人の生涯
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第三章 望ましい青年期

第一節 成和青年

一 青年期とは

 皆さんのおじいさん、おばあさんを六〇代から八〇代と考えると、四〇代から六〇代は中年、二〇代から四〇代までを青年とするのです。(九六・二三八)

 人間において、いちばん重要なときはいつか? 少年時代ではありません。青年時代を越えて壮年時代に入る、すなわち、二〇歳から四〇歳に至る期間が、いちばん大切なときなのです。人は二〇歳から三〇歳まで人としての本分の土台を磨き、そこに自分が隠居できる、確固たる基盤を磨いておかなければなりません。また、未来には、はっきりとした目的を中心としていける基盤を、環境的に備えなければなりません。そのようにできない人は、三〇歳を越えて四〇歳に向かうとき、無意味な人間、平凡な人間として生きるしかないのです。(二二・三一四)

 神様は、今お忙しいのです。では、なぜ神様がそのようにお忙しいのか? 人間が地上にとどまれる時間が、それほど長くないためです。今皆さんは、近い将来に三〇代圏内を越えて、四〇代を見つめるでしょう。

 人の一生を考えるとき、活動能力を最高に発揮できるときはいつであるかというと、二〇代から四〇代、または五〇代までです。この二、三〇年の間が全盛期なのです。しかし、四〇歳を越えるとその基準から降りていくのです。皆さんの中で、四〇歳を越えた人は、自分の肉身を中心として、静かに考えてみなさい。柳光烈、今四三歳か?(はい)。昔と少し違うと思わないか?(疲れます)。疲れるだろう?

 昔は、いくら疲れても、数時間だけ寝れば疲れがとれたのに、年を取るにつれて、疲れが取れる時間がだんだん長くなります。昔は一〇時間ずつ働いた人も、年を重ねていくうちに、働ける時間が短縮されるのです。約三年単位で、一時間ずつ減っていくのが分かります。そのように考えると、三〇年後には一〇時間も短縮されるのです。三年に一時間ずつなら、一〇年で約三時間、三〇年なら約一〇時間も短くなります。ですから、もし若い頃一〇時間働いていた人ならば、二〇年だけ過ぎると働けなくなります。このようにしてほんど七〇歳になれば、そのときにはそれ以上働けないのです。その歳で働くというのは、ようやく管理ぐらいができるのであって、開拓とか、新しい建設的なことはできないのです。

 このような観点から、皆さんがみ旨のために働けるときが、どれほどになるかという問題を考えてみるとき、皆さんは無限に悲しみを感じなければならないのです。(三三・一八五)

 私たちが春を迎え、すべての自然において花が咲き、新しい葉が生えるのを眺めるとき、この春は、必ず冬を越した後に来るということを考えます。今、この春が過ぎれば、夏が来るということを、私たちは知っているのです。ですから今日、この春というのは、夏につなげることのできる準備の日であるということを、私たちは知るようになるのです。

 私たちは、季節を見てもそのように考えることができますが、私たち人間に置き換えてみても、同じように考えることができます。若い青年を見れば、その青年から春のようなものを感じとることができます。その青年が、青年時代を終えれば、壮年時代が来ることを私たちは知っています。また、老年時代を経て一生の道を歩むということも、私たちは知っています。一つの時代の中で、私たちの一生を考えてみるとき、今生きているこの時代があるならば、次の時代があるということが分かるようになるのです。(六六・八五)


二 成和青年の道

1 成和青年が行くべき道

 先生は夜になると、早く朝が来るのを待ちこがれ、朝になれば、夕方が来ないことを願い、夕方になれば、夜が来ないことを願いながら、開拓者の道、先駆者の道、巡礼者の行脚を嫌がらずに、今日の統一教会を開拓しました。ここには風雲寒雪が織り込まれているということを知るべきです。悲しみの障壁が、何度も先生の行く道を妨げましたが、その度にそれを飛び越えました。その多くの悲しみの与件も、先生の行く道を妨げることはできませんでした。それが今日私たちの人生の源泉となり、天の側の力となったのです。

 そうして、反対されればされるほど、私たちは視線を世界へ向けてきました。この民族は知らずにいるけれど、私たちの民族はこれから世界が歓迎する民族になるのであり、今日の大韓民国三千万の倍達民族は知らずにいるけれど、私たちの待ちこがれるその時は、名実共に来てしまうのです。ですから、私たちは歩調をそろえて、世界に行進すべきです。どこに行くにしても、私たちを妨げられない自由の天国舞台を成すために、力を注ぎ、精誠を尽くして闘い抜くべきです。倒れたとしても、それを格好良く倒れるのを男の生き甲斐と思い、誇りを持ってこの道を行かなければならないのが、統一青年男女の行く道であるということを知るべきです。(二・一六五)

 若い人たちが進むべき道はどこか? 今、社会ではどのような人として進むべきなのか? 真の人となって行くべきです。「今まで、大韓民国の三千万民族が行けなかったその道を、私がうまく行くことができる」と言える人になるべきです。そのような人がいれば、希望の日が訪れるのです。そのようにして、国家を完全に凌駕することのできる人となって、天情の漂う天地村をつくり、そこで天意の勝利の条件を立てうる基盤さえ持てば、世界のすべての国家は、それに対して関心を持とうとせずとも、持たざるをえないのです。(二五・九〇)

 この道は、行くまいとしても、行かざるをえない運命の道であるために、避けられません。これを収拾し、短縮して、皆さんが少しでも楽に、傷つかずに、父の前に訪ねていける道を方々探ってから、皆さんに行けというのです。その道を先生が先頭で、指導者の立場で進んでいるので、皆さんは後からついてくればいいのです。(二〇・三二三)

 いくら若くても、今日のために生きる若者はだめになるのです。落ち葉になり消えていくときが来るのです。幹になれないのです。しかし、未来のために生きる人は、幹になり根になるのです。今日のために生きる人は、葉っぱにしかなれないのです。葉と同じなのです。何のことか分かりますか? 未来のために生きれば、枝となり、幹になり、根になれますが、今日のために生きれば、葉にしかなれないということを知るべきです。どれを選ぶのですか? 葉になりますか、枝になりますか、根になりますか?(根です)。根になろうとするなら、何をすべきですか? その道は希望の道ですが、その根になろうとするには、何をすべきですか?

 人を評価するとき、その人が将来どんな人になるかを考えて評価すべきであり、今を考えて評価してはいけません。その人が今どんな思想を持っているか? これが重要なのです。(一一七・三二七)


2 先生の青年時代の経験

 世界を収拾することは、そんなに簡単なことではありません。訓練しています。特に若者を訓練しています、自分自身が望んで訓練を。その訓練の場所は、素晴らしい所ではありません。難しい場所、汗を流す所、血まみれになる境地…。その世界的な使命を果たすには、いかなる決心をするか? その決心の途上にぶつかった場合には、それ以上の難しいことがいくらでもあります。そのときに、後退してはいけません。そこに向かって、東西南北、四方八方、上下前後、すべてに対する難しい基準を突破すべきです。

 先生は、何でもしてきました。乞食にもなりました。乞食のすることもしたのです。鉱山の坑道で、炭坑の穴を掘るチャンピオンにもなりました。山に行けば、知らない草がありません。どんなものが食べられるか、すべて知っています。だれかに追われて、山に行って隠れているときは、飢えて死んではいけません。食べて生き残らなければなりません。生きてこそ、み旨を成す希望を持って進めるのです。そうでしょう? また、できない運動はありません。

 それゆえ、若さを失ってはなりません。青年時代は二度とやってこないのです。貴いのです。その期間に、一人の人間としての青春を送るべきなのか、十人百人の青春の代表者として立つべきなのか? 一人、百人、千人の代表者として立つには、百人の青年がなすことのできないことも、かたずけることのできる度胸と気迫と勇気を持たなくてはいけません。何のことか分かりましたか?

