(五) 復帰の公式路程

二、真の父母の道

@「我々は現実における神に親孝行するには、神がいかなる道を歩いて来たかという神の内情を知らなければならない。また、苦しい、寂しい、悔しい、あるいは悲惨だったという、歴史的なサタンと人間を中心としての戦いに対する神の心情を知って、今までにかかわりあるすべての神の苦悶を、我々地上における、現実における人たちが、みんな拭いとってしまわなければ、歴史を通しての神を慰めることはできない。現実の神であり、歴史的神だから、神の苦悶、神の寂しさ、神の辛さ、そういう問題を、この現世の、そして歴史過程の神の心の痛みとして、我々はそれを取り除いてやらなくてはならない。過去において孝なるものが現われなかった、忠なるものが現われなかったから、歴史を代表して、そういう立場をとり、心に掛かるすべての内情を解いてやらないと、現世において神を安らかな神、喜びの神として迎え入れることができないのです。そして、現世において神が苦労なさるすべてのことに対して我々がそれ責任を持って蕩減して、今後我々の子孫に残す罪がないように、これを我々一生において退けてしまわなければならない。そういうような責任を持って、我々は神に忠孝を尽くし得る者でなければ、歴史過程を通過し、現在と未来を通過する神を、本当に幸福な立場に立たせることはできない。」(一九六七・七・九)

A「そういうふうにするには、歴史的犠牲になってすべての罪を我が背負い、現世のあらゆる国のすべての罪を我が担い、あるいは後世に残す、子孫に残すべき未来の罪まで我が背負って神のみ前に立って捧げものとなり得るような、いわゆるイエス様が十字架につけられたような、身代りになるような立場に立つ者でなければ、全体の、すべての罪を蕩減することはできない。思えばこれは神々しい歴史の荷が我々にかかっているということを知らなくてはならない。

 こういう、いわゆる縦的歴史において、すべてのことを横的に、六千年間のすべての罪のことを、横的に、現実において、あるいは未来をも代表して、これを蕩減しなければならないという使命を持った人が再臨の主である。だからその人は、アダムの身代りとして涙を流し、ノアの身代りとして涙を流し、アブラハムの身代りとして、あるいはモーセの身代りとして、あるいは洗礼ヨハネの身代りとして、あるいはイエス様の身代りとして、あるいは二千年歴史の間の数多くのキリスト教会における悲惨な殉教者の身代りとして、神の心を休めるように贖いをしなければならないのが再臨の主の立場である。そして、歴史的にすべて神に反対してきたサタンが、何一つすることもなく、歴史を通して勝利した、自分が勝ってきたという条件を立てることもできないような立場に立ってこそ初めて歴史的な新しい天の勝利圏が始まる。」(一九六七・七・九)

B「先生は自分の親や兄弟に対して伝道することをせずに、じっと黙っていた。なぜか。それは、初めから親や兄弟を自分の味方にして、いろいろ助けてもらったりする事は、神の伝統に反するからである。神はじっとただ一人で、あらゆる困難を耐え忍ばなければならなかった。だから先生も、そのような路程を行かなければならなかったのである。先生は神に対して『助けて下さい』と祈ったことはなく、『どうか私の闘いぶりを見ていてください』と祈った。」(一九七九・一・一)

C「悲しみや涙の好きな人がいるだろうか。我々はいつも悲哀や涙などというものは、できることなら避けるべきものだと思ってきた。しかし、それは正しい観念だろうか。我々が神と人類のために悲しみを負い、涙するとしたら、その悲しみや涙は、最も価値あるものとなりうるのである。それは、君たちが神の心を占領するために、用いることのできる二つの道具だともいえる。

 お金や知識や権力によって神様の心を奪うことはできない。しかし、他の人々のために献身する者の涙は、神様の心を占領することができる。北米大陸の最高峰はマッキンレー山である。しかし、君がそのマッキンレー山と同じくらい巨大なダイヤモンドを持っていたとしても、神様を買うことはできない。神様は、そんな安物ではない。しかし、その神様の心を、神と人類のための悲しみによって占領することができる。神様を君たちのものとすることができる。

