人の生涯
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第三節 真なる人の行くべき道

一 人格者の道

1 「人格者」とは

 人格者はどんな人か? ご飯だけよく食べて、ご飯のために生きる人が人格者ですか、芸術や文学や詩に造詣があり、豊富な鑑賞をしながら、山に対してささやき、野に対してささやき、流れる水に対してたたえることのできる、このような人が人格者ですか? どちらが価値的な人間に近いかというならば、ご飯を食べる人は物に近いのです、物。何の物? 動物に近いのです、動物に。動物に近く、その次に自然を楽しみ、抒情の心情が豊富な人々は何かというと、神仙に、神仙に近いのです。人の中には二種類があって、一つは動物的な人間で、一つは理想的な人間です。(八五・一四三)

 どんな人を人格者というか? ある社会制度の中で、中心的な位置に立つことができる人を人格者といいます。例えば、ある町内で尊敬される人格者がいたとすると、彼はその町の内外に住んでいる人々に、生活的に精神的に中心的な作用ができる人です。それでこそ彼は、尊敬の対象になりうるのです。

 それは、国家においても同じです。国家もやはり国家の代表者、すなわち、一人の人格者を中心に国家が形成されています。その人格者を中心に、国民が相対的関係を結ぶことによって、実体的な組織が形成されるのです。このように考えるとき、範囲が広い世界にもやはり中心的な人格者がいるべきなのです。

 人格者といっても、外的に、すなわち、肉体的に見れば普通の人と別に差がありません。しかしながら、内的に見れば、思想的な面であるとか、精神的な面が普通の人とは違います。

 このように見るとき、人格者を決定しうるのは、人の外的な面ではなく、精神的な面であるということが分かります。それゆえ、人間の精神的分野を中心として人格を論じるべきなのです。

 この精神的な分野を広げる者になるためには、心の世界を知らなければなりません。心は無限大に接しうる能動性を持っています。このような点から見るときに、人が持っている欲望は体から生じるのではなく、心から生じるということが分かります。心は絶えず作用しながら、無限な欲望をかきたてています。

 また、私たちの人格を中心にして見ても、人格というものは、ある社会や国家や世界の限界圏に限定されているのではありません。さらに進んで、過去、現在、未来までも越えうる、絶対的な最高の基準を見つめながら進んでいるという事実が分かります。このように、絶対的な位置まで進もうとする内心の作用を見るとき、心の世界は無限と通じているという事実が分かります。(二五・一二五)

 ある人を人格者であるというときには、その人の外貌や学閥、経歴または地位を見ていうのではありません。どれほど、原理的な立場で生きているかということを見るのです。それゆえ、何か外的に華麗で多様なものを強調するのではありません。心が天に仕えるにおいて変わらない人、そのような心を持って、神様のみ旨に合わせて生活していける人が人格者なのです。(一九・二八五)

 人格には、縦的な人格、良心的な人格、その次には横的な人格、肉体的な人格があります。この人格を連合して、縦的な人格は、水平線に対して垂直に立つべきであり、また、肉的な人格は、垂直に対して九〇度の横的な人格に立つべきです。

 それでこそ、すべての角度がいつも九〇度になり、球形になるのです。そうなって、その中心ポイントさえカーンと打てば、そこに関係する千万の線を引いても、その中心を通して線を引くために、ここに作用する力は、球全体に作用するのです。そこだけカーンと打てば、その全体が響くのです。全体が分かるのです。(一七六・一三八)

 このように見るときに、人に人格にも骨がありますか、ありませんか? 見ましたか、人格の骨?「人格」というと人の形態、備えた人の形をいうのに、その中は見える人、私のように見える人がいますが、私をこのように見えるようにしうる根本を見るなら、見えない中に隠れている骨のような形成体があります。その形成体によって、見える形体がこのうに存在するようになるということを知るべきです。(一七七・三一五)


2 人格の中心・心情

 今私たちに最も必要なことは何か? 愛の後光です。網の元綱のようなものが神様の愛です。その神様の愛が、自分にいかりを下ろさなければなりません。

 人格の中心を何に置くのか? 真理に置くのではなく、心情に置くのです。その位置はどんな位置か? その位置は、一生の間春をたたえる位置です。(三三・六八)

 みなさんは、死んでも神様の愛を追求していくべきです。皆さんが人生の道を行くにおいて、今まで追求してきた神様の人格の中心は何か? 真理ではありません。その中心は心情です。その中心の極を超越できる位置に入るべきです。その位置に入れば、自分の死の苦痛が考えられないのです。死が訪れる瞬間といっても、その死の苦痛を忘れ、父の愛の懐に抱かれて眠ることができるのです。そうすることのできる人になるべきです。そのように最後を終える人がいるなら、彼はこの地に生まれては去った人として、だれよりも最高の贈り物を抱いていく人です。(三三・八四)

 人格とは何か? 人格は、言葉だけでなく、心情と関連したものが人格の表象であり、これが永遠の基準になるのです。それで、今日私たちは、心情の神様を主張し始めたのです。これは、最後の神様の人格の基準です。神様は愛であるというために、愛の本質である心情の起源を中心として、そこからわき出る人格を中心として…。その人格の下に、天理の大道を明らかにしていこうという主張をするにおいては、今日統一教会の文なにがしに、だれもついていけないのです。(八四・一二三)

 悟りの世界で人格完成という標準は、どこから出てくるか? 愛から出てくるのです。神様の無限で絶対的な愛を中心として、人格完成ができるのです。(三三・七九)