 そのような背景で、訓練を重視して準備をしておかなかったなら、先生もすでに過ぎ去ってしまった歴史の流れの中で、それこそ秋の落葉のようになってしまったことでしょう。それは、一握りのわずかな肥料にもなれずに、流れていってしまうのです。

 若者には、できないことはありません。成せば成ります。成さねば成りません。人に不可能なことがありますか? なせば成るのです、どんなことでも。どんなことでも?(成さなければ)。成さなければ?(成りません)。人がやらないからです。

 青春は美しいものでしょう。先生は学生時代、においのする男でした。そのにおいとは、香水をつけたそんなにおいではありません。汗のにおい、腐ったにおい、そして髪の毛も垂らして…。学校に行っても、言葉はありませんでした。自分が成すべきことを成さずして、何を言いますか? 時間がありません。そうだったのです。(一八七・一三七)


3 建築物の土台となれ

 家を建てるなら、だれが何と言っても、まず材木がなければならず、その次には、土台を築くべきです。それゆえ、先生が材木の立場に立っているので、今は土台を築くべきなのです。土台を築くには、どこから築くべきか? 地下から築くべきです。高層ビルを建てるなら、まず地面を深く掘って、頑丈に基礎工事をすべきなのです。「ああ、苦労する必要なしに、広い砂地に建てよう」このように考えていては、家は建てられません。基礎工事をすべきです。私たちは、いまだに基礎工事を終えることができずにいます。終わったと思わないでください。今も基礎を築いているのです。

 コンクリートで基礎を固めるためには、何が必要ですか? セメントより砂利と砂をまず準備しておくべきです。セメント一山を準備すれば、その何倍にもなる砂利と砂が必要となるからです。では、砂利と砂はどこにあるか? 河原にあります。河原はだれも住まない所です。また、石は山にあります。草原にあるのではありません。それ自体は、今、もの悲しい立場に放置されたものです。その次には、水が必要です。

 では、統一教会で砂利にあたる人、砂にあたる人はだれか? このようになるのです。皆さん、恨めしいでしょう?「ああ、先生のみ言を聞いたら、砂利になり、砂になるのは私たちだね」と言って、気を悪くするかもしれません。しかしながら、気を悪くしても、しかたがありません。これが原則なのに、どうしますか? 皆さんに砂と砂利なんかを譲ってあげようというのです。賛成しますか、しませんか?(します)。

 では、砂と砂利にセメントと水を混ぜるとどうなるか? ひとつの固まりになります。皆さんが昼夜を問わず、父母と子供を忘れたままこの仕事をするとき、皆さんの子供たちは、皆さんと一つの固まりになるべきです。そうして、これを基礎として増えていくのです。それが増えるときは、石の固まりでも増え、砂の固まりでも増え、セメントの固まりでも増えます。それが三千万よりもっと大きくなるときには、世界に騒々しい問題になるのです。

 それゆえ、皆さんは、セメントになり、砂利になり、砂になり、水になるべきです。皆さんの血と汗と涙を水にして、皆さんの体は砂にして、皆さんの骨は砂利にすべきなのです。それで、自分自身の基礎を固めるべきです。そのようにして固められた基盤は、創造的なものであるため、千年の歴史が過ぎても崩れることがなく、万年の歴史が過ぎても崩れることがなく、また、いかなる団体が千年万年努力しても、崩すことはできないのです。(二八・二一九)

 大きな木になろうとするなら、その立つ場所が広くなければならないのではありません。大きな木になろうとするなら、根が深くなければなりません。根の深い木になって、大きな木になり…。(一八一・一一)

 天の動力者は、統一教会の若い青年男女の中で、何人になるか? 正しい時を持ち、正しい実績を持ち、正しい心情を持ち、正しい考え方を持った青年男女は何人になるか?(六三・二四八)


4 三〇歳前に苦労せよ

 理論的な面で、統一教会の教会員は三〇歳前まで苦労させるという天理、哲学の道理を立てざるをえないため、先生は三〇歳まで、このやろう、苦労させようとするのです。分かりました?(はい)。

 なぜ、三〇歳まで苦労させようとするか? 三数から調和します、三数から。一つ二つ、二つでは調和になりません。二点は直線にしかなりません。二点を連結すれば、直線になるでしょう? いちばんの最短距離が直線ですが、三点から調和します。二の位置、これは平行基準の垂直を中心として二点、これはこれを中心としていくらこのようになったとしても、これは変わらず、そっと置いておいてもこのように立つのです。これと同様に、三点で調和するようになっているのです。

 ですから、三〇歳まで苦労すべきか、すべきでないか?(すべきです)。そう、人間は還暦が六〇です。六一に帰ってくるのです。暗い中を三〇年を歩んだら、六〇歳から先は陽の光が照る最後でありうるのです。これが歴史観ですが、東洋史観が合っているのです。そうですか、違いますか?(そうです)。三〇歳まで苦労だけしてみなさい。一生の間、六〇でなく死ぬときまででも、生活に対する恐怖はないのです、先生のように。(一八二・七二)

 では、一生を考えてみるとき、「青春時代は遊ぶもの、年取って苦労しよう」その言葉はどうですか?(いやです)。なぜ「いやです」ですか? どれを取りますか? 若いとき腰が曲がるくらいのことをするのが、幸福の道を行くのだ、そんな結論ですか?(はい)。重荷を背負って行けということです。行かなければ、たたいてでも行かせるのがいいですか、ただ「弱いのに休め、近所の子供たちは、みんな遊んでいるのに、おまえもそうしなければ。お前のような若い人たちは、そうすべきだ」そう言うのがいいですか?(送るのがいいです)。そのような論法が事実なら、どんな団体であれ同じです、どんな団体でも。団体の若いやつらを全部夜明けから起こして、骨が溶けるくらいに働かせるべきか、ただ、楽に踊って歌って、キリギリスの姿になるようにすべきか?(仕事をさせるべきです)。

 では、世界でいちばんいい団体はどんな団体ですか? 若いとき、ただ骨が溶けるほど、身動きできなくなるまでこき使ってですね、働かせてですね、このようにできる団体が、世界一だということです。では、ムーニーはどういう団体に属していますか? 世界でいちばん若者が多い団体は統一教会です。統一教会は、若者たちをいちばん苦労させながら、「今は死ぬほど苦労しますが、未来には幸福が来る」このように考えます。これは素晴らしい団体ですか、不孝な団体ですか?(素晴らしい団体です)。(一〇五・一七八)


5 三〇歳前には多方面の訓練をせよ

 皆さんの一生の間に、経済問題はついて回るのです。これがサタンです。これがいつもついて回りますが、引っぱり出すべきです。経済問題が、逆に引っ張っているのです。先生は、追い出しても、島国であろうと、どこででも生きるのです。皆さんはみんな死んでも、私は生きるということです。きのこはどんなものが食べられ、薬草が何で、毒草が何であるかみんな知っているのです。そして、糸と針金さえ一つあれば、釣り針を作っていくらでも魚を釣ることができます。どこででも生き残ることができます。いつでも自立できる知恵があるのです。統一教会では、三〇前にこれを公式的に訓練すべきだというのが先生の哲学です。

 経済訓練をして、その次には愛の訓練をすべきです、七年間。それで、私たちが復帰路程を行くのに、伝道とファンダレージングを重要視します。歴史的に見るとき、ファンダレージングは、旧約時代を通過するための方法なのです。それを知るべきです。旧約時代は、物質で祭事を捧げたのです。蕩減復帰をしていこうとするので、蕩減復帰するには物質で祭事を捧げて勝利していくべきなのです。それをパスしてこそ、その次に新約時代に入って伝道するのです。

 人に迫害を受けて、鍛錬されなさいということです。先生が初めて会った人も、パッと見て、この人はああだこうだと評価してみると、みんな合っているのです。どのようにしたらそうなりますか? 人に迫害もたくさん受けて、多くの人に関わりながら研究をしたのです。それが必要なのです。「お前、ムーニー人間の世の中で、世渡りするにおいて、人を外向的な面で料理できるか?」と言えば、「イエス」と言うべきなのです。

 その次は、霊界、霊界に対するすべての試練と、霊的世界の攻撃を防御できる能力を持つべきなのです。(一一七・二四、九六・一一五)

 普通に見れば、若い人たちの生活は、激変するのです。青春時代には刺激的なもの、絶え間なく変化するものを好むのです。それを好むのはいいのですが、その変化する環境を吸収して、消化できる能力があって好むのはいいけれど、その能力がないのにそれだけ好んでは、自分と関係のない生活をしてしまう結果になります。青春時代には、そのような冒険生と危険性の多い時代であるため、そのようなものをわきまえていける、学びの道が必要なのです。

