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環太平洋摂理
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 第二章 海洋レジャー産業と趣味産業

 一 海洋レジャー産業の開発

  1.レジャー産業には釣りとハンティングが適格

 将来は、レジャー産業が発展するはずです。なぜなら、人々が都市生活をするためにストレスが多くたまるので、それを解消するには刺激的な運動が必要だからです。何によってストレスを解くのですか。私は三種類あると思います。一つはハンティング、一つは乗馬、そして釣りです。ハンティングや乗馬をするには多くの制約があります。乗馬は、特定の階層の人だけができます。たくさんのお金がかかるからです。それゆえに、誰でもできるわけではありません。またハンティングも、四十歳前後の人ができるのであって、五十歳を越えては難しくてできません。ですから、これも特定の階層の人だけです。しかし釣りは、少年時代から老いて死ぬ時まですることができます。それゆえに、今後釣り事業は世界的なものになるはずです。
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 趣味産業とは何ですか。カジノとスポーツ、ハンティング、フィッシングではないですか。それを準備しているのです。今後、趣味産業を主管する者が世界を主管します。これは強大な力になるのです。私が数十年間準備してきたのは、すべて人類のためです。釣りをしても、魚を釣って売り飛ばそうというのではありません。趣味です。御飯は食べることができます。ですから、それは趣味でするので、釣ってみて、小さな魚は放してあげ、大きい魚は食べるのです。食べるとしても、一人で食べるのではありません。分けて食べるのです。そのような時代が来ます。
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 今カナダでは、「政府でお金を八〇パーセント以上出すので、早く鹿の農場を拡張しよう」と言っています。見てみると、国家の収入がとても多いというのです。現代文化人の病気治療はストレスを解決することですが、それを解決できる最も良い方法は、レジャー産業を中心としたハンティングと釣りしかありません。ハンティングをする人々は、みな度胸のある人々です。女性のような男性にはできません。概して、ちょっとしたけんかはする将軍のような人たちです。ですから、活動半径が広く、お金をもうけるのもものすごく、使うときもものすごいのです。
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 釣りは主に夏にするのですが、冬は制限されます。これをすべての季節で行えるようにするにはどうすればいいかということが問題です。それで、コディアックにいる人々を連れてきて試してみようと思います。釣りは夏に行い、ハンティングは冬に行うのです。夏と冬なので、互いに交替してできるというのです。それゆえに、私たちの観光事業を拡大する期間を広めるためには、趣味産業である釣りとハンティングが絶対に必要だというのです。ハンティングは寒い時にするものであり、釣りは暑い時にするものなので、趣味の基盤を拡大できるのです。冬でも夏でも、春夏秋冬いつでも趣味としてこれを活用できるのです。そのようにすれば、世界のお金持ちの人々は、一年中趣味を楽しむことができるのです。
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 釣りとハンティングは趣味です。高位層、豊かに暮らす人々の趣味分野です。ですから、趣味産業をするのです。観光組織をつくって先生が直接リードするつもりです。
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 趣味の中にはハンティングがあり、釣りがあり、その次には冒険すること、飛行機に乗ること、自動車競技のようなハイスピードのものがあります。その次にはスポーツです。南米を中心として、数千の飛行機がアクロバット飛行をする、そのようなエア・ショーを行えば、全世界の人々が南米に集まるというのです。一万メートルの高い所から地上へと、何秒間か垂直に降りてきて、そして、地上十メートルで再び上がっていくのです。それゆえに、自動的にストレスが解けるのです。目を開けてみると、別天地が展開されるのです。
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 皆さんは、釣りが初めてなので分かりませんが、これを一度、二度続ければ、どんどん魅力を感じるようになります。ハンティングも、初めは小さい鳥を捕まえ、それがおもしろければもう少し大きいものを捕まえて、またより大きいものを捕まえようと猟銃を買い、それからまたもっと大きいものを買って捕まえようとするのです。限界がありません。止められないというのです。ひっきりなしに高まっていくのです。人間生活にすべて関連するというのです。ですから、これは全世界的に発展できる可能性があります。
 大使たちが一年に何度も訪ねてくることを願います。このようにすれば、大使を通じてその国にいるすべての人々に、皆さんがいくらでも講義して教えてあげることができるのです。集まって釣りとハンティングをしながら、祝宴もできるのです。その国に来ている自分の国の人々とクラブもつくり、事業もして、すべてのことができるのです。
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 馬に乗ることも制限があり、ハンティングも年を取った人々はできません。しかし、釣りは年齢を超越します。これは無制限です。船に乗って餌を海にまき散らして、小さい魚一匹を釣り上げても釣ったことになります。そのような意味で考えてみるとき、今後釣り観光は、無限に発展させることができるのです。そのようなことができる最適な所がアラスカです。
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 皆さんに国をすべて任せてあげたので、今から先生は、世界のトップクラスの人たちを連れて、釣りをしたり、ハンティングをして回りながら、酒は飲みませんが、歌って踊って暮らすことのできる時代に入っていくというのです。彼らを通して世界の趣味事業を発展させようと、百六十カ国に船を分け与えて、その準備をしているのです。
 コンドミニアムを造って、家がなくても暮らすことができる体制をつくり、年を取った人々を世界の公園に連れていきながら教育しようと思います。船があり、狩猟場があり、その次には飛行場があり、ホテルがあり、そのようにつくるのです。このようにして、趣味産業をしながら世界をリードしようと考えるのです。その準備をするために、今飛行機会社をつくっているのです。中型、小型飛行機に乗れば、どこにでも飛んで行けます。今、大型飛行機で行くことができる名のある休養地は、すべて行ってみたというのです。
 今からは、田舎の村まで行くことができる飛行場を築き、世界的な観光基地をつくろうと考えているのです。小型飛行機を世界化させるというのです。百六十カ国に飛行場をつくろうと、現在飛行機会社をつくっているのです。大きい飛行機が行く所はすべて休養地域なので、そこにはすべて行ってみたというのです。それで、湖をつくり、ハンティング場をつくろうと思うのです。
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 観光事業で中流以上の人を連結するのです。観光をする人は中流以上です。そして、ビジネスのためのハンティング場、その次には釣りのための養殖場を世界にたくさんつくるのです。それが事業です。大西洋まで運河をつくって休養施設をつくり、狩猟場と釣り場をつくれば本当に良いのです。水と土地がある所では、どのような国であろうと飢え死にしないように私が教育するというのです。


