E-listBBSSearchRankingMusicHall-HornGo to Top


  3.第四アダム圏、心情圏の意味

 言葉は簡単でしょう。神様が失った王権をすべて取り戻しました。神様の即位と神様の権限をすべて失ってしまったので、民もなく、国土もなく、主権もありません。そのような立場で主権を取り戻してさしあげるためには、神様の主権を成し遂げる時まで、間隔をおいて取り戻してくるのです。アダムとエバの時は家庭的な時代であって、国家的時代でもなく、世界的時代でもありません。家庭的時代を越えて世界的時代において、全体天国を完成したという条件基盤を立てることができる位置で、勝利の覇権基盤を築くことを中心として皆さんを越えさせてあげたのです。
             *
 皆さんすべての祝福家庭は、先生を王として侍らなければなりません。何の王ですか。アダムとエバが堕落してつくっておいた偽りの世界の王ではなく、神様の血統と神様の愛と生命を中心とした王です。血統を中心として連結された天国の家庭があるので、神様が臨在できる王の位置は、アダムの王の位置であると同時に、天上世界に入っていく神様の王の位置が連結されるのです。分かりますか。
             *
 新千年、新しい三〇〇〇年が始まる日、今からは私たちの世界になるのです。私たちの世界です。正月からは、いかに拍車をかけて頂上の基準を天宙と連結させるかという各自の責任があります。今は、先生が皆さんの家庭に対して関係を結ぼうとする時代は過ぎ去りました。
 皆さんが先生と関係を結ばなければならず、皆さんが神様と関係を結ばなければならない時に入ってきたのです。これが第四次アダム心情圏時代です。真の愛も私が主人となり、真の生命も私が主人となり、真の血統も私が主人とならなければなりません。
 そのようにして、アダムとエバが堕落の因縁のなかったそのような解放的時代に入っていくのですが、主体的な自分の家庭を錬磨させることなくしてはすべて脱落するのです。アダムとエバが堕落した時、即時処断しました。
 皆さんもそうです。夫が誤れば即座に、また妻が誤れば即座に自分と関係を切ることができる時代に入っていくのです。男女問題においては言うまでもありません。
             *
 三〇〇〇年に向かう最初の年において、皆さんは解放された私を誇らなければなりません。私の目、私の耳と鼻と口、私の手が神様の代身とならなければならず、真の父母の手の代身とならなければなりません。それ自体が、その愛が、そのすべてが、その環境がそのようにならなければならないということを知らなければなりません。三〇〇〇年を出発すると同時に、総清算とともに総決算することができる主流的な核を表題として立てたのです。そのような表題を立てたのは、二〇〇一年だけではなく三〇〇〇年の主流思想に残すものとして措置したものだったということを知って、日常生活でそのようなことを考えなければなりません。二〇〇二年、二〇〇三年に標語がなかったとしても、このように生きなさいというのです。
 一度言ってみてください。(解放された天地父母と子女が一心一体となって、真の愛の主体性である絶対、唯一、不変、永遠のみ旨が完成されますように!)。解放の観念が重要です。解放の心と体が一つとなり、夫婦が一つとなり、息子、娘が一つになり、三代が一つにならなければ解放することはできません。それを何からですか。真の愛の主体性からです。真の愛の主体性を願いながら解放の道を開拓したのが神様であり、宗教の歴史であり、再臨の歴史であり、今までの受難の歴史であったということを知らなければなりません。
 それで、真の愛の心身統一を成して神様と一つになり、真の愛の主体性を永遠に灯火のごとく輝かせ、そこで喜ばしく解放されたものが、天上世界や地上世界の、どこの誰にとっても希望の安息の場であり、希望の福地にならなければならないということを知らなければなりません。
             *
 第四アダム時代は、自然復帰時代に進入するのです。蕩減復帰時代が終わったので、第四アダム時代は、皆さんの努力によって個人アダム圏を勝利し、家庭アダム圏を越えて氏族アダム圏、そして世界まで越えることができる自由解放圏が起きるのです。
             *
 今から皆さんの家庭は、理想的家庭となって、真の御父母様と神様に直接侍り、真の御父母様の代身にならなければなりません。皆さんが、旧約時代と新約時代に来たメシヤ、新約時代を越えて成約時代に来たメシヤ、すなわち一次アダム、二次アダム、三次アダムの代身家庭となることによって神様を迎えるようになり、万民が天国に直行できるようになるのです。そのようになることによって、第四次アダム圏解放祝福時代に入っていくのです。
