二、内的な苦難と試練

3、神からも人からも捨てられたような場合

@「ときたま、こういう時もあるんだよ。祈りなんかしても、ある時は一週問も祈ろうとして祈れない事があるんだよ。あるいは一ヵ月、あるいは半年以上もそういう時があるよ。必ず、そういうような長い期間に自分ながらもみあうような時があるんだよ。その期間も悪くないというんだよ。そういう期間が長ければ長いほど、神の恵みも必ず大きくたずねてくる。すべてが、上下関係、左右関係の立場で、神の恵みは我々人間にたどってくるんだよ。
 
 だから、もし淋しい時期が来たとしても、力が出ないような基準があるとして、そこで落胆したりしてはいけない。そういう期間があるからこそ、谷を程えることができるんだね。そこには神も干渉できない、サタンも干渉できない、自分一人ながらやっていかなければならない、そういう期間があるんだよ。暗礁地帯みたいな、そういう期間が。腹いっぱい力を出そうとしても出せない。神に自分は捨てられてしまったような思いがする。神がいるかいないか思いもつかない時があるんだよ。そういう誓いかにして乗り越えるか。
 
 過去の神によって祝福された恵みに対して、蜜に酔った時のような、その喜ばしい心持ち、それが必要だよ。過去の自分をこういうように守って下さった神は、愛する自分の親である。わしは間違いなく神の子供である。いかなる曲線をたどっても、結局は愛の目的の立場に神は我を立たせる。その問題は間違いない。こういうような過程を通過させるのも、我にもっと大きい何かを悟らせる、あるものがあるから、こういう期間を自分に下さるのであって、自分の行くべき道をふさぐために、神はこういう淋しい立場に立たしておくんじやない。そういう立場に立てば立つほど、今まで神共に我を守り、励ましてくれたそういう基準を中心として、間違いなく神は自分を愛しておるという、信仰でもって乗り越えなければならない。誰が何と言おうと、この期間は克服するんだね。誰も頼りにできない。自分ながらの存在を認められないような立場に落ち込んだとしても、絶対に落胆してはいけない。
 
 そういう時に、過去において自分を神が守って下さった経験からみて、愛する自分の子供をこういう立場に立たせた神自体は、非常に苦悶しているに違いないというんだね。そうだろう。親は子供が苦悩の立場に陥った時、その子供を見て、あるいは知って、これはもう苦悩の立場に立たざるを得ないと同じ位置なんだ。まあ、そういう時になればなるほど、神は我々をもっと愛したい心が内心には高まっている。しかし、立場がこうだから愛することができない。しかし、これさえ抜け出れば、必ず神の愛は自分にたどってくる。そういうふうにして信仰で乗り準える。そして乗り越えて行った場合には、必ず大きい恵みにつながるんだね。こういう体験を、あんたたちは何画かすれば、いかに淋しい所でも、孤独な立場でも、絶対、郷旨に対して疑ったり、行くべき道に対して思案したり、そういうことはあり得ないというんだね。」(一九七四・十一・二十六)

A「自分が苦労の道にいる時は、泣いたり騒いだりするな。生きておられる神様は話を伝えなくとも、私がおかれている立場をあまりにもよく御存知だからである。」(『御旨の道』 )

B「あなたは、神と一つになっている限り、神は自分を見捨てないという確信を持たなければならない。」

C「君たちは時々、自分は孤独だと感じることはないの? 誰も自分のことをわかってくれない。家庭からも反対され、教会のメンバーたちさえも、自分に同情してくれない。先生も自分のことはわかってくれない。そしてさらには、神様からも愛されていないのではないかと思うくらい、孤独で寂しいと思う時があるだろう。そのような時こそ、信仰が試される時だ。他人から何と言われようと、他人が何と思おうと、けっしてあきらめることなく、自分が正しいと信じる道を歩み続けると決意するならば、その瞬間、君たちは信仰者として最高の基準に到達することができる。その基準に到達した時に、神様は無条件で君たちを信頼することができる。そして君たちは飛躍的に発展することができる。だから孤独の時、寂しい時こそ神様のことを思いなさい。神様を信じて、けっして希望を失わないこと、これが信仰者にとって大切なことである。

