人の生涯
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第四章 模範的生活

第一節 生活の再発見

一 どのように生活すべきか

 私たち人間生活においても、一生を生きようとするにはプログラムを組まなければならないのです。ただ、無秩序、無目的に生きてはいけないのです。皆さんは知りませんが、今日、復帰摂理は、ただそのまま無目的になされるのではありません。

 今日先生が四〇年間歩んできたは、皆さんはだれもついてはこれませんでしたが、すべて計画的なのです。プログラムに合わせて…。家を建てるとき、設計図があるのと同じように、ブループリント(blueprint:設計図)があり、そのブループリントにピッタリ合っても、自分だけ「できた」と言ってはいけないのです。天と地が見るとき…。鑑別というものがあります。(一四一・一八〇)

 人が生きて死んだ後には、必ず生きている間に、豊かに暮らしたか、貧しく暮らしたか、という二つのうちで一つに帰結するのです。その人が、豊かに暮らしていったか、貧しく暮らしていったか、というその二つのうち、ある一方に決定を下しておいてから行くのです。豊かに暮らしていったというならば、その人は善なる人ということであり、貧しく暮らしていったというときは、悪なる人ということです。

 では、豊かに暮らしたといえるためには、どのようにすべきか? 豊かに暮らしたという基準は何であり、貧しく暮らしたという基準は何か? 私たちは、生涯を懸けて豊かに暮らすか、貧しく暮らすかを決定する生活をしています。しかし、人間であればだれでもみんな、豊かに暮らすことを願うのです。貧しく暮らすことを願う人はいないのです。

 今、世の中をじっと見てみると、外部的な要因を見て、その人は本当に豊かに暮らす、というときがたくさんあります。普通、豊かに暮らす人だといえば、外的に満ち足りるほどに、家を持ち、お金を持っており、夫と息子・娘とともに自分がしようとすることをするのに、支障を受けないほどの環境を備えて暮らす人をいいます。一般的にそうなのです。

 しかし、環境的にいくら豊かに暮らすという言葉を聞きながら生活するとしても、自ら「私が果たして真なる生活をし、私が果たして善なる生活をしているのか」と心に尋ねるとき、自信を持って「私は真なる暮らしをしている」と言える人は、それほど多くないのです。老若男女を問わず、どこのだれもが等しく、真なる暮らしを願っているのに、真なる暮らしをしている人は多くない、という事実を皆さんは知るべきです。

 このように真なる暮らしを願っていますが、真なる暮らしができないようになっている環境で暮らしている存在が、すなわち私たち人間であるのです。大多数の人間は、暮らしてみて、後悔の結末にぶつかるようになり、一生を無駄に生きたと嘆息するようになるのです。このようなことが、今日私たち人間たちの生活様式であるのです。(四三・二四二)

 今日、統一の若者たち、皆さんは、自称して「私たちは歴史的な人物だ。歴史的な結実だ」と言います。果たしてそうか? 問題です。果たしてそうか? 甲という人を見て「お前は何をするか?」と言えば、「私は生きる」と答えるでしょう。「どのように生きてきたか?」と言えば、「このようにして生きてきた」と言うでしょう。個人を見て大多数の人が「お前はどのように過ごしてきたか?」と言えば、「ご飯を食べて生きてきた」と言うでしょう。「お前はどのように暮らすか? 豊かに暮らすか、貧しく暮らすか?」と言うとき、大多数の人は、家があり、小さな畑があり、抱えるところの生活環境があり、支障を感じず暮らすという見地から答えます。

 暮らすには暮らしているのです。今日大多数の人間たちは、どのように暮らすか? 暮らすには暮らしますが、生活を通じた生活は営むことはできます。しかし、暮らすのには、そうしてだけ暮らすのではありません。分かりますか? それよりも一段階高めて暮らす人は、どのように暮らす人か? ご飯を食べるには、同じように食べて暮らすのですが、考えながら暮らす人がいるのです。ご飯だけ食べて、酒だけ飲んで暮らす人がおり、考えを抱いて暮らす人がいるのです。分かりますか?(一五一・七〇)

 生活において敗れる人は、信仰の道においても敗北者になりやすいのです。

 生活環境において、サタンと神様が、自分について互いに奪い合う闘いをしているのです。(一八三・二九八)

 サタンを神様とどこで分別するのか? 霊界で分別するのではありません。どこでするのでしょう? 生活。自分一人において、それは良心・肉心です。近くて内的な内容は神様側、肉心的なものはサタン側です。

 手と手を合わせてみれば、その手の形は同じです。しかし、一つの手は右であり、もう一つの手は左です。このように考えてみれば、同じもののようですが、互いに違います。従って、右左を分別して、どちらが前に行くのであり、どちらがついていくのか、という問題を私たちは、はっきりと知るべきなのです。(二四・二一五)

 近頃になって、原理は原理なりに回ってですね、皆さんは皆さんなりに回り、また、教会は教会なりに回っているのです。私はそう感じるのです。原理を習ったら、習った通りその原理の上に自分が立つべきなのに、原理の上に皆さんと教会が立っていないで、全部別々です、これは。これでは大変なことになってしまいます、これでは。一〇年勉強南無阿弥陀仏という言葉があるでしょう? このままでは、すべてが無駄に終わってしまうでしょう。(一〇九・三〇八)


二 私たちが持つべき生活意識

 先生が今まで皆さんに強調したのは何か? 過去に漠然と暮らしてきた生活を、今から具体的に暮らすべきです。(一八・一七八)

 個人の生活はどのようにすべきかということを、確実に究明すべきであり、また、家庭の生活はどのようにすべきか、ということも確実に究明すべきです。(二四・二九)

 最後に残るものは何か? 人間が構想していた哲学でもなく、いかなる人生観でもありません。神様プラス人間、神人、神人の生き方、神人の生活観です。人生観も同じく、神人人生観、神人世界観、それが統一された…。それが、神様に対して漠然と人が分かる程度の位置ではなく、人が永遠に離れようとしても離れられない位置です。なぜ? 神様と人間は、本来離れられない位置から離れたために、その離れられなかった位置以上の位置に到達すべきです。そのような位置で神人がひとつになった生活的な舞台、世界的な舞台を要求して立ち上がるべきです。(六五・一二七)

 皆さんは現在どこに処していますか? 統一教会を中心としてどこですか? 統一教会の教会員は夜も昼も、いつどこに行っても、先生とともに歩調を合わせなければなりません。今まで先生は、この頭でもって生きてきたのではありません。神様とともに、神様が行く方向に歩調を合わせながら、すべての生命を皆投入しながら生きてきたのです。

