八、僕の僕から王の王まで

・神様は泣いておられる

 しかし外にいる人々に唾をかけられたり、打たれたりしても、そういうことが苦しいことではない。かつて共に食口として歩んだ人が、神を裏切って去っていく時、それ以上悲痛なることがあるだろうか。

 そういう痛みまで体験して初めて、イエス様が外的な敵、すなわち具体的に十字架に釘付けた人々による外的迫害、裏切りだけでなく、ユダによる裏切りの細く、最も痛い内部からの内的迫害を受けた方であることと、その痛みというものを少しでも理解することができるだろう。

 先生は共産陣営のみならず、自由主義の韓国においてさえ、刑務所生活を体験した。西大門刑務所に行ったその日のことは、永遠に忘れることができないだろう。

 その日刑務所に引かれていく時、一人の教会から去ったかつての食口が先生にかけ寄ってきて、侮辱にみちた嘲笑を浮かべながら言ったのである。『あんたはまだそんな馬鹿なことをやっているのかい、俺のように早く卒業することだな』と・・・・・・。

 先生は永遠にその男のことを忘れることはできない。一言も語らず黙然として彼の前を引かれていったが、心の中で神に向かって呼んだ。『神よ、今こそあなたの義と、私のあなたに対する従順を証しさせ給え』と。 このようなことを一度ならず幾度となく味わってきたゆえ、自を閉じて祈り始めると、いつも涙を止めることができずに痛哭する先生である。神のそういう悲しい内情がよくわかるからである。そして同じ事情を味わい、その心情を知ればこそ、そういう神の心情を誰よりも慰めることができるのである。

 親はもろろんのこと、妻も子供もわかってはくれない、一人として理解する者もない、そういう時こそ、孤独なる神の友となることができるのである。

 一人の男がこんなにも弱くなりうるものか、と思ったこともあった。ある意味では同じ弱き一人の人間に変わりないのである。しかし自分をそんなにも頼りにしている神であることを知っているから、そういう神の心情を想うと、いても立ってもいられなくなり、神の願いを果たして神を慰めたいという想いにかられる。 『神よ、全能なるあなたは、その望むところの何事も成すことがおできになりますのに、御自分の子なるアダムとエバの罪の故に、御自分をそのような苦悩の中に陥れられました。苦しむべきいわれもないあなたが、かくも寄る辺なき身となられて、真に頼ることのできる子女を、そんなにも長い間ひたすら待ろ続け、深し求めてこられました。私にはそういうあなたのお心がよくわかります』。

 誰でも、先生の内面の世界をかい間見ることでもできたならば、ただ『わっ』と痛哭せずにおれないだろう。特に、常に神に祈り、霊界を見たり啓示を受けたりしている霊通者たちは、皆こういうことを言ってくる。

 『文先生について祈る時は、いつもきまって神様からの答えは「涙」です』と。先生のことを祈ると神様は泣かれるというのである。寂しい一人の人、文先生を見つめる時、人知れずすすり泣いておられる神様なのである。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送