二、内的な苦難と試練

1、天の願いがいつもきびしい、という場合

 たしかに、成してほしいとする天の願いは楽なものではない。いつもきびしい。なぜか。
 それは、我々が@「一見、実行可能に見えることを一つずつやってゆくのでは、世界を復帰するのに何千年もかかってしまう」からである。

A「先生が普通では、とても不可能に見えることを命じなければならないのは、このため」なのである。(一九七四・一・一)

B「あなたたちはこの事に関する神の摂理を知らない。世界情勢にも急激な変化が起こっているが、あなたたちはこれらを神の御意に沿って理解することができない。
 起こっている様々な問題も外的世界情勢は内的神の摂理である神の御旨を中心として起こっているということである。これらの事もあなたたちは知らない。先生はこれらの事を知っているから、あなたたちを神の御旨に沿って導かなければならない。」(一九七四・二・二十八)

C「皆さんにここで天国についてどんな話をしても皆さんには実感がわかないと思います。なぜなら、自分なりにしか考えることができないからです。それゆえ、皆さんはこの道に来てどれだけ信じていくか、ということが問題だということを知らなければなりません」。(一九七三・一・一)

D「無理なこと、絶対できないと思うことをさせるのが先生の哲学だ。」

E「先生は無理なことをさせるようだけど必ずできる。なぜか。先生が実体的に背後関係をようく計算して出しているんだ。先生をもっと信じるんだね。先生はできないことばっかりをやってきた。死ぬぐらいまでやってからできないと言いなさい。」

F「できないような事を指令される人は偉い人になる。それ、偉くなる道なのよ。できないようなことを指令されて、やった時、偉くなるんだ。」

G「できないといってくだけるな。できないからもっとやる、というんだね。問題があるからこそ自分が必要であって、問題のないところに自分は必要ない。そう思う者は発展するんだよ。そう思う者には神様は希望を持つよ。」(一九七五・九・十八)

H「仕方ないからやれないという立場に立つよりも、仕方ないながらもやるんだよ。その仕方ない部門にはいくらでも成功の道があるし、いくらでも善の道もあるし、いくらでもそれは世界的な道も開かれる。だから人間は限界を立たしてはいけない。それによって、我々はヒョロヒョロした者が太い人になる。前だけしか知らなかった者が後を見るようになる。」(一九七二・四・二十三)

I「御旨の道において苦労すれば悪くないんですよ。長ければ長いほど根が長くなるし、体が太くなるし、枝が太くなるし、葉っぱ自体が濃くなるし、青くなるというんだね。それ、立派な実が結ばれる。」

J「罪があるからといって嘆くな!自分が及ばざるといって嘆息するな。及ばざる者でも、投入して犠牲になるようにその道をたどっていったならば、それが充満した場合には花が咲くんだね。その花が咲いた場合には、神様は降臨して踊ってくれる。」(一九七三・十一・十八)

K「神様は、どういう人を深すかと言うならば、結局、『すべてに対して自分が責任を持つんだ』という人を深しているのである。『自分は罪深い立場の看であるけれども、今から責任を持つような人間になります』と言えば、神様は『いけない』などとは言わないよ。
 あんたたちはどう? 今からでもいい。今からでもいい。どんなに過去の罪が多くてもね。 『今から間違いなく、全世界の責任を自分が持つ』と言えば、神様は『うん、やれ!』と言う。そして、それを願っているのである、それを。
 そういう責任を持つようになれば、神様と同じように、すべてが自分に責任があるんだから、悪い結果がでてきた場合、『自分がやれなかったから、こういう事になったんだ』とね。」(一九七五・三・九)

L「何事をするにおいても、神と誓った基準は必ず解決するようなそういう毎日の生活をやっていけば絶対しくじらない。そうなるには戦いだよ、これは。サタンはわざと試すために反発させる時がたくさんあるんだよ。」(一九七〇・十一・二十六)

M「御旨のために本当にやるかどうか考えなければならない。自分は本当にやるんだという決意もしないでやっておったら、そういう者は流れてしまうんだ。本当に御旨のためにやるか。『本当かどうかわからないけど、先に入ってきた者がやるから仕方なしにやるんだ』。それは仕方なしに後退してしまうよ。だから、目的観念を徹底化する、これが問題だよ。いかに生活圏内に、目的観念の結果の喜びを、毎日の刺激として持ち出して開拓していくかという問題が重大な問題である。」(一九七〇・一一・二十六)

N「何事を成すにも蕩減だと思って真剣にやる。その仕事の中に自分が蕩減を超えるかもわからないんだから、すべては真剣にやる。人が見ようとも見なくともそれは関係ない。世の中には、十人の人が働けば監督者がいて、やるか、やらないかと監督するんだけれども、我々においては必要ない。監督される方が、かえって気持ちが悪い。それで人が見ても見ていなくても神と一対一によって報告しながら、一歩一歩前進する価値を自分なりに積み重ねていくというような生活態度が必要ですよ。そういうように行く者は、決して堕落とか、あるいは絶望とか、そういう立場に絶対落ちない。」(一九七二・五・ )

O「勝利というものは、過程において始まるものではなく、出発の時の内的基準によって決定された結果が現われてくるのが勝利である。」(一九六九・二・二)

P「動機がないのに結果があるはずはない。先生を慕うということがあるが、それはただそうするのではない。思慕することのできる動機の実体がある。植えることをしないで収穫を得ることができるか。主体と対象は必ず相応ずるようになっているのに、その動機が完全であればその結果は完全なものである。だから生命をかけて生色の動機をもたなけれぱならない。」(一九七一・三・十四)

Q「あんたたちは、『もうできない』という。できるかできないかは死ぬまでやってみてから結論すべきことだよ。」(一九七二・九・十一)

R完全投入せずして、完全なる結果を願うところにおいて失敗が生じてくる。」(一九七三・十一・十八)

S「完全否認より完全再創造が可能である。だから、信仰生活においては文句を言うな。」(一九七二・九・十一)

21 「周りの人間が不平を言っていても不平を言うな。」

22 「不平を言うのは、神を責めることだ。恩返ししなければならない人間の立場であるにもかかわらず、神に対してそういうことを言う立場には絶対立つことのできないのが、我々人間である。先生の今までの生涯がそうだよ。獄中に入れられても、拷問で血をはき出すような立場に立っても不平を言う男にはなりません。世界すべてが反対しても、サタン圏と縁が切れる、と思えばありがたいものだよ。怨讐圏がある場合には、一周するまで反対されるのが当然の道だよ。不平を言うな。感謝せよ。黙々と行かなければならない。」(一九七二・九・十一)

23 「やる以上は喜んでやらなきゃならない。そうしないと、・・・・・・絶対、天は自分と共にしません。・・・・・・霊界が共にしない。」


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