本 郷
真の愛による交差祝福と国境撤廃
(全面表示) 戻る INDEXへ


六五〇〇双「韓・日」祝福家庭への御言
日時:1988年11月7日 場所:リトルエンジェルス会館

 韓国で行われた六五〇〇双国際合同結婚式の参加者のうち、「韓日」カップルを中心として、ソウルのリトルエンジェルス芸術会館で特別集会が行われました。以下に紹介するものは、その席上、日本語で語られた御言を収録、編集したものです。


愛の戦争

 国際合同結婚式を行ったその日から、一週間になりました。今回、初めて韓国に来た者もいるかもしれませんが、韓国のいろいろな事情が分かってきたでしょうし、相対者の故郷にも行って来た者もいるでしょう。いろいろな背後の複雑な関係も、さまざま伝え残すようなこともあったと思います。

 若いときは、平坦な体験より複雑な体験がいい。それから、小さい拳で打たれるより、大きい拳で打たれるほうがいい。そういう意味から、日本で結婚するよりも、国境を超えて韓国で結婚したということは、生涯において貴重なことです。このように国を超えて日本海を間にして行ったということは大きな衝撃でしょう。その反面、喜びと言えば喜びでしょう。それは、青年時代においては、大概の者は頼もしく思う。君たち、どう思いますか?(「頼もしく思います」)

 君たちは、今から兵隊です。徴兵されて行く兵隊の運命は、私的運命ではありません。公的運命です。国家の運命と並行して自分の運命がつなぎ合わされるのです。もし戦争に負けたとすれば、国も自動的に敗北するし、君たちも自動的に敗北した立場に立たざるをえません。このように考えてみた場合に、「兵隊」という言葉は難しい。あるいは恐ろしい言葉です。兵隊がよく戦ってくれれば、その国はより安全な世界に向けて進展し、前進して行くことができるけれど、もしも勝利を得なかった場合には、後退して、どうにもならない運命に巻き込まれてしまうのです。

 これは、日本の国と韓国の国において初めてのことです。何の戦争かというと、武器を持っての戦争ではありません。愛の戦争です。男、女がともに理想として願う愛の道において、勝利者になるか敗者になるかを決める、その歴史的な先頭に立っているというのです。

 愛というものは、すべてを統合する力を持っています。だから、良心と肉身という内外の存在としての人間は、ある一つのものに共鳴することができます。その二つの焦点を合わせて、一点に結びつける作用をなすものは、人間世界においては外にありません。金でそれはできないし、知識とか権力でもってそれをなすことはできません。ただ一つ、愛だけがそれを可能にします。

 君たちは霊的五感と肉的五感があることを知っています。これらがいかにして一体となるかというと、ただ、愛によってのみできるのです。この世の習慣性に満たされた愛ではなくて、本然の真の愛を中心として考えてみた場合には、その心身ともに一致した基準というのは、触覚、あるいは焦点で合うとともに、全身で合うのです。焦点だけ合っても面白くありません。それは、刺激的な一時の喜びになるかもしれないけれど、焦点から全体が一つになったとするならば、大変なことになります。そういう力を持つものは、神の創造理想世界において、神につなぐ真の愛以外にはありません。

 このように考えてみたとき、本然の基準が、真の愛に、自動的に、必然的につながるようになっています。そこでは、激烈な闘争をなして勝利の基準を築き、悪の世界を絶やしてしまって、その上において、初めて本然の愛の接続点を考えることができるのです。しかし、今までそのままの立場で来たために、一大転換、あるいは革命を起こさなければ、それは基点に帰れません。これは一大戦争です。

 その愛の戦場はどこかというと、愛の闘いの相対となるものは、他人ではなく、自分に一番近い人です。君たちにおいては、旦那さんになり、あるいは奥さんになる。その背後にある彼らの父母たち、その背後にある親族、さらにその背後につながる国です。

 自分が相対している夫婦関係というものは、ただ自分一人ではありません。それは国家を代表し、氏族を代表し、家族を代表し、男女を代表して自分の前に立っているために、これは一つの国の、最高に統合された先端に立っているというのです。

 今、君たちは韓国人と結婚しました。もしみ旨がなく、自分たち同士で、何かの因縁によって、この世的な国際結婚をなして、日本を離れて韓国の地に渡って来て、相対者を迎え合うということを考えてみた場合、それは次元が違うのです。思いもよらない、夢だに思わないような環境でそれを乗りえようとしても、どういう方法を講じて乗り越えるか見当もつかない、見通しも利かないような立場で、非常な苦悶に巻き込まれるでしょう。


一大革命的な自分

 しかし、ここにいる君たちは、外的な、この世的な人々とは違う立場にいます。天と真の父母を中心としての、世界と国家と氏族と家庭につながる男、女たちです。それは、み旨全体を代表した男、女です。

 韓国人として韓国全体を代表するのはもちろん、その背後にみ旨を中心とした、天地につながる広い基準を中心として連結された代表的存在なのです。韓国人でありながら、統一教会人です。日本から言えば、日本人でありながら統一教会のメンバーです。み旨を中心とした基盤は、日本の基盤と韓国の基盤よりもっと広く、高く、永遠的な背後関係を持っています。愛で組み合わされたその因縁を探り出してみると、国による心情圏より、もっと本然に近い因縁でつながっています。そう考えてみると大変なことです。

 霊界から見た場合には、天国と、それから日本の先祖と君たちと、地から見た場合には、日本の国と君たちの一族と家庭を代表しています。それが、韓国を総合した代表者たちと語り合う、そういう者たちが集まったということは、歴史的に相会うという立場だけではなく、天宙的な点において、歴史を代表した基準において会うような立場ではないかと思います。

 そこで会って何をするかというと、遊ぶのではありません。この社会の青年男女がするような普通の結婚ではありません。それは特別の結婚です。その内容は特別です。

 この世的な結婚は、歴史的、伝統的につながってきた方法によって、男女が結ばれています。それによって何を残すかといえば、歴史的に相続されてきた心情圏そのものをつなげるのです。その子供というものは、特別なものではありません。それは、日本だったら日本の歴史を通してきた、普通の、並の血統圏をつないで生まれるものですが、今度は違います。

 日本人同士ですれば環境が狭くなりますが、日本と韓国というようになれば、それは倍になる。日本から見れば、太平洋がつながるし、アジア大陸につながります。それは、三十二億が住んでいる莫大な大陸につながっています。そこには、世界のあらゆる宝物や資源が横たわっています。陸地を中心として、日本が韓国を通して中国大陸、アジア大陸につながる道を考えてみても、これは摂理的であり、歴史的です。

 神の摂理上、さまざまな宗教がありましたが、宗教界を通してみても、このようなことはありません。宗教界は、「出家」を教えています。俗世間を離れなければならないと、高次元に立つ宗教は皆、そのように教えています。

 この世界から離れ、国から離れ、あるいは家から離れ、父母から離れ、愛から離れる。「愛というものは関係してはいけない」と言うのです。男女関係というものは、宗教では怨讐視しており、一番汚いものとして説いています。なぜそうなったかという根源は分からないのですが、ただ霊的世界から指導されてきた結果がそのようになってきたために、そのように信じてきているのです。

 こう見た場合に、統一教会は宗教団体でありながら、宗教世界が今までたどって来たような方向を完全に引っ繰り返しました。

 自分が家庭を代表しており、自分が国を代表しており、自分が世界を代表しており、自分が摂理を代表しています。国も自分の下です。昔は皆「小さくなれ、小さくなれ」と捨てて、捨てて、自分一人を中心とした運動を展開して、聖なる道をたどって行こうとしたけれど、今は違います。すべてを下に置いて、大きい基盤にまで、粒々のような小さなものを一番積み上げた一番高い所にさーっと立って、「我に従え、君たちも、我に従って結婚しなければならない」。こう見た場合に、これは一大革命的な自分だということを確信するのです。それを自覚しなければなりません。


歴史的伝統の情の基台

 日本も今、世界的な潮流に覆われて、駆け上がって行かなければならない運命に覆われています。いかに多く金を持っているとしても、金が人間生活、人類歴史を左右するのではありません。日本の方向を決める政策というものは、金を中心として立てるものではありません。人を中心として考える。愛なる考え、善なる考えを中心として政策を立てるのであって、経済は付随物です。それが中心ではありません。