3 人格完成の方法

 (先生が、心と体が一つになる人格形成をすべきだといわれたんですが、そうするには、何がいちばん問題になるのか、一度おっしゃってください)。死ぬんだ! 死になさい! 死んだままでいなさい。足の裏でしきりに踏まれなさい。高いところに上がっては、心と体が一つになる道はありません、私の知るところでは。天下に高い心を持って、上がるようになれば、一つになる道がありません。踏まれるべきです。先生も高くなるかと、神様が四〇年間足で踏んでしまったのです。何の話か分かりますか?(よく分かります)。三千里半島を渡り歩いたあの昔の何か、金サッカッ・李朝末期の放浪詩人。掛け言葉を使い、時の権力を風刺した。・のように悪口を言われ、踏まれて、冷遇されながら、通わなければならないのです。そうでありながらも、それをすべて消化でき、それをすべて喜んで消化できる自分自身を発見すべきです。

 今、普通世の中で考えるとき、すべて心と体が一つになるには、良い位置で楽によく食べ、豊かに暮らせばいいというのです。そういう者たちは、地獄に行くべきです。地獄に行かなければなりません。それゆえ、イエス様は死のうとする者は生きるといいました。反対なのです、これが。逆説的な論理を通して、生きようとする者は死ぬというのです。お前の家族が怨讐だといいました。だれよりも、私をもっと愛せといいました。それは、全部いちばん反対の位置に入れということです。(一四四・二五七)


4 人格者の生活様相

 今日、多くの人々は、絶対的な中心を持っていないために、心が朝夕で変わります。そういう人々を人格者といえません。人格者とは、一生を通じて約束したことを守る人であり、義の水準が高い人です。何かが決定した後には、こうだああだと弁明があってはいけません。皆さんは、自分が約束したことに対しては、宇宙の法則が変わったとしても絶対に変わらないという、人格者になるべきです。(二三・一〇〇)

 人格者は、だれかと約束したことがあれば、それを履行し実践します。これは自分が主張して約束したことであるために、自分はこれに従わないという人がいれば、彼は人格者ではありません。法は公的な基準を中心として、約束したものです。それゆえ、その法の約束圏内にいるすべての人々は、その法を守らなければなりません。約束した人がその法を守れないときには、共同的な法度により、制裁を受けるべきなのです。これが法を遵守すべき人々の責任です。

 だれが主張したにせよ、立てられた約束は実践しなければなりません。実践しなければ、落伍者になります。約束というものは、約束した基準、すなわち、線なら線、点なら点を中心として、すべてが一致しなければなりません。(三一・一三)

 宇宙の本源的な神様の愛、世界主義的な愛、その神様の愛が、堕落以後今日まで生きてきた人間個々人に注がれ折衷したら、永遠な一日を中心として、上がっても愛であり、落ちても愛であり、転んでも愛であるといえる境地があるのではないでしょうか?

 それなら、その境地では、人格の貴さがどこにあるのか? その人は、言葉がうまいから良かったり、その人の目が鳩の目のようで良いとかいうのを超越するのです。どこを見ても、誤りがないのです。彼と関係のあるすべては、香水の香りがするのです。そうであるべきではありませんか? 神様が創造されたものは、全部神様の形状から見るとき、神様の分身であり、神様と因縁のないものはないという、そのような心情を持って見れば、みんな友達なのです。(三三・八九)


二 聖人の道

1 統一教会は「聖人になろう」を主張

 統一教会は何をしようというのか? 偉人をつくろうというのではありません。聖人をつくろうというのです。偉人の前には怨讐がいますが、聖人の前には怨讐がいません。偉人は自分の民族だけ愛した人ですが、聖人は人類を愛した人です。それで、偉人が神様の前に立つとき「お前はお前の民族は愛したが、私が愛する、私が訪ねる世界人類を愛せなかったのではないか」と言えば、進んでいけませんが、聖人の道理に従っていった人は、神様の前に直行できるのです。統一教会は、何をしようというんですって? 偉人をつくろうというのですか、聖人をつくろうというのですか?(聖人です)。(三八・二六三)


2 聖人の主張と教え

イ)聖人はどんな方か

 聖人は一体何か? 聖人が何か分からなくても、聖人はいます。聖人は何か? 聖人は聖人でしょう。「聖」という字は、「耳」の字と、「口」の字に「王」の字が合わさったものです。耳と口が王になるのが聖人です。(一四七・二八二)

 聖人はどんな人か? 聖人はどんな人かというのです。聖人というものは、すべての世界万民のために生き、夜も昼も永遠に及んで生きようとする人であり、人だけでなく、自然とか、宇宙の全部のために与えて生きようとする人です。そのような人が聖人です。ここに異議がありますか? ここで定義を下しても否定できません。(一三三・一八)

 聖人の基準は、何で決定するのか? もっと大きいことのため、すなわち、世界のために、天地のために、神様のために、すべての万象のために、自分のすべてをずたずたに破ってでも、分け与えたがるところで決定されます。(二〇・一八二)

ロ)聖人は宗教と神を主張

 聖人とは、国家的でなく、世界的です。また、世界的ですが、人間だけを中心として世界的であるだけでなく、神様を中心として世界的であるのです。神様を背負って入っていけない人は、聖人になれません。(三八・二六二)

 今まで歴史が流れてきながら発展した、世界文化の思想的精神的起源が、どこから始まるのかというと、聖人の道理から始まってきたのです。それは必ず、宗教という背景を中心として発展してきました。(三九・二五七)

 世界的な人物になるためには、どうすべきか? 人倫道徳だけを中心としてはいけません。人だけを中心としてはいけないのです。人だけを中心としては、国を越えられないのです。国を越えられる、そのような内容は、天にあるのです。天宙思想を持たずしては、国を超越できないのです。皆さんは、これを知るべきです。それゆえ、聖人の名簿に入った人は、全部宗教の教主であるのです。(三八・二六〇)

 聖人たちは、何を紹介したかというと、人間だけ紹介したのではなく、神を紹介しました。聖人の身分に同参した人々を見れば、神をあがめ尊びましたか、しませんでしたか?神を除いて聖人になった人がいますか?また、聖人たちは、人類の道理だけを教えてくれたのではなく、天倫の道理を兼ねて教えてくれたのです。(三三・二九一、三九・三一六)

