人の生涯
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第一章 人の生涯

第一節 人生の諸問題

一 人生とは何か

1 今日まで迷路のようだった人生の諸問題

 今日までの哲学は、歴史を通じて、人生の諸問題を解決するために苦心してきました。真なる人間の価値、人間はどのようにしたら完成することができ、どのようにしたら人間自体の位置から勝利して、宇宙万象に誇れる勝利の完成格と成りえるかという問題を中心として、数多くの哲人たちが現れては悩みつつ、ありとあらゆる主張をし尽くしてきました。そのようにして、今日に至っては、人間を通じての思想体系に立脚した主義、主張のすべては、すでに実験済みとなり、落第してしまいました。皆脱落してしまったのです。(一四一・一二五)

 なぜ人間はこうして浮世を渡りつつ死を忌み嫌いながら、なぜ生きなければならないのか? 根源はどのようになっているのか? 皆さん、疑問が多いことでしょう。その疑問のすべては、人間の手による哲学書を通しては解決できません。哲学というものは、今日まで神様を探していく道を開発してきました。宗教というものがそうです。宗教とは何か? 神様を知って、神様とともに生きることから始まるのが、宗教生活です。(一八六・一二)

 よく世間では「ああ! 人生とは何だろう、人生とは?」と言う声を聞きます。このように私たち人間は、人生観の確立、国家観の確立、世界観の確立、更には宇宙観の確立、神観の確立が問題となります。これがどうなっているかということです。系統的段階をどこに置くのか、その次元的な系統をどのように連結させるかということが、最も深刻な問題です。(七五・三二四)

 統一教会の信徒は、世間一般の人々とは違います。私たちはみ旨を中心として、死後の世界、すなわち未来に対する確信を持っており、そのことを細胞で直接体感しています。

 今まで、この世界に生まれては去って行った数多くの人間たちや、み旨を抱いて歴史上に現れては去って行った数多くの聖人賢哲は、人間がどこから来て、どこへ行くのかという問題に取り組んで、一生の間全力を尽くして努力しましたが、その解決点を探し出せないまま去っていきました。(三三・七)


2 動機と目的が分からない人生

 人々はよく、人間は生まれては去っていくものだといいます。昔から今に至るまで、どんなに偉大な聖賢君子も、この世に生まれそして去っていきました。こうした歴史の動き、こうした天倫の動きが、今この瞬間の私にも連続されているということを皆さんは考えてみなければなりません。生まれては去って行かなければならない私たち自身です。どういう因縁と関係によるのかは分かりませんが、この地に生まれ、万象あるいは、ある理念的形態の中で、繰り返していくことが事実だということをよく知っています。

 それでは私たち人間は何のために生まれ、何を目的として行くのでしょうか? このことを、数多くの哲人、あるいは数多くの宗教人たちが、心血を注いで解決しようとしましたが、解決できないまま、それに因る悲しみとともに、今日までの人類歴史は動いて来ました。そして今も動き続けているのです。

 こういう緊張の瞬間にある私たちです。行きたくなくとも、行かざるをえない人生行路を歩んでいる私たちである、ということは否定できないでしょう。父母の血統を通して生まれてみると、思いもよらなかった世界で生きているのです。また、生きてみると、年老いて死んでいく運命に置かれるようになります。どんなに偉大な人であっても、花のような青春時代が過ぎてしまうのをどうすることもできないのです。自分が老いてゆく姿を防ごうとしても防ぐことができないという、もの悲しい事実を、私たちは知っています。

 考えれば考えるほどやるせなく、考えれば考えるほどカラカラになり、考えれば考えるほど四方をめちゃくちゃにしたい衝動にかられるのを、皆さんは生涯の路程において、何度も感じたことでしょう。

 私はどうしてこの世に生まれ、私は何のために生きるべきであり、どこへ行くべきか? 皆さんがこの世に誕生したことを、ひとりでに生まれたものと考えてはいけません。誕生はしたものの、どんな動機から生まれ、何のために生まれたのか、私を誕生させた動機と目的を知らない私たちです。この世に生まれて来たものの、自分が生まれようとして生まれたわけではなく、生きてはいるものの、自分が生きようとして生きているわけではなく、死ぬにしても、自分が死のうとして死ぬわけではありません。

 それなのに、そんな自分をして何を誇ろうというのですか? 自分自身が生まれたくて生まれることもできず、自分自身の何かを持って生きることもできず、死の道を避けることもできない自分をして何を誇ろうというのか、それは侘しいだけです。生まれたから、生きていかねばならない運命なのであり、また、生きては死んで行く運命なのです。