 日本人として、普通の日本の学生であれば、「韓国」と言えば、それは「監獄」と同じように考えています。発音が通ずるのです。日本人が知っているのは、韓国という牢屋でしかないから、そういうような所ではないかと一度に結論を出して、島国で駆け回って来た男、女たちが韓国に来てみて、韓国は何でもないと思ったけれど、何でもなくもありませんでした。

 何でもないような韓国人が、日本人一人ひとりと闘った場合には、もう一日で絶対勝つ。主管しうるというのです。一年はもちろん、十年はもちろん、百年、千万年でも、一人ずつの場合には、日本人は韓国人に負けるというのが韓国人の一般的な結論です。日本人もそういうことを知っています。

 日本人は一人だったら負けるけれど、何人か組んでやった場合には負けません。それが日本人の特徴です。もしも、オーストラリアみたいに大きな島が日本だったらどうなったでしょう。なぜ独り立ちできなかったのでしょう。こう見た場合、狭いから、風があまり吹きかけるから、東西南北から吹くから一人では寒い。だからしかたなしに捜して二人組んだ。日本に行けば火鉢や炬燵があるでしょう。このような歴史的伝統の情の基台は、そういう島国の生活環境から生まれてきたのではないかと先生は考えます。

 アメリカなど見ても、観光客として、ワシントン議会とか有名な所を旗を掲げて回ってくるものは、ただジャパニーズだけです。それは有名になっています。そう見た場合には、一人では負けるけれど、団体では勝てる。そういう意味において、日本は今問題になっています。

 ところで「結婚」というものは、団体で行うものではありません。たった一人で成すものです。韓国を見た場合、「先生、そんなに言って、日本の若い男、女たちと一度に結んでしまうようなことでは困るではありませんか」と思ってもしかたがありません。「どうせ負けるはずですから、あらかじめそういう覚悟をして、朝から出発して夕方まで、生涯そういうふうに決めていきましょう」と言う場合には、完全無事通行ということになります。

 けれども、「経済的生活や背後の文化的関係から見た場合には、世界情勢につながる日本の文化基準はアジアの盟主として堂々たるものだから、韓国人は日本人に従え」と言うことは良くないのです。


中和文明の時代

 君たち、世界的に有名な戦略家はだれですか? 西洋にはナポレオン、東洋にはジンギスカン。西洋のナポレオンがいくら有名だからと言って、日本を占領したことはありません。一方、東洋のジンギスカンは世界を占領して、生涯懸けて戦争に負けたことがありません。しかし、たった一か所で負けたのです。それが韓国であり、その歴史的資料が江華島という所です。それは歴史には書いてありません。

 「半島」というものは強いものです。それはなぜ強いのでしょう? 「男」を象徴しているからです。半島というものは、あらゆる世界の文化の交流も、男女関係の交流も、新しい理想の基台もそこにおいて成される。愛を中心として皆、つながっています。そう見れば、女が慕っていくのか、男が慕っていくのかと問えば、普通先に男性が慕う。それから女性が慕ってきます。そう見た場合に、韓国は陸地を代表しています。

 それから、大陸に住んでいる者たちが考えるのは、大陸の成立時代です。日本では、志ある者は、日本列島がどのように成立したか、だれも考えません。あんな所で、わたしは世界一だと思っているけれど、少し物事を考える者は、海岸があると知っています。向こう側に行けば岸があると思えば、岸から岸へ捜して回る。そういうことを考えてみた場合、日本人は決定が早い。

 しかし、大陸はそうではなく、十年、二十年たっても変わりません。問題を考えた者がどこに行って休むでしょう。“これは長い”と、我々も疲れて果てがありません。だからこう回ってみた場合に、志ある者は違った所を捜していく。その違った所は大陸につながる半島だというのです。

 人というものは、陸地の見ねない深い所にいすを置いたとしても、皆、岬の先の先に行って、いすを置かなくともそういう所に座りたい。それが人の心です。なぜかといえば、人間は霊的、肉的に二重的な人格を持っているからです。霊は海に通じ、肉は陸地に通じます。その内外共に統一された考えが相対的に相応し、対応する、そういう境地で休みたい、留まりたいのが人間です。

 そのために、大陸につながっている半島圏には、いつも思想的な問題が起こっています。イタリア半島、バルカン半島、イベリア半島、それから、西洋と東洋をつなぐマレー半島。こう見れば、いつも半島が問題になります。韓半島はとっぴな所です。大陸から出っ張っています。そういう所には思想家が生まれやすいというのです。韓国の歴史上に、李退渓(注:、本名は李滉()李朝中期の哲学者、文臣。朱子の学説を主とした理気二元論を主張)という者がいるけれども、中国や日本でも今研究しているのです。

 半島は思想的に高い。また、気候がいい。陸地に行けば段々暑くなりますが、半島は気候が良い。そういう面においては、韓半島は世界一です。気候によって文化が発展します。

 古代文化は熱帯圏、インド文明も、中国の黄河文明も、バビロニア文明も川を中心として栄えました。そして、川時代から湖時代、地中海文明、それから大西洋文明、太平洋文明と大きくなってきます。そして大空文明となるわけでしょう。それから今のスペース時代です。上がってくる。だから、陸地から立体世界へと、大宇宙をともにして行きたいのが人間の理想というものです。

 それで、古代文明は熱帯圏文明、今の文明は温帯圏文明です。シベリアの寒帯圏文明に覆われて、今西欧世界は皆冷たくなって、紅葉して葉が皆落ちてしまうように、ヨーロッパ文明は枝だけ残すようになってきました。ここに、秋を迎えて、本当に実った文化の結実があるとするならば、それは固い固い皮で囲まれた実であるにちがいない。それから、冬が来た場合には、寒い氷の中で水と一つになった場合には、それが温度の釣り合いによってこれらが二つに割れて、そこから若い芽生えが出て、春の文明に向かう時代が来るでしょう。

 人間が堕落しなかった場合には、もともと春の文明が始まるべきでした。しかし、堕落したために、方向もなく、自分勝手に熱帯文明を起こしたその時代から、巡り巡って新しい春の文明へ戻って行く時代に移行してきたのです。今、秋の文明に向かう現在の文明圏に総結実体として、新しい実として地上に芽生えてくる、新しい春の時代が芽を吹くことでしょう。そう見るのが摂理観です。春の時代が訪れます。それを我々は「中和文明」と呼んでいます。

 真ん中の中心がすべてを統括して、新しい生命を生み出す文明圏になるでしょう。それは春の文明時代です。だから、春の陽気になったから、心も体もふわふわして一所にとどまりたくない。蝶々が飛んでどこかに行くように、自分も飛んで行きたい。歩調を合わせて、自由に花園を歩きながら喜び、飛び回りたいというようにして春が続くのです。


真の愛

 気候もそうだし、信仰の世界もそうだし、思想の世界もそうです。統一教会に入れば思想的に春になります。今まで統一教会に入る前、思想的に見れば、冬のように皆、凍ってしまっていました。秋になれば、落ち葉になって落ちてしまう。これは寂しい枝ばかりだから、風が吹けばひゅーと震える。冬が近寄るような、晩秋期の文明圏に生きていた者が、統一圏に入れば春みたいになるのです。君たち、飛ぶように気持ちのいいことを経験したでしょう。目を丸くして地獄に行きますか? (笑い)

 統一教会は不思議な所です。目から涙でなく、新しい芽生えが出てくる。鼻からも出てくるし、口からも出るし、皆、出てくる。そしてどこへ行きたい? “日本にとどまりたくない。東京がいくら美しくても嫌だ。中国も嫌だ、アメリカも嫌だ。ただし小さな韓半島へ”そう思うようになっています。

 それで、先生がそんなに韓国を応援し、褒めたために、日本をけってしまうのではないかと、そう思ってはいけませんよ。なぜかというと、今み旨に入ったいかなる国の若者にも、「どこの国の人と結婚しますか?」と聞く必要はないというのです。決まりきった答えを、君も私も知っているのに、なぜ聞きますか? 「どこの国の人と結婚する」と言った場合、名前はどうでもいい、内容が重要です。イギリス人も、ドイツ人も皆、韓国に対して関心を持っています。

 日本人の君たちはどうですか? ここにいる君たちは関心どころではありません。君たちの父母は皆、韓国人に対しては大嫌いでしょう? 「黒人とならまだいいとしても、韓国人とだけはするな」というのが日本人の根性です。

