人の生涯
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第二章・私・と真なる人の道

第一節 私

一 「私」はだれか

1 自覚すべき「私」

 「私」とは何でしょうか? 心が行ったり来たりすれば、体も行ったり来たりして、「私」という人間はじっとしているでしょうか? 行ったり来たりするとき、良い所を行き来するならいいのですが、悪い所にも行き来します。それを知らなければなりません。

 私が自覚するとき、その自覚とは何でしょうか? 「私は絶対中心である。天地が揺れ動き、天下がひっくり返っても、私が立っている姿は起き上がりこぼしの如く、座っても立ってもその位置は不動である。心の位置の確立! 神様が追い出そうとしても、私の本然の位置は神様が願う位置であるから、神様は追い出すことができない。」このようでなければなりません。何ものをも制御し、防御し、それ自体の姿の主体性に被害を受けずにいられる。そうした位置に立っていなければなりません。心の位置の確立! これが絶対必要です。

 心の位置を確立するにおいて、どのように確立するのでしょうか? 南へ行くべきなのに、北に向かって確立すれば、大変なことになります。方向を定めて確立しなければなりません。そうした方向の設定を必要とした自体の位置で、自らの完全なる定着地を備えるべきです。不動の位置で私が作用し始めたら、その不動の位置に従って自分の体が動き始め、姿勢が変わり始めるのです。「私」というものの、原則的で本来的な、自分の概念に一致しうる自分を発見する現象が起こり始めます。これは深刻な問題です。(一二七・九八)

 本来の「私」というものは、理想圏に立つことのできる「私」というものは、どんな存在か? 周辺から生活にある脅威を受け、生活苦にあえぎつつ、死ぬか生きるかと呻吟する「私」ではありません。本来神様の愛の圏内で一体となっていたら、堕落の無かったその理想世界は、わずかな期間で物我の世界、神様の家庭の理想形を成して、その家庭から愛を中心とした氏族編成、民族編成、国家編成が成されるようになるのです。(一四五・三一二)


2 自分の価値

 世界でこの上なく貴いものは何でしょうか? 金銀宝物でもなく、この世の名誉や権力でもありません。天地の間で最も貴いものは何かというとき、それは自分自身、まさに自分自身なのです。

 ところが自分自身が貴いということを何をもって保障するのかと問うとき、答えることができないのです。人々は、自ら身につけるべき内容を備えられずとも、心では満天下の前に自分自身を最高の価値ある存在として認めさせたいと願います。それが人間の本性です。今日、民族のため、あるいは世界のために生きる観念を越えて、最も貴い私自身を他の人がどれだけ貴く思うかということを問題としなければ、新しい決意と新しい出発をすることができないということを憂慮せざるをえません。

 私たち自身は、どれほど価値ある内容を持った存在でしょうか? 皆さんはそれを考えてみましたか? 私がこの宇宙において一つしかない宝、真なる宝となったなら、その宝は、神様も慕うのであり、生まれては亡くなられたイエス様も慕うのであり、今日までこの世に現れた多くの聖徒たち、歴代にいくら身を立て、歴史において伝統的思想を残した者がいたとしても、彼もやはりその宝を慕うでしょう。過去においてのみならず、現世に生きる万民も慕うでしょう。その価値に憧憬するでしょう。今だけに限らず、未来においてもそうなるでしょう。ところで、今までは、そのような宝が自分自身だということが分からなかったのです。

 では、現在の時点で、もう一度自分自身を振り返ってみるとき、果たして私自身は貴い存在か? 自分がどれほど貴い存在かというとき、皆さんはどれほど貴いですか? 一人の男性なら男性についてみるとき、その前後左右には、妻がいて、子供がいて、父母がいて、親戚がいます。親戚を連結させて民族と国家に、国家を連結させて世界の中に同参するようになった自分の存在というものは、どれほど貴い存在でしょうか?(一七・一三)

 皆さんの血には、縦的な神様の血が入っているべきであり、横的な真の父母の血が入っているべきです。それが一つとなり、愛で同化された中で生まれたのが皆さんの生命です。それゆえ、皆さんの生命は、統一的な心情圏内にあるのです。統一の核の根を中心として、生命の起源を共に相続して生まれたのが「私」だということです。(一八一・三〇四)


二 自分は歴史的結実体

1 自分の起源は神様

 人は、だれも皆、同様に四肢五体と目鼻立ちを持っています。しかし、その体が持っている内容においてはさまざまです。では、このようなさまざまな内容を持った数多くの人間の中で、「私」という人間は、どこに基準を置いて見るべきでしょうか? アダム・エバ以降の我々の先祖たちは、だれも基準とはなりえません。私たちが、複雑なこの世の中で関係しているすべてのことから、少しの間離れて、一人静かに自らを省みてみるとき、自分という人間は絶対的な存在ではなく、相対的な存在だということが分かるようになります。それで、手、目、鼻、口、腕、足などのすべてが、相対的な目的のために動くのです。これらが一つの目的に向かって合わさるときには、相対的な何らかの対象体を必要とします。このようにして動くようになれば、そこに良いとか悪いとかいう何かが存在するようになるのです。自分という自体は、この天地のどこに由来するのか? 人間はその根源を知りません。未知の存在から自分は生まれたのでしょうか?