 それでは、このように生きて、そして死んで行く目的は何なのでしょう? 皆さんはこの問題をもう一度考えてみなければなりません。動機が私によるものではないのだから、目的も私のみのものではないに違いありません。生きるにおいて幸福な位置を嫌がる者がどこにおり、豪華絢爛たる位置で生きたくない者が、どこにいるでしょうか? しかしながら、思いどおりにできないのが、私自身です。にもかかわらず、自分自身を誇りたく、思いどおりに生きたく、好きなだけ生き続けたいと願う私自身でもあります。

 自分を原因として生まれた自分ではないのに、より大きな何かを求め、もっと豊かに生きることを望み、より大きな目的の価値を要求しようとするのは、自分によるものなのか、そうでなければ、何らかの相対的な目的によるものなのかということを、皆さん自身、はっきり知らなければなりません。手を挙げて、自分によるものだといえる人は、いないことでしょう。父母の血肉を受けて生まれるとき、自分から生まれたくて生まれましたか? 父母が私を生みはしましたが、私という存在は父母が思いどおりにすることのできない生命体であり、思いどおりに、引っ張っていけない生命体であり、思いどおりに殺すこともできなければ、生かすこともできない生命体なのです。

 そのような権限は、だれが持っているのか? その権限の所有者を解き明かすようになれば、自分を中心として喜びにひたることができることでしょう。ところで今日の人間たちは、この基準を越えられずにあえいでいます。このような存在が私たちであることを知らなければなりません。

 それゆえに私たちは、心の内でより大きな何かを追求しているのです。また、一生を通して死亡の権限を押し退け、実際に、より偉大な驚くべき生命の世界と因縁を結びたいと思うのです。更に進んでは、何らかの情的な愛の心情が存在し、人間の情的世界を越えて、永遠不変な情的世界に触れようとします。解明したり証明することはできなくとも、そのような感覚に常に私が引かれているのです。良心が清ければ清い人であるほど、その何かが、この矛盾した世界に逆らうように促しているのを感じることでしょう。(七・一七八)

 私たちは、結局は死へと向かいつつあります。それなのに、目的も無く行くとしたら、それはこの上なく悲惨なことです。皆さん、砂漠地帯を行くときは、いくらまっすぐ行こうとしても大きく曲がってしまいます。ある人はこんなに曲がって…、大きく曲がるということです。なぜそうなるかというと、このように歩きはしても両足の歩幅が同じではありません。それで、小さな差であっても長い間歩いてみれば、すでに曲がっているのです。左足の歩幅が少しでも大きければ、そのように曲がって行くのです。

 皆さん、海や湖でボ・トをこいでごらんなさい。ボ・トをこいでみると、必ず三角形に…。私がここからあそこまで行くというときには、必ず三点を合わせなければなりません。この場からあそこまで行こうとすれば、必ずこれと合わせなければならないのです。ところが、艪をこいでみると、くねくね進みます。

 このように見るとき、「私」という存在が、今生きていて、歩んではいても、これがどこに行くのか安心はできないということです。ですから、出発点と目的点を真っ直ぐに見ながら、この三点を調整して合わせていく操作をして行かなければならないわけです。そうすれば、直線に近い距離で通過することでしょう。これは理論的に妥当なことです。(八九・一六四)


3 失われた自分を取り戻さなければ

 心は自然の道理に符合しています。善の方向に限り無く向かって動こうとします。それは、磁石が南北を示すのと同じです。自然の道理には、方向を失い、善から遠ざかるということはありえません。そういう現象は無いのです。人間の心もまた、何らかの目的に向かって動こうとします。生命に向かって動く心、心情を通じて動く心、真理を分別する心、全体と和合したい心、ある全体的理念に秀でて生きたい心、この心を拠り所として、天が逃避の方向を指示できるということを、はっきり知るべきです。

 皆さんは自分自身を取り戻さなければなりません。今日ここに参加した皆さんは、自分自身がどのような立場にあって、どんな姿をしているのか、心の基準をしっかり定めて分析してみるべきです。心はしきりに催促するのに、どういうわけかカラカラになり、何かしら恐怖に威圧されるのを感じるようになります。それゆえに、私がこんな所にいてはいけないということが、自然な現象としても感じられてきますが、それだけでなく、目に入ってくるすべての物象を通しても作用してくるのです。ですから、皆さんはこうしたことを通しても、自分自身がどんな姿でどんな立場に置かれているかということを知らなければなりません。

 もし、偶然に皆さんの霊眼が開けるようになれば、数千年前に生まれて去っていった数多くの道人たちが、万人を前にして声高に叫んでいるのを見ることでしょう。今日、皆さんの横では、多くの霊人たちが全速力で走っています。そうしながら「おい、一緒に行こう、怨讐が来る」と言って悟らせようとしているのに、皆さんの耳は、そのような声を聞くこともできず、目は見ることもできず、体は感覚することもできないという哀れな姿です。これ以上嘆かわしいことはありません。これは、自分一身だけで嘆くことではありません。こうしたことは、存在の価値を全体的な理念世界と連結させようとする天倫の前にあって、受入れ難い罪となるのです。(七・一八二)