 先生がなぜここで話をするかというと、先生と君たちと呼吸が合わないといけません。遠からずして、もう別れます。相撲でもとって、プールでも入って、もっと記憶に残したいのが人情というものです。そういう意味で、先生が君たちのためにやるから、それは悪くありません。それを自分の欲望として何か与えられるのだったら、気持ちが悪いでしょう。(爆笑)

 日本人のことを先生はよく知っています。君たち、電車やバスなどに乗ったとき、僑胞の人たちが横に座ったことがあるでしょう? そのとき、気持ちが良かったか、悪かったか、率直に言ってみなさい。今は韓国人がいいの? (「はい」)。それは方便で言うのか本当に言うのか、分かりません。今はどうですか? (「いいです」)。なぜか? それは何によるのでもなく、ただ、統一教会の先生がいるからです。先生がいなかったら一銭の価値もありません。日本でも、田舎から東大生が出たら、村のおじいさんが見物に来るでしょう。そういう者が何のためにここへ来たのか? 東大を卒業したからといって、特別に先生がよく会ってあげるわけでもないのに、何のためにここへ来たか? その答えはたった一つ、先生が生まれた国だからです。

 先生という人はいかなる人ですか? 韓国を第一に思う人か、日本を第一に思う人か、世界を第一に思う人か? (「世界!」)

 先生は言葉が巧みだから、うそを言っているのかもしれません。しかし、七十歳近い先生の生涯の歴史を通して見れば、文先生という人は、世界のため、神のみ旨のために成していると分かるのです。今、世界的に働くその基盤を作っている人は先生しかいません。それはもう公認された立場です。

 その世界をどうするのですか? (「統一」)。統一して何をするのですか? (「神の国」)。「神の国」をつくって何をするのですか? (「地上天国」)。地上天国をつくって何をしますか? 今日、地上天国ができたとしても、腹が減って皆死ぬようになったらどうしますか? (「神とともに喜びます」)。神とともに何もなしに喜ぶとすれば、それは気違いです。神とともに真の愛を中心として、三点を置いて喜ぶべきであって、ただ“神とともにやっている”というのは気違いではありませんか?

 礼儀正しく、四方八方周波数を正しくして、調和するような立場において愛とともに喜ぶという、その釣り合う基準が必要です。神の愛とともにけんかするとしても悪くありません。「なぜ、こんなに長い間会ってくれなかったのか?」と言って、神とともにけんかしたとしても、それは悪くありません。愛を中心として成すすべては、悪に結実しません。

 親がむちでもって子供を愛するとき、それは罪ではありません。それを治める法律はありません。愛のむちは希望のむちです。愛のむちは未来の橋のむちだというのです。橋が作られるのです。

 だから、愛を中心に関係したすべてのものは、いいものはもちろん、それは気合いをかけるとしても、悪いことではありません。本当です。だから、愛によって生き、愛によって死ぬのです。愛によって生きながら、愛によって死んだ者は不幸者ですか、幸福者ですか? (「幸福者です」)

 それは、生きる者よりもっと長く、もっと高く、もっと広いものを持っているからです。愛によって、ああいう格好をして、愛を中心として生き、死んでいったとするならば、幸福です。愛に生きるすべての結論は幸福になるというのです。失敗ということはありません。

 先生を見た場合、一生涯失敗したように見えます。アメリカに行って、追いに追われて獄中生活をしてきました。日本帝政時代にも追われて獄中、韓国で獄中、いつも牢屋の生活でした。それは失敗ではありませんか? 何が望みで、何を中心として生きたいからそのような生き方をしたか。愛を求めてゆく生き方をしたいからです。

 「真の愛」は地上にありません。真の愛を求めるには、地上を引っ繰り返してみなければなりません。そればかりではなく、こういうふうに縦に切ってみなければなりません。

 そういうふうにして、地球上に東西南北、四方八方、いくら捜しても愛がないから、「地上から離れるべし」と結論づけた場合に、それは天から見てもOK、万民からも、歴史上の人々からも認められることであって、それを成しえないという結論を出すことができません。

 だから引っ繰り返すのです。引っ繰り返したら大変と思うのはサタンです。大勢に構えて、「なぜそんな勝手なことをするか?」と。「それは愛するからだ」と、そこに悲惨な戦闘が起こるのです。彼らは権力の力によったけれど、先生は愛によって、愛を満たして打たれて行く。打たれて追い出されてしまったようだけれど、一周して行けば、結局は彼らが追われて行くようになります。彼らは一周するところまでは分からないのです。愛は一周ばかりでなく、「永周」、永遠に回る。「永周」という言葉は今までありませんでしたが、今から使いなさい。

 愛によって生き、愛によって死ぬ人は幸福だと結論づければ、先生の生涯は悲惨でしたが、死にかかる未来に向けて、その愛の希望の道を、そのまま続けて行けば、その者も幸福な者になるでしょう。サタンが自分を連れて行こうとしているのではありません。神様が迎え入れて、天の王国に連れて行かれるであろうと思います。


神の国に必要な子供

 統一教会の文先生に会わなかったとするならば、君たち、今いかに悲惨か考えてみなさい。

ここに女の子たちがたくさんいます。顔の広い美人のいとこみたいな、これぐらいの美人だったら、日本のどこでも声をかけられるだろうという性質の良くない女がいるとすれば、悪魔の的になってしまったでしょう。そのような者たちがここにも座っています。別に顔も大したことはなくても、君たちの相対者から見れば、大したものと思われるでしょう。今は皆覆われているのです。愛の力というものは本当に不思議です。醜い者でも、愛に覆われた場合に、なぜあのように面白く、かわいい傑作となるのでしょう。それを考えると、愛の造化力、変化力、愛の和動力は偉大なものです。愛の眼鏡をさっと掛ければ、醜い者は一人もいません。

 それで、韓国にたくさんの者たちが来る中で、よくも選ばれました。人間の希望は、日本人も韓国人も同じです。日本の男から見た場合に、日本の最高の美人たちが、韓国の男と皆組になって日本にはもういなくなってしまったとすれば、日本の男はどうしますか? これは大変です。それで、男たちも考えて、“その代わり、韓国の女を迎えたらどうか? ”と、そんなことを考えた者もいるでしょう。

 韓国の女は、そう優しい女ばかりではありません。一週間で、そのような経験を多くしたという話があります。韓国の女は強い。強い男たちを生む女だから強くなければなりません。それは原理的であり、理論的です。活発で勇気ある女と、優しくてそわそわした女と、どちらがいい?

 結束に余る女は、日本人は困るでしょう。君たちの感覚と違うのです。文化の背景が違うのです。持ち方も違うし、歩き方も違う。韓国の女はチマを、こうやって四方八方広げてもまだ余裕があります。日本は、着物という文化の産物が、活動のすべてを制限しているのです。

 韓国の女は、寒いときには、さーっとチマの下に四人兄弟に、お父さんと五人ぐらい入れて、布団をかぶっているような、女王みたいな素晴らしいポーズをして気持ちいいでしょう。日本人の女はそれができると思いますか? ノミさえ入って行く所がありません。それで、よくも考えています。高く上げないと広くならないから、ここまでチョゴリをこういう風にして。(しぐさで示される。)だから、日本人の踊る踊りはいくら力を入れても、袴のすそが狭いから、一メートルを超えられません。日本人の女はそうでしょう。韓国の踊りは宙に二メートル飛んでいます。(爆笑)

 それだけ違うのです。文化の背景が違うために、君たちの尺度で計ったら失敗です。先生も真剣です。君たちより本当に真剣です。十年以降には、ぶどうの房みたいになった君たちの子供が見たい。

 君たちを見たって、日本人、韓国人と、違う国の人です。それでは、第三番目はどこの国の人? 韓国人でもなければ、日本人でもない。もう君たちとは違うから、「天国」と言ってもいい。けれども、「韓国人、日本人の天国」と言ったらびっこになります。二つの国を持っている人がいますか? 三番目に現れる者が、未来の世界に向けて、神の国に向けて必要な子供になります。だから、今から何十年か待たなければ、神の認める、ふさわしい者は生まれてこないと考えるのです。


最も貴いもの

 韓国にまで来て、こういうような背景の歴史を組み合わせたのです。先生がいなかったら、いかなる方法をもってしても、合うこともつなぐこともできないような環境にある者たちが、韓国の地に来て、どういうものを残しますか。国を超え、氏族を超え、自分の文化の背後すべてを超えて韓国に嫁いで来て、難しい環境に合わせながらすべてを切ってしまって、すべて無の状態から、すべてがあるようにとらえて、新しい地に合わせるのに、いかなる犠牲があることでしょう。そういうふうにしてきて、夫婦生活をした後に、どのようなものを残すか問題です。

 特に日本の男だったら、韓国の一番悪い女を迎えたいと思う。女に対して「醜女」という言葉はありますか。それを「ブス」と言うの? 醜男たちが住む家は、蜂の巣みたいだから「ブス」と言うの? それだったら、もう醜い男ばかりをたくさん生むような女を「ブス」と。そういう女と結婚して、普通だったら嫌がるような者と結婚して、そこから、父母とは逆の子供が生まれてきた場合にはどうかというのです。そういうことも考えられます。だから、未来のことは人間には隠されているのです。

 今、日本の新郎新婦たちは、何を残していくべきですか? 日本の言葉、日本の着物を残していきます? 何物も残してはならないようになっています。何を残しますか?