 それでは、自分はなぜ生まれたのでしょうか? 何かの目的があって生まれたことだけは間違いありません。しかし、自分自身は、ある相対の主体となり、または相対となるということだけでは足りません。ここに必要な条件的内容があるとすれば、それはどんなことか? これは重大なる問題です。今日の自分が存在するためには、何が必要なのか? 自分の周囲には、前後、左右、上下があります。

 では、自分の周囲に存在するものの中で、自分が存在するようになった動機、主体は何か? それは神様です。これを神とかGodとか、神様とかいって呼んできたのです。

 今日までの目的観は、人間主体の観だけでなく、神と人間の関係による観がありました。人間には、「私」という現在の実体を中心として、未来に成すべき目的としての実体があるのです。(一二・一四四)


2 自分の根源は愛

 「私」である! この「私」という概念。自分はなぜ最も貴いのか? これが問題です。皆さんは分からないでしょう。どうして自分が貴いのか? あらゆる測定は、ただ人間のみを中心として測定するのではありません。自分が生きている日常生活、あるいは人類が今まで歴史を経て生きてきた、数多くの先祖から、今まで経てきた先祖から及んで体として存在する「私」、その「私」というものは、どこまでも第二存在として取り扱いたくないのです。いつまでも一番なのです。

 自分も知らず、自分は貴いものと認め、自分という絶対的な位置であらゆることを測定できる基準として立てようとするのです。自分の意志、自分が願うこと、自分が好むこと、すべてをそのように考えるようになった原因はどこからかということが問題です。それはどこから始まったのかというと、神様から始まったのです。

 神様は体と心の中心となる愛を基盤として、自分を立てたという事実を知るべきです。その「私」は、愛を中心として立っているために、自分は愛を中心として生きなければなりません。出発がそうだから、そのように伸び進んで、宗教を求めなければならないということです。

 「私」というものがなぜ貴いのか、ということです。数万数千代の祖先を経てきましたが、本来の神様が考えていた自分という概念は、その伝統的基準と一致するようになるときに、その権威の位置を常に意識するために、自分というものを絶対視せざるをえないということなのです。その自分、立っている自分を支えている基盤の根源は何かといえば、それは愛というものです。(一三七・三一一)


3 三大父母による自分

 「私」というものはいったいどこから生まれましたか? 皆さんを小宇宙といったでしょう、小宇宙? 自分はこの地球星の縮小体です。宇宙の縮小体なのです。皆さんの体には、地球に存在するすべての元素が皆入っているでしょう? それゆえ、宇宙が加担しているのです。それを知るべきです。第一に、宇宙が加担しています。では、だれが自分を作ったのでしょうか? 宇宙が作ったのです。宇宙が作りました。宇宙が人間を形成してくれたのです。そうでしょう?(はい)。この宇宙が「おい、私のものを全部返してもらおう。」と主張するようになれば、すべて奪われるのです。結局自分は何かといえば、宇宙の元素を借りて形成されたのです。そのことを知るべきです。借りたのです、借りました。それは何を意味するか? 宇宙が自分を生んでくれたということです。自分を作ってくれたということです。

 ですから、自分に父母があるならば、自分を生んでくれた父母はだれか? 宇宙が第一の父母です。これを皆さんは知るべきです。何の話か分かりますか?(はい)。一〇〇パーセント受け継いだ自分、宇宙から受け継いだ自分の父母は、自分の体の第一の父母は宇宙ということです。それゆえ、自分という存在はこの宇宙の元素を総合した実体だというのです。気分が良いでしょう?(はい)。

 さあ、自分の第一の父母はだれですか?(自然です)。それゆえ、万物を第一の父母を愛するように愛すべきです。その次に第二の父母はだれか? 自分を生んでくれた実の父母です。(一〇五・一〇六)

 人間には、三大父母があります。父親と母親、それからこの宇宙のあらゆる万物も父母です。ここから血肉の供給を受けなければなりません。しかし、これだけでは不充分です。これは生命の根であり、その実は神様に帰らなければなりません。神様に帰るべきなのです。そのように出発したものが回って、何周もぐるぐると回り、これぐらいの実になれば、ぽとりと落ちるのです。実とはそういうものです。

 実というのは、愛の根源、生命の根源から出発して、その次には、一年草の長草なら長草の草が生えうる限りの枝から受難の津液を吸収して実となってこそ、ぽとりと落ちるのです。落ちるときは、夏に落ちるのではなく、秋のような時代を迎えて落ちるのです。循環軌道があるのです。

 皆さんの父母はだれか? 万物が父母です。万物が父母なのです。元素を供給するこの大地、大地は父母ではありませんか? それが父母です。大地が第一の父母です、第一の父母。その次に皆さんのお父さん、お母さんは、第二の父母です。皆さんを生んでくれた父母です。その次に第三の父母は何か? 霊を宿らせてくれた神様が第三の父母なのです。自分の直系の父母がいるからには、傍系の父母がいるべきです。世界のすべての父母たちは、傍系の父母です。分かりますか?(一〇六・八四)


