人の生涯
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第三節 人生と時

一 人生とは短いもの

 人間の命は限られています。一生生きても百年に満たない命を持った人間です。(一七二・二八)

 さあ、皆さん、ご覧なさい。皆さんが約八十歳まで生きたとしましょう。そのうち、夜寝る時間を除けば四十年になってしまいます。半分に減ってしまうのです。寝ることも生きることでしょうか? 寝ることは、死ぬことと同じです。そうではないですか? 寝るのは、命が死んでいることです。それゆえ、二十四時間のうちで生きようと必死になっている時間は、半分に過ぎません。更にそこから、ご飯を食べる時間を一時間ずつ引いてしまえばどうなりますか? ご飯を食べるのに一時間はかかると見なければなりません。

 さあ、またそのうちで友人のお祝いの日、近所のお年寄りの還暦祝い、だれかが死んだ日、その葬式をする日、ありとあらゆる日を皆除いてしまえば、人生において生きたといえる日は半分にもなるでしょうか? この間計算してみたら、生きたといえるのは七年と出ました、七年。その七年のうちで本当に生きたといえるのは何日になるかというのです。何日とは何事かということです。(四九・三三六)

 神様と私たちについて見るとき、私たちは、いくら苦労したところで、たかが人生八十年、百年未満です。ですから、三万六千日です。皆さんが百歳まで生きたとしても三万六千日にしかなりません。三万六千日は、あっという間です。それを忍耐できないというのでしょうか? 忍耐できないのかというのです。神様は何万年、何億年を生き続けてこられました。人間界がどんなにそうであったとしても、神様は、神様であるがゆえに泰然自若でいなければならないのです。その中には数えきれないほどの事情がごった返していますが、泰然としていなければならないのです。(一二四・五九)

 人生というのは短いものです。一生は本当に短いです。物心がついて、世の中の事情を知り、ああだこうだとやっているうちに、四十を越えれば五十となり、十年なんてあっという間です。十年経てばあっという間に六十になり、六十になればすぐに七十となり、私もじっと考えてみると、人生は一場の夢、という言葉が実感されます。(一三九・一五三)

 生きるということは、人生というものは、何度もあるものではありません。一度だけしかないのです。一度ぷつりと(手を打たれる)なくなる日には、それっきり終わってしまうのです。(一三九・一五三)

 私たちの一生というものは、あっという間です。そうでしょう? この短い一生が、永遠の尺度を左右するのです。これが延長されれば無限に延長されるでしょう? 反面に、これを折ればここから新しい天地が広がっていくのです。秤と同じように、上がったり下がったりするようになるのです。そのようになっています。(四六・一五五)

 一生は、いつ終わるかわかりません。いつ、いつするのか? 自分はいつするのか、というのが問題です。今すぐ、今日、今日、今日これを皆満たしておいても、それだけではだめなのです。今やるとしても、ひっきりなしに流れて行くのです。今やるとしても、どんどん過ぎ去って行くのです。来年にでも、いつ自分が死ぬかは分からないのです。(一〇四・二九〇)


二 一生において最も重要な時

 私たちの人生を見れば、結婚前までは蘇生時代、結婚してからは長成時代、それから家庭を率いる完成時代となっています。根本がそのようになっているのです。(一二五・一六〇)

一日を中心として見るとき、朝は春の季節にあたり、昼は夏の季節にあたり、夕方は秋に、夜は冬に、それぞれ該当します。同様に、人間にも少年期があって、青年期があって壮年期があって、老年期があります。人間において、春の季節は思春期です。夏は三十代であり、秋は四十代ぐらいです。それ以降は冬の季節に入るようになり、冬至のときに該当すれば死を迎えるのです。すべての道理がそうなっています。春夏秋冬がそうであり、一日がそうであるということです。(三三・四〇)

 個人を中心として見れば、個人には、青年時代があり、壮年時代があり、老年時代があります。では、人間として生まれた自分自身について見るとき、人生においていちばん貴い時はいつか? そういう時期があるはずです。若い青春時代が、自分の人生において運命を決定しえる時となる人もあれば、壮年期が人生全体の問題解決の時となる人もあるでしょうし、あるいは老年期にそういう時を迎える人もいることでしょう。