 一番尊いものは、日本人が持てないような代表的な愛を残すことです。金を持ったとしても誇ってはなりません。何年後にはそれ以上になります。快適に食べるようになります。大学を出たといっても、人生が六十年も残っているのに、四年ぐらいの期間に勉強したことを中心として、「旦那さんは高等学校しか出ていないのに、わたしは大学を出た。気持ちが悪い」。悪いと言うその者は、とんでもない者です。勉強させたらいいではありませんか。そうしたら、日本の女は夫をこんなに愛したと、愛の量が高まり、広がっていきます。

 夫に大学を卒業させるために死に物狂いで働いて、夫を偉い男として育ててゆくならば、日本の女というのは歴史に残ります。日本の女王になるような偉い人が韓国に来て去らなかった。そういう道もあるのです。

 それとも、マニキュアやルージュやハンドバッグを残して、豪華な生活ぶりを残すために来た。働くこともしないで、韓国にちょっと威張りに来た。どちらですか? 何が尊いですか? (「愛」)。愛が尊い。それ以外にはありません。

 それを植えた以上は、それを抜こうとする者がいたら、それ以上もっと詰め込もうとする真の愛を残した場合には、永遠の愛の主人として残ります。それを歴史に清く清く残して溜めて、深く深く、掘られないように保とうとすれば、民族愛、国家愛、世界愛につながります。分かりました? (「はい」)

 この手が何を動機として動いているか、聞いてみなさい。この顔を毎日鏡で見るたびに、この目、この鼻、この耳、詐欺師みたいに自分の利益をむさぼりつつ、誇り高ぶって、どうせ消えてゆく姿になってしまう己であろうかと。

 それでは話になりません。自分の一身に何かを残さなければなりません。愛を中心として駆け回り、韓国人の愛より以上の何かを残したとするならば、その夫人なり、その夫なりが涙ながらに記憶して、日本の地に行って、その先祖を親戚に誇りたいというようになります。そのような何物かを残すべき使命のために、ここに来たということを忘れてはなりません。分かりました? (「はい」)


愛の支柱

 先生だにアメリカへ行って、あの大きなアメリカの国を激動させ、かき回しました。それを見た場合に、自分のために成したのであれば、アメリカ人の一番劣等の者からもけっ飛ばされたはずです。太平洋の果てまでけっ飛ばされてもいいような者であるというのです。その反面、アメリカ人がやらないその愛を残すために、迫害の道を来ました。

 かき回してもいいから、本当にそれを受け継ぐ相対者を求めるために、そういう難しい立場で会って、地を這いながら、心を交えながら、ともに励まし合う、そういうような基盤を願いつつ、その上に愛の柱を打ち立ててきたのです。牢屋に引き込まれても、愛のゆく世界は新しい。ダンベリーの獄中の壁の向こうに、わたしが立つべき理想郷があると、そのようにして生きてきました。

 牢屋に入ったときに、アメリカ人と牢屋で一緒に住みながら、皆を先生が感動させました。そこは、アメリカ全体二億四千万の社会現象を縮小した悪の終着点でした。ぱっと一言、言った場合には、命が吹き飛ぶ。そういう所に真の愛を、ダンベリーのどん底までいくらでも打ち込むことが可能であったということを発表してきたのです。それを感じるようになったすべての者が、自分の親を超えて、妻を超えて、子供を超えて、先生に打ちかけて来るのを見ました。国も、自分の氏族も、家族も、一身すべてを犠牲にしても、そこに残したい思いがするのを見た場合には、偉大な者となる。真の愛の主人となる。それを求めてきたということを忘れてはなりません。

 韓国の女の顔を求めて来たのでもなければ、男の素晴らしい体格を見詰めてきたのでもありません。先生に最も尊ばれる、永遠に残すべき、万民のすべてのモットーとしてたたえるべき、真の愛の支柱をこの地に残すために来たというのです。

 ここにいる君たちは競争です! その愛の柱を済州島の南端に打ち込んだその者が、全半島で最も高い愛の柱になるであろうか。海でも、山奥でも、山頂でもいい。ただ一軒の家がある所でも、また、ない所でもいい。真の愛を象徴する所であったならばどこでも、この愛の支柱を打ち込まなければなりません。

 怨讐の道によって消えていった韓国の先祖たちも、日本の帝政時代に犠牲になった人たちも、日本人によって植えられた真の愛の支柱を、「それを抜け」とは言えません。先生を中心として両方を結びつけているということを考えなければなりません。

 それゆえに、霊界も先祖たちも、周辺で新しく出会うその人たちも、今から成していくこの夫婦生活の前に、あだに取り扱ってはいけません。このような道を打てば、胸が締めつけられてくる、きょう死ぬ人も出てくる。そういう現象が起こるのです。それは韓国でも日本でも、あらゆる所で実証されるでしょう。君たちが、この統一教会に入って結婚する前に、霊的に、自分はどういう者と結婚するかという体験をすることがあります。ある時代に亡くなった東洋の娘が、今度祝福を受けてみれば、その顔がそうだったりする。よくもそういう者を先生が選んで紹介してくれた。数千人も、それは偶然ではありません。このように組むのは、天地ともに抜くことのできない大きな愛の柱を打ち込むためです。外的には、憎いからハンマーを振って、その柱を打てと言って打ってみた後に、それが愛の柱だったらいかばかり偉大なことでしょう。

 愛の道を行かないならば、男、女を無視して行きなさい。愛の忠告を受け入れない場合には、命を懸けて押し付けていい。それだからといって後退してはなりません。押しかけて後退すれば、永遠に後退してしまうのです。愛に屈伏させるその波動を見抜かないというと勝利者になれません。

 先生もそうでしょう。世界の果てに押しかけておしまいではありません。それでもサタンが押しかけて、サタンが尊ぶ一番端の方を自分が取って、サタンは逃げて行く。先生はここに立って、今から帰って行くのです。君は帰って来る道がありません。それは蕩減の道です。押しかけて、中途半端で後退するような者になったらだめです。それは始めない方がいい。十年、二十年、三十年、韓半島の地を目指しながら、決意したその一念に覆われて正しくなされていく。そして、長く続けながら、神の御前に“よろしく”というその勝利者の言葉を残していくために、ここに立っているということを忘れてはなりません。真剣なことです。

 顔はどうでもいい。顔は皮の変形したものです。顔の縮みや収縮は、変形したものです。今は整形学が発達しており、いつでも作り変えることができるではありませんか。一週間で美人になれます。


愛の道

 先生は君たちといたいのに、もう帰らなければなりません。子供はいつも親の許にいたいものです。イーストガーデンにいる先生の子供たちも、「お母様といつも一緒にいたいのに、なぜいつもいないの?」と言います。それだからと言って、彼らが喜ぶことをしたら、先生はどうなりますか? そうはいきません。

 君たちも先生の子供でしょう? (「はい」)。「先生が韓国にいないで、無慈悲にも顔も振り向かず、飛んで行って消えてしまった!」。泣きなさい。泣けば福が来ます。恵みが生まれてきます。雨が降れば、新しい生命が生まれてきます。泣くことの心でもって涙を残すところには、生命の基台が残されます。

 笑いたいの、泣きたいの? 本当にうれしくて泣いている顔つきと、本当に悲しくて泣く顔と、顔が何パーセント違うのですか? 同じくらいです。笑ったり、泣いたりするのは、上がるのも、下がるのも、何の差別もありません。真の涙を流すところには、生命の種が、芽が生えてくる。旦那さんの泣く顔もそう悪くありません。「なぜ、君はこういうふうに泣くのか?」と聞かれれば、「真の奥さんの名前を残すためだ」と答えるべきです。

 ここに二人の女性がいるとします。一人は美人で、体格もすらっとしていて、何も条件を付けるところがありません。足の爪さえ格好よく、美しい指をしています。その美人と、ブスが二人ともそれぞれ旦那様に一所懸命仕えています。ともに一所懸命語り合い、キスをするのを見た場合には、美人の夫婦が倍になります。それから、笑い転げるようなそのことが、垣根を超えて村の注目の的になりました。それなのに、ブスの夫婦はみっともない格好をして、歩き方もみっともないし、行動もみっともない。しかし、美人の女は、男が死ぬ際に、自分が先に死ねば救われるのに、命を懸けることができませんでした。他方、ブスの女は先に死んで男を助けたとするならば、どちらが烈女ですか?