4 自分の背景は先祖

 一体人間は、だれに似てこのような姿なのか? 父親に似たのです。では、父親はだれに似たのでか? 祖父母に似てそうなのです。こうしてどんどんさかのぼっていけば、人間始祖まで行きつくのです。人間始祖がそうであるため、私たちもそうだということです。では、人間始祖はだれに似てそうなったのでしょうか? これが問題になります。それは主人が存在して人間をそのように作ったためにそうだということです。

 作品は、それを作る作家がそのように作ろうと思う、作品に対する構想があるためにそのように作られるものでしょう? そうではないですか? 恐らく、これを否定する人はいないでしょう。それゆえ人はだれに似るようになっていますか? お父さん、お母さんに似るようになっています。もし父母に似なかったとすれば、何代か前の祖先の性禀が隠されていたものが遺伝法則に従って、父母の性禀に合わさって一人の人間として生まれたのであって、何の原因もなく無関係な立場から生まれるはずはないのです。

 皆さんは、自分独りによって、自分になっていくと思うでしょうが、すでに皆さんの先祖の方々が、数多くこの世に生まれては去っていきました。その数千代に及ぶ先祖たちを悪くいってはいけないので、社長様と呼びましょう。その数多くの社長を総合した、総社長として残ったのが皆さんという個体なのです。皆さん、こんな話を聞いて気分が良いでしょう? こんなに素敵なのが人間なのです。

 ですから、皆さんは、何かというと、数千数万代の先祖たちの、様々な姿、資格、価値を収集して博物館に展示した、その展示品のようなものです。このような姿が、今日の皆さんの姿なのです。私たちの先祖がこの世界の前に「我々の後孫はこのようだ。」と言って展示品として立てたのが私たちなのです。そんなふうに考えてみたことがありますか? この世にただ一つしか無い、この天地間に男性と女性は多いけれども、個人自体について見るとき、自分の先祖の姿を全体的に総合して実を結んで生まれた人間なのです。(四一・一三九)


5 自分は歴史的結実体

 「私」というものは何か? 一体私とは何か? 「私」の観念、平面上に現れた人間、私なにがしを中心として見るとき、「私」というものは何か? こうした問題について見るとき、自分は金だれがしであり、ある大学に現在在学中の学生だという、その自分ではありません。この宇宙の根源から過程を経て、現在に至る全体を総合したひとつの表示体なのです。ひとつの宇宙博物館の要素を縮小して、宇宙の宝物を展示したひとつの博物館のような価値を持った存在が、自分なのです。(一四五・一七六)

 現在、皆さん自身は何か? 歴史的結実体です。そうでしょう? 結実体は結実体ですが、皆さんは歴史的氏族を中心とした結実体であるのです。皆さんは善なる先祖たちがいて、その先祖たちの功績によって先生に出会ったのです。皆さん自身が先生に会いたくて会ったのではなく、皆さんが優れていて会ったのではありません。(四六・一五二)


第二節 心と体の関係

一 本然の心と体

1 本然の心と体の関係

 私たち人間は、心と体を持っています。この心というものは、神様と離れていてはいけません。これが一つにならなければなりません。では、この体はどこにあるべきかといえば、神様のみ旨と一つになっていなければなりません。皆さんの体を中心としてみれば、体には五官というものがあります。その五官がどこにあるべきかといえば、神様のみ旨とともにあるべきなのです。体がそういう感覚のみならず、どこに向かって動いて行くべきか? それは神様のみ旨の方向と一致すべきです。(六九・二七四)

 心と体について考えてみると、心は大きいですが、体は小さいのです。このように、心と体は常に相対的関係を結んでいます。それでこそ、互いに刺激を与え合うことができます。それで、自分が喜びや悲しみを感じるのです。それゆえ、相対的関係を結ばなければならないようになっています。(二七・六〇)


2 人間の本然の心とは

イ)心の主体と宗教

 私たちには心がありますか、ありませんか? 見ましたか、見ませんでしたか? 見られなくても心はありますが、この心の主体はだれであり、心の主人に会ってみたのかというのです。喜ぶには、一人きりで喜べますか? 絶対不可能です。一人きりで座りながらニヤニヤしていたら、狂ったといわれるのです。心と体は互いに闘います。互いに闘うのは、体が心を嫌い、心も体を嫌っているということです。ところで、互いに嫌いあっているということは、それでも互いに好きあう別のものがあるために、嫌いだというわけです。嫌いなものがあるところを見ると、好きなものがあるということです。

 では、その好きなものとは何か? 心の対象は何か? 心は目に見えないので、その対象も見えません。聖人たちはそれを追求してきました。(四一・七三)

 神様の息子、娘になるのには、体をもってしてなれますか? なれません。神様は無形の神であるので、その相対となるためには、有形ではだめなのです。神様は無形の主体としての絶対者であり、中心存在です。そのようなお方の相対的な位置に立つためには、有形体ではいけません。無形の相対的な内容をもった存在でなければいけません。絶対的であり、無限であり、途方もなく大きい神様であるがゆえ、その対象的な位置に立とうとすれば、途方もなく大きくもなれ、途方もなく高くもなれる無形の姿を備えていなければなりません。人間において、それは何かというと、体ではなく心なのです。(四一・六七)