 学びの道、先祖たちの行った道であるとか、すべての人たちが成したことを習い、経験を積むのが必要なのです。そして、皆さんが今後に行く、皆さんの未来を知らずにいるとしたら、これを克服する訓練で、内在的な人格を造成する期間も、この若い時代でなくてはならないのです。だから、この青年時代は、一生がいくら激変しても、いくら悩まされることが多くても、それを全部調整して見事に越え、格好良く克服し抜くことができる訓練が、絶対に必要だということを、私たちはここで知るべきなのです。

 自分の心に合う訓練は必要であり、自分の嫌いな訓練は嫌だという人は、これから発展しうる人格を成しえない人になってしますのです。では、どんな姿勢を持つべきか? ぶつかってくる事件や問題に対しては、関心を持つべきなのです。修練を受けて、訓練を受けるとき、ぶつかってくるすべての試練の過程には、関心を持つべきなのです。その問題を考えても、それだけ見るのではなく、関心を持って前後左右を探り見る人になるべきです。(六七・八六)

 若い人たちは、色々な方向に訓練させるべきです。東にも行けるし、西にも行けるし、南にも行けるし、北にも行ける、このように訓練されていれば、「あ! 私とは違うんだな、あの人はあんなことを言う」と関心を持つのです。

 若い思春期時代、青春時代、すなわち、三〇歳以前には、成功して落ち着くためには、早い道、良い道を探します。しかしながら、今歩んでいる道が、早い道だと考えられないのです。東に行けば、東に行く道が、自分が成功できる、定着できる道だと考えられないのです。それよりもっと早い道が、西にもありえるし、南にもありえるし、北にもありえるので、四方について知るべきです。

 自分は上がるのを願っているのに、環境により迫害を受けて降りていくところが、悪いことだけではありません。降りていく道に、自分が一生に必要な定着地を早く見つけることができると考えるのです。ですから、これから三〇歳前の若い時代においては、先覚者になりたいとか、歴史の指導者になりたかったら、三〇歳までにすべての面に手を着けて学ぶべきです。できないと思ってはいけません。三〇歳を越えるとだめです。遅いのです。三〇歳から実践段階です、三〇歳から四五歳までの一五年間は。先生もそのように計画を練ったのです。四五歳まで一五年間、実戦舞台に挑戦するのです。挑戦して四五歳まで、統一教会の歴史を一段落させるのです、一五年間に。

 それゆえ、四五歳に世界一周をするのです。六〇歳まで世界で成熟期を迎えるために、闘うのです。すべてこのようなプログラムに基づいて前進しているのです。ですから、統一教会の教会員は、三〇歳までは苦労させようとしているのです。先生は、経験を通して知っているのです。そうでなければ、自分の地域の人間にもならないのです。その町内の人になるのであって、その国を管掌し、指導できる人にはなれないのです。

 世界を考えているなら、三〇歳前に多方面の受難を受け、多方面の訓練をすべきなのです。「ああ、これも面白い。ああ、これも面白い。私とも関係が結べる」こう考えるべきです。「ああ、私はできないから、私とは関係ない」と言う人は、そのうち滅びてしまうのです。行く先で、自分が定着できる道を探し出せなければ、そこですべてを放棄してしまうのです。

 しかし、多方面に訓練されている人は、この道がだめだったら、あの道にも行けるし、歩みながらサッと回っていけるのです。訪ねていけるのです、経験が多ければですね。それゆえ、経験のある人と、経験のない人を見るとき、同じ実力、同じ年でもだれが指導者になるか、中心者になるかという問題において、経験をだれが多く積んだかによるのです。それは理論的です。(一四四・二九三)

 皆さん、硬い鉄を置いて、どれがもっと強いかというとき、ぶつけてみれば分かるのです。どれが強いかが分かるのです。そこでは大きな音がして、侵犯、侵害する問題が起こるでしょう。強いものが勝つのです。一面強いものは、壊れるものもあるのです。壊れやすいのです。ですから、硬いだけではだめです。硬いものをもって、強いといいますが、強いというのは、硬くもありますが、丈夫だという観念もあるということを知るべきです。弾力がなければなりません。

 そのような鋼鉄になるべきです。皆さん、そのような人になることを望みませんか?(望みます)。そうであるべきです。統一教会の集団は、丈夫で強くあるべきです。自動車のスプリングを見てもそうです。いわば、硬いながらも弾力がなければならないのです。余裕もあり、能動的でもあり、推進力もなければならないのです。

 世界に知られた日本刀、正宗という有名な刀があります。それを作るとき、一度だけ火で焼いて、たたいて作るのではないのです。高熱で焼くと絶えずかすが出るのです。それをたたいて、絶えず落としてしまうのです。一度は高い熱に、一度は高くない熱に焼く作業をしながら、たたいて焼いて、またたたいて、また焼くのです。そうしながら、ただするのではなく、精神を投入するのです。明け方に精神を投入しながらたたくのです。「この刀は、いかなる敵も、いかなるものも打てば切れる」という、作る人の精神を投入するのです。そのように作った刀を、彼と同じ思想を持って使う場合には、何でも切れるのです。そういうものだと思いますか?(はい)。

 皆さんが 拳道(テッコンドウ)や空手をする人たちが、紙に棒を掛けて、バシッとたたくと、紙はそのままで、棒が折れるのを見たことがあるでしょう。先に習った人は、折っても残る所に立つのです。紙が切れるのには、時間がかかります。紙が切れる前に折ってしまうのです。ですから、作用する前にすでに終えてしまうのです。これは理論的です。論理的です。そのような人になりたくない人はいないでしょう? そうするには、皆さんも時間を投入して、訓練をたくさんすべきです。

 みなさんが、ボクシングやレスリングの世界チャンピオンを見るとき、その人がトレーニング(訓練)をどれほどしたかという、その訓練の時間と量をもって、その人がこれからどれほど続くか、どれほど実力を持つかが分かるのです。皆さんが空手のようなものをするときも、このようにして、ここだけ打ってもだめなのです。水平になるようにして、打たなければならないのです。同じ力が加えられれば、同じ力を受けるため、強く作用するということを考えるべきです。

 ピアノを弾くのも…。五本の指がたたく力、この指とこの指のたたく力は違いますが、それをどうやって同じようにたたくかというのが基本になるのです。そうしながら、たくさんの練習をすべきなのです。これはもっと強くなければならず、これは弱ければならないということを考え合わせて、それが全部科学的に自動的に動かなければならないのです。自分が練習して、訓練した基準がどんなものかを確実に知らずしては、名ピアニストになれないのです。

 皆さんは言葉を話しますが、その言葉を話すにおいて、ある基準を持っていないのです。「私は何を基準にしてこのように話す。この言葉はここで出発した言葉だ」という観念を持っているか? ただ、聞いて話し、ただそうなのです。そのような人たちは、平面的な人間にしかなれないのです。(六七・二一三)


三 成和大学生

1 成和は大きな名前

 今日の若い人たちは、これを知りませんでした。犠牲になる人は、必ず中心者になるのです。家庭において、孝行者はより犠牲になる人です。それゆえ、家庭の中心になるのです。国の愛国者は、より犠牲になるために、国の中心者になるのです。聖人の中でも、より犠牲になる聖人が、聖人の中の中心になるのです。これが真理であるために、この真理の道に厳粛に従い、すべての分野に和することができる人を作るべきだとして、「成和」であるのです。成和青年が何か分かりますか? 天と和し、人間と和し、万物と和することができる、そのような青年であるのです。このような青年が行く所には、新しい希望が芽生えるのです。新しい神様の希望が宿るのであり、神様の愛の力が加わるのです。このような、驚くべき事実を知って、どうぞ…。(一一三・三二六)

 成和という文字に、大学生を付ければ、それは「大」の字でしょう? どうして「大」の字ですか? これは、天と地のために祝福するための中心であるためであることを考えるべきです。皆さんは、原理研究会の学生として、革新をするための主体的な存在です。それゆえ皆さんは、大学生として、大学を蕩減すべきです。大学は今のような状態ではだめです。これでは祝福を受けらません。言うだけ言えば、みんなできるのですか? 祝福も時が合わなければなりません。