 苦難に直面した時、たとえ自分の身が死んでもこの道を行くという決意と勇気を持ちなさい。君たちは死ぬのは惨めだと思うかも知れない。しかし神様の御旨のために死ぬことは、けっして惨めではない。それは敗北ではなく勝利なのである。全霊界が君たちを英雄として歓迎するだろう。なぜか。それは蕩減復帰の法則からいって当然のことである。君たちは、神様のためにすべてを捨てた。愛する父母や兄弟姉妹、学校、滅場、すペてを郷旨のために捨ててきた。だから神様はこのような君たちに対して、すべてを与えようとされるのである。それが蕩減復帰の法則である。わかる? 先生は正にこのような道を進んできた。」

D「先生はまあ死んではいないんだけれど、何十何百何千何万というような死の境地を中心として願い戦った。その時は何を残すか。いくらでかいことを言っても、その境をいかに通過するか。ああいうふうか、またこういうふうか、直行するか。直行するよりも神の御旨に効果がある場合にはこういうふうにもいける。しかし、それがマイナスになった場合には、目をつぶって行く。それには何の思いも持たず、ただ一念で行く。

 それで、ああ泣き所をしながら、辛い、イエス様がそうだろう、カルバリの山頂に向かって、十字架をかかえつつ、追いに追われて行くその道端には、まあ、母さんとか、自分の弟子や、いろいろな心情的ひっかかりが残っている。それを考えれば悲しいその道である。しかし、イエス様自体、自分がこういうような惨めになっていくんだけれど、これは、神の御旨で十字架を背負って仕方なく行くのであって、あんたたちも仕方がない方法でやってくれとは絶対言わない。それで堂々と永遠の運命の道と思って、神にまともに向かいつつ慎重な悪度でいったという所に、イエス様が万民の救い主に至る権威に立たれた。その基準を我々は忘れてはならない。それ自体辛いとしても、辛いという思いを持つな。あるいは苦しくても、苦しいという思いを持つな。自分に関して繋がっているその苦労の件に対しては絶対に祈るな、祈るな。、それを考えてみなさい。神は今まで、六千年の歴史を引き継ぎながらいかなる苦労があったであろうか。その苦労を今まで、誰に訴えることができたであろうか。一人もいない! あれやこれや積み重ねた、山程の、口先などでいい表わせない、その痛みの心中の堆積物はどれだけあろうか。これを思った時、我、自分の何十年の生涯を過こしたそのことが、辛いとして、神の前に、『こういうお方の前にこんなに苦しむことがありますが、どうぞ助けて下さいまして、どうかしてこの環境から逃がして下さい』と祈れるか。先生はそうしない。そういう時は絶対祈れない。自分に直結する問題であったならば、自分と直接の問題であったならば、それが自分の家庭に終結する問題であったなら絶対祈らない。

 関係を持っても、国家的世界的内容の関係であったら、それは祈るのであって、自分のことに対しては、それは神が心配してくれる。いくら自分が問題をかかえて心配しても、解決するその力がないものが心配するのであって、愚かな者である。それは神に任せた!
 
 我々はくるべきものを、自分の運命として、喜びに迎えて行くことができるか、それ自体が問題であってそれを神に背負ってもらって解決するよう願う者になってはいけない。それは孝行息子じゃない。だから神に近よる道は、誰よりも誰よりも神のために自分を忘れて苦労することである。その神のために苦労するというのは、自分を忘れて日本を愛する神のためである。日本を忘れて世界を愛する神のためである。故に我々は世界を忘れて神直接に侍るために、自分は苦労するというような立場に立ってこそ神と一体化する。」(一九六九・二・三)

E「だから急ぐな!苦労の道を急いだら逃げ口しか見えない。十字架の道において急いだならば、それは後退の道しか見えないんだね。その道が千年続いても我は行く、そういう変わらない確固たる基準を自分自体、自分の足場の下に、いかにそれを正しておるや否や。そういう問題を中心として心配しないといけない。自分一人が過まるのは問題じゃない。自分一人滅びればいい。しかし自分のために関係してるあらゆる多くのその生命が引っかかっておる。嫌ながらもこれを克服しなきゃならない。それを考えてみなさいよ。」(一九六七・六・二十三)

F「ある一時においては統一教会は良い、どの位良いのか。世界的だと聞いているが、処刑するような場において、君統一教会を信じるか。信じてないか。このような試みをしてみたい。これによって皆さんの信仰がわかる。私が今まで直面した信仰的な試練路程を思い出す。一度このような試験をして信じることができるのである。そして私が知っている最後の多くを教えたいのであって、そうでなかったら教えたくない。」(一九七一・三・十四)

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