3、男女関係

・愛の絶対基準

 愛の持ち主は一体誰か。愛の主人は誰か。男の立場から言った場合には、女がいなければ愛も何もあったものではない。愛の相対基準は男の前には、女である。女の前には男である。しかし、これは相対基準であって、愛の絶対基準には成り得ない。通過過程の存在としては認めるんだけれども、その主体としての価値を認める存在ではない。だから絶対的な立場にいる愛の持ち主、主人公は神様である。その神様の愛を、神様の御旨のままに成さずして、それを横取りしようというのは、泥棒である。エデンの園を氾したその犯罪人である。これがわからなければならない。堕落後の先祖の血統を受け継いできた人類は、蒔いた種を刈り取る時期になったんだから、若者たちが目に余る行動を平気でやるようになってしまった。日本も多いんだろう。青少年たちが、まだ、二十歳にもならない者たちが。これは、そういう種を蒔いたんだから、世界的に収穫しなければならない秋の時期になってきたのを表徴している。しかし、こういう時が来た場合、理悪的な新しい男女関係、理想的な相対基準、これを称えるある者が、ある動きが現われてこないと、神がおられない結果になってしまう。こう考えた場合、理想相対という称えがこの地上の一角に現われて、騒がれだしたということは、世界においての限りない福音である。神が喜ぶ福書である。

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