 今は、三合(神様、先生、皆さん)が一致すべきです。歩調を合わせるべきなのです。生死の決定的内容が懸かっているため、三者が一致する点で一つになるべきなのです。言い換えれば、その点に生命の復活圏があるのです。その点が、父と先生が一つになり、先生と皆さんが一つになり一致しうる連結点です。そこで一心統一がなされるのです。それゆえ、皆さんはみ旨と一致した生活をしなければなりません。(三一・三二一)

 皆さんには三者の心情が一致(父のみ旨と、皆さんの志と、皆さんがこれから復帰する霊の子の志、時が一致し、人が一致し、方向が一致する位置)する中で、一日なら一日の生活をどのようにしていくか、また、一月なら一月の生活をどのようにしていくか、一年なら一年をどのようにその基準で収拾していくか、というのが問題です。(二四・一三三、二八・八〇)

 皆さんは、自分を点検してみるべきなのです。動機と一致し、目的と一致し、主体と一致しているか? 自分が動機と目的が一致できず、主体の前に対象的な位置に立てない自分を発見したときは、動機と目的に一致し、主体と一致すべきだということをいつも考えるべきなのです。主体対象関係確定、方向性確定、その次に目的性がはっきりしなければならないのです。皆さんは、それを考えながら動きましたか、今まで?(六六・二五七、一〇八・八三)

 神様が願う生活はどんなものか? 自分を中心とした生活ではありません。自分を中心とした生活ではないのです。それゆえ、私たち統一教会の信徒たちは、部屋に地球儀や世界地図をきっちりと掛けておいていつでも考えろというのです。「神様が今日どこに行くのか? 私が心をこのように持っているけれど、天地を創造したその神様は、私だけを見つめているか? どこに行くのか?」それを考えるべきです。(一五五・二四八)

 単調な生活が習慣化し、それが人間の人生だと考える人は、世の中に属す人に過ぎないのです。その俗な生活環境を開拓して、その俗な環境に、より高次的な価値の内容を付与する生活ができなければなりません。それでこそ、悪い世の中で善の立場を決定づけることができるのです。外的な生活を支配する生活ができない人は、信仰者といえません。天の人といえないのです。

 それゆえ、人は修養が必要です。活動することだけではいけません。活動してから、静かに座って、上下を抱き、左右を抱き、合わせることのできる生活をすべきなのです。そうしておけば、間違いなく人は本質的基準を中心として、必ず縦的側の位置にとどまるのです。(一八五・一八二)


三 体質化されるべき生活方式

1 神様を中心とした生活

 すべての宗教では、見ることをみだりに見ず、聞くことをみだりに聞かず、話すことや接することをみだりにするなといいます。ですから、見ることも、聞くことも、話すことも、感じることも、愛することも、全部神様を中心とするのであって、自分中心にしてはいけないということです。(六六・二三一)

 私たちが話して、聞いて、見て、感じて、また、感情的に体感する一切も、神様を中心として因縁づけられたものであらざるをえないのです。(五三・二三九)

 一日二四時間の生活圏内で、自分が見て聞いてしたすべてのことは、何のために見て聞いたのか? 神様のためにです。神様のために、見て聞くべきなのです。また、感じることも神様のため感じるべきです。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活すべきです。(三五・二八四)

 ご飯を食べるときも「お父様、先にお召し上がり下さい」と言うべきです。(一一・二一八)

 良い食べ物を食べたり、良い服を着るときは、ただ食べて着てはいけません。最も良いものは、先に神様にお返しするべきです。道を歩くときも、右側にはお父様、左側にはお母さまを迎えて行くべきです。(二四・一八一)

 「ああ、私はお腹がすいた。ああ、腹が減った。飯、飯、飯!」こう言いますが、それはだれのために食べようというのですか?(神様です)。そうですか? 神様のために食べるというのですか、自分のために食べるというのですか?(神様です)。それを考えるべきです。それはどうして神様のため食べるのですか? 神様の完全な聖殿を自分がつくるべきなのです。神様の聖殿を完全に…。それで「中にいる神様がご飯を食べようという」このように考えろというのです。「中にいる神様がご飯を食べようという、お腹がすいたから」このように考えろというのです。分かりますか? そのようにご飯を食べれば、そのご飯は聖なるご飯なのです。ご飯がご飯様になるのです、ご飯様に。

 その次に、便所に行くときはどう考えるべきですか、便所に行くときは? 便所に行くときはどうですか? 自分のために行きますか、全体のために行きますか? 同じです、同じ。この聖殿に支障があるだろうから、神様曰く「便所に行けという」このように考えろということです。

 息をするのは、息をするのはどうですか? 同じなのです。また、聞くことは? 自分独りで聞くのだと考えるなというのです。見ることも、触ることも、全部…。自分独りですると思うなということです。人に対するとしても、サタン世界に対するとしても、神様の人間が対すると考えろということです。言葉を話すにも、神様が話すと…。

 本来そのように完全に一つになった後には、自分中心に生き、自分中心に考え、自分中心に愛するのが原則なのです。それを知るべきです。それを確実に知るべきなのです。そのときは、自分を中心として考え、自分を中心として愛しても、それは神様を中心とした考えになり、神様を中心としとして愛することになるのです。それが原則というものです、原則。(九二・一六六)

 主体と対象の因縁が間違いなく分かったからには、全面的にすべのものが主体のためのものになるべきなのです。見ることもそうであり、聞くこともそうであり、また、食べることもそうです。ご飯を食べるときも「ああおいしい。ああおいしい」このように食べるのは、自分のために食べるのですが、主体のために食べれば「本当にありがたいものだ」と言うのです。「このような環境に私を連れてきて置いてくれたために、今日このような席でご飯を食べるんだなあ」と言うなら、独りで食べるのではないのです。それは主体のために食べるのです。寝るのもそうなのです。「ああ、私が寝るから、このようにこういう場所で眠るのだ」と言うのではないのです。「ああ、天が導いて、滅びる運命で終わりを見ても恨みのない私が、今日このようになったのは、その滅びうる運命を妨げるために、天が幾度となく苦労された功があるためだ。本当にありがたい」と言うべきなのです。

 それゆえ、主体のための対象の位置は、不平がありえないのです。不平がありえますか? 不平は盲動です。破綻です。それゆえ、信仰の道は不平を許さないのです。何を許しませんか? 不平を許さないのです。それゆえ、感謝だけあるべきなのです。皆さん、それを知るべきです。