 では、学というのは何ですか? 知識のことでしょう? 何をするために習うのか? この頃の大学生は、とても露骨です。女の子たちに、なんのために大学に通うのかと聞くと「いい所にお嫁に行くためです」あるいは、「大臣の家の跡継ぎの嫁になりたい」と言います。そうではありません。このような風潮は、みんななくすべきです。勉強はだれのためにするのか? だれとも何ら関係がないのです。結局、自分自身のためにするのです。学校で一等になるのも、自分のためにするのであり、お嫁に行くのも自分のためにするのにもかかわらず、気分が悪いときなら「男のくせに」と、夫をにらみつけて、絶対にけんかに負けまいとします。夫が一言言えば、唇をブルブル震わせながら「私の知らないことがどこにあるのよ? 男だからといってみんな分かるの? 私は、力の弱い女として生まれたけれど、男に負けないくらい、うまくできるわ」と、言いながらどなり散らします。これではいけません。これは、自分自身のためであることにしかなりません。

 勉強するのも、真の男性に会い、真の母親になるためにするのだ、というべきです。母親になるためには、まず国のために勉強すべきであり、夫を真の夫として侍る、真の妻になるべきです。このような自分になれなければ、真の夫に侍ることもできず、真の息子を持つこともできないのです。女は、真の妻になり、一つの家庭を主婦として、夫と百年偕老(夫婦が年を取るまで仲良く連れ添うこと)すべきです。

 いい所にお嫁に行くために勉強するなら、大学出身者は、夫婦がみんな百年偕老すべきでしょう? しかし、百年偕老する人が多いですか、離婚する人が多いですか? 調べるまでもないことです。字を一字も知らない者たちが、もっと長生きするのです。このような意味で、成和というのは、大きな名前です。(二五・一〇九)


2 成和大学生が持つべき基準

 今、大学街が滅んでいく理由は、アダム・エバが十代、すなわち青少年期に堕落したように、堕落しているためです。今はそのときの収穫期、すなわち秋のような時です。それで、世界的に堕落しているのです。先生はそれをみんな復帰しようとするのです。天理法度に従って、収拾しようというのです。分かりますか?(はい)。それゆえ、男はむやみに女の手を握ってはいけません。(二五・二〇二)

 皆さんは、大学街の若者として、押し流されたり、始末に負えないごみのような連中にはならないでください。じっと座っても、環境が無視できない群れになるべきです。(二五・一六九)

 一時期は、十時を過ぎれば、青少年は家に帰れ、とラジオで放送したでしょう? 大学生ならば、大学生として、その国の未来の中枢を担って率いていく人物になるためには、それに対する基準がなければなりません。それを中心として、行ったり来たりすべきなのです。皆さんが、原理原則を中心として、逃れれば悪の側ですか、善の側ですか? 蕩減路程で習ったでしょう? これは、悪の包みです。ここには、サタンが来るのです。先生は「サタンは買って(韓国語:サソ)乗る(韓国語:タダの連体形タン)からサタンだ」と思います。このような実感のこもった言葉が必要です。ところで、だれが買うのか? 自分たちが買うのです。皆さんが買った者たちなのに、頭を引っ張って上がっていくとは何ですか?(二五・二七〇)

 今、成和大学生たちは、学校を卒業すれば行く道がはっきり決まっています。ですから、違うことを考えてはいけないのです。皆さんが、目、鼻、手などの体と、心を全部いいかげんにしてはいけません。一生を懸けてこの国を救うのに先陣に立ち、この世界にたいまつを掲げて立ち上がるべきです。ここから新しい歴史が始まるのです。(二五・二〇七)

 知識層の若い学生男女が一つとなり、この民族の前に立つべきです。そのようになれば、この民族は瞬く間に復帰されるでしょう。

 大学に通う皆さんも、すべて将来祝福を受けるべきです。原理的見解により、皆さんが行くべき指標がはっきりしました。この道を皆さんは、昔の先生の兄や弟の立場で、行くべきなのです。分かりましたか? イエス様が青春時代に民族と祖国に対し抱いていた、胸の痛む恨を解くべきです。皆さんは、イエス様が一人寂しく追われ追われて、荷物を包んだ、そのもの悲しい事情を踏み越えるべきです。そうして、サタンとの闘いの場で、陣を構え、君臨できなければなりません。これが蕩減解怨成就の規則なのです。

 反対すれば、反対する人たちが滅びるのであって、反対される皆さんは滅びません。先生だけ信じていけば、皆さんは押し出されません。三年だけ克服してください。(二五・二一四)


3 卒業後、就職よりみ旨の道が重要

 皆さん、「私」という存在を考えてみましょう。私なら私、皆さんなら皆さん自体を静かに考えてみましょう。「私」という存在が生まれましたが、この「私」という存在自体は、どこから来たのか? 曲折が多いことでしょう。考えてみてください。静かに座って考えてみるのです。「私」という存在がどこから来たか? 二〇代、すなわち、青年期にある自分は、過去から今までどのように歩んできたのか? 幼稚園から、国民学校から、中・高等学校を経て、大学まで来ましたが、今自分は、ここからどこへ行こうとしているのか? 現時点から見るとき、どこから来て、どこへ行くという過程があります。この過程は、人生において、どの道経なければならない過程です。(一五六・二五六)

 今日、世の中の人たちは、何を見つめているのか? 大学を卒業した大卒者、彼らは月給をたくさんくれる会社や銀行に就職しようとします。最終的に見つめているのがそれです。それで、食いぶちの土台を築いた次に、素敵な女に会って、息子娘を産んで暮らせばいいじゃないか、といいます。そのように暮らして、何になりますか? 世界人類とか、何とかということは、眼中にもありません。(二五・二六三)

 皆さん、大学を卒業したら、何をしますか? いくら稼ぐ月給取りになりますか? それは、鼻をかむほどにもならない、つまらないことです。そう、月給取りになって、その金に心を奪われ、僕の野郎になるのですか? 月給取りになろうという人、手を挙げてみなさい。ならば、ならないという人は、手を挙げてみなさい。これは何ですか? こうでもなく、ああでもないなら、何をするのですか? 月給取りにならないなら、何をするのですか? 月給取りになるまいとするなら、主人になるべきではないですか? 主人にならなければなりません。(二五・一六七)

 近頃の若いやつは、よく見ると「就職、就職。何万ウォン就職。ああ、み旨が何だ、就職だ」と言うけれど…。彼らは、相手になる存在にもなれません。何、自分の就職のためにみ旨の道を行けないとかいう人は、そんな人は人の側にも入れないのです。それ、入れると思いますか? さあ皆さん、考えてみなさい。人の側に入れますか、入れませんか?(入れません)。それ、何、名前を付けるなら、何と言うか…。気分が悪いですか、いいですか? 気分が悪くてもしょうがないでしょう。「これは気分が悪い」と言うでしょうが、気分が悪くなければなりません。(六二・二〇五)

 皆さんは、すべて青年です。今大部分の世の中の青年たちは、特に大学生たちは、自分自身を中心として、自分の国でどのように出世するか、または、自分の幸福な人生をどのように成すか、という問題を抱えて腐心しています。しかし、統一教会の若者たちは、そうであってはなりません。自分自身だけの幸福を考えるよりは、もっと次元の高い倫理観に立脚し、民族のため、世界のため考えるべきです。そのように、次元が高く、広い視野の幸福観を実践できなければなりません。皆さんは、このような中心的な使命意識を持つべきであることを、原理を通じてよく知っていることと思います。(二五・七九)


四 知識と学問に対する姿勢

1 知識と生命

 知識と生命の価値を考えるとき、これら互いにが対等でありえますか? 皆さんは、学士、博士になるため、生命を犠牲にしますか? 生命を学士、博士と替えますか、替えませんか?(替えません)。ならば、農村に住む人でも生命の価値を知っている人と、いくら、学士、博士でも、生命の価値を知らずに生きる人を比べるとき、どちらが価値のある人ですか?(生命の価値を知っている人です)。それゆえ、生命と知識は比較にならないのです。(四一・一七六)

 聖人は、何をもってタッチ(touch)したのか? 聖人がタッチしたその内容は、知識ではありません。より価値のある生命、より甲斐のある生命を中心として、その生命が国家的でなく、世界的な宇宙を主管できる超環境的な生命の価値を描きながら、それを実践し、その周囲環境の中でその生命が覆され、世界的な国家を望みながら死んでいったとすれば、彼は聖人であるのです。

 それゆえ、ソクラテスは聖人の側に入れません。今日の思潮は何が動かすのか? 哲学が動かします。しかし、哲学は生命と関係があるのではありません。皆さんはそれを知るべきです。哲学は、生命を左右できる根元的な立場にはなれないのです。生命の対象的な立場に立つことのできる知識の根源にはなりますが、生命の内容自体を決定できないのです。それゆえ、哲学は生命を救えないという結論が出てくるのです。

 聖人たちは、哲学者ではありません。聖人たちを分析してみるとき、彼らは何をもって生きたのか? 何らかの戦法をもって生きたのではありません。もちろん、知識を教えてくれるべきではあったでしょう。人生の道理の一面を教えてくれはしましたが、それは何を中心として教えてくれたのか? 世の中を占領するための戦略的なことを教えてくれたのか? 彼らが教えた内容は違います。全部違うのです。

 知識は知れば知るほど占領していくのです。今日の西洋哲学というものは、占領的な哲学です。知れば知るほど占領していくのです。多く知れば知るほど、自分を越えて、その版図を世界化させようとするのです。何を中心として? 世界を中心に、自分を中心に?