 人間において、偉大でとてつもないこの心が、喜ぶことのできる主体者に出会い、彼とともに永遠に幸福を讃美しうる位置に入ってみれば、どれほど素晴らしいでしょうか? そうした位置は、それこそ貴い位置なのです。それゆえ釈迦牟尼のようなお方は、天上天下唯我独尊といったのです。全天地間に自分だけが貴い存在だといえる境地にまで到達したということです。神様も知ってみれば、自分と同じだというのです。

 ですから、心は目に見えない神を好みます。心は相対することのできる対象に出会うまでは喜ぶことができません。今まで人間は体が喜ぶことのできる相対に出会おうと、享楽などにふけりながら、一度しかない花のような青春時代を何もせずに送って良いものかと、体本位の血気旺盛な青春時代を誇っていますが、そういうものは長続きせず、終わってしまうのです。私たちが一生を最後まで生きてみれば、その行く末を見ることができます。

 享楽の道はどんなに行っても虚しいのです。ですが、心が願う世界の喜びというものは、すべてやってみることができるかといえば、それはやってみる機会もないし、やってみる能力もないのです。では、それは存在しないのか? 存在するのです。こういうことを知ったために、知恵深い人たち、真なる人の道を行こうとする人たちは、そうした目に見えない心の相対を求めてさまようのです。この宇宙を創造した神が存在するとすれば、それは天宙の中心であり、絶対的な方です。私たちは「神は私の心と相対なさる。」」このように主張せざるをえません。

 それゆえ、主張するその内容を個人的なこととしてのみならず、世界性を帯びたこととして体系化させ、過去、現在、未来を超越して、人類の新しい希望として登場することのできる、一つの思想的なものとしようとすること、即ち、神を中心とした新しい思想的な体制を整えてみようというのが、人類の心の願いです。その心が願う世界は、現在の社会組織のような形態の世界ではありません。

 心が喜びうる、内的な世界のような組織的な形態を整える仕事を、歴史を経てきながらやってきたこと、言い換えれば、良心を持った人間たちが願う背景、背後の基盤を、歴史を通じて残してきたのが何であるかといえば、宗教なのです。その宗教は、ある一つの民族に帰結されるものではなく、世界に包含されるものです。宗教は一つの民族国家で発生しはしましたが、その民族の宗教としてのみならず、民族を越え、世界に連結される宗教形態として発展するのを、私たちは見ることになります。(四一・七一)

ロ)本然の心の動き

 昔の聖賢たちが教えてくれたことは、心を中心として天を敬う敬天思想とともに、万民を愛せということです。天を愛し、地を愛し、人を愛せと教えたのです。

 では、皆さんの心は天に接することのできる百パーセントの要素を持っているでしょうか? 世界人類に接することのできる、百パーセントの要素を持っているでしょうか? 持っていますか?

 本心自体を分析してみれば、天を愛し、地を愛し、人を愛することのできる本然の心があります。この本心は、どんなに消そうと努力しても、自動的に生じるのです。こうした本心があるために、歴史的に理想世界、すなわち本郷の国、本郷の世界を追求してくることができたのです。それゆえ、本心作用は自分によって始まるのです。「だれだれ」と言えば、その人の看板だけを見ます。しかし、その人をはっきり知ろうとするなら、その人の心を見なければなりません。(一九・二八五)

 皆さん、統一教会に通うようになればそうなのです。昔は朝に目を覚ましてご飯を食べると、学校に行くのがお決まりだったのに、教会に入ってきてからは、学校に行くのも仕方なく…。そして行くときも教会に寄って行きたいのです。ここにいる学生たち、そういう気持ちになりませんか? そういう気持ちのない人は統一教会員ではありません。

 また、家に帰ってじっとしていると、家にはお父さん、お母さんもいらっしゃるし、食べ物もたくさんあるし、部屋も良いし、何不自由なくすべてがそろっているにもかかわらず、どこか、心がカラカラになり、教会に行きたいのです。見かけは良くない所ですが、それでも教会に来れば気分が良いのです。家に帰りたくないのです。そんな何かが感じられるのです。そう感じられますか、感じられませんか? そのように感じられないなら、統一教会員ではありません。皆、かかしだというのです。

 ではそういうことを体が感じますか、心が感じますか? 体にしてみれば自分の家の方が居心地が良いのです。家では食べるのも良いものを食べますが、ここにはカクトゥギ(大根のキムチ)しかありません。キムチがあっても取るに足らないもので、それも無くて塩につけて食べたり、チョンガクキムチ(小ダイコンのキムチ)一つで茶碗一杯のご飯を食べながらも、ご飯がおいしいと、きれいにこそげ取って食べるのです。それはおかしいというのです。どうしてなのでしょうか? 体が喜ぶからでしょうか、心が喜ぶからでしょうか? 見えない心が喜んでそうなるのです。何のために? 心が主人に出会って、心の本郷をたずね、心の国をたずね、心の世界をたずねることができる道に入ってきたためです。江原道の山奥に入り、穴を掘って畑仕事をしていた人が、自分の故郷に行くというとき、山奥の家を出るその気持ちが良いでしょうか、悪いでしょうか? 気分が良いのです。今出発する場所は山奥ですが、故郷に行くと考えれば気分が良いのです。

