サタンに対して闘う群れはその国の圏内にはいないので、そこにおいて平和の国が出発するようになるのです。(五八−一八六、一九七二・六・一一)

 皆さん、見てください。ヒトラーのような人に対して、「ヒトラーがなぜ独裁者なのか。堂々とした英雄ではないか」と言う人もいます。最近の青年たちは、「立派な男ではないか。この悪なる世界をそのままにしておくよりも、剣ですべてを除去して一つにすれば、一つになることができないよりも良いではないか」と言うのです。それでは、なぜ彼が独裁者という烙印を押されたのでしょうか。そのように烙印を押されたのは間違いでしょうか。違います。彼は、「ヨーロッパはゲルマン民族のために存在しなければならない」と言ったのです。ゲルマン民族がヨーロッパのために存在しなければならない、という観念をもたなけれぱなりません。違うというのです。「ドイツ民族のためにヨーロッパがあるのであって、それ以外にはあり得ない」と言ったのです。しかし、ヨーロッパの平和のためにドイツが存在しなければならないのです。もし「ヨーロッパの利益のためにドイツがある」と言ったならば、それは悪ではありません。もし彼がそのような統治者だったならば、彼は歴史的な政治家として残っているでしょう。これが違うのです。(五七−五五、一九七二・五・二八)

 神様は主体であられ、私たち人間は対象です。それでは、主体と対象の関係を中心として、今神様が考えなければならないことは、真なる愛と幸福と平和と理想の基準をどこから出発させるのかということです。その起源をどこにおくのかということを、知恵の王であられる神様は、問題視せざるを得ないというのです。

 真なる愛は、「ために生きなさい」と言うところにあるのではありません。真なる理想、真なる幸福、真なる平和の基準は、「ために生きなさい」と言うところにあるのではありません。「ため」に生きようとするところから始まります。それゆえに、真なる夫婦、真なる父母、真なる師、真なる愛国者、これらのすべては、自分自身を中心として引き込むところから始まるのではありません。自分自身を投入するところから始まります。創造自体がすなわち投入なのです。(七七−一〇五、一九七五・四・一)

 真なる父母は、どのような父母でしょうか。その父母は、自分が生まれたのは子女のために生まれたのだと考え、今まで生きてきたのも子女のために生きてきたのであり、今後死ぬのも子女のために死ぬという父母です。「ため」に存在し、「ため」に生き、「ため」に死ぬという立場に立つようになるとき、その父母は、真なる父母であり、愛の父母であり、理想的な父母であり、その息子の前に平和と幸福の要件を提示する父母であることは間違いありません。

 それでは、真なる孝子とは誰でしょうか。自分が生まれたのは父母のために生まれたのであり、生きるのも父母のために生き、死ぬのも父母のために死ぬという息子です。父母だけのために生まれ、父母だけのために生き、父母だけのために死ぬという立場で、あらゆる至誠と生命すべてを投入する場において、真なる孝子を発見することができるのです。その孝子を見てみると、愛の息子であり、愛の孝子であり、父母として願う理想の息子であり、また彼に対するその場が平和の根源になるのです。そして、彼に対するその父母は、幸福な父母になることができるのです。宇宙創造において、存在が備えなければならない理想的根源を「ため」に生きるところ、「ため」に存在するという原則に設定されたという事実を否定することはできません。

 どのような夫が真なる夫でしょうか。同じです。「私が生まれたのはあなたのために生まれたのであり、あなたのために生き、あなたのために死ぬ……」という夫が真なる夫です。真なる妻も同じです。「私が生まれたのもあなたのためであり、私が生きるのもあなたのためであり、また私が死ぬのもあなたのためです!」、このように相応しながら、自ら自身を越えて相対のために生きるという原則を備えることができる家庭ならば、その家庭は、理想的な家庭であり、それこそ愛の家庭であり、幸福な家庭であり、平和の家庭に間違いありません。

 神様がこのような原理原則を立てたという事実を、今日の人間たちは知りませんでした。今晩、この場に集われた皆さんが、理想と愛と幸福と平和の世界を慕うそのような心をもつことを願い、方向を転換させることができる道を行くならば、その世界が皆さんの前に可能な世界となるのです。