4 神様が存在するのならば、指導方法が現れるべき

 この地上に生きている人のうち、善なる人だといえる人は一人もいません。この世に生まれてみると、善なる種子ではなく悪なる種子だったのです。生まれたみたら、再創造の理念の前に立ちえ、何らかの価値をたたえることのできる存在ではなかったのです。自分の姿が、不肖な姿、不備な姿、不完全な姿、不足な姿であることを否定できないことでしょう。このような人間の姿を、キリスト教では、堕落した姿として規定しています。

 人間の本心は、堕落世界で楽しく暮らそうとは思いません。そうして人間は六千年間この道を避けに避けて来ましたが、未だに完全に避けたという基準を立てられずにいるという事実を知らなければなりません。

 今日私たちが、悪を避け、善を指向しながら、何らかの目的に向かって進んで行くことが、いわゆる人生行路だといえます。今日も、明日も、死んでさえも、悪を除去して善にしがみつこうという目的のもとで、悪の環境を避けて行く路程が人生行路であるということです。

 それゆえ、皆さんの心は恐怖におののいています。心の本郷をめざして動くときは、そうではありませんが、悪に偏った場に立つようになるときには、あたかも何者かが、私を促えているような恐ろしさを感じるのです。これは、私たちが、罪悪史、あるいは死の権限といった暗黒の勢力から本心を避けて行くためであるという事実を、私たちは、はっきり記憶しなければなりません。私たちは逃避の路程にあります。神様がいらっしゃるというからには、この逃避者たちをどのようになさることか? 悪から逃避して行かなければならない世界人類をどのように指導なさることか? 神様が存在するならば、その指導方法が現れるべきです。(七・一八〇)


二 人間は原因的存在ではない

 この地上に生きる人々はだれしも、福を受けることを願っています。何か分からないけれど、ある絶対的な力に寄与して、祝福された道を行きたいし、それを所有したいのです。それは個人においてもそうであり、団体においても同様で、私であるならば私、世界であるならば世界においても同じことなのです。

 人間は本来、原因的存在ではありません。人間からすべてのものが出発したのではないのです。(一八八・二五〇)

 私たちはだれか? 神様とは、だれか? 創造主である。創造主とは、だれか? 宗教世界における概念では神様は父であり、私たちはその子女である、とこう見ます。では、父はどんな父であり、どのようになった父なのでしょう? これが漠然としているのです。借りて来た父ですか、隣近所の父ですか、それとも養父ですか? どんな親なのですか? そうでなければ妻の実家の親ですか、嫁ぎ先の親ですか? 父という言葉はたくさんあります。根本を解決できなくては、環境が拡大された世界において、いくら解決しようとしても、解決されないのです。いくら千年万年経っても解決されないのです。

 ならば、人間と神様の問題となります、これが。人間と神様。本当に神様は私たちの父なのか、と問うとき、皆さんは神様が父であると感じますか? 私というものが存在する前に、私よりもっと確実なのが父母の一身です。父母が私より先に存在しているがゆえに、私がいるということを前提とするときには、私がいるということを主張する前に父母がいるということを主張しなければなりません。それが正しい定義です。父母をそっちのけにして、自分の存在を主張するのは、愚かなことです。

 なぜか? 私たち人間は第一の原因的存在ではありません。第二の結果的存在なのです。それゆえ、私がいるという前に父母がいるというべきです。このように見てみると、根本までつきつめれば、宇宙の根本たる神様という問題を根本的に、いちばん最初に解決しておかなければならないのではないか、ということです。母親の母親のそのまた上の、先祖のそのまた先祖の、と上がって行けば、神様になるでしょう? こういう理論を追求するならば、私を主張する前に、神様を決定しなければなりません。ですから、神様がどのような方で、私の父であり、その父がどのような父であるということを、統一教会は簡単に教えてくれるのです。(一八八・一九〇)

 本然の出発点をしっかり定めなさい。しっかりと定めろということです。人間は結果的存在であるがゆえ、原因の起点にまで持って行って合わせるべきです。原因の起点に合わせても、その起点が盲目的起点となってはいけません。神様が人格を持っているがゆえに、人格を持った人間においても、知情意のすべての良心的作用の内容を備えています。それゆえ、その動機も、原因的内容以上の動機でなければなりません。また同時に絶対的であるべきです。一度出発したものが間違えば、永遠に是正することができません。(一七二・三二)


三 最短距離は一つ

 羅針盤なしで航海する船の前途を考えてみましょう。船はエンジンが回ってスクリュ・が作動すれば前進しますが、船を動かす航海士は、ただ舵だけとっていくだけでいいですか? そうすればどうなりますか? それは私たちが人生を生きるにおいても同じことです。あたかもスクリュ・が回るように、ただ朝起きてご飯を食べて、会社と家を行ったり来たりしながら、どうにかこうにか方向も定められずに生きていればいいのですか? そうして目的地の港に到着してはどうなるのでしょう? その目的地にどうやって降りるのでしょうか? それ以上の危機一発はありません。