 同じ二人が、おのおの旦那様の烈女になろうとして、一所懸命に働く。働くのも同じです。点数も同じです。もう十年か二十年間、同じ点数で、同じく仕えてきました。しかし、一方の女はびっこになって、片輪になってしまいました。夫のために働いたから片輪になってしまったという場合には、片輪になった女と、片輪にならなかった女と、本当の烈女を求めるには、どちらを烈女として選ぶべきでしょうか? (「片輪になった方です」)。それは困難な話です。

 たくさんの女がいて、皆韓国にいいことを残し、いいことをしようとしました。その中で、一番日本を代表した女、夫を愛し、夫の家庭を愛したその奥さんはどういう人でしょうか? 四季に合わせて、いい色合いの着物を着て、繁華街をずっと歩き回りながら、いい気持ちで有頂天になって住む女もいるでしょう。日本から来て、そういう成功した姿、こういうのはだれもが願う女のポーズです。普通の女はそういうふうに考えます。

 しかし、一方では、日本で見たら相当偉いと思ったのに、今外国での姿は乞食にも及ばないくらいにみすぼらしい。それで、影の後をたどりつつ歩くような生活をしながら、それでも韓国に尽くす。旦那に尽くす。未来のために、み旨のためになろうとする女がいたとするならば、どちらの女を、韓国あるいは日本としてたたえるでしょうか? (「後者です」)

 先生は罪なき立場で手錠をかけられて、五年の刑を受けて牢屋に向かって行くときに、それを振りかけながらガチャガチャ音がしたことを、今でも忘れられません。

 その音は四季を超越し、時期を超越する。そんなみすぼらしさが花の香りみたいになって、天宙に神の心を動かすような材料になっているのです。当然、亡くなるはずの文先生が、歴史上の万人の頂上に立ちながら、未来に対して号令をかけるようになったのも、歴史が願い、天宙が願う姿やその立場だったから、そうなったということです。それは、愛の心情の基台の上にのみ可能であるということを忘れてはなりません。


歴史に残すべき実績

 結婚してここに来たのは何を残すためですか? (「愛」)。真の愛。宝物を隠しておくのに、世界で一番尊いものを隠すとすれば、最もきれいで、最も願わしい所に隠す者がいますか? 最も隠れた奥地に隠したいものです。そういう世界に、王者につなぐ勝利の道があるということを考えてみた場合に、愛は平常の人間が願うような道にあるのではなくて、反対の道においてあるということは当然の話です。

 日本ならば朝、たくあんとみそ汁と茶碗を準備して、「はいはい、持っていきます」と言って、女中なんかが持って来るそういうご飯を、何のあいさつも、祈りもしないでパクパク食べるその女ではなく、待ちに待った十年ぶりのたくあんとみそ汁を前にひざまずきつつ、神に敬礼し、祈りながら食べる姿を見た場合には宇宙が迎える。

 先生は牢屋でそういうことをたくさん経験してきました。ご飯を食べるときふと見ると、周囲にたくさんの人がたかっている。それは霊的な現象です。今そのようなことを言っても、皆涙ぐむ。だから、先生の生涯を知った、たった一人だれか来て、「先生はこういうお方でありましょう」と一言言ったら、痛哭するような悲しみを持っているのです。その悲しみの根を引き降ろし、悲しみに共鳴する相対的な愛の持ち主は、統一教会にはまだまだたくさんはおりません。

 日本から来た兄弟が、韓国にいる統一教会のメンバーにも増して、そういうふうになってほしいという思いを持つ先生です。そういうものをどうか残してもらいたいというのが先生の頼みであるとともに、未来に待つ楽しみであります。真剣なことです。

 君たち女としては、病気の旦那さんとか、貧乏な旦那さんの前に、旦那さんの喜ぶ食事を作ってあげられない女の恥ずかしさを体験する女は幸福者です。そして、涙しつつお金がない。それは、千万金をささげながら賛美してたたえるよりも、もっと尊いものであります。皆見えるところでたたえられるよりも、隠れた所で、皆が頭を下げて沈黙を守りつつ、そういう環境において尊ばれる女は偉い。それは夜のお姫様であり、昼のお姫様です。日中明るい所でも、主人になるような女になるでしょう。韓国の子供を生んで、韓国の血統を抱えておっぱいを飲ませるお母さんになるでしょう。

 何か残していかなければなりません。いい女の子、男の子を、いい旦那さんを、いい舅、父母を、いい義理の兄弟を。彼らが私のために、神の前にご褒美を受けられるようになったその誇り高い、その動機をなした価値はいかばかり貴いものか。君たち、標本になりなさい。今からたくさんの女たちが、韓国の地に向けてお嫁に行きたいと言うように、日本の地からの叫び声が天に届くことでしょう。それを願いの的としてたどって来た場合には、だれが先輩としての教材として扱われるでしょうか? それが先生の関心です。

 鹿児島のどこそこから来ただれかの奥さんが一番の美人だった場合には、その美人の顔を誇りながら書き残して教材とすれば、いかばかりうれしいことでしょう。しかし、それは何の価値もありません。顔はどうでもいい。姿はどうでもいい。ぼろの着物でもどうでもいい。残すべきりっぱな人物。君たち、何を残していくべきか? 涙を汲みながら天宙の神に侍るような泣き叫びを後に残す。それは自分たちが選択するのです。

 愛の世界は、大きい物を包容できるし、小さいものも包容できる。けれども、私は先に小さい物を包容します。それは愛の世界を最も勝利しうる道だからです。大きい物を抱えては、小さい物を抱えられません。小さい物を抱える訓練をした場合には、大きい物も間違いなく抱えられます。だから、異国の地で行く女の道は、平坦な道ではありません。

 先生は異国の地でたくさんの経験をしてきました。それで先生は、その国に行っては、その国の一番貧しい人たちの友達になろう。夜を通しながら泣き続ける女たちや、かわいそうな人たちのお兄さんになろう。そういうふうに生きてきた日々が、年月が重なって今の先生の立場をつくるようになったのです。それは一時になったのではありません。いっぺんに川を跳んで渡ることはできません。一歩一歩、間違いなく訓練して、訓練していくことによって、それが可能になるということが、この地上の生活です。

 そうしたら、君たち何を残したい? (「真の愛」)。愛の実績をそこに残した場合には、鹿児島から来ていれば、鹿児島がそこで復活します。鹿児島のそのときの人を代表して、鹿児島の精神を盛り上げて、こういう花を咲かせていっただれそれのお墓だ。実績を高める尊いものだというのです。涙ぐんで、悲惨な思いでもって、会いたくなって駆けつけるような、その思いは日本海に転がしてしまいなさい。韓半島の南海の海に潜り込ませてしまいなさい。

 そのことを自覚して、その道に間違いなくたどり着いて、そういう実績を抱えることができるように先生は願っています。


真の愛の基準

 先生もそうでした。アメリカに行ったとき、だれも知りませんでした。知っておられたのは神だけでした。一九七一年十二月十八日にワシントンに到着しましたが、それはとても苦労しながら入って行ったのです。アメリカの地で踏み出したとき、その決意はだれも知りませんでした。

 さあ、今から出発します。この地で国をたどって涙を流した者、血を流した者より以上の熱い真の血を、真の涙を流さなければなりません。今から何年後、この地で消えていくような男にはなりません。歴史をかけて、西洋の文化すべてをかけても追いつけないような、神が信頼する貴い、真の愛の基準を残していく。真剣です。