 天はいつでも主体としていらっしゃるため、主体とともに相関した運命を持って、それに離脱する生活の礼法、生活の形態はありえないのです。ですから、報告をしなさい。どこかに独りで行っても、独りでいるのではありません。どこかにすっと行って座っても、前後に天が来て共に座るのを感じるのです。そうして、何か鑑賞するようになれば、心でそれを感じるのです。お父様はこのすべての景色を眺めて、どのように感じるのか? ソウル市を眺められるとき、どのように感じるのか? その歴史、その世界がそうならば、そこに必ず関係を結んで入ってくるのです。このような問題等々を中心として、いつも皆さんは天が主体である、ということを忘れてはならない、ということを確実に知るべきです。そうでなければ、体恤的信仰圏内に入れないのです。

 天理というのは、順序を正しく守るところに成立するのです。それゆえ、主体と対象関係で、天は絶対的な主体だという立場に立つべきです。その主体を無視する人は、対象になれません。私は絶対的な主体の前に、絶対的な対象になろうとするので、絶対的に一つです。それゆえ、見て聞いて感じるすべてのことは、家庭に入って愛することまでも、全部対象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。

 主体と対象がよく授け、よく受ければ、何が起きるのですか? 起きるには起きるのですが、よく授け、よく受けたか、間違って受けたかという比例に従って結果が現れるのです。(五八・三一〇)


2 真の父母を中心とした生活

 皆さんは今、真の父母とともに生きるべきです。それゆえ、真の父母はおじいさんの立場であり、自分のお父さんお母さんの立場であり、自分たちは長子の立場であるのです。これが違うのです。三代にわたり共に暮らすという結論です。神様が自分とともにあり、真の父母が自分とともにあり、自分の父母が共にあるのを感じて暮らすべきです。神様がいない、死んだと考えられない時代に入ってきたのです。(一三一・九七)

 心情的因縁を通じて、堕落したために、堕落の門を開けて取り除くには、それよりも高次的な心情的力を持たずしてはできないのです。それが原理なのです。それゆえ、皆さんが先生に会いたくて涙を流し、大騒ぎすれば、先生はサッと現れて教えてくれるということが起きます。

 皆さんが、道を歩いていて、何か良い生地があれば、あるいは良いものがあれば、それをつかんで「ああ、胸が痛くて離れられないなあ。これを先生に持っていって差し上げたい。私がいかなる犠牲を払っても、持っていって差し上げたいなあ」という心がわき出て、全身がぐったりとするのを感じ、神様がかわいそうなことを感じながら、涙ぐむ境地に入れば、すでに先生が、それが洋服ならそれよりもっと良い洋服を着て、良いネクタイを締めて「ハハ」と笑いながら現れ「なぜ泣くのか?」と言う場面が展開されるのです。「私には、良いものがみんなあるのに、なぜそうなのか」と言うことが、現実的に起きるのです。

 それゆえ、統一教会の文鮮明という人は不思議な人なのです。皆さんが知らない不思議な人です。不思議な背景を持っています。アメリカであるとか、世界各国の人たちが、先生が行く約束をしたら、懐かしさが高潮して、自分でも知らず、寝て起きては「先生、いつ来られますか?」と言うのです。そのように、身にしみる境地に入ると、両目が開いてしまいます。それで「会いたい。会いたい」と言えば、先生が「ああ、そうか」と言って、エデンの園にも連れていって、見学させてあげたりするというのです。そのとき、その人たちは、それが霊的であるということが分かりません。実際にそのようなことが起こるように感じるのです。その道でなければ、そのような世界が開きません。

 それゆえ、皆さんは、目が崩れ、鼻がふさがるほど泣きながら慕わなければなりません。人は泣きすぎると、ここがとても痛くなります。それほど身にしみて慕うべきです。「お父様」と言って呼ぶには、死刑場に引かれていく息子の立場で、父親を呼ぶ人もいるであろうし、他の遠い国に発つ息子の立場で、悲しげに父を呼ぶ人もいるのではないか。それゆえ、天のお父様を呼ぶときは、そのような基準以上にならなければならないのです。

 天のお父様に会うために、神様と因縁を結ぶために、どれほど精誠を尽くしたかということが自分の財産です。(五〇・二八八)

 一切を父母とともに関係づけ、父母とともに決定し、父母とともに相談し、父母とともに解決しなければ…。(四四・一七五)


3 善を中心とした生活

 初めの出発から、中心と方向を一致させていく人は、終わりと初めを連結させることができるために、最後の勝利は、主体のものであると同時に、初めから終わりまで行った人に帰ってくるのです。このようなことを知って、皆さんは中心を持って生き、中心を持って生活しろというのです。(五七・二七七)

 歌を聴くときも、善悪があります。見て聞いて、ご飯を食べたり、寝ても覚めても、すべてのことには善悪があるのです。(二六・一三一)

 寝ても覚めても、食べても、休んでも、見ても、何をするにも、全部み旨を中心としてすべきです。(七三・六一)

 現在の立場は、いつも善悪の分岐点に立っていることを忘れるなというのです。それゆえ、言葉も善なる言葉を話すべきであり、この目で見るものも善なるものを見るべきです。女たちはよくよそ見をするでしょう? それゆえ、こいつの目をコントロールすべきです。目を制御して、五官をみんな制御すべきです。自分が歩む一歩一歩がすべてどこへ行くべきか? 友達に会ったり、人に対するにおいては、それでも自分に会って、彼が一歩でも善の面に帰れるように、公的な言葉が言えなければなりません。このようなことを生活圏内で操って、そうしながら自分はあの世界の人類のために、愛の旗を掲げて行くのです。勉強もそれでして、仕事もそれでしろというのです。そうすれば自然に回るのです。(一〇九・三〇七)


4 一つの目的に一致した生活

 個人が地上に来て、成功するかできないか、また、生活を通して目的としたことを成就させうる一日一日を残すか残さないかという問題はどこにあるのか? その目的を中心にして、その目的に対する確実な観点を立てて、そこに的中しうる方向、一致しうる方向をどのように備えていくのかが何よりも重要な問題なのです。

 いくら一つの目的を持って出発したといっても、その方向が食い違えば、その目的とは関係がなくなるのです。それゆえ,目的を持って進むときには、いつも方向の一致という問題を私たちは注視しなければならないのです。