 世界のための道に従って進むとはいいますが、だれを中心とするかといえば、どこまでも自分自体を中心とするのです。自分が中心だというのです。哲学は人生の生命問題を根本的に解決できないため、対象的な価値には属するかもしれませんが、根本的な決定要因にはなれないのです。聖人たちはそのようなことを知っていたため、何を追求したか? 知識を探求するにはするが、平面的なものだけではなく、一般的なことだけではなく、両面的な面で探求しようとしました。それゆえ、聖人の道理は必ず何が中心となっているか? 自分が中心になっていません。分かりますか? ところで、哲学は、何が中心になっているか?「学」ではありますが、その「学」を主張する人を中心としているのです。これが問題です。聖人は主張はしますが、主張するその人が中心ではないのです。これが違います。

 哲学というのは、主張する人がいつでも問題になるのです。マルクス主義であれば、マルクス主義を主張した人が、主導的な役割をするのです。その思想圏内に全部融合させるために、世界に発展させて出てくるのです。その中心がだれかといえば、人間であるのです。人間を中心とした環境的な内容を結束させるにおいて、内在的な作用をするのが今日の哲学思潮であるのです。(四〇・三三〇)

 人間は何より貴い生命を宿しています。しかし、この生命を動かし、この生命に衝撃を与える力の対象体として生きない限り、私たちはその力の相対的世界であるこの世界で、安息できません。それで人間は、自分の生命以上の絶対的な生命体と因縁を結ぼうとするのです。これは必然的なことなのです。このみ旨は、人間のものではないでしょうし、このみ旨の責任者も、人間ではないでしょう。それでこのようなみ旨を立てて、摂理してこられた方に絶対者であるとか、神様であるとかいう名詞を付与せざるをえないのです。

 歴史的な終末時期であるこの時を生きていく人は、知識が多ければ多いほど、悩みが大きいことを皆さんは知っています。その悩みが自身の生命力を支配し、生命が安息できる福地を開拓できないようにすることもまた、だれもがよく知っています。このような時において、必然的に要求されることは、絶対者による生命の安息所です。これをだれそれなく要求しているものであり、民族を越えて、東西の文化を越え、すべての人が必要としていることを私たちは知るべきです。

 このような見地から、私たちは、絶対者と因縁を結べるその何かを慕っているという事実が分かります。多くの知識を持ち、人格修養をした人であるほど、意識を通して認識する感覚が、鋭敏であれば鋭敏な者であるほど、自分が知っている専門分野だけでは、生命の安息所が開拓できないことをよく知っています。(九・三〇六)

 皆さんは、何の大学に行き、博士になって、何になって、と騒ぎますが、鉢巻をして、ご飯もよく食べられず、遊ぶこともできずにですね、休みもせず、夜を明かしながら勉強して博士の学位を取ったのです。そして、ノーベル賞受賞者になったといって、世の中で立派な人だといいますが、彼自身をよく見ると、悲惨なことが多いのです。同じなのです、同じ。いくらノーベル賞受賞者になり、知識があるとしても、それは狭い専門分野です、狭い専門分野。この広い世の中で、小さな穴を開けて、その分野について知って、この囲いの中でこうしているのです。世の中を見て、全体を見るとき、自分は極めて小さなものです。何かを知って誇りますが、極めて小さいことを知ったのです。

 さあ、それを考えるとき、知るということ、知識が人間に幸福をもたらし、安逸をもたらすか? そうではないのです、知識は。勉強すれば、勉強するほど、分からないことがもっと多いということが分かるのです。もっと多くのことを知るようになるのです。

 このようにして、学校に入って、有名な教授になってみなさい。毎日のようにチョークでもつかんで、何かを書いて、何かを任されて…。こうして一生を過ごすと考えてみなさい。チョークの粉を吸いながら、大声を上げても、その分野で声を大にするのであって、世界に何の影響を及ぼすとか、いっぺんに世界がどうにかなるとか、そのようなことは一つも分からないのです。一つのみ旨だとか何とか、考える余地がないのです。知らない人より、もっと知らないのです。より深く入っているから…。

 さあ、そのようなことを考えてみるとき、知識があるといっても、一生の間ただ本の虫として…。自分に対して自信を持つのでなく、ただいいもの、だれかがその分野で一言言えば、それをかき集めてまた比較、研究し…。それはたまらないのです。ですから、自分が主張したのが希薄なのです。自信がないのです。また、有名な学者になれたら、それが何ですか? そこに自分の生命を投入して、自分の全体を投入するには、あまりにも惜しいのです。(九八・八四)

 私たちが、あの人は優れている、というとき、知識をもって優れたといいますか? 性格が優れているべきでしょう。本当に優れており、良い人と名前がつくためには、その人の本性と生命の形が天性的に優れていなければならないのです。知識などあってもなくても、心が優れているべきです。(三九・三一五)

 皆さんが、金持ちになって、偉大な学者になろうとするのは、そのセンターに行って全部尊敬されるためであって、あの遠い国へ行って尊敬されるためではないではないですか?(一二八・一九八)


2 知識と心情

 知識が多くて何がどうだという、そのようなことを先生は考えません。心情が問題です。知識で主管するようになっていますか? 権力で、権威意識をもって「私が長である」と言ってはなりません。心情をもって主管するのです。心情はこの宇宙の中心であるがため、自分が心情的因縁を結べば、先生と一つになろうというようになれば、先生と同参することのできる権限が生まれ、同意圏が立つのです。それが九〇度に立てばこそ効果が生まれるため、そこから外れてはいけません。角度が合わなければ、いくらやっても無駄なのです。(一七一・二〇)

 歴史は私たち人間をして、知識を通じ、外的な幸福の基礎を築くようにしたり、宗教と倫理と道徳を立てて、社会的秩序の基準を持つようにしたけれど、人間だけが意志疎通できる心情的秩序は立てられなかったのです。それを知るべきです。心情的な秩序は立てられなかったのです。神様がいるというからには、その神様は、何をすべきなのでしょうか? 外的環境は整ったので、人間の前に外的に許された祝福の基準は、復帰されたので、今世界的に心情的因縁を持った形態が現れなければなりません。それで、心情的因縁を中心とした世界を備えるために来られる方が再臨主である、ということを知るべきです。

 そのため、今まで世界は知識革命をしてきたし、社会組織革命をしてきました。この上に良心の基準を越えた心情の革命まで起こそうとしています。心情革命を完結させようというならば、私たちが堕落によって失った神様と、堕落していない真の御父母に侍り、真の息子・娘になるべきです。神様、真の父母、真の息子・娘、この三者が失ってしまった一つの基準を中心として出会うことができてこそ、心情革命が完結するのです。そのようにできる時が、終わりの日なのです。皆さん、これをはっきりと知るべきです、はっきりと。(九・六〇)


3 神様は知識を勧告しなかった

 堕落とは何でしょう? 神様との心情的因縁を裏切ったことです。神様が願われる良心の基準を完成できず裏切ったのが堕落なのです。神様の理念を立てられずに裏切ったのが堕落ということです。焦点は、神様の心情基準を失ってしまったことです。

 それで、天は人間を探し求めてこられます。来られるときには「お前たちの体を愛せ。学問や知識を愛せ」とは言われませんでした。「神様の愛を求めて立ち上がれ」と言われました。これが今まで神様が悟りの道を立ててこられた基準です。(一〇・九八)