ハ)聖人の教え

 聖人は何を教えるのか? 必ず神様を教えます。(三四・一九六)

 聖人たちが何を教えるかというと、全部天を主として教えました。その目的は、人間の道理を教えるのではなく、天を中心として、天意にについて教えたということです。すなわち、天のみ旨を中心として、人間が行くべき道を教えました。天意に従って人が生きなければならないということを教えてくれた方々の教えが、世界的な教えになったのです。万国の人々が、あがめ奉り、あがめ尊ぶ全世界的、天宙史的な人になることによって、聖人になったのです。(三九・二五七)

 聖人は、何を教えるべきかというと、真なる生命、真なる人格を教えるべきです。その次には、真なる愛を教えるべきです。愛だけでなく、真なる人格の神までも教えるべきなのです。(一〇三・一五)


3 聖人の教えに対する今日の観点

 皆さんは、宗教はみんな好きですか? 聖人が好きですか、嫌いですか?(好きです)。聖人は好きですが、聖人が築いた基盤は嫌います。聖人は宗主なので、どのような基盤を築いて聖人になったのかというと、宗教の基盤を築いてなりました。そうでしょう? ところで、今まで一般の人々は、宗教のみ言が聖人の教えだといいながら、宗教は嫌います。それは矛盾なのです。

 今日、大学街のいわゆる、エリートと自負する人々、偉そうに横柄にふるまう連中、なっていない連中が多いけれど、気分が悪いですが攻撃するのです。攻撃を受けて気分が悪くても、聞いてみなさい。歴史を見れば、今日憲法のようなものも、全部聖人の道理を中心としてつくられたのです。大韓民国憲法も同じです。聖人の教えをを縮めて、人倫道徳観に立脚して、憲法を設定したのです。その骨子をどこから取ったのかというと、聖人たちの教えから取ったのです。世界の思潮は、歴史の主流思想に接近してきているのです。

 このように、聖人の教えの圏内にいるのに、人々は宗教を嫌います。この頃に至ってはですね、牧師、お坊さんというと喜びますか? 好きですか、嫌いですか?(嫌いです)。では、統一教会の文先生は嫌いですか、好きですか?(好きです)。今、嫌いだといっておいて、それは何ですか? 嫌いですか、好きですか? 好きなのか、どうなのか、見てみれば分かるのです。好きだとすぐにいえないのです。「人心は朝夕に変わり、山色は古今も同じ(人心朝夕変、山色古今同)」という言葉もあるように、人の心は朝夕で変わるといったので、今皆さんがいくら好きだといっても、私は信じたくありません。

 このようなことを見るとき、とても変でおかしい現実ではないかというのです。聖人の道理を好きだといいながら、聖人の築いたその本来の局面は嫌だとは、事故の起こった人間というのです。(五〇・一〇八)


4 聖人と偉人の差異

 聖人はどんな方か? 聖人と偉人がどのように違うか? 皆さんは聖人になりますか、偉人になりますか?(聖人になります)。学生たち、聖人になりますか、偉人になりますか?(聖人になります)。女学生は?(聖人になります)。聖人になるべきです。心がもろく、か弱い女ですが、聖人になるべきです。(三九・二五五)

 皆さんが世の中を見ると、偉人がたくさんいるでしょう? 世の中に偉人は多いのです。大韓民国にも偉人がいます。だれですか? 李舜臣将軍のような人です。彼は大韓民国の人々に国民思想を鼓吹させ、民族の意気を指向させる一つの中心存在として、国民が追慕し崇拝する偉人ですが、大韓民国内でだけです。日本人にはどうなりますか?(怨讐です)。日本人たちは、李舜臣の奴が死んでよかったというでしょう。言ったでしょうか、言わなかったでしょうか? 偉人は一つの国境を越えられません。一か国を中心としては偉人は存在しえますが、聖人はいないのです。

 では、聖人と偉人の差異は何か? 国家のために、生命を捧げた人は、愛国者の名前とともに偉人の名前も得ることができますが、聖人にはなれません。聖人はどんな人か? 聖人は国境を超越した人です。これを知るべきです。聖人は民族のために生きた人ではありません。自分の氏族のために生きた人ではありません。国境を越え、世界人類のために生きた人です。自分が死ぬのは万民のためであり、数多くの人々のすべての人種と国境を超越し、超国家的であり、超宗派的であり、超人種的な立場で死ぬといいながら、全世界の人類と世界的な立場で因縁を結んで決死の道を行った人々が聖人です。皆さんはこれを知るべきです。(三八・三五〇)


5 四大聖人

 人間始祖が堕落することによって、地を失い、人間自身を失い、神様を失いました。それゆえ、最後に残ったものは何か? 神様を捜す闘いです。世界四大聖人たちは、神様を捜すことをしたのです。

 四大聖人といえば、だれだれをいいますか?(釈迦、孝子、イエス、ソクラテスです)。その次にはだれですか?(マホメットです)。ソクラテスを数える人もいるし、マホメットを数える人もいるでしょう?(ソクラテスが入れば、五大聖人になります)。五大聖人ではなく、四大聖人というなら、マホメットが入るか、ソクラテスが入るかというのが問題です。皆さん、ソクラテスは神を教えましたか?(教えませんでした)。

 生死の問題、生命の問題に入っては、知識が価値を付与できないのです。知識には、生死の問題と生命の問題を左右しうる能力がないのです。ですから、知識を中心として真を主張する人は、聖人の側に入れなかったのです。

 孝子は漠然と「偽善者は天報之以福。偽不善者は天報之以禍だ」と言いました。「天」いうのが漠然としているのです。具体的な内容がありません。天を教えてくれましたが、あまりにもあいまいに教えました。それゆえ、儒教は宗教なのか違うのか、中間の立場に置かれいるのです。そうではないですか? なぜならば、積極的でないからです。