  2.沈まない船、ワン・ホープ

 ワン・ホープとは何かというと、「海の一番の希望」という意味です。最初、他の船は、「三十フィートだ、五十フィートだ」と言いながら豪華船だと誇っていましたが、私たちの船は小さくても速いのです。シュッ、シュッ、シュッと走っていくと、皆「小さい船が来る」とあざ笑いながら、「危険なのに、あれは死ぬために来た」と言うのです。どうして死にますか。沈まない船だということを知らなかったというのです。
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 海と関係を結ぶために最も重要なものとは、海に浮かべる船です。世界的に見るとき、いかなる会社が造ったものよりも、私たちの会社が造った船は永遠に称賛できます。歴史が過ぎれば過ぎるほど称賛できる伝統をもった船を造らなければならないというのです。
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 小さい船で何をするのですか。釣りをするのです。大部分の人が釣りには関心がありますが、網をもって魚を獲る漁業には関心がないのです。未来は、大きい船で網を使って魚を獲ることには関心がなくなるというのです。それで造ったのがこのニュー・ホープです。これは、川にも行くことができて、海にも行くことができる船を考案しなければならない、といって造ったのです。
 今、私たちのニュー・ホープが有名です。釣りをして案内するたびに有名になっているのです。海だけ走るボートではありません。車でどこにでも移動が可能です。ここからフロリダに行こうとすれば、車で引っ張っていくのです。ここから海路でフロリダまで行こうとすれば何日もかかります。ところが、車で行けば一日で行くのです。西部から東部まで車で行けば三日です。海路を行こうとすれば一カ月かけなければなりません。そして、海に出れば波に乗って行けるように、波をかき分けて行くことができるように建造しました。それで、二十八フィート以上に造ったのです。それ以下ではいけないので、そのようにしたのです。その二十八フィートを中心として三十八フィートも造り、それから五十二フィートも造り、九十八フィートも造り、百八フィートまで造ったのです。百八フィートのボートは、アラスカの荒れた海の中で、底引き網を引いて魚を獲るのです。
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 海で船に乗って行こうとすれば、位置を探知して方向をつかんで行かなければなりません。それを知らなければ、霧と闘っても絶対に動くことはできません。ですから、どれほど不便ですか。その計器は十何種類にもなります。これをどのようにすれば一つの計器に入れたシステムをつくることができるのか、ということを研究しなさいと指示しました。それで、いろいろな計器をコンピューター装置に入れて、方向から今の位置、海の深さと魚の動きまで、すべて一つのシステムで知ることができる機械を研究開発して、今製作できる段階に入ってきています。そのうわさを聞いて、世界各国で競争が起き、「自分の国で工場を造ってあげるので、私たちの所で製作しなさい」と大騒ぎです。
 私たちは、「それは統一産業がしなければならない」と言っています。海の深さ、魚の動き、これらがすべて問題になっています。海が神秘なのは、網で魚をたくさん獲った所に再び訪ねていくのが難しいということです。網を引いて魚を獲る時、どのようなコースを行けばたくさん獲ることができるのですか。わずか十メートルの差で、三倍も獲ることができる所もあります。それはどういうことかというと、魚の脈があるというのです。そのような所を再び訪ねていって魚を獲るということが難しいので、一度魚がよく獲れた所をコンピューターに入れれば、百回でもその場に行って自動的に網を下ろすことができ、そのコースへ行けるように案内できるシステムを開発したのです。それは、本当に素晴らしいのです。
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 私は、この手でこのような基盤をすべて築きました。船が必要ならば、どのような船でも造ることができます。最近では潜水艦まで、小型潜水艦まで造ることができるように研究させています。ノルウェーから日本まで、そのような研究をしています。今後は、海の各階層で生活できる家庭的小型潜水艦を造り、そこを住宅として、海の中に入っていって暮らすのです。
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 私たちにはバン家庭、潜水艦家庭、宇宙船家庭があります。一週間はここで暮らし、一週間は海で暮らしてまた行く、このようにするのです。そのような最高の技術を先生はもっています。バンを造ることができ、潜水艦を造ることができ、今宇宙船も造ることができるのです。