 四十三日駆け回って聖地を決定した、その日々のことを思い出します。それは、気違いのようでした。今になってアメリカの若者が、先生のたどって行ったその道をたどりつつ、自分もそういう車を持って、そういうスピードで駆け回りたいという、歴史をたどってみるスタイルを先生は見つつ、真に生きる人の道は永遠に残るということをつくづく感じてきました。

 君たちもそうでしょう? 日本の地に先生が立ち寄って何かをしたとするならば、自分もそこに行ってそれ以上のことをして、印象を残したいという思いがするでしょう? それは、人情として東西を超えての心情圏なのです。間違いなく、真の道がそうなっているということを、経験を通して先生はよく知っているから、そのとおりに君たちもなれるのは間違いないと思うから、こういうことを忠告するのです。どうか、そういうような結果に立つようにお願いします。

 そうなったら、今からすべてが解決します。だから下から入りなさい。奥さんが夫の家に入るときは、皆初めての顔です。初めて見る顔です。君たちを生んだその家族ではありません。その父母ともに一つになって生きるのは難しい。子供を生むことも知らないし、どのようにすればいいか分かりません。だから監獄の唖から始まると思いなさい。聾でないから幸福です。聾でないことを感謝しなさい。

 いくら悪いといっても、統一教会のメンバーであるならば、夫は君たちの方を一から十まで何とかして助けてあげたい、王様みたいに侍られるような、いつもそうだと考えてはいけません。韓国の伝統的風習はそうではありません。しかし、男はそう言われて乗り気になって、これが韓国の風俗だと、いつもそうやってもらえると思ってはなりません。今は逆の道を行っているのです。だから、下から行くのです。


忍耐と注意

 それからもう一つ言っておきます。復帰の道は蕩減の道です。なぜ蕩減の道を行かなければならないかというと、我々を破壊してしまおうとするサタンがいるからです。君たちは、サタンのいることを忘れてはなりません。

 これを先生はよく知っています。今度の祝福の場合にも、サタンが駆け寄った場合には、皆乱れてしまう。だから先生は真剣です。神の目で眺めて見た場合に、両国を率いる責任者というものは、こういう心情圏に立たなければならないことを知っているからです。一人ひとりを組む上において、これは日本人だから、韓国人だからよく見ているという思いはだめです。

 だから、最後まで、神が同情しうる公的人間として、きちんと正当な道を行った場合には、成そうとするすべては、東西南北どこでも神の保護の下に無事に通過できるのです。それゆえに、昼も夜も、一瞬もその思いを忘れてはなりません。

 今度の祝福において、先生は結婚式を挙げる十五分前まで組んであげたのです。顔を見れば、その真剣さ、悲惨さは、親心としてはたまりきれない。それを一般の人が見れば、「規則的でない」と言うかもしれません。しかし、愛の世界は規則ではありません。規定を超越しています。そこで「OK」と言えば、「NO」と言うことはできません。

 君たちも結婚して会ってみれば、よく合うでしょう。心はすーっと旦那さんと合う。それは、先生がよく組んであげたからです。(笑い)格好が良くても、いくら美人で背が高くても、嫌な人はたくさんいるのに、世界中のどこの国の人を連れて来て聞いても、文先生がマッチングした組み合わせは悪くないという結論が、世界的に好評になっています。

 だから、よくも残って、そのように相対者が与えられるようになったことを幸いに思うべきです。そう思いますか? (「はい」)。そう言うことはいいのですが、今からが問題です。

 いいということは、三年、五年、十年、四十年、一生涯六十年を含んでいます。それを知ってみて良かった。苦労して、六十年を過ぎてみて、天下を治める孫が生まれてくるかもしれません。それなのに、その一年前に、「ああ、これはだめだ。日本に帰ります」と言ったらどうなりますか? 人類歴史にはそういうことがたくさんあるでしょう? その、たった一年間を忍び切れずに、悲惨な結果になってしまうことがないとはいえません。だから、死ぬまで、こらえて行こう。分かりました? (「はい」)

 特に女の子たちに対して、先生は注意しておきます。女の子は男の子より弱い。また、誘われやすい。強制的に引っ張られやすい。だから、それをいつも考えながら、自分の一身の誇りというものを絶対的に守っていかなければなりません。いいかげんなことができません。一度問題を起こした場合には、生涯懸けての恨みがついてきます。その悲惨さを抜け出る道はありません。

 伝道に行ったり、いろいろなことで、そういうような問題に引っ掛かった女たちが、通りがかりに先生に出会ったら、横目ですれ違いながら、目許から涙が落ちるその悲惨さというものを先生は見てきております。今もないとは言えません。特別に注意しなければなりません。特に、言葉の通じない日本人の女の子たち、社会に出たり、伝道に出掛けたりする場合には、格別に注意しなさい。

 だからといって、訴えることもできないのです。言葉が通じないから、どう扱ってもいいような女と思われやすい。韓国にも相当悪い者もいるんですよ。皆、神様を信じる者ばかりではありません。サタンが半分、日本人よりももっと悪らつな者もいます。先生を善なる者の極とすれば、半分は、悪の極の者がいます。もっとひどい者、悪らつな者がいるということを忘れてはなりません。

 だから、いつも目をパチパチさせながら、さっと鑑定して分別し、敏速に行動して、自分の一生を守るのが、女性の道であるということを忘れてはなりません。分かりました? (「はい」)


生死を決定する足場

 さて、復帰の道を行くには、蕩減の道をたどって行かなければならないというのが統一教会の教えるところです。なぜですか? (「サタンがいるからです」)。韓国語で、■■。日本人は「■■」と正しく発音できません。サタン。今から韓国語を習っていくと、英語もよくしゃべれるようになります。韓国語は、あらゆる発音が備わっている素晴らしい言語です。

 韓国人の頭がいいのは言葉によります。また、何段階も形容詞があって、物事をすぐに鑑定する力も、言葉によるのです。頭がいいのは、そういう裏の脳を活用させてキャッチするような分別力を持って訓練しているからです。だから、韓国人は頭がいいし、情報に早い。先生が韓国人だからそう言うのではありません。本格的に君たちが勉強した場合には、韓国語は実に素晴らしい。だから、どこの国の言葉でも、で書いた場合には、皆発音できます。それを読めば、そのとおりに理解できるのです。

 サタンを見たことがありますか? 見たことはないというのです。この世でも、自分より悪い者は皆サタンです。そういう意味からは、「サタンを見た」と言えます。自分より悪い者、良くない者は、自分にとってはサタンです。

 では、神様を見たことがありますか? (「はい」)。どのようにして? (「自分より良い者を見て」)。そうです。自分より良い者が神様の弟です。弟は、兄さん、お母さん、お父さんと似ているからです。全体を見なくても四五パーセントを見れば、大概分かります。それゆえに、人を通して神様を見ることができるのです。

 だから、結局は、「人を注意しなさい」というのと、「人を好きになりなさい」というのは、一つのことです。人を注意しなさい。それから人を愛しなさい。複雑です。神様のような人がいたとすれば、その人を愛しなさい。サタン的な人に出会った場合には、それを注意しなさい。憎んではいけません。憎むことと注意することは違います。注意を払いながらやりなさい。

 アベル、カインはそのことなのです。カインはサタンの側であり、アベルは神の側です。そうすると、自分を中心として言えば、自分の旦那さんがカインであるか神様であるか、すぐに分かります。ただ見た場合に、自分より信仰的、あるいは心情的に劣っているという場合には、旦那さんに注意しなさい。

 それだからといって、注意するように先生が言ったということを言う必要はありません。先生がひそかに言った言葉を、さっと気づいて、心に留めておくのです。いくら秘密のことでも、女に言ったら、女はラッパを吹きかけます。

 先生は世界中回っていない国がありません。しかし、イギリスの女も、フランスの女も、ドイツの女も、日本の女も、中国の女も、女性は皆姿が同じように、似ているというのです。青年に話しかけるのに、おじいさんのように話したら通じません。そうでしょう? 先生は青年になりました。青年のときの気持ちは素晴らしい。

 だから、生活において負ける者は、信仰の道においても敗北者になりやすいというのです。人に忠告されたり、生活環境において忠告されるような者は、サタンの方に立っているということを悟らなければなりません。生活環境において褒められる者は、神の方に立っているということが分かりましたね。そうすれば、信仰生活をどのようにすればいいか分かるでしょう。

 まずもって、いかなる人にも悪い印象を残してはなりません。話をしていても、何をやっても、工場に行って働くときでも、自分は怠けて、人の働くのを見て、「なぜそんなに熱心にするのか?」と、そういうことを言ったらだめです。