 神様が立てられたイエス様が、み旨を成すことができずに行かれたその日から、すべての王、メシアの再臨を約束されました。そのような主人公が来られるには、何を持って来られるのか? 人間の望み、歴史の望み、時代の望み、すべての天宙の望みである、心情の福地を持って訪ねてこられるのです。それで、天は私たちに勧告されました。知識を持てと勧告されませんでした。権勢を振るえと勧告されませんでした。死んでも、生きても新婦の志操を持って身を整えろと勧告されました。(九・五六)

 神様に必要なことは何か? 神様にはお金も必要でないし、その次に知識も必要ありません。神様に何の知識が必要ですか? 自分が神様の前に行って「私は知識が多く、博物学者です」と言うとき、神様は何と言われるでしょうか? 「立派であるな」と言われるでしょうか、「意地汚い」と言われるでしょうか? 誇れる内容は、何もないのです。神様は真理の王です。知識の王です。また、「私はある国で大統領をしてきました」と言えば「このやろう!」と言われるのです。神様の前に、自分の権力を中心として、大統領の権限を知ってくれといっても、それは神様がいつも持っているのです。神様に必要なのは何か? お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、必要なのは愛であるのです。(一八七・四四)

 知識、知識がそうではないですか? 学説が全部変わっていけば、絶えずそこに飛びついていくではないですか? それに従っていくのです。一方向性です。回らないのです。知識、力、その次には,お金、経済…。経済というのは消耗するのです。経済というのは、お金というものは、必ず使うようになっているのです。お金がなぜ必要なのかといえば、私たちがそれを消耗させるためです。それを中心として、万物の代わりとなりうる消耗材料を必要とするのです。

 消耗したものは、どこへ行くか? 消耗して、それが回るのではありません。それも一方向性です。回らないのです。しかし、これらの力の中で、回りうる一つの力は何か? 愛の力は回るのです。その愛は一人で回ることはできないのです。(一八〇・一四四)


4 専門家になるには

 学問なら学問を中心として考えるとき、ある分野の権威ある地位に進むためには、その分野について、専門的な過程を履修しなければなりません。事業もやはり、その分野で専門的な過程を経なければ、大きな成功を収めることはできないのです。国家も同様に、一つの政策を遂行するためには、その分野の専門要員たちが知識を統合しなければなりません。そうしなければ、その国家の政策遂行は不可能であるということを、私たちは知っています。

 このような観点から見るとき、神様が復帰摂理という問題を解くにおいても、ここに必ず神様が願われる専門家が必要であるということは、言うまでもないことです。私たち統一教会を中心として考えるときにも、私たちが行く道には、必ず専門家がいなければなりません。

 では、私たちが専門家になるためには、まずどんな精神を持つべきか? 自分が目的とする分野に、全身全霊を傾けなければなりません。自分のすべての生命力を投入して、すべての精誠を注ぎ込むべきなのです。聖書にも「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛せよ」と言いました。すなわち、愛するにおいては、全身全霊を尽くして愛さなければなりません。心情が一致せずには、愛の専門家になれないということです。(二九・八〇)

 以前にある大学に通う学生を通して、学者たちは自分の専攻分野の資料を収集するために回っていたのですが、世界的な資料、もう少し有益な資料がどこかにあるといえば、それを求めるために、自分の威信がどうなるか考えもせず、ありったけの力を尽くして、必死に走り回る、という話しを聞きました。自分の専門分野のためには、自分の持っている財産を全部はたいてでも、その資料を求めようとするのが、学者たちの心というものです。生命を懸けて自分の専門分野について研究する立場にある人であるほど、惜しいものはないのです。(一二・一九九)

 専門家になるためには、その内容を深く掘り下げなければならないのです。そのようなことを正しく教えるためには、それが必要なのです。しなくてもいいのですが、習わなくてもいいのですが、深いところまで行こうとするには、それを訪ね入って知るべきです。それでこそ指導者になりうるのです。(六七・二三一)

 世の中には、有名なバスケットボールの選手、サッカーの選手、フットボールの選手がいますが、その選手たちは、そのままそのようにその国のチャンピオンになるのですか? そのチャンピオンは、何かといえば、専門家です。最高の専門家なのです。では、専門家がただ座って「私は専門家になる」と言って、なりますか? 同じことを十回、百回、千回。万回…。その数をたくさんすればするほど専門家になるのです。(八一・一三五)


5 絶対価値を中心として収拾すべき

 世の中の人たちの中には、専門家の人格、部分品の人格がたくさんあります。そうして、博士だといって自慢していたのが、この頃では厳しくなって大したことはありません。博士で世界の問題が解決できないのです。

 それゆえ、先生は、絶対価値を中心として、アイカス(ICUS国際科学統一会議)を指導する場があるではないですか? 博士たちを招いて回りながら指導するのです。ノーベル賞受賞者、ヨーロッパでどうの、アメリカでどうのという、優秀な者たちを引き連れて回る機関車が先生ではないですか? いくら声を大にしても、部分品工場の専門委員にしかなれません。専門委員だとか、マネージャーだとかいって…。

 ですから、部分品工場でなく、組立工場に行くべきです。では、統一教会は、何をするところか? 部分品工場になって部分品を作る所ですか、組立工場になって完成品を作る所ですか?(完成品を作る所です)。完成品を作る所でしょう。それゆえ、統一教会の工程は、通過していくのがたやすいですか、難しいですか?(難しいです)。どれだけ複雑ですか? 統一教会は、やらないことがないでしょう?

 アメリカ人たちが、私の悪口を言うとき、レバレンド・ムーンは産業経営者だとか、福音伝道師だとか、ビジネスマンだとか、宗教指導者だとか、科学者だとか、ああだこうだとありとあらゆることをみんないいます。このやろう! そうじゃありません。私が何の工場主か? 全体を組み立てて、完成品を作る工場主がレバレンド・ムーンです。気分が悪いでしょう?(気分がいいです)。

 では、その原本はどこにありますか? 組み立てるその原本が、どこにありますか? 青写真というものです。原製作図がどこにありますか? それはレバレンド・ムーンによる原本か、神様による原本か? それが問題です。レバレンド・ムーンによる原本なら、それは偽物です。いくらうまくできていても、人間によるものは偽物です。しかし、神様によるものならば、本物でありうるのです。本物は、まだできていません。本物でありえます。

 本物であるかないかは、食べてみれば分かります。食べてみれば、千年前の本心が口をパッと開けて「もっとくれ。どんどん入れてくれ」と言うのです。行くなといっても「私は食べたい」と言いながら、絶えず引かれていくのです。統一教会は、そのような威厳があります。これが問題です。一度味を知ったら、首が取れても、足が逃げていっても、首はそこに永遠についていようとします。そう、この老いぼれたち、来る度に私が毎回のように悪口を言っても、悪口を言われた跡がありません。たたいてあざになっても、痛いといわずに、いいといいます。いいといいます。だから、それはあやしいのです。何がそうさせるのですか? 手段方法で? 文先生は才能が多いから? 言葉がうまいから? 言葉がうまいのは、飴売りが私よりもっとうまいのです。それは何ですか? 一度味を見たら、舌がくっついて、はまりこんだらやめられないのです。(一七二・三五)

 皆さん、思想戦に負けますか? 負けますか、負けませんか?(負けません)。すでに実験は済みました。全世界の学者の中で、これからは、レバレンド・ムーンのゴッディズムの時代であると提唱する学者たちが多くなるのです。今から、アカデミーは、統一思想から統一教会の原理を知らない人は、議長団から除去するようにしました。一九八八年まで、頂上に昇ったすべての学者世界に、私が今絶対価値を中心として論駁する、このような巡回要員の立場にはならないでしょう。私たちの要員たちを配置して、しんらつに批判するでしょう。「社会科学から自然科学、哲学、宗教分野で、全部しんらつに批判してたたき直せ」と言いました。今年からそのような指示をしました。今や私が手を着けるべき時なのです。それで、学界の巨星たちは、思想的な方向を正してやるべきです。分かりますか? 思想戦には負けてはならぬチャンピオン、先頭に立った人が先生だということを忘れてはなりません。分かりますか?(一三八・六〇)