 この方向の一致ということを中心として考えてみると、その目的と自分は直線上に立つべきなのです。目的と自分とはいつでも相対的関係であるために、私たちは直線の上でその目的と相対する位置に立たなければならないのです。私たちは生活の中においても、右足を動かし、左足を動かすとき、その目的と直線で一致する位置を取らずには、必ず食い違うようになっているのです。たった一歩でも踏み損なえば、食い違いが起こるのです。右に偏ってもだめであり、左に偏ってもだめです。

 それゆえ、中庸の姿勢を取って、その目的と引かれる直線上で、一致化させうる自分を発見するところから、目的の結果は達成できるのであって、その直線を無視して、その直線と一致できない時間的な基台の上に立つようになると、目的を達成しうるその道から、すでに脱線して進んでいるということを、私たちは知るべきです。

 私たちが話しをする、あるいは見て感じる、すなわち、五官を通じて感じとることにおいても、自分独りで感じてはならないのです。自分独りで感じるという、そのような立場に立ってはいけません。その目的と一致する方向を持ったところで感じるとき、その場所は共同の目的に向かって、共同的立場で、共同的な方向を取る所であるため、神様が決して共にあらざるをえないのです。これが食い違えば、神様は共にいられないのです。

 なぜそうなのか? 方向を間違えると、苦労したことがすべて水の泡になってしまうためです。そこに協力すれば協力するほど利益になるのではなく、必ず互いに消耗するのです。無駄なことになるために、そのような所に立つときは、神様が協力できず、共にいることもできないのは当然なことであらざるをえません。

 私たちが朝起きた後、感じるすべての感覚や動作が一つの目的を中心として、いつでも直線上に帰一できなければなりません。その点を失ったときには、み旨と自分は関係を結ぶことができないということを、私たちは否定できないのです。(五七・二三二)


第二節 人倫道徳と礼

一 宇宙には規範がある

 新しい宗教のための新しい本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神ではなく、同一の神であることを明かすべきです。それと同時に、その神の属性の一部を把握することが各宗教の神観であったということと、その神の全貌を正しく把握して、すべての宗教は一つの神から始まった兄弟の宗教だということを明かすことができなければなりません。それだけではなく、その本体論は、神の属性とともに、創造の動機と、創造の目的と法則を明かして、その目的と法則がこの宇宙の万物の運動までも支配しているということ、人間が守るべき規範も結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致するということを解明すべきなのです。

 宇宙の月・日・星の創造の法則、すなわち天道によって縦的な秩序の体系をなしているように、家庭においても祖父母、父母、子女からなる縦的秩序と、兄弟姉妹からな横的秩序の体系が立てられると同時に、相対する価値観、すなわち規範の成立を明かすべきなのです。(一二二・三〇四)

 皆さんが農村に行って仕事をするときも、一人で行っては仕事ができないようになっています。夫婦が一緒に、その日にする仕事を神様の前に報告してから仕事を始めて、終わって帰ってきても、神様に報告してから、ご飯を食べるようになっています。このようなことをすべて規範化させている神様を標準とする生活が、どれほど厳格かということを知るべきです。女にも女としての守るべき家庭生活の規範があり、男にも男としての守るべき規範があるのです。(三一・二七六)

 世の中では父母が亡くなって三年の喪には、毎日朝夕霊前に食事を供えるし、どこかへ行くときや、帰ってきたときには、霊前に座って報告し挨拶する礼法があるでしょう。皆さんは、それ以上にしなければなりません。皆さんが今していることは、み旨から見て天の格式にピッタリと合った生活だろうか? 違います。とんでもないのです。(三一・二七五)


二 人間が貴いのは人倫道徳があるゆえに

 言葉の中に天倫という言葉がありますが、皆さんは天倫という言葉を知っていますか? 天倫というのは、宗教的な術語です。人理道徳という言葉は聞いたことはあっても、天倫道徳という言葉は聞いたことがないでしょう。それでは、人倫道徳の起源はどこにあるのでしょう? 大韓民国の憲法ですか? その起源を掘り下げていくと、良心にその根拠があります。

 今日の法は、ローマ法を基礎として作られており、ローマ法が現在の世界文化の下地となっていると言えますが、人倫道徳はどこまでも良心にその根拠があります。法よりも、良心なのです。

 では良心の基礎は何か? 善なのです。善を標準としているのです。善から外れて過ちを犯したときは、良心がその過ちを是正していくのです。そして、純粋な良心と一致する、普遍的な社会体制を形成しようとするので、法令も必要です。ですから、結局人倫はどこに根拠をおいているのか? 天倫に根拠をおいているのです。(三三・四四)

 人間が貴いのは、人倫道徳があるためです。人倫というのは、人と人の関係をいうのです。一人をめぐって人倫とはいいません。人倫というのは、二人以上いてこそ成立するのです。男と女が結婚した家庭から、社会の倫理という言葉が成立するのです。倫理とは何か? 人間関係の道理であり、法則なのです。(一三六・二〇八)

 皆さん、人倫道徳というでしょう。人倫が何を通して形成されるのかというと、情を通して形成されます。そうではありませんか? 母や父、家族関係とか、道徳観念とか、社会制度とか、秩序とかいうのは、すべて情緒的な面です。先に情を感じたそのことが長く続いたとか、次元が高いというなら、そこに頭を下げるべきなのです。皆さんはそれを知るべきです。人倫形成の動機は何からなのか? 情からなのです。親が子供を愛するところから人倫が始まります。そうでしょう? 子供が親を愛するところから、真の人間関係は成立するのです。(六四・一二四)


三 三綱五倫と礼

 人は、自分の価値と存在を知るべきです。縦的な基準だけでは自分の価値は分かりません。横的基準だけでも…。言葉だけでは、その人は分からないじゃないですか。行動が伴わないと…。言行心事でしょう。言葉と行動が同じであるべきであり、心と行動が同じであるべきです。それは何かというと、縦的関係をいうのです。

 そう、儒教思想というものはみんなそうでしょう。元亨利貞は、天道之常であり…。天道之常とは何ですか? 前に立つべきものが前に立ち、後ろに立つべきものが後ろの立つのが天道之常です。天道が動く状態であり、道理だというのです。どういう道理ですか? 仁義礼智は人性之綱というけれど、仁と義を行うことは、人が行くべき道だというのです。義と礼を備えることは、人が行くべき根本の道なのです。

