八、僕の僕から王の王まで

・真の後継者

 賢い者はひと度歩み始めた道を全うする。中途で終わる者にはいかなる勝利もなく、勝利は耐え忍んで最後まで全行程を走り抜く者の上にのみある。先生も神の道を行きながら、常に第一の道のみを行こうとしてきた。御言に関しても、自分に従ってくる者たちのためにも、何度も何度もありうる限りの慎重さをもって、正しいかどうかを吟味せんとした。

 実験室の研究者が、何か新しい発見をせんとする時に、その理論が本当に正しいかどうか絶対的に確実にしようとして、何度も何度もテストを重ねた末、それから世界に発表しようとするように、先生もすべてを絶対的に確実にするためには、自らの歩む全路程を通して、徹底的に実験し試験し尽くした。それを通してこの世界のすべての真埋を解明せんとしたのである。

 あなたたちもすでに神への誓約書に署名した兵士として、中途半端な道を行くことなく最後までひたすら前進してほしい。そして『私は先生以上に行きたい、先生と競争して打ち負かしたい』と、そういう人物の現われることを先生は待っている。

 先生は何度も思ったことがある。『私はまだ死ぬことができない』と。残念ながら自分が第一線を後にする時、使命を託すべき後継者がまだいないのである。

 『この者に、自分の使命を残して行くことができる、死ぬことができる』という確信を先生に与えてくれる者はまだ一人もいないのである。

 『誰が、私が神を愛したほどに神を愛してくれるだろうか、私が死んだ後に誰が私の神をみてくれるだろうか、親孝行してくれるだろうか』とそれだけが心配なのである。

 誰か『私が神様をみますから、先生は後に立って見ていて下さい』という人がいるとすれば、その人こそは歴史においても私たちの教会においても主流的人物となり、永遠に滅びることなく、その子供はアブラハムの子孫の如く栄えることだろう。

 先生は今、韓国式に数えて五十八歳であるから、七十歳までにあと十二年ある。そして二十二年たてば八十歳になることを考えると、自分が全面的に働くことができるのはあと十五年だとみている。この十五年間に誰か後継者を見い出さなければならない。

 このような破滅へと運命付けられているかのような世界を後に残すのでなく、なんとしても復活していく世界を残したいと願っている先生であるから、生きているうちにこの運動の基盤を完成していくために、自分の生涯においてありとあらゆる苦難、頭の痛いこと苦々しいこと、嵐の如き非難、迫害等良くないことのすべてを一身に受けることを決意して、『どうか我にすべての重荷を負わしめ給え』と祈っている先生である。

 そうすれば、あなたたちの時代、あなたたちを中心とした時代が来る時には、もはやそれらを過去のものとして、この運動は興隆していくことであろう。

 あなたたちも迫害の中にあって、『これ以上迫害されるのなら去った方がましだ』と考えるか、それとも『迫害が大きければ大きいほど、より大きな責任や使命を持つことであるし、より大きな挑戦をしてより大きな実績を上げうるということだ。よし、私が全部引き受けて処理しよう』と考えるか、いずれか二つの立場がある。

 先生が二十四年前に統一教会を創立したように、あなたたちも自分の任地であなた自身の運動を創始したのである。それぞれの地で新しい教会を創立し、その地のレバレンド・ムーンになろうではないか。」(一九七七・五・一)

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