 見なさい。今までレバレンド・ムーンの言うことを聞いた人たちは、立派な…。ここにも博士のかけらたちが来ているでしょう。かけらといって申し訳ありませんが、かけらが何、物理学のかけらとか、哲学のかけらでしょう。かけらというのは、一部分をいうのです。何だ、優秀だからと、統一教会に来ては、出ていって「ははあ、文なにがしがあんなふうにしたら滅びるさ。まあ、獄中生活をして、統一教会がなくなるさ。あんなふうにして、だれがついていくか?」と言うのです。しかしながら、みんなついてこなくても、私はついていくのです。私はついていきます。そうして、結局見たら、この頃になって、私が彼らよりも栄えた位置に立っており、彼らは全部片隅に立っていたというのです。(一三二・二三三)


6 若者が知るべきこと

 私たちを知らない人が、私たちに会えば「おまえはだれか?」と尋ねます。先生も皆さんに同じ言葉で尋ねたいです。神様も同じ質問をなさるでしょう。神様が喜ばれる答えは「私は青年です」と言うことです。個人においてもいちばんいい時は、青年の時です。(一一・一一七)

 数多くの宗教は、何千年、あるいは何百年間現れては、この時代的な思潮の前に押されていく傾向を見せています。キリスト教も今まで、数千年間現れてきましたが、未来のひとときを賭けて、もう一度越えるべき運命に置かれています。ここにもし骨髄からにじみ出た、神様の競技コースがあるとすると、そのコースは歴史的なコースであり、時代的なコースであり、未来的なコースであるため、私たちはここに対する知識がなければなりません。それゆえ、このときにある新しい真理があるとするならば、その真理はこの時代的なものであってはなりません。皆さん、青年たちは、はっきりと知るべきです。時代性だけを身につけては絶対にいけません。何主義、何思想があったとしても、一時代のひとときに合うものなら、その主義と思想は過ぎ去ってしまうのです。連綿とした歴史の背景を持ち、この時代の思潮を通じ越えられる理念、新しい主義が必要なのです。(七・一三九)

 今日、この時代は、どのような時代なのか? 善と悪が交差する時代であり、善に合流していく時代です。このような時代に処している私たちは、どのようになるのか? 善悪が交差し、合流した後には、どのような世界になるのか? この世界が流れていけば、どのような世界がやって来るのか? 気がかりな問題です。今日、志を持った青年男女がいるとするならば、足を止めて、天があることを知るべきであり、地にある万物の願いを知るべきであり、その願いの爆発地が交差点に止まっているこの世界でなく、正に自分たちであることを悟べきです。(六・一一二)

 若い人たちは善悪の基準を確実に知らなくてはいけません、これを確実に知るべきです。(七〇・七三)

 若者たち、皆さんは善悪の岐路に立っているため、一歩でも間違えて行けば、それは千尋万尋の死の底に歩み入るのです。苦しくても一歩一歩踏みしめて上がるようになるときには、光る明日の願いの山の峰を越えて、希望の原野を臨むことのできる、勝利の王者になりうるのです。一歩に注意すべきなのです。一つの視線を注意すべきなのです。皆さんは、勉強するにおいて、一ページの本を読むときには、この一ページを自分が全部納得することによって、一つの単語をキャッチ(catch:つかむ)して、よく理解しておくことによって、これからの国の悲運の歴史をより分けられるようになる基盤が、この一つの単語にあることを感じる、そのような立場で勉強する人になるべきです。そうすれば、その勉強は、国のための勉強になるのです。

 私が一ページの本を見ても、神様の摂理のみ旨が見いだすことができると考え、そのような深刻な立場でその一ページの本を通読した人は、神様が必要とするもののために準備していく人に間違いないので、神様はそのような人を選んで使われるのです。しかし、適当にあやふやに、ただこうでも良く、ああでも良く、何にでも調子を合わせて無節操に踊るそのような人は、その国の主人にはなれないのです。席もわきまえず、女たちとくっついて踊り、男たちと踊ったりするけれど、それではいけません。道が違うのです。統一教会の行く道は、道が違うということを知るべきです。

 私たちは、善の道を行かなければならないために、生死の分岐路、善悪の分岐路、あるいは、興亡盛衰の分岐路が皆さんの前にありますが、そこにいかりの綱を掛けるようにしてはくれなかったのです。では、それをだれが支えていくべきか? 自分が引いて行くべきなのです。「こいつ、いかりの綱め」と言いつつ、自分が引いていくべきです。「善のいかりよ、昇っていこう、昇っていこう。個人を越え、家庭を越え、氏族を越え、民族を越え、天まで昇っていこう」そう言うべきです。こうして昇っていくのです。分かりますか?

 このような原則に従って、特に若者たちは、善悪の基準がこうであるということを確実に知って、明日の勝利者となって、栄えある祖国光復を越え、世界天国が開門する幸福の一日を迎えるべきです。そうして、勝利の王者として、王女として、神様の愛を受けるだけでなく、万国に代わってこの方を手本にしろといえるように褒めたたえられる皆さんになるべきです。(五九・二一四)

 統一教会の青年たち、私たちは故郷の地を奪還しなければなりません。統一教会を信じるのは、本郷の父母を奪還するためであり、本郷の家庭と氏族と民族と国と世界を奪還するためです。分かるでしょう? そうするためには、失ったものを復帰していかなければなりません。(二一・一五九)


五 成和青年の姿勢

1 内的自我の確立

 皆さんにいちばん重要なことは何かというと、神様と父母様と自分が、いつも一致すべきだということです。もし、離脱するならば、度々事故が起こるのです。ここから離脱したときには、み旨のためにするといったとしても、そのことによって、自分でも知らずに逆賊になるのです。初めから逆賊になろうと考えた人はいないでしょう。よくやるといったのが、結局はそのようになるのです。

 それゆえ、ここにいる皆さんは、三者の一致点を探し求めるべきです。責任を完遂するにおいては、これがいちばん重要で起点であるという事実を皆さんは知るべきです。神様と父母様と内的に一致できる基盤は心情です。(二四・一三二)

 内的な教会生活において、神様から公認を受けうる立場に立てない人は、外的な社会生活において、神様に代わって生活することはできません。(二二・三六)

 皆さんは、自分の進んでいる方向が違ったとしても、その目的基準に対する徹頭徹尾の思想だけは持っているべきです。そのような心さえ持っているなら、だれも侵犯できないのです。(三四・二四)

 統一教会の先生が指導する方法は何か? 神様のために今まで何をしてきたか? それはすなわち「歴史の主流に接しろ」ということです。(二一・一〇九)


2 決心した以上押し通せ

 原理を知る人は一生を生きる中で、二一歳のときは三×七=二一であるため、「この一年だけは、三六五日私が計画した通り、間違いなくやる」と決心します。そうして、正月一日「天地神明よ! このなにがしという男を見てくださいませ。二一歳を迎えたこの年の三六五日だけは、私が計画した通りに致します」と宣誓し、誓って出発したとしましょう。それで、その日の朝には、深刻に目をむき、へそに力を入れて大騒ぎしますが、一日を暮らしてみると、そのような気分はどこかへ行ってしまうのです。失ってしまうのが当たり前なのです。目をむいて下っ腹に力を入れて決心したら、それ以上の力を入れて目をむく深刻な立場に立たなければ、決心したことを成せないのが、私たちの生活の周辺の現象です。そうですか、違いますか?(そうです)。決心した以上押し通すべきです。

 発動機が回るのにおいて、もっと早く、もっと力強く回すには、だんだんだんだん力が強くならなければならないのであって、少なくなってはいけません。そうでしょう? それでこそ、発動機が正常に回るのです。これと同じ道理です。そうではないですか?