 道を行くにも、東洋思想は、目上の人が先に立たなければなりません。なぜか? 先に生まれたから。このように、環境に合わせようとしてそうするのです。後の人は後に立ち、高いところは高いところ、低いところは低いところ、前のものは前に、後ろのものは後ろに、上のものは上に、前後を整えなければならないのです。そのような観というものは、変わるものではありません。それは永遠に不変なのです。

 また韓国の決まりでは、目上の人から何かを受け取るときには、両手でもらうようになっています。それは水平なればこそ、愛を受けることができるという意味です。受けるには、水平を通して九〇度で受けなければならないのです。その道理を象徴しているのです。人心は天心というでしょう? 私たちのすべての規則は、良心の道理に従って、相対的に作り出されてきたものであるので、水平になるべきなのです。

 それは何ですか? この二つが合わさらなければなりません。天を省いてもだめであるし、仁義礼智を除いてもいけません。それらを連結させることができなかったのです。ですから、天は漠然とした天になり、仁義礼智は曖昧だったのです。これをどのように連結させるかというのが分かりません。分からないので、この二つの世界形態は歴史において、その実体的基準を形成することができずに、流れてしまったのです。皆さんはそれを知るべきです。

 私たちの原理を中心としたものが、二性性相として生まれ、どのように関係を結び、社会のどのような形態を中心として実体圏を残しているかということです。再創造の実体圏です。私たち人間が望んでいる理想とは何なのか? 知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。愛の実績を望んでいるのです。師弟之愛、父子之愛、忠臣之愛、すべてが愛ではありませんか? 天も息子が必要なのです。天子之愛は、独りでは成り立たないようになっているのです。(一八五・二七一、一六八・二五二、一七一・二三七)

 今日まで人倫道徳は、親が子供を愛し、子供は親に孝行し、夫婦でも区別すべきである、というものでした。これは三綱五倫の礎として、今まで伝わってきましたが、これがまた変わってきています。このように、既存の習慣や規範などが変わっていく兆しが、社会環境に浸透してくる日が終わりの日なのです。世界的な指導者、あるいはメシアがこの地に現れたというけれど、その方はこの問題を収拾しなければなりません。(一一・一九)


四 東方礼儀之国

 韓国は四千年の歴史を持っています。韓国は、東方何というかな?(東方礼儀之国です)。礼儀というものは、良いものですか、悪いものですか?(良いものです)。えーい、いいぞといいますか、えーい、気分が悪いといいますか? 気分の悪い国だということです。「礼儀之」というときに、「之」というのは助詞であり、「の」という意味です。ですから、礼儀之国というのは、気分の悪い国ということです。そうですか? 気分の良い国ですか、気分の悪い国ですか?

 東方礼儀之国というとき、皆さんの考えでは「東方礼男」ですか、「東方礼女」ですか? 韓国を東方礼儀之国というとき、男を指していいますか、女を指していいますか?(女です)。女を指していっているようですね。(はい)。東方礼儀之国というのは、女を指していった言葉です。ですから、韓国の歴史過程においても、夫に真心を尽くそうとした婦人たちは、思うように暮らせなかった女性たちだったのです。(四四・一〇四)


第三節 成約時代と侍る生活

一 成約時代とは、すなわち侍義時代

1 成約時代とは何か

 神様は六千年歴史の中で、三段階を経て救いの摂理をされてきたのです。そうして、僕の時代である旧約時代と、養子の時代である新約時代を経て、成約時代を迎えたのです。成約時代には子女が現れて、父母の席を準備して父母に侍らなければなりません。今まで神様はこのような復帰摂理をしてこられたのです。(一六・一七八)

 成約時代とは何か? 地上において家庭を中心とし、父母の愛を中心として理想世界に行く、サタンが讒訴することのできない、新しい世界へと前進する過程が成約時代です。成約時代とは、原理的に見れば、責任分担を完成した父母圏をいうのです。約束がなにかというと、責任分担です。責任分担の約束を完成できなかったのが堕落です。旧約というのは昔の約束です。新約というのは新しい約束であり、今の成約は約束を果たす時なのです。果たすものは、世界万民が責任分担を完遂することです。責任分担を完遂することです。(一三一・九八)

 完成時代、成約時代とは何か? 父母様の愛を中心として、アベルが一つとなり、アベルと兄弟が一つとなって、カインを屈服させるのです。カインが屈服しなかったのは、父母がいなかったためです。ですから、このような惨事が起こってしまったのです。アベルを憎んだのも、父母がいなかったため憎んだのですが、父母を中心としてアベルと一つになれば、カインは順応するのです。(一三一・七五)

 歴史を見てみると、旧約時代は神の人を探す時代であり、新約時代は成約時代に父母に侍るための犠牲の時代であり、今の成約時代は、真の父母を中心として神様に侍るための、神様を解放するための犠牲の時代です。ですから、今日の統一教会は、白の十字架を見せるのです。父母様が十字架を背負っていくのです。人間が長生期完成級で堕落したために、三段階のうち一つの段階を残した完成級という圏内で、先生が二〇年間の道をもう一度上がっていかなければならないのです。(一三六・三〇七)

 私は旧約時代のすべての供え物の復活体を持っており、新約時代のイエスの体の復活体を持っており、成約時代のレバレンド・ムーンの心情の復活体となったといって行くときは、天地すべてが私にぞろぞろと列を作ってついて回り、すべてが注目するのです。ああ、私を好いているのはいいことだ、私は幸福だ、悪口を言いたければ言い、言いたくなければ言うな、どこへでも行く、そういうのです。難しい道も行くだろうし、迫害の道も行く、私の幸福のために行くのです。そうして、勝利者になれば、どんなにいいでしょう。(一〇七・二一六)


2 成約時代とは愛の時代である

 今日私たちは、神様を自分たちの希望の主人公として見つめており、信仰の主人公として見つめています。また、私たちの愛の主人公として見つめています。この希望と信仰と愛の主人公でいらっしゃる神様は、人間をして歴史路程で希望に代わった旧約時代、信仰に代わった新約時代を経るようにされたので、これからは愛に代わった成約時代を経ていかなければならないでしょう。

 それでは、今はそのような成約時代、すなわち再臨時代において、永遠不変な一つの中心要素として残りうるものは何か? それは神の愛なのです。それは全体の中心要素であると同時に、全体の理想の要素にもなるのです。(一・九〇)

 成約時代は愛の時代です。ですから結婚もできるのです。今までは宗教に対して愛の時代を許さなかったので…。次元の高い宗教は、結婚を許さなかったということを知るべきです。(九六・一一七)