 すべての人には、そのような全盛期が必ずあるはずです。また、青春時代なら青春時代における、そのような中心的な全盛期があり、壮年期なら壮年期、あるいは老年期には老年期においてもそのような全盛期があるはずです。その全盛期が何なのかを知って、時期を整理して見てみると、その時期がひとつの始点に置かれるようになることを、私たちは考えることができます。

 例えば、高い山があれば、そこにはいちばん高い頂きがあるはずです。全体の山脈がつながって、すべてが一点に至る所がありますが、そこが最高の頂上であることを、私たちは知っています。また、山の分水嶺について見るときにも、この分水嶺が、ひとつの山のようになって、内外に境界を成すようになります。これと同様に、私たちの一生においても、そうした一点、また一線と同じときがあります。こうしたことについて考えるとき、人間の一生においてそういう時は果たしていつなのか? 私たち人間はそれを知りません。(三六・二一七)

 私たちが生まれた後、希望に満ちたときとはいつか? 幼い子供のときが希望にあふれており、その次には青少年のときがそうであり、二十代、三十代は血気旺盛で、花に例えれば満開のときであるその時期が、香気を放って花咲くような青春時代が、いちばん華やかな時代です。四十代を過ぎて五十代、六十代になれば、皆 しおれていくのです。四十代、五十代には、しおれていきます。下がっていきます。そこに何の希望があるというのでしょうか。死が近づいてくるというのに?(一三七・二一七)

 人の一生において最も重要なときがいつかといえば、生まれるとき、結婚するとき、そして死ぬときです。では、生まれるときは、どのように生まれるべきでしょうか? 正しく生まれるべきです。統一教会でいうには、心情の因縁を中心として生まれるべきです。その次には、結婚するときです。結婚とは、生きるためにすることです。すなわち、四位基台を成すためにするのです。このような宇宙の公法を地球上に立ててこそ、神様の摂理が成就され、人間の願いが成就されるのです。このような宇宙の法度が指向する内容を備え、その形態を備えるためのものが、家庭です。(二四・二三〇)


三 人生と時

 この地上に存在する、あらゆる存在物のうち、無駄なものはひとつもありません。目的なく存在するものはない、ということです。すべての存在物は、それぞれある目的を持っており、その目的が成されるときまで、過程的、即ち時間的距離を経て進んでいくのです。その期間は、一日に及ぶ場合もあるし、一年、十年、あるいは一生をかけて進んでいく場合もあります。例として、国家について考えてみると、国家は、数世紀、数千年の歴史にわたりひとつの目的である善に向かって走っているといえます。このように、あらゆる存在は、それ自体が存在するための目的の基台に向かって走っています。

 私たち人間について考えてみると、少年時代があり、青年時代があり、壮年時代、老年時代があります。少年時代は青年時代と違い、青年時代は壮年時代と違い、壮年時代は老年時代と違います。また、その時代、時代を生きていく自分自身にふさわしい責任と使命があるものです。従って、少年時代になすべき使命を全うできなければ、青年時代を力いっぱい迎えることができず、青年時代の使命を全うしなければ、壮年時代を力いっぱい迎えられません。また、壮年時代の使命を全うできなければ、老年時代を力いっぱい迎えられないのです。

 このように、人間の一生においても、その時その時に与えられる使命を全うできるかできないかによって、自分の後世、すなわち将来迫りくる目的基準をなすにおいて、自分たちが責任を果たすか果たさないかという問題が左右されるということが分かるのです。(二四・二一一)

 よく世間では、「いくら英雄といっても時を迎えなければ 志を遂げられない。」という話を往々にして聞きます。時が準備された土台の上に人材が現れれば、その人材と時が合わさり、一つの新しい歴史が創り出されるという事実を、私たちは歴史を通してよく知っています。それゆえ、いつにおいても、時というものが問題となるわけです。

 朝が来れば、起きて朝ご飯を食べ、仕事にとりかかります。そして昼になれば昼ご飯を食べなければなりません。昼食をすませて午後の仕事にとりかかります。また、夕方になれば、夕飯を食べて夜を迎えます。このように、私たちの生活というものは、規則的な時というものを中心として、新しく移り変わる環境を迎えつつ進行しています。