 先生は、あるとき道を歩いていて、年取ったおじいさんと話をしたことがありました。そのときおじいさんに、「どこへ行かれますか?」と尋ねたら、「行くってどこへ行くんだ。息子の家に行くのさ。」とおっしゃいました。「そうですか、行かれら何をなさるのですか?」と、また尋ねると、「ご飯とおかずを出してくれたら食べて、ひょっとして鶏を捕まえてくれたら、それもおいしく食べるだろう。」とおっしゃるのでした。そこで「では食べ終わって何をなさいますか?」と尋ねたところ、「その後は別に何もないさ。」と、こんなふうな答えでした。私たちの人生をこのように送ってもいいのでしょうか?

 店の帳簿を整理するときにも、収入がいくらで支出がいくらであるかを正確に決算します。このように帳簿を整理するにおいても、収支決算を徹底してやるのに、皆さんの人生はどうですか? 一生の間暮らした内容を収支決算してみましたか? 赤字ですか、黒字ですか? 赤字ならば、地を打って痛哭すべきです。人間は、臨終の場において、楽しく歌いながら死ねるようでなければなりません。ところが死を前にして、生きようと、じたばたするのは、赤字人生である証拠です。私たちは絶対性を中心として、心情の世界において黒字人生を生きるべきです。

 しかし、今だにそうなっていないために、これを解決してくれる宗教が現れなければなりません。その宗教は、漸進的ではなく爆発的であり、瞬間的にきっぱりと治してしまいえる原動力を持った宗教でなければなりません。このことを理解できますか? そういう宗教が現れたら、どんなにいいでしょうか?

 今日まで、キリスト教の歴史は約二千年になり、仏教の歴史は二千年を越えています。しかし、二千年間生き続けた人間はいません。いないために、漸次的に歴史的な宗教を立てながら来たのです。ですから、私たちの願いは本郷の国を創ろうということであり、その国へ入るための橋を作ろうということなのです。

 江原道の麟蹄に行ってみると、見かけは五分もかからないほど近い距離なのに、実際歩いて見ると二十里(日本での二里=約!.84kmにあたる)以上にもなる道がたくさんあります。「車に乗っても越えられないような道を、私はなぜ歩くといったのか?」と言いつつ歩いてみると、足が痛くてたまらなくなります。皆さんも、生きていけばそういう機会があることでしょう。ではそのときに皆さんは回り道を行くことを願いますか、直行する道を行くことを願いますか? ここにヘリコプタ・が必要であり、ロケットのようなものが必要なのです。何か変わらなければなりません。非常対策を取ることのできる心を持たなければいけません。こうした観点から見るとき、この地球上には、そういう宗教が現れなければなりません。(一九・二八九)

 皆さんは何をしに朝っぱらからここに来ましたか? 何をしにここに来て座っているのですか? お腹がすいたからここに来て座っているのですか? 暑いからこの冷たい場所に来て座っているのですか?(違います)。それでは寒くて、ここに来て座っているのですか?(違います)。何のために来て座っているのですか? どちらが真の方向なのか分からず、高く行くべきか、下りて行くべきか、こっちに行くべきか、あっちへ行くべきかが分からないのですね。教会も多いし、宗教らしきものが本当にたくさんあります。真のよなものがたくさんあります。本物はたった一つなのに、偽物がざらにあるのです。

 私たち人間というものをよくよく見ると、ひたすら、あちこち歩き回っているうちに、目もまひし、耳も麻痺し、臭いを嗅ぐ鼻もまひし、味を見る口もまひし、この二本の手もまひし、すべてまひしたのです。私の目が、私の耳が、すべての感覚器管が一致して、すべての神経線まで全体を総合して、自分をひとつに導くことのできる道はどこか? 陶酔して喜びを感じつつ生きることのできる道があるとするなら、それはどの道か? それが自分個人の人生、自分一人の道として自分が満足できるのみならず、自分に従う家庭が満足し、自分が属している氏族が満足し、自分が属する国が満足し、自分が属する世界が満足し、自分が属する天地が満足して、神様までも満足することのできる、そんな光の道は、どこにあるのか?