 今、皆さんは、今晩この場において一つの公式を発見しました。「ため」に存在するという過程を経てこそ、一つの理想を成就させることができるようになっているのです。ですから、いくら立派な人だとしても、この公式から外れては、理想と幸福を追求することはできないのです。死の道を避けることができない人間の運命と同じように、神様が立てられた天地原則の基準に従ってこそ、その愛と幸福と理想と平和を見いだすことができるというのは事実です。今から皆さんの生涯路程において、このような観を通じた一つの公式的な基準を中心として、すべての物事を判断するようになれば、人間が願う理想的要件を成就させるにおいては、すべてこの過程を経ていかなければならないということを発見することでしょう。(七七−一〇六、一九七五・四・一)

 神様は、知恵の王であられるので、相対のために存在するという天理原則、創造の秘訣を立てられたことを私たちは知らなければなりません。「ため」に存在するところにおいてのみ、真なる愛が勃発するのであり、真なる理想、真なる幸福、真なる平和が成立することを皆さんが理解してくださるよう願います。このような公式を適用して、一度調べてみましょう。(七七−一八八、一九七五・四・六)

 私たちは、神様が理想世界を創造された一つの公式原則をここで探し出すことができるのです。「ため」に存在するところにおいてのみ、神様の真なる愛が出発することができるのであり、「ため」に存在するところにおいてのみ、神様の理想的相対が顕現するのであり、「ため」に存在するところにおいてのみ、平和が成し遂げられるのであり、幸福が成し遂げられることを、きょう皆さんが記憶してくださるよう願います。

 例を挙げれば、真なる父母とは、どのような人のことでしょうか。いったい、真なる父母とはどのような人なのかというのです。真なる父母がほかにあるのではありません。生まれたのは子女のために生まれ、生きるのも子女のために生き、死ぬのも子女のために死ぬことができる、すべてを子女のためにすることができる立場に立ったそのような父母であるならば、この父母は真なる愛の父母であり、真なる理想の父母であり、真なる幸福の父母であり、真なる平和の父母とならざるを得ません。「ため」に存在するところにおいてのみ、変わらない永遠の不変なる愛と理想と幸福と平和が設定されることを知らなければなりません。

 そのような夫婦が現れれば、神様の愛を受けることができ、神様の平和の対象となることができ、神様の理想の対象実体となることができ、真で永遠の理想的夫婦であり、愛の夫婦であり、平和の配偶者であり、幸福の彼らになることは間違いありません。(七七−一八六、一九七五・四・六)

 数多くの宗教において、経書がいくらたくさんあるとしても、「ために存在しなさい」という言葉にすべて結論づけられるのです。新・旧約聖書六十六巻のすべてを総括的に結論づけるとすれば、「ために存在しなさい」という言葉ですべて終わるのです。イエス様は、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(マルコ一〇・四五)とおっしゃいました。それは、この思想をもって語られたのです。なぜそのように語られたのでしょうか。神様が天地創造の原則、理想的基準を、「ため」に存在するところに立てられたからです。ですから、本然の世界の法度に順応しなければならない、天理を代表した天の息子は、必ずそうでなければならないのです。それゆえに、仕えるために来たと強調したのです。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)と語られました。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五・一三)と語られました。たった一言の結論は、「ために存在しなさい」ということです。ここから天国が顕現することができ、神様が顕現することができ、神様の愛が顕現し、神様の平和と幸福と理想が顕現し得るという事実を、私たちは聖書を通してはっきりと推し量れます。(七七−一九〇、一九七五・四・六)

 愛は、対象から来るのです。対象がなければ愛もありません。対象がなければ理想もありません。対象がなければ幸福も平和もあり得ません。これらは、必ず対象を通して来るというのです。自分の生命よりももっと貴い愛と理想が対象から来るのです。生命よりも貴いものが対象を通して来るので、その貴いものを受けるためには、謙遜に準備しなければなりません。それゆえに、神様は、頭を垂れて「ため」に生きなさいという法度を立てざるを得なかったことを、皆さんは知らなければなりません。