 その次に、釈迦はあまりにも冗漫です。仏教も天を教えはしましたが、確実に知らないので、その内容が難しすぎて、霊的です。神様と法を混同しています。法でありながら神様であり、神様でありながら法であるというのです。ですが、そうなっていないのです。仏教は道理の宗教なのです。訪ねていくと後では神様を否定する立場に入るのです。また、あまりに原始的であり、冗漫であるために、私たち人間と何らの関係も結べません。

 回教は総合的な宗教です。キリスト教の旧約聖書を扱いながらも、コーラン教典を持って出てくるのです。ここには、聖書の内容もあります。従って、この宗教は天使長格の宗教です。宗教的な術語で、天使長格の宗教というのです。それゆえ、この回教は、共産党と野合するのです。従って、この宗教はこれから変わっていく世界に、火をつけうる預言的な宗教になるでしょう。もちろん、簡単な内容がありますが、それは全部旧約を中心として出てきたものです。他人のものを中心として出てきたものは、認められないのです。

 そうであるなら、イエス様はどんなものを持って出てきたか? 皆さんは私がイエス様を信じるキリスト教を信奉するといって、イエス様を好むというかも知れません。しかし、私は本来からイエス様を信じ、イエス様が好きな人ではありません。天地の道理がそうであるべきなので、そのような内容を持った道主がだれか、そのような聖人がだれかというのを分析してみるようになったのです。

 キリスト教が世界的な内容を持った宗教ならば、神様はその宗教を通じて世界を支配できる終わりの日の使命を果たさせるでしょう。これは、名実共にキリスト教文化圏が、今日の民主世界を支配している事実を見ても分かるのです。

 では、イエス様は何を中心として教えたか? イエス様は、具体的に教えました。他のことは具体的に言ったとはいえませんが、これだけは具体的に言いました。神様に対して、だれよりも先に「神様は私の父だ」と言いました。この言葉はよく言いました。人情を中心として、天情と天倫に到達できる、新しいみ言であるのです。歴史以来このように言った人は、イエス様が初めてです。

 その次にイエス様は、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言いました。相対が全部新婦になるのです。事実、人間の世の中において、新郎新婦以上近いものはありません。また、イエス様は、「私はあなた方と兄弟だ」と言いました。これ以上近い関係がありますか? 皆さんはこれを知るべきです。それは、何を言うかというと、神を中心とした、神義による家庭と人義による家庭について言ったのです。情緒的な内容を中心として見るとき、すべてのものを総合して結論を下すものであるといえます。このような内容は、キリスト教でだけ言ってきました。


6 聖人中の聖人

 もう一言言って、先に進みましょうか? 聖人中の聖人はだれだろうか? これをもう一言言って、先に進みます。天道には、天倫と天情があります。そして人倫と人情があります。このような人情と人倫、天情と天倫は、人間を中心として統一、すなわち一つになるべきなのです。それでこそ、神が喜ぶのであり、また、神が喜べば人間が喜びうるのです。すなわち、神が幸福であってこそ、人間が幸福になれるということです。それは、なぜそうなのかというと、父親が幸福であってこそ、息子娘が幸福になるのと同じであるためです。そうでしょう? 父母が喜んでこそ、その家の中が安らかなのと同じで、神が幸福であってこそ、人間も幸福であるのです。しかし、いまだ神が喜べる日が来ないので、今日の人類世界にも喜びが訪れないのです。

 では、聖人中の聖人はだれか? 神と人間は人情と天情、人倫と天倫が一つになりうるところで、父子の関係を結ぶべきです。聖人中の聖人は、人として、このような、心情的であり情緒的な内面を備えた教えを残していった人です。そのような人が、聖人中でも最高の聖人になるのです。皆さん、そうではないですか? これは間違いのない理論であり、また、その理論の結果でもあったのです。(三九・四一)

 聖人中の聖人は、どんな人かということです。神様のために生きた人は聖人です。それゆえ、釈迦やマホメットやイエスは聖人ですが、全部神様を認めました。神を主として生きた人たちです。その次には、どうやって生きたか? 神様を愛するように、人類のため生きたのです、人類のために。神様のために生きていこうという人は聖人です、聖人。それは合っていますか?(合っています)。

 イエスが十字架を背負いながら、なぜ怨讐のために祈ったかということです。神様が彼らを愛されるので、神様を愛し、神様の愛するその怨讐まで愛さなければならないので、イエスはそのような愛を実践するため、死の場でも神様以上に彼らを愛し、天国の懐に帰ったのです。それで最高の聖人なのです、最高の聖人。(九五・一九〇)


7 聖人・当代には冷遇される

 聖人はその時代にどのようにしたのかといえば、人間たちが行くべき真なる道を教えました。聖人は、その時代の民のため、未来に訪れる世界を教えましたが、無知な民は理解できなかったのです。なぜか? あまりにも差があったためです。しかし、その時代の主権者たちは、聖人を捕まえて殺し、迫害し、追い出したのです。

 そうだといって、その聖人は、国を売り、国を滅ぼしたのではありません。その国を混乱の中から救い出し、未来の希望の国にしたり、どの国よりも高貴な国にするために考えたにもかかわらず、人々は彼が分からず、支持することができず、追い出すことをしたのです。しかしながら、聖人は、万民が行くべき道に対する道理を備えたため、世界の人々は、その道理をだんだん受け入れ、世界的な文化圏を形成してきたのです。(三九・二五六)

 聖人はどのような人か? 国家的な人物ではなく、世界的な人物です。聖人といってその国で迫害を受けなかった人はいません。インドの釈迦は、国の王子として生まれましたが、人生は苦海といい、真理の道を探すため、王子の位置も捨てたのです。このようにして、仏教がインドから出てきましたが、インドには仏教人が多くありません。聖人といって、その国から待遇を受けた聖人はいません。聖人を待遇する国がなかったのです。いつも迫害しました。(三九・二五五)