 なぜ良いかというと、行こうとする目的地が正しいということを心が知っているので、心のアンテナを中心として電波を授け受けするようになれば、無理なく、ぶつかり合わずにどんどん回って行くのです。それゆえ、力が湧いてくるのです。それと同様の原理なのです。(四一・七四)

ハ)心の大きさ

 皆さんの心は狭いですか、広いですか? 心がどんな姿なのか、皆さん自身はよく分かりませんが、心とは無限に大きいものです。では、その心はどれくらい良いのか? 世界の三〇億の人類一人一人に何百億ウォンずつ与えても、また与えたいのが心なのです。そうですか、そうじゃないですか? 心はこのように素晴らしいのです。それゆえ、人間は無限な愛、無限な希望の花を咲かせることができるのです。それはどうしてでしょうか? 無限に神の性禀に似たからです。(二七・六〇)

 それでは皆さんの心はどれくらい大きいでしょうか? これは測定することができません。大きいといえば無限に大きいのです。測定できないくらい大きいのです。それはなぜそんなに大きいのでしょうか? また小さいといえば、途方もなく小さいのです。針の先も入り込めないほど小さいのが人間の心だというのです。大きく広げれば無限に広げることができ、狭めれば無限に狭めることができるのです。そういう本質、本姓を持っているのです。それはなぜ、心はなぜそのようになっているのか? それは神様が臨在することのできる神の宿になっているからです。(一四五・三一三)

 心の対象に出会ったならば、その喜びはどれほど大きいでしょうか? その喜びは一日、二日で終わるでしょうか? どれほど大きいか見てごらんなさい。心は神様に侍るだけでは喜びません。神様の内深くに秘められている愛までも、しっかりつかまえてこそ「へへ」と喜ぶのです。お母さんが自分に愛をくれるときも、気まぐれな愛を望みはしません。お母さんが持つただ一つの真実の愛を、自分にすっかりくれてこそ「へへ」と喜ぶのです。(四一・七三)

ニ)心の基・情・知・意

 私たちの心の基を分析してみると、知・情・意から成っています。その中でもどこにとどまるでしょうか? 知・情・意のどれが根本であるかというとき、意でもなく、知でもなく、情なのです。皆さんは自分にとっていちばん大切なものがあるならば、それをどこにしまっておきたいですか? 自分しか知らない場所にしまっておきたいのです。そこは、だれも触れることができず、関与できない、すなわち自分だけが絶対的に管理することのできる場所です。それはどこでしょうか? 心の奥底なのです。心の奥底に埋めておくのです。ここならば安心だといえる場所にしまっておくのです。すなわち、人々が普通貴重品をしまっておく、たんすのような場所にしまうようになっています。こうした点から見るとき、真なるものがとどまりうるところは、自分自身の心の奥底なのです。

 情は、独りでは成り立ちません。それは相対的なものです。相対的観念でなくては成り立ちません。どんなに仲むつまじい夫婦がいたとしても、子供が無くては寂しいし、つまらないのです。若いときはどうか分かりませんが、年をとるごとに夫婦だけではどこに行くにしても物寂しく退屈なのです。その前に息子がいて、息子が父母を案内して行くのが、より調和するのです。子供がいない人々には希望がありません。子供が希望なのです。その子供がなければ、希望もないのです。真なるものとは、それ自体永遠なる希望として広がっていくものです。瞬間的な希望ではない、永遠の希望として広がっていきます。また、心情的なことも、永遠の希望とともに永遠に共存するのです。このように情を中心として見るとき、どんなに優れた女や男であっても、独りでは相対的関係を成しえないのです。(二四・三一九)


二 堕落による心と体

1 心と体の闘い

 皆さんの体と心が互いに闘うのは、堕落したためです。それは本来、神様が闘うように創ったのではなく、神様の前に背反しうる要素を持った、サタンの血統を受け継いで生まれたためです。もともと神様と人間の前に、心はプラスなのに、堕落したために、体がプラスになろうとします。それゆえ、二つのプラスが対立してぶつかり合っているのです。(一九・一九四)

 堕落によって、体と心が分かれてしまいました。体と心が分かれると同時に、体が行く道と心が行く道も分かれてしまいました。これが問題なのです。これをどのように一つにするか? 一つにするには、何によって一つにするか? これを一つにするためには、堕落した動機を知らなければなりません。堕落した動機を知って、堕落しなかったとき行くべきだった本来の道を知るべきなのです。(一四〇・一三)

2 心の願いと体の願い

 皆さんの心と体は分かれているでしょう? 心と体が闘うでしょう? 歴史以来今まで、数多くの聖人賢哲たちや、数多くの人々が生まれては去って行きましたが、心と体の闘いを解決した人、統一したという人は、一人もいませんでした。パウロのような人もこう言ったではないですか?「私の中に二つの法があり、善と悪が闘っている。」と。いつでも人間は、善の法に従って行くのを願わず、悪の法に従って行くのです。それで「ああ、私はなんというみじめな人間なのだろう。」と言ったのです。パウロのような人でさえそう言ったというのです。「だれがこの罪の法から解放してくれるのか? 主イエス・キリストの内にある神の愛によってのみ可能である。」と、言ったのです。(一八七・四一)