  3.脚光を浴びる未来レジャー産業・・釣り

   (1)海釣りの醍醐味と味

 海の中には、スウォッド・フィッシュ(めかじき)とか黄色いひれのツナもいます。大きいものは三百ポンドにもなります。百五十キログラムにもなるほど大きいのです。先生の一・五倍です。そのようなものが群れをつくって泳いでいるので、一度網に引っ掛かれば、数百匹が引っ掛かります。それがさめの攻撃対象になります。さめが入り込めば血が広がるようになります。そのようになれば、周囲にいたさめが寄ってきて、三分の二はさめの餌になります。それは衝撃的です。船の上で希望をもっていた人々も、さめにやられて瞬く間に絶望の境地に陥ってしまいます。
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 大きい魚が食らいつけば、海の底から振動がそのまま波及してきます。これに対し船で「ドーン、ドーン、ドーン、ドーン」と音を鳴らせば、頭をハンマーでたたくのと同じです。海で数十年間あらゆる風霜の中で生き残ってきたものなので、どれほど荒波をたくさん経たでしょうか。そこで生き残ってきたので、どのようなことが起きたのか、すぐに分かります。状況を見て、人が何メートルの所にいるということまで測定している局面なので、てっぺんで「かん、かん」と音を鳴らしてはいけないのです。
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 ツナ獲りのようなものは釣りではありません。海のハンティングです。海のハンティングという言葉は初めて聞いたでしょう。それを捕まえるのは、大きい牛を一頭捕まえるよりも難しいのです。一匹、千ポンド以上です。五百キロ、六百キロ、七百キロのものもいます。それは雄牛よりも大きいのです。
 そのようなものを捕まえれば楽しくなります。捕まえて長くおけば魚が腐るので、すべて血を抜くのですが、床が瞬く間に血の海になります。その時は私も「私は本当に無慈悲な心をもったな!」という気がします。私は、そのような時、いつも「神様も、私たちを人類解放のための祭物と考えるので、やむを得ずそのようにされるのではないか」と考えるのです。また「自然世界から捕まえたものは精誠を尽くしたものではないので、私が育てて祭物を差し上げます」と心に誓うと、気分が晴れました。それで養殖事業をし、水産業をするのです。
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 魚がどれほど大きいかといえば、このように大きい私たちが二人立っても、隠れて見えません。そのようなものが小さい一ミリメートルの釣り糸に引っ掛かってくるのですから、どれほど興味がわくか分かりません。簡単には何と言えばいいのでしょうか。雄牛のようなものが引っ掛かってくるのです。釣り糸は細いのに、これがすごいのです。女性で生まれて、釣りをすることはできなくても、見物だけでも一度したくはないですか。
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 きのうもブラックタング・フィッシュを一匹釣ったのですが、これがどれほど強いか分かりません。貝をかみ砕くのです。釣りの中で、最も神経を使う釣りがブラックタング・フィッシュ釣りです。皆さん、かにがいるでしょう、これを二つに切って釣り針につけて入れれば、さっとちぎって食べます。いつの間にか来て、ちぎって食べてしまいます。本当に不思議です。この釣り針にかにの足をつけておけば、いつ来て奪い取っていくか分かりません。
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 ペテロは漁夫だったでしょう。皆さんは漁夫の子孫ではないですか。ですから海を知らなくてはなりません。何を捕まえようとしてアラスカまで来たのですか。海の底にうつ伏せになって王のように振る舞うのがハリバットです。それは、うつ伏せになって生きるのです。目がアンテナのように飛び出していて、海の底で暮らす姿は、ちょうどこけが生えた岩の塊のようです。うつ伏せになってそこから匂いを出すので、小さい魚が集まるのです。小さい魚が集まってくると、体をひねって捕まえ、のみ込むのです。うつ伏せになりながら生きるのです。サタンと全く同じです。サタンの王です。
 「天下の私を誰が触るか!」といいます。これが釣られて引き上げられながらも「私を誰が触るのか!」と、このようにしながら少しも動かないのですが、あとで釣られたことが分かって「ああ、大変なことになった」と、このようになるのです。文総裁によってアラスカのハリバットが初めて雷に打たれるのです。コディアックで八十ポンド以上のものを捕まえた人がいないのです。文先生が現れて初めて二百ポンド、三百ポンドのハリバットを捕まえるようになったのです。
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 釣りがなぜ刺激的かといえば、血を見るからです。どれほどストレスが解消されるか分かりません。ハンティングも同じです。そうでなければ、現代人のストレスをどのように解くのですか。血を見るということは衝撃的です。昔ローマの人々がなぜ残忍だったのか知っていますか。引き裂かれて死ぬ人々の血を見てストレスを解くことができたので、それを喜んだのです。血を流すのを見れば「ワッ!」と細胞が一度にひっくり返ります。それで、ストレスがいる所がなくなって逃げるのです。男性として生まれた者が釣りをすることができず、ハンティングをすることができなければ女性と同じです。そのような男性とは、絶対に一緒に暮らすなというのです。
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 人間が文化生活をすればストレスがたまります。これをどのように解くのですか。説明するだけではできません。刺激です! 刺激は、血を見る以上のものでなければなりません。血がはねて小さな肉片がくねくねするのを見る瞬間、ストレスのようなものはたまっていることができないのです。逃げ始めるのです。
 ハンティングもそうです。ツナのようなものは、大きさが雄牛の三倍にもなります。そのようなものがのこぎりでひかれれば、血が飛び散るのです。その時、海を見れば真っ赤に変わります。そのような時には、詩人のようになるのです。女性が見れば、「ああ、神様! ああ、ああ……」と言いながら気絶するかもしれないのです。それくらいぞっとします。そのような所ではストレスがたまる余裕がありません。完全に除去されるのです。それだけ刺激的です。
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 今後、日本人を動員する観光事業では、アメリカは希望的です。アメリカでは、一年中釣りができます。その中でも最もおもしろいものとは、はえなわですが、釣り糸をどれくらい長くするのかといえば、六十マイルにもなります。六十マイルといえば、ソウルから天安まで行く距離です。それがどれほど深い海なのかといえば、千メートル、八百メートル、五百メートル以上です。その色を見れば正にインク色です。その中で六十マイルの長さがあるので、魚が食いつけば相当な量です。さめの中には、人をそのままのみ込んでものどに引っ掛からないほど大きいものもいます。スウォッド・フィッシュ(めかじき)というものも、三メートル、四メートル近くになります。そのようなものを、そのまま頭だけ除いて、すべてのみ込んでしまうのです。それは戦争です。そのようなものに出会えば、あいさつもなくのみ込んで、ゆうゆうと王子のように泳いでいくのです。
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 今から、北極に行って氷の上で捕まえるのです。あしかを氷上で捕まえてくることが残っています。そして、オーストラリアに行けば、ブラック・マーリン(白かじき)というものがいます。その重さが三千ポンドです。私は二百ポンドなので、私の体重の十五倍です。十五倍もある大きい魚がいます。三千ポンドです。鯨でも、釣り針を垂らせば引っ掛かるはずです。そのようなものが食いつけば釣り糸が切れるので、捕まえて、また元に戻してあげたこともあります。
 それを捕まえていれば、博物館にもっていったでしょう。その力がどれほど強いか、それを捕まえようとすれば五時間以上苦労しなければならなかっただろうというのです。それで、「ええい! 使うこともできないものを捕まえてどうするのか」という気がして放してあげたのです。ですから、捕まえてみたいものは、すべて捕まえてみました。
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 先ほどのアルバムでハリバットの写真を見れば分かりますが、これがその魚釣りです。グロスター、ボストン海域には、ジャイアント・ツナ、ブルーフィン・ツナ(黒まぐろ)がいるのですが、私がもっている記録は千二百七十二ポンドです。長さが十八フィート以上です。ですから、五メートルを越えます。きょう私が捕まえたのは十四・九フィートになるのですが、それは雄牛より大きいのです。虎で大きいものは七百ポンドくらいで、雄牛は千ポンドです。ですから、雄牛より大きいのです。
 きょう私たちは約二百ポンドのものを捕まえましたが、私の記録はその六倍です。そこまであれば、それはすごいことでしょう。第二次大戦の時に、何かの将軍になって勝利することよりもっと素晴らしいのです。それこそ、男として生まれて釣りをするのは王子のような立場です。一度その味を味わえば、「妻を売ったとしても参加する」と言うはずです。してみなければ分かりません。
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 ストライプト・バス(striped bass:すずき)というすてきな魚もいます。それはツナよりもっとおいしいのです。刺身にすれば、肉に弾力があって、とてもおいしいのです。日本人は、とろ(注:ツナの腹肉の脂肪が多い部分)が一番と言いますが、この味を知れば飛びつくはずです。それは、最初蛇の肉をかむような感じです。かんでも、このようにはじいたりするというのです。お母様は、すしのようなものは好みませんが、この魚の味を知ると、「刺身、刺身! ストライプト・バスの刺身」と言うようになったのです。先生が釣りに行くとき、お母様に「準備しなさい」と言えば、ストライプト・バスを釣りに行くものと思って「ああ、そうですか」と言いながら、すぐについてきます。ですから、おもしろいのです。それで、魚釣りは刺激的だというのです。
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 魚を刺身にして食べれば、食べられない魚はありません。血があるので気分は悪いのですが、皮をはがしてすっすっすっとすれば、唐辛子みそなどをつけて食べる必要がないのです。単純ながらも栄養が十分で、食べるにもどれほど良いか分かりません。生きた細胞を食べるのであって、死んだ細胞ではありません。ごくごくのみ込んで、一日船で休むようにすれば、どうしておなかをこわすのですか。食べることができないから下痢をするのです。そのように素晴らしく暮らすことのできる道が明白なのに、それを知りません。