 歴史時代の聖人たちは、その時代には冷遇を受けましたが、歴史が過ぎた後に蕩減して、言い換えれば、損害賠償を請求し、その時代の実績基盤が高くなるため、すべての聖人たちは歴史が過ぎた後に待遇を受けるのです。善悪の戦法において、悪は打って失い、善は打たれて取り返してくるのです。(一四〇・二六三)


8 聖人はあがめ奉る対象

 どうして、偉人や聖人の後孫は追慕すべきなのか? 彼らの心の中には、精魂込めた歴史的な事情が絡み合っており、善の事情と曲折がその中に絡んでいるためです。善の目的を達成するためには、彼らのそのような基盤を通して精誠を尽くすべきです。そうしなければ、目的に向かう道と関係を結べません。たとえ堕落の後孫であっても、人心は天心に通じるので、数多くの人々が聖人を追慕し、聖人が歩んだ道を追求するのです。それゆえそれは、本然の価値を追求することであり、自然的なことです。(一七・二六八)

 歴史に残る人々は、どのような人か? 個人を中心として、死んでいった人が、その時代の人間たちの前に追慕の対象になり、歴史過程に残りうるかというと、そうではないのです。個人よりも家庭のために死んでいった人は、数多くの個人の追慕の対象になりうるのです。家庭よりも宗教を中心として、民族のために死んでいった人たちは、すべて家庭があがめ奉る対象になるでしょう。さらに進んで、宗教の名前を持って、世界のために死んでいった人は、その宗教を追求する民族の前にあがめ奉る対象になるでしょう。(二七・一七三)

 すべての聖人たちは、その時代の歴史路程の中で、歓迎される人はいませんでした。死んだ後に百年千年歴史が過ぎた後に、墓の骨もみんな腐って、灰になった以後に、歴史上の追慕の対象として残るのです。それが今まで聖人たちの道であったのです。(一二七・三三)


三 聖子の道

1 聖子の意味

 私たちの歴史上には、聖人がいます。その聖人とは、一体何か? 聖人という方々を歴史上で探してみると、彼らは全部宗教の宗主になっています。

 さらに進んで、聖人の上の人を統一教会でいうには、聖子といっています。キリスト教でいう、聖子があります。その聖子とは、一体何か? 聖人というけれど。聖人自体も神様について確実に知りません。神様が人格神であり、私たちの生活の理想の表象になるという、具体的な内容がよく分からないのです。

 その次に、聖子という方は、どんな方かということです。万有の存在であり、万有のエホバの、そのすべての主権者の総大将の位置で、神様の中心存在として…。彼がおられるところには、国法があるのと同時に、彼が率いる王宮の宮法があるのです、宮法。そうではないですか?

 聖子は、その宮法を中心として、遂行できるすべてのことを皆履行すべきなのはもちろんですが、その王宮法において、王に侍って暮らす生活において、そこに違背する生活を通しては、王子になりえないのです。彼は、王宮の法を中心として切り抜ける位置で、王とともに永遠に共に暮らしたがる人です。王はその息子がいなければならず、息子もその父である王がいなければならない、永遠に共に暮らそうといえる立場に立つ人がいたら、それを見て私たちは、聖子というのです。(一四八・二五九)

 聖子というのが何か分かりますか? 聖子は聖人とは違います。「聖人」といえば四大聖人がいます。しかし、聖子はだれもがなれるのではありません。聖子は、天国の王宮法まで守ることのできる人です。神様は天国の王宮に住む王です。その王の息子になるには、王宮法を知らなければなりません。その国の法だけではありません。では皆さん、何を知りたいですか? 皆さんの心は、何を知りたいですか? 天子になる道を知りたいですか、聖子になる道を知りたいですか、忠臣になる道を知りたいですか、孝行者になる道を知りたいですか?(天子になる道です)。欲が深いね。(笑い)天子の天の字を取って、地の千字ではありませんよ。

 では、イエス様の独り子という言葉は何か? 神様の法の中で、最も貴い法は愛の法ですが、その愛の法の治理において神様が愛せざるをえない代表の位置に立ったために、独り子なのです。たった独りの息子だという言葉です。

 人間世界の国の法だけでなく、天の宮殿法まで守れる人を聖子といいます。それで「子」の字を使うのです。「者」の字ではありません。分かりますか?(はい)。それゆえ、孝行者と直通できる道が忠臣の道であり、忠臣の道と直通できるのが聖人の道であり、聖人の道と直通できる道が聖子の道です。それは太く、周りが大きいのですが、その核の流れは垂直線です。ただ一つしかないのです。それは垂直です、垂直。(一七五・二一四)


2「聖子」という言葉・この上なく幸福な言葉

 聖人といえば高潔な人であると見るのです。神様の前に立てる人です。聖人の中でも、聖子がいるべきなのです。神様の前において、神様の国の人になりうる人がいるべきであり、進んで神様の国において、神様を中心とした息子娘がいるべきです。聖人以上の人が聖子です。聖書にも聖子という言葉はありますが、聖女という言葉はないでしょう?