 「ため」に生きるところにおいて永遠があり、「ため」に生きるところにおいて繁栄があり、「ため」に生きるところにおいて中心が現れ、「ため」に生きるところにおいて平和と統一の起源が起こり、「ため」に生きるところにおいて真なる愛と理想が形成されることを御存じの知恵の王の神様であられるので、「ため」に存在する原則を立てざるを得なかった、ということを知らなければなりません。(七七−一九二、一九七五・四・六)

 今日の統一教会の若者たちに、何を教育するのかというのです。創造の秘法がここにあるので、愛と理想がここにあることを知っているので、神様に出会いたければ、神様の愛をもちたければ、神様の平和と幸福に加担したければ、「ため」に存在する人になりなさいというのです。他のことはありません。文先生が何か優秀で、何か手際が良く、能力があるのではありません。神様が共にいらっしゃることができ、神様がその道に従ってこざるを得ない思想に従っていかれるので、個人もそのような思想、家庭もそのような思想をもたなければなりません。(七七−一九五、一九七五・四・六)

 「ため」に存在するという天理のみ旨に、従っていかなければなりません。皆さん、今個人を中心として前後左右を見てみましょう。誰かがより国のために生きているならば、その人に神様のように侍り、主のように侍ることができる生活をしなさいということです。もし、そのようにできなければ、自分がそのようにすることができる生活を始めるのです。そのようにすれば、私の心には平和の天国が訪ねてくるのです。そして、無限であられる神様の愛と神様の実存性を認定し、神様に抱かれて暮らす理想的地上天国の環境を受け入れることができるようになるのです。間違いないというのです。そこに幸福があるのであり、そこに平和の安息所が生じるのです。このようにすることができる個人を慕って努力しなければならないのが人生の行くべき道であり、このような国を慕って国家、民族を越えて国として糾合し、神様のみ旨を立てることを願うのが、人類と神様が願う最後の地上楽園なのです。(七七−二○三、一九七五・四・六)

 皆さんが霊界に行けば、神様は、天地の中心存在としていらっしゃるので、そのお方の前に千年、万年、支配を受ければ受けるほど、それ以上の幸福はないことを知るのです。もしそれが信じられないのなら、すぐに死んでみてください。今日の私たちは、このことを知りませんでした。自分のために心から支配してくれる人、そのような方がいれば、そこに真なる平和が存在することができるという事実を、私たちは全く分かりませんでした。「ため」に生きる存在は、中心存在になり、そうなることによって完全に統一的な環境をここから造成することができる、という事実を私たちは知らなければなりません。(七七−二七二、一九七五・四・一四)

 皆さんは、最高の神様が「私のためにいる」と言い、最高の神様の愛が「私のためにある」と言う、その位置に行って初めて平和や、幸福や、理想や、真なる愛という安息が成し遂げられるのです。

 このようなことが可能なその世界、個人でも「ため」に生き、家庭でも「ため」に生き、社会でも「ため」に生き、国家と世界的にも「ため」に生きることができる、どこに行っても「ため」に生きることができるそのような所が、私たちの願う最高の理想郷です。真なる愛があり、真なる平和があり、真なる幸福があり、真なる自由がある世界、そこがいわゆる私たちの願う理想世界です。また、地上でそのような世界が展開し、神様を中心として一つになっているので、地上天国にならざるを得ないというのです。(七七−二七九、一九七五・四・一四)

 知恵の王であられる神様が対象である人間を造っておかれたのですが、問題が生じたのです。人間を造ってみると、真なる愛や理想や幸福や平和というものの起源をいったいどこに根拠をおくのか、ということを考えざるを得なかったのです。いったいどこに根拠をおくのでしょうか。真の起源はどこでしょうか。本当の真の愛の起源がどこであり、本当の真の理想の起源がどこであり、本当の幸福と平和の起源がどこかということ、神様御自身が設定された起源がなければならないというのです。

 このような宇宙の原則を起源として創造された神様なので……。主体と対象間に平和な家庭が形成され、平和な社会、平和な国家、平和な世界が未来に展開するということを御存じの神様は、ここに真なる幸福の起源を決定的に定めざるを得なかったのです。そこには、主体が対象のために生きる道と、対象が主体のために生きる道、この二つの道しかありません。