 そういう道があってこそ人類が幸福な世界に行けるのであり、人類が皆ひとつとなる所に行くことができるのです。それは階級を超越してひとつの目的地に導くことのできる光でなければなりません。そういう光を目標とする、そういう光に向かう方向はどんな道なのかということです。それは必要でしょう?(はい)。それでその光とは、一体何なのかということです。何の光か?(真理です)。(九五・一八一)

 世界の頂上に上がる最短距離は一つしかありません。二つではありません。一つです。それを通らずしては、一つの世界に到着することができないのです。人工衛星を打ち上げることなど、何でもありません。堕落した人類に向かって、福地の人工衛星を打ち上げて、その定着地を撃破させようとすれば、タ・ゲットを撃破する場合、勝手に行ってできますか? コンピュ・タ・に入力すれば、千年万年後にも、同じ動作で軌道に従うため撃破できるのです。それは二つの道ではありません。(一三五・二八二)


四 なぜ生きるのか

1 何のために生きるのか

 私はだれのために生き、何のために生きるのかということが問題です。このことを考えるとき、私自身を問題として、私は今、何のために生きているのかと反省してみなければなりません。皆さん自身は、今まで何のために生きてきましたか? 地のためにいきましたか? 天のために生きましたか? 地上において、創造主のみ旨を成すために完全に生きたと自信を持って言える人は、今日までの歴史路程において見つけることはできません。

 これはどういうわけでしょうか? 宗教的に見ても、あらゆる方面から見ても、人間が堕落したためです。堕落したために、人間は、善に生きることのできる本然の理念の園を離れ、全体のために生きうる環境から離れるようになりました。心ではそのように生きたいのに、体がそうできないことが、この地上に生きている堕落人間が置かれている状態であることを知らなければなりません。

 こうした立場に置かれつつ、私たちは生きています。本来人間は、固着的な理念の世界で生きるべき人間ですが、そのような位置から落ちることによって、尊貴であるべき人間が形容しがたい悲惨な場所で、もがき苦しむようになったのです。

 しかし皆さんは、より豊かに暮らしたいという感情を持っていることでしょう。もう少し豊かに暮らしたいし、もう少し大きく、もう少し広く、もう少し高く、もう少し無限の価値を感じつつ生きたいという気持ちがあることを、否定する人は一人もいないでしょう。

 このように生きたいと願いつつも、実際にそのように生きることのできる生活の内容、生涯的な理念といった、そういう目的に向かって進んでいくための内容がありません。生きているとはいいますが、皆さんは堂々と自信を持って、「天よ、地よ、神様よ、協助してください。」と言えますか? そのような皆さんになれずにいます。

 自分自身は創造本然の生の内容を知らず、天の多くの霊人たちと、地の被造万物と、創造主である神様の前に自信を持って堂々と発言することのできる存在になれずにいるのですが、天の多くの霊人たちは、今この時間も皆さんのために、地もまた皆さんのために、神様も皆さんのために働いていらっしゃるのです。にもかかわらず、人間は、そのような天があり、地があり、あるいは神様が、いるのかいないのかさえも分からないまま、その世界を慕いつつ、彷徨の歴史路程を苦しみさすらってきたということを私たちは知っています。

 更には、ここに来た学生たちは今日を出発として、自分が何のために生きるのかということを、一度考えてみるべき時が来ました。もし神様が、「おまえは何のために生きるつもりか?」と言うとき、皆さんは何と答えますか? そして更に一歩進んで、皆さんの人生はだれのためにあるのか、と尋ねたならば、自分のためにあるのだということはできません。国はだれのためにあるのでしょうか? その国自体のためだけに存在するのではない、ということを知らなければなりません。なぜか? 大宇宙の目的圏内に入っている国家であり、民族であり、世界であるからです。ゆえに、いかなるものであれ、存在するものはすべて、それ自体のためだけに存在するようになってはいない、ということだけは、間違いありません。(八・四二)


2 だれのために生きるのか

 皆さん個人は、だれのために生きているのでしょうか?「だれのために生きる? 自分のために生きるさ。」と言えば、それは落第です。自分のために生きるという人の前に、家庭がありえますか? 望みの家庭はありません。国がありえますか? 国は与えられません。そこに世界がありえますか? 世界はありえません。世界が現れるべき場所がありません。ありますか、ありませんか? 政治の公約は、「この個人主義の悪党よ、退け。」と制止するのです。個人を第一とするところに、家庭が入り込めますか? そこに理想の国が入り込めますか? 錐の先みたいな狭いところに入ることができるのかというのです。いくら入り込もうとしても入り込めないのです。(五七・六六)


3 愛のために生きる

 人生はどのように生きるべきでしょうか? 人は、どこから、何のために生まれて、どのように生きるべきなのでしょうか? 簡単なのです。愛(神様を中心とした)のために、愛によって生まれたので、愛の道を探し、愛の目的地に行くのです。こうすれば宇宙の循環法則上において、永遠に回ることができます。愛は永遠的概念なので、愛を探してこの中心に来るのです。それは愛においてのみ成立することです。(一二五・六五)