 なぜそうなのか? このようなすべての歴史的背景は、霊界を知らずしては、神様の摂理を知らずしては、分からないのです。世界でいくら知識が多く、大変精通しており、自分を主張する人がいるとしても、天下の一騎当千という知識の大王がいるとしても、神様の摂理を知らずしては、自分の目的地へ到達できないのです。それを知るべきです。

 愛の道をついていくにおいて、聖人になった後に占めるべきものは何か? 神様の愛の前に…。聖人は神様の人です。高潔な人。神様の前に対することができる人ですが、神様の前に対することのできる群が多くなった後には、聖子・聖女がいなければなりません。そのようになります。聖子・聖女が出てくるべきです。

 その聖子という言葉、神様を中心として、自分が神様の息子・娘だといえる言葉、この言葉は、堕落した人間世界の歴史において、この上なく幸福な言葉です。福音といえるのです。(一三六・二〇六)

 それゆえ、孝行者、その次には? 中心、その次には? 聖人。聖人の次には何ですか? 聖人だといって、聖子になれないのです。神様の息子になれないのです。聖子になるべきです、聖子に。いくらお上を愛し、民を愛したとしても、聖子になるためには、天国の王宮法を知らなければなりません。王宮法の治理を受け、拍子を合わせられるもう一つの法を知るべきなのです。(一四七・二八二)


3 皆さんも聖子になりなさい

 聖人は世界的です。愛国者は国家的限界を超えられませんが、聖人は世界的です。世界をどれほど愛したか? この世界が良くなるべきであり、世界が善であるべきであり、世界がすべての面で良くなるべきである、このような愛の心を持って、悪いことがあればそれに自分が責任を持って、全部解決し、良くしていくべきだという愛の心を持って、すべての生活で犠牲を払い、そのように生きていった人たちが聖人ではないか。

 さあ、このように見るときに、ある孝行者がいて、愛国者がいて、聖人がいたとするなら、彼らは全部世界を中心として考えたということです。この地上を中心として考えたのです。では、この宇宙の中心である神様を中心とすれば、天と地を愛で抱こうとし、このすべての宇宙の存在が、神様の愛を受けるに適当な存在になるのを願うのではないか。

 そのような立場で、自分は神様を愛するため、霊界のことを心配し、歴史を超越するのです。時空を超越し、霊界のことを心配し、地上を心配し、神様を心配できる人、愛で心配できる人がいたら、神様が願う人はそのようなたぐいの人ではないか。そのような人に、私たち統一教会は、聖子という名前を付けます。

 では、皆さんは、何になりたいか? 孝行者になりますか、愛国者になりますか、聖人になりますか?(聖人です)。これは、賢い人、愚かな人、五色人種全部、聖人になるというでしょう。そう、聖子になり聖女になりたい人、一度手を挙げてみなさい。それは易しいことですか、難しいことですか?(難しいことです)。(一六一・一三三)

 家庭で、父母のため愛する人を、何といいますか?(孝行者です)。国のために愛する人は?(愛国者です)。では、世界を愛する人は?(聖人です)。先生が教えることは何ですか? 神様と世界と宇宙を愛する、聖子になれということです。皆さんは、どれになるのですか? 聖子になるのですか、孝行息子娘になるのですか?(聖子です)。では、神様のような愛を心に持つべきです。(一二九・九九)

 聖子・聖女になるにはですね、聖子・聖女になるには、私たちが何を先ず知るべきか? 聖子になるにおいて、その主題がだれになるべきか? その祈祷の主題は神様なのです。ですから、神様のために祈れということです。神様のために祈るべきなのです。神様が願う通りすべきであって、自分が願うとおりにしてはいけません。神様が望む通りにすべきであって、自分が願う通りにするのではありません。神様が主題になるということを知るべきです。主題が神様であり、その次に目的は何ですか? 目的は神様の考えです。神様が考える通りにすべきです。それが神様のみ旨というものです。神様のみ旨に従って、神様が考える通りにすべきです。それが目的です。分かりますか? 主題があるべきであり、目的があるべきです。これは重要なことです。(一六一・一四一)


四 孝行者になる道

1 孝行者とは何か

 孝行者とは何か、孝行者? 父母様がいちばん好きなことを中心として、いつも考えながら、そのことを行動になして、相対役をするという人、そのような位置に立った人を孝行者というのです。同じ結論です。そのような息子においては…。

 また、五官があれば、目で見て何かを感じるとき、父母様がもっと好むものを、言葉を聞くときにも「ああ、このような言葉が好きですか、どうですか?」というのを感じるときもそうであり、すべての五官の鑑定が、父母様を中心として愛と化しうる心情圏を恋しがる人が孝行者ではないかというのです。悪いことがあってはならず、良いことだけがあるのを願い、もっと良いことで発展し、もっと素晴らしいことを願うのです。(一六一・一三二)


2 孝行を重要視する理由

 世の中では、孝行者を重要視します、孝行者。これは、蘇生です。分かりますか? 孝行者とは何か? お父さんお母さん、おじいさんおばあさんまで、仕えることができてこそ孝行者です。これを知るべきです。三代を経るべきです。その次に、忠臣とは何か? 忠臣も同じです。忠臣は、息子の位置において、王を中心にして、父母に侍り、神様を中心にして、おじいさん、おばあさんに侍るのです。神様をおじいさんとして侍るのです。(九六・三一)

 孝行息子娘になれという言葉は、良い言葉です。今日、世代の差があるといいますが、お母さんの世代と若い世代と差があるということをいいますが、とんでもないことです。お母さんの世代と若い世代と、愛にも差がありますか?

 皆さん、家庭で「孝行せよ」といいますが、なぜ孝行せよというのか、ということです。それは、父母を中心として、父母が行くべき愛の道に同参者になれというのです。その父母の真なる愛に道には、天倫が従うのです。父母だけが行くのではなく。見えはしませんが、縦的な天倫がここに因縁づけられていくため、父母と一つになれというのは、天倫の歴史、見えない縦的な歴史と、横的な歴史の両面の心情圏を受け継いで行けというのです。これが父母の前に孝行しろということです。これが分からなかったのです。この頃は「父母の前に孝行するのが何だ?」と言うのです。アメリカでは、そう考えています。「父母たちが私たちを産むとき、私たちを考えて産みましたか?」と言うのです。

 それは、この原則を知らないのです。すべての歴史は、縦的な基準に立ってこそ、横的な基準に立つようになります。皆さんがビルディングを建てても、まず全部垂直線を合わせてこそ立つのです。その次に、水平線を合わせなければ、いくら高層の建物でも倒れるのです。同様に、私たち人間が、世の中に立っているということ自体が、既に縦的基準を合わせたということなのです。(一三六・二〇三)