 宇宙の根本原理と真なる起源は、ここから始まるのです。「ため」に存在するところから、「ため」に存在するところにおいてのみ真なる愛が成立することができ、「ため」に存在し始めるところにおいてのみ、理想が成立することができ、「ため」に動くところにおいてのみ、平和や幸福があり得るのであって、「私のために生きなさい」というところではあり得ないというのです。このように、宇宙創造の原則的根源を「ため」に存在するというところに設定した、という事実を皆さんが記憶してくださることを願います。(七七−二九〇、一九七五・四・二五)

 既成教会の牧師は、自分の信徒を愛する以上に統一教会の文なにがしを愛することができるでしょうか。愛することができるというときには、より「ため」に生きるところにすべてのものは引かれていくようになっているのです。なぜそのようになっているのでしょうか。より「ため」に生きれば、より大きな愛があるのであり、より大きな理想があるのであり、より大きな幸福とより大きな平和があるからです。それゆえに、より大きな愛の道を求める人間は、より「ため」に生きることができるところに生命を寄与して天の国に行こうとするのです。ゆえに、その原則に従って行えば可能だというのです。これは、理論的です。理論的だというのです。(七七−三〇〇、一九七五・四・二五)

 神様が主体と対象の関係を対等な立場に立ててみると、問題が生じました。神様は、知恵の王であられ、愛の王であられ、理想の王であられ、幸福の王であられ、平和の王であられるのですが、その主体であるお方が天地の原則を間違っておいてしまえば大変なことになるのです。それでは、いったいこの愛の起源、愛は貴いものですが、この愛の起源をどのような位置におくのか、理想の出発点をどこにおくのか、あるいは真なる幸福と真なる希望の出発点をどこにおくのかという問題を、知恵の王であられる神様は考えざるを得ないというのです。よく聞いてください。これは考えるべき問題なのです。

 それでは、神様御自身を見てみるときに、神様は主体であられ、その主体の前に対象が立つのですが、神様御自身が対象のために生きる立場に立たれるのか、そうでなければ「私は主体なので、対象であるあなたが私のために生きなさい」と言われるのか、主体が対象のために生きる道と、対象が主体のために生きる道があるとき、この二つの道のうち、真なる愛の起源、真なる理想、真なる幸福、真なる平和の起源をどちらにおくのかという問題を、神様は考えざるを得ないのです。

 理想は、どこから始まるのでしょうか。神様から始まります。それゆえに、「ため」に生きて投入するところにおいてのみ、理想が顕現するのであり、真なる愛が形成されるのであり、真なる幸福、真なる平和が形成されるということは、私たちが日常生活においてよく知っているところです。もし神様が、「おいおい、対象よ。あなたは私のために生きなさい」と言う立場に立てば、神様になることはできません。そのような思想を立ててすべてが「ため」に生きなさいという立場に立てば、すべて分かれてしまうのです。それゆえに、知恵の王であられる神様は、先ほどお話ししたこの理想的要件を成立させることができる起源をどこにおかれたのかというと、「ため」に生きるという原則におかれたのです。主体が対象のために存在するという原則におかざるを得なかったという、この明確な事実を皆さんが記憶してくださることを願います。

 このような宇宙創造の理想的起源、愛的起源を、「ため」に存在するという原則に立てるところにおいてのみ真なる愛を発見することができるのです。なぜですか。神様が準則の存在だからです。そこにおいてのみ、真なる理想を発見することができるのです。なぜですか。神様は「ため」に生きられる方だからです。幸福もそこにおいてのみ、平和もそこにおいてのみ、真なる自由もそこにおいてのみ見いだすことができるというのです。「ため」に存在するというこの原則が、先ほどお話しした真なる愛と、真なる理想と、真なる平和と、真なる幸福と、真なる自由の起源になる、という事実を皆さんが記憶してくださることを願います。(七七−三一八、一九七五・四・三〇)

 本来、人間が堕落しなかったならば、「ため」に生きるという神様の伝統を相続して、この世界を平和の世界、地上の天国にしていたのです。それにもかかわらず、自分のために生きる、自分を自覚するところから、自分を中心とした発見路程を探索する道を訪ねてきたのが堕落だというのです。(七七−三二五、一九七五・四・三〇)