   (2)海釣りをする時の要領

 海の魚を見れば本当におもしろいのです。一番浅い所に小さい魚がいます。深い所に入っていくと、だんだんと大きい魚がいます。小さい魚は少し大きい魚に捕まり、また、少し大きい魚はそれよりももっと大きい魚に捕まるのです。おもしろいのは、鯨の子やツナの子を見れば、子供はみな同じです。すけそうだらの子やツナの子など、子供はみな同じだというのです。
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 先生はよく海に行きます。海には無限の宝物が埋まっています。そこには、ずーっと系列的に餌が置かれています。それを見ればおもしろいのです。すべて「ため」に生きているでしょう。連帯関係をもって「ため」に生きて存在しています。もし大きいものが小さなものを食べてあげなければ、大変なことになるのです。海が魚でぎっしり埋まってしまうのです。食べてくれることによってバランスがとれるのです。
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 海の魚を見れば、小さい魚から段階的に食べられて生きていくのですが、これがどうして神様の愛ですか。彼らは人間を標榜し、神様の愛を受けることのできる人間の細胞に吸収されることが最高の理想です。そのようにしようとするので、鉱物は植物に吸収されるのです。神様の愛を受けることができる細胞圏に占領されるのです。植物は動物に、高級動物は人間に占領されるのです。おいしくて立派なものは、すべて人間に吸収されることを希望するのです。最高の細胞が躍動し、神様の息子、娘の愛の実体として連結したい、愛の本宮に向かって帰ろうという願いをもってその主人に吸収されるのです。
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 海に行けば、水が深ければ深いほど階層が多いのです。温度の差が大きいのです。温度一度、二度の差によって魚の種類がすべて変わります。本当に不思議です。人間には分かりませんが、魚の世界では、一度の差による階層と、その面に沿って五大洋を訪ね回るのです。本当に神秘的です。きのうまで魚が無尽蔵にいて、魚が半分、水が半分だったのですが、きょう行ってみると一匹もいません。それはなぜかというと、温度差のためです。〇・五度、一度変われば完全にいなくなるのです。人は、一度、二度の差は問題ありませんが、魚たちはそうだというのです。
 人は、寒帯地方に行っても暮らすことができ、熱帯地方に行っても暮らすことができ、温帯地方に行っても暮らすことができますが、動物たちはそうではありません。ライオンが韓国で暮らせますか。韓国にライオンがいますか。ライオンはアフリカにいます。韓国には、ライオンではなく虎がいます。
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 魚の食いつき方も、魚の性格によってすべて違います。千種類の魚がいれば、食いつき方も千種類です。新しい所に行って釣りをする時は、一匹、二匹、三匹と捕まえながらどのように食いつくのか、きちんと公式化させるのです。それが常識です。魚がこのように食いつくのに、このように引けば引っ掛からないのです。引くほうに釣り糸が行くので、いくらでも魚が逃げるのです。このように食いつけば、反対に引っ張るのです。前に行く時はこのように引っ張り、左に行く時は反対に引っ張るのです。初心者は、いつもこのように引っ張るのですが、違うというのです。反対に引っ張ってこそ早く引っ掛かるのです。いくらも時間がかかりません。
 海釣りに行くとしても、ただ水平線だけがある海に行くのではないのです。必ず石がある所に行かなければなりません。石があって隠れることができ、そこに食べられる虫がくっついている所に魚がいます。水が流れるのを見れば、魚たちがいる所は必ず波打つのです。三メートル、五メートルの波が立つというのです。そのような所に行けば魚がいます。そのような所の近くに行って魚を釣らなければなりません。
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 釣り糸を垂らせば魚が釣れると思っているのですが、とんでもないことです! 魚が戯れる水温が違います。大小によって水温が変わります。夏は表面に近いほど水温が高いのです。それゆえに、小さな魚は水面で暮らすのです。海水の温度によって自然に移動するのです。魚は、縦に動くことを最も嫌います。いつも横に移動しようとします。釣りをしようとすれば、そのようなことを知らなければなりません。魚がとどまる所、サーモンでも、どこで釣りをしなければならないのかということを知らなければなりません。ですから、専門家にならなければなりません。勉強が必要です。専門家にならなければ釣ることはできません。
 先生は、温度に合わせて釣りをします。温度がどの程度ではどのような魚がいるのか、すぐに分かります。釣り糸を何度か垂らせば、すぐに魚が餌をつつきます。釣り糸を早く巻けば上に上がっていき、ゆっくり巻けば沈むのです。ゆっくり巻きながら、今水面から何分の一の所を流れているのかを知らなければなりません。今のこの気温では、キング・サーモンはどのレベルに来るのかということを知っているのです。サーモンは、普通底にいます。なぜですか。底に餌が多いからです。虫やかにのようなものたちがいるので、底に寄ってくるというのです。
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 いくらアラスカで魚をたくさん釣ったとしても、他の所に行けば、また学ばなければなりません。どれほどこれがおもしろいか分かりません。また往来することもできます。ニュージーランドの人々も、コディアックに来れば学ばなければなりません。ニュージーランドではうまく釣ることができるとしても、コディアックでは通じません。コディアックに来てまた学ばなければならないので、お互いに一つになることができるのです。多様な釣り方法、多様な顔、多様な環境があるというのです。どこに行っても、釣りをする所によって違います。
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 おもしろいことがあります。海を見れば、台風が吹いて船も出てこないので、すべて魚の世界です。普通の時は、人々がやって来て、音楽をかけながらざわついて「ガンガン」と音がするので、棒で何かをたたくような大きい振動を感じるのですが、台風の時は静かだというのです。ですから、鯨たちが集まってジャンピングしたり、ショーをしたり、その日は本当に歴史的でした。どこかにその時の写真があるはずです。
 大きい魚も、小さい魚もいたのですが、鯨は大きいのでしっぽのつけ根までしか跳ねることができませんでした。しっぽだけはいつも水の中に残るのです。そのようにして倒れれば、水の上にひっくり返って、さっとこのようにしながら浮上するのです。どれほどショーを楽しんでいるか分かりません。それで私は、「風が吹けば鯨があのように喜ぶのだろうか」と、このように考えました。また一度か二度見れば、「そうだ!」という結論を下すことができると思います。