3 孝行者はどのようにしてなるか

イ)父母の心の方向と一致すべきである

 孝行息子娘になる秘訣はどこにあるか? 内的な基準と外的な実体基準が符合しなければなりません。(一二・一七四)

 孝行者が貴いのは何かというと、変わることのない愛で、幼いときも、成長するときも、老年時代も、変わらない愛を持って父母を敬うためです。そのような人を孝行者というのです。(一六八・一六三)

 孝行者になるには、どうすべきかというと、いつも父母の心の方向と一致すべきなのです。孝行者の道を行く人は、父母とかけ離れた行動をする人ではありません。父母が東に行けば、東に行くべきであり、父母が西に行けば、西に行くべきなのです。行ってから、行く目的を提示してから、一度に後ろへ振り返れといったら、振り返るべきなのです。そこには異議があってはいけないのです。十回行って、十回振り返ったとしても、また振り返ってついて行くべきなのです。

 「ああ、父母がどうして? 十回行って、十回振り返り、十回こうだああだという。ああ! お父さん、お母さん、私はもう気持ちに合いません」と言って変わっては、最後まで孝行者の道理を守れないのです。父母が狂ったことをしたら、子供も狂ったことをすべきなのです。父母の命令ならば、狂ったことでもすべきなのです。狂ったことをするそれ自体はだめですが、父母が知らずにするのなら分かりませんが、知ってやっているのです。

 では、なぜ父母が狂ったことをするのかということです。孝行者の中で最高の孝行者を選出するためには、その道しかないためです。百人の孝行者がいるならば、その百名の中で最高になりうる孝行者にするため、その父母は狂ったことをするでしょう。百回行って振り返り、百回気まぐれになるでしょう。千回気まぐれになるでしょう。しかしながら、その気まぐれを事実と思い、命を捧げてその父母の命令の前に絶対順応することによって、彼は孝行者の王になりうるのです。孝行者の中で孝行者を治める王になりうるというのです。そうではないですか?

 そうなるときは、そのような狂ったことを、天職と思ってできなければならないでしょう。「ああ! これは私の常識に合わないから、それは分からない」と言えば、ここから孝行者の道理は行き詰まってしまうのです。孝行者の道は切れてしまうのです。それゆえ、最高のある一つの峠を貫いて越えうる世界的な孝行の道があるのではないか。そうであるのです。

 では、神様はどんな方か? 神様は人類の父母にもなる方であり、神様は人類の王の中の王にもなる方であり、すべての中心にもなる方です。その神様の息子になるためには…。個人的な一対一の立場で、一つの家庭を中心として見るならば、孝行者ですが、その孝行者は世界的な孝行者になるべきなのです。そうではないですか?(六二・三二)

ロ)父母の心情と事情が体恤されるべき

 私たちは、孝行者の道を行くべきです。孝行者の道を行くべきなのです。神様が世界情勢を前にして深刻ならば、その深刻さ以上夜を徹しながら、あるいは自分の一身を忘却しながらすべてを忘れて、体恤的な境地で心配する心を持って、神様のためになる息子娘になるという身もだえをする人がいるか? 問題はここに帰結するのです。(六二・三五)

 孝行者とは何? 孝行者は父母の悲しみに代わって責任を持つため、困難な場を訪ね、責任を果たすことによって、父母に喜びを捧げうる人です。父母が十くらい仕事をするのに、子供は十五くらい努力したら、父母は五に該当する喜びを感じるようになるでしょう。そのような分野をそのように補充して、父母のために捧げうるかを考えながら努力する人が、孝行者なのです。(二四・二六一)

 皆さん、町内でもそうではないですか? 国ならば国で孝行者だといって孝行賞をあげるとしたら、博士学位を持ったために孝行者になれますか? それが条件に入りますか? たくさん習って、ある学校を出たといって、孝行者になるという条件に入るのかということです。入らないのです。どれほど自分の心と体を投じて、父母を愛したかということが問題です。夜昼いつでも変わらない心を持って、その父母を絶対視し、国の代わりに、神様の代わりに、その父母を絶対視する人たちが孝行息子娘というのです。(一四七・二三二)

ハ)父母の困難に耐えるべき

 孝行者の道、孝行者になるべき道、その孝行者が行くべき道は…。父母が願うことが十種類あるなら、その十種類の中で、いちばん重要なことに責任を持って解決する子供が、孝行者ではないか。息子が十人いるなら、十人の中でだれがいちばん孝行者か? 父母の十種類のことの中で、いちばん難しいことについて「これは私が責任を持つ。私がこの問題に責任を持って解決して、父母を愛する」と言って立ち上がる息子は、どんな息子よりもその父母の前に記憶される息子ではないか。そのような息子であるほど孝行者の位置に近くなるのではないか。

 このように見るとき、易しい場で易しいことをして、孝行の道理をするという人よりは、この上なく難しい場で孝行の道理を果たそうとする責任者、そのような位置に立った人、そのような位置に立った息子娘が、孝行者が行く道に入った人ではないか。それは間違いないのです。(六二・二三)

 父母が悲しむ内容を深く知っている子供であるほど、その父母の悲しみが解消するのをひたすら願い、自分が仕事をする環境を越えて、その心配な事実が解消するのを願うのが、子供の願いではないか。自分に悲しみがあるとしても、自分の悲しみよりも、父母の悲しみをもっと早く解消するのを願う心を持った人がいたら、それは孝行者といえるのです。しかし、父母にも心配事があり、自分にも心配事があるのに「父母が私の心配事を考えるべきだ」と言い、父母の心配事よりも、自分の心配事をもっと考える人ならば、その人は父母と一つになっていない人です。