 一〇〇パーセント恩恵を施したところから一一〇パーセント返ってくれば、一一〇パーセント以上を返してあげる、するとまたより多く返ってくる、このようなことが起きるのです。このようなことは、「ため」に存在するところにおいてのみ成立するのです。そのようになることによって、ここで永遠という概念が設定される、ということを私たちは全く分かりませんでした。ここで永遠という概念が生じるようになるのです。ここから永生、このような場から永遠……。それゆえに、愛や理想や幸福や平和というものは、永遠でなければなりません。また、それがここから始まるので、知恵の王であられる神様は、「ため」に存在する原則を立てざるを得なかったという事実を記憶してくださることをお願いします。(七七−三二八、一九七五・四・三○)

 神様は、知恵の王であられます。愛の王でもあり、理想の王でもあり、平和、幸福、自由のすべての王でもあり、知恵の王でもある神様が、相対となる人間をそのような対象の価値として認定されたあと、ここに問題が生じたのです。いったい真なる愛の起源をどこにおくのかということです。真なる理想の根本をどこにおくのでしょうか。真なる幸福と真なる平和をどのようなところにおくのでしょうか。その理想の根本問題の設定が、神様御自身において問題とならざるを得ないということを記憶してくださるよう願います。これは、皆さんも最も気になる問題です。

 その理想的根源をどこにおくのでしょうか。その根源を明確に知ってつかめば、私も愛、幸福、理想、平和を神様と同じようにもつことができるというのです。それが問題になるので、今からそのような問題、そのような内容を話してみましょう。

 「ために存在する」というこの言葉は、一つの言葉であると同時に、天地のどこでも……。これが通じるところには、理想が宿り、真なる愛が現れ、真なる幸福と真なる平和が宿るというのが、神様が御覧になるこの被造世界の存在観なのです。ですから、その存在者たちが理想を実現するところにおいて、このような原則に従っていかなければ不可能だというのです。これが宇宙創造の秘訣であり公式だということを皆さんが考えるならば、偉大な発見だと思わざるを得ないのです。(七八・一一一、一九七五・五・六)

 真なる宗教、愛の宗教、理想的な宗教、幸福の宗教、平和に導く宗教とは、どのような宗教でしょうか。個人のために生き、家庭のために生き、氏族のために生き、民族のために生き、国家のために生き、世界のために生き、天地のために生き、神様のために生きるこのような宗教が真なる宗教であり、理想的宗教であり、万民を平和なところに、幸福なところに導く宗教だという結論も、皆さんは知ることができるでしょう。(七八−一一七、一九七五・五・六)

 最高の愛、最高の理想、最高の幸福、最高の平和の基準、隠された神様のその内心的なすべてのものを、絶対的に「ため」に存在しようとすることができる立場に立つようになるときに、無限な神様の中に隠されてきた愛を初めて所有することができるのです。そして、神様の愛を所有すること以外のことは、すべて嫌うようになるのです。そこで人間の良心は、初めて「私は永遠に安息する!」と言うのです。このような位置に出ていくことによって、私たち自体の生活圏内において、世界を越えてそのようなところが展開するのです。これが私たち人間の願うユートピア的天国です。これが地上に成し遂げられるようになる時、この世界を統一教会では「地上天国」と言うのであり、皆さんはそれを信じてくださることを願います。

 このような場においてのみ、より次元の高い新しい将来、新しい希望の地上天国が顕現することを皆さんは理解して、そのような場に参席して、神様のより次元の高い愛と幸福と理想と平和を所有する皆さんになってくださることを願ってやみません。(七八−一二八、一九七五・五・六)

 二億四千万のアメリカ国民が、全員自分のための愛を願えば、二億四千万の闘いが生じます。しかし、「私は、二億四千万を愛して生きる」と考えれば、闘わずして平和の世界が成し遂げられるのです。(一〇五−八〇、一九七九・九・二三)