3 侍ることで救いを受ける時代

 堕落した時代は、サタンが支配する時代です。それは考えだけではなく事実なのです。今日の環境的な事実を霊的に見れば、そうなっているということなのです。なぜ信じなければならないのか? アダムが堕落したのは、信じられなかったためでした。信じることができず、行うことができず、行うことができなかったために、天に侍ることができなかったのです。これが三大条件です。それゆえ、行儀の時代である旧約時代、信義の時代である新約時代、侍義の時代である成約時代、というのはアダム自身が行けなかった道なのです。アダム自身が堕落することによって、サタンの支配圏内に入ってしまったため、アダムが本来いるべきであるその位置を歴史的に探し求めて行くべきことは、避けられません。ですから、蕩減条件を私たちが再現させて、勝利的条件を立てなくては、本来のアダムの位置に帰ることはできません。

 信仰の義とか、行いの義とか、侍る義を追求するのはなぜか? 義でなければ善悪を分別することができないのです。悪なる世界と、善なる世界が分かれないのです。そのライチャスネス・スタンダード・ポイント(Righteousnessstandardpoint:善の中心点)とは何かということです。それが何かというと、いつも神様なのです。神様が信じるように、神様が行うように、神様が侍るように、いつも神様が中心になるべきです。

 なぜそうなるべきなのか? サタンは、神様のような義なる者に対しては、讒訴することができないのです。神様が信じ、神様が行い、神様が生活する侍りの環境に処していれば、サタンが干渉することはできません。いつでも、サタン圏内においてもそのような環境が広がれば、その環境に神様も共にいる義の基準が広がれば、サタンはそこから後退するのです。

 だからといって、行う旧約時代が過ぎ、信じる新約時代も過ぎ、侍る成約時代だけがあるのではありません。旧約時代にも信仰が必要であったし、新約時代にも行いが必要であったし、侍る時代にも信仰が必要であり、行いが必要であり、すべてが必要です。それは蘇生の上に長成があり、長成の上に完成があるのと同じことです。それは離そうとしても離せないものです。

 今、特別に侍義というのは、生活化天国時代をいうためです。それで侍義時代を持ってきたのです。復帰歴史というのは何かというと、神様の創造理想を再現するものなのです。(一六一・二一八)

 主がこの地に来られる目的は何か? 地上に天国を成すためなのです。天国はどのような所か? 侍るための準備に合格した者と、侍る生活に合格した者が行く所ですから、侍るための準備と侍る生活を、万宇宙で永遠に誇ることのできる世界が天国です。(八・三〇七)

 今日、私たちは、侍って救いを受けるということをいっています。それならば、皆さんは実際に親に侍らなければなりません。どんな悲しみと苦痛が後について回っても、神様が記憶することのできる条件を作るべきです。小さい条件ですが、神様が喜びうる条件を作るべきです。(一三・三一〇)


二 侍る生活とは

1 侍る心構え

 皆さん、侍義時代とは何ですか?(侍る生活をする時代です)。

 皆さん、示威時代ですか、侍義時代ですか? しかし最近は、示威する人が多いですね。だからといって、侍義なのか示威なのか、いたずらにこんがらかったりしないで下さい。

 皆さんは侍義時代、すなわち、侍りの生活において、正確な中心をおいていかなければなりません。神様に侍るのにも礼法があります。その礼法に背いたときには、神様はとても怒る方です。(一七・二八七)

 私たちが神様に侍るとき、いちばん最初にすべきことは、我慢し耐えることです。だれのために我慢し耐えるのですか? 全体のために我慢し耐えるべきです。全体の目的のために、中心的な思想でもって、それがなされるときまで忍耐するのです。そこには不平不満が同居することはできません。そのようにすることによって、天国と天の土台が広がっていくのです。(四四・一八)

 皆さんがお父様に侍ることができるとき、そのような時間が来たらどのようにしますか? どのように孝行するのですか? そして、どのような姿でお父様に侍るのか、考えるべきです。お父様とどの川辺で会えるのか! どのようなところで会えるのだろうか!

 皆さんが山奥に入っていって生活するようになると、統一教会の食口が訪ねて来てくれたらと切実に願うようになり、また、食口の中にだれか具合の悪い人がいるのではないか、と心配するようになります。そして、自分といちばん近い食口に会えたらよい、あるいは先生を迎えたら、地区長を迎えたら、地域長を迎えたらいい、という恋しさがなければなりません。

 毎日のように恋しくなれない人は、侍ることができません。皆さんはこれを知るべきです。だれを恋しがろうとも、いつも恋しさで胸が痛んでいなければなりません。夜十二時になると「さあ、寝よう。」と言う人は、神様に心配をかけている人です。天国は、夜も昼もありません。心情の因縁でもって出てくるときは、夜が問題ではないのです。(一七・二九三)

 人間において、神様を愛することは、いちばんの戒めですが、死ぬほど愛すべきですか、一時的に愛すべきですか?(死ぬほど愛すべきです)。では、皆さんは死ぬほど神様を愛しますか、死ぬほど愛しませんか?(愛します)。どれ、死ぬほど愛するという人、手を挙げてみなさい。雷に当たって死んでも愛すべきです。神様を死ぬほど愛さなければならないということです。では、死ぬほど愛さなければならないのならば、死ぬまではできないことはないのです。

 皆さん、白頭山の頂上に登っていって、そこにある磐石を耕して、畑を掘り起こして、ジャガイモを植え、そのジャガイモで神様を奉養することができますか? しますか、しませんか?(します)。それをしなければなりません。そのときは牛がいなくて、愛する妻を牛のように使って畑を耕したら、雷に打たれますか、打たれませんか? 妻を牛とみなして畑を掘り起こすとき、神様が「おい! やめなさい!」と言うならやりますか? 自分の心を尽くして、自分の志を尽くして、自分の精誠を尽くしなさい、といったからやりますか?(やります)。(三七・二五)


2 侍りの生活態度

 皆さんは侍義の生活をしなければなりません。朝、寝床から起きて、最初の一言を天の前に捧げて、家を出るときも、初めの一歩を右足を出し、天の前に捧げなければなりません。普段の習慣がこのようになれば、皆さんの生活は侍義生活をすることができるのです。このような観点から、皆さんは原則的な基準から、生活態度をとるべきです。(一七・二九六)