 ですから皆さんは、それを知らなければなりません。すべてのものが移動する目的、存在する目的は、愛であるということです。愛を探して動き、愛を探して存在するというこの鉄則を、皆さんは常にわきまえていなければなりません。鳥たちが互いに引かれて、さえずりながら飛び交うのも愛ゆえであり、磁石のプラス・マイナスが互いにくっつくのも愛でひとつになるためなのです。人が皆、だれかに出会うというのも、ひとつになるためです。

 それでは、ひとつになる目的はどこにあるのでしょうか? お金、自分の欲、自分の息子娘のため…。そこに目的があってはいけないのです。神様の愛がなければ、すべてのものは成立することができません。これを知らなければなりません。

 また、一生の間生きるのは何のためか? 自分のために生きるのですか? 神様の愛のために生きるのです。その目的のために、動き、生きているのです。それはどれほど、素晴らしいでしょうか。どれほど素晴らしいかということです。そんなふうに生きる人は、絶対に滅びません。苦しいことや、涙の出ること、あるいは悲惨なことがあるとしても、それは神様の愛のためであるので、悲惨でもなく、悲痛なことでもなく、悲しいことでもないのです。この原則が分かりますか?(はい)。

 存在の目的がそういう内容として追究されているということを知り、それさえ中心として活用すれば、世界のすべてのことを活用することができるのです。それが創造の原則です。そういう心を持った人たちがこれ位いたならば、その人々はアメリカを動かすでしょうか、動かせないでしょうか?(動かします)。ただし時間が問題なのです、時間が。そうすれば、アメリカは動くようになっています。動くようなっているのです。(六七・一五九)

 私たちは何のために生きるのか? 絶対的な真の愛、真の愛のために生きよう! それゆえ、自分の財布の中にあるハンカチも真の愛のためにある、自分が仕事をするのも、汗を流すのも愛のため、真の愛のためするのです。私が話すのも、真の愛のためであり、食べるのも真の愛のためであり、遊ぶのも真の愛のためであり、すべてがそうなのです。(一〇七・二〇五)


第二節 人間の誕生

一 私たちに対する祈祷

 この時間ここに集まった子女たちの心の内を、お父様、うかがってくださいませ。お父様、私たちはだれとともに生まれ、だれとともに生きていき、だれとともに死ぬのでしょうか? お父様とともに生まれることのできない人間であり、お父様とともに生きることのできない人間であり、お父様とともに死ぬことのできない人間でありました。しかし、そんな私たちに、お父様とともに生きることのできる道を教えてくださった、その恩恵に、私たちは千万回感謝を捧げても足りません。お父様の前にこの身のすべてを生きた供え物として捧げても不足であるという事実を発見し、お父様の前に差し出すには、あまりに汚れた私たちの姿であることを、もう一度確認しました。

 それゆえ私たちは、お父様にお捧げするにはあまりに恥ずかしいこの身を覆いつつ、この姿をいかに隠すかを心配して気をもみつつ現れなければならない人間個体、個体であります。それにもかかわらず、私たちは、お父様の前にあまりにも高慢でありました。お父様の前にあまりにも傲慢でありました。そうでありながらも、私はお父様の息子であり娘であるので、この姿を受入れてくださいと直接通告しえる、大胆な姿を持って現れた私たちでありました。(二七・二〇九)


二 人間は自分の意志で生まれた存在ではない

 本来私たち人間は、自分の意志によって生まれたのではありません。また、父母ならば父母自身が、このような子供を生もうという計画のもとに生まれたのでもありません。このように私たちは、父母の要求によって生まれたのではないということです。

 神の摂理を中心として、私たちが存在するようになった根源を掘り進めてみれば、人間は摂理の起源と一致し、その起源を中心に流れてきた歴史と関係する重大な責任を担ったひとつの生命体として、地上に送られたと見る以外にありません。

 では、人間が神様の摂理的なみ旨と、歴史的経倫に関係を持って生まれたということを考えてみるとき、人間というのは現実に置かれているそれ自体にとどまってはいません。皆さんがいわゆる二〇代の青年ならば、二〇代の青年のままとどまってはいないということです。私たちは、こうした歴史を断定することができ、このような摂理を代身しうる実体であることに間違い無いという事実を感じるべきです。それゆえ、歴史過程にある自分自身、その中に生きている私たち個体がいくら小さいといっても、ひとつの個体として終わるのではないのです。(三四・一五五)

 人間は生まれるとき、自分が生まれたいという意識があって生まれたのではありません。意識がある前に、神様の力によって生まれたのです。ですから発展も、それ自体の意識基盤から始まるものではありません。自分自身を忘却する場、意識以前の作用による結果が確かなものとなるその場から、やり甲斐と価値に満ちた、自分自体の形成が始まるのです。言い換えれば、自分の意識に先立って、神様が先ず存在しうる動機の基盤が因縁づけられることによって、よりよい自分自体が形成されるということです。(三六・一〇三)