 私たち個人について見ても、少年時代があるかと思えば青年時代があり、青年時代が過ぎれば壮年時代、壮年時代が過ぎれば老年時代がやってくるのです。こうした過程を経て、ひとつの人生を終えるようになるのです。一生というものは常に一定ではありません。少年時代でも青年時代でも壮年時代でも老年時代でも、時を間違って迎えるならば、かえって生まれなかった方が良いところだったという結果をもたらしてしまいます。

 しかし、少年時代でも青年時代でも壮年時代でも老年時代でも、もし一生を、時を正しく迎えて有意義に生きるならば、その人の一生は、最も価値あるものとして残りうるのです。ですから、時を間違って迎えれば、そこから失敗の動機が出発するのであり、時を正しく迎えれば、そこから成功が出発するという事実は、私たちの日常生活において、よく分かるのです。(五七・二八七)


四 先祖の功績と運

 統一教会員を見てみると、ある人は、伝道に出かければ、それこそ外に出たとたんに、これといった何もないのに人々が弁当を持って従ってくるのです。人がぞろぞろくっついてきます。その人はというと、小学校しか出ておらず、人格をみても二束三文の値打ちしかありません。しかしながら、その人が涙を流せば、町中が涙を流し、その人が明け方に起きるなら、全体が明け方に起床してしまうというわけです。それは、この世で人並みに暮らせずに、犠牲的に生きた多くの先祖たちが天の福を受けられるという因縁に従って、その時点に生まれてその線を越えることのできる位置に立ったためです。天の運勢、天の昼の運勢を迎えることのできる位置に立ったためです。それゆえ、その人はどこへ行っても被害を受けることはありません。

 しかし、その反対の人もいます。顔立ちも整っているのに、どこに配置されても非常に苦労する人がいます。それは、昔先祖が豊かに暮らしたためです。蕩減の道に踏み込めば、逆さまの立場にならざるをえません。それを抜け出して上がっていくには、ある期間が必要なのです。

 それゆえ、この期間には邪気と困難がつきものです。それを克服できずに風呂敷を包んで行く人は、それ以上は絶対上がれません。統一教会員の中に外に出て伝道するのが大変だという人は、いくら統一教会を信じたといっても、運命の因縁を超越して勝利の場へと上がることができません。皆さんはそれを知らなければなりません。それゆえ、歴史も公平であるし、人類の運命の道も公平だと見るのです。

 ある人は、自分一代で「ああ良い、ああ良い!」と、このように生きる人がいます。それはわずかです。このように見れば、「ああ、私は幸福な人だ。」と考えるのです。角度で見れば、こう、こう、このようになっています。ここを過ぎればこのくらい幸福です。

 またある人においては反対になります。反対に入るのです。ですからどれ程不幸でしょうか?「幸福は、ああ…。」後にはもっと高くなります。これは歴史的因縁を蕩減するのです。

 このように見るとき、こういうサイン・カ・ブ(sinecurve)というものは、一人の個人がそうであり、一つの家庭がそうなのです。また、一つの氏族がそうであり、一つの民族もそうなのです。このカ・ブが大きくなるだけであって、民族においても同じなのです。世界を見れば、世界もそうだということです。このうち、一つが下がっていく運勢だとすれば、もう一つは上がっていく運勢なのです。サイン、カ・ブ、これは審判台です。堕落したために、人類は堕落世界で六千年間基盤を築いてから、やっと天国世界へ入っていくのです。

 知恵深い人とは、どんな人でしょうか? なにはともあれ拍子を合わせる人です。宗教はそのようにしてきました。数千年の運勢を迎え入れよう! 数千年苦労してきましたが、一時にたずねてくる数千年の運勢を迎えようということなのです。ここから出発してこの期間に千年の運勢を迎え入れるのです。(五九・一四三)


五 運命と宿命

 運命という言葉について考えてみると、その「命」という字は「いのち」の「命」です。そして「運ぶ」の「運」です。命を運んでいくということです。またこうも考えられます。ある全体的な一つの標準となりうる命題を掲げて、そこに行くという意味にもなります。運命という道は、行かざるをえない道だということです。

 韓国では俗に、もって生まれた星回りといいます。カエルは陸地で生きるより、水中で生きるのが良いのです。それは、生まれながらにそうであるため、そのように生きなければならず、死ぬときもそこでそのように死ななければなりません。それを離れては行く道がなく、生きる道がないのです。そのようになっています。