 これ以上教えなくても、君たちだったら、解決の方法は皆理解できるでしょう。生活環境において、サタンと神が、私を中心として奪い合っているのです。私を避けて通って行けません。神も、私を救ってやらなければならないのです。絶対的に救う。神の愛情圏が世界的になっている、それがなくなるまで絶対的に守らなければなりません。

 統一教会に入って体験してみれば、明日になれば間違いなく原理を聴きに行くと約束した者は必ず、その前夜に問題になります。そういう経験をしたことがありますか? 生活上が生死を決定する足場になっているからです。

 天国、地獄でそういう決定をするのではありません。この生活上において地獄か天国が決定されます。良心的なものだったら神の方に同情する。良心に逆らった場合には、直ちにどこへ行きますか? いいことをなして前進して、悪いことをして後退し、前後左右、この地上を起点として回り、前進し、駆け合っているということを忘れてはなりません。

 だから、自分の話、行動、姿勢というものがいかに重大か。讒訴されてはいけません。かわいい顔をした女の子がポーズを少し誤ったりすると、とんでもないことに覆われてしまうということがいくらでもあります。そういうサタンを、神を、どこで分別するか? 霊界で分別するのではありません。どこでしょうか? (「生活!」)。自分個人としては良心と肉心。良心に近寄る内容のものは神の方、肉心にかなうようなものはサタン的です。


正しい生涯の道

 それで、女は特に注意しなければなりません。一方、男は女を守ってやる使命があります。エデンの園でアダムがエバを守らなかったために失敗したでしょう。一度関係をもった場合には、永遠に責任を持つような男にならなければなりません。

 それで、サタンはどこにいますか? 女の方から見た場合に、サタンの方に一番近いのはすぐ分かります。自分のために女を使おうとする者はサタンの親方です。全体のために奉仕しようとする者は、特に神の方に立つ。

 だから、今この世界はサタンの世界です。サタン世界がプラスとなって、ちゃんと構えているのです。神はマイナスの立場に立って、宗教界は大きなプラスの世界を開発して来ました。先生は四十年間、一人でもって、こういう世界的な迫害の道を超えて、今、地上のいかなる主権も反対できないような基盤を造りました。それを、一生涯で成しえたということは偉大である。

 今からもう少したって、文先生を中心として世界中が立った場合に、サタンの世界は残りますか? サタンが逃げてしまうの、消えていくの? (「消えていきます」)。逃げていくのは、駆けて追いつくことがてきますが、消えていくのは、だれも知らないでなくなってしまうということです。だから、「消えていく」というのです。逃げていくのではなく、サタンは消えていかなければなりません。(拍手)

 先生の話を聞いた場合には、天国に行くことができますか? 先生に連れられて行った場合、皆天国に行くことができますか? 先生について最後まで行った場合には、天国に行きますか、地獄に行きますか? (「天国です」)。「来るな、来るな」と言うのに、それでも来るのが服従することですか? (笑い)それではどうしますか? (「行きます!」)。それでも行かなければ道を探れません。

 先生は外交能力を持っています。よく隣にいる人に、試験することがあります。「君、何を願っていますか? 君のような者には永遠に会ってやりたくない。何も上げたくない。このやろう、消えていけ」と。上げたくて、付き合いたくても、そういうことがあります。そういうときに、試験に巻き込まれないような霊感力を持たなければなりません。

 昔は、例えば列車の広告板に、「文鮮明奴、追い出せ」というような広告が出たのを記憶しています。「神も、日本を守って祝福させ給え」と、先生がそう言っているのは気違いではないかと。

 しかし、今は、アメリカに行って東洋人に会えば、「どこから来ましたか?」と聞かれて、「韓国から来ました」と答えれば、すぐに、「レバレンド・ムーンを知っていますか?」と問われます。近所の日本人だったら、「文先生、知っていますか?」と聞く。すると日本人は言うでしょう。「知っていますとも。昔は、『文鮮明奴』と言われていたが、今、知っていますとも。文先生はアジアから生まれたんです」と。

 霊界では、文先生のことを、「レバレンド・ムーンはどこで生まれました?」と聞けば、「地上で生まれました」と言います。それで、地上で生まれて霊界に行った者は「ああ、文先生は私の友達です」と言うのです。そのとき、「私は分かりません」と言ってはだめです。「ああ、そうか、そうらしい」と認めてあげなければなりません。そういう答えを聞きたがりながら、そういう因縁を高らかにたたえるということを忘れてはなりません。

 だから、先生には怨讐がありません。それは、偉大な言葉です。それを理論的に考えてみた場合、なぜ怨讐を愛するのか理解できません。一つのものを見て、好きな部分が半分で、嫌いな部分が半分あるとすればだめです。それは、嫌いなものでも嫌いに思わない。私には一方だけだと考えた場合には、サタンはどう思いますか、「やい、これはわたしのものなのに、全体を占領しようとするのか?」と、そう讒訴します。

 本心の真心で、神の心情に通じながらそう言った場合には、そこにいたサタンはちゃんと退いてやらなければならない。霊的にそうです。

 文先生がそう思った場合には、悪いと思わないで、「カインもアベルも皆神の子供である。真の愛が欠けているから、そういう子供が生まれたのであって、真の愛を中心に立てた場合には、ともに同じように認めるのが、神の原理的観である」と言う場合には、サタンは頭を下げるのです。偉大なことです。そういうことを言いながら話をすると、アベルの方も、カインの方も瞬時に感動していきます。

 そのように見た場合に、君たち日本人、「日本人」がいいの、「日本のメンバー」がいいの? (「日本人」)。「日本の食口」がいいの、「日本人」がいいの? (「日本の食口」)。とにかく、それをはっきり分かる先生から見た場合には、「君、日本人」と言っては済まない。「君、日本の兄弟、日本のメンバーとして」と言ったら、それは群れは一つだから、そこにはサタンの讒訴条件がありません。ちょっとの違いです。「韓国人、日本人、韓国のメンバー、韓国の食口、日本の食口」と言うよりは、「我々兄弟、我々同族」と言うほうがもっと近い。

 「君臣一体」、「夫婦一体」という言葉は、主君も下臣も、夫も妻も、別々の者が愛を中心として一体となることを意味しているのです。だから、愛は偉大なものです。ただ、愛によってのみ、サタンを分別できるのです。それ以外のものではできません。

 この世の中には、罪を犯した場合に、金をやって賄賂を出して罪から逃れるようなことがあるかもしれないけれど、愛の世界にはそれが通じません。地上が問題です。だから、生活環境をずーっと鑑定しながら、どこどこが悪いと見分けながら、環境に惑わされないように、正しい生涯の道を立てながら、サタンに巻き込まれないように注意しなければなりません。


最高の心情基準

 「蕩減して、復帰する」と言う場合、何によって蕩減するか、それが問題です。それは、金でも、力でも、知識でもありません。真の愛。君たちが夫婦になってけんかをする場合には、「君、本当にわたしを愛していますか?」と聞くのです。「真心から愛していますか? 心身一体となって愛していますか?」と。心身別々に愛すれば問題です。真というものは、二つより、三つが一つになるほうがもっと真です。三つよりも四つが一つになるのはもっと真です。

 サタンが今まで地上で成しえた、自分たち、同僚自体が結び合わさって残るための愛の基準というものがあります。この地上の歴史において、孝行息子、娘としての孝子の道、忠臣の道、それから聖人聖者の道、聖子の道、という四つの道があります。そういう場合に、いかにその心情基準が、高い基準を中心として比べたとしても、サタン以上の心情に向けて、そこに立って人を愛し、神を愛するところには、サタンが干渉することはできません。

 それゆえに、「汝の心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、汝の主なる神を愛せよ」、これが、「第一の掟である」ということを知らなければなりません。神は何を一番必要としていますか? 神様自体を本当に愛する、それを願っています。本当のものはたった一つです。

 だから、この言葉は命懸けで成す。一生涯の生命を懸けて、一所懸命に成す。これは統一教会が使う言葉です。「一時懸命」でなく、「一生」です。そこで、「一永懸命」と言う。さらに、「一天、一宙懸命」と。そういう言葉を使っても我々は分かるのです。日本人は「一宙懸命」に行かなければなりません。「宙」は天宙と宇宙の宙で、畑を言い、「宇」は高いことを意味します。