 人は、十の愛を受ければ、十をそのまま返すということはありません。十の愛を受ければ、十一、十二、それ以上に自分の精誠を尽くして投入して返すのです。それゆえに、愛を受ける人よりも、愛する人がこの世の中で平和の要件を拡大させることができる主人になる、という結論が出てくるのです。(三九−二三六、一九七一・一・一五)

 負債を負う人が発展することはありません。家庭において負債を負うことを好み、世話になることを好む食口がいれば、その人は、すべて後回しにされるのです。負債を負わせようとする人は、その父親よりも多くの負債を食口に負わせるようになれば、その父母は、すべての権利をその子女に譲ってあげる、というのが人間世界の道理ではないかというのです。妻は、夫に負債を負うなというのです。夫は、妻に負債を負うなというのです。お互いが負債を負わせようとする家庭から、永遠の平和の世界が訪れることを知らなければなりません。(八五−二三七、一九七六・三・三)

 この目で負債を負うなというのです。この口、この手、この心で負債を負わず、この顔で負債を負うなというのです。皆さんが皆さんの環境で負債を負わせることができる何かの道があるならば、昼夜、二十四時間、時間を超越して、体面と威信を越えて行い、それは私の義務だと思ってそこに没頭していかなければなりません。そのようになれば、その子孫は、天下を覆って余りある子孫になるのであり、彼が行くあとには、死の孤独の園が生じるのではなく、繁栄の平和の園が生じるのです。天国は、そこから展開するのです。負債を負わない場から展開するのです。(八四−三三七、一九七六・三・一)

 世界統一はどこからですか。より「ため」に生きるところからです。平和の基準はどこからですか。善悪の分岐点をすべて世界の底辺の境界線に追い込むことができるところからです。それは何ですか。より「ため」に生きる思想をもって、国家的思想を越えて世界的思想に拡大し、さらには天的思想に、神様の天道、大道に連なることができ、天運と歩調を合わせることができる思想に変わるときには、世界が自動的に平和になるのです。簡単でしょう? 考えれば簡単です。(一二六−三三五、一九八三・五・一)

 「ため」に生きることがその世界の平和の基準になり得るものならば、その「ため」に生きることだけでよいのでしょうか。ただ「ため」に生きるだけでよいのでしょうか。ここでは、「ため」に生きる愛を中心としなければなりません。「ため」に生きる愛を中心としなければ、その世界を収拾することはできません。(一三八−七五、一九八六・一・一九)

 平和や幸福や理想という世界を追求する人たちが、まず備えなければならない姿勢、心的態度とはどのようなものでなければならないのでしょうか。理想世界のために生きることができる私自身にならなければなりません。理想世界的宇宙のために生きることのできる人、より大きなもののために生きることのできる人が、より多くの相対圏をもつことができるのです。無限に「ため」に生きることができる心をもった方ならば、無限な相対の世界に対する所有圏を拡大させることできる可能性があると思うのです。(一三八−七七、一九八六・一二九)

 真の人をどこに行って探し出すことができるのですか。国を越えて世界が「ため」に生きることができる真の人、世界を越えて宇宙がために生きることができる真の人、もし神様がいらっしゃるとすれば、神様が真の人として信じることができる人のことです。これが可能でなければ、平和の起源を見いだすことはできません。(一四三−二六六、一九八六・三・二○)

 世界平和、統一の世界が他の所にあるのではありません。皆さんの体の中にあるのです。皆さんの体が心のために生き、心が体のために生きることができるこのような愛を見いださなければなりません。そこから本質的愛が私に宿るのです。男性は女性のために生まれたので、女性を自分の生命以上に愛さなければなりません。女性も同じです。それが理想世界です。

 「ため」に生きる愛の道においてのみ、神様に出会い、真なる男性と真なる女性に出会うことができ、真なる家庭と真なる息子、娘、真なる父母、真なる氏族、真なる民族、真なる国、真なる世界、真なる天地が成し遂げられざるを得ないという事実、これが統一の原則です。これが平和の原則です。これがなくては、いくら偉大だという人がいたとしても、すべて過ぎ去ってしまうのです。(一四四−一六七、一九八六・四・二)

