八、僕の僕から王の王まで

・神を知る者の道

 先生が生来の実力を伸ばして世俗的な分野に応用していったなら、偉大な実業家にでも、大政治安にでもなれるし、様々な分野で大いなる名声と尊敬をかちうる人物になれるだろう。しかしそれだけの能力や実力を持っていながら、そういう方向には行かなかった先生である。

 そして、生涯において、先生より多く涙を流した者がいるだろうか。苦難の道は避けられないものではなかったが、神のために、無条件に、涙の道を選んだ。

 人々から尊敬と讃美を受けつつ歓迎される道もあった。しかし先生は神御自身がそういう立場におられないことをよく知っていたのである。

 では、先生は始めから何の個人的願望も、青年のもつ青空の如き夢も希望も持っていなかったかというと、そうではなく、当然、大志を夢を抱きながら、しかし、それらをすべて自ら捨てて、いつの日かこういうふうにという希望の扉のすへてを自らの手で閉じて、人生の最も悲惨なる道を選んだのである。ただ悲しい神の友になりたかったからである。

 あなたたちもまた、ある意味では同様に苦難を負って歩んでいるが、それは過去において先生がすでに通過してきた道を引き継いでいるのである。そして我々がこのように自ら進んで苦難を引き継ぎ、それを負っていくのは、ただただ神を知ったが故である。

 我々を避難し迫害する人々が言う如く、我々に何か間違っていること、罪深いことがあるとしたら、我々には一つの罪があると言えるだろう。それを罪と呼びうるなら、『我々が神を知っている』という罪である。ただ神を知るが故に、我々は迫害する者たちの非難の的となっているこれらのことのすべてを、なすべき使命として引き受けたのだから。

 しかし過去において我々が何か悪なることを世界にもたらしただろうか。神を知ることがいかにして罪となりうるのか。神を知らないことの故にこそ、かくも混乱していく世界であり、教会は崩壊し、共産主義はますますその努力を伸ばしているのではないか。

 神を知る者の道がいかに悲惨であろうと、神を知ることこそは我らの幸いであり、特権である。

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