 神様は、どうしてそういう悲しみや涙の前には、どうしようもない気持ちになられるのか。それは、御自身が、いつも涙をためてこられた神様だからである。誰でも、そういう神様に似た心をもった人がいれば、そういう人の心にふれる時に、神様の心情は動かされるのである。そしてそういう悲しみのわかる者だけが、神様の真の心を理解できるのである。

 もしここが天国であり、ここからが地獄であるというように、はっきりとわかれているとしよう。一方には、悲しみや涙を味わう機会を一切無視するような人々がいて、他方には、神と人類のために悲しみを味わう人々がいる。そこで、神の心情は、ちょうどその中間にあるのである。だから天国には、涙と悲しみにおおわれた神の心情圏を通過することなしに、行くことができないのである。その道を行く以外に、天国へ行く道はない。

 神は全能なる方であるから、御自分の子女を失われたときの悲しい心情においても、誰よりも繊細に、鋭い痛みとして感じられた。また、この地上のどんな親でも、わが子を失った時、神以上に深く苦しむことはできないだろう。神は苦しむことにおいても、全能であるからである。全能なる神は、あらゆる面において全能なのであり、それは、誰よりも涙や悲しみを深く知る能力をもっておられるということである。神は全能なるがゆえに、涙や悲しみにおいても、無限に繊細で鋭敏な感受性をもっておられるのである。

 では、その無限なる痛みの中にある神様を、何をもって慰めることができるのだろうか。誰が慰めることができるというのだろうか。そういう時にも、もし君たちが、神よりもっと多くの涙を流し、もっと深い悲しみを知った人であるならば、神は君の言葉に耳を傾けようとされるだろう。その時こそ、神様の胸をつかむようにして言うのである。『あなたの悲しみを、どうか私に味わわせてください』と。それが、神を君の慰めの言葉に耳を傾けようという思いにさせる、唯一の道である。そうすれば神は、君の言葉に耳を傾けられるばかりか、そういう君を抱きしめたいような気持ちにさえなられることだろう。

 今までのような悲しみの涙ではなく、神のために献身的に尽くしてくれた子供たちに対する感謝の涙を流したいというのが神様の願いなのである。

 誰かが、アダムとイヴが自分のために流した涙よりもっと多く、神のために涙を流し、彼らが自分のために苦しんだよりもっと深い神のための痛みを通過しない限り、復帰は不可能である。もしそういう人がいるとすれば、その人の心こそが、真に神の心情と神の想いの世界を感動させるのである。そしてそれが、神に悲しみと涙をもたらしたアダムとイヴが復帰されうる唯一の道でもあるのである。

 我々は、神の悲劇の涙を、神の喜びと感謝の涙に変えなければならない。我々が、この転換をなしえないかぎり、人類の復帰を可能とする道は絶対にない。それは極めて論理的にそう結論しうる事実であり、真理である。

 では、メシヤとはいかなる方であり、メシヤの資格とはいかなるものだろうか。メシヤとは、この地上に来て、神よりもっと苦悩し、神よりもっと涙し、神よりもっと働き、地獄の底のような苦難の中に自らを陥れながら、そこから自分で上がってきて神を慰め、神の涙を喜びの涙に変えるように運命づけられている人である。だからメシヤの候補者たる者は、自分のためにではなく、神のために苦悩し、神のために涙する者でなければならない。

 メシヤは、神に助けを求める祈りをしない。『私は神を解放し救うためにいるのですから、どうか私を信頼して下さい』と神に嘆願して祈る者である。そういう人であって初めて、その人はメシヤ候補者になれるのである。それは先生のひとりよがりな思いつきではなく、先生が宇宙の原理を発見し、事理への扉を開いてみた時にそこに見い出したことである。