 世界の人々がアメリカと一つになると思いますか。なりません。すべてアメリカをけ飛ばしてしまうのです。アメリカが世界のために自分を犠牲にして投入して投入すれば、自然に一つになるのです。簡単です。世界平和の問題は、簡単なのです。今後、どのような主義が世界を支配するのでしょうか。全体のために生きる主義が世界を支配するのです。ドイツに行くというとき、ドイツを滅ぼそうとするから反対するのであって、ドイツの利益になるのならば誰が反対しますか。アメリカも、レバレンド・ムーンに接してみると、アメリカの損害にならないので歓迎するのです。同じことです。(一九五−二一八四、一九八九・一二・一〇)

 独裁者とは何でしょうか。すべての人々に、「自分だけのために生きなさい」と言う人を独裁者というのです。独裁者の反対は何ですか。「平和主義者」という言葉しかつけるものがありません。犠牲奉仕主義者です! 大概は平和主義者だというのです。では、平和主義者とはどのような人ですか。十人いれば、十人全員によくしてあげる人です。「よくしなさい」と言うのではなく、よくしてあげようとする人です。そのような類の人が、先ほどお話しした善良な人に近い人です。(一七二−一五一、一九八八・一・一〇)

 平和の王国、理想の王国は、困難を被りながらも「ため」に生きるときに成し遂げられるのです。おばあさんも「ため」に生きようとし、お父さん、お母さん、夫、新郎、息子、娘、お互いが「ため」に生きるようになるとき、その家は、天に昇っていくのです。「ために生きなさい」と言うところでは、「家和万事成」はありません。「家和万事成」は、お互いが「ため」に生きようとするところで展開するのです。これは、最も近い真理であると同時に簡単な真理です。

 自分の息子、娘のために生きるのも良いです。しかし、自分の息子、娘のために生きる前に、より大きな国のために生きなければなりません。世界のために生き、天のため生き、より大きなもののために生き、順理の道に従っていかなければなりません。レバレンド・ムーンは、そのように天地のために生きてみると、妻の家族から反対されました。その一族から離婚させられた人です。子女からも反対された人です。つらく無念でしたが、それで「敗者」という名称がつくのではありません。妻の反対が歴史を新しい道に導き得る伝統となったのであり、子女の反対がレバレンド・ムーンの道において、後代にそのような子女が出てくることを防ぐ教材になったという驚くべきことを私は知っています。ここから永遠の平和の基地ができるということは、理論的に妥当だというのです。(一七一−八七、一九八七・一二・六)

 自分を絶対的に主張するところでは、良いものは絶対に生じません。ですから、独裁者は、不幸に始まり不幸で終わるのです。その独裁者が、自分の環境をつくるためにどれほど人を犠牲にしましたか。そのように相対を犠牲にさせて自分を立てようとするのは、誰であっても、どのような人でも、すべて好まないというのです。そのようにしてもよいのならば、そこには、絶対に平和の世界や統一の世界というものを成し遂げることはできません。それは、理想的な基台になり得ないのです。(六三−一〇二、一九七一・一〇・八)

 み旨が願う平和の世界、幸福の世界、理想の世界になるためには、「ために生きなさい」と言う主義では絶対に不可能だというのです。「ため」に生きようとする主義でなければなりません。なぜならば、神様がそうだからです。神様がそのような主体としていらっしゃるので、その主体であられる神様は、そのような人を保護されるのです。ですから、神様のように発展、永遠であることができるのです。(二七七−一六一、一九九六・四・一五)

 「ため」に生きる人は責任者になるのです。それゆえに、世界のために生きて投入し、より大きなものに投入し続けてみると、全世界がレバレンド・ムーンを敬うのです。「私のために生きなさい」と言うのではありません。「私のために生きなさい」と言えば、おじいさんもなく、父母もなく、平和もなく、お金もありません。夫婦がけんかすれば、自分の父のために生き、自分の息子のために生きる母親ならば、全員が泣きながら母親に抱きつくのです。「ため」に生きることができるところには相対が決定しますが、「ために生きなさい」と言う愛を中心とすれば破綻が起きるのです。「ために生きなさい」と言う愛を中心としては破綻が起きるというのです。