 皆さんが考える、神様に対する侍りの生活は、どのようにすべきか? 侍る生活はどのようにすべきかということです。神様と私を一体と考えて、真の父母と一体と考え、生活すべてが…。ここに私が住むとしたら、「このすべてのものは、神様のものであると同時に真の父母のものであり、真の父母のものは真の父母の国のものであり、真の父母の国のものになれば私のものだ」このような観念を持つべきです。この宇宙も真の父母のものであり、この家も真の父母のものであり、すべての国も真の父母のものであるために、私は真の父母の息子であるから、すべてのものは私のものだ、という結論が出てくるのです。

 私たちは神様に侍り、父母に侍りに行くのです。話してもそうだし、行動もそうだし、寝ても覚めても侍る生活をすべきです。このようなコンセプト(Consept:概念)だけ持てば、二十四時間サタンが侵入しうるものは、一つもありません。(一六一・二三一)

 皆さんは神様に侍る者として、皆さんが嬉しいとき、神様をどれだけ嬉しくしてさしあげられましたか? 皆さんがお腹が空いたとき、ご飯を食べながら感じるありがたさ以上に、神様に侍ってさしあげなければなりません。

 皆さんが良い物を食べるときや着るとき、そして悲しいときや難しいときも、いつも神様に侍るべきです。それで神様の心に記憶されうる事情を残しておくべきです。(一七・二九一)


三 天国というものは、心情で侍った者が行く所

 天国という所は、心情を通さなくては行けない、ということを皆さんは知っているでしょう。天国は、全体を主管することのできる本然の国であり、本性の国なのです。その国は、ある事情を持っていては所有することはできません。深くしみ込むような心情の因縁を備えてこそ所有することのできる国なのです。ですから、キリスト教は、究極的に事情を通す教会ではなく、心情を通す教会なのです。事情の因縁を越えて、心情をたたえうる基盤を築くことに、地に対して摂理される天の目的があるのです。

 堕落とは何ですか? 神の事情を論じられないのではなく、心情を論じられないのが堕落です。堕落した人間を捜してこられた神様は、失った息子娘に対することのできる心情は持っているけれど、その心情を分かち合うことのできる人がいなかったので、その人々を捜し求める役事をされますが、それが救いの歴史であり、その人々を捜し求めるために送られた者が救世主だ、ということを、皆さんははっきり知るべきでしょう。

 私たちは、天国を望む前に、神様の心情を望むべきであり、また、神様の心情を望む前に、私自身がどのように生きて行くべきか、ということを考えるべきです。皆さん自身が、まず侍る心情を持たなければなりません。高く貴いものに対しては、頭を垂れて恋しく思うのが人間の本性です。人間は堕落したといっても、高く貴い天の心情に対し侍りたいと思うのが、私たち創造された人間の本然の心情です。そういうようにして、心情の通ずる侍りの生活をしたことのない者は、天国と何らの因縁もないということを、皆さんははっきりと知るべきです。

 さて、侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経た後には、侍る生活が必要です。侍るための準備の過程を経て、侍る生活を経た後に行く所が天国です。心情で侍った者が行く所が天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を褒めたたえ、高く表す世界が天国です。これを皆さんは、はっきり知るべきです。私たちは、このような目的の世界に向かっていく過程を経るべき運命に置かれているのです。(八・二九〇)

 天国はどのような所か? 準備したものを持って自慢する所であり、侍る生活をしたことを自慢する所です。では、その天国はどのような者が行く所なのか? 主を信じ、幸せを受けるために、幸せを先立たせていく者が行く所なのか? 違います。天国は侍るために、心情的に準備する生活をした者たちが行く所です。準備する期間に死んだとしても、侍りの生活を残して、喜んでいける者が行く所なのです。(八・三〇四)


四 侍る生活の事例

1 生活の事例

 先生がどこかに行くというときは、皆さんは千里の道も遠いといわずによく歩いて回ったでしょう。三ヶ月前に家でよもぎ餅を作って、その餅が汚くならないようにと、ほどきもせず、本部まで背負ってきて、先生に差し上げるんだといって、見てみろというようにほどいてみると、餅が酸っぱくなりかけて、青カビが生えていたこともあるでしょう。そのように餅に青カビが生えて、ウジがわいてもいいのです。その餅は食べることはできなくても、億千万にも該当するのです。そうであるほど、情がわいてくるのです。

 また、釜山の影島に住むある老人がいました。そこからチャガルチ市場に行こうと思ったら、船に乗らなければなりません。そこでその老人が、チャガルチ市場に行くために船に乗っていく途中、大きな船を見て、「ああ、あの船に先生をお迎えして、世界を遊覧できたらどれほどいいだろう。」と思いながら、これからはそうなるだろうと考えたというのです。そして、生き生きとした魚を見ては、その魚のしっぽをつかんで泣いてもみたというのです。そのような心が必要だというのです。

 そういう環境においてもそうできるというのは、真の愛を持っているからなのです。真の愛を持っているために、気質的にそのような老人は愚かに見える傾向があります。道理に合わない鉤のような性格を持っているのです。

 愛というものは、愚鈍で間抜けなものです。何の成り行きも分からないのです。そうじゃないですか? 本当に愛するのならば、横でだれが見ても見なくても、関係ないというのです。だれかが見ていることを意識した愛は、限界圏内の愛なのです。だれが見ていようといまいと、意識しないでいられるそのような境地の愛が、どんなにバカ正直で間抜けかということです。

 あるときには、山奥で掘ったトラジ(桔梗の根)を先生の前に持ってきて、涙を流すのです。そのようなものが霊界に行って、その老人を解放することのできる良い材料となるのです。(三三・一一三)

 許浩彬の集団で侍るのに、どれだけの精誠を尽くしたか? 皆さんは夢にも想像できないことをしました。天に侍る礼法を果たすために、どれだけの精誠を尽くしたか? 天の王子として、この歴史の父母として来られるその方、六千年の恨を抱いてこられるその方、堕落した我々後世によって歴史的に残ったその方の恨を、精誠を尽くしたその土台の上で解いてさしあげなければなりません。一代で解いてさしあげるべきこのような使命を神様が教えてくださり、侍ることのすべてを教えてくださいました。ですから、その集団を信じる人の家には、いつでも主が訪ねて来られれば、朝食、昼食、夕食をもてなしてさしあげられる準備をして待っていたのです。そこで尽くした誠は、一言では言い表せないものです。

 また、敬礼をどれくらいしたのか? 三千回は普通で、七千回までしたというのです、七千回。分かりますか? 敬礼を七千回しようと思ったら、一〇時間はかかるでしょう、七千回しようと思ったら。それなのに、朝から、あるいは夜明けから始めて、ご飯も食べずに七千回の敬礼をしながら侍る生活をしてきた集団が、この行くべき道をつかむことができずに、壊れていってしまったのです。