 それゆえ、昔から数多くの聖人賢哲たちがこの地上に生まれ、苦労して探そうとした内容は、一貫して、体の人を克服して、心の人が追究する、人間の行くべき完全なる真の道を探すことでした。その問題を解くために、生涯をささげて研究し、命を懸けて闘ってきましたが、未だにその問題を、科学や数学のように何らかの公式を作って、こう問えばこういう答えが出てくるという具合に、明確に解くことができないまま、歴史は流れてきているのです。そうした歴史の中で、今日皆さんがこの場に来て、統一教会の文先生に出会い、こういうみ言を聞いているのです。

 では、皆さんの前に横たわった問題、すなわち人生の行く道は何でしょうか? これが問題です。二つのわかれ道の間で、右往左往している人間たちの行く道はどれかというのです。昔の人々は、人心は朝夕に変わり、山河は今も昔も変わらないといいましたが、人の心はそんなに変わるものではありません。人間が変わるのであって、人の心が変わるのではないという意味です。人間が変わるので、心も仕方なく従っていくため、心が変わるように思われるだけです。心は常に善の側に立っているのに、変化する人間に従って行動してみると、心も悪く変化するもののように見えるのです。それゆえ人の心が変わるといったのは、間違っていったのです。

 人は、心が望む道と体が望む道とのわかれ道に立っているのです。ところで、この世の中は、心が望む所に向かって行く道を保障してくれ、心が願う志のために生きることのできるような環境を整えている所ではなく、体が望む所に向かって行くように誘引しうる与件が万全の準備を整えているような所です。それゆえ、私たちが生きているこの世の中は、善なる世の中ではなく、悪なる世の中であることに間違いありません。どんな世の中ですって?(悪なる世の中です)。

 悪の蛇が皆さんのお尻にいかりを差し込み、道をふさいでいるのです。それがだれかは分かりませんが、このように皆さんの行く道をふさいでいる怨讐がいるとするなら、許すことができますか? 許すことができないのです。体が望むままに行ってみたら、途方もない罠にはまって、人生の行くべき道など夢にも考えられない、人生とは関係ない禽獣のような悲惨な運命に逢着するようになるのです。これが今日の人生行路なのです。それゆえ、私たちは何としても悪の侵犯を受けずに、心が行くところに従って注意して用心しながら、警戒線を踏み越えて行かねばならない過程に置かれているのです。

 それで、人倫道徳だとか何らかの宗教とかいうものは出てきましたが、それらが人間をしてこうした道を完璧に正しく行かせるために、絶対に必要な要件として要求していることについては提示できずにいるのです。(三八・三一〇)


三 肉身復帰

1 堕落した結果の肉身と霊人体

イ)肉身

肉身はサタンが活動する基盤。

肉身は悪の基地であり悪の根。

体はサタンの国の王宮。

血と肉は怨讐サタンの要素。

体は生活を調節し、一生を同伴。

(五二・三〇四、三八・二七一、四七・二七一、一〇・九六、三五・九一)

ロ)霊人体

心霊は神様に属するものを指向。

良心は天国の哨所(歩哨が立つ所)。

怨讐の血が体にあって、心の基準がサタンに押さえこまれている。

心は生涯を調節し、永遠を同伴。

(五二・三〇四、四七・二七一、一〇・九四、三五・九一)


2 堕落した肉身の性向

 肉的な面はいつも霊の道に喜んで従おうとはしません。心と体が闘うときには、いつでも体の方が先に心に対して闘いを挑んでくるのです。体は私たちをして肉的欲求を追求させるように刺激して、自分のために生きろといいます。また、体はしきりに上がっていこうとし、おごり高ぶろうとします。食べさせてやればとめどもなく食べようとし、休ませてやればとめどもなく休もうとします。また、体はゴツゴツしたものを嫌い、ぽっちゃりして、つるつるして、ふわふわしたものを好みます。また、頭を垂れるのを嫌がり、犠牲奉仕を嫌います。(五二・三〇四、五二・三〇五、一八・三一四、六五・七三、三八・二七一、一八・六八)


3 心と体の力の比率

 今までは、堕落した人間の心と体が闘ってきましたが、その比率は互いに似たり寄ったりでした。その比率が一〇対八ぐらいでした。体が対している環境は、世界全体と接していますが、心が行くべき道は一つの道しかありません。堕落した世界に対する人間の体は、時々刻々環境に占領されてしまいましたが、心は一つの道に従ってきたのです。それゆえ、現実世界は現れる結果を取り締まってきたのです。

 悪いことをしようとするとき、心に恐怖が訪れます。そうして、それを行うようになれば、今まで積んできたものが崩れます。これを見るとき、心は肉身の行動を最初から、序盤から干渉しますが、終盤に至っては肉身に支配されるのです。それゆえ、外的な比率で見れば、一〇対八ぐらいですが、環境のために心が体にいつも押されてきているのです。(一八・六六)