 夫婦でけんかして愛し合いたいですか。夜も昼も、「ため」に生きる心をもつとき、足でけ飛ばしたり、たたいたりしても自由があります。「ため」に生きるところにおいて、それが反対になれば、自由が奪われ、すべてのことを破壊し、すべての平和、愛がなくなってしまいます。(二七六−二四二、一九九六・二・二四)

 キリスト教や他のある宗教が、いくら神霊的で、いくら一時代に世界的な事件を起こして主導的な役割をしたとしても、その価値が社会全体において、一つの目的、平和の方向と一致し得る内容が多いというときには天運が保護し、神様がいらっしゃるとすれば、神様がこれを保護、育成していかれるのです。しかし、いくら優秀で、いくら立派だとしても、これが一つの目的方向に反するときには、天は制裁を加え、除去運動をするようになるのです。

 いくら立派な聖人、立派な大統領がいるとしても、彼らが国家と世界の中心になって、アジア全体が行くことができる方向を探し出し、アジアの動きを中心として、国家を中心として成そうとするときには押してあげますが、それが国家の方向に反し、アジアの方向、世界の方向に反すれば、天運の力、宇宙の力が制裁を加えるのです。興亡盛衰の曲折が起きるのは、自分を中心として統一しようとするのか、平和の世界全体を中心として統一しようとするのか、ということにかかっています。この二つの間で興亡盛衰が展開するのです。(二二四−一九九、一九九一・一一・二四)

 自分の息子、娘を王子のように、王女のように育てなければなりません。そして、王のように、王妃のように父母によく侍らなければなりません。また大王の母親を何といいますか。大王大妃というのですが、王妃よりももっとよく侍らなければならないというのです。天の国の家庭法がそのようになっています。そこに闘いがあり得ますか。命令一下に一滴千里です。その家庭全体の背景の根本思想は、「ため」に存在するというものです。そうでなければ、平和は訪れることができないというのです。この文総裁の教えは、永遠の真理として万民がここに身を投じざるを得ません。体を投じて、僕になったとしてもしがみついていようとするのです。今までは、「私のために生きなさい」と言っていたでしょう? これを何によって一八○度ひっくり返すのですか。先生が教育しなければならないのです。根本から、根がそのようになっているというのです。

 朝鮮民族は、「朝鮮民族第一主義」という意識をもってはいけないのです。アジアのすべての民族を中心として、一つになる運動をしなければなりません。アジアという三十億の人類が暮らしているこの巨大な基盤を前にして、平和や平準や平等という次元で考えるとき、共に豊かに暮らさなければならないという立場に立つためには、アジアのために自分の民族を投入しなければならないというそのような論理が成立するのです。そして、アジアは、世界という舞台のために投入しなければならないのです。(二一三−七〇、一九九一・一・一四)

 平和は、相対的な概念から出てくる言葉です。幸福もそうです。一人では幸福になることはできません。このように考えるとき、この宇宙全体は、自分を中心として一つになるところから幸福が出てくるのであり、平和や私たちの理想的なすべての要件も、私が一つになるところから因縁が結ばれるのであり、出発するのです。(二〇八−二三一、一九九〇・一一・二〇)

 人の力では、人間世界において平和の紐帯を結ぶことはできません。なぜですか。お互いがより良くなろうとするのです。お互いが利用しようとするというのです。すべて自分の利益を追求し、自分を中心として良いものを縛りつけようとします。ここに来られた皆さんはそうではないですか。国会議員や地方有志、学校教師、学生等、みな自分を中心としてヘゲモニー(主動的地位)争奪戦を行い、自分の利益のために闘って大騒ぎです。これが本質的な私たちの生活の基礎になっているというのです。自分だけのために生きる環境でつくられた世の中では、闘争が継続するのです。(二〇〇−七八、一九九〇・二・二四)

 この目が自分のために生きようとして生じましたか。相対のために生じたのです。口が自分のために生じたのですか。相対のために生じたのです。この耳が自分のために生じたのですか。聞いてあげようとして生じたのです。鼻が自分のために生じたのですか。手は自分のために生じたのではありません。「ため」に生きようとして生じたのです。平和はそこから始まるのです。(二〇〇−二五三、一九九〇・二・二五)


















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