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 釣りをしようと海に行くのではありません。アラスカ精神とは何かというと、鮭の精神です。鮭は子を産むために四千マイル、五千マイルの大海を渡って、離れた自分の故郷を訪ねてきます。人間の復帰路程を見ても同じです。何億千万里離れたとしても、再び訪ねていくことができなければなりません。釣りをするにおいても、それ以上興奮する釣りはありません。それがどれほど強いか分かりません。他の魚が食いついたときは、何度か巻けば出てくるのですが、これは数十回巻かなければなりません。私たちが天の伝統をもった人を捕まえるのが難しいことと同じです。
 それは死ぬまで、終わりまでジャンピングします。このようにジャンピングを三度すれば釣り針が外れます。それがアラスカの伝統です。海は死亡の世界、サタン世界を象徴し、魚は人を象徴するのです。魚の中で最も勇猛な魚は、サーモンです。
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 ある日、海に行ったのですが、台風が吹いているのに船が多かったのです。ツナ(tuna:まぐろ)の季節になって海へ行けば、五百隻ほど集まった船がすべて怨讐のように感じられます。「一度私一人で釣りができればいい」と考えたのですが、そのような日がありません。ある時、台風警報が出たのですが、私は行こうとしました。しかし、みな出ていくなというのです。それでも船長に「この者たち、私の言うことを聞きなさい! 死にはしない」と言って、無理やり行くようになりました。
 近い道のりではありません。二時間以上かかるので、夜一時に出発します。四時に到着しようとすれば、一時に出発しなければなりません。風が吹いているので、倍もかかります。それで、十二時に出港しました。生涯路程においてそのようなことがたくさんありますが、その材料は億千万のお金を与えても買うことはできません。
 そして、そのような天気なので船は一隻もありません。そのような所に行って釣り糸を下ろすので、下ろすや否や、「がばっ」と食いつくのです。そうではないですか。数多くの船の中で数十匹が食いついていたのが、今は一隻しかいないので、十里も見通す目をもつ飢えた魚の群れが押し寄せて、食いつくようになっています。そして、釣り糸を下ろすと「がばっ」と食いつくというのです。台風が吹いても吹かなくても、それは私が気にすることではありません。ただ汗を流しながら釣りをしました。捕まえようと四時間走りました。それで、そこから二十マイルをエンジンで引っ張っていくのです。
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 私たちのような人は、釣りに行けばすぐに魚のいる所が分かります。朝と夕方には、すべて餌を求めて訪ね回るのです。それから、昼食の時間は、食べたので遊び回るのです。そのようにするとき、海の底が深いだけではいけません。海の底は、ある所は深く、ある所は平らでなければなりません。魚は隠れるために深い所に逃げます。出てきて遊ぶときは、間違いなく平らな所に出てきて遊びます。午前はそうです。午後にはまた食べるために出てくるので、その海の底を見て「ああ、ここは魚がいる!」とすぐに分かるのです。
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 自分の釣り針が、今水面からどのくらいの所にあるのかということを知らなければなりません。魚は海底から一フィート、餌を捕まえやすい所にいます。餌を食べて生きなければならないので、二フィート以上離れられないというのです。季節になれば、それが海底を覆うのです。釣りをしてそれを引っ掛けようとすれば、何度でも引っ掛けることができます。ささささっと、このようにしながら、少しでも引きがあれば激しく引っ張らなければなりません。それが技術です。まぐろは、海の天下で自分が一番であるかのように自由に生きているので、小さな餌には引っ掛かりません。ですから、引っ掛かるようにしなければなりません。それを研究しなければならないのです。
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 大きい魚を釣ろうとすれば、底に行かなければなりません。魚の中で泳ぎ回るものは小さな魚です。大きいものは泳ぎ回りません。「泳ぎ回って何をするのか」と、このようにしているのです。釣り糸を垂らせば、そのようなものが引っ掛かるのです。底に一指尺程度浮かして匂いを漂わせておけば、ゆっくりと寄ってきて……。魚が泳ごうとすれば、ひれを動かさなければなりません。それゆえに、魚が水平へ行くので、引っ掛からないように一指尺以上浮かしておかなければなりません。それを計算して釣り糸を投げれば、間違いなく大きいものが引っ掛かるのです。
 今回、私が最後に捕まえた魚がどれほど大きいかといえば、十五ポンド三十でした。今まで、私たちが捕まえた鮭の中で最も大きいものです。最後にそれを引っ掛けました。これがどれほど力が強いか、網でこれをすくいあげなければならないのですが、夕日に照らされて魚が見えないのです。網の中に体の三分の二が入っていて、頭だけが出ていても飛び出してくるのです。ですから、勇ましいのです。その時、まかり間違えば網が切れてしまうのです。
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 釣り糸には、千里にもなるもの、十里にもなるもの、一寸のもの等、多種のものがあります。数多くの釣り糸がかかわっています。ところが、この一寸ほどのものが水に入っていくや否や引っ掛かる魚もいます。だからといって、これを引き始めたら大変なことになるのです。糸が長くて遠ければ遠いほど、深い大洋なのです。しかし、本当の釣り師ならば、小さい魚が食いついても、それに対して神経を使ってはいけないのです。「お前が食いついたのか。お前たちの群れがどんどん集まりなさい」このようにしてこそ、そのあとに最も大きい魚が何百、何千里の遠くから来るのです。何千里も遠くにいる、その一匹を捕まえなければならないというのです。
 先生も釣りを好んでします。四十日以上、一日中してみました。私が釣ろうとする魚は、最初に食いついてくるものではないのです。「食いつけ。めだかの群れよ、集まりなさい」と言いながら、最後に貫禄のあるものが食いついてくることができるように待っていなければなりません。めだかの群れは、ただ来て行ってしまうものが多いのです。「ああおいしい。釣りをする主人は狂ったようだ」と思いながら、食べて帰るのです。
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 ハンティングは、動物が通る道で待ち伏せして撃つので野蛮です。飛んでいくものを撃つのは、道義的ではないのです。釣りはそうではありません。自分で来て食いついてくれるのです。ですから、それは捕まえてもかまいません。そして釣りは、五歳から死ぬ日まで、百歳になったおばあさんやおじいさんでも、寝床から釣り糸を垂らして釣りができるのです。いくら釣りのチャンピオンで有名でも、他の地方に行けば、そこでは釣る方法が違います。それゆえに、その地方のやり方でやらずに自分一人のやり方でやれば、食いつきません。そのやり方に従わなければならないので、どこに行っても学ぶようになり、またどこへ行っても教えてくれるのです。
 誰でも先生になり、学生になることができます。これが平等です。同じ種類でも場所によって食べるものが変わり、釣りをする人がどのような餌を与えるのかによって変わるというのです。それゆえに、その地方に行ってすべて学ばなければなりません。万国すべて違います。そのように多様なので、趣味は多様だというのです。