 今日この善悪の世界は、個人に蒔かれたものが、だんだん拡大して、世界に実を結ぶために、結局自分一人を展開したものです。今日、このような社会環境の中で、私たちは生きています。私たちはこのような囲いの圏内で生きていくのです。これが人生です。

 ここでの自分の範囲が、どれほど大きいかが問題です。ある人は、このように行き、ある人は、これと反対に行くこともあるでしょう。皆さんはまた、自身の先祖がたどってきた道を行くのです。それが悪の側に行くのは、体に従うことであり、善の側に行くのは、心に従うことです。

 では、ここで個人が出発するにおいて、一〇〇を基準にするとき、心を中心とした善が五〇を越え、六〇ほどに該当するようになれば、その氏族を通して世界は支配されるでしょう。宗教は今まで、何をしてきたのか? この世の中で、征服すべきことがたった一つあるけれど、それは家庭を征服するのではなく、民族を征服するのではなく、世界を征服するのではありません。すなわち、自分を征服するのです。それで、宗教は自分を征服するために生まれてきました。皆さんは、これを知るべきなのです。いつも自分自身は善悪の境界線にいるのです。

 では、皆さんがここから出発するにおいて、どのように行くべきか? 各自が指向する量が一〇〇とするとき、そこで体と心が五〇対五〇ではいけません。そのような人は中間霊界にとどまるようになります。緩衝地帯にとどまるのです。分かりますか? もし、体が六〇ならば、間違いなく地獄に行きます。地獄はどんな所か? 陰になる所です。天国はどんな所か? 輝く所です。そう分かればいいのです。そのような人は、必ず陰になる所に行くのです。ここは下がれば下がるほど、暗くなります。(三七・一二一)


4 肉身復帰

イ)肉身復帰のための姿勢

 体がしようとする通りにしては、絶対だめで、悪い所には行くなというのです。人情と人道は、サタンが悪を中心として出発させやすいため、これを否定すべきです。

皆さんは、修理工場に入るべきです。修理工場に入れば、早く分解作業をしなければなりません。ばらさなければならないのです。分解作業をするには、昔に持っていた思想、権力、観念、職位など、すべてを否定しなければなりません。気分が悪くてもしかたがありません。そうしなければ、修理ができません。体を縛れ、犠牲になれ、穏やかで謙遜になれ、ごうまんになるな、ということです。食欲、情欲、物欲を全部放棄しろということです。断食と苦難と苦痛の道を行くべきです。

 私たちは、熱心に祈祷すべきであり、神様のみ旨のために、熱心に活動すべきです。一片丹心ですべての精誠を尽くすようになれば、当然に心の力が湧いてくるのです。今日、人々は、修養だ、道徳だといいますが、それをもってしてはだめです。宗教が私たちの肉身的な欲求を押さえて、勝利するのに寄与しています。

 それゆえ、私が一生の間、悟りの道に立ち、標語を立てたのが何かというと、「宇宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ。」ということでした。宇宙主管完成より、もっと難しいのが自己主管完成です。これがどれほど難しいことか?(三八・二七一、三九・三五五、七〇・六八、二三・一六六、五二・三〇五、三九・二八五、一〇・六六、五二・三〇五、一〇一・三七)

ロ)肉身主管の方法

 さあ! この体をどのようにたたきつぶすか? これを煮たり焼いたり、何とかしてひとつ作らなければならないのですが、その方法が何かということです。簡単に言えば、二つの方法しか無いのです。

 最初の方法は何ですって? 体を強制的に征服することです。すなわち、この体を木っ端みじんにして占領する方法です。強制的に肉身の欲求を絶ち、欲情を除去させる方法です。それで、断食祈祷をしろというのです。断食祈祷をしながら、精誠を尽くせば、体の気がサッと抜けて、動けなくなります。そうなれば、心が体を支配することができるため、喜ぶのです。その次には、犠牲奉仕することです。自分を殺せということです。これは、全部肉身が嫌がる行動です。それゆえ、真なる宗教は、肉身とのすべての関係を否定するところから出発するのです。そのような結論が出てきます。分かりますか?

 皆さん、すべての宗教の教典を見てください。よく食べて、豊かに暮らせという内容がある教典がありますか? そのような教典は、一つもありません。宗教は、死につつも人のために福を祈ってやれ、というのです。これは体ではできません。そのようなことが肉体をたたきつぶすことなのです。

 その次に、体を主管するもう一つの方案は何か? 心と体は、似ているので闘うのです。結局お互いが似ているため、問題になるのです。それで、二番目の方案は、心に力を吹き込むのです。分かりますか? 心に力を吹き込まなければならないのです。この二つの方法以外にはありません。

 そうするには、すべての精誠を尽くすべきです。精誠を積み上げれば心の門が開きます。その心の門が開きさえすれば、とても強い力が出てくるため、体のようなものは問題にもならないのです。皆さんは、まだそれが分からないでしょう。心と体が似ているのに、心の力が体の三倍にだけなっても、体は問題になりません。体をそのまま置いても問題にならないのです。従って、心に力を圧縮させて、体を一時に引いて行こことができなければなりません。それゆえ、悟りの世界では、精誠を尽くすのです。