 先生は、君たちに知ってもらいたいのである。神は、くる日もくる日も涙にくれ、くる年もくる年も涙にくれ、永遠なる神であるがゆえに、永遠に涙のかわく間のない神様であることを。あの日以来涙の虜となられた神は、今なお涙から解放されないのである。誰が神を解放することができるのか。神が神を解放することはできない。人間だけが、神に救いと解放をもたらすことができるのである。もっともっと多くの涙が、統一教会の君たちによって流されなければならない。先生白身、今までの人生に多くの涙を流してきたけれど、それでも今、もっと多くの涙を流していきたいと思っている。それが君たちの先生の姿なのに、君たちは安楽な生活を送りたいと思うの?

 一つの家庭を復帰しようとするだけでも、多大のエネルギーを必要とする。それだけでも生涯にわたる献身が必要であるといっていいくらいである。しかしここでは、一つの家庭の復帰を問題にしているのではない。それさえ不可能な難事のことく思えるのに、ここでは天宙復帰という、人類数千年の課題について語っているのである。誰かがそういうことを言うと、人は狂人だと思うかもしれない。しかし先生は、何十年も前から、そのことについて語ってきた。この思想をもって世界を揺さぶろうというんだから、まさに狂気と見えるのも当然かもしれない。

 しかしながらこの道は、なんの喜びも笑いももたらしてくれるわけではなく、むしろ悲哀と涙と苦労の道である。先生のことを、あまり繊細でないか、むしろ鈍感であるかのように思っている人がいるかもしれないが、そうではない。先生はおそらく誰よりも繊細な人間である。打たれたり、何か悲しいことにあえば、そのままでは先生も泣いてしまうだろう。しかしそういう時、先生はいつもまず神様のことを考える。そして、『私が神様を解放しなければ誰が解放するだろうか』と思うと、『神よ、大丈夫です。私はこんなに元気ですから心配しないでください』と神様を慰めずにはいられなくなってくるのである。それでも先生は、神様が先生のために涙してこられたことを知っている。だから神は、統一教会のことを忘れることができないのである。霊界と交流する霊能者たちの中で、時に、先生について知りたいと思って霊界に聞いてみる人がいる。すると霊界からの答えはいつも、毎日毎夜、痛突するという形で返ってくるというのである。先生の事は、涙でなくては言い表わすことができないのだろう。統一教会において涙のない者は、決して勝利的にこの道を歩むことはできない。

 先生は、涙の味わいを知らないなどという人の心というものが、どうにも理解できない。また涙を知る人にしか、先生を理解することはできないだろう。ここにいることが、神に至る近道であり、神の心情へ通ずる一点だとすれば、当然ここは涙の味がわかる者たちのいる所であるはずだ。

 先生は現在に生きているが、先生の涙は、歴史上のあらゆる聖人たちと交わってきた。この世界が先生のことを知る日が遠からす来ることを、先生は確信する。今は知らないために、先生を批難しているが、ひと度、先生を知る日が来たならば、世界の人々は涙して、先生に応えてくれるだろう。

 我々は、涙と悲しみの基台の上に、神の国の王権を立てなければならない。悲しみの王となって初めて、真に神の国を建てることができるのである。神は、自らの王国を失ったいかなる皇帝よりも、もっと深く嘆き悲しまれた。自分の王国が滅ぼされ、妻や子供が敵に略奪されて陵辱を受けるとき、その様を見る王の心はいかばかりだろうか。悲嘆の極みであろう。しかし、神の国を失われた神の心情は、それよりもっと悲しく辛かったのである。

 神様は、いかにして、その悲しみを忘れることができるのだろうか。この天宙の何を見ても、すべてが神の悲しい心情を刺激し、あの悲劇の一日の記憶を甦らせるばかりである。しかし、ついにある日突然、一人の人が現われた。『神よ。私に後を引き継がせてください。私たちが責任を持ちますから、あなたはどうか休んで下さい』という人が。」(一九七八・三・一)

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