   (3)釣りを学べば飢え死にしない

 皆さんは、農作業をすることができますか。先生は、農作業のやり方をすべて知っています。それを教えてあげなければなりません。統一教会員たちは、農作業をすることができ、ハンティングもすることができ、釣りもすることができなければなりません。この三種類をすることができなければならないのです。それで、単身アフリカの部落に入っていき、一週間で彼らを食べさせてあげて、それが自分の生きる基盤になるのです。一年食べさせてあげれば、一年後には彼らが稼いで食べさせてくれるのです。
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 熱帯地方には獣がたくさんいます。釣りとハンティングは、統一教会員ならできなければいけないというのです。なぜですか。飢え死にする人々を生かしてあげるためには、魚釣りを教えてあげなければならず、ハンティングして生き残る道を教えてあげなければなりません。ですから、レバレンド・ムーンは、血を見ても堂々としているのです。昔、祭司長たちが祭物を捕まえました。私が動物を捕まえるのは、統一教会員を祭司長にするためなのです。これは神聖なことです。釣りとハンティングを学んだならば、今から班をつくり、アフリカに行って協助するのです。アフリカにハンティング宣教師を送り、釣り宣教師を送って手助けする仕事をして、それから全世界にまき散らさなければなりません。どこに行っても、釣りをして、ハンティングをして生かすことができる道もあります。
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 一つの湖で、何千何万の家族が食べていくことができる時が来ます。釣りをすることができれば、その魚は私たちの魚です。釣りは、誰がしなければなりませんか。女性がしなければなりません。なぜですか。女性は、おしりが座布団のように大きいので、楽です。長い時間座っていることができます。男性は、三時間だけ座っていても痛いのです。それゆえに、一人の女性が魚を三匹だけ捕まえれば、三人の赤ん坊を食べさせて生かすことができ、四匹捕まえれば父親まで食べさせて生かすことができるのです。
 釣り場に行けば、一時間以内に十匹も捕まえることができ、数十匹でも捕まえることができるのです。一つの町に百軒の家があれば、百人の女性を中心としてクラブを編成し、「きょうは百匹捕まえてこよう」と言えば百匹捕まえ、「二百匹捕まえる」と言えば二百匹捕まえることは問題ではありません。何人かを動員すればいいのであって、全体動員する必要もないのです。一カ月に一回ずつ動員して用いても、食べさせて生かすことができるというのです。
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 釣りは簡単です。アフリカの奥地でも、女性はみな針をもっています。ろうそくのあかりをつけて、針を熱して釣り針を作ることができるというのです。昔は、私がすべて作りました。釣り糸も買う必要がないのです。ナイロンひもはいくらでもあります。この釣り糸は、昔の絹糸が問題ではありません。そして、おもりは鉛の塊を切ってつるし、浮きはとうきびの管を切ってぶら下げればいいのです。このようにして餌をはさんで手を釣り竿にして投げれば、いくらでも釣ることができるのです。無尽蔵なのが魚です。魚はどこにでもいるので問題ないのです。
 夫人たちが釣りをすることができないのが問題なのです。そのような指導者はいませんでした。ですから、先生が釣りをせざるを得ず、ハンティングをせざるを得ません。村と村を連合させて、人々を何人かずつ結んで分配し、獣を捕まえて食べさせて生かすことができるのです。そのようなことを教えてあげる人がいなかったというのです。
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 飢えて死ぬアフリカの人々や第三世界の人々は、釣りをすることができないから死ぬのです。母親が釣りさえできれば、絶対に飢え死にしません。どこにでも水があり、湖があります。魚は無尽蔵です。ですから、釣りを教えてあげ、養殖のやり方を教えてあげるのです。このようなことを既に先生がしています。釣りは、糸さえあればできるのです。針はどこにでもあります。ろうそくのあかりをつけておいて、針を熱して曲げればいくらでも魚を釣ることができるのです。そして、餌はどこにでもあります。一人で一日に十人の赤ん坊を食べさせることは問題ではありません。身長ほどの魚たちが食いつくのです。そのような環境的条件なのにもかかわらず、指導者がいないのでそのようになってしまうのです。
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 ビジネス・センスがなければなりません。一年に二千万名が死んでいくのですが、その生命を助けてあげることができなければなりません。土地がある所には農作業の方法、水がある所には養魚のやり方を教えてあげて、飢え死にしないようにしなければならないというのです。夫人たちと子供が釣りをすることができるのに、なぜ飢え死にするでしょうか。水があって魚がいくらでもいるのに、なぜ死ぬのかというのです。ですから、釣りをするのです。皆さんが釣りを教えてあげなければなりません。
 また、ハンティングも教えてあげるのです。そこにわにであれ何であれ、獣がどれほどたくさんいますか。世界平和観光狩猟協会も、すべて世界平和のためなのです。なぜこのようなことをするのでしょうか。今まで私は二十年間赤字を出しながら、この基盤を築いてきたのです。飢え死にする世界の人々を、真の父母が責任をもたなければなりません。全世界の人類は兄弟なので、あきらめることができないのです。
 毎年二千万が統一教会の食口になると考えてみてください。このようなことを統一教会が主導して世界的にすれば、どれほど多くの人を救えますか。農作業の方法、釣りの方法を一刻も早く学びなさいというのです。なぜこれをしなければなりませんか。飢え死にする人々を生かすためなのです。それで、ここでその方法を伝授されて帰りなさいというのです。
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 母親たちが釣りさえすることができれば、息子、娘を飢えて死なせたりはしません。水がどれほど多く、魚たちがどれほど多く、獣がどれほど多いですか。どこにでも川があります。魚一匹だけでも捕まえれば、大きいものなら一週間も食べることができます。わにを捕まえれば、一カ月も食べることができるのです。河馬は乾燥させて、一年も食べることができます。それから、ハンティングをしても食べていくことができます。世界平和観光ハンティング連合会と釣り連合会をつくりました。釣り大会を開いて米国の女性たちを連れていき、釣りを教えてあげるのです。母親に釣りを教えてあげれば、どこに行ったとしても絶対に飢え死にしません。
 水と土地があればいいのです。土地では農作業をすればいいのです。白人たちがそれを教えてあげなかったというのです。農作業のやり方を教えてあげずに、搾取ばかりしたというのです。ですから、刃物で刺されて追い出されたのです。私たちの宣教師はそうではありません。すべて歓迎するというのです。なぜそうなのでしょうか。「ため」に生きるからです。それゆえに、テキサス農場をつくり、釣り場をつくって、農作業の方法もすべて訓練させるのです。猪のようなものも、わなだけつくっておけば、一日に十頭、百頭も捕まえることができます。
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 第三世界で暮らしている女性が釣りのやり方さえ知っていれば、はえなわのやり方さえ知っていれば、絶対に飢え死にしません。湖があり、川がある所には魚がたくさんいるのです。それを教えてあげる人がいなかったので飢え死にしているのです。また部落に一丁の銃さえあれば、ハンティングをして飢え死にする人々を生かすことができる道がいくらでもあります。このような教育を、今全世界的に始めています。水があれば魚を育て、土地があれば農作業をする方法を教えてあげるための訓練場所として、現在テキサスに農場を準備しているのです。そこに多くの人を配置しておかなければなりません。この白人たちは、アフリカの人々に農作業も教えてあげませんでした。
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 山に行けば食べ物がたくさんあります。うさぎも食べて生きていけるのに、人が食べて生きていくことができないでしょうか。皆さんが田舎に行けば、海もあり、川もあります。その川や海には魚がたくさんいるのに、捕まえる方法を知りません。それをすべて教えてあげるのです。ハンティングの季節になれば、ハンティングをしてもかまいません。銃を撃つことができますか。ハンティングをしても、生きていくことができるのです。熊一頭だけ捕まえれば、一年は食べていけます。そのようなことをなぜ研究しないのですか。