 セミの卵がセミになるためには、これを何といいましたっけ? クムベンイ(セミの幼虫)といいましたか? クムベンイがセミになるのかよくわかりませんが、とにかくその幼虫時代があります。幼虫時代には、水たまりに住んだり、あるいは地面のくぼみの中に住んだとしても、彼らが行くべき道はそれではありません。それを通して大空を飛ぶことのできる道へと行くべきなのです。

 空を飛ぶためには、いくら地面に穴を掘ってもぐったり、水中を泳ぎ回ったとしても、その過程で何かを準備しなければならないのですが、それは何か? 空を飛ぶことのできる翼を準備しなければならないのです。それが必要条件であり、絶対条件だというわけです。なくてはならない条件なのです。幼虫時代から成虫時代に移るためには、幼虫時代において、空を飛ぶための万全の体制が準備されなければなりません。そのために、反対の要素となる殻を脱いで準備することのできる一時期を必ず経なければなりません。脱皮しなければならないのです。

 水中で暮らすときには平べったくなければならず、水面に浮いて泳ぐのにも都合がいいでしょうが、空中を飛ぶようになれば、そのままではいけないのです。それに合うように、すべてが備えられなければなりません。魚として生まれた運命ならば、それは水から離れられないのです。(一二〇・二三六)

 一体人間が幸福になったり、不幸になったり、あるいは運が良いとか悪いとかいう、その起源は、どこから始まるのか? 人間自体が運を打開していきながら、造っていきながら、自身の幸福の基盤を広げていくことができるのか? もちろん努力するところにあっては、何らかの相対的基盤を築けるかもしれませんが、自らのこうした努力によって、自分の運勢を国家のような団体の運勢と直結させたり、更には世界の運勢や天運にまで直結させることができるだろうか? それは不可能なのです。そうした観点から見るとき、運勢というものは、間違い無く存在しているのです。(七八・二六三)

 一つの峠を越えていけば、新しく出発することができるのです。宇宙は回っているのです。歴史は反復しながら、過去の形態を同時的に形成しつつ展開してきたという原則を考えてみるとき、その原則のひとときが来るということです。そのひとときに「カン」といってぴたりと入るようになれば、三六五日を合わせることができ、このようになる場合には天運を伴って、個人の運勢において運の良い一生がもたらされることでしょう。

 では、その運の良い一生はどこに行くべきでしょうか? 国家の運勢と個人の運勢は違います。大韓民国の運勢は今…。そうではありませんか? ベトナムやラオスやクメ・ルのような国を見れば、民主世界の圏内にありながらも何故にそのように悲惨であり、運悪くも共産党にすべて食われてしまったではないか? それで運が良いといえますか? 運が悪いのです。それゆえ皆さん個人の運勢は、このような拍子に合わせて…。(七八・二七五)

 自分が一〇〇の運勢を持って生まれたのに、一二〇の人生を生きるならば、そういう人の後孫は滅びるのです。人の運勢はゴムひもと同じでぴんと張っています。ですが八〇の人生を生きるならば、二〇の余裕を残すことになり、その運勢を後孫の前に相続してあげられるのです。(七八・三三三)

 運命を変えることはできますが、宿命を変えることはできません。大韓民国人として生まれた事実を変えることができますか? 自分の父親の子として生まれた事実を変えることができますか? その国の主権がどんなに強く、慣習がどんなに厳しいとしても、父親と子供の関係を変更することはできません。そのように復帰の道は宿命的なのです。どちらにしても、ある一日に清算してしまわなければなりません。(一七二・五五)


第四節 人間の行くべき道

一 一寸先は闇の人生

 生活とは、一日一日のことであり、生涯とは一生についていう言葉です。人間の生活というものは、皆さんの生きる生活とは百年圏内に、一世代というものは百年圏内に入っています。そうではないですか? 百歳以上生きる人は少ないでしょう? 承道ハルモニは何歳でしたっけ?(九四歳です)。九四歳に亡くなりましたね? 知っていますか?(はい)。おそらく、承道ハルモニも百歳を越えて生きたいと思ったことでしょう。しかし、それは思いどおりにならないのです。

 人生というのは分からないじゃないですか? 皆さんは、どのように行くべきかわかりますか? 一寸先は闇、というのが一般的にいわれていることです。人生において、生涯の路程を知って生きる人はいません。