             *
 既に解放時代を迎えたということを思う時、この地球を中心とした宇宙がどれほど褒めたたえているか分かりません。どれほどきょうの日を喜んでいるか分かりません。それで、今年に入ってきょうまで、祝賀する雰囲気一色になっていると思うのです。今から私たちがしようとするすべてのことは、天運がついて回りながら助けてくれるのです。
 人は、天運に追いつこうと努力したりしますが、天運が私たちのあとをついて回りながら助けるのです。この話は何かというと、真の父母と霊界が数多くの先祖と数多くの善人を動員し、この地を助けることができる時が来たということです。解放圏を成すことができ、変革することができる時代が来たのです。
             *
 神様が絶対的ならば、私も絶対的な位置を願わなければなりません。神様が不変ならば、私も不変でなければなりません。神様が唯一ならば、私も唯一でなければなりません。神様が永遠ならば、私も永遠でなければなりません。このような観点から、人間の永生は不可避的であり、それが結果的な帰一点とならざるを得ないという結論を堂々と下すことができると考えるのです。
 いくら神様に愛があったとしても私に愛がなく、いくら神様に生命があったとしても私に生命がなく、いくら神様に理想があったとしても私たち人間に理想がなければ、すべてのものは無意味です。
             *
 絶対信仰・絶対愛・絶対服従する立場に立てば、それがイエス様の行く道であり、イエス様が守る絶対信仰であり、イエス様が愛する絶対愛であり、イエス様が生きていく絶対服従の道であったという事実を知らなければなりません。それと同様に、先生においても、神様とイエス様がもたれた絶対信仰の道をそのまま受け継いで行くのです。その愛の道、その服従の道を行く限り、サタンは永遠にその影の位置に入ってくることができません。影の位置に入ってくることができないということはどういうことかというと、二十四時間、正午を中心として、日の光を中心として影がなくなるということです。それは夕方になれば生じ、朝になれば生じるものですが、昼の十二時にはなくなるのと同じように、その正午の位置には入っていくことができないのです。
             *
 絶対信仰とは、昼間でいうと、影のないことを意味し、絶対愛も、サタン世界にはあらゆる愛の種類がありますが、影のない愛を意味しているのです。「絶対順応だ」「何だ」といって、法を通して従っていくとしても、絶対服従の位置に入っていかなければなりません。神様とイエス様、真の父母とイエス様と神様が連結されたその位置には、絶対信仰・絶対愛・絶対服従だけが定着し、支配することができるのであって、それ以外のものはすべてなくなるのです。
 絶対信仰には、個人的信仰、家庭的な信仰、氏族的な信仰、民族的な信仰、国家的な信仰などがすべて入っているのであり、絶対愛には、個人的な愛、家庭的な愛、氏族的な愛などがすべて入っています。服従も同様です。孝子の道理とは、父母の前に絶対服従しなければならないことであり、忠臣の道理とは、君主の前に絶対服従しなければならないことです。天理でこれらすべてのことがなっています。誰を中心としてですか。神様を中心として絶対信仰するのです。アダムはできませんでした。サタンもできませんでした。イエス様が絶対信仰を成したので、アダムはイエス様の前に服従しなければならず、愛さなければならないという論理が生まれるのです。
 その原則的な基盤が、統一教会の真の御父母様と神様の間に立てられたのです。このような関係に連結した一体理想を立てた位置に立っているので、それとともに、これは地上の表面的なところにおいて何を与えたとしても、たとえ世界を与えても替えることができないものです。
 自分たちが信じる王であろうと、いかなる国の大統領であろうと、サタン世界のいかなるものを与えたとしても替えることができないものだというのです。お父さん、お母さんであろうと、妻やお金や子供であろうと、すべて否定するのです。
             *
 それでは、絶対信仰が望むものとは何でしょうか。絶対愛の道を探し求めていくことです。絶対愛のために絶対信仰しなさいというのです。絶対愛のためにです。アダムとエバは、神様を絶対信仰することができなかったことにより、絶対愛を成すことができなかったのです。それゆえに、失ってしまったこのようなすべてのことを探し立て、絶対信仰の上に絶対愛が連結されれば、サタンが寓居している未完成の環境圏内の寓居地をすべて完全に片づけてしまうのです。