   (4)海釣りは精神的なもの

 先生は釣りに行けば、どこでも考え事をたくさんします。釣りを長くした人は、釣り糸を十回垂らせば十回考え、百回垂らせば百回考えるのです。ですから、十回垂らしながら百回考えるならば、先を越すことができるのです。先生はさっと行けば、釣り場に砂がある所なのかどうか、すぐに分かるのです。専門家には分かります。このように鉛のおもりをつるして引いてみれば、砂場ならぶつぶつぶつといい、泥ならすーっと引けるのです。
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 見てみれば、大概釣り竿を一つだけおいて、釣りはしないのです。釣りをする人は、二つの竿を併せて使います。なぜ二つなのかといえば、男性完成、女性完成、すなわち主体と対象の完成を意味するのです。
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 ハンティングは、肉体運動として肉体の健康のためのもので、釣りは精神の健康のためのものです。座って釣りをする時は、自分の一生を回想して、本当にたくさんのことを考えるのです。そのような時間をもつことができるというのは驚くべきことです。自らの過去を分析して、未来の生活に対して設計できます。自分たちにとって最も重要な時間になるのです。威厳を備えて自分自身を静かに省みることができます。それが絶対に必要です。これを東洋では釣り道といいます。
 母親の魚が捕まえられて上がってくる時、子魚たちが続いて上がってきます。このようなことを見ながら、自分の生活を中心として「あ、釣ってはいけないな!」と考えます。自分の息子、娘を中心として考え、自分の民族のことを考えるようになります。釣りを何年かしただけでも、釣ったものは放してあげたいのであって、釣った魚を食べたいという考えは一つもなくなります。それが本当の道です。食べたいという考えがなくなるというのです。
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 人々が船に乗って釣りに行こうとすれば、気候が良くて、気分が良い時に行こうとします。それは、普通の人が考えることです。特別な人になるためには、夕立が来て雷が落ちる環境で釣りをしなければなりません。そして、雨が降る時、環境的変化、周辺のすべての水がどのように違い、その水が動くことによって魚にどのような影響を与えるのかということは、どしゃ降りの雨が降る所で釣りをしてみなければ分かりません。
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 歴史は新しい世界をつくっています。ですから、先生を指さして「間違っている」と口に出して言うことはできません。私は、恥ずかしくないというのです。魚の顔を見て言うのです。一日中座って釣りをしながら、「あなた方は私のような男性に初めて会っただろう。あなた方を捕まえることが目的ではない。あなた方を連結させ、漁場を中心として人類を飢饉から解放するためだ。それが、あなた方が創造された本然の目的ではないか。そのようになれば、あなた方の肉を食べる者は悪いことをしなくなるだろう」と言うのです。
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 先生が釣りをする時「私は主人だ。みな来なさい!」と言えば、魚たちがみな集まります。そして、餌を与えるのです。それゆえに、釣りをすればいつも周囲の人々よりもたくさん釣ります。不思議だというのです。どうしてそうなのか理解できないのです。縦的な神様を中心とすればそのようになるというのです。特別な光がぴかぴか光るのです。皆さんから普通の光が出るならば、先生からは特別な光が出てくるというのです。その光を魚たちが見るのです。それで、いくら「来るな」と言っても押し寄せてくるのです。
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 先生が釣りに行って、最初に釣った魚は放してあげます。神様が造って解き放ってあげたのと同じ心をもって、放してあげるのです。そして今まで、先生が釣った魚は食べませんでした。二千万の神様の息子、娘が飢え死にしているのに、魚が自然死することは許諾できないというのです。「お前を釣って二千万の神様の息子、娘を助けてあげなければならない」と言うのです。動物、あるいは生物たちが生まれた原則がそのようになっているので、それに対しては有り難く考えなければなりません。そのような意味で、釣り大会に行けば、先生はよく釣れ、一般の人はよく釣れません。精誠です。「やー、神様がつくった水の博物館に潜水して入っていくことはできないので、一度水の中から飛び出してきて、私を通して神様が解き放ってくださる喜びを鑑賞するようにしなさい」と言えば、自分から釣られてくるのです。
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 船に乗って青い海で魚を釣るというのは、神様の復帰摂理、救援摂理と同じです。堕落した人間が魚だとすれば、それと同じです。良い餌を入れなければならず、そして丈夫な糸を結ばなければならず、釣り竿も良いものでなければならず、すべてのものをそろえて釣らなければならないのであって、糸も弱く、餌も悪く、釣り竿も悪く、釣る技術も悪ければ、釣ることはできないというのです。同じことです。世の中で暮らすことも、魚を釣ることとぴったり同じです。自分がこの世で成功しようとすれば、自分自身が釣り竿のような立場で釣りをし、良い糸を結び、良い餌で釣らなければなりません。ただそのままでは釣ることができません。相対的な条件が合って、そこに収獲が生まれるのであって、相対的条件を合わせなければ収獲をもたらすことはできないのです。
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 皆さんが先生と海に行けば、先生の釣り竿に魚がよく食いつくと思うでしょう? 釣りをする時は、すべて相対のように思います。完全な主体は完全な相対を成すのです。釣りをする時は「ここには必ず魚が食らいつかなければならない」と思うのです。原理がそうです。私が一度このように出せば、すぐにさっと相対的価値が生じるというのです。普通の人が魚に対するのとは違うというのです。
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 一日中、一箇所に座っているのです。小便もそこで解決します。あき缶を置いておいて「小便をする。見てはならない!」と言って、おしりを反対にしてするのです。一人そこで小便をし、食べ、終日そのようにするのです。二十五年間そのようにしました。缶を使用すればとても便利です。海で真っ裸になって水泳もし、あらゆることをするのですが、そのようにしたからといって誰が悪口を言いますか。動物たちは見て笑うかもしれませんが、人は何人もいないというのです。しかし、鳥も動物も、すべての万物も全く同じ状態なのですから、誰が悪口を言いますか。それは自然なのです。ですから、恥ずかしく思う必要がありません。女性も、その時は座って小便せずに、男性のように立ってしてもいいというのです。
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 アラスカで魚を釣る時、私たちが明け方に出ていくのを見て海岸警備隊が訪ねてきて、「魚釣りを何かの訓練のようにしている」と言いながら「人がどうしてそのように暮らしているのか!」と敬服しながら称賛していきました。ですから、海に行っても、釣りは私が一番上手でしょう? めだかの群れとか、釣ってみなかった魚はありません。今、「鯨を捕まえなさい」と言えば、一日に何頭かは捕まえるのです。ツナから始めて、釣ることができなかった魚はどこにいますか。東海岸、西海岸、太平洋、大西洋、地中海、あらゆる所を巡りながら、釣ってみなかった魚はありません。ですから、世情に精通しています。