 皆さん、道に通ずるという言葉を聞いたでしょう。道に通じれば、心から強力な力が出てきます。今まで、心はふいごのように、一度も体と対等に闘えず、いつも負けてきました。それは、心の力が弱いためです。ところで、この心に注射を打って、力を約二〜三倍ほど伸ばせばどのようになるでしょうか? そうすれば体を引いていくことぐらいは、問題ではありません。熱心に引っ張っていけるのです。自動車のチューブに空気を強く吹き込めば、大きく膨らむように、心にも力を強く入れれば、どのようになるでしょうか? 力が強くなるでしょう? そうなれば、体がしようとすることを考えただけでも、とても気分が悪いのです。道に通じた人は、心に強力な力が来ることによって、そのまま置いても、体は心がしようという通りにするのです。

 ところで、心の力の源泉は愛です。ですから、心が授け受けして生じる爆発的な力を神様が連結さえすれば、それは何倍、何百倍、何千倍にも統一しうるのであり、世界万民が待ちこがれていた希望を成就することができるのであり、永遠に共に生きることができるのと同時に、天国も自分のものにすることができるのです。その秘訣が、すなわち愛です。愛は、統一に向かって上がっていく昇降機であり、統一を成しうる絶対的な秘訣なのです。

 このようにして、心に愛の力を再び復帰しなければなりません。それゆえ、宗教に酔えば喜びが訪れるのです。皆さん、狂った人は独りで笑うでしょう? 狂った人も笑うのに、神様の愛に狂えば、どれほど笑うかというのです。笑っても、笑っても絶えず笑いが出て、口が巻き込まれていくでしょう。目をつぶっても気分が良く、目を開けても気分が良く、千年、万年生きても気分が良いのです。

 そのような人がいたらどうか? 皆さんにそのような愛の力が生じたら、どうなるか? いっぺんに細胞全体に電気が通じるように、一度にその愛に帰結して、その懐に抱かれて、そこで踊りでも踊るようになるでしょう。その踊りは、自分一人で踊るようですが、世界がそこに拍子を合わせるようになっています。それで、そのような力を補強するために、皆さんが精誠を尽くすべきなのです。そうして、本郷、すなわち堕落の限界線以上に上がって、完全にマイナスになれば、ここに完全なプラスが来るようになるのです。来るなといっても、自動的に来るのです。

 このような二通りの方法以外には、体を調整する方法はありません。それで、神様は体の支配を完成するために、このような作戦を繰り広げておられることを確実に知るべきです。(七〇・六七、一八・三二八、六五・七三、三八・二七一、一八・三二七、三五・六〇)

 体と心の闘いを停止させてこそ、初めて天国ができるため、体を思いのままに引っ張れる人を作ろうというのです。心と体の比率が五対五なので、おあいこなため、闘いが起こるのです。体を制裁するために、心を一〇倍ほどポンプで高圧に圧縮して、強く吹き込んで体と心の比率が五対五〇くらいにしろということです。そうすれば、体は心の前にびくともできないのです。あたかも、大人の体に子供がぶら下がっても引いて行かれるのと同じです。これはレスリング・チャンピオンの前に立つ小学校の生徒と全く同じで…。

 また、カエルに電気が通じると、カエルが四肢を開くように、その力さえ得れば、じっとしていても、細胞がはじけるような力が生じるのです。

 少なくとも、「三年間体と心が一つになりうる。」と言えば、神様は必ず皆さんの前に現れ、働かれるのです。分かるように現れ、みんなびくともできないように導くのです。私たちの霊魂が、神様が働かれうる土台になるようにすべきです。(二三・一六六、三九・二〇〇、四七・二七、六五・七四、六九・二八〇、三八・三〇四)


5 肉身を主管すれば神様が臨在

 皆さんの肉身が、サタンに従わない習性を持つようになれば、皆さんは完全に新しい存在であることが分かるようになり、新しい人になって、天に向かうようになるでしょう。天は働かれるようになり、私たちは、私たちの心霊から巨大な力がわき上がるのを感じるようになりますが、それを何というか? 宇宙力というか? 全体を糾合させ主管できる自制力が生まれるのです。そのような力が生じれば、力から見るときには、相手がありません。

 このときには、神様が私たちの中に働かれ、私たちの中におられようとするのです。そうなれば、私たちが神様とともに生きていることを実感します。この境地に至らずしては、神様の息子・娘といえません。このようになれば、もし皆さんが悪いにおいをかげば、頭が痛くなってきます。また、どこかに行こうとすれば、足が非常に重くなります。すでに体が先に分かるのです。この体は、すなわち聖殿です。本来人間は、地だけ主管するのではなく、霊界まで主管するようになっています。原理での「心と体が一つになれば、神様が臨在される。」という言葉がそれで成立するのです。(五二・三〇五、五二・三〇六、三五・五九、一〇・九七、六九・二八〇)

 私たちは、過った自分であることをもう一度悟り、体と心が一つになり、一つの目的に帰結しうる絶対者の息子・娘になり、相対になり、永遠無窮に幸福な世界で、いつまでも暮らすことができる皆さんになることを願う次第です。これが人生の行くべき真なる道です。(三九・三五七)






















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