 天の準備された伝統的な歴史でしたが、みんな流れていきました。しかし、それは天の深い事情であるので、これからは天法を中心として、私たち後世でこのような精誠とともに神様に侍っていかなければなりません。このような歴史的事実が葬り去られてしまったということを、皆さんは知らなければなりません。

 先生自身がそのような誠を尽くして、復帰の道を来たために、皆さんがこの復帰の道を準備するためにおいては、それよりも一〇倍、一〇〇倍の代価を払うべきなのです。このような観点から見るときに、みなさんの血肉、細胞と骨髄が、いつも侍る感情を忘れてはいけないのです。また、このような位置でいつも神様に侍りつつ行かなければならないのです。これが統一教会の信徒たちがしなければならない生活だということを知るべきです。(二三・三〇一)


2 お写真を持ち歩きなさい

 この写真はだれの写真ですか?(笑い)ん?(ファーザーです)。だれがファーザーですか?(笑い)悪名高い人でしょう。これは何ですか?(IDカード)。何のIDカードですか?(勝共連合のIDカード)。これを韓国で作って、七〇〇万の勝共要員はみんな持っているのですか? なぜ、これを作れといったかというと、この写真を持っていれば霊界の先祖たちが、たくさん協助することができるからです。今、時は神様が主管できる時代に入ってきたのです。神様が主管できる時代に変わっていく時なのです。分かりましたか?(はい)。

 この写真がこのような効果をもたらすために、今回も…。それではこういう写真はどうですか? 霊界はこれを好みますか、これを好みますか?(大きい方です)。見なさい。霊界はこれが好きなはずなのに、日本人やアメリカ人はこれを好むのです。このように違うのです。この二つのうち、これにするという人と、これにするという人では、それだけ差が大きいのです。イスラエル民族がエジプトから出てくるとき、扉の横の柱に血を塗って災いを逃れたのと同じで、写真を持っていれば、そのようなことができるかもしれないのです。霊界は先生の写真をいくらポケットにいれておいても、分かるのです。こんなに小さいものを持っていたら、柱に血を塗っておかなかったり、途中で塗るのをやめてしまったのと同じことです。どういうのにすれば良いですか?(大きい方です)。(笑い)

 日本の人たちはこの大きなカードを見るたびに戸惑っています。「一体、文鮮明という人はどんな人なんだろう?」と言うのです。けれども、日本の食口たちは経験したでしょう。先生の微笑みは、モナリザの微笑みと同じくらい神秘的なところがあるということを経験したでしょう。(笑い)あるときはこうで、またあるときはああで。しかし、ほとんど確信しているのです。数十万種類の姿に見えても、この神秘的な姿が霊界で皆さんを協助できるようにしてくれるという経験を大部分しているだろうと思うのです。どうですか? そうですか?(はい)。霊界の霊人たちは、皆先生のことを良く知っていますが、この写真を見れば霊界が喜ぶでしょうか、喜ばないでしょうか?(喜びます)。これについて回ります、ついて回るのです。皆さんの先祖たちが、これを媒介体として連結されうるのです。そのような良い材料を知っているというのです。

 この写真を持って歩くときには事故も起こらないし、何の故障も起こらないのですが、これを置いていくとそのようなことがすぐさま起こりうるのです。そうすることによって、写真がどれほど貴いかということを皆さんが悟るような出来事が頻繁に起こってくるのです。これを愛して枕元に置いて寝れば、夢見が悪くないのです。そういうことが起こりうるというのです。それ、信じられますか?(はい)。ドクター・ジョセフは「神は神秘的な方法で役事される方である!」と、言うけれど、(笑い)そう、先生は神秘的な人なのです。そうなのです。だれも私を理解することはできません。どんなに研究してみても分からないのです。ですから、レバレンド・ムーンは何ですって?(神秘的な人です)。神秘的な人! ですから神様が先生について回るのです。それがまさしく神秘的だということになるのです。

 私たちは先生が霊界との仲介者だということを習いました。一人暮しの女性が自分の夫に会いたくなるときには、先生の顔を見ればその会いたい気持ちがなくなることもあります。(笑い)。ああ、生きている男に対してもそうなのです。生きている男も、会いたいと思うとき先生の写真を見れば、そのような考えは浮かんでこないのです。だからといって夫と遠くなるのではなく、近くなるのです。男も同じです。

 さあ、ですからこれを持つようにするのがいいですか、持たないようにするのがいいですか?(持つようにするのがいいです)。だからそれは好きなようにしなさい、好きなように。それで私は世の中にはないIDカードを作るようになったのです。世の中にはないでしょう? アメリカの大統領、アメリカの国民は、アメリカ大統領の写真のあるIDカードを持っていますか? 歴史以来このようなIDカードについては初めて聞くし、初めて見るものなのです。イエス様はこれを見たでしょうか?(見ませんでした)。これは歴史上初めてなのです。(一三二・一九〇)

 今やレバレンド・ムーンの名声は国境を越えました。至る所にいる為政者たちの中には、自分の書斎にレバレンド・ムーンの写真を掛けて崇めている人が多いということを私は知っています。尹博士も私の写真を掛けているの? 毎日何してるの? 挨拶してるかな? 毎日キスするの? 情熱的でなければなりません。キスすべきでしょう。そうしたからといって失礼だというわけではありません。自分のお母さん、お父さんにはキスできなかったのに、神様の愛に代わってキスしてあげることによって、お父さん、お母さん、霊界に行った人たちが、自分がキスした勢いで同参権、同位権を持ち、自分が行く所についていけるような因縁を残すためにこうするのだといえば、神様は「ノー」と言われないのです。「そうか、おまえの言葉が正しい」と言うのです。どうですか? 尹世元、そう思うでしょう? 「はい、そう思います」。。そう思いなさい。(一七一・二三九)

 今日から皆さんは先生の写真を持って歩くのがいいのです。そうすればどんな困難に遭ったとしても、皆さんが無事に耐えられるように保護してあげられるでしょう。旧約時代、モーセがイスラエル民族をエジプトのパロ王から脱出させ、カナンに導くために奇跡を行なったとき、長子が禍を受け病気で死んでしまいましたが、羊の血を門の柱に塗った家は、その禍がすべて避けていったのです。霊界では私たち人間のすべての行動を見ることができるだけでなく、保護してくれることもあるのです。(一九八四・二・七、一三〇・二九〇)






















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