 その愛の前では、絶対的夫は、絶対的妻に対して服従し、絶対的夫人は絶対的夫の前に絶対服従しなければなりません。そして、その夫婦は、天のお父様の本然的愛の前に絶対服従しなければなりません。それは、愛を中心として言う言葉です。そのようになれば、もうこれ以上、サタンはいないのです。
             *
 本性的な神様の属性と一体となることができる本然的愛の定義と一体となった存在は、神様の代身であり、神様御自身がそのような立場なので、その相対を創造される時は、このような本性自体とともにそこに何を加えて投入されたのでしょうか。絶対創造性、唯一創造性、不変創造性、永遠創造性です。愛を中心としたこのような絶対的な創造性を投入しました。創造するためには何かを残さなければならないのですが、主体性がなければなりません。私に似なさいということです。
             *
 神様に似るということは、内的な面から見れば、絶対愛を中心として、その愛が絶対愛であると同時に唯一、不変、永遠の愛なので、その愛を通して神様と永遠に共に住み、共に楽しむことができ、同参することができ、相続を受けることができるのです。神様の愛の対象なので、絶対的神様の愛が私の愛ならば、絶対的神様の対象なのです。そのような内的な基準を、神様の属性を中心として創造世界に拡張するためには、創造性の属性がなければなりません。
             *
 個人完成をするためには、何をしなければなりませんか。創造性の完成です。それは、第二創造主の格位をもった立場に立てるためです。そのようにしなくては、永遠の神様という主体の前に永遠の対象格として立つことはできません。分かりますか。
 それで、創造主格の立場に同参させるためには、これが絶対不可欠の要因です。これがなければ、人間は天の絶対者の前に対等な立場をとることができないので、このような法を立てざるを得なかったのです。
             *
 真の父母と一つになって伝統を受け継ぎ、皆さんの家庭が主体的伝統をもってアメリカを治めることができる基盤となり、主体性をもつことができる家庭となる時、天国の皇族圏内に入籍するのです。このようにして入っていくところが天国です。
 天国は、誰でも入っていくことができる所ではありません。「その道を行こう」と、三代が決意しなければなりません。おじいさん、おばあさんから、お父さん、お母さん、夫婦、息子、娘まで、段階は四段階であり、夫婦を備えた系列は三代です。
             *
 環境の創造をしなければなりません。そこに主体性をもって相対を再創造しなければなりません。再創造する場合、愛のパートナーをつくるための神様が御自分以上のすべてのものを投入して、また投入しようとされているので、自分の命を捨てたとしても、もっと投入しようという心をもつようになれば、自動的に相対は生じるようになるのです。完全なプラスは、完全なマイナスを創造するという原理があるでしょう? 空中で完全なプラスが生じれば、それにつれてマイナスは自動的に生じるのです。
             *
 私と皆さんと、どちらが少し勝っていますか。勝っている点は何ですか。心は同じでしょう。勝っているものに何がありますか。その心がしようと思ったとおりに活動するという点において少し違うのであって、異なるところはありません。心は、すべて同じです。人としての本質は同じですが、思ったとおりにしようとする時において、どれだけ関係性を拡大させるか、舞台や環境をどれだけ開拓するかというその違いであって、心の本質は同じです。
 霊界をはっきりと知らなければなりません。場当たり的にいい加減に生きることはできません。皆さんは地上で完全に合格し、天国に直行することができる家庭、条件に引っ掛からず解放され直行することができる家庭をつくらなければなりません。それは先生の責任ではありません。みな行くことができるように祝福したでしょう? ハイウェイを築いてあげたでしょう? 自動車はできているので、燃料さえ入れればどこへでも行くことができるのです。
             *
 解放をすべて宣布したのです。できない場合は、制裁を加えるようになります。天国に入れる場合は、この地上での合格者を入れなければなりません。今までは合格した者だけを送ったのではなく、そのまま入れたので、あの世の監獄や中間霊界に行っているのです。地上の中間霊界や、楽園家庭や、あるいは地獄家庭がないように、きれいに整備して天国に直行することができる基盤を築かなければなりません。














SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送