一、外的な苦難と試練

1、受難や迫害の場合

@「自分の愛する者を打って怨警の子供たちを救うのが神の愛の摂理である。だから神は愛だよ。神が自分に忠誠を尽くす者だけを愛するならば世界は絶対救われない。神は敵の子供のために、自分に忠誠を尽くす僕とか養子たちを皆、死の境地、血を流すような境地に落として、彼らが犠牲になることによって三倍以上の収穫を目的として世の中の人を救っていく。だからキリスト教は今まで殉教の血統を引き継いでいる。いかなる国にでも、キリスト教は血を流さずして布教されたためしはない。善なる立場の子供たちが犠牲になることによって逆にその国に基盤をつくる。だから今までの歴史で善人で踏まれなかった人はない。追われなかった人はない。歴史が過ぎてから、あの人は良かったと讃えられる。孔子も釈迦もイエスもそうだった。みんな社会の邪魔者とされ、国家の反動者というような肩書きで、はりつけにされたりして死んでいったんだよ。神に近寄った善なる人間で、この悪の世界に歓迎された人は一人もいない。歓迎されるのは悪人であって善人ではない。

 統一教会は善の立場に立っているから迫害を受けるのは当然である。それをいやに思うならここへ来る必要はないよ。しかし、追われて、踏まれてきた者の願いの国は来る。必ず来る。その国が我々の願う地上天国なんだよ。

 先生は統一教会の兄姉たちを実に愛する。しかし、どういうふうに愛するか。それが問題だよ。神が今まで人間に対してきたように愛さなければならない。あなたたちを撫でながら可愛がる、そういうふうにすることはできない。瀕死の境地にあなたたちを追い出して、サタン側の子供たちを連れてこさせる。考えれば可哀そうだよ。でも、神の愛はそういうふうになっているよ。この方法を見せられた人間は誰も反対することができない。たとえば、自分の子供とよその子供がけんかした。見たら二人とも悪いという場合、お母さんが出てきて、『何です、あなたの子供は私の子供をなぐって・・・・・・』というふうにすると、まわりの人たちは、あの女はちょっとどうか、と言うよ。しかし、そういう場合、自分の子供には『お前はなぜそんなことするの、悪い子だね!』と言って、よその子供には『こめんなさい』と言ったとしたら、向こうの親は『いや、うちの子供が悪いんです。すみませんでした』と言うよ。完全に心情を勝利するにはそれしかないんだ。そういう戦法でもって勝利した世界でなくては天国は絶対来ない。刀を抜いて打った者は、また打たれるようになるから平和になれない。それは天の法則だね。だから、こういうふうにして世界的基盤を作る統一教会を、誰も侵害することはできない。だから神の戦法は、なぐられて占領する戦法だよ。怨讐が自然州屈伏する戦法はこれ以外何一つない。先生も日本帝国時代には、牢屋に入れられて殺される程の拷問を日本の刑事から受けたよ。血みどろの、思えば身震いするような民族間の憎しみがあるんだよ。しかし、それが問題ではない。神が打たれて復帰してゆくのであるから、打たれる方に立つ者が善に立つ者である。打つ方は善ではない。」(一九六七・七・十一)

A「神は人間を試練の中に−のいて打つが、これは悪を断ち切って、私の心を神の心と一つとなるようにさせ、私の心情を神の心情と一つになるようにする基準にまで到達させるためである。」(『御旨の道』 )

B「私に押しせまるすべての苦難と試練は、それを通じて神様の過去の日々を正しく体恤させるためである。ゆえに苦難が押しせまる時には喜んで感謝しなければならない。それはすなわち、神様が私を愛して下さっている証拠である。」( 『御旨の道』 )

C「すべての困難を自分一人で受けていると思うな。神様と共に受けていると思いなさい。そしてわざわいを受けた時に、『父よ、私の先祖からの誤ちに対する蕩減を素直に受けます。以後はこのようなことがないようにして下さい』と祈れば蕩減として超えてしまう。」( 『御旨の道』 )

D「ぶつかることをいやがってはいけない。」(『御旨の道』)

E「試練と闘争を恐れる者には使命を授けることができない。」(『御旨の道』)

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