 例えて言えば、真っ暗な夜に知らない道をとぼとぼ歩いていく姿が人生だということができます。そのように表現できます。そうではありませんか、明日が分からずに行くのですから? 明日という日が光明ではなく、真っ暗な闇だとすれば、その暗黒の前途を歩いていく歩みというものは、私たちが朝目覚めてすべてを見ることができる今日においては、想像すらできないものです。人生を歩んでいくこと自体が、暗い深夜に足を運んでいくようなものではないかということです。

 それだから生涯の路程というものは、どれほどもどかしいでしょうか? それを深刻に考えるなら、しっかりふさがれた鉄樽の中のように、窒息しそうな環境の中で歩む立場と同じであり、またそんな中で樽を押していくような生活をしているのが人間像ではないかというのです。一つの峠を越えれば、また一つの峠が現れ、二つの峠を越えてみれば三つの峠があり、三つの峠を越えてみれば四つの峠が現れ、それで終わりかと思ったら、更に大きな峠が次に待ち構えていた、ということです。(一七五・一九五)

 出発において間違えば、思いがけない所に行ってしまうものです。それゆえ、船は大海を航海するにしても、出発した港から羅針盤を中心として、行くべき目的地に向かっての方向線を引いておいてから航海します。

 それでは、人間が出発した港はどこでしょうか? 分からずにいます。羅針盤を持って彼岸の世界に到達できるように、目的地まで導く方向線はどこにあるのか? ありません。くねくねと好きなように行ったり来たりしています。こう考えるとき、人間は、いくら頑張ってみたところで、人間として終わるということなのです。(一七二・二八)


二 私たちはどこへ行くべきか

 今、私たちは、知ろうが知るまいが、ある所に向かって進んでいます。私が動いている時間にも進んでいるのであり、休んでいる時間にも進んでいるのです。単に私だけでなく、この民族、あるいはこの世界、更には天と地までも、ある所に向かって今も進んでいるのです。これは否定できない事実です。

 この一生を経た後に、私はどんなところに行くのでしょうか? これは、人間が解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身もこうした運勢にとりまかれて引っぱられていっていることを否定はできないのです。

 では、どちらにしても行かねばならない私自身であるからには、この身はどこに行こうとしているのか? この心はどこに行こうとしているのか? また、この生命はどこに向かって傾いており、自分の心情はどこに向かっており、自分の願い、あるいは希望と理念はどこに行こうとしているのか? この問題を解決できないとしても、私たちは結局は行くべき運命に置かれているのです。私たちが人生を終えて死ぬ日には、体は土に埋められて終わります。では、体が埋められるその日に、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは願いまでも、共に埋められてしまうのか? 消えて去ってしまうか?ここに、はっきりした内容と、解決点と、目的観を立てておかない限り、これは不幸な人とならざるをえないのです。

 ですから、行く歩みをつかまえておいて、動く心と傾こうとする心情をふさいでおいて、「おまえはどこに行くのか?」こう尋ねてみて、これを解決するために闘ってきた人々が聖賢、賢哲であり、あるいは多くの道主たちであったということを私たちは知るようになります。彼らはそれを解決するために現れましたが、今日まで「私の体はこういう所に行き、私の心と心情、生命と理念は、こういう所に向かって走れリ。ゆえに天下すべての万民、あるいは天地に存在するあらゆる存在物はここに行け。」と、自信を持って命令した人はいなかったのです。(八・一九四)

 では、私たちは何を中心として生まれ、何を中心として、あるいは又、何を目的として行くべきなのか? これは、神様を抜きにしては絶対だめなのです。神様を抜きにしては、動機のない因縁となるのです。動機を持てない人は、どんな仕事を成就しようとしても結果を収めることができず、価値を認められません。ある建物を建てるときには、設計者が設計した設計図に従って建築をします。設計の原本も無しに建てられた建築物は、設計者が目的とした建物とはなりえません。(二一・一〇〇)

 では、私たちはどこに行くべきなのか? 死線を越えても行くべきところはどこなのか?神様を探して、その神様に侍って、心嬉しく喜べる日、私の心情世界において、「これ以上の望みはありません。」といえるひとときを迎えなければなりません。そのために私たちは、困難に耐え、無念さに耐え、悔しさに耐えながら、この世界を越えていかなければならないのです。こうした世界を越えていく自分になれない限り、世界とともに消えていくことでしょう。(八・二〇二)