 だから、君たちが一人で立った場合には、親孝行娘、息子になりたい。それから、お嫁に行った場合には、真の妻になりたいでしょう? 真の旦那さんになりたいでしょう? 真の親になりたい。そうでしょう? そして真のおじいさんになって、さらに真の祖父、祖父、祖父、祖父のところまで帰る。(笑い)だから、真の橋があります。それは真の愛の橋です。それは親孝行の真の橋、夫婦ともに、父母ともに愛の橋が垂直に上がっていきます。

 そのようにして蕩減復帰の王者になるには、日本を愛したより以上、韓国に来て愛さなければ、韓国の国から迎え入れられません。それで、日本人を愛したより以上愛さなければ、韓国の方はサタンとして讒訴する。家庭的蕩減復帰の勝利者になるには、闘って勝たなければなりません。そうなるには、日本の兄さん、日本のお父さん、日本のおじいさん、おばあさん、いかなる者より以上に韓国に来て愛することによって、蕩減の道は消化されてしまう。

 そういう心の整理ができていますか? (「はい」)。初めて会う旦那さんを、兄さんより以上、王子様のように侍ることができますか? 言葉も通じない、会う男の癖も知らないのに、自分のお母さんや、自分のお父さんに侍るより以上やれますか? (「はい」)。それが問題です。そうでなければ、国を超えて結婚する意義がないし、サタンの讒訴圏を抜け出ることができません。

 父母を中心として個人的アダムと個人的エバと、父母が代表して、家庭的アダム圏、家庭的エバ圏、家庭的氏族圏、国家圏、こういうふうにして一つになった基準が立ったのです。それは今、サタン世界の心情圏を超えた立場です。

 韓国で成すことは、日本で今まで抱え、たたえてきたすべての愛の問題とか、貴いすべてのものより、それ以上の神の心情に高まった基準に立たなければなりません。そうしないと、エバ国家としての立場がないし、アダム自体が感動しません。

 「昔、わたしを誘って引っ張って堕落させてしまったのに、今度もそうするか」と、アダムは怒鳴りつけるでしょう。反対に、心情的に押し上げるような日本人にならなければなりません。分かりました? そうやれる自信がありますか? (「はい」)。「原理はともかく、韓国の先生だから、都合のいい方便を立てて説明している」と思いますか? これは原理の観です。

 エバの心情基準を中心として、世界跳躍、世界飛躍をすべきこの時間、韓国の男を引っ張って、引っ張りだこにするような女ではいけません。「日本人同士でもっと深く相談しなければいけない」。こう言った場合には、完全にサタンの方です。それは恐ろしいどろぼうのサタンです。

 君たちは、日本の国を東西南北、北は北海道から回りながら走って来たでしょう? 先生はちゃんと知っている。君たちは知らないかもしれないが、先生は真剣に考えています。こういう若者たちを街頭に寝かせる王者、文先生は罪深い男です。もしも悪い側に立った場合には、その責任、一生というものは重い。宇宙をやっても買えないような尊いものを踏みにじる大元となった、その罰を受けるべき悲惨さは例えようもありません。これをはっきり分からなければなりません。


最後の救いの道

 兄さんの立場で、姉さんの立場で、母の立場で、父さんの立場で、一度抱擁したら永遠に離さない。この心情だけもった旦那さんなら満点です。いくら何と言っても、「絶対君を離さない」と言えば、それは満点です。けっ飛ばしても、ついて来て追い返さなければ、それは真の男です。しかし、「行け、行け」と言ったら、それはだめです。そういう立場に立たないように。そういうふうに成りやすい女は判断を早くします。

 「君がそうやったらわたしもやる。行く所がないわけではありません。日本にはもうりっぱな親戚がいて、わたしの父母はこんなに豊かなのに、それに比べて韓国は何だ。姑さんが何だ。永遠に忘れたいような者たちと、相手をしたくない」と言って、気持ち悪くて一人でむっとして帰ろうとして、ふろしきを包んだら、もうおしまい、帰る道がありません。

 女性たち、分かりました? (「はい」。日本に帰ってもだめです。サタンは許しません。ほうりっぱなしにされた、悲惨さを思わなければなりません。特に女性は注意しなさい。

 男は、そういうことがあった場合には、口を開けるな。口を開けたら、韓国の男は吹っかける。「このやろう、何だ」。韓国の女もそうです。「このやろう、何だ」。一発倒れても口を開けるな。韓国の女も情が深く、義理には弱い。そういう難しい境地を超えず、讒訴条件が残った場合には、蕩減復帰ができません。

 今から注意します。蕩減復帰して何をするかと言えば、サタンをなくした所で接ぎ木をする。普通であれば、渋柿の根を切って、甘柿の根とか枝を接げば済むけれども、ここはそうではありません。

 渋柿の根を切ってしまって、それを埋めてしまう。それからいい枝を取って、上下切ってしまって、そこから甘柿のところに半分接ぎ込んで、もう先を残してもいい。それが安心できなかったら、こっちを接ぎ込んで、上まで接ぎ込んで一つになるようにして、それから甘柿の根か枝を接ぎ木しなければなりません。接ぎ木の仕方が違うのです。神は、根も先も見たくありません。だから、サタンの血統に覆われているものを接ぎ木しなければなりません。血統を転換しなければなりません。

 なぜ、血統を転換しますか? サタン蕩減は、血統を受け取る、血統を正すためです。それはなぜか、君たちはこれをはっきり知らなければなりません。神の心情は元から相続されるものです。神から相続する。元の基準に立ち返らなければ、神の心情圏は、横から、どこでも入って来るのではありません! 世界を愛したと言ってもそれはつながりません。

 アダム、エバが子供のときは、家族もなければ、親族もありません。アダム、エバしかいなかったのです。血統は、神の真の愛と、その横的立場に立つ横的肉的真の愛が一つになったその基準に生まれる。父母の血統を受け継いだその基準において、初めて心情圏が相続されるのです。

 神の心情は、どこからか飛んで来るのではありません。血統を正さないというと、元から、心情の栄養分が、心情の血統がつながりません。心情圏がつながなければ、神の愛による相続圏が生まれません。心情圏に一致した場合には、その心情圏に属するすべての物は自分の物であり、その属するすべての物は、自分の相続物として許されるようになっています。分かりました? (「はい」)。その基準が立っていません。

 だから、その境地で、「ああ、神は私の真の縦的親だ」。いかなる宇宙の背後からもかき乱すことのない、いかにばらしておいても、自然にその方向を中央に結びつけるようになっているという、それを乱したのはサタンです。だから、サタン的心情圏を残しておけば、心中に痛みを持ちつつ、行かなければならない。神の心情を相続するためには、そのまま血統転換しなければなりません。サタンを完全に分別しなければなりません。

 蕩減復帰は、血統を求めて、それから心情圏を求めていかなければなりません。それは最後の救いの道だということを、君たち分からなければなりません。

 だから、真の愛に接すれば、日本も韓国もありません。真の愛に接するには真の親しかありません。真の父母、真の子供、それきりです。そうなれば、真の神と、真の親と、真の子供と縦的に四位基台の理想圏が生まれてきます。それをいかにして本然の血統基準に一致させるかということは重要なことです。

 そうした境地に入れば、すべてが入るのです。そこに立っていれば、宇宙が私の物、神は私の物、日本は私のポケットに入っても小さい、そのように思うのです。私の足よりも小さい、そういう小さな日本を中心として高らかに誇れるような男の腹というものはありません。

 二百十億光年の、この広大な宇宙、それを駆け回り、働きかける神様。いかに素晴らしい速度で走り回ることでしょう。それは、思いよりも速い。電光よりも速い。瞬時の活動にかなわせる力というものは真の愛以外にはありません。真の愛に立って訴えれば、万年の昔、永遠の未来が、「イーッ」と答える。

 そういうことを知った真の子女の行くべき道は、いかばかり素晴らしいものでしょう。そういう所にたどり着いた我々は、疲れを知らない雄々しさでもって、最後の勝利者になるべきであって、最後の敗北者になっては絶対いけません。

 それゆえに、生涯懸けての勝利者として、日本の先祖、世界の因縁を持っている先輩たち、善人、義人たちにたたえられるべく、今から出発しましょう。

 そういう目的に向かって、間違いなく勝利者になれるという自信をもった者は両手を挙げて、天地に轟くほど誓いましょう。堪えて、死に切って、最後の旗は、先生が行くときに、先頭に立って旗を振りかけるお嬢さん、男になろうという自信を持って走りましょう。
















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送