 ですから、毎日、朝や昼や夜に、あるいは、一週間、二週間、三週間、四週間、あるいは、ひと月、ふた月、半年、一年、三六〇日を進むほど、出発したときに固く決心したそれ以上の気迫を持たなければなりません。その気迫が弱くなって、目的を達成できますか? 最初より少しでも弱くなって、その目的を達成できますか、できませんか?(できません)。できないのです。三六五日、このような決意をして、最初の日に決意したそれ以上の決意をプラスさせて、それ以上の迫力を加える自分になってこそ、三六五日を過ごした後「やあ! 二一歳になる今年は、本当に素晴らしく幸福な、記念すべき年だった」そう言えるのであって、決心を少しでも低くする場合には、どのようになりますか? 上がりますか、落ちますか?(落ちます)。落ちるようになっているのです。一つの目はこうなって、もう一つの目はこうなって落ちます。

 一年間、暮らすにおいては、皆さんが目をむいて誓っても、それに合わせるか、合わせられないか分からないのが、堕落した人間の人生なのです。そうではないですか、そうですか? そうであるでしょうか、違うでしょうか?(そうです)。(五七・一四一)


3 外的姿勢

 私たち青年男女は、今日の現実の教会に対して、教派主義に対して、まず半期を翻して立ち上がるべきであり、平信徒の団結を叫ぶべきです。時代の思潮は、これを要求しているということを皆さんは知るべきです。昔には、ある主権者や帝王、あるいは君主たちが、神様に代わって成り済ましていました。そうだといって、その人たちは、神様ですか? その人たちだけ神様に成り済ますべきですか? 違います。そうではありません。万民が神様の血肉を受けた息子・娘である故に、だれもが天の息子・娘であるのです。(六・三一一)

 今日、この民族を抱えようという青年がいますか? 民族が進んでいく道を開拓し、ある目的地に接近させてやろうとする使命を持ち、それに対する責任を感じる人がいますか? そのような人がいるとすれば、彼はこの民族のあえぐ実情を見て、イエス様が天に対して訴えながら流された涙が、その民族を助け、今日まで、歴史的因縁をつないできたという事実を知り、イエス様のようにこの民族のために、天に対して訴えるべきでしょう。

 今日、歴史的な思潮もそうですが、これからの民族の展望もそうです。天理的な一時を望んでいる人類であることを否定できないからには、そのような過程であえいでいる私たちであるということを知るべきでしょう。それゆえ、自分が進む人生行路で、自信を持つことができなければなりません。これがなくてはならないのです。(七・三二)

 さあ、統一教会の青年たちよ、統一教会は何をするのですか?「神様と人類が一つになってみよう」と言う連中なのです。その連中に間違いないのです。事実でしょう?「神様、私たちの所に来てくださいませ」と言うのですか、「私たちが神様の前に行きます」と言いますか? どちらですか?(私たちが神様の前に行くといいます)。そこに一般の既成教会と統一教会が違う点があるということを知るべきなのです。(八七・一三)

 この国の悲惨な姿を見て、山に登ったり、岩をたたきながら「岩よ、お前がこの民族の悲惨な姿を見るのを願ったのか」と、慟哭する青年がいるか? いないなら、この国は決して悲惨の中から抜け出すことはできないでしょう。(一四・一五五)

 統一教会の青年は、何でもするという心がなければなりません。(一一・一〇)

 皆さんが優れている、劣っているとか、ある事実をよく知っている、知らないが問題ではありません。自分がどこから習い、どこで知って、どこで動じ静じ熱意を尽くすか、というのが問題です。これがこれから、皆さんの全体を左右するのです。(二五・九五)

 年を多く取った人より、若者、若い青年たち、情熱と気迫にあふれる若者たちが必要です。(一四・一七〇)

 何でも大きいことをするためには、基礎がしっかりしていなければなりません。今日、若者たちが取るべき態度は、どんなものか? 皆さんは機関車になるのか、客車になるのか? もちろん、機関車になるべきです。ところで、私たちは今、客車のいちばん後ろにくっついて、車輪を逆に回しながら引っ張られている実情です。

 力がなければ、空いた車でも回して、この峠を越えなければなりません。私たちは、機関車を引いていかなければならないのです。

 私たちは力のある統一の群れになるべきです。動かなければならないという衝動が、百パーセント体にしみ込んでいなければなりません。どこまでも、力にぶつかろうとする動的な衝動が皆さんに必要なのです。

 何よりも、若者たちが知るべきことは、自分がどこからどこへ向かっているかという問題です。今日を生きていく自分は、どのような姿勢が必要なのかを知るべきです。(一四・一〇四)

 統一教会の若者として、完全な生活方法は何か? 一線に立ち、激しい嵐が吹きつけても、それを貫いていくのであり、また、すべての十字架の途上においても、歯を食いしばって前進するのです。このように、神様が願う道を行くことが正道なのです。そのような境遇で、悲しみを感じたことのない人は、説明では通じません。そのような境遇で、涙を流しながら「お父様!」と言うとき、歴史的な十字架を背負ったお父様の苦労が分かるようになり、また、お父様の前に真の孝行者になれなかったことが、神様の恨であるということが分かるようになります。神様が「よし、このような境遇で、真の孝行者になりうる息子・娘に会うのが私の願いだったが、おお! なにがしよ、ありがたい」と言うとき、そこから初めて孝行息子・娘、忠臣、烈女の位置が決定されるのです。(一五・三一九)


六 青年に施された祈祷

 お父様、青年時代を美しく装わせてくださいませ。そうして、あなたに因縁を持ったこの者たちの行く道を守ってくださり、その環境の基盤を中心として育つことができるようにしてくださいませ。この者たちを真の芽になるようにしてくださり、この民族とこの国とこの世界の前において、すべての人類が眺めることができ、すべての人類を抱くことのできる、新たな命の木となるようにしてくださり、新しい花を咲かせ、実を結び、万国にまいても余りうる私たちとなりますよう、導きくださることを切にお願い申しあげます。(三三・三四六)

 若い時代の一つに生命は、必ず時代とともに流れていきます。だれもがそのように流れていくように、私たちもそのままそのように流れていってしまう人になってはいけません。流れていく歴史に逆行し、流れていく社会環境に逆行してでも、お父様の心情を奉り、お父様の心に喜びの心情を積み重ねる肥料となって、敷石にならなければなりません。そうすることのできる自分たちになることを切にお願い申しあげます。

 各所に広がっていた成和の若者たちが、ここに集まりました。あなたは、この者たちと因縁を結びたい切なる心がおありでしょうか? あなたは、いつも私たちとともに天情の因縁の中で脈が共に通じ、そこに共に臨めることを待ち望まれる心が、大きなものであることを知っております。しかし、私たちは、その限界の基準を越え、あなたの心情に涙することのできる息子・娘になるには、あまりにも足りないのでございます。

 お父様が願われるものが、どれほど大きいかを考えるとき、私たちは、果たしてお父様のみ前に適当であるかを振り返らなければなりません。取るに足らない、不肖な姿をえり分けられないお父様のみ前に、限りなく涙を流せる心を持つようにしてくださり、みすぼらしく哀れな姿でございますが、お父様の理念を永遠に私たちの胸に抱くことができる、そのような姿になるようにしてくださいませ。(二五・一三〇)

 人生は、流れていく歳月とともに、瞬く間に過ぎていくことを悟るようにしてくださり、旅人の人生行路も訪ね来るということを、私たちが忘れ去ることのないように、お導きくださいませ。

 朝、太陽が東から昇るときは、すべての万物が歓喜し、その光が充満していますが、何時間かの内に、夕陽のはかない影とともに、その光が姿を隠すのを知るようになるのでございます。

 同じように、今日、この青春時代のすべての貴いものを誇るのもいいのですけれど、それよりも、夕陽を迎える前に、この青春時代に、何かこの地の上に残していくと身もだえすることのできる、志のある若者たちになるようにお導きくださいますよう、切にお願い申しあげます。

 若い胸に世界的な実力を備えなければならない時は来たのであり、新しい道義に燃え、義侠心と意欲に燃えうる勇猛な心を中心として、闘って勝利の結晶を準備すべき時が来たのでございます。このような時に、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙にまでお父様に侍ることのできる王国の起源をつくらなければならない、とてつもない使命が残っていることを知っております。

 そのような使命の道を行くために生まれた体であり、必ず闘って勝利し、お父様のみ前に栄光を返すために生まれた体であることを自覚しながら、今日もその目的のため行くようにお導きくださいませ。

 今日、自分自身をこの地が呼んでいるので、その声を聞くことができる人たちになるよう、お導きくださり、韓国の未来像と、世界の未来像が私たちを呼んでいることが分かるようにお導きくださいませ。歩みゆくその歩み歩み毎にお父様が勧告してくださり、お父様が同行される事実が分かるようにしてくださり、全体の結果をあなたとともに感じつつ、明日の希望に満ちあふれた胸を抱き、開拓者の使命と開拓者の喜びをたたえいくことのできる若者になるようにしてくださいませ。また、そのような姿をあなたが待ち望んでおられることが分かるよう、お導きくださることを切にお願い申し上げます。(二四・九一)




















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