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 大きい松を見れば「患難を受けた過去の歴史時代の私を知り、出ていったのを見たお前は、今日どのように考えているのか」と、問うことができなければなりません。また、過ぎた日、庭を見つめながら友人を呪ったその庭を、今では愛の友人として抱き、流れていく水も忘れまいとしたが、今からは、主人の位置ですべて忘れてその水辺で泳ぎもし、そこに暮らす魚も釣ってあげようと考えなければなりません。それでこそ主人です。エデンの園のアダムが川に入っていき、王権の代表者として魚を釣って食べることができなかったことを初めて蕩減復帰する、という心をもって釣りをします。魚を釣って食べてもよく、山にいるうさぎやきじも、そのような心をもって捕まえ、「父母を奉養し、神様の前に祭物とし、生活のための食べ物として、生活の材料として消耗する」と言うことのできる歴史を残さなければなりません。
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 今まで先生は、最も悲惨な世界からすべてのものを乗り越えてきました。ですから先生は、知らないことがありません。できないこともありません。何であっても、すべてすることができます。農村に行けば農夫の王になるのです。このような地には何を植えなければならないのか明確に知っています。また、海に行けば釣りの王です。ツナ(tuna:まぐろ)を捕まえることにおいても「レバレンド・ムーン・システム」と言って、既に有名になりました。また、万民が万歳をする時は、写真を撮ってあげるカメラマンにもなり、御飯を炊く炊事場に入っていけば、料理をするコック長にもなります。主人はそうでしょう。すべての後始末をするのです。そのような背後をつづってきた人が真の父母だという事実を忘れてしまってはいけません。
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 真の愛をもてば、何であっても統一が可能だというのです。動物世界、植物世界、毒蛇までもすべて保護してくれるというのです。私が釣りをする時は「魚たちよ! 私がお前を釣るのは私のために釣るのではない。世界で飢えて死ぬあのかわいそうな人、神様が涙を流しながら食べさせたいと思う、その心情を身代わりして釣るのだ。私のためではなく、子孫と万民のために釣るのだから、お前たちは許さなければならない」と言うのです。それで、最初に釣ったものは食べずに放してあげるのです。祭物として放してあげるのです。愛を受ければ、その前に生命を捧げようとします。ですから、周囲で魚たちが調べてみて「先生の釣り餌にだけ、どんどん食いつけ!」といいます。それで、船に十二人が乗れば、三分の一は私が釣ります。
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 世界の人々が先生のことを神秘的な男だと思っているでしょう? ですから、神秘的な言葉もよく話すのです。また、神秘的な行動もよくします。私は統一教会の教主ですが、船に乗って海に行けば漁夫の中の漁夫です。「あの人は統一教会の教主なのに、何が分かるか」と言いますが、現場に行って監督すれば、十年、二十年していた人々も感嘆します。農場に行けば、農場の仕事も上手にします。学者は、自分たちが自ら神秘的な人々だと考えているのですが、先生に会えばもっと神秘的な人がレバレンド・ムーンだと思うのです。何が神秘的にさせるのですか。真の愛がそうさせるのです。
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 先生は、徹底した三食主義者です。デザートのようなものは食べません。テーブルの上にあっても食べません。なぜなら、彼らのことを考えなければならないからです。服もこのようなものです。ネクタイのようなものは結びません。人々がネクタイを結ぶお金をすべて集めて、世界を救うことに使いたいと思うのです。先生は、トイレに行ってもちり紙を二枚以上使いません。可能ならば一枚です。原理的に見るとき、浪費は罪です。私たちは、生まれる時から一定量の消耗品を使うようになっています。それ以上使えば罪です。私たちは、残していかなければなりません。そうでなければ、私たちの子孫がそれを負債として相続します。誰が話して教育してあげるのですか! 教育以前に、原理が先生です。自然が先生であり、海が先生です。
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 山に行けば、山菜のようなものもはっきりと分かります。これは何であり、どのようにして食べるか、どれが悪いか、毒きのこのようなものもすべて知っています。それゆえに、山に行って暮らす法度をすべて知っていて、海に行けば、釣りはどのようにするのかということをすべて知っています。水に魚さえいれば、間違いなく一人ででもそこに家を建てて暮らせます。魚は、釣って塩だけで、生きたままで食べるのがおいしいのです。本当です。一人でどこでも暮らすことができる準備をすべてしました。
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 皆さんが誰も知らない間に、先生が一人アメリカで苦労して、ここまで来ました。その背後の苦労を皆さんは知りません。毎日海に行くというのは、その一部分にすぎません。先生は、してみなかったことがありません。学者世界から文化世界、芸術世界、教育世界など、手を出さなかったところがありません。思想世界までも手をつけました。その基準で皆さんもここで教育を受けて活動しています。なぜ先生がここに行ったり来たりするのですか。四十年近く先生に従ってきた人でも、先生がどのような人なのか分かりません。いつも新しいのです。自分勝手に考えればできません。自分が立っている位置がどのような位置なのかをはっきり知っている場合でも、世界を復帰するまでは無駄口を言ってはならないのです。
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 私も一人は嫌いです。一人でいることは嫌いだというのです。海辺で仕事をすれば、釣りをする人、一等の漁夫と一緒にいたいと思い、山に行けば山登りをする人と一緒にいたいと思い、土俵に行けば相撲をとる人と一緒にいたいと思い、酒宴に行けば匂いだけでもかぎます。匂いをかぐ人もいなければなりません。一人ではいけません。友人が必要です。同僚が必要です。一人では嫌だというのです。「仲間同士」という言葉があるでしょう? いくら文先生が立派だとしても、一人では退屈で生きていけません。
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 結婚することは主人を訪ね求めることです。二人がぴたっと一つになれば、愛はどこから来るのかといえば、あの垂直の天から来るというのです。これが一つになれば、垂直にすーっと降りてきます。頭に行った血が下に行きますか、行きませんか。足のつま先に行きます。「農民の匂いがするつま先、指先を経てきた血は捨てなければならない!」と、そのようにしたらどうなりますか。死にます。それが天地の道理です。
 高かったものは低い所に行かなければならず、低い所にあったものは高い所に行かなければなりません。それゆえに、文先生も成功して、み旨をすべて成し遂げたあとは、あの低い所に、朝野に埋もれて暮らしながら、釣りをし、農民の友人になり、漁夫の友人になるはずです。私は今そのような訓練をしています。
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 神様も愛の釣りで引っ張り回されても幸せだというのです。そこから愛の芸術が生まれるはずです。愛の喜劇、悲劇が、愛のすべての文化が創造されるはずです。そのような世界を創造する独立軍になってみたいとは思いませんか。
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 最高の餌、釣りの餌に相当するものは何ですか。愛です。万民を釣ることができる一つの餌は何ですか。それは愛です。歴史を釣り、神様を釣ることができる餌は何ですか。神様を釣ることができる餌があるなら一度準備してみたいでしょう? それは愛の餌です。歴史を釣ることができ、天地を釣ることができる餌があるとすれば、それは何でしょうか。それが愛だというのです。

























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