 人間自体、自分が生まれたこと、自分を主張できる起源はどこにあるのでしょうか? 人間自体を主張できる起源が民主主義ですか? 民主主義は流れて行くのです。この大宇宙の原則の前に、人間を主張できる起源をどこに見いだすべきでしょうか? 私たち人間は、結果的な存在として生まれたのに、結果的存在でありながら原因を知らずして自分を主張する人、そういう人たちは気がおかしいのであり、みんな狂人なのです、狂人。(八三・一九一)

 皆さんはどのみち生まれたからには生きなければならず、生きては死んでいかなければなりません。初めから、生まれることを宣布して生まれたわけではなく、生きるにおいても生きると宣布して生きるのではありません。人間が、何か価値あるものを持って生まれたのならば、そういう生活をしてからあの世へ行くべきです。またそういう生涯を送らなければなりません。

 厳粛な場から自分が来たので、厳粛な場で自分が生き、厳粛な場に逝くべきです。それは、だれかが指図したからそうなのではありません。自然な因縁から出発して、自然な因縁の道を行くべきなのです。ところが、不自然に生まれて、不自然な場で生き、不自然な所に行くようになります。このように生きて良いのでしょうか? いけません。(一二・一〇)


三 本来神様の愛によって生まれた人間

 生まれたのはなぜなのかという問題、神様はなぜ人間を創り、天地万物を創られたのかという問題、その結論は簡単です。神様も、愛する対象が必要であるため、愛の対象として人間を創造されたのです。分かりましたか? 皆さんは今、「とるに足らない私のような存在は、いてもいなくても関係ない。」と考えていますね? そのように考えてはいけません。

 神様の愛が対象となる場合には、父母の前に子供が優れているからといって愛するのではありません。子供であればこそ、優れていようが愚かであろうが愛するのです。病身の子を持つ親の心情が、子供以上につらいのと同様に、天地の中心であられる神様の愛の心情は、皆さんが優れている、いないということを超越しているのです。本性の愛の基盤を備えているかいないかが重要です。それゆえ、自分はなぜ創造され、宇宙はなぜ創造されたのかということを知らなければなりません。愛の理想を完成させるために創られたという事実を知るべきです。(一三〇・四四)

 神様の息子という言葉は、何を中心としていう言葉ですか? 息子というものは何でしょうか? 息子とは何ですか? 息子とは? どういうものが息子でしょうか? 息子というのは、神様の愛の中で見いだすべきです。愛の中から始まり、神様のすべての属性に似て、すべての性禀全体に似た、そういう存在をいうのです。それゆえ、息子となるためには、どんなことをすべきでしょうか?

 生まれるにおいて、何によって生まれたかといえば、神様の愛によって生まれたのです。愛に根を置いて生まれた、神様の息子なのです。そうでしょう? 理致的に見るとき、なにがしの息子といえば、そのなにがしの息子とは何でしょうか? その息子というのは一体何かということです。父の愛の中で生まれたということです。父母とは、愛の中で自分を生んでくださった方です。(一四四・二三二)

 神様はなぜ天地万物を創られ、神様は自分をなぜ創られたのでしょうか? 何のために創られたか? 愛のためです。自分はなぜ生まれたのでしょうか? 神様の愛ゆえに生まれたのです。神様の愛の中で生まれ、神様の愛の中で生きるために生まれたということです。「神様とともに自分の家庭で愛することのできる人だ、神様とともに自分の社会で愛することのできる人だ、神様とともに自分の国家で愛することのできる人だ、神様とともに自分の世界で愛することのできる人だ。」と言える人になるために、神様の愛の中で生きるべきなのです。(九七・二六六)


四 堕落により過って生まれた人間

 人間は生まれるとき過って生まれました。本来人間は、神様によって創造され、誕生しました。人間は、神様によって創造されはしましたが、サタンによって過った生まれ方をしたのです。この世でどんなに優れた人であっても、神様によって創造された人間ではあるものの、血統においては、神の怨讐であるサタンの血を受けて生まれました。今日、一般の宗教は、こうした事実を知りません。それゆえ神様は、六千年の間、摂理して来られたのです。善悪の果(果実のような)を取って食べたことが罪となって、神様が六千年もの間、摂理して来られるでしょうか?