 さあ、こうして人はどこへ行くのか? 天国へ。こうなっています。天使はどこへ行くのか? 天国へ。お父さんお母さんはどこへ行くのか? 天国へ。それだけでなく、飼っていた小犬はどこへ? 地獄へ行くのではありません。

 昔、北朝鮮から避難するとき、かなり富裕なお金持ちの家で、相当高価な犬だと何やら自慢していたその犬を、避難するというから、しっかり門に縛りつけておいて、「おい、元気でな。私だけ行って来るからな。」と、言うのです。統一教会員たちは、そうであってはいけません。今は犬も天国に、すべての万物も天国に、主人が行くところにどこへでもついていくことができるのです。(七八・三三六)

 人はどこへ行くのか? 霊界に向かっていくのです。霊界は、海と同じようなものです。どちらにしても行かなければなりません。そこには、海にも流れがあるのと同様に、造化無双の変化があります。海には主流の流れを中心として、淡水には無い造化の展開が見られます。海に多くの魚類が存在するように、霊界には、多くの新しい天地家庭が存在します。同じことです。あの世に行ってみれば、同じなのです。(一四一・三〇六)


三 一生は霊界のための準備期間

 私たちはこの世に住んでいますが、この世だけがあるのではなく、霊界があるということを知っています。この世と霊界は、別々ではなく、一つの世界として連結されるべきだということも知っています。

 では、私たちが行くべきところ、私たちが行って住むべきところはどこなのか? もちろん私たちは、肉身生活をしながらこの地上に存在していますが、永遠の世界に向かって進んでいるのです。一般の人たちは、この世に生まれたら、一生の間に、十代を過ぎ、二十代を過ぎ、三十代を過ぎ、中年を過ぎて、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ぎ、壮年時代に入れば、だんだん峠を越えて、その次には老年時代に入っていきます。こうして、日が沈むように一生を終えるのです。

 しかし、霊界があるという事実を知っている人々は、一生というものは瞬間にすぎず、死んだ後に迎えるべき世界は永遠であるということを知っています。ゆえに、一生というのは永遠の世界に向けて準備するための期間だといえます。この世はそのようではありませんか?

 学生を例にとってみると、学生は、一つの学期、あるいは一学年においてその学校が制定したすべての学課の単位を取らなければならないという単位の基準があります。その基準を百点としてみるとき、それにどれ位到達したかという比率に従って、学校から認められるかどうかが決まるのです。

 しかし、決められた単位に至らないパ・センテ・ジが大きければ大きいほど、学校が立てた価値基準から遠ざかっていくのです。このようになるのです。そのために、ある標準を中心にしてすべてを測定するようになっているのです。

 私たちが一生の間、肉身世界で生きるのは、あたかも学校でひとつの単位を取るための準備期間のようなものです。一生を懸けた単位を準備する、いわゆる人生という過程において、やりたくなくてもやらざるをえない責任部署に該当する実績を追究しているということです。言い換えれば、責任を追究する何らかの基準の前に、どの位一致したかという、基準値を中心として、皆さんは毎日の生涯路程を歩んでいるのです。

 一般の人々はそれを考えないのです。生まれたんだから、ひたすら親に侍って家庭に生きよう、こうして生まれたからこうして生きよう、一般の人々が生きるように自分もそう生きていこう、そのように考えて生きています。そのように生きるすべての生活の中心は何かといえば、肉身生活の日常生活を中心として必要な物、すなわち、どうやって食べて暮らすかということなのです。ですから、衣食住に最も重点を置いているわけです。一般の人々はそうじゃないですか? 

 しかし、統一教会の食口たちは、霊界が間違いなく存在するということを知っています。信じているのではなく、知っているのです。なぜ? どうして? どうやって? 多くの体験を通して、否定するに否定しえない歴史的事実、あるいは現実的事実が、私たちの周辺に…。今日統一教会がこれほどの世界的な基盤を形成するときまで、その背後、前後をひもといてみると、その過程において、多くの体験を経てきました。それゆえに、霊界が無いとはいうことのできない立場にいるのが、正に統一教会の食口たちなのです。(一四〇・一二一)






















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