 孝行の原則を中心として見るとき、父母の立場を忘却する人は父母と急を要する場で、一つの因縁を結べないのです。自分を主張して、自分の悲しみを知ってくれと要求したり、父母の悲しみはそっちのけにして、自分の悲しみだけに責任を持ってくれという息子がいたなら、彼は孝行者にはなれず、不孝者のなるのです。これは私たちが日常生活の周辺で、あるいは家庭生活でいつでも体験することです。

 また、孝行者としての価値は何か? 自分の困難もあるでしょうが、父母の困難をもっと心配しながら、自分の困難を問題視せず、自分の困難の上に、父母の困難を加えて心配する位置に立っても、これを当然のこととして消化して受けとめうる位置から孝行の道は始まるのではないか。子供が父母の困難を等閑視し遠ざけるとき、ここに決裂が起こるのです。孝行の道でなく、不孝の道が生じるのです。兄弟の困難を自分の困難よりもっと重要視しないとき、兄弟間の関係は、疎遠になるのです。このように見るのです。(六二・一八七)

ニ)「孝行者」という言葉は悲惨を随伴

 真なる孝行者が行く道は、平坦な道ではありません。孝だ忠だというその言葉は、悲惨な言葉です。孝行者になるためには、自分を考える心を持ってはいけません。

 孝行者になろうとするには、どのような位置に立つべきか? 死の道、いちばん受難の道に責任を持てる位置に立つべきです。(六二・三七)

 孝行者の手本は、どこで設定されるか? より悲惨な位置で…。より悲惨な位置とは、死ぬ位置です。死ぬ位置でも、いちばん悲惨に死ぬ位置で手本が設定されるのです。合っていますか、間違っていますか?

 さあ、孝行者がいるとしましょう。孝行者は過去から現在まで、時代時代ごとにいるでしょう。その中で、一等孝行者を選ぶとすれば、どんな人を一等孝行者の標本に選ぶだろうか? 年取って孝行して死ぬのより、若くて年取った人以上に孝行をしたら、もっと貴いのです。孝行者もさまざまです。貧しい人、富裕な人、力仕事をする人、乞食の人、あらゆる階級がありますが、孝行者はみんないます。

 真なる孝行者になるには…。生きている人は、真なる孝行者になれないのです。生命をまだ残している人は、孝行者のたぐいに入れません。なぜそうなのか? 孝行するために数多くの人が死んだのに、死んでいない人が孝行者の表彰を受けたら、孝行するために死んだ人たちに讒訴されるのです。そうではないですか? そうでしょう? それゆえ、真なる孝行者は、死んだ後にこそ現れるのです。

 死んだ人の中でも、孝行するため、道を歩いていて死んだ人もいるでしょう。お父さんお母さんが病気になったため、薬を買いに行って死んだ孝行者もいるでしょう。薬を買いに行くには、自分のお金を持って買いに行く人もいるだろうし、お金を借りて買いに行く人もいるでしょう。難しければ、難しいほど、その価値が大きくなるのです。そうでしょう?

 では、自分のお金を持って薬を買いに行って死んだ人と、お金を借りるために三ヶ月、十日と苦労してお金を借りて、薬を買いに行って死んだ人がいたら、どちらの人が孝行者の手本になる位置に上がるでしょうか?(後者です)。後者でしょう。それはみんな分かるんだね。それがみんな分かるため、復帰が可能なのです。その内容が、複雑で難しくて悲惨なほど、ものすごいほど、悪いのではなく良いものとして登場できるようになるのです。

 薬を買いに行って死んだのと、薬を買って煎じて死んだのと、どちらがましですか? 薬を煎じて捧げて死んだのは、劣りますか、ましですか? ましなのです。このように見るときに、難しい内容を持てば持つほど、孝行者の順序において、その等級が高くなることは言うまでもないのです。ここに異議はないでしょう?(四九・二八〇)

 家庭において、孝行者は孝行者自体で見ると悲惨なのです。なぜ悲惨なのか? 食べるものがあっても、勝手に食べられないのです。おいしい食べ物があれば、それをつかんで涙を流さなければならないのです。「うちのお父さんとお母さんが七〇、八〇になったのに、二人がこの地に生きられるなら、どれほど生きられるだろうか、召し上がれば、どれほど召し上がれるだろうか、お膳を何回受けられるだろうか、亡くなられる日が、私の何分の一しか残っていないのだなあ!」このような心を持って、長く生きられない父母を、自分の生涯を傾けて、精誠を尽くして奉養すべきです。

 孝行者は、食べるものも食べられず、喉が詰まって泣く人なのです。食べ物を食べて、独りですすり泣けば、狂った人だというでしょう。ある意味では、狂った人のようなのです。「おいしい食べ物があれば、食べればいいのに、どれほど食べたいものだったろうか? それなのにああしている! あいつ」と言うでしょう。それはどれほど悲惨なことですか? その泣き叫ぶざまをだれが好みますか? しかしながら、孝行者は生活を自分勝手にできないのです。

 良い景色、良い山野を眺めれば、うちのお父さんとともに…。良い季節がやってきて、その季節を鑑賞できる場に立てば、自分一人ではなく、お父さんと一緒に見たらいいと…。それが恋しさとして表象され、涙で明らかになるその場は悲惨な場です。涙を流す場、それ自体を見るならば、苦しい場です。しかしながら、その場が不孝な場かというと、幸福が宿る場なのです。そうではないですか? それゆえ、涙を流す生活は、悪い生活ではないのです。

 食べるものがあって、着るものがあっても、国と公的なことを心配しながら、食べられずに、着られずに苦労する群があるなら、見た目には悲惨ですが、そこは永遠な慰労の涙に囲まれているのです。永遠に褒めたたえる唱詠と歌に囲まれているのです。それだけでなく、永遠な希望の天国が贈り物として、準備されるのです。ところで。それがなぜかわいそうですか? かわいそうなようですが、悲惨なようですが、勝利の権限を得た栄光の位置に立てる位置が、その位置であるのです。(五一・三二六)





















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