 人間は、本来神様によって創られ、神様と因縁づけられているにもかかわらず、サタンの不倫なる愛によって、過って生まれました。それゆえ、サタンの愛によって生まれたなかったという、サタンが侵犯できない立場を経て、再び生まれなければならないのです。ですから、キリスト教の教理の骨子は、「復活」です。復活の宗教であるのです。復活は、すなわち新生の道理です。人間は過って生まれたために、もう一度生まれなければいけないということなのです。

 今日まで、完成された人間は現れませんでした。それはすべてがアダムの堕落によって過って生まれたためです。この世でどんなに優秀で立派な人物であっても、過って生まれたのです。少し善であり、少し悪であるという差がありますが、それは微々たるものです。神様がご覧になられるときには、微かな差だというものです。

 すべての人間は過って生まれたのです。ですから逆さまに復帰しなければなりません。このように逆さまに復帰しなければならないので、アダムから四千年の後に、堕落しなかったアダムを代身する立場で、イエス様が来られました。すなわち、サタンの讒訴圏を抜け出した立場、神様のみが主管できる立場で来られたのです。そうした立場を用意するために、神様はアダム家庭から役事をしてこられました。(一九・一九〇)


五 生まれた理由

 私という存在は、父母から何を受けて生まれたのか? 生命の連結体として生まれた、とこのように見ることができます。そうじゃないですか? 父と母がひとつになる場において、父母の生命力の価値を持って生まれたのです。その生命力とは何によるものか? 愛によるものです。その生命力と愛とは、何のために? 宇宙の目的を完成させるためです。このようになっています。目的を完成するために生まれたのです。男性なら男性、女性なら女性としてのある目的、大宇宙の目的へ協助する者としての自らを完成するために、このような生命力を中心とした結合によって生まれたのです。(一一〇・七二)

 なぜ生まれたか、人間は? 自分が、何か社長にでもなるために生まれたとするなら、それはあまりに悲惨なことです。「文なにがしはなぜ生まれたのか?」と、人がたずねるとき、「統一教会の先生になって大口をたたくために生まれた!」と、こう答えるのは、私は嫌いです。なぜこんなにやかましく大騒ぎするのですか? 世界をみんなぼろ布のようにしておいて、なんでこんなに騒ぐのでしょう。そんなに大騒ぎするのは他でもありません。神様の真の愛を探すためなのです。(一二一・一〇一)

 私たちが生まれたのはどうしてでしょうか? 何のために生まれたのでしょうか?「愛のためです。」愛とは何の愛ですか?「神様の愛です。」うむ、神様の愛、神様の愛なのです。ここで「ドン!」と音をたてれば、神様の頭に「ピン!」と通じる愛なのです。皆さんが池に向かって何かを「ポン!」と投げれば、池の縁に波紋が広がるように、この宇宙の中に愛を「ポン!」と投げれば、全宇宙に波紋が生じるのです。何の話か分かりますか? そんな業をしているのです。皆さんが砂粒を投げるのか、それとも大きな波紋を起こすのか、が問題なのです。(一〇三・二五四)


六 生まれた目的

 皆さん、人間は何のために生まれたのかという根本的なことが、今日まで歴史を通じて問題となってきました。なぜ生まれたのか? ある人は自分の国のために生まれたと考える人、ある人は自分の父母のために生まれたと考える人、人によって様々です。今日、信仰を持つ人は、「神様のために生まれた。」と、このように考えています。(八三・一五四)

 皆さんは何のために生まれたのか、これが問題です。これについて考えて見ましょう。自分のために生まれましたか?(いいえ)。自分が動機となって生まれましたか?(いいえ)。また、その目的というのは、自分のためでしょうか? 相対なしに目的を達成…。相対的な問題なのです。自分のための目的ではなく、互いのための目的です。それなのに我を通そうとするのです。動機と目的、主体と相対的な関係を一致させるにおいては、自分を出すことができますが、そうでない場合は、自分を出したらそれは怨讐です。怨讐だ、ということです。(六六・二六四)

 神様の愛の中では、世界と通じる愛は家庭と通じ、国と通じる愛は家庭と通じ、社会と通じる愛は家庭と通じ、家庭と通じる愛は自分と通じるのです。すべてが逆さまです。また、天も自分の行く目的と通じ、また、国も自分の行く目的と通じ、すべてに通じるのです。分かりましたか?(はい)。ですから、皆さんはどんな人になるべきか?「私は神様の愛を通じて、家庭で合格者となり、国で合格者となり、世界で合格者となり、天の国に行って合格者となり、神様の心情を中心として合格者となろう。それこそが人類がこの地上に生まれた本分であり、人間が生まれた目的だ。」こうあるべきです。それ以上はありません。それしかないのです。私が今生きているのは、神様の愛を中心として、神様の心情を中心として生きるのだということです。(九五・六〇)

 では、人間が生まれた目的はどこにあるのでしょうか? 世界のために生きるところにあります。それゆえ私たちは、死んでもこの道を行かなければなりません。世界に代わって神様に侍リ、神様の前に世界を奉献すべき祭司長として、「あなたが探している世界をお受けください。」と言うべき使命が、今日地上に生きている人間たちにあるのです。このように、とてつもない使命を担って素晴らしく生きるべき勇士たちであるにもかかわらず、皆、お金のとりことなって首をくくるような、取るに足らぬ小心者となってしまったのです。(三二・二六五)























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